転機のとき。

第3回 仕事の転機


「仕事が義務なら人生は地獄だ。
 仕事が楽しみなら人生は楽園だ(ゴーリキー)」

「人の本当の仕事は、30歳になってはじまる(ゴッホ)」


なぜか毎回、冒頭に格言的な言葉を紹介していますが‥‥
仕事の言葉も、ほんとうに古人はたくさん残しています!

そして、「転機のとき」コーナーに届くメールの中でも、
もっともボリュームがあるのが、仕事の転機!なんです。
今日は、そんな仕事についてのおたよりを、ご紹介します。

なるべく、粗削りのものはそのままに、
悩み途中の人のものもそのまま掲載する、
ということを意識してみました。じゃ、さっそくどうぞ!







・私は去年の4月に社会人になったばかりです。
 当初資産運用を勧める、
 金融営業のお仕事をしていました。
 みっちり1ヶ月の箱詰め研修の後、
 配属されて意気揚揚としていたのですが、
 顧客開拓の為に1日中様々な企業に電話し、
 重役につないでもらうためにあらゆるウソをつき、
 会社名もまともに口にできない状況でした。
 朝7時から夜9時までそんなことをしていて、
 なにか違うと思いながらもそれを考える暇もなく、
 気付いたら受話器に触れなくなってしまい、
 結局、6月に辞職しました。
 すぐに入った転職先はまるで畑の違う製造業で、
 なんとも素朴なおじさんやおばさんに囲まれながら
 身体を動かしているうちに、徐々に楽になっていきました。
 新しいアパート、新しい街、新しい職場で、
 独りがしんどいこともありましたが、
 今はモノ作りが楽しく、仲間がいることが嬉しく、
 「4大卒だったらもっといい仕事があるでしょ」
 としばしば言われてもはっきりNOと言えます。
 幼い頃に父が私に言ってくれた、
 「職業に貴賎なし」という言葉が、
 ささやかな私の支えです。
 (kiki)



・私にとっての転機のときは、
 仕事での失敗と離婚が重なった時です。
 仕事はきつくて、いくら食べてもやせる。
 仕事が忙しくなると同時に、
 家のことにも手が回らなくなり、
 当時の主人は不満爆発・・・で、離婚。
 いや〜、きつかったです。
 でも、そのきつさのおかげで、
 本当にすごく、ものすごくたくさんのことに気づいたし、
 考えることができたし、
 負けないでがんばろう!と思うこともできた。

 だから、転機って、
 けっこう自分にとってきつい時のことを
 いうのかもしれないと思いました。
 きつい時って、やっぱり必要なんだと思います。
 少なくとも私にとっては。
 きつかった時期があったから、
 今の自分は昔よりかっこいいと思う。
 誰が認めてくれなくても、
 今の自分は、がんばってるぞと思えるな。
 (亀飼育暦8年)



・こんにちは、いつも楽しく拝見させていただいてます。
 私は今月末で会社を転職することになりました。
 私の仕事は広告デザインの仕事です。
 広告デザインといっても色々とあり、
 街角で配っている金融関係のテッシュだって
 広告デザインですし
 ソニーとかサントリーとかのポスターも
 広告デザインです。
 私がこの業界に入って、どこでも
 ポスターとかできるものだと勘違いしており
 入った会社は全然違う、
 10円のあめ玉のチラシとかをしていました。
 このままで、諦めるのはイヤでした。
 10年かけてやっと次の会社で
 ポスターの仕事ができる会社に内定を頂きました。
 この業界は3年ごとに会社を辞めるのが当たり前で
 私は次の会社で4社目となります。
 今、10年間を振り返って、
 それなりにメチャクチャな事もしてきたり
 しんどい事も多かったなと思いました。
 それはこれからも変わらず続くと思います。
 今回、今の会社を辞めることにとても勇気がいりました。
 今の会社ではあまりいい思い出はなく、いつも、
 『きっといい仕事をして周りを驚かせてやろう』
 と思っていました。
 私は今の会社になじむことが出来なかった。
 でもいい仕事をしたらきっとなじめると思っていました。
 その反面、今の会社よりスキルアップできる会社にも
 行けるはずもないと思っていました。
 今の自分には何をしても無理だと思いこんでました。
 そのとき『調理場という戦場』を読んで
 背中を押された様な気がします。
 ダメ元で受けた会社を受けて、今までの仕事の作品、
 自分で作った作品、学生時代の作品と見せた時、
 面接官が
 『あなたは今の会社で
  いいところが活かされていませんね。
  どうですか我が社にきて、
  昔のこの作品のように
  我が社で広告デザインの仕事をしてみませんか』
 と言ってくれた時に、
 動いてみて本当に良かったと思いました。

 私はここ1年間
 ずっと後ろを向いて生きてきたような気がします。
 この一言で前向きになれたような気がしました。
 同業者の友人は私がどんどん
 スキルアップしているようにしか見えないといいますが、
 私はただカッコつけて
 良いことしか言っていなかったからだと思います。

 その友人にも『調理場という戦場』を
 人生の中で必ず出会っておくべき本だよと勧めると、
 友人もこのままではいけないと
 頂点を目指し来月新たな会社へと旅だって行きます。

 私は多分、最後まで今の会社に感謝をしながらも、
 ちゃんとした感謝の言葉を言いきれず辞める気がします。
 ツライ事、嫌な事もいっぱいあったけど
 学んだ事の方がそれの何倍もあったと思います。
 ここで学んだ事で
 何一つ無駄なものなどなかったと思います。
 恨んで会社を辞めるのでなく
 感謝して辞めて行きたいと思っています。

 今の会社の社員の人たち、いつも支えてくれた友人、
 家族に感謝しています。
 そして『調理場という戦場』という本に
 出会って良かったと思ってます。
 これからは前向きに旅だって行こうと思います。
 (ゆ)



・岡山に住んでいる私の友だちは、
 ほぼ8割がた結婚という転機を迎えます。
 別に結婚をしたくないわけではないのですが
 仕事もやりたいのです。
 というか、仕事「が」やりたいのです。
 そう思う反面、友人たちに生まれた子どもに接していて
 子どもも欲しいと思いました。
 仕事から帰ってきて一人って言うのは
 ごっつー心がさむいんですよね。特に食事をするとき!

 現在の日本の状況で仕事をして子育てをして
 キャリアアップしていくのは
 ごく限られた環境にある人(大企業、公務員など)か
 フリーで働かれている人かなと思いました。
 新聞等のトピックではよくお見かけします、記事として。
 そして、職種にもよりますよね。
 看護婦さんとか、年齢を重ねても需要のある職種です。
 私は28歳で転職をしたわけですが、
 もしかしたら10年後も
 同じ企業で働いているとは限らないのです。
 先のことばかり考えていたら
 鬼に笑われるかもしれません。
 それでも、生き残るには
 手に職をつけねばならない(専門分野)と強く感じます。
 手に職というアイテムがあるとして、
 今度はオリジナリティです。
 オリジナリティは、
 アイテムを手に入れただけでは手に入りません。
 もともとオリジナリティなど無いのかもしれません。
 でも、これからは自分の顔は
 自分で作っていくものだとかんじます。
 それならば、オリジナリティも手に入るのかなぁ。
 そうだといいな。
 (さるこ)



・私は社長夫妻を入れて5人の小さな出版社
 (といっても、雑誌1冊2ヶ月に1回作ってるだけ)
 に勤めています。
 なにしろ社長夫妻入れて5人です。
 1年前、頼りにしていた先輩と後輩が
 社長夫妻に愛想をつかし、
 2人一気にやめてしまいまして。
 結果、私と社長夫妻が残りました。
 社長はもともと躁鬱病なので、
 そのまま鬱に突入し、会社に出てこなくなりました。
 奥さんは子育てが忙しく、
 フルタイムで会社にいるわけでもなく…。
 「あれやっといて」「これやっといて」
 と言われ、抱えた仕事以上に働く私。
 お願いしているライターさんやカメラマンからは、
 「あの件は?」「あそこの取材のアポは?」
 「頼れるのはアナタだけなんだから」
 と言われ、それに毎日毎日応対し、
 かつ一人で広告の営業をし、かつ取材に行き、
 そして編集し…、読者からの苦情を延々と聞き…。
 今でも、よくあのとき雑誌が書店に並んだよなあ、
 と思うぐらいです。
 
 新入社員が入ってくるまでの3ヶ月は
 今まで仕事をしてきた中で、一番キツかった。
 一人で何もかもやるって大変だとしみじみ思いました。
 「この号きちんと出したら、絶対やめちゃる!」
 と友達に泣きながら訴えまくってましたから。
 それから、大手社から中途採用で1名、
 また1名入り、社長の鬱もようやく回復に向かい、
 5人に戻りました。
 と思ったら、今度は奥さんが御懐妊で、また4人。
 世の中に訴えていきたいことはある。
 だからこの雑誌をつくっている。
 だからもう少し続けたい。だけど何かキツイ。

 中間管理職みたいな立場にある私という存在は、
 新人といえどもキャリアのある男の人たちにとっては
 目の上のタンコブなのでしょうか。
 あるとき
 「○○さん(私)がやめたら、僕が役職ですかね?
  なんかそういうのがはっきりしてないと、
  僕嫌なんですよねー。
  給料ももっともらわないとやっていけないし、僕たち」
 と言われるようになりました。
 私は読者からその本に携わるようになった、
 「もと素人」だからかもしれないけど、
 私が彼らの原稿チェックをするのが
 まず気に入らないらしい。最近は真顔で
 「役職に付いているのは社長の愛人だからですよね?
  (←アホか!ドラマの見すぎじゃ!)」などと言う。
 なんとも居づらい職場になりつつあります。

 そろそろフリーでやれば? と、
 皆簡単に言うのだけど、慎重派の私には、
 まだフリーになる自信もなければ人脈もない。
 あの地獄の3ヶ月のように、何もかも自分で
 やらなくちゃいけないと思うと、躊躇してしまいます。
 転機かも?と思い続けてもうすぐ1年。
 結果はなかなか出せずに現在に至っています。
 自分のやりたいことはわかっているんですけどね。
 でも5年前この仕事につくために、
 田舎で就職した会社をやめて出てきた、
 という親への負い目があるせいか、ひたすら
 「頑張らなくちゃ!」という気持ちで
 やってきた部分も多いから、そこをちょっと整理して、
 次のステップへ上がれたらいいなあと思います。
 ああ、書いていたらやっぱり親の顔が浮かびます。
 (匿名希望)



・こんにちは。
 私は2年前に韓国人と結婚して、
 今ソウルに住んでいます。
 私は中学生のころから絵に興味を持ち、
 私立の美術大学付属高校を受験し、失敗しました。
 結局、普通の高校に入り、高校1年生から
 美術大学予備校に3年間通い、
 そして受けた美大受験にも、失敗しました。
 その後、3年間美大浪人生活をしましたが、
 合格できませんでした。
 そして、諦め、就職しました。
 でも、就職しても美術大学へ入って絵を学びたい。
 と言う夢は捨てきれないというか、
 いつも自分の頭に付きまとっていて、
 25歳のとき、勤めていた会社を辞めて
 再び1年間予備校に通い、美術大浪人生をしました。
 しかし、その夢もかなわず、結局落ちてしまいました。
 もう、自分には絵や大学とは縁がなかったんだ。
 と、本気で思い、感じました。

 しかし、30歳、結婚して韓国にきて環境が変わり、
 また絵を描きたい。と言う気持ちがあふれだしました。
 でも、また自分が受ければ大学受験は、失敗する。
 と思っていました。
 なぜなら、大学には縁がないから。
 でも、夢は諦めきれず。。。韓国に来ても、
 結局、1年間、韓国語も分からぬまま、
 韓国の予備校に通い、浪人生活を始めてしまいました。
 でも、結果、今年の3月から、韓国では、
 (一応。。)一番有名な
 美術大学、弘益大学絵画科に受かりました。
 こんなことって、あるんですね。
 結婚前、日本にいてはどうしても果たせなかった夢が、
 国を変えれば、果たせることができて、
 自分を受け入れてくれるところがありました。

 とうとう32歳になっちゃって、新入生になり、
 韓国語もまだまだだけど、
 せっかく叶った夢なので、頑張ります。
 そして、韓国に来たことが自分の転機になって、
 韓国に来たことがよかった。
 と思えるような大学生活にしたいです。
 (さ)



・三十才が終りに近づいています。
 あまりかわりばえのない日々、
 世間的にも自分でもまずまず充実した仕事、
 小金もないこともない。
 毎日の生活は好き勝手に暮らしてて
 楽しいことに間違いはない。
 しかしそろそろ誰かと過ごせたらと、
 私も考えたりしているようです。
 いや そこまではなくても
 誰かをとっても好きになりたいなあ。
 たぶん よけいなプライドなんてモノを
 たくさんたくさんもっているのでしょう
 それを捨てられるときが私の転機の時 なんかな
 (Q)



・デリバリー版に紹介されていた
 「自営業父さん」を読んで、世の中には
 私と似た境遇のなかに生きている人が居るもんだ〜
 と思いなんだか「ほっこり」した気持ちになりました。
 うちの場合、これまで父も母も大きな病気もせず
 いまでも現役で小さな精肉店を営んでおります。
 私が生まれた29年前から寝る間も休日も惜しんで
 大した儲けも無いであろうに
 (地味な街角にある肉屋だもん)
 朝から晩まで働き続けている姿を見てきました。

 私が現在その実家から離れて
 はや10年が経とうとしてます。
 高校を卒業して新宿にある専門学校に行きたい、
 一人暮らしをしたい、と
 勝手に自分で世田谷の不動産屋で物件を契約して
 近くの公衆電話から
 「あ、お父さん。私だけど部屋決めちゃったから」
 今思い起こせばかなり親不孝でヒドイやり方でしたが
 本当に自分が学びたいことならば、
 と父は了承してくれました。
 念願の一人暮らし、行きたかった学校にも
 楽しく通い無事卒業。
 しかし、卒業後数ヶ月就職もせず
 仕送りで暮らしてました。そんなとき、
 「バッカもーんっ!
  仕事もしないで遊んでるようなら
  実家に帰ってきなさーい、今スグにぃー」
 と父からの電話。
 私は受話器越しに必死で応戦し(帰りたくない一心で)
 電話を切った後、泣きながら両親に手紙を書きました。

 「わがままを言って急に家から離れてしまったこと、
  独り立ちしたつもりでも
  まだ甘ったれて頼っていること
  ゴメンナサイ、ありがとうだけでは言い表せません」

 「わたしは今までなんて大きくて強い愛に
   守られて生きていたんだろう それは、
   なんて幸せなことだったんだろう」

 そうなんです、(たま)さんが言っていた上の内容と
 まったく同じ文章を最後に添えたのでした。
 投函した数日後父から電話があり
 「手紙読んだよ、もう少し頑張ってみなさい。
  それでもダメだったらいつでも帰ってきなさい・・・」
 そう言ってくれた父も少し涙声だったような気がします。
 私もそれから色々な仕事を経験してきましたが、
 この父とのやり取りを機に
 どんなことも精一杯取り組み、
 たとえ跳ね飛ばされたり、転んで傷ついても
 愛する人が受け入れてくれる家がある、
 と思い起こしながら順調にこなしてきました。
 そして今、また転職を控えています。
 両親は私がいい年齢なのでかなり心配してる様子。
 でも大丈夫!頑張るよー私!
 (ゆう)



・わたしも、転機のときといえるかもしれません。
 がむしゃらに目の前のハードルを越えたり
 倒したりしている毎日で、その自覚もあまり無いですが。
 不況だ就職難だ、といわれる中、
 就職活動の真っ只中にいます。
 『自分』を理解すること、理解してもらうことの難しさ。
 改めて感じる様々な格差、地域差。
 そんなものを痛感しつつ、
 恋や家庭の悩みも折り重なって
 浮き沈みの激しい毎日を送っています。

 そんな中、時々思い出す言葉があります。
 道ならぬ恋に足を踏み入れ、
 日々泣いているばかりの友人に、
 お姉さんのように慕う先輩が言った一言。
 「泣いてばかりじゃだめだよ。
  これから、もっと辛い事が沢山あるんだから」
 いい事がきっとあるから、と言われるより
 強く心に響く言葉でした。
 私たちの前では笑顔を絶やさない彼女だからこそ、
 言える言葉なのでしょう。
 こんなところでくじけてどうする!と、
 涙を流しそうになる夜に、
 思い起こしてふんばっています。
 今日もそんな日。
 デリバリー版を見ていて思い立ち、
 書かせていただきました。
 (エキ)

2003-01-31-FRI

 

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