── |
鶏郎先生が、仕事としての音楽のほかに、
趣味としての音楽を
やっていたということについて、
「自分たちにも共通点がある」ということを、
お聞かせ願えたら、と思うんですけど。 |
細野 |
うん。そうだね。ポップスをやっていると、
交響曲とかに、憧れというのは
あるんですよね。
聴くのは、もう、
分け隔てなく聴いているわけでしょ、
われわれは。
でも演奏するときは、一人だから(笑)。
‥‥交響曲はできないから。 |
竹松 |
あぁ‥‥そういう点で言うと、
鶏郎先生もマックを手に入れたことで、
一人で交響曲ができるようになったんです。 |
細野 |
そう。コンピューターがあるからできるわけ。 |
竹松 |
‥‥誰を呼ばなくても、
一人でオーケストラをすることが
できるというのがなによりの喜び、
ということはよく話してました。 |
細野 |
そう、そう! そうでしょう。
きっと同じ気持ちで‥‥。 |
慶一 |
人を呼んだら、お金がかかっちゃうものね。 |
竹松 |
そうですね。でも、
コンピューターなら好きにできるし‥‥ |
細野 |
好きにできるし、誰も文句を言わないし。 |
慶一 |
10時間、ドラムやってくれるし。 |
竹松 |
何をリクエストしても応えてくれるし。
ほんとに忠実なミュージシャンが
自分の手元にあるということは、
最高の‥‥三種の神器じゃないけど(笑)。 |
細野 |
そう、そう。もう、おもちゃですよね。 |
竹松 |
ほんとですよね、そういう点で言うと。 |
|
── |
さっき、大森さんも、
鶏郎先生がコンピューターで音楽を
やっていたことを知らなかった、と。
鶏郎先生のところの卒業生のみなさんは
誰もそのことを知らなかっただろう、と。 |
細野 |
ひっそりとやっていたんだ。 |
慶一 |
私も知らなかったしね。 |
── |
先生がコンピューターを買われたのは
何年でしたっけ? |
竹松 |
87年ですね。 |
── |
じゃ、まさしく、これを作った年ですね。
独学でいらした? |
竹松 |
独学というか‥‥
マニュアルが昔はこんなに厚くて、
しかも英語でしたから読んでもわからない。
でも、手当たり次第にやると、
「オープン」と書いてあるから開くんだ、
とか、
そういうふうに使っていましたね。
マッキントッシュというのは
そういう点で使いやすかったのだと思います。 |
細野 |
マックはそうだね。 |
竹松 |
ただ、後でマニュアルを忠実に読んでみると、
「あー、なんだ、
こんなに易しいやり方があったんだ」
と(笑)。 |
細野 |
それはいまだに僕たちも一緒なんだよ。
マニュアルを読まないでやってるから。 |
慶一 |
読まないね。
読んでもわからないことがいっぱいで、
余計わからなくなっちゃう(笑)。 |
細野 |
ショートカットとか、
いまだに僕もわからない。
人のを見て覚えたり、さ。 |
慶一 |
「あっ、このショートカット、あったんだ!」
‥‥なんてね。 |
細野 |
そう、そう。 |
── |
フフフフ |
竹松 |
コマンド入力ではなく、
必ずマウスを使っていましたね。 |
慶一 |
鶏郎先生の映像資料を見たら、
マウス、すり減っていましたよ(笑)。 |
── |
同じくらいの時期に
鶏郎先生も、細野さんも慶一さんも、
同じことをなさっていたということですよね、 |
細野 |
マックが現れたのも84年ぐらいだし。
僕たちはPCを使ってたけど、
スタートは同じ感じですよね。
だから、気持ちがよくわかる。 |
── |
先生は、当時の細野さんたちの音楽は
聴いていたのでしょうか。 |
竹松 |
ええ、もちろん! |
細野 |
あっ、聴いていたの?! |
竹松 |
もちろん。YMOとか。 |
細野 |
ああ、そういう音色が‥‥片鱗があるよね。 |
竹松 |
FM放送のエアチェックをしたりして、
テクノポップなるものがどういうものかとか、
そういうことはとっても興味がありましたよ。 |
細野 |
ほぉー! それはすごいな。
普通、無視するんですよね、大先生は。 |
竹松 |
鶏郎大先生の場合は、
ほんとになんでも聴いて。 |
細野 |
そこがすごいと思う。 |
竹松 |
‥‥今はなにが流行っている、と。
それで、コンピューターをやるにあたっても、
今の若い方たちがやっているのは
どういうものかを研究なさって。 |
細野 |
それは、すごいことだよ。 |
慶一 |
鶏郎先生のCD棚に、XTCがありましたよ。 |
細野 |
ああ、そう! 素晴らしい。
極力、自分の知識の中に入れて、
ポイントポイントを取り入れようとする姿勢を
感じますよね。 |
|
── |
さっきの「TOKKYU ROCK」という
タイトルですが、
それは後から付けたんじゃなくて、
当時、先生がそうおっしゃっていたんですか。 |
竹松 |
保存をするときに、そう名付けたんですね。
当時は、日本語の書体が入っていないので、
アルファベットで保存しなければ
ならないので。 |
細野 |
わかるよ、これも。
保存するときに適当な名前を
付けちゃうんですよ。 |
慶一 |
そう、そう、そう。 |
── |
「TOKKYU ROCK」と名前を付けた
心があるわけですよね、先生の。 |
細野 |
ああいうビートをやっているっていうのも、
すごいことだよね。 |
慶一 |
タターンタターンターンターン、だよね。 |
── |
ロックと鶏郎さんというのも、
ぴんと来ないような感じがするんですけど。 |
竹松 |
でも、ビートルズがすごく好きでしたし。 |
細野 |
そうだろうね。 |
竹松 |
‥‥ビートルズが出てきたことで
すごくショックを受けたんです。
鶏郎先生にとってのロック革命は
ビートルズではないかな、
と私は思うんですけど。 |
細野 |
あのね‥‥同時代に重なる所があるでしょ、
僕たちと三木先生と。
そこの体験はまったく同じだと思うんだよね。
同じミュージシャンとしてね。
ビートルズを聴いてびっくりすることとかね。
真似したくなることとか、研究したいとか、
まったく同じ道を歩んでいたんだと思う。
今、思えば。 |
慶一 |
そうね。年齢は違うけどね。 |
竹松 |
ああ、そうですよね。 |
細野 |
途中が同じ所がある(笑)。 |
慶一 |
限定するなら、60年代とか‥‥ |
── |
‥‥に、同じ音楽体験を
しているということですね。 |
細野 |
そう。だからロックだって好きだろうし。 |
慶一 |
同じようにびっくりするんじゃないかな、
と思う。 |
竹松 |
ビートルズの武道館公演に行って‥‥。 |
細野 |
行ったんだ! そこは僕たちよりすごいね。
‥‥だって、行ってないもの(笑)。 |
竹松 |
‥‥公演に行って、帰ってきて‥‥
私はその時代にいませんけど、
お家の方によると、
「とにかくすごいショックで、びっくりした」
と言っていたそうで。
ビートルズについて語る番組があったときも、
「とにかく曲が素晴らしい。
演奏がどうこうというよりも、
曲が素晴らしくって」と。 |
細野 |
その気持ちも、おんなじだ。 |
竹松 |
それで、「バロック的な感じがした」と。
「現代のバッハだ」と。
「こういう人たちが出てきたのでは、
自分は作曲家として
これから進んで行っていいのか。
こういう人気の人が出てくると、
自分の音楽はどうなのか」ということで、
そこに何かひとつ思うところができた、
という大きな流れが‥‥。 |
細野 |
それは、エスタブリッシュされた人の
考えだよね。
われわれは若かったから。 |
大森 |
そこから始まる、とね(笑)。 |
細野 |
ビートルズを聴いて、
「やったるぜ!」「やれるんだ!」と。
そこの違いがあるよね。年代として。 |
── |
4人でここまでできるんだったら、
自分たちでもできるかもしれない‥‥と? |
慶一 |
自分らは、まだ始めてないし‥‥。
そのきっかけになったんです。 |
竹松 |
そうか。
そこは大きな違いかもしれないですね。 |
|
佐藤 |
そういう意味では、
受け渡しをしているんじゃない?
そこできちんと。
ビートルズが来日した1966年あたりに、ね? |
細野 |
そうですね。 |
竹松 |
極端に言うと、
「作曲の筆を投げた」という言い方を
しているので。 |
佐藤 |
そこからは鶏郎先生はほとんど
表に出てこないですよね。
コマーシャルも、
お付き合いの深いところのみの仕事で、
ご自分から積極的にということは
もう、やっていないですよね。見事に。 |
── |
ビートルズ来日の1966年に、
鶏郎先生はおいくつでいらしたんですか。 |
竹松 |
52歳ですね。 |
細野 |
年下だ‥‥僕より。 |
慶一 |
還暦なんて言ったら、もう、
完全に身を引く感じだったんだろうね。 |
佐藤 |
その当時は「人生50年」と
言われていたんですよね、まだ。 |
細野 |
ああ、そうだ。 |
佐藤 |
昭和40年代の前半ぐらいまでは
「人生50年」と言われて、
50になったら男は引退するか、
死ぬか、と言われていたんですね。
マキノ省三さんが51歳で亡くなって、とか。 |
竹松 |
鶏郎先生は42歳のときに糖尿病と言われて、
やはり「死の病」と言われていたような
時代なので、
50というのはあと8年後だ、という感覚が
すでにあったようですね。 |
── |
世の中も50というのはそういう年だし、
そして、ビートルズがやってきて、
ショックを受け、
自分の中でも「ついに来た」と。
ものすごく大きな出来事だったんですね。 |
竹松 |
ええ、そうですね。
(つづきます!) |