『ぼくは見ておこう』 松原耕二の、 ライフ・ライブラリー。 |
<ほぼ日読者のみなさま> 先週はバレエの世界で成功手前の17歳の物語でした。 じゃあ成功後の人は、ということで 今週は世界を極めた日本人バレリーナです。 頂点に立った彼女は、 いまどんな風景を見ているのでしょう。 吉田都の世界 野茂英雄が大リーグの扉をひらき イチローが野手としての第一歩を踏みだす。 中田英寿はイタリアのセリエAでプレーする。 世界の本場に乗りこんで活躍する日本人が増えている。 しかし一足先に すでに世界の頂点を極めている日本人女性がいる。 イギリス、ロイヤル・バレエ団の プリンシパルをつとめる吉田都だ。 プリンシパルとは主役を踊るバレエダンサーのこと。 バレエの本場ヨーロッパでも一、二を争う 代表的なバレエ団のトップになった。 実力だけではない。 1991年にはイギリスのバレエ雑誌で 『ダンサー・オブ・ザ・イヤー』に選ばれ 最も人気のあるバレリーナとなった。 「どんな賞よりもうれしかったです。 だって批評家じゃなくて、 イギリス人の観客の投票で決まったんですから」 吉田は恥ずかしそうに言った。 身長は158センチ。 ヨーロッパでは小柄なほうだ。 『白鳥の湖』で大勢の白鳥たちに囲まれると、 主役である吉田の姿は隠れてしまう。 普段の吉田はどちらかというと物静かで、 ときおり迷子になった子犬のような 頼りなげな表情を浮かべる。 人見知りし、パーティーも苦手、 大勢の前での挨拶など何をか言わんやだ。 吉田は言う。 「お客さんが拍手してくれると 申し訳ない気がしてました。 手が痛いんじゃないかって。 もういいのにって思ってました」 拍手が少なくて不満をもつダンサーがいても 不思議ではないが、 拍手する観客を気遣うバレリーナなどどこにいるだろう。 吉田はそんな女性だ。 彼女は9歳でバレエを始めた。 体を動かすのが大好きだった少女が 自分の意志でバレエを選んだ。 毎日3時間から7時間の練習を繰り返し、 17歳の時ローザンヌ国際バレエコンクールで入賞。 奨学金をもらって イギリスのロイヤル・バレエ学校に留学した。 当時、海外のバレエ学校に入る日本人はまだ少なく、 吉田も世界へという意識を持っていたわけではなかった。 1年だけ我慢すれば日本に帰れると思っていたほどだ。 おまけに最初はロンドンが大嫌いだった。 太陽はめったに顔を出さないし、食事はまずい。 稽古はつらいし、言葉は通じない。 ヨーロッパに留学するダンサーの多くは 日本人であることを強烈に意識するようになるが、 彼女も例外ではなかった。 バレエはヨーロッパの芸術で、 日本人は深いところではわからないのではないか。 手足の短い日本人はバレエに向いていないのではないか。 「どうやって克服したのですか」と訊ねた。 「あきらめることです」と彼女は笑った。 私が意外そうな顔をしているのを見て彼女は続けた。 「手足が短いことを嘆いてもしょうがないでしょう。 他のやり方でみせることを考えたんです」 彼女はロイヤル・バレエ学校を卒業して、 イギリスの サドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエ団に 入ることが許される。 ロイヤルバレエ団に次ぐ イギリスで二番手のバレエ団だった。 そこで彼女はその後の人生に大きな影響を与える 芸術監督に出会う。 ピーター・ライトだ。 振付家として世界的にも知られる彼はサーの称号を持つ。 「妨げになったのは日本人の控えめな性格です。 都はシャイで自分を強く表現できず苦労していました」 ピーターは私に言った。 来日した際に東京で話を聞いた。 自分のことではなく、都のことならばと言って インタビューに応じてくれた。 落ちついた表情をした白髪のイギリス紳士だった。 「なぜ表現できないんだ、と彼女に強く言いました。 できる。都ならできる。もっとできる。 すると彼女は泣きながら舞台から走り出ていきました。 ピーターは私を嫌っているのよ、と叫びながら。 嫌っているどころか、私は 彼女に才能があると思ったから追い詰めたんです」 ピーターは懐かしそうに言った。 日本人であることは マイナスだけに作用したわけではない。 技術を重んじる日本のバレエ教育で彼女は基礎を学び、 動きの細やかさと質の高さを獲得していた。 彼女の踊りが持つ『品格』の源は日本にあるのだ。 ある日彼女はピーターの部屋に呼ばれる。 何かまたヘマをしたのかなと思い、恐る恐る入ると 「おめでとう。君はプリンシパルだ」と祝福された。 彼女はわずか4年で プリンシパルへの昇格を果たしたことになる。 その後95年に、ロイヤル・バレエ団に プリンシパルとして移籍。 ダンサーにとっては最高の栄誉を彼女は29歳で得る。 「ここまで来れるなんて思ってもみませんでした。 ひとつひとつ積み重ねていたら、 いつのまにか遠くまで来ていたんです」 仕事を終えてタクシーで青山劇場に着いたのは 午後8時すぎだった。 駆け込むと 『くるみ割り人形』の第一幕が終わったところで、 観客たちがロビーで会話と飲み物を楽しんでいた。 日本のバレエ団に招かれた吉田が、 ゲストとして第二幕の最後の15分だけ 踊ることになっていた。 この日の舞台は吉田にとって特別な意味があった。 振付がピーター・ライトだったからだ。 ピーターも客席から舞台を観ていた。 第二幕が始まる。 絢爛豪華な衣装をつけたダンサーたちが競い合う。 舞台装置などは完成の域に達しているのだが、 肝心のダンサーたちが ときおり素人目にもわかるミスをおかしていた。 8時半を回ったところで吉田が登場した。 一斉に拍手が湧く。 この瞬間を待ちわびていた拍手だった。 次の瞬間には水を打ったように静かになる。 観客たちが集中して見つめているのが伝わってくる。 それまでのダンサーの動きとはまったく違う世界が そこにはあった。 吉田は滑るように舞台のうえを駆けまわる。 彼女の足運びはとても静かだ。 ほかのダンサーたちがバタバタと音をたてて動くなか、 彼女の静けさは際だっていた。 普通のダンサーは床に着地したとき 足先から体重が逃げていく。 ところが吉田の場合は 体重を体のなかに吸収して上にもっていく。 だから音がしないのだ。 足の強さと鍛錬の結果であり、 常に考えながら練習を繰り返してきた 長き時間の証明でもあった。 吉田の軽やかな動きを見ているうちに、 私は何かが違うと思い始めていた。 前の年に見た彼女とは明らかに違うと。 それは1週間前、 彼女の舞台を観たときに抱いたのと同じ感覚だった。 『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーン。 派手な動きはまるでない。 手の繊細な動きと、 相手との間合いだけで官能的な場面になっていた。 そのときは初めて観る演目だからだろうと思った。 しかしこうして別の舞台を観てもやはり感じたのだ。 何かが変わったと。 それは観客との一体感とでも言うべきものだった。 それまでもなかったわけでない。 いちぶの狂いもない正確な動きと気高い透明感は、 観るものを幸せな気持ちにしてきた。 だがいまの彼女はもっと強いものを 発しているように思えた。 それは観客をわしづかみにして すべて味方につけてしまうような存在感だった。 一夜にしてスターになる。 そんな劇的な出来事が 1946年のニューヨークで起こった。 場所はメトロポリタンオペラハウス。 『眠れる森の美女』のオーロラ姫を踊った マーゴ・フォンテインは、 文字通り一夜にして大スターになった。 「それまでも彼女はいいダンサーだった。 ただ観客に伝わるものがなかった。 ところがその日のマーゴからは 何かあふれ出るものがあった。 すばらしい表現力で観客を魅了したんです」 ピーター・ライトは目を細めて言った。 「踊りが変わったわけではない。 ただ違ったのはスターになったということ。 突然トンネルを抜けて、 観客とコミュニケーションを とれるようになったんです」 マーゴは当時27歳。 バレリーナとしては遅咲きだ。 それから彼女は 20世紀を代表するバレリーナに駆け上っていく。 なぜピーターが私にこんな話をしたのか。 吉田についてインタビューをしている最中だった。 彼が突然自分からマーゴ・フォンテインを 引き合いに出したのだ。 ピーターは言う。 「マーゴの経験と都が同じとは言いませんが、 都にも起こると思います。似てます。 都は以前は観客に冷たい感じを 与えることもあったのですが、 2週間前に見た『ジゼル』で 彼女は観客を感激させる踊りをしていました。 非常にエキサイティングでした」 私は驚いた。 私のような素人が感じただけではなく、 ピーターも吉田が変わったと思っていたのだ。 「マジックです」 ピーターが繰り返す。 「マジックです。魔法的な要素と言ってもいいでしょう。 技術的には都はマーゴよりはるかに優れています。 しかし人を感動させるのは技術ではない。 魔法的な要素なのです。 マーゴはそれを獲得した。 そして都もマーゴとは別のやり方で、 魔法を持ったと思います」 もしそうだとしたら、吉田に何が起きたのだろうか。 吉田は赤いセーターを着てアイスオーレを飲んでいた。 「マーゴ・フォンテインのニューヨーク公演は、 今でもロイヤルバレエ団で伝説になってるんですよ。 まさに一夜にして大スターになったと」 マーゴもロイヤルバレエ団のプリンシパルだった。 マーゴの楽屋をその後吉田がひきついだ。 私は舞台の感想と、 ピーターが吉田の中にマーゴとの共通点を 見い出していることを話した。 彼女は驚いたような表情を浮かべて言った。 「ピーターがそんなことを・・。 うれしいですけど、自分ではよくわかりません」 「でも自分の中で何か変化があったのではないですか」 私は言い方を変えて何度か訊ねた。 吉田はしばらく考えてから口を開いた。 「もしあるとしたら・・。 ケガが影響しているかもしれません。 これまで二度ひどく腰を痛めました。 それが転機になっているような気がします」 吉田は思いだしながらゆっくりと話した。 一度目は9年前。 彼女は腰を悪くして 8ヶ月間踊れない日々が続いた。 考えたすえ吉田は自分の体の動きをかえた。 脚力に頼るばかりでなく もっと上半身を使うことにした。 手の動きにも細かい神経を払うようになった。 二度目はごく最近。 私とピーターが彼女の変化を感じた舞台の5ヶ月前だ。 このときのケガが彼女に大きな影響を与えることになる。 それは大事な日の前夜だった。 イギリスのテレビ局BBCが 翌日の舞台を生中継する予定だったのだ。 「BBCが生中継するのはもう十何年ぶりだったんです。 それに自分のプログラムが選ばれるなんて 思いもよりませんでした。 もう、うれしくて。 そんな、一番ケガをしてはいけないときに やっちゃたんです」 彼女は自分の部屋で腰をひねってしまう。 痛みから体を動かすことすら出来なくなった。 じっと寝てるしかなかった。 「もう本当にショックでした。 代役でやってもらったんですが、 つらくてその生中継は見ていられませんでした」 動けなくなるまでの事態は初めてだった。 もう二度と舞台に立てないのではないか。 天井を見続ける日々の中でそんな不安にかられた。 助けてくれたのは友人たちだった。 食事の支度から身の回りの世話まで 何もかもやってくれた。 「人のありがたさがわかりました。 心から感謝しています。 ひとりでは生きていけないんだって実感しました」 バレエを始めて26年間で、 最も大きな変化が彼女に訪れる。 「ずっと何よりもバレエが一番でした。 でもわかりました。 バレエよりも大切なものがあることを。 家族や友人、そして人がなにより大事だと」 彼女は穏やかな表情で言った。 「バレエが一番じゃなくなったんです」 2ヵ月後、彼女は再び舞台に立つ。 体が動く喜び、 まして踊れる歓喜を味わいながら彼女は舞台を駆けた。 「前より楽に、自由になったような気がします」 そう言って彼女は微笑んだ。 バレエのために他のすべてを手放してきた彼女が、 バレエよりも大事なものを見出だした瞬間。 不思議なことが起きた。 観客たちは彼女の踊りにより強く惹きつけられたのだ。 私はピーター・ライトの言葉を思い出していた。 「人を感動させるのはマジック、魔法的なるものだ」 マジック。 それはマーゴ・フォンテインが 好んで使った言葉でもあった。 吉田都はいま、新たな風景を見始めている。 |
2001-03-20-TUE
戻る |