伊賀の丸柱に
おいしいものを喰べさせる家がある。
本職は陶工だが、料理好きで、
自分の山でとれる茸や山菜が中々うまい。
松茸などは背負籠にいっぱい出て来るし、
冬は猪、夏は鮎も釣ってくる、
それに伊賀は牛肉もうまいと、
うまいことずくめで誘ってくれた友人がいた。

おいしいものを喰べるためには、
千里の道も遠しとしない私だが、
時間がなくてしばらく行くことができなかった。
その間に、友人から大きな土鍋がとどいて来た。
使ってみると、従来のものよりはるかに工合がいい。
実に心の行き届いた土鍋だと思って、愛用していたが、
それが土楽さんの造ったものと知ったのは
後のことである。

『日本のたくみ ── 土楽さんの焼きもの  福森雅武』
白洲正子(新潮文庫)より


明治生まれの随筆家、白洲正子さんが
「土楽」の福森雅武さんについて書かれた文章です。
こんかい、「ほぼ日」といっしょに
土鍋をつくってくださることになった福森さんと、
その土鍋のことを
いちばんわかりやすく伝えることができるのは
どんな方法だろうと考えたとき、
おもいだしたのが、
白洲さんの、この随筆でした。

すこし、先を、読み進めてみましょう。


土楽は屋号で、本名は福森雅武さんという。
焼きものを造るようになって七代目に当たるとかで、
そういう旧家の主にふさわしい風貌の持ち主である。
最初に行った時は、木工の黒田辰秋氏と、
長男の乾吉(けんきち)さんも同席で、
福森さんと乾吉さんは親友であることを知った。
いろり端で、直ちに酒宴がはじまる。
壁には熊谷守一の絵がかかり、
庭で切った野草が、無造作に活けてある。
乾吉さんの造ったいろりのふちは見事なもので、
そのままお膳がわりになるほど、広くて大きい。
福森さんは、そこで松茸と落鮎(おちあゆ)を焼いたり、
肉を煮て下さった。
    *
こういう山里で、自作の器で頂く料理が
おいしくない筈はない。
私たちは、お昼から夜になるまで飲みつづけ、
京都の宿に帰ったのは午前二時ごろであった。
    *
それから後は、ひまさえあれば
丸柱をおとずれるようになった。
福森さんはいつもにこにこしているだけで、
あまり多くを語らなかったが、
つき合っていければ、
人間というものは自然にわかって来る。
彼は作家とか陶芸家と呼ばれることが嫌いで、
作品という言葉も絶対に使わない。
料理が好きになったのも、
それを盛る器が造りたかったからで、
茶道具にも、オブジェにも、興味はない。
家の伝統で、一時茶器の類(たぐい)を
手がけたこともあるが、つまらないので止してしまった。
ということは、古いものを模倣するのがいやなので、
現代の生活に合った日常雑器を造りたいのであろう。
逆にいえば、それは伊賀本来の焼きものの姿に
還ることである。

『日本のたくみ ── 土楽さんの焼きもの  福森雅武』
白洲正子(新潮文庫)より(*部分中略)



福森さんが「土楽」を継いだのは
先代が亡くなった16歳のとき。
家伝の茶道具づくりで、20代にして
「裏千家の秘蔵っ子」と
呼ばれるほどになったという福森さんですが、
白洲さんが書いているように、
その道を絶ってしまいます。
そうして始めたのが、土鍋づくりだったのです。

陶芸のかたわら、米や野菜を育て、
自ら包丁をふるい、土鍋で料理し、
自分で作った器に盛る。
そんな暮らしをしている福森さんがつくる土鍋ですから、
味とすがたが互いに引き立つように
つくられているのです。
(白洲正子さんの書かれた『日本のたくみ』から
 福森さんに関する章の全文は、
 こちらでお読みいただけます。)





さて ── 、ここでもうひとりの女性に
登場ねがいましょう。
女優の、樋口可南子さんです。
じつは、私たちが福森雅武さんのことを知ったのは、
樋口さんがきっかけでした。
『樋口可南子のものものがたり』で、
樋口さんが、「土楽」の福森さんを訪れているのです。


福森さんのお宅につづく小道の脇の、
田植えを終えたばかりの田んぼに
小さな雨粒が落ち、水輪が広がります。
あぜ道の向こうのなだらかな斜面には、
お稲荷さんの赤い鳥居も見えていました。
降りはじめた雨のせいで鮮やかさを増した新緑に、
すっぽりつつまれたかのような土楽の里が
温かく可南子さんを迎えました。
きれいに掃き清められた玄関先の大きな敷石を踏み、
「こんにちは」の御挨拶をした可南子さんの目に、
福森さんが焼かれた陶の仏さまの柔和なお顔が映ります。
天井に走る太い欅の梁や
磨き込まれた板の間に切られた囲炉裏。
床の間の柱、建具の桟の太さや間隔にも、
素朴さや武骨さとは一線を画す、
福森さんの作品に共通する繊細さと力強さの
微妙なバランスが感じられます。

『樋口可南子のものものがたり』
清野恵里子(集英社)より



このとき、樋口さんは福森さんという人、
福森さんの器、そして、土鍋を使って作られる
福森さんの料理にノックアウト(!)されています。
福森さんが、おもてなしに出してくださったのは、
黒鍋で焼いた伊賀牛のステーキ、
京都のお魚屋さんから取り寄せた琵琶湖の稚鮎、
近くの山で採ったツツジの花、柚子の実、
コシアブラ、柿の新芽、白つめ草、鼻いかだ、
サンキライといった野草の天ぷら、などなど‥‥。
どれもこれも絶品の料理が、
福森さんの器に盛られ、供されるようすが、
写真とともに掲載されており、
見るたびため息が出るほどでした。
亡き白洲正子さんが体験した、
福森さんの「ご馳走」は、
今でも健在だったというわけです。

このことを、糸井重里が聞き、
糸井家で福森さんの黒鍋が使われるようになります。
話がながくなりますから、そのあたりは省略。
やがて、福森さんと糸井が出会い、
今回の、「いっしょに、土鍋をつくりましょう」
というプロジェクトに、進んでいくのでした。
(『樋口可南子のものものがたり』の
 福森さんに関する章の全文は、
 こちらでお読みいただけます。)




土楽窯並びに福森雅武略歴

当地にて代々伊賀焼き窯元、屋号「土楽」を名乗る。
土鍋・花入・茶器・器製造、ろくろ職人による手仕事。
当代は七代目。昭和19年2月13日生。

高卒後、京都市立工芸研究所にて2年間就学。
大徳寺黄梅院 故・宮西玄性師、
鼓方 小寺金七氏、
人間国宝 故・黒田辰秋氏、
随筆家 故・白洲正子氏、
歌人 故・北小路功光氏、
大徳寺龍光院 小堀月浦師、
相国寺 有馬頼底師、
武者小路千家 千宗守氏
などの皆々様に薫陶を受ける。

25才にて、実家の伊賀焼窯元「土楽」の7代目を継承。
大徳寺黄梅院 故・宮西玄性氏より、
「悠元(ゆうげん)」の雅号を戴く。
茶陶・花入・器等の作陶に励み、現在に至る。


2007-12-13-THU