論理と情緒
ちょうど一年前に読んだある文章を、
ことあるたびに思い起こしては
心の中で反芻してきた。
それは朝日新聞の『私の視点』に、
お茶の水大学教授の藤原正彦が書いた文章だ。
数学者である藤原は
『情緒力の低下が国を滅ぼす』というタイトルで
次のような論を展開する。
「かつてない情報化社会の中で最も重要なのは、
過剰な情報に溺れずに、本質を選択する能力だ。
この能力は論理的思考によって得られるのではない。
論理はどれも筋が通っているから何を選択するかに、
論理は役立たない」
「選択は情緒による。
家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛、卑怯を憎む心、
もののあはれ、他人の不幸への感受性、
などといった情緒が、
どれをどれほど重視するかの価値判断に働く」
藤原はこう述べた上で、結論づける。
「本質を見失い、ひとつの論理で突っ走りがちな現代、
情緒力はますます重要になっている。
情緒力を育むのに、自然や芸術に触れるのは有効だ。
統計によると、先進国の中で
日本の中高生は最も本を読まないという。
理科離れは科学技術立国を危うくすると
話題を呼んでいるが、
読書離れのほうが重要である。
それは人々の情緒力低下を招く。
すなわち数ある論理の中から
最も本質的なものを選び出したり、
価値判断を加えたりする能力を減退させる。
これは国民の方向感覚を失わせ、
ひいては国家を滅ぼすことになるからである」
こうした趣旨の文章を読んで
僕は軽いショックを受けた。
ものの本質を選択するためには、
論理より情緒が重要だと言っているのが、
『数学者』だったからだ。
数学には論理的思考こそが重要なのに
(というイメージを勝手に持っているのだが)、
その数学者が情緒こそが重要だと言っているのである。
全くといっていいほど僕は数学が出来なかった。
偶然にも藤原の大学で数学を専攻していた姉が
「数学は美しい」と呟いているのを聞いても、
何のことだかさっぱりわからなかった。
答えはひとつしかないなんてつまらないと
抗弁してはいたが、
要するに数学の問題が解けなかったのだ。
中学まではなんとかなったが、
高校に入るともうお手上げだった。
そんな有様だったためだろう。
論理によって本質を導き出す数学者が、
情緒を否定こそすれ最も重要だと考えるとは、
思いもしなかったのだ。
しかもこの10年ほど日本では、どちらかと言えば
論理が幅を利かせてきたように思う。
バブル崩壊を未だに克服できない経済と、
相も変わらぬ自民党政治が続く状況のもとで、
競争原理を重視したアメリカ的社会の優位性を
論理的に説く人があちこちで大きな顔をしていた。
そんな中、こともあろうに数学者が、
本質を選択するのは
論理ではなく情緒だと言っているのだ。
数学者でありながら藤原は多くの本を出している。
数学書ではない。
アメリカやイギリスでの体験や、教育論、
自らの家族のエピソードなどをユーモアたっぷりに描き、
しかもそこには常に本質的なテーマが横たわっている。
30代半ばで『若き数学者のアメリカ』を書いて
日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、
その後も次々と作品を発表している。
『心は孤独な数学者』では、3人の天才数学者、
イギリスのニュートン、アイルランドのハミルトン、
インドのラマヌジャンの人間像を追っていく。
決して幸せとは言えないそれぞれの人生が
透けて見えるだけでなく、
藤原の心の旅の記録にもなっている。
藤原はあとがきで、
天才数学者の人間像を知るために
彼らの国を訪ねることにしたと書いた上で、
こう記している。
「自ら現地に足を運ぶことにした。
いくら輝かしい天才であろうと、
生まれ育った風土下にあるはず、と考えたからである。
ここで言う風土とは、自然、歴史、民族、
文化、風俗などである。こうして調べていくうちに、
天才の人間性ばかりか、数学までが、
そういったものの産物であることがわかった」
さらにこうも言っている。
「最も意外だったのは、3者とも2人はキリスト教徒、
1人はヒンズー教徒として、
神を深く信仰していたことである。そしてその信仰が、
彼らの希有な力の源泉となっていたことである。
最も論理的な数学が、最も非論理的な神に依拠していた、
というのも興味深かった」
論理的な数学までもが、
情緒から自由ではありえないどころか、
情緒が数学を生み出す大きな力になっていることを、
藤原は見いだしていく。
『数学者の休憩時間』の中でも、
藤原は情緒についてくわしく書いている。
「情緒という言葉は、意味が広くやや漠然としている。
喜怒哀楽などの一時的情緒だけでなく友情、勇気、
愛国心、正義感など、
さらにはより広い高次なものまで含んでいる」
としてうえで藤原は特に重要な情緒として、
『他人の不幸に対する敏感さ』と
『なつかしさ』をあげる。
さらに論理的思考に頼る危険性を次のように述べている。
「論理的思考が万全でないのは、この世の中に、
論理的に正しいことがゴロゴロあるからである。
例えば、少年非行について
『厳しく体罰を加えるべき』も
『体罰は絶対にいけない』も
『ケースバイケースで体罰を考える』も、
みな論理が通っている。
ユダヤ人虐殺のナチスにも、
ベトナムをじゅうたん爆撃したアメリカにも、
アフガニスタン侵攻のソ連にも論理はある。
問題はいくつもある正しい論理から
どの論理を選ぶかである。
通常その選択は情緒によってなされる」
藤原は論理がいけないと言っているわけではない。
論理的思考だけ頼ることが
いかに過ちを犯しうるかを指摘しているのだ。
恥ずかしながら僕は、藤原正彦が、
作家である新田次郎の息子であることを知らなかった。
藤原の作品の中で僕が最も好きな文章のひとつは
『父の旅 私の旅』だ。
父である新田次郎が亡くなる直前まで取り組んでいた小説で
取材のために訪れたポルトガルを、藤原も旅する。
父親と出来るだけ同じルートで、
父が何を思い何を感じたかを共有したいという思いからだ。
父親を感じることで自分とは何者か、
自らの原点を感じていく。読み進むうち、
藤原自身が実に豊かな情緒の持ち主であることに
気づかされる。
自分の日々の生活を考えても、時に
論理がいかに、はかないものかと思う。
何かを議論すると様々な論理が続々と出てくる。
その中から何か、
あるいは何かと何かを選択するのだが、
翌日には同じ人がまったく別の論理を
展開している場面に出くわすことすらある。
藤原の言うように、やっかいなのは
正しい論理がたくさんあることなのだろう。
正解などない。そこから優先順位を決め、
最終的な判断をするのは
確かに情緒に依るところが大きいのかもしれない。
アメリカのジャーナリストであるハルバースタムは
『ベスト&ブライテスト』の中で、
アメリカの『最良にして最も聡明な人々』が
どのようにして間違った選択をし
ベトナム戦争の泥沼に入り込んでいったかを描いている。
彼らはインドシナが共産化すると
東南アジア全体が失われるいうドミノ理論を信じ、
軍事力でアメリカ的理想を押しつけようとした。
それを担ったのが、アメリカで
最も優秀な人間たちが集められた政権だったのだ。
ハルバースタムは、ある意味で、
『論理』が時にいかに危ういかというメッセージを
伝えているとも言える。
それではイラク戦争はどうだったのだろう。
そして世界は、今の日本はどうだろう。
藤原は講演の中で、
今の世界は
近代的合理精神や論理的思考が
限界を迎えているとしたうえで、
次のように述べている。
「綻びがきた世界に対して、
日本はどんな貢献ができるのか。
文明は、論理や合理のうえに成り立っているのだから
否定はできない。論理の分析的思考に対して総合的思考、
欧米の局地的思考に対して日本、アジアの大局的思考、
特に日本人のすぐれた情緒力で修正していく。
日本文学の『もののあはれ』に
代表される自然の美しさに対する感受性は飛び抜けている」
論理と情緒。
これからの世界を考えるひとつのヒントになるかもしれない。 |