禁煙のセラピーで一服しよう。 darlingはタバコをやめるのだろうか? |
ひょんなきっかけだった。 邱永漢さんの誕生会に集まったメンバーのなかに、 『社長失格』という本の著者である失格社長 のはずなのにやたらに元気がよくて羽振りのいい感じの 板倉雄一郎さんという人がいた。 彼は、「タバコを一本ください」と、ぼくに言った。 ぼくはピースライトをどうぞと渡した。 「ひさしぶりに、おいしそうな香りだなぁと思って」 「おいしいですよ、ピースライトは。 普段はなにを吸っているんですか?」 「いえ、ぼくは吸わないんです。 とっくにやめてるんですけどね。 たまに、吸ってみたりするんですよ」 「そんなこと、できるんですか?!」 「できますよ。ぼくは洗脳でタバコやめたんです。 要するに、タバコのニコチンっていうのは 非常に依存性の弱いもので・・・」 なにそれ?! 洗脳って、そういう実用商品なの? ニコチンって依存性弱いの? ほんとかよー?? 板倉さんは、なんだかちょっと得意そうに 自分の経験した「禁煙のセラピー」というものの 仕組みを語りはじめた。 聞いていておもしろいのだ。 それは、なんだか「ありえる」と思えた。 「それ、ぼくもやってみようと思ったら どうすればいいの?アメリカに行くの?」 「いえ、日本でもその勉強をしたちゃんとした人がいます。 連絡しておきましょうか。 行ってみますか?」 「いくいく!」 と、そのくらいのところから、はじまったと 理解してください。 もともとぼくは、周囲の人々にタバコの吸いすぎについて かなり意見され続けていた。 すべてもっともだとは思うんだけれど、 「私はタバコをやめなければならない」という はっきりした動機が形成されるには至っていない。 『百害あって一理なし』であるということは、 ぼくも、喫煙未経験者にはよく言い聞かせている。 はじめから吸わなければ、やめる必要もないのだ。 世の中は知らないうちに徐々に嫌煙というコンセプトが、 すっかり浸透していて、喫煙している人間は 野蛮人で反社会的な人物ということに イメージされかかっているらしい。 ぼくはタバコがとてもいいものだとは言わないけれど、 自分がタバコを吸っていることについて、 それだけで他人から「ある評価」をされるのはいやだった。 なんか、いつだったか、スポーツ新聞を読んでいたら 嫌煙団体にワーストワンのご指名を受けたことを、 知ってしまった。 会ったこともない人から、ワーストなんて言われても、 なんとも考えようがない。 その根拠が、ぼくがタバコを吸っていることらしい ということは、想像できるのだが、 ずいぶん荒っぽい思想の団体だよなぁと思った。 さまざまな喫煙・嫌煙論争のようなものを、 雑誌などで拾い読みすることはあるが、 どうもぴんとこない。 タバコがある個人の人生のどれくらい重要な部分に 関わっているのかとか、 人類全体のどれほどの利害に関係しているのかとか、 冷静に考えたら、 見ず知らずの人間を裁いたり責めたりするようなことは、 なかなかできにくいと思うのだけれど、 こういってもまた「開き直り」とか責められそうだから、 その論争の場からはおりることにする。 「ほぼ日」読者の方でも、 『健康に悪いタバコを吸っていることで、 病気になる確率が高くなり、 健康保険の負担を非喫煙者にもかけているから、 よくない』んだとかいう論理の方もおられたが、 これはもう、読みましたとだけ言っておく。 基本的に、「罪人の数を増やす論理」を、 ぼくは認めたくない。それだけを言っておきます。 しかし、タバコをやめるというのは、 悪いことじゃない。むしろいいことである。 しかも、そのいいことが、1日だけのセラピーで 成就するのだとしたら、やってみる価値はある。 誰かに命令されて試すのではない。 自分で行ってみたいと思ったのだ。 それに、このレポートは、喫煙者にも嫌煙家にも、 興味深く読まれるおもしろい企画になりそうじゃないか。 自分というやつが、すべて自分の意志で動いていると 思ったらおおまちがいである。 ぼくは、どうしてもタバコ吸い続けることが、 自分の存在証明だとも思わないし、 やめられない自分が人間として劣っているとも思わない。 どっちでも、いいのだ。 やめられたら儲けもの。 やめられなかったら「ほぼ日」に失敗レポートが書ける。 セラピストのO嬢は、 「そういうことでよろしくてよ」というような意味の 連絡をくれた。 ということで、本日4月13日。 午前11時。都内の某私鉄駅で待ち合わせをして、 「O嬢との物語」の第1ページが開かれるのであった。 |
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