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ほんとに、いつもさみしいんですか? なぜ『いつも』、『さみしい』のか、 まだまだ、理解に苦しんでいる、 田中宏和でございます。 いま「理解に」と打とうとしたら、 誤って「理科犬」と変換してしまいましたよ。 タイピングも夏バテ気味であります。 たぶん「理科犬」は、メガネに白衣ですよ。 さて、そんな時候の挨拶とも、 雑談ともつかない、 ソフトタッチのツカミから入ってみましたが、 初回に予告しましたように まずは、血液型の話は、 ひとまず棚上げにしまして、 『いつもさみしい』をよく知ろうシリーズを はじめたいと思います。 「いつもさみしい?」の問いかけへの みなさんからの返信メールは、 すがすがしいほど まっ二つに分かれておりました。 「よくぞ自分の気持ちを言い当ててくれた!」 「そもそもすべての人間は いつもさみしいものなんじゃないの?」という すこぶる同意派と 「『いつもさみしい』人がいるなんて、 さっぱりわからん!」 「そもそも、 『いつもさみしい』ってどういうこと?」という まったく理解不能派の2タイプです。 これほどまでに、 世を二分するような議論は 今まで他にあっただろうか、と、 わたくし、考え込みました。 天動説と地動説か。(ちょっと大げさ過ぎる) 倒幕派と攘夷派。(『新選組!』を意識してみた) いや、もっと身近に、 世間の意見が分かれるようなことが、 無かっただろうか? 夏のレジャーは、海か山か。 (話題として生ぬるい) 髪は、左分けか右分けか。 (分けてるだけだ) なんと言いますか、 この「いつもさみしい問題」は、 人が生きる上での基本スタンスを きっぱり分けるような問題なんです、どうやら。 たとえば、 目の前にバナナの皮が落ちていたら、 自らそれに向かって踏み込んで すべりこけにいくか、 それとも、 そしらぬ顔をして通り過ぎていくか。 (長いし、違う!) とにもかくにも、 みなさんから怒濤のように押し寄せた メールをご紹介していきます。 『いつもさみしい』をよく知ろうシリーズその1は、 「『いつもさみしい』は、 大勢といっしょにいるほうが 感じやすい。」という傾向です。 では、さっそく。
だいじょうぶです! お仲間はたくさんいらっしゃいます。
こんなポジティブカミングアウトなO型さんに限らず、 この「大勢でいるほど」タイプの 『いつもさみしい』の方が、 たくさんいらっしゃったんです。 もちろんO型さんだけでなく、 A型の方でも。
さらに、B型でも。
この「典型的なB型」さんも、 ギャグやネタが すべりまくって さみしいわけじゃなさそうです。 「さびしがり」は、 人が周りにいないと、 「さびしさを募らせる」習性の人のはずです。 わたくしには、わかりません。 人がいるほど「さみしくなる」ってのは、 いったい地球上に 何が起きているんでしょうか? 周りに人がいるほど、 肌寒さを感じて生活を送っている人が多いということは、 もしや氷河期が近いのか。 いや、 物理的な人間数では埋められない 全身を貫くような孤独感が、 世界をおおっている。 そんなふうに、 「いつもさみしい問題」が見えてきました。
「『いつもさみしい』は、 大勢といっしょにいるほうが 感じやすい。」 みなさんのメールから 共通して読み取れるのは、 大勢の中にいる自分を いつもどこか俯瞰した視線から、 客観的に見つめているような姿勢です。
たとえば、 いま刻々と自分の瞳がとらえている ライブ映像とは別に、 高いアングルからの モニター映像を常に流し続けている感じです。 実際に、「自分を見ているもう一人の自分」 の存在を防犯カメラのような たとえで送ってきた方が 何人もいらっしゃいました。 おそらく、人間の自意識に、 カメラやテレビがもたらした変化って、 そうとう大きなものだろうと考えられます。 とくにここ最近のカメラ付携帯の普及で、 日本人まるごとカメラマン状況になってきてますから、 ひとりひとりが 「撮る撮られる」の関係を増加させることで、 自分を客観的に見るくせが 加速的に日常化していそうでもあります。 そんな自分モニタリング術が高まるほどに、 他人と心がしっかりつながっていないこと、 自分の心の根っこが どこともなく漂流していることに、 意識が向いていってしまう。 そして、 大勢の人たちと心を通わせたり、 一体感を感じたりすることは、 そもそもないだろうということを 人生の事実として淡々と受けとめ、 『いつもさみしい』は 生まれているんではないか。 そんな風に感じました。 『いつもさみしい』とは、 あるあきらめから湧きだす気持ちなんでしょうか。 |
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2004-08-20-FRI
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