ほぼ日刊イトイ新聞 フィンランドのおじさんになる方法。

第22回 ふたつの道が、ひとつになるとき。──キヒニオの、エルッキおじさん── 武井義明

かっこいい人なんです。
からだも大きいし、いつもニコニコしてるし、
英語もドイツ語も堪能で、ビジネスの手腕もあって、
人を引き寄せる力をもっていて、人脈の活用も上手。
愛妻家で、5人の子供たちを愛していて、
おおらかさが全身からにじみ出ています。

でも、なぜなんだろう?!
エルッキさんって、どこか、そこはかとなく、
「おかしみ」のあるおじさんなのです。
仲よくなるにつれ、その言動のはしばしに、
ユーモアなのか天然なのかわからない、
「とぼけた印象」や「まぬけなかんじ」、
意外と不器用なところが見え隠れするものだから、
ちょっとからかいたくなるというか、
「また、エルッキさん、おかしなこと言って!」
と、突っ込みたくなるのです。
日本でも、ちょっと酔っ払ったおじさんが
ゴキゲンになって、みょうにズレた言動で
笑わせてくれることがありますけど、
エルッキさんはそれをしらふで
やっているようなところがあります。
この旅を通じていろんなおじさんに会いましたが、
ほかのみなさんとちがうのは、
「ひとりで静かにしている瞬間が想像できない」こと。
エルッキさん、ちょっと、
フィンランドには珍しいタイプなんだと思います。

エルッキさんとアンニッキさんに、
「ふたりが知り合った頃の写真を見せてください」
とお願いしたところ、
ふたり別々に、それぞれのアルバムから、
一枚ずつ写真を出してきてくれました。
それぞれが高校を卒業したときの、記念写真でした。
じつはふたりは、一緒に写っている若き日の写真を
持っていません。

ふたりは、1976年に知り合います。
エルッキさん19歳、
アンニッキさん18歳のときのことでした。
それから5年間、ふたりは恋人どうしでした。
婚約をしていた時期もありました。
けれど、お互いが思い描いていた将来が、
どうしてもひとつにならなかったことから、
「お別れをしましょう」ということになったのでした。
20代前半の、にがい決断でした。

それから20年たった、ある日。
別れてから一度も会うことがなかったふたりが、
偶然、再会します。
旅先のイカーリネンという街のスパで、
指圧の指導をしているアンニッキさんを、
エルッキさんが見つけたのでした。

思い切って、話しかけたエルッキさん。
もちろん、アンニッキさんも、
エルッキさんのことをおぼえていました。
(わすれるわけが、ないですよね。)
話をすると、いろいろなことがわかりました。
それぞれが80年代に結婚をし、
エルッキさんは3人、
アンニッキさんには2人の子どもをもったこと。
そして、ふたりとも、いまは離婚をしていること。

看護士だったアンニッキさんは、
子どもの病気がなかなか治らなかったときに、
さまざまな治療法をさぐるなかで、
東洋医学と指圧に出会います。
(子どもも、元気になりました。)
そして指圧の専門家としての道をすすみ、
エルッキさんと再会した頃には、
フィンランド全国に弟子をもつほどの
指圧指導の第一人者になって、
いそがしく全国をとびまわっていました。

エルッキさんはエンジニアとして、
アメリカ系の大企業で働いたのち、
マネジメントに才能を見いだし、
タンペレにある電子工学系の企業で取締役になりました。
さらに印刷機器を扱う会社をセイナヨキで設立、
社長業を経験したのち、タンペレに戻り、
マルチメディア系の企業に入り、
印刷部門のトップに就任していました。

そんな、多忙で、
20年ぶんの人生をかかえたふたりが、
ふたたび、出会ったのでした。

長く離れていたふたつの道がひとつになったのは、
2002年のこと。ふたりは再婚をします。
婚約解消から20年を経て、家族になったのでした。
そのときから、エルッキさんに
「いつか、アンニッキさんのための
 仕事の拠点をつくってあげよう」
という夢がふくらみはじめました。

次の転機は2005年でした。
エルッキさんの勤める会社が、
とつぜんの企業買収劇に遭遇します。
そして、たいへんな好条件でノルウェー企業に
売却されることになったことで、
経営にたずさわっていたエルッキさんに
「思いがけないほどの大金」が入ることになりました。
それは彼が個人で新しい会社を立上げるのに
じゅうぶんすぎるほどの額でしたが、エルッキさんは
「同じ分野の仕事は、もう、いい」と考えます。
こんなに忙しい人生は、もう、いいと。
そのとき、はじめて、
フィンランドの、このうえもなく素敵な夏も、
きびしい冬も、関係ないさとばかりに
働きづめだった人生を反省することになりました。

自分は、いったい何がしたいんだろう。
いくら地位が上がっても、
自分の手でなにひとつつくってこなかった。
次は、自分の手でなにかをすることが、したい。
アンニッキさんと、あたらしい家族といっしょに。

エルッキさんが、退職で手にしたお金をもとにして
はじめたあたらしい仕事は、
自分の、企業人としての経験をいかした、
ビジネスマンむけのセミナーを
キヒニオの“森の中で”ひらくことでした。
キヒニオは、もともとエルッキさんのおばあさんの故郷。
ここに持っていたサマーハウスを、
夏だけでなく一年中使える家にして、
この地でふたりで再スタートしようというわけです。

セミナーは、「静寂の小径」と名付けた
森の中の道を歩きながら
チームワークやリーダーシップを養うもの。
参加者が車座になって話をしたり、
いつか実現したい夢を書いて宝箱に封じ込めたり、
そんなふうにして過ごす体験学習型のセミナーです。
エルッキさんのもと、仲間たちと、
ふだん話さないようなおしゃべりをしながら、
都会のひとびとが、ほんらいの自分をとりもどしていき、
仕事への活力をやしなっていきます。

そのセミナーの目玉になったのが、トロッコでした。
かつて、ピート(泥炭)採掘が盛んだったキヒニオには
当時使われた、運搬用の線路が、
ところどころ分断されながらも、残っています。
その線路の周辺の土地を買って、
廃線となった線路を使う権利を得たエルッキさんは、
フィンランド全国から60台の手漕ぎトロッコを集め、
この廃線を走るアクティビティーを考えました。
ちょっと錆びついて、がたがたする線路ですが、
いっしょけんめい漕いで、先へ先へと進んでいく。
森のなか、ゆるやかな坂をのぼり、川をわたり、
坂をくだり、おいしげる雑草や木々のなかをぬけて、
自分の力だけで線路を進むこの体験は、
参加した誰もが夢中になってしまいます。
セミナーに参加した都会のおじさんたちも、
このトロッコ遊びに一所懸命になるうちに、
だんだんと、自分らしさを取り戻していくのでした。

2007年6月、次のチャンスが訪れます。
村の小学校が廃校になり、
自治体が、この校舎を有効活用してくれる買い手を
募集したのです。
エルッキさんはアンニッキさんと相談して、
ふたりでこの廃校を買おうと、名乗りをあげました。
そして、みごとにその権利を獲得。
それからこつこつと校舎を修繕して宿泊施設へと改築、
エルッキさんの学校「クルマラン・コウル」は
2008年の5月にグランドオープンをはたします。
この学校を使ってさらに充実させたプログラムを作り、
また指圧を指導しているアンニッキさんが、
全国を忙しくとびまわるだけでなく、
弟子や生徒たちがやってくることもできる拠点が
できあがったのでした。

小学校と同時期に、
エルッキさんが手に入れたものが
もうひとつありました。
フィンランド国鉄から、
使われなくなった電車の車両をゆずりうけたのです。
そこに含まれていた「食堂車」は、
セミナーに来るお客さんたちが
ディナーをたのしむことができる
「クルマラン・コウル」の
とくべつなダイニングルームになりました。
さらにクルマラン・コウルがオープンした夏、
エルッキさんは森の中に
テントサウナを完成させました。

「クルマラン・コウル」は、ふたりにとって、
これからを生きていくためのたいせつな仕事の場です。
そして、これからもどんどん、
施設を拡充していきたいと考えています。
でも、もう多忙なだけのビジネスマンに
戻るつもりはないエルッキさんは、
ひとつだけ、決めていることがあります。
「心がない状態になったら、やめよう」
ということです。
人を教えるのも、お茶を出すのも、料理をつくるのも、
あたらしい施設をつくるのも、
心がない状態では、やってはいけないと。
そんなふうにして、「クルマラン・コウル」は
創業1年を迎えようとしています。

校庭だった広い庭につくった露天風呂に、
夜、つかりながら、満天の星を見て、
「これこそが、人生だ」
と、エルッキさんは思うそうです。
トロッコ、小学校、テントサウナ、食堂車、
愛する人との再会、そして彼女とともに人生を歩むこと。
こんな人生が、自分に訪れるなんて、
思いもよらなかったと。
若い頃、自分の直感を
信じることができなかったばかりに、
アンニッキさんと別れてしまった自分。
幸運にも、もういちどめぐってきたチャンスを、
エルッキさんは、しっかりつかみました。

「それは、すぐに手を伸ばさなければ、
 どこかに行ってしまうものなんだ。
 タイミングと、直感。
 それを信じて、まっすぐ手を伸ばすこと。
 これからも、ぼくは、そうやって
 生きていくことになるんだと思うよ」

どうです、かっこいいでしょう。
かっこいいんです、エルッキさんは。
こうして文章にすると、いかにも、かっこいい。
でも‥‥最初に書いたように、
なぜだかエルッキさんには
「とぼけた印象」や「まぬけなかんじ」が
するところがあります。

たとえば、こんなエピソード。
エルッキさん、カラオケが好きです。
でも、(言いにくいなぁ)すごくヘタ。
フィンランドには「イスケルマ」という、
ムード歌謡そっくりの音楽ジャンルがあるんですが、
そのカラオケで「おもてなし」をしてくれるんです。
これが困る。
エルッキさん、あまりの音痴ゆえ、
まったくおもてなしになってないよ!
と突っ込みたくなるくらいなのです。
でもそんなこと意に介さず、
音程外しっぱなしで最後まで歌い切る。
「フィンランド人の生歌が聴けたら、
 きみたち、うれしいだろ?!」といわんばかりの熱唱。
おかげでこちらは、笑いっぱなしです。
たしかに「すごくおもしろい」という意味では
おもてなしになっているかもしれないんですけどね。

またあるとき、
エルッキさん&アンニッキさんチームと、
ぼくらが、べつべつのカヌーで湖に出て、
中洲で落ち合って焚き火をしよう、と計画しました。
アンニッキさんのすばらしい水先案内で
先に到着していたエルッキさん‥‥のはずなんですが、
なぜか、パンツ一丁でぼくらを迎えてくれました。
ボートから岸に近づくと、
パンツ一丁で手を振るエルッキさんが見えます。
大男、パンツ一丁。
なぜ?! ちょっと、こわいくらいです。
上陸して訳を聞くと、
途中であわててバランスを崩し、湖に落ちて、
ズボンがびしょびしょになっちゃったと。
「だから焚き火で乾かしてるんだよ」
って、それはいいんだけれど、
かいがいしく、パンツ一丁で、
焚き火のコーヒーを淹れたり、
ソーセージや魚をこんがり焼いてくれるのが、
おかしくてしかたがない。
でも笑っちゃ悪いよなあ。
まぁ、もともとフィンランドの人は
サウナも湖での水泳も、混浴&すっぱだかでも平気、
というメンタリティを持っているんですけどね。

でもこういうときに貫録あるのがアンニッキさんで、
顔色ひとつかえず、「濡れちゃったものね」と、
ズボンを表にしたり裏にして、
乾かしてあげています。とてもやさしい。
一見、たのもしいエルッキさんを、
じつは支えているのはアンニッキさんなんだなぁ、
ということが、よくわかった瞬間でした。

アンニッキさんと再会できて、
ほんとによかったねぇ、エルッキさん!
と、ぼくらはしみじみ思いました。

そうそう、おたがいの子どもたちは、
自立心旺盛にそだち、
学校や仕事で親元を離れて暮らしながら、
休みのときにはふたりのところに戻ってきます。
子供たちにとっても、ふたりの再婚は、
きっと、うれしいことだったんじゃないのかな、
と、ちょうど夏休みでみんなが揃って
「クルマラン・コウル」を手伝っているのを見て、
ぼくらは、そんなふうに感じました。

2009-04-13-MON
takei

とじる

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