糸井 |
ぼくはダイアモンドさんの本を読みながら、
ある、大好きな先生のひとつの言葉について
よく思い出すんです。
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ダイアモンド |
はい。それはどのような?
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糸井 |
それは吉本隆明さんという方が
ある犯罪に際して話された言葉なんですね。
日本で15年くらい前、
ひとりの子どもが殺されて、首を切りとられ、
その首だけが学校の門の前に置いてあったという
事件がありました(神戸連続児童殺傷事件)。
そしてその事件は当時、
非常に猟奇的でスキャンダラスなニュースとして、
毎日、報道されていたんです。
でもその先生は、
メディアがその事件について
「人間のやることじゃない」
「犯人は常軌を逸している。信じられない」
といった論調で騒いでたときに、
「いや、犯人が特別というのは、違うんだ。
人間にはもともと歴史的に
そういうことをしていた時代もあるんだから」
ということを言ったんです。
人間がやってきた歴史の中には
たとえば日本でも、武士が手柄のために
相手の首をさらしていた時代もある。
だから、その事件についても
「スキャンダラスな事件としてではなく、
『人間がやりうること』として捉えています」
と、おっしゃったんですね。
それでぼくは、その言葉を聞いたとき、
自分がいかに、
いまの時代、いまいる場所の考え方に
とらわれているかについて
反省したんです。
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ダイアモンド |
ええ、ええ。
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糸井 |
それでぼくは、
自分が考えることというのは非常に
「いまの時代、いまいる場所の考え方」に
とらわれやすいものだなあ、
ということを思うんです。
ダイアモンドさんの本を読んでいても同じように、
とくにダイアモンドさんがニューギニアや、
大昔の人類について教えてくださっているときに、
そう思うんですね。
また、ぼくにはダイアモンドさんの姿勢自体も
「いまいる自分」ということに
とらわれない姿勢、という気がするんです。
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ダイアモンド |
はい。
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糸井 |
だから、お聞きしてみたいのは、
さきほどダイアモンドさんが、
「誰にでも偏りがある」というお話を
してくださいましたけど、
では、その「偏りがある」人間として、
それでもできるだけ「いまいる自分」にとらわずに
物事を考えるためにはどうしたらいいんでしょう。
と、いうことなんです。
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ダイアモンド |
はい。いましていただいた質問、
非常に大きな質問をいただいたように思いますし、
たいへん興味深いご質問だと思います。
ありがとうございます。
それで、そうですね‥‥
どのようなことが「いまいる自分」に
縛られないための役に立つか、であれば、
一つ、こうではないかと思うことがあります。
それは、物事の考え方です。
私はいつでも物事を「比較」から考えるんですね。
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糸井 |
ええ。
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ダイアモンド |
私は物事の理解は
正しい「比較」から生まれると考えているんです。
比較によって初めて、
それぞれの社会の「特徴的なこと」や
「普遍的なこと」が見えてくる。
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糸井 |
そうですね。
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ダイアモンド |
ええ。なのですが、
一般的に歴史の専門家というのは
「比較」で考えることをしないんです。
多くの歴史の専門家というのは
たとえば「近世フランス史の専門家」であるとか、
必ず何々の時代やどこどこの国の専門家で、
いつも、その「専門」という視点から
さまざまな考察をしていくんですよ。
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糸井 |
はあぁー。
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ダイアモンド |
でも、私は、
「ひとつの場所や時代をじっと見ているだけで
その文明のことを理解をできるものだろうか」
と疑問に思うんです。
だから、そんなふうに
一つのものをじっと見つめる
やりかたではなく、
「比較」ということから、はじめる。
さまざまな物事に対して
そういうアプローチで考えていくことが、
いろんな人が、その「いまいる自分」から
できるだけ自由に考えるための
ヒントかもしれないな、と思いますね。
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糸井 |
ああー。
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ダイアモンド |
それと、これはまた
別の話になってしまうかもしれないのですが‥‥。
あなたの先生の話から思った
「人間の残虐さ」の話なのですが。
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糸井 |
ぜひ、聞かせてください。
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ダイアモンド |
私は1937年生まれです。
だから、子供時代に
第二次世界大戦を経験しました。
アメリカで暮らしていましたから、
爆撃に遭うような直接的な経験ではなくて、
人の話を聞いたり、ニュースを見たりという
間接的な経験ですが、
たいへん大きな影響を受けたと思っています。
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糸井 |
はい。
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ダイアモンド |
1945年の終戦のとき、私は8歳だったんですが、
私と同い年生まれのアメリカ人みんなが
忘れられない写真が、2枚あるんですね。
1枚は、おそろしいくらいやせ細った人たちが
食べ物を求めて金網のところに押し寄せている写真。
もう1枚は、ブルドーザーが
遺体を溝に入れている写真です。
それはどちらも、ナチスの強制収容所から
ユダヤ人たちが解放されたときに撮られた写真です。
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糸井 |
ええ。
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ダイアモンド |
そして、1945年の当時、
アメリカでは誰もがさかんに
「ナチスは異常だった」
「ナチスは特別だった」
「あんな悲劇はもう起きない」
と言っていました。
あの写真を思えば、私も心から
あんな悲劇はもう起きてほしくないと思います。
ですが、
その後の世界を見ると、どうでしょう。
それから60数年の間に私たちは、
何十という大量殺戮を見聞きしているわけです。
第二次世界大戦以後、おそろしいほど大量の人々が
そういった大量殺戮を理由に亡くなっています。
カンボジアでの大量殺戮でも
東パキスタンの独立戦争でも、
それぞれ数百万人規模で犠牲者が出ていますし、
これらより小規模なものも、たくさんありました。
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糸井 |
ええ、ええ。
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ダイアモンド |
私は1961年にドイツを訪れました。
私はドイツの文化というものが本当に大好きだったので、
あんな素敵な文化を持っている人たちに
なぜあれほどおそろしいことができたのか、
確かめたかったんです。
私はドイツへ行き、ドイツの人々と
ほかの文化の人々との「比較」をしました。
ドイツの人たちというのは、
なにかほかの国の人たちと違うんだろうか。
そのなにかの違いが、あのおそろしい時代を
生み出したんだろうか。
だけど、最終的にわかったことというのは、
ドイツの人たちが特別だったんじゃない。
やはり人間というのは、
大量殺戮というのをやるものなんだということでした。
だから悲劇はまた、起きる可能性がある。
そしてそのことに対しては、
常に気をつけなくてはいけない、
ということを心に刻みました。
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糸井 |
はい。
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ダイアモンド |
ナンセンスに聞こえるかもしれないのですが、
私にはひとつ、心配していることがあります。
それはなにかというと、
アメリカではここ十年ほど、
特に保守的な考えを持った人々が、
ほかの意見をまったく受け入れない状態が
続いているということです。
アメリカには普通の、
ほかの意見をちゃんと取り入れる人たちも
たくさんいます。
ですが、ナチス時代のドイツにも、
そういった普通の人々が何百人もいて、
ナチスはドイツという国の一握りだったわけです。
それを思うと、いまのアメリカだって、一部の人たちが、
何かを起こしてしまわないとも限らない。
‥‥こんなことを周りに話すと、
「心配しすぎでは?」などと言われますけれども、
過去の歴史を見ると、私は
それは人間のなかにある性質なのだから、
注意を払いすぎるくらいでちょうどいい、
と思うんです。
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糸井 |
ええ。 |
(つづきます。) |