糸井 | 陸上競技がある種のアートだとすると、 ひとりひとりの選手は じぶんという素材をフルに活用して、 「その素材が劣化したら 新しい作品はできない」 っていうアーティストですよね。 |
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為末 | そうですね。 だから、引退するときは、 老後がすごく早くきちゃった、 みたいな感覚がありました。 |
糸井 | あー。 |
為末 | 陸上選手って、だいたい二十代中盤くらいから 「老いる」という感覚を味わっていくんですね。 体がちょっと固くなったり、 回復が遅くなったりという感じで。 そうすると、だんだん体が 思うように動かなくなる「かなしさ」と、 いましかできないことを最大限に やっているという「よろこび」が セットになってやってくるんですよ。 それは、まぁ、強烈な体験ですね。 |
糸井 | 強烈でしょうね。 とくに、トップクラスになればなるほど。 それは、やっぱり「死」に近いというか。 |
為末 | いや、そう思います。 |
糸井 | ぼくの知ってる野球選手で 田口壮さんという人がいるんですけど、 田口さんは、選手生活の晩年にケガをして、 手術をして、リハビリをしながら ずっとオファーを待ってたんですが、 けっきょく行く道がなくて引退されたんです。 そのときに、よくない表現かもしれないけど、 やっぱり「死に近いもの」を感じました。 スポーツの選手って、二度死ぬんだな、って。 |
為末 | たぶん、どの選手も、引退に向かうとき、 「ぼくの競技人生はいったいなんだったのか」 ということと向き合うんだと思います。 もちろん、客観的にじぶんを判断して、 「もう、現役を続けるのは厳しいな」 ということはわかるんですけど、 もしかしたら、あと一回くらい、 「あの体に戻れるんじゃないか」 という希望もかすかにあって、 それが最後まで消えないんです。 その希望の割合は、時とともに どんどん小さくなっていくですけどね。 |
糸井 | はーー。 |
為末 | そのときに、やっぱり、意味を考える。 じぶんの競技人生は、 いったいなんだったのかと。 ぼくはまだ人が亡くなる局面に はっきり直面したことがないんですが、 本の中などで、亡くなる人の遺書とか、 死ぬ間際の心理のこととかを読むと、 けっこう、競技人生の終わりと 近いものを感じます。 こう、終わりに向かって、 じぶんの整理をしていくような感じとか。 |
糸井 | やはり、そこでひとつ、終わって、 別の人生がはじまるわけですね。 |
為末 | はい。 |
糸井 | それの二度目の生き方が、 別のすばらしさを得たとしたら、 競技を観ていた人もすごくうれしいでしょうね。 |
為末 | それはそうでしょうね。 |
糸井 | ぼくがいま、話しながら思い浮かべたのは、 被災地の人たちだったんですよ。 被災地の人たちと会っていると、 失ったつらさ、なくしてしまったかなしさ というのはもちろん感じるんですが、 別のことに向かって歩き出している 強さみたいなものも、すごく感じるんですよ。 |
為末 | ああーー。 |
糸井 | あれだけのことに遭遇して、 なおかつ前を向いて、 また積み上げていくっていうのは、 すっごいんですよ、やっぱり。 それを見るときのぼくらの視線というのは、 こう、なんというか、 ありがたいんですよ。 |
為末 | うーん。 |
糸井 | だから、被災地の人たちに対して、 根っこのところに、 いつも尊敬の気持ちがあるんです。 それは、いま、為末さんの話を聞いていて 逆に整理ができた。 |
為末 | なんていうんですかね、 まぁ、すごい不条理というかね、 理不尽だなって、思うことがあるんです。 たとえばあるとき、大きなケガをする。 しばらく愕然とするんですけど、 そこからまた積み上げていくしかないから、 淡々とリハビリをしていく。 でも、スポーツの現場って、 リハビリして、リハビリして、 やっと競技に復帰できた選手が、 最初の試合でまたケガをすることって ときどき、あるんですね。 そういう選手が、次の週ぐらいに、 前と同じリハビリ室で、 また同じリハビリをやってるの見たりすると、 これは‥‥なんなんだろう? っていうことを思うときがあって。 |
糸井 | あああ。 |
為末 | ぼくはそこまで激しいケガはしませんでしたが、 やっぱり、積んできたものが なんの理由もなく、ガーッと崩されて、 崩されたあとに、またイチから積んでいく、 っていう姿を思い浮かべると、 まったく同じだとはいいませんけど、 被災地の方に通じるものがあるのかなと。 |
糸井 | そういうふうに、 淡々と積み上げていくことって、 じぶんにはとてもできない、って思うけど、 実際にそうなったらやるしかないというか、 じぶんも淡々とそうしちゃうんじゃないか っていう気もするんです。 |
為末 | ええ、ええ。 |
糸井 | もしかしたらじぶんもできるのかも、 って思う理由がひとつあって。 震災の直後に被災地に行くと、 向こうの人たちが、 ご飯をごちそうしてくださるんです。 ぼくらとしては、支援するつもりなのに、 ごちそうになっちゃいけないんじゃないか、 という思いがあるわけです。 ところが、被災地の人たちは、 「ごちそうしたいんだよ」って言うんですね。 それは、ぼくのなかで、 いろんなこと考えるときの原点になっていて。 人って、じぶんを生かすためのエネルギーを ただただ吸収してるだけの生き物じゃなくて、 「人を生かす」ことを、やりたいんですよ。 それがもう、本能に組み込まれている気がする。 逆に、「そこはやんなくていいから」 って言われたら、すごくつらいと思う。 |
為末 | うん、うん。 |
糸井 | 「ごちそうしたいんだよ」っていう、 その言葉に込められた「ほんとう」に、 ぼくはいろんなものを思い出させてもらった。 なんか、ちょっとね、ラクになったんですよ。 だから、それからは、 どんどんおごらせてあげるようにした(笑)。 |
為末 | ぼくらも、震災のあと、被災地に行って、 子どもたちに陸上のことを いろいろ教えてたりしていたんですけど、 あとから、手紙をもらったりすると、 「じぶんたちが手づくりしたストラップを 選手の人たちが受け取ってくれて、 身につけて『ありがとう』と 言ってくれたのがすごくうれしかった」 って書いてる子がすごく多かったんです。 |
糸井 | それ、「ごちそうしたい」と 同じじゃないですか。 |
為末 | そうなんですよ。 だからなんか、人って循環するっていうか、 やっぱり、感謝して、される、 っていうふうに、ぐるっと回ってないと きっとダメなんでしょうね。 |
糸井 | やせ我慢じゃなくてね、 もっとやわらかい気持ち、 人はありがとうって言われたい、っていうか。 |
為末 | うん。 |
糸井 | 歳とってくると、 ますますそうなってくるんですよ。 じぶんができることの限界は知ってますし、 あと、ほしいものが減りますから。 |
為末 | ああ、なるほど。 |
糸井 | じぶんがおいしいご飯を食べるのもいいけど、 ごちそうしたご飯を おいしく食べてる人がいるほうが、 じぶんがうれしい、みたいになっていく。 でも、そういう気持ちは、 ちっちゃい子どものなかにも ちゃんとあるような気がするなあ。 |
為末 | 2つあるのかもしれないですね、段階が。 「生物」として生きてるという段階と、 「人」として生きてるという段階と。 |