- ほぼ日
- 下田さんは、恐竜にたどりつくまでは、
絵やイラストなどの「平面作品」が
ご専門だったのでしょうか。
▲ミシンをあまり使ったことがなかった下田さん。
- 下田
- はい。
ぼくは26歳から2年間、
中国からはじまって、チベット、ネパール、インド、
ヨーロッパを旅行しました。
それは、いまの絵の仕事につながる旅行でした。
ぼくはなにをやってもだめな20代で‥‥
▲だめな‥‥ですか?
- ほぼ日
- というと、どんなふうに?
- 下田
- 数年前のことになりますが、
佐野元春さんの本の表紙とCDジャケットの
イラストを描かせてもらったことがあったんです。
- ほぼ日
- はい。
- 下田
- 打ち上げのとき、佐野さんに
「大人になったら佐野元春さんの
CDジャケットを作らせてもらえるんだ!
と、高校生の自分が知っていたら、
もっともっと自信を持って生きてこられたのに!」
とお伝えしました。
佐野さんは
「そんなに自信がなかったの?」
とおっしゃいまして、
ぼくは「はい」と答えました。
つまりそのくらい、だめだったのです。
- ほぼ日
- ‥‥下田さんは、
自信うんぬんとは関係のないところで
生きていらっしゃると
少し思っていました。
- 下田
- いや、コンプレックスのかたまりで、
ボロボロでした。
そして、年をとっていく過程で
コンプレックスを克服してきたわけではなく、
年齢とともにコンプレックスを
忘れてしまった気がします。
- ほぼ日
- それはいいことのような気がします。
- 下田
- いや、だから、本質的には
何も解決していないんですよ。
ずっとサラリーマンになりたくて、
なれなくてなれなくて、
あきらめて、30歳で絵かきになりました。
- ほぼ日
- なぜサラリーマンになりたかったのですか?
- 下田
- いやぁ、ぼくはね、ほんとうに、
ひとりでやっていくのに
向いていないと思うんです。
子どもの頃、できれば
番長の影に半分かくれて
前に出ていかないくらいがちょうどいいと‥‥。
- ほぼ日
- え‥‥、
そうなんですか?
▲アーティストは基本的ひとり作業。
- 下田
- こんな仕事をしてるのに、
現在の職についた理由は
「消去法」なんですよ。
- ほぼ日
- 最初からめざして
なったわけではない、と‥‥。
- 下田
- たしかに、高校は美術科でした。
しかし、学業の成績も、美術の成績も、
40人中、どうもビリでした。
担任の先生から、クラスで唯一
「君は美大は無理だね」
と言われてました。
- ほぼ日
- ひとりだけ‥‥。
- 下田
- ひとりだけです。
そこからどうにか東京に出てきて
桑沢デザイン研究所に入りました。
学校を卒業して、
サラリーマンになりたくて、
いくつか会社に入ってみましたが、続きませんでした。
いろんなアルバイトをして食いつないでいましたが、
ある日、気づいたのです。
ま、みなさんもお気づきだと思いますけど‥‥
つまり、「30歳」になるととつぜん
アルバイトの求人数が減るんですよ。
- ほぼ日
- なるほど。
- 下田
- がくん、となくなります。
サラリーマンもムリっぽい、
アルバイトもできなくなる日が近い。
どうする?
‥‥ですから30になると同時に、
ためしにいっかい絵でやってみようと思いました。
- ほぼ日
- 26歳で旅行に出た後のことですね?
- 下田
- はい。
25歳で会社をクビになって、
いちど仕事から離れようと思いました。
まさか離れたまま50になるとは思わずに‥‥。
- ほぼ日
- いや、現在は仕事はなさっていますから‥‥。
- 下田
- それでそのときぶらぶらついでに
海外に行っちゃったわけです。
旅行中に日記を描きはじめて
日記の延長で会った人の顔を描きだしました。
- ほぼ日
- その2年の旅のあいだ描きためた
そのポートレイトを
目をとめた人がいて、
仕事につながっていくわけですが‥‥。
- 下田
- それが28歳のとき。
絵の仕事がはじまったのですが、
でも、それだけでは
食べていくところまではいきませんでしたよ。
- ほぼ日
- 帰国後に、週刊誌の連載を
はじめられたんですよね。
- 下田
- でも、連載1本だけでは
食っていけるわけでもなく。
- ほぼ日
- いつから「これで食える」というふうに
なったんですか?
- 下田
- ‥‥ん?
▲絵で「食べていける」ようになったのはいつ?
- 下田
- あ、そう言われると、わかんないや。
なぜなら、その2年間の旅が、
あまりに貧乏だったからです。
つまりは、お金がぜんぜんなくても、
食える自分になっていたような気がします。
- ほぼ日
- そうなんですか!
- 下田
- 絵の仕事をはじめて、打ち合わせをすると
みなさん、自分に食べものをくれるんです。
「いやぁ、日本の仕事ってすごいなぁ、
帰りにおみやげをくれるんだなぁ」
と思ってました。
いまから考えると、そうとう
「食うに困っています」という
ビジュアルだったんでしょうね。
自分はたのしくてしょうがない時期だったから
なんとも思ってなかったけどね。
「次の打ち合わせは長ズボンで来い」
「打ち上げはあそこのレストランだから、
このお金でシャツを買って、着てくるように」
そんな編集の人もいました。
みなさんに訓練してもらって、
成長させてもらいました。
ほんとうにお金はなかったけど、
自分としては楽観的にやっていました。
食うとか食えないとか、感じられなかった。
そのうち、本が出たり
テレビのドキュメンタリー番組に
取り上げてもらって、
だんだん仕事につながるようになったのかな?
と思います。
▲そういえば糸井重里も、「食えない時代はあったが楽観的だった」と言っていました。
- ほぼ日
- なるほど‥‥。
いまのアトリエとお住まいは
都内のまさに一等地ですが、
ここには「食えるようになってから」
引っ越したんですか?
- 下田
- いや、ここは18歳からずっと住んでいます。
最初は郊外のマンションをすすめられたんですが、
わざわざ田舎から出てきて
また田舎に住む意味がわからなかったんで、
都心の屋上つきのこの部屋にしました。
- ほぼ日
- いま、ふたつの部屋をつなげて
アトリエになさってますが‥‥。
- 下田
- 住まいって、
就職や結婚などの事情で
引っ越すんだと思ってました。
まさかの
「そういうトピックがなんにもないまま
40になる」
とは思ってなかったので、
こりゃ引っ越さなきゃカッコ悪いな、
と思っていたら隣が空いたので、
ふた部屋借りられることになりました。
- ほぼ日
- ええーっと、
旅に2年出ておられた、と
おっしゃっていましたが、
18歳から住んでいたということは、
この部屋は、その間も借りっぱなしで?
- 下田
- 友達に
「ちょっと留守にするからかわりに住んどいて」
とお願いして出かけました。
もちろん、家賃も払っててくれました。
じつは最初は国内旅行のつもりだったんです、
しかも自転車で。
数ヶ月で帰ってくるつもりが、
結局海外旅行もして、3年になっちゃった。
もっとぶらぶらしてようかなぁ〜、と思ったんだけど、
かわりに家に住んでくれてたその友達が
「結婚することになったんで、
たのむから帰ってきてくれ」
と懇願するので、しょうがなく戻りました。
-
(つづきます)