ポジション・トークに 気をつけて。 武田徹さんに、 「報道」への考えを訊きました。 |
「戦争報道で、 どこまで事実を掴めるかには限界がある」 という、誰もが気づいている内容について、武田さんは、 「だからと言って、やるべきことがないわけじゃない」 と、静かに、語ってくれました。 今日も、戦争報道や報道全般に触れるにあたって ヒントに満ちた、武田さんの言葉を、ご紹介いたしますね!
「今回の戦争には、石油利権がからんでいるだとか、 そういう話もよく語られているけれど、 そういう、『背景』や『力関係』といったものは、 我々には、はかり知れないところが、 どうしても残るじゃないですか。 その方向の情報を、いかに追及していっても、 どんどん派生する情報が出てきたり、 視点がズラされてしまったりするんじゃないか。 そういう危機感は、ありますね。 コッポラが『地獄の黙示録』を通して描いた内容や、 開高健が描いた小説のようなものは、 『戦争の合理性をつきつめていくと、 いかに人間は狂っていくか……』 という、普遍的なところを指摘しています。 ベトナム戦争がどうのこうのじゃなくて、 人間や戦争の本質をついているんだと思います。 ジャーナリストは、おそらく、 そういうところを軸足にしていかないと、 つい、議論がすりかえられていったり、 横滑りしていったりするのではないでしょうか。 そういう危機感を真剣に持ったほうがいいと思うんです。 だから、戦争の本質という時に 石油利権のことをとりざたするのは、 そういう意味で、ぼくには不毛なような気がするんです。 事実報道のレベルで、 陰謀と呼ばれているものに肉薄できるかどうか、 それはジャーナリストには難しいと思うんです。 事実報道の射程の短さみたいなものをふまえたうえで、 やはり、陰謀史観に行くかどうかというのは、 けっこう大きな分かれ道でして……。 事実報道に限界があるというのは、 もちろん、それはその通りだと思うんです。 で、事実報道には限界があって、 限界のある事実報道をいかに正確にするかというのは、 ひとつの課題であって、もちろん やらなければいけないことだと思うんです。 出典の明記だとか、取材情報のメタ情報を付言するとか。 そういうことをやったうえで、いかに、 事実報道に限界があるのかを調べることは、 とても必要だと思います。 ただ、いくら事実報道に限界があると言っても、 すこし前の『朝日新聞』で掲載されたように、 『従軍記者は、これでいいのか? と悩んでいる』 というようなエッセイを書く必要はないと考えています。 そういう心情的な問題として書くべき話ではないんです。 『従軍報道が限界を持っている』というのは、 そもそも、論理的に、まちがいがないんですよ。 だから、迷ったりするべきものじゃなくて、 『そういうものだから、 限界を持った報道という範囲で 現実を読みといてくださいよ』と書くべきでしょう。 記者がそのレベルで迷っているというのは、 すごく稚拙な感じでして……。 従軍報道に限界があるというのは、 記者もわかっているべきだし、 読者もわかっているべきでしょう。 『限界を持っている事実報道を、 いかに総合しても、 戦争の全体像みたいなものは描ききれない』 とあきらめるべきかというと、 そうとは限らないんです。 あきらめたり迷ったりするべきではなくて、 知っておいたほうがいいことはあると思うんです。 目の前の事件を、 認識しようとしないで 妄想で補おうとしているから 無理が出るのであって、 そのへんは、記者も読者もふまえているべきでしょう」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ (つづく) |
2003-04-10-THU
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