大瀧 |
卒業して、即、ここ
(三木鶏郎企画研究所)に就職ですか。 |
竹松 |
卒業するちょっと前ぐらいに、
鶏郎先生に、卒論が賞をいただいたので
「おかげさまで、賞をいただきました。
ありがとうございました」
とお手紙を書いたら、
「サイパンから帰ったら、また会いましょう」
とお葉書をくださって。
社交辞令みたいなものでそれっきりかな、
と思っていたら、本当にお電話をいただいて、
「お会いましょう」ということで、
ところがお約束した前日に、
先生が心筋梗塞で倒れてしまったんです。 |
糸井 |
ほぉー‥‥ |
竹松 |
大丈夫かしら‥‥と思っていたら、
マネージャーさんが、
「お見舞いがてら、病院に来る?」
と連絡をくださって。そこで、
鶏郎先生から、手伝ってくれませんかと。
今まで書いてきたものをまとめたりとか、
その当時、コンピュータもやろうと
いうところだったので、
「そういうことでやっていきたいんだけど、
時間があったら手伝わない?」
「じゃ、時間の空いているときに行きます」
「君、就職はどうするの?
就職しないんだったら、
時間があるときでいいから、手伝いに来て」
と。最初は、1時間でも2時間でもいいと
言っていたんですけど、
だんだんやることが増えてきてしまって‥‥ |
大瀧 |
フフフ。 |
竹松 |
私は当時音楽活動をしていたんですが、
それを終わりにして、
なにか違うことをやろうと思っていたので、
「ここでちょっとお手伝いしてみようかな」
という気持ちになったんです。 |
糸井 |
鶏郎さんが倒れなければ、
就職じゃなかったんだね。
ただ、ご飯、食べただけかもしれないんだね。
うわぁー‥‥! |
大瀧 |
起きるんだよね、そういうことってね。 |
糸井 |
向こうもそういう人が必要かもしれないけど、
言い出すのが難しいですものね。 |
大瀧 |
そう、そう。言いそびれる可能性が高いよね。
やっぱり、若い身空である身を、
自分の整理のために当てていいものかと、
絶対、年寄りは悩みますよ。 |
糸井 |
うん、そう思うと思うよ。
‥‥でも、倒れれば言えるよね(笑)。 |
大瀧 |
そう。倒れたから、ついつい、
言っちゃったんだね。
‥‥これはいいところに来た、
みたいな感じでね(笑)。 |
竹松 |
その前にも‥‥卒業する前にも一度‥‥
鶏郎先生がマックでオーケストレーションを
しているときに、戦時中に書いた人形劇団の
楽曲をオーケストレーションし直して、
打ち込みをやっていたんですね。
その当時、人形劇をやって戦地に行って
亡くなった人たちを追悼するために、
コンピュータで作った音楽を、
みんなで聴きながら思い出そうじゃないか、
という会を企画していて、
「その音を作るのを手伝わないか」
ということで、卒業前に一度、呼ばれていて。 |
糸井 |
音楽的な仕事をやってもらえる人だと
いうことは、よくわかっていたわけだね。 |
大瀧 |
そう思えば思うほどね、
なかなか言い出しづらい。
‥‥それは、すごい話だね。 |
糸井 |
きっと、作っている最中には、
自分のやった様々な仕事を
整理するなんてことは、
思いもよらないタイプの人
だったんでしょうね。 |
大瀧 |
まぁ、大抵、あまり、やってすぐに
サッと箱に入れるというタイプの人は
いないね。そういう人は、
あまりいろんな仕事をやらないよ。 |
糸井 |
そうか‥‥そうだね。 |
大瀧 |
うん。大抵、投げて、後ろの人が整理する、
というようなタイプの人でないと、
数はやれないし、長くやれない。 |
糸井 |
膨大ですものね。 |
竹松 |
ええ。すごいですねぇー。 |
糸井 |
で、その膨大な鶏郎さんの作品が
与えた影響というか‥‥
なぜ、あまり、
名前を聞かなくなったんだろう。 |
大瀧 |
だから、今、認知度が無いということは、
もう、地下に染み込んだということなんだよ。 |
糸井 |
そうかもしれない!
大瀧さんは、鶏郎さんのことは
意識してずーっと‥‥? |
大瀧 |
いや、なんにも知らないですよ。 |
糸井 |
ほんとですか! |
大瀧 |
無縁ということはないでしょうけど。
どっかでは、知ることになっていたと
思うんですけど、
大森さんに声をかけていただいて‥‥ |
糸井 |
それはいつのことですか。
大森さんも長い人ですから。 |
大森 |
ウフフフ。 |
大瀧 |
1973年の1月です。 |
糸井 |
ということは、
まだ、バリバリに活動しているときですよね。
大森さんが‥‥ |
大森 |
そう、“ON”をスタートしたその年。
72年にスタートしたんだけど、
本格的なのは73年。 |
糸井 |
大森さんが“三ツ矢サイダー”の
CMを手がけたのはいつなんですか? |
大森 |
72年の末からですね。 |
糸井 |
あ‥‥その機会!? |
大瀧 |
そうだよ。
73年のジャスト20年前に、
鶏郎さんが、三ツ矢サイダーの
テレビCMを作っていたの。
20年後に俺が現れたわけ。 |
糸井 |
成人したんだね、三ツ矢サイダーが。 |
大瀧 |
三ツ矢サイダーを作ると思って、
“はっぴいえんど”を3年も
やってたわけじゃないんだよ。
たまたまなんだから。初CMだもの。 |
糸井 |
面白いなぁー!
あれは70年代だったんだ! |
大瀧 |
70年代と言わないでよ。73年だよ。 |
大森 |
世の中に発表したのは‥‥
オンエアしたのは、73年。 |
大瀧 |
君が佐世保で暴れていた頃の
2年後ぐらいだよ。 |
糸井 |
いや。もう、違うんですよ。
68年には学校を辞めてますから。
73年はね‥‥仕事してますね。
で、一視聴者として、
“はっぴいえんど”のレコードを買ったり、
サイダーのコマーシャルを見たりして‥‥ |
大瀧 |
もう、なんかやっていたでしょ。 |
糸井 |
「なんか‥‥やれないんだろうな」
と思っていた時代ですね。
「ま、いいか」みたいな。 |
大瀧 |
そう。‥‥そんなに、キャリア遅いの?
‥‥同い年だからね、こう見えて。 |
糸井 |
73年というのは仕事をはじめて
4年後だから‥‥あ、わかった、わかった。
「もう、このまま、のんびりと
やるんだろうなぁ」みたいに思ってた。
いちお客さん、ですね。
コンサートとか、いっぱい行っていてね。
それこそ、吉祥寺のライブハウス、
100人ぐらい入れてる所で、
山下達郎と吉田美奈子が一緒にやってます、
‥‥みたいなのを、列に並んでね。
「整理券、出してるんだよ」
「えーっ、整理券かぁー」‥‥って。 |
大瀧 |
えー? こう見えても
糸井さんとは同い年なんだよ。
5つ、6つ下の‥‥ |
糸井 |
バンドやってるコはやる側だけど、
ロックを聴いてる人数というのは、
‥‥あんまりいなかったの。じつはね。
みんなが聴いていたみたいに
思っているけど。 |
大瀧 |
ええ。いませんでしたね。 |
糸井 |
ライブハウスに行く人数も、
120人で充分満員じゃない。 |
大瀧 |
そう。その人たちがあちこち行ってるだけね。
動いてるだけでね。 |
糸井 |
そう、そう。その120人の端っこにいた、
コピーライターになりかけの奴、ですよ。 |
大瀧 |
えー?! じゃ、
三ツ矢サイダーのときには、
まだCMとか何もやってないの? |
糸井 |
とんでもないですよ。 |
大瀧 |
ゲッ!‥‥じゃあ、CM業界じゃ、
俺のほうがキャリア長いんじゃない。 |
糸井 |
もちろん、もちろん。 |
大瀧 |
そう?! いや、それ、全然知らなかった。 |
糸井 |
僕が大森さんと知り合ったのは
80年に近くなっている頃ですよね。
だって、矢野顕子はもう
デビューしてましたからね。 |
大瀧 |
「春咲小紅」は81年か。
‥‥糸井さんは「TOKIO」でしょう。 |
糸井 |
「TOKIO」が80年ですね。
「TOKIO」をやる前に
大森さんに会っていて、
あっこちゃんと初めて仕事をしたのは
79年とかですよね、きっとね。 |
大森 |
北海道のams西武ですね。 |
大瀧 |
あれが、最初? |
糸井 |
うん。 |
大瀧 |
僕はCMは77年でサイダーを終わってる。 |