転機のとき。

第5回 これからの転機。


「世の中は、立派な格言ならあらゆるものが揃っている。
 ただ、その実行というところが欠けている(パスカル)」

「そもそもどこかに、まっすぐな道があるでしょうか。
 近道とは、夢や迷い道にすぎないことが多い(カフカ)」



「転機のとき」に寄せられるメールの中でも、
「これから転機なんですよ!」というものからは、
似たような印象を感じるなぁと気づきました。

これでいいのかなぁ、という迷いや、
今のままはマズいと現状をリアルに見つめたものなど、
どれも、「実行するかどうか」というところが
話のキーポイントになっているんです。

誰しも、自分の未来の実行は、
自分で決断しなければならない。
そこに、それぞれの体験談の濃さを感じました。

「転機のとき」のメールなのに、何人もの方が、
「ほぼ日」の去年夏の連載「53」のことについて
触れていたのが、とても印象的でした。

たしかに、あれは、いろんな人に
毎回毎回、「あなたの転機のときは?」と訊いた
インタビュー企画だったのかもしれませんね。

それでは、今日も、
たくさんの「転機」をご紹介していきましょう。







・最近卒業設計が追い込みで、
 ほぼ日から遠ざかっていたのですが、
 久しぶりに覗いて読んだ「転機のとき」。
 ああ、私も転機だったかもしれないんだ、
 と思うことがあったので、メールします。

 実は一昨日、妊娠検査薬で陽性がでました。
 私は、もうすぐ卒業し就職する大学4年生。
 彼は、もうすぐ卒業して
 公務員の就職浪人になる大学4年生です。

 初めは卒業設計のストレスから
 生理が遅れてると思ってたのですが、
 元々心配性なせいもあり、日ごとに
 「生理がこない」事実が重くのしかかってきました。
 性交渉はたしかにあったけど、
 私たちはいつもきちんと避妊してたので、
 普通に考えれば妊娠のはずがありません。
 でも、コンドームによる避妊は
 100%安全なわけではないことは知っていたので、
 考えれば考えるほど、不安になりました。
 朝は胸やけしてあまり食べれないし、
 胸は張るのに、生理前らしいお腹の張りはないし。
 まさか、でも、これって、妊娠・・・?
 卒業設計は本当にヤバイ状態なのに、
 もし妊娠の事実があったら、
 それどころじゃないです。

 それで、もうハッキリしてないことで
 アレコレ悩むのが嫌になって
 一昨日彼と、検査薬で調べた結果、
 「陽性」とでたのです。
 多少は覚悟していたけど、事実となると全然違います。
 検査薬の結果はもうほとんど間違いないと、
 どのHPを見ても書いてあるし、
 妊娠した、と思いました。
 子供を生むか生まないか、育てていけるのか、
 子供を殺すことになる中絶をするのか。
 彼と、車の中で泣きながら話し合いました。

 次の日起きると、出血がありました。
 でも、妊娠中でも、多少の出血はあることは
 知っていたのでそれほどあわてませんでしたが、
 量がただ事ではない。
 生める子供かどうかはまだ分からないけど、
 流産かもと思うと怖くて怖くて、
 でも親には頼れなくて、
 こんなときになって初めて、
 どのくらい自分が自立してないかが分かりました。
 彼に車を出してもらって、
 近くの産婦人科に行きましたが、
 回りは幸せそうにお腹をなでる夫婦ばかりなのに、
 私は親にも内緒で一人で産婦人科にいる。
 不安でしょうがなかったです。
 
 問診して、内診して、
 「血が多いね!外妊娠か・・・?」と言われて、
 血液検査して、30分待って。
 やっと呼ばれて行くと、医師に、
 「今回の検査では、
  妊娠ホルモンは検出されませんでした」
 と言われました。
 つまり、妊娠してないと。
 「本当に陽性と出たの?」
 と聞かれたので、持参した検査薬を見せましたが、
 そこには確かにくっきりと「+」と出ています。
 「こんなこと、最近ではないはずのことだけど、
  検査薬の不良品、という可能性が一番高いですね」

 最初は全然頭が展開についていかずに、
 「はあ・・」とか言っていたけど、
 やっと安心して涙がでてきました。

 彼ももちろんこの結果を喜んでくれましたが、
 今回のことは本当にいい教訓になりました。
 自分たちがいかに幼く、
 親に守られて生きているかが、よく分かりました。
 現時点では、子供が出来ても喜んで生めないことも。

 今時ありえないことだけど、
 やっぱり昔の人が言うように、
 結婚するまでセックスはしてはいけないというのは、
 正しいと思いました。
 「ついうっかり」や、「気持ちいいんだもん」が、
 人一人の命を左右することに、
 もっと敏感にならなくてはいけない。
 今回は奇跡的に、検査薬の不良だったけど、
 もう二度とこんな思いをしなくてもいいように、
 あの「陽性」と出た検査薬は大事にとってあります。

 今現在、子供が出来ても
 生んで育てられない人は、絶対に避妊すべきです。
 当たり前のことだけど。
 当たり前のことではない気がして、
 私の「転機だったかもしれない」をメールしました。
 それではまた。
 (匿名のかた)



・以前に「恋愛の転機」にて掲載してもらった
 「こまごま」です。
 その後の結果がでました。

 今日、彼と彼の奥さんと話をしてきました。
 もちろん、3人で直接会ってです。
 金曜日の夜、実は私、彼の奥さんと電話で話したんです。
 彼のPHSに電話をしたら彼の奥さんがでました。
 そこで2時間近く話しました。
 彼の奥さんは私を恨んでいる様子でした。
 私にはそれが全くわからず、
 私が彼からもらった想いの数々を話しました。
 最初は興奮気味だった彼の奥さんも、
 だんだん落ち着いてきて
 私の話を聞いてくれました。

 私は3年間、彼にだまされていたことが分かりました。
 彼は、家では
 「家庭が一番、子どもも大事」と言っていて、
 私と会ったときは
 「最終的に結婚するかしないかは分からないけど
  一生、ふたりで暮らしたい」と言っていました。
 もちろん、私は
 「彼は私のことだけを好きなんだ」と思っていました。

 今日、3人で会って彼の矛盾がハッキリしました。
 結局どこが本当なんだろうか、
 私と一緒にいたいというのはウソなのか?
 いろいろ問いただしても
 彼はほとんど話しませんでした。
 うつむいたままでした。
 彼は私と奥さんを天秤にかけて、
 両方にいい顔をしていたのでした。
 外では私と、家では奥さんと仲良くやっていました。

 一度、1年程前、私は彼と別れる決意をしました。
 先の見えない彼と一緒にはいられない。
 そういいました。その時彼は
 「あと1年すれば離婚に決着がつく。
  お金の問題さえ解決すればいいんだ」
 といって私を引き止めました。
 私は彼の言葉を信じ、
 一緒に歩いていく方向で考えるようになりました。

 今日会ってみて、
 それが全くのウソということが分かりました。
 離婚問題などでていない。
 それどころか彼は、
 自分の奥さん宛てに手紙を書いていました。
 「いろいろ迷惑掛けてゴメン。
  オレが子どもが好きなこと、知ってるだろう。
  お前ともケンカするけど、
  一緒にその溝を埋めていきたい」
 こんな内容でした。
 彼自身は
 「べつに2人を天秤にかけていたわけではない。
  だましていたわけではない」と言っていました。
 まったく信じられませんでした。

 彼は、自分が人類の中で一番不幸だ、
 というような顔をしていました。
 きっとまだ、彼には
 私や、彼の奥さんの痛みが分かっていないのでしょう。
 だだっこのように、欲しい物を欲しがる。
 仕事で辛くなれば外で逃げ場を作り、
 必要なくなったのなら捨てる。
 彼は「人を傷つけたくない」としきりに
 言っていました。
 だから最後まで、奥さんを「選ぶ」、
 私を「捨てる」という言葉を使いませんでした。
 傷つく言葉を使わないことで、
 彼は誰も傷つけていない、と思っていたのでしょう。
 私は彼に、
 「そうじゃない。あなたのしてることは
  ひどい言葉を言うよりも、人を傷つけているんだ」
 と言いました。

 晴天の霹靂、というのはこういう時に使う言葉ですね。
 今までの私は何だったんだろう。
 彼の何を見ていたんだろう。
 そう考えると泣けてきます。
 自分のみじめさに泣けてきます。

 今日、3人で話せたこと、
 とてもよかったと思います。
 彼の奥さんも
 「今日、会えてよかった。あなたと電話で話せてよかった」
 と言っていました。
 辛いけど、決着がつきました。
 自分の気持ちはまだ、不安定だけど
 時間が経つにつれて癒されていくのだと思います。
 きっと明日、また新しい時間がやってくるのだと思います。
 (こまごま)



・ダーリンが吉川町に行ったと読んでいて、
 ばあちゃんを思い出しました。
 おばあちゃんの転機です。
 うちは両親とも吉川町の農家の出身。
 おばあちゃんは93歳。
 昔の事は良く覚えてるんです。
 「かぞえ13歳のころ、東京の病院に奉公に行ったの。
  親戚の不幸があって呼び戻され、
  その後、関東大震災があって戻れなかった」
 「看護婦さんになりたかったけど、
  そうはいかなかったの」と。
 「後で知ったけど、病院から
  東京に戻っておいでと手紙もらったけど、
  親に隠されてそのまま嫁にやられちゃったの」
 「昔は米作るのに人手がいったから、人手の為に
  嫁にいけって言われたらヤダって言えなかったの」
 関東大震災なんて、私は
 歴史の教科書に載ってるくらい昔の事と思ってました。

 私がなかなか嫁にいかないことを心配しつつも、
 そのことより、自分の夢を大事に生きることと、
 自分の信じる神様を信じ、
 正直に心穏やかに生きていきなさい、
 ってことを言われました。
 1分前くらいのこと忘れたり、
 孫も自分の子供と勘違いしちゃうくらいなんですけどね。
 魂(というのが適当な気がする)は衰えないんですね。
 吉川町のお米には
 苦労して忍耐して生きてきた人たちの心が
 受け継がれて今があるんだろうなー、なんて、思います。
 (と)



・アメリカへ留学をして丸4年が経ち、
 その間に数え切れないぐらいたくさんの人との出会い、
 日本を離れ、そして親元を離れて
 初めて気づいたことや学んだこと、
 恋愛をし失恋をし、たくさん泣いてたくさん笑い、
 いろいろな人にパワーをもらい、
 逆にパワーをあげたりしながら生活している毎日が
 私にとっての「転機のとき」とも言えるかも。

 4年前の私は、ただの
 変にプライドが高いだけの何も知らない、
 英語もまともに話せない20歳の日本人の女の子でした。
 母国である日本のこと何も知らないのに、
 日本という国を嫌い、アメリカという国に
 大きい期待だけをしていました。
 でも実際に生活してわかったことは、
 日本人であることを誇りに思えることと
 理想と現実のギャップでした。
 どんな国にも良いとこと悪いとこがあって、
 日本にいたころの私には、
 日本の悪いところとアメリカの良いとこしか
 みえてなかったんです。
 物事を冷静に見れるようになって、
 初めて気づいたことは「自分の無知さ」でした。

 アメリカが完璧な国であるはずがなく、
 それと同じように日本が完璧な国であるわけがなく、
 そんなこと簡単にわかりそうなのに
 気づいていなかった自分、
 そしてその現実に失望した自分にまた失望。
 日本ではもらったことがない
 「落ちこぼれ」っていうレッテルをクラスでもらった時、
 ショックというよりもまず笑ってしまいました。
 落ち込んでいる私を友達がギュッて抱きしめてくれた時に
 「アタタカイ」って思いました。
 私にとってお兄ちゃんのような存在だった友達が
 自分の国に帰っていく時に空港で号泣しました。
 私を大事にしてくれる大好きな人に出会いました。

 そしてそんな毎日の生活の中で気づいたことは、
 “私はホントにラッキーなんだ”ということです。
 日本の家族の応援があり、友達にも恵まれ、
 健康でいれる私よりも
 もっと大変な生活をしている人たちは
 世界中に何万人っていて、その人たちから見れば
 私はまだまだベイビーでしかない。
 でも、自分はこの恵まれた環境に感謝し
 自分にやれることをやればいい、
 そしてそこから学んでいけばいいんだ、と思っています。
 だから毎日が私にとっての「転機のとき」。

 あと3週間で24歳になります。
 私が描いていた24歳像とは違うかもしれないけど、
 でもそれはそれでまた違う自分だからそれでいいのさ。
 去年と比べて少しでも成長してるといいなぁ、
 と思っています。
 (マリア)



・「転機のとき」に彼氏と別れたり…
 というメールを掲載していただいたsanaです。
 この前、実家にいる妹と二人でチャットをしていて
 彼氏と別れた事は言っていないのに
 「彼氏と別れたでしょ?」と、言われました。
 「え!?なんで知ってるの?」
 と、マジビビリをして聞いたら
 「私はほぼ日メルマガの愛読者なんだよ、ふふ」
 と言われました!
 妹と変なつながりが持てたり、
 自分のメールに普段接点を持てない人からの
 アドバイスがあったり、
 ほぼ日は不思議コミュニケーションができてすごいです。
 なかなか人間変わることができるもんでもないですが
 前よりかは自分が好きです。
 転機の人のメールを読んで、またえいっと気合をいれます。
 (sana)



・大学に入学してから4年間、
 個別指導塾の講師のアルバイトをしてきました。
 この4月から就職するため、
 勉強を教えることは残りすくなくなっています。
 最後の年というものはやはり思い入れが強かったのか、
 必死になって生徒と関わってきたつもりです。
 今日、私が一番気にかけていた
 小学6年生の生徒が、1次試験では不合格だった
 私立中学校に合格できたと連絡がありました。
 彼女は私の出す山のような国語や漢字の宿題を、
 嫌な顔ひとつせず毎週必死にこなしましたが、
 苦手な算数が足を引き、過去問を解く限りでは、
 1度も合格点を超えることができないまま
 入試を迎えたのです。
 正直、1次試験がダメだったときには
 私を含める担当講師の皆々が
 「より競争率の上がる2次試験で合格することは難しい」
 と、半ば諦めていたのが事実でした。
 彼女の努力とその成果による成長を知る私たちとしては
 数多くいる受験生のなかでも
 彼女は1番合格させてあげたい子でした。
 私が担当しだした1年前の今ごろは、
 「シ→ソ→」等と伸ばす音を全て矢印で書き、
 漢字が全くといっていいほど書けなかった彼女が、
 問題は殆ど覚えていないと言いながらも
 「漢字は全部書けた」と笑顔で言ってくれました。
 「おかあさんは『涙がでそう』と言って
  凄く喜んでくれたよ」
 と話してくれるのを聞きながら
 私は「うん、うん」と涙をこらえるのが大変でした。
 今こうして、これを書きながらも
 涙で前が滲んでよく見えません。
 4年間付き合ってきた沢山の生徒の顔が浮かび、
 塾のアルバイト関係では初めて泣きました。
 私は鬼と言われようとも、
 やっぱり塾講を辞めれそうにはありません。
 そんな私には社会へ飛び出す勇気が
 欠けているのでしょうか?
 他人の努力が実るために力添えすることより、
 自分の努力が実ることのほうが感動するものなのかなぁ。
 私は自分が主役で感動したことが未だ無い気がします。
 (トモコ)



・1月31日、新しい会社から採用の連絡が来ました。
 「転職」なわけです。
 けれど、最初から「転職しよう」と
 思っていたわけではなく、
 恋愛・自分の身体・親など、
 いろんなことが重なったように思います。
 すべてのことが、偶然に起こったのではなく
 必然に、まるで出来事から
 私にぶつかってくるように起こったのです。
 だから、気がついたら、転職になっていました。

 2年間、妻子持ちの人と付き合ってました。
 最初から、いつまでも一緒にいられないのは
 分かっていたけれど、でも、一緒にいたい、
 という気持ちをお互いに持って付き合っていました。
 けれど、やはり「自分の将来」を考えたんです。
 今、20代半ば。
 初めて私の友人が結婚しました。
 その時、結婚ってものを初めてリアルに感じたんです。
 このまま彼と付き合っていたら、
 将来的に私は結婚はできないわけです。
 20代も半ばになると、結婚を選択する人もいる。
 「一生、お妾さんでいい」
 と腹をくくるかどうかの年齢かなと思いました。

 それと同時に、
 この頃、婦人科系器官に原因不明の異常が出ました。
 原因もわからず痛みがでたのです。
 病院の先生が、「できる検査はすべてした」と
 言う位、本当に色んな検査をしました。
 けれど、原因はわからず。

 その頃、親は癌細胞が発見されました。
 その1年前に、もう初期の段階を通り越した
 中期の癌の手術をしていましたが、
 癌は再発するっていう、現実を目の当たりにしました。

 ひさしぶりに、男友達と休みの日に遠出しました。
 すごく新鮮でした。
 付き合っている彼とは、もちろん休みの日に出かける
 なんてことはできなくて、でも周りを見渡せば、
 恋人同士は、当たり前のように休みの日に
 こうして外へ出て太陽の下で一緒にいるのです。
 幸せそうな家族の人達もいます。
 自然と、別れようと思いました。

 別れたら会社も辞めるつもりでいましたが、
 「別れても辞めないでほしい」
 と彼に言われ、会社は辞めずにいました。
 別れた2週間後、彼の転勤話を
 上の人達が話しているのを
 偶然、聞いてしまったんです。
 私の勤めていた会社では、
 急に異動や転勤が決まるんです。
 だから、みんな急に言われるので
 急いで引越しの準備したり、
 お子さんの転校の手続きなんかをしてました。
 だから彼の転勤は、急に出てきました。

 偶然聞いたときは、すごくショックでしたが、
 それと同時に、もう、会社を辞めようと思いました。
 転勤が本決まりになり、彼からも直接聞きました。
 そして私も、年内で辞めるようと思ってることを
 伝えると「もったいない」と言われましたが
 私の顔を見て彼は、今回は止めずにいてくれました。
 彼は転勤する最後の日、
 私がプレゼントしたネクタイをして出社していました。

 秋になり、上司に会社を辞めることを言いました。
 それから1ヵ月後、親にまた初期段階の癌が見つかり
 親の入院が決まりました。
 自分の先行きを考えました。
 父親が、いつか、いなくなる、
 それはすごくリアルで、そうなった時
 自分がきちんと働いていたいと思いました。
 辞めることは決まっていたし、
 ただ、その後の方向性が決まっていなかったので
 真剣に考えました。
 そしてやはり、以前から好きで
 興味があった業界へ行こうと思いました。
 今自分がしている仕事とは異業種になるけれど
 それでもずっと、やってみたいと思っていた職種です。

 年末に退職し、年明けから活動しました。
 応募要項には“経験者優遇” “経験者の方”と
 記載されています。
 ですが、未経験でも応募ができるところと、
 経験者優遇の会社に履歴書・職務経歴書を送りました。
 自分が、いちばん興味があった会社は
 「今回は経験者選考ですが、まぁ、未経験の方でも
  書類を送っていただければ、それをみて判断します」
 という話だったので、一応送ってみました。
 書類選考が通り、面接をくぐりぬけ、
 いちばん興味があった会社に採用が決まりました。
 ちなみに、面接を待っている間は、
 ほぼ日手帳の下に書いてある「日々の言葉」を読んで
 緊張をほぐしていました!

 意外にも、他社も合格しました。
 1次がグループ面接の会社もあって、
 私以外の人はみんな経験者でしたが
 私は最終面接にたどり着き、採用の連絡がきました。

 私は、秋頃から「ほぼ日」読者になり、
 特に矢沢さんの「53」が大好きです。
 「成り上がり」は以前に読んだことがあったので
 「アー・ユー・ハッピー?」をこの秋に読みました。
 53の連載は、
 私に勇気や将来を考えるきっかけをくれました。
 「20代に頑張ったやつだけが、
  30代のパスポートを手に入れられるんだ」
 「オレは、いま生きるのがつらいって言ってる人は、
  やっぱり、どこかに自分の生き方を
  自分で決められないって背景があると思うんだ。
  依存から離れるってのは
  簡単なことですよとは、オレだって言えない。
  だけど、やっぱり、そうなんだ。
  かんじんなのは、手前の足で立つことなんだ」
 矢沢さんのこの言葉は、私が動き出す勇気になりました。

 新しい仕事に挑戦する今、
 「調理場という戦場」を、また読み返そうと思うのです。
 斉須さんの仕事に対する熱い気持ちや、
 くじけない心、次々と挑戦する気持ち、
 とくにP195からの
 “東京 コート・ドール”に書かれていること。
 斉須さんとは職種が違いますが、
 とても参考になるし、私も自分の仕事を通じて
 実感としてそう思えるよう働きたいと思います。

 長くなりましたが、
 いろんなことが自分に当てはまったり、
 勇気のモトになっています。
 新しい仕事、がんばります!
 ほぼ日、これからも楽しみにしています♪
 (ほ)



・「転機のとき」。丁度今かもしれません。
 入社して3年半。仕事も人間関係も順調でした。
 しかし時間の経過と共に
 「学びたい!」という意欲がムクムクと沸いてきました。
 とにかく自分の知識と経験を
 新しい環境でさらに広げていきたい、と。
 そして、昨年夏に退社し、大学院への進学を決めました。
 と、飛び出したはイイものも、不安ばかりの日々。
 明確な展望も戦略も、何もあったわけでもなく。
 ただ、単純に直感で動いたに過ぎません。
 本当に会社を辞めて良かったのか、と。
 本当にこの大学でイイのか、と。
 そんな時ほど外面ばかり気にしてしまう弱い自分。
 イイ大学、イイ会社、イイ給料、イイ仕事……。
 変なプライドばかりが邪魔をして自己嫌悪。
 会社にいれば嘘でも頼りにできる場があったわけで
 それが一気に取り外された今、
 不安で不安で仕方無いのでしょうか。
 そんなとき、ふとこの「転機のとき」を目にしました。
 転機のきっかけなんて、
 ホント突然だし、ホントささいなことから。
 ただ、それが良かったか悪かったかを決めるのは、
 本人がどれだけ努力したかであって、
 それ以上でもそれ以下でもないと。

 日々精一杯努力されている一人一人の行動に、拍手喝采。
 見えない向こう側から、勇気と希望を頂きました。
 まだまだ未熟な自分です。甘い甘い自分です。
 でも今日、ちょっとだけ、かしこくなったかもしれません。
 今年の春、大学院に受かったら、
 今度は自分が勇気と希望を与える番です。
 だから、精一杯、努力致します。
 (匿名のかた)



・ウチの母は私が小学校低学年の時
 (兄は高校生、姉は中学校生)父が亡くなり
 それからずっとお店を切り盛りして
 わたしたちを育ててくれました。
 どこへ行くにもバイクで
 70歳過ぎても乗っていた元気もんです。
 私もそろそろ心配させないで
 親孝行な事をしなくちゃと思いつつ、
 やさしい言葉もかけず30代を暮らしていました。
 そんな母も70後半になり
 ちょっとした骨折で足腰がめっきり弱くなりました。
 病院に付き添う時、杖だけでは頼りなく
 久しぶりに本当に久しぶりに手をつなぎ
 「あー、これからは私が守っていかなくちゃ」
 といつまでも子供気分で居た私も
 気持ちの上で少し切り替わったような気がします。
 まだまだ、やりたい事はあるし、
 後悔しないように自分の思った事は
 行動してしまうのは変わりないのですが
 一番大事なところの心構えが
 決まったところに今はあるような……。
 うまく言えないですけどこれが私の転機だったかも。
 (tama)



・「うわあ!今これ!転機じゃない!?」
 って自覚できるときと、振り返ってみて
 「あーあの時が転機だったんだなあ」
 と思い返すようなことと、
 2種類あるとすれば、私の場合は前者です。
 もう、この転機の原因は絶対に
 「53」の「矢沢」
 「アーユーハッピィ?」でボロボロ泣き、
 「成り上がり」のドラマ&本でまた泣き、
 毎日毎日、CDを車で聞きながら、帰ったらビデオ。
 やっぱり「53」の今の矢沢永吉が、
 死ぬほどカッコいい!
 ああいう人にならなければ。ああいう人がいいっつ!
 潔い。一本気。ぶれない。自分でケツは拭ける。
 「空き缶拾ったら、それで人生終わるのか?」
 「お前の代で挽回しろよ!」
 そうだ!そうだ!と頷きながらの2003年。
 まずは環境を変え、立場を変えます。
 立場や肩書きで態度を変える人たちとは
 一切、おさらばです。
 「俺はそうやって全て切ってきた」
 自分から切るのは怖い。
 でも中途半端に進むことの罪深さを教えられました。
 求めるものが、ぶれないなら、
 一貫して太く強く願うものがあるなら
 私も永ちゃんもスタートは一緒だと言い聞かせてます。
 とにかく「53」は現役バリバリ!あんなに
 かっこいい「53」のお手本、いつも心に留めてます。
 (c)



・いろんな転機を読んでいて書きたくなりました。
 今私は今まで勤めていた職を辞めて学生になっています。
 職を辞めた理由はいろいろあり、
 まだ未消化なところもありますが
 一番大きかったことは、
 閉塞感とそこにいる自分がきっと10年後も
 大して変わらないにちがいないと感じたことでした。
 かっこいいことを書いてますが、
 正直人間関係でかなり悩んだりもしました。
 今は学校へ行き、思ったよりも忙しく、
 日々貧乏と戦いながら学生生活を過ごしています。
 この選択がよかったのかなんて全くわからず、
 今もこの先卒業できるかどうかもわからない中にいるけど
 とりあえず自分に見えていることやできることを
 やって過ごしています。
 気がつくと、無駄に終わった一日や
 寝こんでしまった一日もあり、
 30代も半ばとなって
 ほんとに何やってんのかなと思うこともあり
 知り合いに電話をかけては話をして
 復活しながら生活してます。
 相変わらず先は見えないけれど、
 学校のいいところは自分よりもすごい人がたくさんいて、
 吸収できちゃうところだと思います。
 相変わらず人間関係はあるけれど、
 自分の中ではかなりかなり小さなことになり
 働いていたときよりも薄まりました。
 今は何も見えないけれど、自分のできることを
 していこうと思っています。
 おんなじ様な思いをもっている人が
 どこかにいると思って励みにしようと思ってます。
 (匿名のかた)



・1月から仕事をはじめ、遠距離恋愛もはじまりました。
 もうすぐ1ヶ月が経とうとしています。
 しばらく海外にいて、彼ともずっと一緒の生活で、
 自由な雰囲気のなか、
 のびのびと気ままな暮らしをしていました。
 それでも日本に帰国したのは、
 自分の夢に向かって、という選択で。
 あるNGOに就職したのですが、
 昨年のうちならば、他の国で働くこと、
 彼の近くにいられるようにすることなど
 いろいろな選択があったのではと今は思います。
 そして現在、結局は
 組織の中でピラミッドの下のほうにいます。
 今まで一人で決断ができたことから一転し、
 すべては判断待ち。
 はっきりと物を言わない人たちや、
 顔色ばかり伺う人などに挟まれ、
 いかにも日本的な立ち回りというのを
 学ばなければなりません。
 どうして他の国を相手に、
 ハードワークを迅速にこなさなきゃいけない職場なのに、
 ヨーロッパではこうやっているのに!
 と、思うように進まない苛立ちと、
 若い女の子という立場で意見が取り入れられない
 歯がゆさで、くやしい思いをしています。

 遠く離れた彼とは、毎日メールの交換と、
 約1週間に1回の電話。
 だけど仕事の愚痴で彼にあたってしまうこともあります。
 彼だって難しい状況で、私にやさしい言葉をかけて
 くれるのが今の私には一番のささやかな幸せです。
 長い人生なのだから、
 こんな転機なんてちょっとのことだと、
 これが私の夢に向かっての一歩なんだから、
 と自分に言い聞かせる毎日です。
 (Kada)



・1/29に掲載されていた小さな出版社に
 お勤めの匿名希望の方。
 なんだか、僕も似たような状況で
 職場の転職を考えていて、共感してしまいました。
 こちらも小さな広告プロダクションに
 コピーライターとして勤めていますが、
 サイクルの激しいこの業界の中、
 いつの間にか、社内で最年少なのに
 スタッフ内のトップにまでのし上げられ、
 意思に反して馬なりに進んでしまった自分の道に
 どうしても納得がいかず、現在、転職を考えています。
 年功序列とは考えていないのですが、
 いろんなキャリアを持つ人たちが
 集まってくる環境にあって、
 自信と力を持ち続けていくのは、
 やはり難しいものがあるのでしょうね。
 あくまで個人をとるか、組織をとるか、
 今でも、出せてはいない答です。
 夢だけをエネルギーに進んできた自分にとって、
 今が、いろいろなことを考え、
 転機するときなのかもしれません。
 ある意味「負け」であり「逃げ」なのかも。
 だけど、試合に負けても、勝負に勝つ。
 そんな人生であるための転機だと信じたいと思います。
 (り)



・昨年夏に結婚してから半年。
 昨年末には、初めての妊娠がわかりました。
 ふたりで初めて迎えるお正月は、喜び二倍。
 ‥‥のはずだったのですが、年明けの診察は
 胎児死亡という、辛いものになってしまいました。
 今は手術も無事済み、仕事もしばらく休みを頂いて、
 ウチでノンビリ過ごしています。
 結婚してからも共働きで、一日中ウチにいられるのは
 思えば、体調不良の時だけだった。
 夫が出かけてる午後、ひとりでお茶しながら、
 体調、メンタルケア、家庭人としての自分...
 ふと、考える。
 仕事も大切だけれど、
 もっと違う意味の大切さにも気づきつつある今は、
 まさに転機なのかも知れない。
 (みか)



・4年間の結婚生活にピリオドを打たれた方の
 メールを読んで、やりきれない気持ちになりました。
 何故かというと私はもっと長い間この方の
 おっしゃるとおりの生活だからです。
 >毎日の忙しさに甘えて、
  本当に大切な未来に向き合うことをせず、
  お互い見て見ぬふりをして、
  問題を先送りにしてきてしまいました。
  そのうち時間が解決してくれるだろうと、
  タカを括っていたのかもしれません。
 まったく、その通りです。
 こういう状態を世間では簡単に、
 「情で別れられない」といっているのかも。
 周囲の事情や何やかやで勇気が出ず、
 仲直りするには意地の張り合いで
 離婚にふみ切れないのを、
 いつか何とかなるのかもと思いながら
 努力もせず逃げまわって答えの出せない私たち。
 転機の時はいつくるんでしょう。
 それは自分たちの中に自然に生まれる物なのでしょうか。
 無理に転機をつくりだしたら、
 後悔するんじゃないかとおもったり、
 そう思うということはやり直した方がいいということか、
 と迷ったり・・。
 別れるにせよ、続けるにせよ、ただ朝起きたときに
 「またこの世界に戻ってしまった」
 というつらさからは本当に抜け出したい。
 季節の花や空気の臭いを、
 時間がどんどん過ぎゆくことを感じて、
 ただ焦るための材料にしたくない。
 転機の時、私にくるのはいつなんだろう・・・。
 (匿名希望)



・転機といえば、私は昨年結婚解消しました。
 彼が、仕事を探さず、投資家として暮らすと言い
 「私が扶養しなくてはならないかも?」
 と思ったとき、
 彼の甘える行動が急に気持ち悪くなったから。
 今後長い付き合いになることを考え
 耐えられそうになかったので……。
 結果は後悔してません。
 昨年は派遣で、経験職と言うことで、
 媒体の広告進行という仕事に就きました。
 社員での間、卵巣膿腫になり手術し復職しましたが、
 IT関連広告代理店での勤務は残業が多く、
 身体的にきつく辞めてしまい、何社か転職したけど、
 体がきつく、現在派遣で働いてます。
 しかしながら、派遣とはいえ
 出版社(社員の人は「うちは出版社ではなく……」
 というへんな口癖がある。教育関係と言いたいらしい)
 という業界には残業はつきもの。
 そればかりか派遣の使い方が、
 仕事の丸投げ=アウトソーシングという考えで、
 不十分な説明、キーキー喚く人が管理者……。
 確認しようとしても、
 機嫌の様子うかがい無しに話そうものなら、
 こっちを指し、「あれなん? 逆切れ?」と
 人の話しすべてが非難にしか聞こえない様子。
 誰かが嫌で辞めるのは良くないと言うけれど、
 派遣なんだから面倒な関係になりたくないことを考えると
 契約更新したくない。
 だけど、私が嫌いなあの人には全く通じていない。
 鈍いってうらやましい。
 仕事中心の生活が駄目だと
 アクセサリー作りをはじめたけれど、
 現実逃避に明るい兆しはなく、心身病んでくる。
 これも後厄と諦めるしかないのか?考え過ぎなのか?
 今まで、待つよりも自分で行動だった私は
 何処に行ってしまったのだろう。
 今が転職の転機ではないだろうか?
 越えなくてはならない山なのか?
 (MORU)

2003-02-03-MON

 

戻る