ポジション・トークに 気をつけて。 武田徹さんに、 「報道」への考えを訊きました。 |
フセイン政権は崩壊したと報じられ、 戦争は終わったと言われている真っ最中。 今日の一面は、日本の選挙戦についてのものに なっているかと思われますが、 実は、「戦争」は終わっていたとしても、 攻撃の応酬自体は、まだ、終わっていないんですよね。 このインタビュー自体は、 イラク戦争勃発中におこなわれたものですが、 武田徹さんは、「戦争」の開始と終了について、 とても興味深いことを、おっしゃっていました。 「湾岸戦争の後にも、 イラクへの英米の爆撃がやむことがなかった。 今回の戦争前にも、 イラクへの英米の爆撃がやむことはなかった。 ・・・今回の戦争がはじめられたのは、言わば、 『公開性を保証するためにメディアが集められた』 ということで、ある種の状況の 『見立て』が『戦争』という名で呼ばれるんです。 それ以外の状況では、爆撃があっても 『戦争』とは呼ばれない時もあるわけです。 もともと、歴史的に見ると、戦争報道は 自分たちのやっていることを 国際的に知らしめるために、国のほうが メディアが必要としていたということでして。 歴史的にも、ジャーナリズムの発生時期と 公開処刑がなくなる時期とはだいたい同じです。 戦争がはじまると、国はジャーナリストに 状況を伝えてもらうという共犯関係があって・・・」 今でもどこかで、「戦争」ではない「攻撃」は、 淡々と続いているという中で、 今回は、武田さんの興味深い発言の 「知ることで仲間になってしまう」 という言葉を、ご紹介してゆきましょう。
「専門的な軍事ジャーナリストたちが ずいぶんたくさんメディアに登場しているけれど、 彼らにはある種のプライドがあって・・・。 なんか、一蓮托生になってしまうんですよね。 大衆の知る欲望の構造が生んだ ひとつの結果なのかもしれないけど、 軍事なら軍事のことを、知ることによって、 やっぱり、アメリカの軍事側と同一化してしまう。 軍事ジャーナリストが、 まるで自分が米軍の人間であるかのように 報道してしまうというのが、ありがちなんですね。 『知ることで仲間になってしまう』というか。 『知ることで仲間になる』って いろんな局面の情報に言えていて、 仲間意識みたいなものが出て、 『同じ趣味だとイイ人だね』 みたいに、思いこみがちじゃないですか。 でも、それって、おかしいですよね。 だから、ジャーナリズムは、知ったうえで、 対象と同一化しないで、さらに素朴な好奇心を 大切にして、距離感をとっていくということが、 けっこう問われる仕事なんですけど、 そうはなっていないでしょうね……。 専門家であるがゆえの盲点って、あると思うんです」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 知ろうとしすぎることで、 あまりにも対象に接近してしまい、 ミイラとりがミイラになるかのように、 対象と同一化してしまう。 知ることで仲間になりきってしまっては、 外側から見つめることの意味がなくなってしまう・・・。 そういうことって、戦争報道に限らず、 あらゆる取材で、おちいりがちなワナですよね。 その結果、証拠のない情報が流されたり、 たくさんある情報のなかの重要度を見失ったりする。 そのあたりを、気をつけるには、どうするか? そろそろ、「ポジション・トークに気をつけて」という 表題とおりの話に、なってゆきますよ。 すべての人にはポジションがあるけれど、 あまりにもそのポジション・トークが見えやすいのが 戦争報道の場であり・・・という、話の流れになるんです。 (つづく) |
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