もともと絵を描くのが好きでした。
小学校のときの先生がすごくいい先生で、
その先生がいたおかげで絵のおもしろさを知って、
夢中になって描いて、
絵や版画で賞をいっぱいもらいました。
それでちょっと美術の才能があるんじゃないかって
勘違いしていたんですけど、
やっぱり社会に出るとね、
すごい人たちがいっぱいいるから
俺って普通だったんだなと思うんです。
陶芸を志して隆太窯に入ったとき、
ほんとうにそう思いました。
▲余宮さんの実家である焼鳥屋に飾られている、
余宮さん、小学生5年生のときの版画。
隆太窯に入ったきっかけですか。
そもそも──高校は工業高校です。
というのもその先、建築をやりたかったから。
絵が好きでも、
美術の大学に行こうなんて思わなかったです。
天草にいると、そういう発想ないんです。ほんとに。
それで高校を出て、
福岡の、建築の専門学校に行きました。
それがバリッバリ厳しい学校で、
自分は絵を描いたりとか、
図面を引くのが好きだったんですけど、
そこで習うことは、
高校なんかで勉強してたレベルじゃなかった。
とくに計算ができなくて。とても苦労して。
最初、40人ぐらい入って、
卒業したのが10人ぐらいだったんじゃないかな、
それでもあともうちょっと行けば卒業、
というときに、やきものと出会いました。
当時、福岡に玉屋っていうデパートがあって、
そこに、田中丸コレクションっていう
唐津焼のすごいコレクションがあったんです。
俺、中洲でバイトしてて、
玉屋によく建築や美術品を見に行ってたんですけど、
その田中丸コレクションも、
だれでもただで見れるように置いてあるわけです。
それを見たとき──、
未知なる世界を見るようで、ドキドキしてしまって。
ちょうど、学校でも迷ってたときのことです。
そもそも、ちっちゃいときからずっと
陶器で育ってるというか、
うちの母が陶器が好きで、ずっと集めていたんですね。
まあ、九州だから唐津とか小石原、
小鹿田(おんた)とか、そのへんです。
そういうこともあるんでしょうけど、
とにかくドキドキしてしまって、
母に相談したんですよ。
やきものの仕事でもしてみようかなあ、って。
▲余宮さんの窯の名は「朝虹窯」。
天草にカフェが併設されたギャラリーがあります。
昔の農協の建物を改装したお店です。
そしたら、たまたま、
中里隆先生と同級生の方が、建築家で、
天草に仕事でいらしてて、
うちの実家の焼き鳥屋に飲みにいらしてたんです。
俺が電話したとき、たまたま。
で、ちょっと待ってっていうことになって、
聞いてみようかっていうことになって聞いてもらったら、
もう、すぐ来いって言われて、面接に。
で、行ったら、
卒業まで待っとったら熱が冷めてしまうから、
すぐ来いって言われて、
母に相談した1週間後ぐらいには
もう窯出しの手伝いをしてました。
でも、陶器のこと、その世界のこと、
なんにも知らなかったです。
だって、面接の前に、
隆先生が載ってる本があるからって、
母がうつわの本を送ってきたんですよ。
そこに詩人の高橋睦郎さんが
隆先生の器を紹介してた。
俺、その高橋睦郎さんが
隆先生だと思って、面接に行ったら、
全然違う人が出てきた。
「僕のこと、知ってる?」
っていきなり訊かれて、
嘘だったけど、はい、って言ったんですね。
そんなふうにして考える隙もなく、
何の知識もなく、飛び込んだのが、隆太窯でした。
俺、面接にスーツで行ったんですよ。
今までスーツで来たやつなんか初めてって言われた。
入ることになって、
それじゃ下着だけ持って来いって先生が言ったから、
俺、ほんとに下着だけ持って行ったら、
そうやって来たのも初めてだって言われました。
そして窯に入るからと、学校を退めました。
▲山のなかの古い日本家屋を工房にしています。
隆太窯には、3年いました。
きびしい世界ですよ。
ご飯も食べれるし、寝るとこもあるし、
何不自由もないんですけれど、
休みも外出も、ない。
もちろん盆と正月はありますが、
基本、休みをとらず、
いっしょけんめい技術を習得するんです。
隆太窯は当時、
唐津でいちばん徒弟制度が厳しい窯だと
言われてました。
先生がいるときは、毎日、お客さんがいらっしゃるから、
お帰りになって、食器洗って、包丁研いで、
台所、全部雑巾掛けして、
夜の11時ぐらいから、ほんとは練習なんです。
ろくろの練習。
‥‥僕は、なまけもので練習嫌いでしたから、
あまりやってませんでしたけど。
とにかく年に4回、登り窯を焚くので、
1ヶ月半、窯詰めの準備、
1ヶ月半、窯出したあとの窯の掃除。
それをすべて1人でやるんです。
もちろん薪割りも全部1人でしてました。
なぜって、俺が入って半年目で
兄弟子たちがみんな、出て行ってしまったから。
やきものは、“教わらない”んですよ。
昼の3時に休憩が30分ぐらいあったのかな、
そのときでも、隆先生も太亀さんも
職人さんも手を止めないんですね。
それをじっと見ているんです。
そうやって覚えていく。
ずいぶん怒られました。
もちろん仕事はいっしょけんめい頑張ってたんですよ。
今思うとやっぱり、恥ずかしいんですけど、
俺はあまり先生や兄弟子の
言うこと、聞かなかったし、
ちょっとした失敗も多かった。
その、覚えなきゃいけない30分、
二日酔いで部屋で寝てたりとか、
ガス窯炊いてるのに飲みに行ったりしてたとか、
夜中に酔って帰ってきて
敷地内に流れてる川に落ちたりとか、
金髪にしたりとか、
折れた糸鋸の刃を替えずにいたりとか、
粘土を干しすぎたりとか‥‥。
しょっちゅう怒られてました、俺。
粘土を干しすぎたというのは、
隆先生が日本にいる短い期間に、
ひと窯、炊かないといけないから、
そのタイミングにあわせて
“たたきの壷”を
ちょうどいい固さで作って、
窯に詰めないといけないわけですよ。
たたきの壺は、
ひも状にした粘土を積み重ねて
つぼのかたちをつくって
表面を叩いて整えるものです。
粘土って2、3日、変わったら、
乾き方、全然違うじゃないですか。
天気もあるし。
それをつくる粘土を、干し過ぎてしまった。
そしてスケジュールを考えると
干し直しは効かない。
そんなことばかりでした。
あの頃、何で怒られてたんだろうと思ってたけれど、
最近、そういうことがやっと分かりました。
その3年間は、テレビも見ていないです。
若貴ブーム、ダウンタウン、
オウム事件、阪神大震災、
そんな大きなニュースや出来事も
知らなかったんですよ。
だって、1年いる間に
4寸のお皿ができないとクビになるんです。
昼間はろくろに座ることができなくて、
夜、練習して、やっと4寸のお皿ができて、
じゃ、また1年やるかということになる。
そして2年目が「湯のみ」です。
それができるようになってから、
昼、ろくろに座れるようになる。
職人として。
ずーっとその段階があって、
最後が徳利なんですけど、
徳利まで行くのに10年かかります。
隆太窯の弟子で徳利までいった人、
あまりいないみたいです。
俺は4つ目ぐらいの
ぐい飲みで終わったのかな。
辞めるときの気持ちですか。
とにかく出たくて、出たくて。
いや、ほんと、薪割りして
自分の腕切って帰ろうかなとかって、
そこまで思いましたもん。
怪我すれば辞められると。
そこまで追いつめられていたけど、
3年がんばって、3年経ったところで
隆先生に辞めますって言いました。
隆太窯を辞めたあと、天草に戻りました。
けれど家族は辞めることに大反対だったので、
家に居場所もないし、
半年ほど旅をしました。
そして戻ったときに今の嫁さんと知り合い、
子どもができました。
そうなると仕事をしないといけないから、
天草の丸尾焼っていう窯に職人として入りました。
そこには、独立する場所が見つかるまで、7年いました。
そして独立した年、ラッキーなことに、
「クラフトフェアまつもと」に受かったんです。
当時のクラフトフェアは、
今のスター陶芸家揃いでした。
俺と同じくらいか、
すこし上の世代の人たちがいました。
みんな、あっという間に
すごい売れっ子になっていった。
そこに居ることができたのがラッキーでした。
あれに受かってなかったら
どうなってたんだろうと思います。
それが30歳のときのことでした。
むかしは、なんとか工芸展とか陶芸展とかで
出展して賞を貰って名前が売れるっていう
パターンだったのが
最近そうじゃなくなってきてるんですよね。
みんな、そういうのに出展しなくなってきてる。
だからこういう場がチャンスなんです。
自分でつくる器は、
全部、自分で使って、料理を盛って使ってます。
そういうスタイルは隆太窯で学びました。
器は料理が盛って完成である、
だから器は完成させるなというのが、
隆先生の教えなんです。
だけど無名の、俺みたいなやきもの屋さんは
やっぱりそれじゃあ売るのって難しいんですよ。
主張しない器を作っても、売れない。
それでもすこしずつお客さんが使ったら
いいなあっていうのが分かってくださるでしょ。
そういうのでずーっとコツコツやってきて、
7年経って、最近やっと忙しいかな、と感じます。
個展に来てくださる人たちは、
毎日使ってくださっているかたが多いんですよ。
じつはしばらく困った時期があったんです。
ワンプレートが流行った時期。
ワンプレート買ったら、あれ1枚に全部
ちょこっと盛りされて
俺のような器は売れなくなってしまうんです。
その時期、ワンプレートの陶器を作ってください、
という注文もいただいたんですが、
それはお断りしました。
そのブームが去って、最近ようやく
小鉢とかがちょこちょこ出て行くようになりました。
注文されてつくるものと、
自分からつくりたいもののバランスは、
正直、安定していません。
俺、ほんとに安定しないことで有名な
やきもの屋さんなんです。
「余宮さんに注文したら、いつも違うものがくる」
って言われつづけて、
それを逆に個性にするまでに
結構時間がかかったんです。
いまは、注文をいただいてつくっても、
注文どおりの当たり前なのをつくると
お客さんに怒られます。
俺、よく怒られるんですよ(笑)。
今回、出させていただくのは
ごはん茶わん3種類、
これは定番の鎬(しのぎ)と粉引と刷毛目。
湯のみは蕎麦ちょこ型で、やはり3種類です。
ずーっと作り続けるつもりでいるうつわです。
土は、個展のときは自分で山から採ってきたやつとか、
ブレンドとかして、
面白い焼きをとろうとするんですけど、
今回はいつも使ってる唐津の土で焼きました。
お手本は‥‥ないですね。
俺、すごい、人の影響受けやすいので
あまり見ないようにしてるんです。
仕事に向かう姿勢をお手本にしている人はいますが、
けど、やきものはどうやってもまねなんてできない。
それよりも、つねに、
自分の“ろくろの線”てあるじゃないですか。
そればっかり考えてるんですよ。
その線さえ見つけ出すことができれば、
スランプもなく、
何を作っても迷いがなくなるのかな、と思ってる。
ろくろの線って、その人だけのものなので。
鎬は、フランス人からヒントをもらいました。
熊本に俺がうつわを卸してるお店があって、
そこに来てたフランス人が、
フランスのカフェオレボウルを見せてくれた。
じつはそれは手で削いでるものだと。
日本でそういう仕事してる人はいないから
どんどんやったら、って言われたんですよ。
それでカフェオレボウルを作ったら
お客さんの反応がよくて、
お茶わんとか、マグカップにも
注文がくるようになりました。
▲鎬(しのぎ)は、縦に溝を掘っていく、伝統的な手法。
▲余宮さんの鎬は、和とも洋にも見える独特な雰囲気。
料理は自分でします。
料理して、うちの食器棚見て、
あ、ない、っていうアイテムを作ります。
それは料理しないと分かんないです。
つくるのはありあわせ料理です。
山から薬味を取り、
海で魚を釣ります。
そんなふうにしてうつわをつくっているんです。
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