吉本隆明
(よしもと・たかあき)

うちのおじいさん、おばあさんは、
浄土真宗(親鸞が開祖の仏教の宗派)西本願寺派の
天草門徒の典型的な人たちでした。
死んだあとは浄土へ行くと
文字どおり信じていました。
理屈は何もない。
信仰一途。
とにかく死んだら、浄土へ行く。
そういうことは、信仰として、信じていました。

おじいさんとおばあさんは、
築地の西本願寺に行くのはいいんだけど、
帰りに道がわかんなくなっちゃうことが
よくありました。
交番に留め置かれて、
警察から「預かっている」という連絡が来るんです。
親父が「お前、迎えに行ってこい」と
言うもんだから、僕はときどき、
当時住んでいた佃の渡しを渡って、
おじいさんとおばあさんを警察まで
迎えに行くことがありました。

「とにかく行くだけは行く、
 帰ってはこられないのに」
そういうだけの信仰が、ふたりにはありました。

親父の代になると、
おじいさんおばあさんほど熱心かというと
そうじゃありませんでした。
でも、子どものころ、法事なんかがあると、
簡単なお経の偈文を
お坊さんが来て読むことがありました。
親鸞より時代は後になるけど、
蓮如(れんにょ)の書いた
『御文章(ごぶんしょう)』というのがあって、
その中の「白骨の御文章」を
「朝(あした)には紅顔ありて
 夕には白骨となれる身なり」
(朝に健康な者も、夕には死んでお骨になる)
と、お坊さんが来て読むわけです。

親鸞のものは
子どもにはよくわからないんだけど、
蓮如の『御文章』は書き下ろしの文だから、
聞いてわかるわけです。
「へー」なんていう感じで
びっくりしながら聞いてました。