富松暖さんインタビュー01 | ひとさじのジュエリー une pincée | イメージ1 富松暖さんインタビュー01 | ひとさじのジュエリー une pincée | イメージ2

DAN TOMIMATSU デザイナー
富松暖さん インタビュー

歩んできた道の先に、 ジュエリーがあった。

ユヌパンセの第2弾としてご紹介する
DAN TOMIMATSUのジュエリーは、
日常にあるものをモチーフにしながらも、
上質で軽やかで、洗練されていて、
これまでにありそうでなかったジュエリーです。
スタイリストの髙品逸実さんも、
「なんだかつけているとうれしくなる」と、
以前から気に入って使っていました。
ただ、デザイナーの富松暖さんご本人については、
よくわかっていなかったんです。
ジュエリーのデザインだけでなく、
映像作品やプロダクトデザインでも
世界的に有名な賞を受賞されていたり、
奈良県の吉野町を拠点に、
さまざまな地域プロジェクトに携わっていたり。
幅広い活動をされている理由を
ご本人に訊いてみようと思います。
8月中旬、富松さんを訪ねて
ほぼ日のユヌパンセチームが吉野に伺いました。

富松暖さん

富松暖さん
プロフィール

01

精神に働きかける作用。

※取材は、吉野川のほとりに建つ「吉野杉の家」で行いました。
富松さんも参加されている「吉野と暮らす会」が運営する宿泊機能を備えた
交流施設です。

よろしくお願いします。
富松さんとは共通の友人もいて、
以前からやりとりさせていただいていましたが、
そもそも全てのお仕事について、
わかっていないことも多いなと思いまして。

よろしくお願いします。
何でも聞いてください。

照明のプロダクトデザインでも、
世界三大デザイン賞といわれる賞を
受賞されていましたよね。

あ、そうですね。
空気清浄機型照明「Airluna」
というものをデザインしたんです。

すごいですよね。
今、お話を伺っているこの場所「吉野杉の家」も、
富松さんが関わっているプロジェクトということで、
本当にいろいろな活動をされていますけど、
きっかけは何だったんだろう、とか。

そうですね。ジュエリーデザイナーとしては、
いろいろな媒体で話す機会があったんですけど、
吉野ではそれ以外のこともいろいろやっているので、
今日はそのあたりもお話できたらと思っています。

富松暖さん

ぜひ伺いたいです。
富松さんは、吉野で育ったんですか?

正確に言うと、ぼくは東京で生まれたんです。
母は東京出身なんですけど、
父が自分の故郷の吉野で子育てをしたい、
ということで、小学校から吉野で育ちました。
その後、美術大学に行くために東京に行って、
多摩美でプロダクトデザインを勉強しました。

最初はプロダクトデザインから入ったんですね。

そうですね。
プロダクトデザインの中でも、
最初に興味を抱いたのは、義手とか義足という、
腕や足、指などを失った方のための
プロダクトでした。失ったものを補うためのものを
デザインしたいなと思っていたんです。

それを考えたのは、
何かきっかけがあったんですか?

ちょうどそのころ母が病気になって、
腕が少し不自由になったんです。
高校生のころまでは、デザインというと、
もうちょっと華々しくて、
カッコイイことをするもの、というふうに
考えてたんですけど。
目の前に困っている人がいるのに、
自分の職能でできることがないのかな、
と思ったのが、最初のきっかけですね。

ああ、じゃあ、最初はお母さんのために。

はい。その後、義手や義足だけではなく、
もうちょっと広い部分で
デザインできないだろうか、ということで、
「欠損した部分を補うためのデザイン」
という考えを拡大解釈していくと、
もともと人間には今より多くの体毛があって、
それを失ったことで体温調節が難しくなり、
服が必要になった‥‥というふうに考えると、
服は、義膚というか失われた皮膚を
もう一度補っているものじゃないかな、と。
ファッションも、義手や義足をデザインするように
デザインしていいんじゃないかなと考えて、
大学ではそれを研究していたんです。

失われたものを補う役割としての、
ファッション。

はい。さらに考えると、
それだけじゃなくて、
落ち込んでいるときに気分を明るくしたいとか、
精神に作用する部分も、
服に含まれているなと思ったんです。
義手も、物を掴むという機能だけでなく、
腕を失ってしまったという心のダメージを
補うための役割があると思っていて。
その2つのうち、ぼくは、どちらかというと、
精神的に作用する機能のほうに興味を抱きました。
それで、心に働きかけるデザイン、というものを
純粋に表すのは、今の世の中では何だろう、
と考えたときに、
それがジュエリーだったんです。

心に働きかけるものとしての、ジュエリー。

ジュエリーって、役割や機能があるというよりは、
「なんでつけるんだろう?」と考えると、
「つけたいから」だと思うんです。
なぜつけたいのか、それは、
それをつけることで気分が上がったり、
幸せになれたり。
そんなふうに、ぼくの歩んできた道で、
最終的に行きついたのがジュエリーだったんです。

ジュエリーを実際に作りはじめたのは、
いつごろからなんですか?

大学院を卒業して、日本に帰国してからですね。
ドムスアカデミーという、
イタリアの大学院に行っていたんです。
帰国後、たまたま展示会に招待されて、
「自分のジュエリーをデザインして展示してください」
というものだったんですけど、
そのときに、今ぼくもつけている
「ラバーバンドブレスレット」という、
輪ゴムから着想を得たジュエリーを一つ作って、
テーブルの上に置いといたんです。
それだけの展示だったんですが、
それを見た方から、
「このジュエリーをブランドにしていきたい」
というお話をいただいて。
ぼくはそのころプロダクトデザインだけだったので、
「あ、おもしろそうだな」
と思って、ジュエリーのデザインをはじめたんです。

富松さんのラバーバンドブレスレット

じゃあ、最初に作ったジュエリーが、
今おつけになっている、
そのラバーバンドブレスレットなんですね。

そうですね。
これは、祖母がいつも腕に輪ゴムをつけていて、
それがかわいいなと思っていたんです。
いいと思わない人もいるかもしれないですけど、
ぼくにとってはそれがチャーミングに見えたので。

腕につけた輪ゴムが‥‥
その発想がすごいです。

コンテンポラリージュエリーという
ジャンルがあるんです。
ダイヤモンドやエメラルドのように
すでに価値とされているものを、
デザインするのがファインジュエリーで、
コンテンポラリーのほうは、
「こういったものも価値なんじゃないですか」
と新しく提案するジャンルなんです。
「段ボールとか紙でも、
ジュエリーになるんじゃないですか」みたいな。
そういった考え方がすごく好きだったので、
その思想に則ってデザインしたのがスタートでした。
ちなみに、ぼくが今つけているこの輪ゴム、
7年くらいつけっぱなしというか、とれないんです。
もうちょっと痩せてたときにつけていたから(笑)。

もうとれない(笑)。
いまつけていらっしゃるのは金ですよね。
最初はシルバーで作ったんですか?

最初は純金だったんです。
すごく柔らかくて、本当にゴムみたいに
曲げられるようなものだったんですけど、
さすがに強度が持たないということで、
18金で作って、その後はシルバーでも作りました。
DAN TOMIMATSUでは、
18金だからいいとか、シルバーだからどう、
というのはあんまり考えていないんです。
ジュエリーは時代で価値も変わるし、
金色が好きだったら、金がいいだろうし、
ちょっと軽い気持ちでつけたかったら、
シルバーがいいのかなという。
それに、シルバーは
経年変化を楽しめるということもあって、
両方扱わせてもらっています。

さきほど、イタリアで学ばれたという話でしたが、
いろいろな国があるなかで、
なぜそこで勉強しようと思われたんですか。

すごく単純な理由で、
イタリアに好きなデザイナーがいたんです。
ファッションデザイナーなんですけど、
考え方とか作っているものがすごく好きで。
その人のアトリエの近くに大学院があったので、
そこに行けば、その場所に行ったり、
本人と話したりする機会があるんじゃないかと。
あと、ぼくが大学のころから読んでいた雑誌が
『domus』という建築雑誌で、
それに親しんでいたので、それの大学院があるなら
行ってみたいなということで。

言葉は大丈夫でした?

英語かイタリア語で受けられるということだったので。
その前に、まずは英語を勉強しておけば、
大体の海外の大学院に入れると思って、
最初にイギリスへ行ったんですけどね。
イギリスのRCAという美術系の大学院に行くか、
セント・マーチンズというファッション系の大学院に
行くか、ということも考えていたんですけど、
最終的にはイタリアに行ってみたいなと。

イタリアではプロダクトデザインを中心に
学ばれた?

いえ、ぼくのいた学科のおもしろいところは、
デザインという括りの中に、
ファッションも建築もインテリアも
全部含まれているという考え方があったことなんです。
分け隔てなく扱える人を、
プロジェティスタとイタリアでは呼ぶんですけど、
そういう人を育てるための学校で。
クライアントから何か依頼があったとき、
最適な答えが、たとえばインテリアだったら
インテリアデザインをするし、
それをファッションでやったほうがいいよ、
という場合だったら、ファッションの仕事もする、
そういう人物を育てるための学科だったんです。
そこで学んだことで、ぼくも今、
いろんなことに興味を持てているのかなと思います。

枠がない。
そういう背景もあって、
ジュエリーデザイナーだけでなく、
いろいろなお仕事をされているんですね。

そうですね。いろいろやってみようという
メンタルはそこで培われたと思います。
DAN TOMIMATSUでは、
ジュエリーデザイナーとしてやっているんですけど、
それとは別に奈良で株式会社kana
というものを運営しています。
何をやっているかというと、
後で一緒に歩けたらいいなと思っているんですけど、
吉野には「貯木」という、
木材を製材したり貯めたりするエリアがあるんです。
高度成長期以降、木材の使用料が減っていて、
ぼくが子どものころよりは、ちょっと
元気がなくなってきているというものもあって、
リブランディングのプロジェクトの
ディレクターを務めています。

吉野杉の積まれた様子

今、お話を伺っているこの建物も
吉野杉を使っているんですよね。

そうです。あとは、株式会社kanaでは
妻と一緒に、「吉野杢藝」という
知育教室の運営もやっているんです。
ぼくが子どものころは、もっと子どもが多くて、
誰々くんと遊ぼうと思ったら、
いくらでも遊べる状況があったんです。
でも今、ぼくが吉野で子育てを開始したら、
本当に半径5キロ以内で子どもがいるのは自分の家だけ、
みたいな、そういう感じなんです。
幼稚園もどんどん閉園していますし、
昔は自然と子ども同士で遊んで学べていたようなことが
全然できなくなっているなと思っていて、
それを補う形で知育教室をはじめました。

そこでは、どういうことをされているんですか?

たとえば、京都に、音に合わせて体を動かすことで
リズム感や集中力を鍛えるという、
リトミックの先生がいるんですけど、
その先生に吉野に来てもらって、
吉野の子どもたちに参加してもらう、
というようなことをやってます。

ああ、いいですね。教室に集まることで
ちょっと遠くに住む
お子さん同士の交流もできますし。

はい。それと、株式会社kanaでは、
日本の伝統工芸を海外のクライアントや、
それを必要としている方につなげる仕事もしています。
ジュエリーもそうなんですけど、
さまざまな製品が職人さんによって支えられているので、
そういったものをどう未来に
残していけるのかなということを常に考えています。
9月に、「デュシタニ 京都」という
ラグジュアリーホテルができるんですけど、
そこのアートキュリエーションをしていて、
彫刻や調度品を吉野の木材で作ったり、
彫刻にして設置したり、
というようなことをしています。

プロダクトのデザインもできて、
海外とのつながりもある
富松さんだからできることですよね。

ぼくが小さいころにいいと思ったものが
なくなっていっていることが残念で、
自分の職能で、ちょっとくらい役に立てることが
あればな、という考えでやってます。
伝統工芸を守りたいということと、
子どもたちに教育の機会を与えたいという動機ですね。
あとは、奈良芸術短期大学で
立体造形の特任講師をしています。
そういったことが複合的に重なって、
ぼくの活動を象徴しているものが
ジュエリーであるというふうに考えています。

ああ、そうなんですね。

そのときはシルバーが一番、
みんなが身につけたいものだった。
今はたまたま金になっていると思うんですよ。
以前からぼくは、
ジュエリーは、その時代の価値の象徴だと
いっているんですけど、
それって啓蒙活動に近いものがあって。
ただ近年は、啓蒙だけじゃだめなんじゃないかなと
思いまして、実際に知育教室を開くとか、
地域に何か自分ができることをしています。
その活動を最終的に象徴するものとして、
ジュエリーがあると思っています。

(つづきます)