第5回
「それが聞けなきゃだめじゃん」
- 糸井
- ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの
レポートを読んだ小学館の人が
次にキャロルを書くようにすすめてくれましたが、
ぼくはそういうときいつも
「自分もそういうのがあれば読みたい」
と思ってしまうんです。
「俺、そういうの、読みたいよ」
と、そのときも言いました。
めんどうだから、自分では書きたくないんです。
だけど『ジャニス』がほんとうに好きで(笑)、
憧れてた。だから、結局やることになって。
- 新井
- それであの
『成りあがり』ができていくんですね。
- 糸井
- はい。
「矢沢永吉」という人は、
当時の「大学を出てないほとんどの人」を
代表してる人だ、というのが
のちのちのぼくの位置づけです。
学生運動で闘いに負けただの勝っただの、
アメリカでは何が流行ってるだの、
うるさいことを言う人たちは大学生で、
当時はひと握りでした。
それ以外のほとんどの人たちは
「デモうるせえな!」と思っていたんです。
その状況の中で、
音楽的素養をどうこう問われないような音楽が
バーンと出てきた。
ぼくは「それが聞けなきゃだめじゃん!」って
思ったんです。
キャロルのナンバーは、
まるでハンブルク時代のビートルズのようで、
ヌードショーの合間に入ってもおかしくないぐらいの、
生々しいセクシーさ、
オスとしての魅力がありました。
- 新井
- なるほど。
- 糸井
- ステージは、観客が喧嘩しはじめるのも含めて
「舞台」だから、
客席で逃げながら観なきゃいけなかった(笑)。
そこにいると、
「ロックとはなんぞや」ということの、
言葉の奥の奥みたいなものが見えてきました。
そんな「永ちゃん」といっしょに
旅ができるわけですから
楽しいに決まってます。
- 新井
- 氷山の「出ている部分」だけでも
ものすごく豊かですから、
下にある矢沢さんの「基の部分」は、そうとうですよね。
『成りあがり』にはそこが入っているわけで、
『ジャニス』とはまた違う言葉が詰まっています。
- 糸井
- 『ジャニス』ともダウンタウンの記事ともちがって、
自分のことを書く必要がなかったのは
とても大きかったです。
「矢沢永吉が書いた本」というかたちをとることは
最初から決めていました。
永ちゃんと話したことを
そのときもテープに録ったけど、
今度は小学館の仕事だったんで、
テープ起こしを自分でしなくてよかった。
手書きの時代ですから、
起こしてもらった文字原稿を切って貼って、直して、
構成していきました。
その編集作業がものすごく楽しいんですよ。
- 新井
- わかります。
- 糸井
- あのへんからぼくは、
「大勢の人が読むかもしれない」
というドキドキを味わうようになったと思います。
- 新井
- 初版は何部ぐらいだったんでしょう?
糸井さんの編集費は印税だったんですか?
- 糸井
- おそらくぼくは50万円のギャラを
もらったんじゃなかったかな?
まちがってたら、小学館の人、すみません。
- 新井
- 印税じゃなく、ギャラだったんですね。
- 糸井
- あんまり売れたんで、あとで時計をもらったり、
ごはん食べさせてもらったりしました。
文庫のほうが圧倒的に売れたから、
KADOKAWAがいちばん儲かったかもしれませんね。
- 新井
- 『成りあがり』のおおもとに
『ジャニス』への憧れがあったことは
今日はじめて知りました。
- 糸井
- それも、いわば片岡義男さんから
つながってるんですよ。
- 新井
- ニュージャーナリズムというものが
アメリカで起こって、
いろんなやり方があるということを
ぼくは片岡さんの世界で知りました。
例えばハンター・トンプソンは
政治家に取材に行って、拒否されたら
その家に火をつけて、出てきたところを
インタビューして捕まっちゃったり、
ヘルズ・エンジェルズを取材して、
一緒に自分もバイク乗って走ったりした。
体験的ジャーナリズムを彼はやっていたのです。
ぼくは雑誌の中でそれを
どういう形で置き換えられるか、やろうとしました。
それだったら、自分もやれると思ったんですよ。
- 糸井
- それは、肉体的であり、
同時に知的ですよね。
- 新井
- 知的かどうかは、わかんないですけど。
- 糸井
- ぼくより年下なのに、やっぱりずいぶんと
ませたことを考えてますよね(笑)。
- 新井
- いや、それはやっぱり先達がいたからです。
- 糸井
- やっぱり沢木(耕太郎)さんがいたのが
大きいのかなぁ。
- 新井
- スポーツノンフィクション作家としての沢木さんは、
自分でボクシングの試合の
マッチメイクまでやりましたね。
そういう人たちが濾過したものを、
自分のやり方でやっていくことがスタートでした。
- 糸井
- 雑誌の話の「雑」ぶりっておもしろいですね。
- 新井
- 雑ぶり(笑)。
- 糸井
- 考えれば、のちにぼくが「ほぼ日」で動くときの、
無意識の方法論と似ているところがあるかもしれない。
例えば、東北で震災があったときに、
何を助けるかを考えるんじゃなく、
まずは行って、求められているものを知ろうとしたり、
みんなと知り合いになってから
そいつに何かをすればいいじゃないか、という
方法でした。
それはまさしく『ジャニス』ですよね。
- 新井
- ああ、そうですね。
そして、視線が等価なのが
重要かもしれない。
- 糸井
- そうなんですよね。
(第6回につづきます)
2016-09-15-THU
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN