糸井 | 為末さんのツイート、 ぼくはずっと読んでますよ。 |
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為末 | ありがとうございます。 |
糸井 | 読みながら、そのときどきで いろんなことを思うんですけど、 まず、おおもとのところで 興味を持ったというか、 しみじみ感じたのは、 為末さんは、こんなにしゃべらなければ ならなくなった理由があるんだろうなぁ、 ということでした。 |
為末 | ああー、なるほど(笑)。 |
糸井 | ぼくは、いろんな人に会いますけど、 スポーツ関係の人っていうのは、 ただの世間話だけでも 気持ちよくやりとりできるんですね。 「いやー、最近、たいへんで」みたいに。 |
為末 | うん、うん。 |
糸井 | だから、それだけでもおもしろく話せるんですが、 アスリートの方って、 じつは隠し持ってる考えがすごくたくさんある。 ですから、ある角度でお訊きすれば、 「ああ、そんなに考えてたんだ!」 っていうことだらけなんですよね。 その点、為末さんの場合は、はじめから、 隠すことなどないかのようにしゃべってる。 それが仕事だと決めてるともいえるんですけど、 なんというか、運命として そうなったんじゃないかと。 たとえば、ケガをされたりとか。 |
為末 | ああ、そうですね。 |
糸井 | まぁ、そういうところからはじめましょうか。 つまり、どうして、しゃべるんでしょう? |
為末 | なんなんでしょうね(笑)。 たぶん、子どものときから たくさん話すほうだったと思うんですけど、 とはいえ、加速した気もするんですね。 |
糸井 | 明らかに、してますよね。 |
為末 | ええ。それはなんなんだろうな、と。 まあ、現役のころだったら、 ぼくらの表現というのは 本来、トラックでやるわけなんですけど、 それが、ケガとかスランプとかで うまくできなかったりとか、 とくに、現役の終盤のころには、 なかなかうまくいかないことも多くて、 そういうときに、こう、 溜まったフラストレーションが ことばとしての表現に向かう というのはあると思います。 あと、インターネット上で交わされる 相互のやりとりというのが 加速させたという気もしますし、 ただ、まあ、いずれにせよ、 興味があったんでしょうね、表現に。 |
糸井 | インターネットがなかったら、 選手がしゃべる場所って、 取材される以外にはあんまりないですよね。 そのころはどうしてたんですか。 |
為末 | ぼくはブログをはじめたのが2004年なんで ちょうど10年前なんですけど、 それがなかったころは、たぶん、 まわりにぶちまけてたんでしょうね(笑)。 |
糸井 | まわりの人に。 |
為末 | チームメイトとかに、 こうやったら速く走れるんだとかなんとか、 ずーっと言ってたんじゃないかと 思うんですけどね。 |
糸井 | それは、同じ競技をしてる人は とてもおもしろいと思うんですけど。 |
為末 | ええ。 |
糸井 | どうでした、まわりは。 |
為末 | 反応ですか。 なんていうんですかね、ぼくは、 相手が「わかった、わかった」って言っても 物足りない、みたいなところがあって、 十分聞いたっていうのに、 さらに追っかけて行って、 話しちゃうみたいな(笑)。 |
糸井 | はいはいはい(笑)。 |
為末 | そういうのは、あったでしょうね。 |
糸井 | やっぱり、まぁ、軽く、 「変人」というジャンルに入るんですかね、 周囲からすると。 |
為末 | そうなんでしょうね、きっと(笑)。 |
糸井 | はははは、たぶんそうでしょうね。 |
為末 | 15歳のとき、1991年の世界陸上があって、 カール・ルイスの走りが解析されたんです。 それで出たデータがすごくおもしろくて。 それまで、ぼくら陸上の選手は、 膝とか足首をうまく回転させて ぜんぶを上手に使って走れ、 って習っていたんですが、 カール・ルイスは、膝も足首も固めて、 足をこう、一本の棒にして走ってるというのが 研究でわかったんです。 それで、びっくりして、興奮して、 学校中で、そのカール・ルイスの走りを ぼくは話していくわけです。 |
一同 | (笑) |
為末 | まぁ、陸上部の子は、まだしも、 陸上と関係ない子なんて、 カール・ルイスがどう走るかなんて 知らないよ、って話ですけど、 でも、それに興奮して、 ずっと話してたのを覚えてて。 そのあたりに、もう兆しがあるかもしれません。 |
糸井 | 大いにありますね(笑)。 それは、どういう気持ちなんでしょう。 発見がうれしくて、もう、 みんなに伝えたいわけですか。 |
為末 | じぶんの教科書とちがう事実が、 カール・ルイスの走りからわかったので、 これはとんでもないことが起きたという思いと、 もう一方で、これでぼくは もっと速くなれるかもしれないと思いがあって。 |
糸井 | あーー、なるほど。 |
為末 | そういういろんな興奮で当時は 誰彼構わずしゃべってたんだと思うんですけど、 もっと大人になってからの話でいうと、 ぼくら陸上の選手にとっては、 「言える」ということが、 なんというか、ひとつ、大きなことなんです。 つまり、走ったり跳んだりすることって、 体のことなんで、選手本人も、 ぜんぶを「言える」わけじゃないんです。 言えないんだけど、でも「できる」とか、 意識してないんだけどできちゃう、 そういうことがけっこうあったりするんです。 そういうときに、「言えた」と同時に、 意識しないでやってたことが、 意識的に「できる」ようになることがあって。 |
糸井 | はーー、おもしろい。 |
為末 | ぼくにとっては「言える」、 「表現できる」ということと、 「できる」ということが、なんかこう、 スパイラルするみたいな感じで どんどん上がっていくんですよね。 体が先にできる、ということもあれば、 体がやってるんだけど、「言えた」瞬間に、 あ、そうそう、そういうふうに動いてたんだ、 って「わかる」瞬間があったりして。 |
糸井 | 「言える」が「できる」につながるわけですね。 |
為末 | ええ、そうです。 |
糸井 | それはうれしいですよね。 |
為末 | だから、「言えた」とか、 「ここに表現できた」ということは、 それが「できる」かもしれない、 ということで、なんか、そういうのが うれしかったんだと思いますけど。 |
糸井 | 「言えた」けど、ちがってた、 ってケースもあるわけですよね、また。 |
為末 | あ、それはありますね。 |
糸井 | それもまたうれしいわけですよね。 |
為末 | そうです、そうです。 そうじゃなかったということが 「わかる」という点で。 |
糸井 | あるいは、こんなに言えてたのに、 「できなかった」というところで、 限界を感じることもできるし。 |
為末 | ああ、そうですね。 |