転機のとき。

第2回 身体の転機


昨日は、「恋愛の転機」を、
たくさんの方が読んでくださったみたいで、
ほんとうに、どうもありがとうございます。

今回も、かなりまじめなテーマではありますが、
「身体の転機」という切り口で、ご紹介していきますね。

病や、まわりの人の病や、妊娠など、
体調の変化が、大きな転機になった方っていうのが、
ほんとうに、たくさんいらっしゃるんです。

身体の転機を送ってくださった方のメールは、
どなたも、何度も考え直された内容を、
慎み深く送ってくださる、というのが印象的でした。

「最大の名誉は決して倒れないことではない。
 倒れるたびに起き上がることである(孔子)」

「人間は、必要に迫られると
 すぐに実力を発揮する(ピタゴラス)」


わたくし、デリバリー版番の「ほぼ日」木村としては、
そんな言葉を思いだしながら拝読していましたが、
みなさんの、この身体の転機をお読みになった後の感想も、
うかがえると、とってもうれしいです。

では、たっぷり、ご紹介してゆきましょう。







・ほぼにちわ。私の転機は、大学2年生の夏。
 自分の好きなバンドのコンサートに行った帰り、
 耳鳴りがすごくてとまらなかった。
 それでも、しばらくしたら治るだろうと合宿に行って。
 二日、三日たったけど、まだ、とまらない。
 これはおかしい。
 合宿を終えて、すぐ医者に行った。
 でも、「わからない」といわれた。
 病院に行っても病名不明、
 っていうことほど怖いものはなかった。
 はしごして、3件目で「無難聴性耳鳴り症」と言われた。
 本来、耳鳴りがなり続けるということは、
 耳のどこかが調子狂ってるわけで、
 放っておくと、いつか難聴へと向かう。
 でも、この病気の場合、原因は不明。
 いつか解決できるかもしれないし、
 いつか、難聴になるかもしれないらしい。

 ずーっと、この耳鳴りと
 これから一生暮らさなきゃいけないんだ。
 いつか、耳が聞こえなくなるかもしれないんだ。
 そう思うと、目の前が真っ暗になりました。
 ものすごく泣いて、一日中、荒れました。
 誰に何を怒ったところでどうしょうもないのに。

 会話は十分にできるし、
 聴力検査を受けても異常なし。
 むしろよく聞こえている方だといわれる、私の耳。
 今でも耳の奥では「キーン」という音がしています。

 もう、7年間、この耳と一緒に生きてますが、
 面白いことに、無理をすると耳鳴りが強くなります。
 翌日起きたら何も聞こえないかもしれない、と思いつつ、
 翌朝、普通に生活できている自分に感謝し、
 「耳鳴りが私を諭している、無理しちゃいけないんだ」
 と自分に言い聞かせ、一日生活しています。

 でも、耳をいたわらなきゃいけない、となって
 ふと身の回りを見てみると、音がたくさんあるんです。
 自分たちを守ってくれる大事な音。
 車のクラクション、歩行者用の信号の音、自転車のベル、
 ガスやセキュリティのセンサー、
 救急車・消防車・パトカーのサイレン…。

 でも、それをはるかに超える、音。
 パチンコ屋さんの店内放送が外に聞こえる一瞬、
 窓を閉め切った車の中から、外に歩いている人にまで
 聞こえるくらいのメタリックな音楽。
 通勤通学中の電車・バスの中で隣にたっている私に、
 聴いている曲がわかってしまうくらいの
 大きな音でイヤホンで聴く音楽。

 みんな、健康なときは自分の身体のことを考えないけど、
 なくしてしまってからでは、遅いもの、
 たくさんあるから、
 もっと自分をいたわってあげてほしいなぁ。
 (あい)



・転機のとき?
 私はいつだったかしらと思い返しました。
 一五歳の時に両足を骨髄炎に冒されて
 何十回もの手術のすえ、歩けない体になり、
 七年間家の中だけの生活でした。
 その頃ラジオで病院併設の
 東京身体障害者補導所の所長の話を聞きました。
 所長あてに手紙を出したところ
 「いらっしゃい」との返事が届きましたが、
 家族は無謀もいい加減にしなさいと大反対。
 でも私はこのまま
 家族のお荷物で一生を終わりたくない。
 東京駅の階段はお尻でずって降りれば何とかなる。
 這ってでも行けると説得し、
 たまたま電話工事でうちに暫く下宿していた人が
 東京に帰る事になり、
 その人と一緒に九州から上京しました。
 東京駅の階段はその人がおんぶして降りてくれました。

 それから色々なことがありました。
 大勢の方に沢山の親切を受けました。
 障害者補導所で知り合った人と結婚し今は孫もいます。
 あのラジオを聞いていなかったら
 今の私は居ないかも知れません。
 死ぬことばかりを考えていた日々…
 所長に手紙を書いたことで私の人生が変わりました。
 (よ)



・じつは昨日、妊娠していることが判りました。
 ケッコンして初めてのこと。
 わたしたち夫婦は同じ小さな会社で働いています。
 わたしは今の仕事が好き。
 周りにもどんなことがあっても続けたい
 と公言していました。
 でも、毎日だんなさんより遅いし
 ご飯もちゃんと一緒に食べられないし、
 夜疲れて遅く帰ってくるからか
 朝も早く起きれないし、すり減らしている自分と、
 そんな自分のせいですり減っているであろうダンナと、
 一緒の時を、過ごしてました。
 そんなときの、思い掛けない妊娠。
 やっぱりうれしいけど、でも
 どうしたら続けられるのか‥‥。
 そう考えると辛くってどうしていいか判らない。
 小さい会社がゆえに前例のないことだし。
 私達には母親がいないので頼れる場所もないし。

 でも。
 そんなふうに思うことを
 そのままだんなさんに言ってみたら
 これからさき自分の予想どおりにいくとは
 限らないから、今このときに、ベストで、
 こうしたいんじゃないか、って。
 まだまだ頑張れそうです。
 結婚してよかったな、と思いました。
 (kame)



・祖母は生まれつき左足がちょこっとだけ不自由です。
 一番軽度ですが、障害者手帳も持ってます。
 「男の子に負けないくらい
  かけっこも木登りもなんでもやった!」
 と自慢しますが、祖母が負けず嫌いだっただけで、
 本当はかけっこも木登りも
 祖母にとっては大変なことだったと思います。

 私が保育園の年少さんのとき、一度だけ
 祖母に朝の見送りをしてもらったことがありました。
 母がたまたま忙しかったか何かで
 「じゃあおばあちゃんが行くよ」
 という話になったと記憶してます。
 いつもなら間に合う時間に家を出たはずですが、
 保育園を目の前にした橋の上まで来たとき、
 始まりのチャイムが鳴ってしまいました。
 幼かった私は、何にも考えずに
 「おばあちゃんがおそいからだ!」
 と、泣いて叫びました。

 そのとたん、肩で息をするくらい
 急ぎ足だった祖母が立ち止まって
 「ごめんね」と言いました。
 そのとき私は、『おばあちゃんが泣く』と思いました。
 祖母は泣きませんでした。
 だけど、あのときの祖母の泣きそうな顔は、
 25年近く経った今でも忘れられません。

 その日一日、保育園でどんな風に過ごしたのか、
 覚えてもいないけど。
 家に帰っておばあちゃんに会うのが、
 こわかった気持ちは覚えてます。
 夕方に母が迎えにきてくれたときも
 (どうしようどうしよう)としか考えてなかった。
 でも、家で迎えてくれた祖母は
 あっけらかんとして、
 何もなかったように普段どおり優しかったのです。

 私はあの4つのとき、
 胸が痛むという気持ちを初めて自覚したと思います。
 人を傷つけるというのは、
 どんなにかどんなにか胸が痛いことかと知りました。

 今現在、祖母は健在で、
 私の一番の理解者で協力者ですが、
 私はまだ「あのときはごめんね」と
 言えないままでいます。
 いつか言おう、いつか言おう、と思っているのですが。
 なかなか言えないもんですね。
 祖母のように大きな愛情で
 「ゆるす」ということが出来る人間になれたか、
 というと疑問ですが、あのとき、
 了見が狭くてわがまま放題の幼児だった私は
 少し成長したんじゃないかなと思います。
 4才の転機。

 子どもって不思議な生き物だ、
 と大人になった今思ったりするけど、
 自分が子どものときだって、
 いろんなことを考えたり感じたりしていたんだなあと、
 このメールを書いていて思い出しました。
 高野文子さんの漫画を読んだときに
 感じる気持ちと似てます。
 (y)



・こんにちは。
 今、転機真っ最中です。
 厄年ってゆうのもありますが(後厄)、
 独り身になったのをきっかけに
 持病が爆発してしまいました。

 しかし、そんな私に
 グッとくる療法や先生がみつかったり、
 励ましてくれる友達がいてくれることに気づいたり、
 長く彼といたときよりバーンと世界が広がってきました。
 病気は治療中なので満身創痍なんです。
 でも、そんななかで思考がシンプルになってきて
 人生の方向性がみえてきたりしてきました。
 ニヤリ、とすることしばし。
 結婚をして、お嫁さんやお母さんに
 漠然となることを望んでいましたが、
 彼と会う前は、野望をもって生きていたように思います。
 でも、なんか傷のなめあいで彼といて、
 麻痺して、依存していたとおもいます。
 別れたことはショックだけど、病気も爆発したけれど、
 今がチャンスと思っています。

 しかし、ホントに痛い目を見ないと
 わかんないんですねぇ。
 病気で身体は毎日痛いんですが、
 向き合ってみると結構耐えられたりして。
 今までとはホントに病気に対しても
 自分の対応が違うとおもいます。!
 (tea)



・初めてメールします。
 転機の時、自分もその真っ只中にいるので、
 とても共感をおぼえました。
 現在28歳、大学を卒業するころは、
 もう就職難の時代でした。
 大学1年の時に父親が心筋梗塞で突然なくなりました。
 私は大学を辞めて働かなければいけないと考えましたが、
 母は女でひとつで、私、弟、妹を育ててくれました。
 それが出来たのは、手に技術をもっていたからだと。
 「何かあっても生きていける
  技術とか資格を身につけなさい」
 母はよく言っていました。
 私は、ある資格に魅力を感じ、勉強をはじめました。
 しかし、資格はとりたけれど、
 日常の様々な誘惑に負けてしまい、
 だらだらと、中途半端な気持ちのまま試験を受けて失敗。
 その後も数年、
 今年こそ頑張るぞ!という意気込みも長続きはせず。
 その意思の弱さが、ずっと心の奥底に
 しこりとなって残っていました。
 仕事も中途半端、勉強も中途半端。
 昔、想像していた28歳と、現実の28歳、
 理想と現実の狭間でだらだらと過ごす日々。
 このままではいけないと思いつつも、
 なかなか受験勉強の苦しみと向き合えないでいたり。

 そんなことが続いていましたが、
 一念発起して、また、受験勉強をはじめました。
 今までの後悔をなくすことができる唯一の方法は、
 できること、やれることをやるしかないと!

 クサナギくんのドラマを見ています。
 高校教師の役で余命1年と宣告されたドラマです。
 生徒達の前で、1冊の本を出して、
 「この本は1年前に読みたいと思って
  買った本だけれども、未だに読んでいない。
  その時は読みたいと思ったけれど、
  明日読もう、明日読もうと1年もたってしまった。
  たぶん、何もなかったら5年たっても
  10年たっても読まないだろう」
 こんな内容だったと思います。
 何かしようと思っただけでは、
 いつまでたっても変わらないし、前にも進めない。
 何かをしようと思ったら、まず、行動すること。
 それが大事なんですね。
 (もも)



・私事ですが、
 もうすぐ転機を迎えることになりそうです。
 子供を産んで復職してもうすぐ1年。
 家の子供は、体が弱いようで
 今週も保育園に一回も登園できていません。
 旦那が休んだり、私が休んだり、
 実家の母に泊りがけで来てもらったり。
 周囲の人の手を借りて、
 なんとかここまで仕事を続けてきました。
 今日は、旦那が午前中休みをとり、
 午後はたまたま他の用事で
 我が家に泊まりに来ることになっていた義姉に
 面倒を見てもらいます。

 子供が具合が悪くても
 側にいてやれない辛さももちろんですが、
 これから仕事が忙しくなっていく旦那が、
 会社を休めなくなること。
 「忙しい時は仕事を休まないでね」
 という言葉に重圧を感じてしまっていること。

 仕事は好きだし、自分でお金を稼ぎたいし、
 正社員を辞めることのもったいなさがあって
 ここまで続けてきましたが、長い人生の中で
 数年休んでも何とかなるんじゃないか。
 また、子供が元気に学校へ通える位大きくなったら、
 仕事の事を考えればいいじゃないか、と考えてます。
 母と昨日の朝、ベビーカーを押して
 病院へ向かう道すがらそんな事を話していたら、
 「長い人生の中で数年のことだもの。
  子育てに専念するというのもいいんじゃない。
  あなたの人生はまだまだ長いんだから」
 と言われました。
 そうですよね、35歳。
 まだまだ、先は長いから
 少し歩みをゆるめるのもありですよね。

 外は良いお天気のようですね。
 私は、窓のない部屋でPCに向かい、
 黙々とHPの更新作業をしているので、
 太陽の光を浴びに外へ出かけたいなぁ。
 ほぼ日の皆さんも、お忙しいんでしょうね。
 お体に気を付けて頑張って下さい。
 (直美)



・転機、というと、妹思いの友人を思い出します。
 友人というよりむしろ家族の一員という存在だった。
 ダンナにとっては、
 利害関係のないかけがえのない仲間。
 おちびたちにとっては、
 親とは違う目で見守ってくれる優しいおっちゃん。
 わたしにとっては、大事な男友達。
 その人がなくなって、2年が過ぎました。

 それまでにも身近な人が亡くなるというのは
 経験していたのだけれど、
 その友人はあまりにも唐突に旅立ってしまったので、
 この手で骨を拾ったというのに、いまもって、
 ふらっと遊びにくるんじゃないか、
 という気がしてなりません。

 どんなに近しい人とでも
 いつかは別れなくてはいけないこと。
 どんなに嘆き悲しんでも
 亡くなった人は戻ってこないこと。
 ないてもないても涙はかれてしまわないこと。

 当たり前のことだけど、
 初めてそれが本当のことだとわかった。

 友人の妹君とはそれ以来
 手紙やFAXをやり取りするようになりました。
 出会いがあり別れがありそしてまた出会いがあり。

 友人が戻ってこないことは事実。
 それをきちんと受け入れた上で、
 だけど100年もしないうちに
 またあの世とやらで再会できるのだろうから
 そのときにあれこれ報告できるように、とりあえず
 今日という日をきちんと過ごしていかなくちゃ。

 なぁんて書きながら、
 それでもやっぱりぼろぼろないています。
 ええい、しっかりせい、自分!
 ホントは、友人の死を転機として
 きちんと生き方を考えるようになった、と
 書くつもりだったんです。
 でもまだもう少し時間が必要なようです。
 中途半端だけどこのまま送信します。
 (きみこ)



・これも「転機のとき」でしょうか。
 先日、乳がんが見つかりました。
 一昨年から気になって、
 病院で診てもらっていたのですが、
 どこも「様子を見ましょう」で、
 今年になってまた別の病院で診てもらった結果、
 すぐにガン細胞が見つかりました。
 まったく本当に、病院の当たりハズレってのは
 あるのだなと実感したものです。
 まもなく42才の独身女性としては、
 通常の女性としてあるべき若い年代での
 結婚・出産という道を選ばなかったことを
 ちょっと後悔しているけど、これもまた運命でしょう。
 幸い、早期で発見されたので、それほど悲観することなく
 あくまでも前向きに手術に向かいたいと思っています。
 と言っても、今は乳がんが
 非常に増えているということで、ベッドが空かず、
 入院はまだまだ先なんですけどね。
 それまでは、栄養のあるものをしっかり食べて、
 規則正しい生活を続けていこうと思っています。

 それにしても、健康には人一倍気を遣い、
 ジョギングも続けていた私。
 生活習慣病には縁がなくても、ガンは別物なんですね。
 (珊瑚)


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postman@1101.comに送ってくださいね!

2003-01-30-THU

 

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