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ふくもり みちほ 1975年生まれ。福森家四女。 短大卒業後、料理家をめざし、 料理研究家の村上祥子氏に師事。 後に辻調理師専門学校で学ぶ。 2002年 京都の大徳寺龍光院で修行。 2003年 家業である「土楽」にて陶芸を開始。 2009年 「ほぼ日」で 「ほんとにだいじなカレー皿」発表。 著書:『スゴイぞ!土鍋』 関連コンテンツ:「ほんとにだいじなカレー皿」 土楽の公式サイトはこちら。 |
![]() ![]() 2011年は、ああいうことがあって、 自分の中の自分の存在価値みたいなものを 改めて思う、ということがありました。 人の死がああいう形で突然にあるっていうことを 改めて認識をしましたんで、 その死に対して、自分もそうだけども、 “そのあとのこと”をやっぱり考えました。 そして、土楽の跡取りとしての仕事、 職人と父のあいだに入ることだとか、 将来みたいなことも考えることが増えたなかで、 自分がろくろに向かう時間は 一所懸命作らないといけなかった。 本当に割り込んでいく感じで入れないとならなかった。 それも、最初の頃は本当に手つかずというか、 できなかった、ですね。 「割れるものを作る」ということに対しても、 どうなんだっていう思いもありましたし。 ![]() この1年、増えた仕事もあって、 それは料理の仕事ですね。 何でも簡単じゃないですか、うちの料理は。 そういうとこから土鍋をもうちょっと 気軽に楽しく使ってもらえたらなあと思って。 それから、父の展覧会が多かったんです。 震災のことでは、父もものすごく ショックを受けたと思うんです。 多分、私たちにそんな言うことではなかったんですけど、 あの人の中でものすごい出来事だったっていうのは あると思うんですね。 けど、そこで吹っ切って、 ものすごく前に進まはったんじゃないかなと、 そんなふうに見えました。 ![]() 父の展覧会に手伝いでついていいくと、 父の器をあらためて見るんですね。 そうすると、あらためて、 ろくろをもっと引かなアカンと思います。 父にもっと近づきたいという思いはある。 ですから今年の目標は、陶器をもっと見ることと、 もっとろくろに向かおうということです。 2012年は、グループ展のお話をいただきました。 初めてです。自分の名前が載る展覧会は初めて。 昔からの父の友人の息子さんであったりとか、 芸術をしている人たちといっしょにやります。 1人は水墨画、1人は彫刻家です。 それが9月です。 ほかにもいろいろ考えています! きっと──、あっという間ですよね。 やらなきゃいけないことはたくさんある! そんな1年だと思います。 ![]() ![]() 今回の、あたらしい器は、 前回の飯わんに絵付けをしました。 土楽の器はほとんど装飾がない、 シンプルな形で勝負というところがある。 それは父の持つ、ものすごい美意識の中にあって、 私もすごく好きなところではあるのですが、 性別の違いが出るのかなあ‥‥、 ちょっとかわいいデザインのものをつくりたくなった。 私らしい形と絵付けの器ができたと思います。 ![]() |
2012-03-15-THU |
![]() ![]() 伊賀の土楽、福森の家に生まれましたが、 やきものをやれ、と言われたことはありません。 ![]() ▲伊賀・土楽のギャラリーで。 四人姉妹です。 長女は、作り手になるということとは別に 継がなあかんという責任はあったと言ってました。 次女は結婚して家を出て、 三女の円(まどか)はうつわづくりの道に進みました。 わたしは食文化関係の短大に行き、 そのまま料理の道に進もうと思っていたんですが、 ひとまず伊賀にもどって、半年ほど、 当時健在だった祖母の、農業の手伝いをしていました。 ![]() ▲土楽の敷地内にある畑。 少し離れたところに田んぼもあります。 土楽ではお米は自前。 家族と職人さんみんなで、田んぼ仕事もしています。 当時は、毎日のように父と喧嘩してました。 私も二十歳そこそこで、エネルギーが有り余っていて、 私がうっかりつかみかかるものだから、 父(福森雅武さん)はよけようとして手を出す。 すると、力の差があるから私がふっとばされたりして、 いつも青あざつくっていたんです。 ![]() ▲土楽の裏山は道歩さんのお気に入りの場所です。 春は山菜、初夏は山椒、秋はきのこがとれます。 そのころ、父が本を出すことになり、 編集者のかたやアートディレクターのかたが 家にいらしていた。 そのディレクターのかたが青あざつくってる私を見て 「あんた、どうしたの」と。 「こうこうこうなんです」 「どうしたいの」 「料理の道に行きたいなと思ってます」 「じゃあ、ぼくが先生を紹介してあげよう」 ということになり、 料理研究家の村上祥子先生に 師事することになりました。 ![]() ▲『土楽食楽』(文化出版局) 福森雅武さんの四季折々の暮らしと料理を 2年かけて取材してつくった本です。 東京に住むというのは まったく考えていなかったことでしたが、 あんがいどこの水にもなじむ性分らしく、 3年ちょっと仕事をさせていただきました。 その当時の友人が飯島奈美さんです。 彼女は別の先生についていたんですが 同じアシスタント同士で気が合って。 ![]() ▲土楽の台所にて、飯島奈美さん(右)と。 ふたりのコンテンツ「土鍋でLIFE」をごらんください。 そのあと、もっと本格的に料理を勉強して、 資格を取ろうと、 大阪にある辻調理師専門学校に行きました。 ところが、突然、 生きたものがさばけなくなったんです。 卒業を前にした、10月くらいのことでした。 それまで全然平気だったのに。 海老の頭を取るとか、できなくなった。 ものすごい恐怖があって。 それで、困ったな、料理の道に行くのに こういうことではどうしたものかと。 こんな状態で料理をするなんて厚かましい。 誰かがしめてくれたものを調理する? そんなの、自分では許せなかった。 人にそういう始末をしてもらって 自分が料理をするってことは絶対ダメだって。 ![]() さて、どうしたものかと思って、 いろんな人に相談をしていたんですね。 そうしたら、懇意にしている人が、 「お寺に行ってみたらどうか」。 たしかに殺生っていうことについて、 もうちょっとちゃんと考えないといけないかな、 お寺っていうのも ちょうど自分に合ってるかなと思いました。 それに、食べることさえも、 だんだん怖くなってきたりもしていたんです。 でも、自分の命をおろそかにしたらね、 それまで食べてきたものにも失礼だし、 親にも失礼だし、いろんなことを考えて、 これじゃああかんなと思って、 お寺に行こうかなと。 そして月浦(げっぽ)和尚様を師として、 大徳寺の龍光院に入ったんです。 お寺では、体力仕事ばかりです。 基本はお掃除。 ほかに中学浪人の男の子がひとり、 アメリカ人のお坊さんになりたいっていう 小僧さんがひとり。 みんなで掃除をし、 いただいたものを料理し、 作務(さむ)っていって畑仕事をしたり、 石畳の石を据えるとかも、しました。 なにか教わるということはないんです。 体ばっかり使うんです。 考えたらダメっていうことで、考えないです。 やることはいくらでもあるので。 ![]() そうやってお寺に住んでいたころ、 あれは12月だったか、 姉の円から相談を受けました。 自分のつくりたいものについて悩んでいること、 そして、結婚をしたい相手がいること。 そしてその相手は同じ作り手で、 お父さんとは絶対に合わない人だし、 だから家を出たいんだっていうことを言われました。 そのとき思ったのは、 「ほんなら、まあこういうふうになるもんなんかな」 っていうことです。 お寺にいたんで、そのときもうほとんどのことは 諦めた、いうんかな。 悟りではないんですけど、 そういうものだっていうことが だんだん見えてきていたんでしょうね。 で、まあ、そういうふうになってるんだって思って、 「わかった」って。 「あなたは何も心配せんでいいから、私もどるから。 好きなようにしたらいいよ」って。 それで翌年の春、家にもどったんです。 料理を諦めたというわけでもなかったんです。 料理っていうのは、3食、食べる、 毎日あるものだから、なくなることがない、 ていうことがわかったんですね。 だから、消えることもない。 ![]() 作陶とともに、朝茶事の料理や、 お寺の料理のお手伝いにも飛んでいきます。 ろくろをひいたこともない私でしたが、 家にもどれば、まあ、 何か別のことができるのではないか‥‥と。 たとえば経営をすることだってあるだろうしと。 その時、もう27でした。 うつわをつくるなんて、 今からやって間に合うんかな? と思ってたし、 そんな気持ちで帰ったんですよ。 和尚様にもそうお伝えして。 ![]() ▲今回出品するごはん茶わんを制作中。 ところが伊賀に帰ってみると、 土楽はたいへんな状態になっていました。 私が帰ったのが4月、姉は5月までいたので、 ひと月、いろんな事務的なことをまず教えてもらった。 そのとき、土楽の現状がはじめてわかりました。 私が東京にいた頃は、 とても景気がよかったんですよ。 ところが、世の中が不景気になっていて、 当時、父は、山ごもりをしていた。 まる3年以上、家をあけて 比叡山で修業や作陶をしていた時期です。 土楽の仕事は減り、お金のやりくりはたいへんで、 年配の職人さんたちの給料を下げないとならなかった。 突然帰ってきた何もできない自分が、 おじいちゃんくらいの職人さんに それを言わないとならない。 そして、自分もろくろをひかなあかん、 ということに気づきました。 ![]() 最初は、ええかっこしいのところがあって、 へたくそなところ見られるのイヤやなと、 みんながいるところで練習することもできなかった。 それが、やらなあかんとなって、 兄弟子が教えてくれて、 1時間が2時間、 2時間が3時間になりました。 手本は父のうつわです。 そのときは父にたいしては、憤りもありましたが、 父がつくるものが好きだということは変わらない。 つくったものをみると、 やっぱりこの人はすごい、とわかるんです。 ちょっとひけるようになって、ますますそう思い、 どんどん、ひきたくなっていきました。 というか「じつはひきたかったんだ」と、わかった。 ![]() ひたすら練習をしていると、 今までバラッバラの形が もう明らかにびしっと揃って、 何枚もひけるようになってくるんですよね、日に日に。 父がよく言ってるのは、 職人と競って何枚ひいたっていう話です。 やっぱりそこに近づきたいと思うし、 そうするにはどうしたらいいかって考えるし。 そればっかりで、そこを目指してやってたもんですから、 もう日に日に上達して、 けっこうひけるようになったんですけど。 でも、やっぱり「あ、できてた」と思って、 焼けて出てきたら全然できてなかったっていう、 しょっちゅうそれの繰り返しです。 できてると思って、完成見たらできてなかったって。 私の想像してた形になってない。 全体を、ゴールを見えてない。 そんなものは売り物にならないし、 ましてや自分の作品ですなんて言えない。 もう恥ずかしくて置いとけない。 それの繰り返しでした。 形の同じものが ちゃんと同じ品質でつくれるようになるのが 職人の第一歩。 やっとれんげの受け皿がひけるようになり、 土楽での仕事がはじまりました。 ![]() ▲ひいたばかりのうつわを細い板に乗せて運搬中。 そして、父がもどってきます。 師事していた和尚様が亡くなって、 家に帰ってきた。 まだ、土楽はたいへんな時代でした。 それどころか、もう縮小するしかない時でした。 父がいない間に、粘土の調合を変えた職人さんがいて、 そのために当時、土楽の土鍋はよく割れる と言われるようになってしまってました。 もちろん評判も落ちます。 そのことがわかって、 私は兄弟子といっしょに 土鍋とはどういうものかというところから 勉強し直しました。 ずっと古い職人さんに任せ切りだったことを、一から。 そして、いまのつくり方ではあかん、 割れにくい鍋にするにはこういう土でやらな、 と、わかったところで、 古い職人さんに任せるのはやめて、 私は新しい土鍋を持って、 料理屋さんを回って営業に行きました。 土楽の鍋は割れやすいという評判が立ったあとですから どんどん競争が激しくなっていたんです。 ![]() ▲壁にかかっている竹とんぼのようなものは、 うつわをはかる手作りの定規。 つくることができるうつわの分だけ、 この定規の数が増えていく。 「まだまだ少ない」と道歩さん。 けれども、土楽には、基本とする 「美しいもの」っていうか、 「用の美」のようなものが根本にあったので、 そこは譲れないね、っていうところで、 値段は高いかもしれないけれど、 いいものをつくるという姿勢で 営業を続けていたら、 だんだんと受け入れられるようになったんです。 ![]() 福森雅武さんが原型をつくった「ベア1号」。 煮る、焼く、蒸す、炒める‥‥ステーキも焼ける土鍋です。 「ほぼ日」さんから、土鍋をいっしょにつくりたいと 最初にお話をいただいたのは、 たしか2005年ころのことでしたよね。 2年ほどかけて、「ベア1号」がうまれました。 私は、「ほぼ日」さんは全然知らなかった。 パソコンも使えないような人間だったんでね。 そして、お話をいただいたときに、 「それはあなた対処できるのか」とか、 周りから、いろんなことを言われましたね。 「クレームの嵐やぞ」とか、いろんなこと言われて。 でも、1人だけ、「ビッグチャンスや」 って言う人がいたんですよ。 お寺の仲間です。 「すごいチャンスや。 おまえ、何でやらへんのや。 やらへんのはおかしい」って。 そして父も「やったら」って言う。 父は、ほら、何も考えへんから(笑)。 話来た、「はい、いいよ」っていう。 「また勝手なこと言うて」 みたいな感じだったんですけど、それを聞いて、 どん底なのにこんなに、 また守りに入ってどないすんねんって、 私も思ったんで、 「やらしてください」っていうお願いをしたんです。 ![]() ▲「ほぼ日」の社員旅行で土楽さんへ。 「ベア1号」をつくっているところを 道歩さんに案内してもらいました。 そのあとが「ほんとにだいじなカレー皿」です。 「ベア1号」は父ですが、 こちらは私が、料理をやってた知識が生かされた、 初めてのうつわかもしれません。 やってきた料理と、その陶器が初めて一緒になった。 「カレー皿」をつくりはじめたときは、 最初、あの形で、ちっちゃかったんですよね。 というのは、うちではカレーって、 いろんなもん食べてもらって最後にちょっと、 というものだったんです。 だから、ちっちゃかった。 それをあの大きさにというアイデアをいただいて、 さらにいろんな絵付けをしたりして、 そのなかから、あのシンプルな2つが製品化されました。 ![]() ▲道歩さんがつくる「ほんとにだいじなカレー皿」。 ![]() ▲ごはんを最後のひとつぶまで スプーンですくえるカーブは、 手ろくろだからできるかたち。 あれで、いろんな技術みたいなものも 考えるようになりましたし、 だからわりと自分からっていうより、 人に与えられたほうがやるのかなとは思いましたね。 能がないんで。ちょっと足してもらわんと。 調味料、足してもらわんと。 「カレー皿」で1週間に300枚をひいたりして、 自分で驚きました。できた、と。 しかも筋肉はつくし、カレー皿のひき方、 ものすごい自分の中で糧になっていて。 いまものすごいいい状態で飯碗がひけてるんです。 土の動きが、うちが目指してきたものになってきてる。 これまで、先輩や父がひいてきたものを見て、 ああいうふうにひきたいな、 っていうのはあったんですけど、 いままではほんとうにできないから、 小手先で何とか表面だけ取り繕うような ひき方をしていたのが、 最近この粘土の動き方が ちょっとわかるようになってきた。 この飯碗は、また自分の糧になる 課題をもらったなと思っています。 ![]() ▲「カレー皿」を天日で乾かしてます。 父の言う「お茶漬け」が、 私にとっては「どんぶり」です。 ごはんを入れて、なにかをのせて、どうぞ、と。 あるいはそうめんとかにゅうめんもいけますし、 いろんなことに使えるうつわがつくりたい。 それが楽しめる形をつくりたいなと思いました。 ごはん茶わんだけじゃない使い方ができるから、 おかずとごはんに使ったり、 だれかが来たときに出したりと、 テーブルの上に揃いであったり、 色ちがいであるのも、おもしろいなと思っています。 ![]() ▲今回出品するごはん茶わん(3種あり)。 いっぽう、お湯のみはむずかしいんです。 今、ペットボトルの時代だったりするじゃないですか。 だからこう、押し込む、流し込むような飲み方ですよね、 ペットボトルっていうと。 そうじゃなくて、温度を感じたり、 やさしさであったりとか、ガラスでもない触感を 味わってもらえるのが陶器だと思っているので。 飲み口ってうちの父がいちばん言うことなんで、 私もそれはすごい思うし、 でも、欠けるのもイヤだしとか、 いろんなこと考えながらつくっています。 飯碗よりもやっぱり、 いまは湯のみのほうが課題は多いかな。 楽しくひけるのは飯碗で、 これかなって思いながら、 探りながらひいてるのがやっぱり湯のみ。 ![]() ▲今回出品する湯のみ(3種あり)。 手にすっぽりとおさまるやさしいかたち。 昨年、料理の本を出させていただいて、 不思議な感じです。 だんだんそういうのが集まってきて。 もうほんとうに「まかせる」っていうことを お寺で学んだので。 「なるようになる、なるようにしかならない、 どっちだと思うか」ですか? なるようにしかならないです。 ![]() 何かで反発しようとすると、 ストレスが生じるじゃないですか。 そのストレスがとてもエネルギーが要って、 それが大事な時はあるかもしれないんですけど、 わりと大事じゃなかったりすることが 多いような気がして、 任せるっていうことに一回乗ってしまう、 波があるとするならそれに乗って、 悪いほうに行くにしろ、行かないにしろ、 自分が信じたものに対して任せるっていうことが、 自分のストレスがなく楽だったんで、 そういうふうにしてきたんです。 そうすると、みんながいいようにいいように、 いいような流れに持っていってくれはった。 今みたいに本も出せたりしたし。 ![]() ▲道歩さんのはじめての本。 土鍋料理のレシピ集です。 仲間うちで、私たち、すごい討論とか、 |
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写真:大江弘之 + ほぼ日刊イトイ新聞 |
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