2011年の「ほぷらす」山中恵介さんのうつわ
やまなか けいすけ

1950年生まれ
1975年 九谷青窯入社
1981年 伊豆にて独立
1990年 長野の黒姫に移転、現在に至る



この1年のトピックですか?
年をひとつ取りましたよ(笑)。
もの作り的には──、
やっぱり景気が悪いからこそ、
逆に何かしなきゃ! っていう1年でした。
僕、バブルを過ごしてきたから、
自分の作りたいものだけを作って売れる時代があった。
けれども今はそういう時代じゃなくなった。
だからニーズに応えて、
ものを作っていかないといけない。
やっぱり「必需品」じゃないので、
僕のやってる仕事を認めてもらうためには
やっぱりこっちが相当努力をしないと、
買ってもらえないでしょう。



「あたらしいものをつくる」ということからは、
だいぶ自由になれた気がしています。
あたらしいものをつくることは必要なんですよ。
けれども「どうだ、斬新だろう」というようなことって、
自分でオリジナルだと思って一所懸命やっても、
昔に必ずやった人がいる。
だからむしろ、あたらしいかどうかにこだわらず、
古いもののなかから、
自分に取り入れられるものがほしいなと思います。
それで古いものを見るようにしているんですが、
これは福森雅武さんもおっしゃられたんだけれど、
写真ばっかり見てたらだめだよと。
「本物見ないとだめですよ」って。
けれども日本の美術館、博物館は混みすぎているので、
たとえば思い切って大英博物館の日本館に行きたい。
あちらは写真も撮れるし、模写もできますよね。
そんなことを考えています。



今回、「ほぷらす」でヒントをいただいたことが
すごく嬉しくてね。
そばちょこの口径を少し小さくして、
ちょっと背を高くしたら
湯飲みとしてどうでしょうっておっしゃるから、
おお、それ、いいですね、って、
つくってみました。
口が開いたかたちだから、重ねがきく。
そうすると収納がしやすい。





考えてみればぼくの家でも、8.5寸ぐらいの鉢に、
7寸、6寸、5寸と重ねて、
窓辺の出窓のとこに置いてあるわけです。
4つのサイズをいっぺんに重ねられる。
今日はどれに盛ろうかなと思ったとき、
その量に応じてすっと取れるわけです。
そんなふうに「重ねが利く器」って、
昔から作っていたんだけれど、
そうか、湯飲みに応用してもいいんだな、と。



そばちょこのかたちっていいですよね。
うちはね、そばちょこでコーヒー飲んでるんです。
把手がないことで、コーヒーのぬくもりが
手に伝わるのがいいですねっておっしゃるかたもいる。
デザートも盛れるしね。
アイスクリームを盛って、エスプレッソををかけてとか、
そんなふうに使うのもいいですよね。



お料理の提案、盛り方や色合わせって、
やっぱり焼物屋も考えた方がいいなって思うんです。
そんなことを言うのは本来の焼物屋の仕事じゃ
ないのかもしれないんですけれど、
やっぱり食器作ってる人は
ぜーったいにお料理しなきゃ! って(笑)。

2012-03-16-FRI



やきものをやろうと思ったのは、大学のときです。
鎌倉の長谷寺のすぐそばの
「邪宗門」ていう喫茶店に
『銀花』っていう雑誌が
創刊号から置いてあったんですね。
ちょうどね、魯山人の特集でした。
それをぱっと開いたら、
あ、いいなと思った。
やきものっていいな、と思ったんです。
ただそれだけだった。


▲山中さん(右)と道歩さん(左)。
「道歩ちゃんがちっちゃかった頃からの知り合い。
 福森雅武さんのうつわがいいなあって思って、
 土楽さんにうかがったことが、きっかけ。」と山中さん。


ちょうどそのときに用事があって
いっしょにお茶を飲んでいた友達の妹が
山中さん、そろそろ卒業だけど何するの?
って言うから、
うん、卒業できそうもないから
やきものをやるんだって言っちゃったんですよ。
3浪して入った大学で
電気通信工学科に通っていたんですが、
卒論も、ちゃんと優もらったのに、
単位が少し足りなくて卒業ができないと
わかったばかりのころでした。


▲今回出品するごはん茶わんに、絵付け中。

手でものを作る仕事がしたいというのは
ずっと思っていたことでした。
松本民芸家具のリーダーの池田三四郎さんとか、
魯山人とか、柳宗悦さんとか、
あの時代の人たちというのが、
昭和25年生まれの僕にとって
何かやりたいなあと思ったときに
目指すところにいる人たちでした。
で、木工やろうかな、
やきものやろうかなと思ってはいたんだけれど、
そんなふうに「やきものやる」って言っちゃった。
そこからがスタートです。


▲住居兼工房は、黒姫の森のなかにあります。

で、地元の横浜に、
やきもの教えてくれるところはないかなと探したんです。
そしたら横浜市の施設でやきもの教えてたんですよ。
そこへ遊びに行ったら、
そこは市の公務員向けの施設だったので
僕は入ることができなかったんだけれど、
京都に訓練校がありますよって教えてくれたんです。

じゃあすぐ行こうってんで、
夜行電車に乗って京都に向かいました。
当時、銀河51号っていうのがあって、
東京駅を23時30分に出るんです。
大垣で乗り換えて、朝の7時ぐらいに京都に着く。
訓練校で願書をもらって、試験を受けました。
アチーブメントテストっていうのを受けて、
ほぼ完璧にできたから、
これ、受かったーっと思った。
そのあとね、面接があったのかな。
「山中さん、もし受かったらどうやって生活しますか?」
って訊かれたから、
「新聞配達でもしながらやります」って言ったんだよね。
そしたら、やきものって結構体力要るから難しいですよ、
と言われて、落ちてしまったんです。
訓練校としては、やはり京都に住んでいて、
京都で仕事をしようという人たちを
迎え入れたかったんでしょうね。


▲細工場(さいくば)。

不合格の通知を受け取って、
頭ん中、真っ白になって、
予定が全然何もなくなっちゃったんで、
『銀花』で紹介されてた展示会に行ったんです。
新宿の小田急でやってた展示会に。
やきものなんてほとんど知らないときです。
陶器も知らないし、磁器も知らなかったくらい。
で、石川県の窯の展示のところで、店員さんに、
「すいません、ここの住所教えてもらえませんか、
 遊びに行きたいと思ってるんですけど」
って言ったら、
あ、ここの方、いますから呼んできますねって、
雪国から来たような、
登山靴のような重い靴を履いてる
背の高い人が来たんです。

その人に、今度伺いたい、
遊びに行きたいと思うんですけどいいですか、
って言ったら、ああ、どうぞって名刺貰って。
もう1回ぐるーっと回って、
もう1回観てるうちに、
あ、ここで雇ってくれないかなと思ったんですね。

で、ふっと見回したら、その登山靴の人が、
ちょうど階段を下りてご飯食べに行くとこで、
ばーっと追いかけてって、すいませーんって言って、
あの、雇ってくれってもし言ったら
雇ってもらえますかねって言ったら、
あ、どうぞ、って言うんです。
それで行ったのが
「青窯(せいよう)」って会社でした。


▲唐子(からこ)は山中さんが好きなモチーフ。
出品するごはん茶わんに描いていただきました。



▲やわらかく、やさしくて、かわいらしい絵。
山中さんの持ち味です。

あとで知るんですが、青窯は、当時やきものブームで、
陶器が盛んだったんだけど、
磁器のブームの先駆けみたいなところだった。
僕はなんにも知らないで突然入って、
掃き掃除から始めて、
でも修業という感じでもなく、
好き勝手にやらしてくれるんですよ。
逆に言えば、自分がその気にならないと
全然仕事にならないところでした。

で、その登山靴みたいなの履いた人っていうのは、
秦耀一(はたよういち)さんっていうんですけど、
耀一さんのお父さんは秦秀雄さんといい、
魯山人が、赤坂に「星岡茶寮」をやってたとき、
長い間、そこの支配人をされていた方なんですね。
だから、秦さんのところには
魯山人のものがいっぱいあった。
いい勉強しましたよ。
やっぱり本物見るとすごいんです。


▲ほとんどの磁器は、ろくろをひいてつくります。

30歳になる前に、青窯を辞めて、
東京でアルバイトをしてお金を貯め、
伊豆の函南に窯を買って、やきものを作り始めました。
ところが、お金のためにアルバイトをしている間に
落ちるわけですよ、腕が。
感覚も全然、おかしくなっていた。
自分が思ってたのと全然違う方向へ行ってた。
最初に青窯にいた頃はまだ、
食べるための食器を作りたいと思ってたんだけど、
アルバイトをし出してお金を貯めているうちに
かっこいいもの作ろうと思うようになっていた。
で、かっこいいもの作ろうと思ったって、
できないよね、そんな簡単にね。
そうするといくら自分で作って
どうですかって見せても、
誰も、いいともなんとも言わないわけです。
あ、そうかと思った。こりゃだめだなと思って、
もう1回、青窯へ行って、
もう1回雇ってくださいって、出戻ったんです。
そこで2年、働きました。

2年間、毎日ろくろをひくような仕事をして、
まあ、これでなんとかなるだろうって
伊豆に戻ってきました。
そのへんから世の中の景気がうんとよくなっていきます。
うつわも売れるけれど、
伊豆に土地を買って、自分の工房を建てて、
と思っていたのが、できなくなりました。
昨日、1万円の土地が今日2万円になって、
1週間後には3万円になって、というような状態で。
家賃も4~5倍になってしまった。



ちょうど知り合いが黒姫でペンションをやっていました。
その前から盆と暮れに手伝いに行ってたんですが、
伊豆はこんなだよ、いっそこっちに来ようかなあ、
という話を、また冗談でね、したんです。
そしたら来いよって言う。
あ、じゃあ行く、っつって
取りあえず住むところは、
ペンションに居候です。
工房は、廃屋に近いようなところを探して借りて、
そこでやきものを始めました。
1990年のことでした。



個展はほとんどしませんでした。
僕ね、陶芸家っていうニュアンスが
あんまりなかったんです。
芸術家じゃないし、
何か作って食べていければいいぐらいのつもりだから、
展示会をやって名前を売ろうとか、
陶芸展に出して入賞しようとかっていう意識が
全然ないんです。
一般的な考え方からするといわゆる職人なわけですよ。
使ってもらえるものが売れればいいなあ、
ぐらいのことしか考えなかったんで、
いつデビューとかそういうのは全然ないわけです。
青窯からの縁があって、置いてくれたのは
「ようび」さんと「花田」さん。その2軒です。
それでもこうしてなんとかやってきました。

黒姫にうつって、地元の友人もふえ、
たとえばC.W.ニコルさんと親しくなり、
彼の仲人で結婚もしました。
いまもうつわをつくりながら、
黒姫で生活をしています。
さっきも言ったように芸術家じゃないし、
お金稼ぐの下手だから、
たぶん、東京で同じことやってたら
ご飯食べらんないよね。
でもこっちなら、夏場なんかは
キュウリが山のように来るし、キャベツは来るし、
食べることに関してはそれほど苦労はしないし、
お金もそんなにかかんなかいからなんとか暮らせた。

黒姫のペンションを舞台にした
料理の番組を、CSのテレビでつくることになり、
その手伝いをしていたなかで、
福森家のみなさんと会いました。
雅武さんのことは、雑誌で知っていて、
個人的にもとても尊敬しているんですが、
まだ20歳そこそこだった道歩さんにも会って
こんなに面白い子がいるんだというところから、
僕から頼んでつきあってもらっている感じなんですよ。



料理? もちろん、します。
このあたりってすごくおいしいものがあるんです。
野菜も蕎麦もおいしい。
妙高にはいい魚屋さんもある。
そんな環境のなかで、
ぼくは、使うために、器をつくっています。


2011-03-04-FRI

写真:大江弘之 + ほぼ日刊イトイ新聞 

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