大瀧詠一さんと、トリロー先生の話を。-三木鶏郎を知ってるかい? PART2-
第2回 ビートルズがやってきた!

── 鶏郎先生が、仕事としての音楽のほかに、
趣味としての音楽を
やっていたということについて、
「自分たちにも共通点がある」ということを、
お聞かせ願えたら、と思うんですけど。
細野 うん。そうだね。ポップスをやっていると、
交響曲とかに、憧れというのは
あるんですよね。
聴くのは、もう、
分け隔てなく聴いているわけでしょ、
われわれは。
でも演奏するときは、一人だから(笑)。
‥‥交響曲はできないから。
竹松 あぁ‥‥そういう点で言うと、
鶏郎先生もマックを手に入れたことで、
一人で交響曲ができるようになったんです。
細野 そう。コンピューターがあるからできるわけ。
竹松 ‥‥誰を呼ばなくても、
一人でオーケストラをすることが
できるというのがなによりの喜び、
ということはよく話してました。
細野 そう、そう! そうでしょう。
きっと同じ気持ちで‥‥。
慶一 人を呼んだら、お金がかかっちゃうものね。
竹松 そうですね。でも、
コンピューターなら好きにできるし‥‥
細野 好きにできるし、誰も文句を言わないし。
慶一 10時間、ドラムやってくれるし。
竹松 何をリクエストしても応えてくれるし。
ほんとに忠実なミュージシャンが
自分の手元にあるということは、
最高の‥‥三種の神器じゃないけど(笑)。
細野 そう、そう。もう、おもちゃですよね。
竹松 ほんとですよね、そういう点で言うと。



── さっき、大森さんも、
鶏郎先生がコンピューターで音楽を
やっていたことを知らなかった、と。
鶏郎先生のところの卒業生のみなさんは
誰もそのことを知らなかっただろう、と。
細野 ひっそりとやっていたんだ。
慶一 私も知らなかったしね。
── 先生がコンピューターを買われたのは
何年でしたっけ?
竹松 87年ですね。
── じゃ、まさしく、これを作った年ですね。
独学でいらした?
竹松 独学というか‥‥
マニュアルが昔はこんなに厚くて、
しかも英語でしたから読んでもわからない。
でも、手当たり次第にやると、
「オープン」と書いてあるから開くんだ、
とか、
そういうふうに使っていましたね。
マッキントッシュというのは
そういう点で使いやすかったのだと思います。
細野 マックはそうだね。
竹松 ただ、後でマニュアルを忠実に読んでみると、
「あー、なんだ、
 こんなに易しいやり方があったんだ」
と(笑)。
細野 それはいまだに僕たちも一緒なんだよ。
マニュアルを読まないでやってるから。
慶一 読まないね。
読んでもわからないことがいっぱいで、
余計わからなくなっちゃう(笑)。
細野 ショートカットとか、
いまだに僕もわからない。
人のを見て覚えたり、さ。
慶一 「あっ、このショートカット、あったんだ!」
‥‥なんてね。
細野 そう、そう。
── フフフフ
竹松 コマンド入力ではなく、
必ずマウスを使っていましたね。
慶一 鶏郎先生の映像資料を見たら、
マウス、すり減っていましたよ(笑)。
── 同じくらいの時期に
鶏郎先生も、細野さんも慶一さんも、
同じことをなさっていたということですよね、
細野 マックが現れたのも84年ぐらいだし。
僕たちはPCを使ってたけど、
スタートは同じ感じですよね。
だから、気持ちがよくわかる。
── 先生は、当時の細野さんたちの音楽は
聴いていたのでしょうか。
竹松 ええ、もちろん!
細野 あっ、聴いていたの?!
竹松 もちろん。YMOとか。
細野 ああ、そういう音色が‥‥片鱗があるよね。
竹松 FM放送のエアチェックをしたりして、
テクノポップなるものがどういうものかとか、
そういうことはとっても興味がありましたよ。
細野 ほぉー! それはすごいな。
普通、無視するんですよね、大先生は。
竹松 鶏郎大先生の場合は、
ほんとになんでも聴いて。
細野 そこがすごいと思う。
竹松 ‥‥今はなにが流行っている、と。
それで、コンピューターをやるにあたっても、
今の若い方たちがやっているのは
どういうものかを研究なさって。
細野 それは、すごいことだよ。
慶一 鶏郎先生のCD棚に、XTCがありましたよ。
細野 ああ、そう! 素晴らしい。
極力、自分の知識の中に入れて、
ポイントポイントを取り入れようとする姿勢を
感じますよね。



── さっきの「TOKKYU ROCK」という
タイトルですが、
それは後から付けたんじゃなくて、
当時、先生がそうおっしゃっていたんですか。
竹松 保存をするときに、そう名付けたんですね。
当時は、日本語の書体が入っていないので、
アルファベットで保存しなければ
ならないので。
細野 わかるよ、これも。
保存するときに適当な名前を
付けちゃうんですよ。
慶一 そう、そう、そう。
── 「TOKKYU ROCK」と名前を付けた
心があるわけですよね、先生の。
細野 ああいうビートをやっているっていうのも、
すごいことだよね。
慶一 タターンタターンターンターン、だよね。
── ロックと鶏郎さんというのも、
ぴんと来ないような感じがするんですけど。
竹松 でも、ビートルズがすごく好きでしたし。
細野 そうだろうね。
竹松 ‥‥ビートルズが出てきたことで
すごくショックを受けたんです。
鶏郎先生にとってのロック革命は
ビートルズではないかな、
と私は思うんですけど。
細野 あのね‥‥同時代に重なる所があるでしょ、
僕たちと三木先生と。
そこの体験はまったく同じだと思うんだよね。
同じミュージシャンとしてね。
ビートルズを聴いてびっくりすることとかね。
真似したくなることとか、研究したいとか、
まったく同じ道を歩んでいたんだと思う。
今、思えば。
慶一 そうね。年齢は違うけどね。
竹松 ああ、そうですよね。
細野 途中が同じ所がある(笑)。
慶一 限定するなら、60年代とか‥‥
── ‥‥に、同じ音楽体験を
しているということですね。
細野 そう。だからロックだって好きだろうし。
慶一 同じようにびっくりするんじゃないかな、
と思う。
竹松 ビートルズの武道館公演に行って‥‥。
細野 行ったんだ! そこは僕たちよりすごいね。
‥‥だって、行ってないもの(笑)。
竹松 ‥‥公演に行って、帰ってきて‥‥
私はその時代にいませんけど、
お家の方によると、
「とにかくすごいショックで、びっくりした」
と言っていたそうで。
ビートルズについて語る番組があったときも、
「とにかく曲が素晴らしい。
 演奏がどうこうというよりも、
 曲が素晴らしくって」と。
細野 その気持ちも、おんなじだ。
竹松 それで、「バロック的な感じがした」と。
「現代のバッハだ」と。
「こういう人たちが出てきたのでは、
 自分は作曲家として
 これから進んで行っていいのか。
 こういう人気の人が出てくると、
 自分の音楽はどうなのか」ということで、
そこに何かひとつ思うところができた、
という大きな流れが‥‥。
細野 それは、エスタブリッシュされた人の
考えだよね。
われわれは若かったから。
大森 そこから始まる、とね(笑)。
細野 ビートルズを聴いて、
「やったるぜ!」「やれるんだ!」と。
そこの違いがあるよね。年代として。
── 4人でここまでできるんだったら、
自分たちでもできるかもしれない‥‥と?
慶一 自分らは、まだ始めてないし‥‥。
そのきっかけになったんです。
竹松 そうか。
そこは大きな違いかもしれないですね。



佐藤 そういう意味では、
受け渡しをしているんじゃない?
そこできちんと。
ビートルズが来日した1966年あたりに、ね?
細野 そうですね。
竹松 極端に言うと、
「作曲の筆を投げた」という言い方を
しているので。
佐藤 そこからは鶏郎先生はほとんど
表に出てこないですよね。
コマーシャルも、
お付き合いの深いところのみの仕事で、
ご自分から積極的にということは
もう、やっていないですよね。見事に。
── ビートルズ来日の1966年に、
鶏郎先生はおいくつでいらしたんですか。
竹松 52歳ですね。
細野 年下だ‥‥僕より。
慶一 還暦なんて言ったら、もう、
完全に身を引く感じだったんだろうね。
佐藤 その当時は「人生50年」と
言われていたんですよね、まだ。
細野 ああ、そうだ。
佐藤 昭和40年代の前半ぐらいまでは
「人生50年」と言われて、
50になったら男は引退するか、
死ぬか、と言われていたんですね。
マキノ省三さんが51歳で亡くなって、とか。
竹松 鶏郎先生は42歳のときに糖尿病と言われて、
やはり「死の病」と言われていたような
時代なので、
50というのはあと8年後だ、という感覚が
すでにあったようですね。
── 世の中も50というのはそういう年だし、
そして、ビートルズがやってきて、
ショックを受け、
自分の中でも「ついに来た」と。
ものすごく大きな出来事だったんですね。
竹松 ええ、そうですね。


(つづきます!)


いつでも聴けるトリローラジオ
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『東京ランデブー』

作詞作曲:三木鶏郎
歌:三木鶏郎
再生して音が出るまでにしばらく時間がかかります。
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音が聞こえないときはこちらへ!
『ブギウギ列車』

作詞作曲:三木鶏郎
歌:丹下キヨ子
再生して音が出るまでにしばらく時間がかかります。
2006-09-13-WED
デザイン協力:下山ワタル
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