ほぼ日WEB新書シリーズ
人を表現するのに、
天才だの達人だの鬼だの名人だのという
冠になるような言葉があるのだけれど、
米原万里さんのような人は、
どう言われるのだろうか。
高等数学の記号を扱うような
細密さで言葉をあつかい、
しかも笑顔のような見えない言葉も見逃さない。
米原さんの本を読んでいたら、
すごい人だなぁということはわかるのだけれど、
じかにお会いして、正直言って、ぼくは圧倒された。
こういう人に会うのは、初めてのことだった。
米原さんの冠が、
天才なのか達人なのかわからないけれど、
数十年後にも確実に残っている人なんだろうなぁ
ということは、つくづく思った。
そんなぼくのショックが、
伝わってくれたら、おもしろいんだけど。
────糸井重里
第9回
ロシア語の地獄
米原 通訳は、あくまでも「家来」なんですよ。
「ご主人」は、話し手と聞き手です。
糸井 そうですよねえ。
それが、どこまで行っても、矛盾を生みますね。
米原 そうなんです、絶対に‥‥。

でも、
「従属している者を抱えてはいるけれど、
 実は支配している者が従属している」
という関係は、いつも、あるでしょう?
糸井 マゾが強気のサド・マゾとかね。
「もっといじめて!」って。
言われてるから攻撃しなきゃいけない。
米原 そうそう。
結局、通訳がいないと、
何にも通じないわけですから。

通訳が下手だと、
どんな高邁なことをいっても、
すごく幼稚なこととしてしか、
伝わらないわけです。

だから、
本当は支配しているんですけれども、
でも、通訳は、個人の主体としては
何にも言えないんですよね。
糸井 ひどい立場だよなぁ。
米原さん、通訳に向いていたんですか?
米原 いや、ぜんぜん向いてないですよ。
「わたしには向いてない」と思っていました。
向いてないと思っていたけれども‥‥。
糸井 でも、いますよね、ここに。
米原 そうですね。
やりはじめたら、とてもおもしろいと思った。
糸井 あぁ、「向く」「向かない」じゃなくて、
興味の方がグッと前に出たんですか。
米原 はい。
最初はもちろん、
そのままでは食べていけないから、
通訳をはじめたんですけどね。

だから、
「本当は私に最も向いた別の職業が
 この世の中にあって‥‥」というか、
そういうことは、最初は思っていました。

そんな「天職」に出会うまで、
通訳は時間の割にはお金がいいし、
私はロシア語というのもある程度できるから、
「これでまずは食いつないで、
 食いつないでいる間に天職に出会おう」と。
そう考えていたら、
何か食いつなぎの仕事が、
すごくおもしろかったという。
糸井 もうちょっとさかのぼって、
これはもう何度もお答えになっていることで、
面倒くさいかもしれないですけど、
ロシア語との出会いについて
直に聞いてみたいんですけれども。
米原 私が小学校3年、9歳のときに、
父親の仕事の都合で
チェコスロバキアのプラハに移り住みました。

そこで結局、
5年過ごすんですけれども、
最初、親は私を、地元の学校に
入れようと思っていたそうなんです。
しかし、よく考えると、チェコ語だと、
教科書も先生も、日本に帰ってから手に入らない。

「ロシア語なら
 ずうっと勉強が続けられる」というので、
ロシア語の学校に入ったんです。
ソ連の外務省が経営する
チェコスロバキア在住のソ連人のための学校でした。
だから、すべて授業はロシア語で、
ソ連からやってきた先生が教えるという学校です。
糸井 そのときの戸惑いが
やっぱり聞きたくなるんですが‥‥。
米原 もうすでに、3年生でしたから……
糸井 とんでもなくツライですよね。
米原 とんでもないです。

だって、ロシア語は
ぜんぜんできなかったんですから。
まったくできないところにほうりこまれて、
毎日通わなくてはいけないでしょう?
私、学校へ行くのが毎日ツラくてツラくて、
本当に行きたくなかったですね‥‥。

だって、何にもわからないのに、
一日じゅう教室に座ってなくちゃいけなくて。
ときどき意地悪な子がいて、
日本から持ってきた私の筆箱なんかを
取り上げちゃったりするんだけど、
それに抗議もできないでしょう?
言いつけもできないでしょう?
それから、みんなが笑っているときに
一緒に笑えないでしょう? 
糸井 9歳の子がねえ‥‥。
米原 あれはつらいですね。
本当に、
「いつこの地獄は終わるのか」
と思いましたね。
‥‥で、肩凝りと偏頭痛。
糸井 カラダに来ちゃう。
米原 体に来ちゃうんですね。
きっと大人だったら、自分で荷物をまとめて
帰っちゃうと思うんです、あんな状況に置かれたら。
でも、子供は、しょうがないですね。
糸井 親はそのときにどういう立場をとりました?
米原 親は、私が学校から宿題を持ってくると、
その宿題を全部辞書引いて、
日本語に翻訳してくれましたね。
糸井 支え棒になってくれたんだ。
米原 そして、だんだんだんだん、少しずつ
薄皮がはがれるようにわかってくるんですね。
糸井 僕らみたいに外国語が全く苦手な人間にとって、
その薄皮までには何があるんだろう、と思うんです。
米原 日本語だって、
結局ほんとうは少しずつそうやって
覚えてきたわけですけれども。
例えば名詞は、コップとかそういうものは
だんだんだんだん、わかってきますよね。

それで、本当に必要な単語というのは
人間頻繁に使うから、学習というのは
ドリルで何度も何度も繰り返すことですよね。
何度も何度も耳にしたり、
何度も何度も文字で目に入ったりすると、
自然に身についていくんですよ。
糸井 接する機会を
圧倒的にふやしていくということですね。
米原 ふやしていく。
だから、それは、外国語の才能あるなしは
全然関係ないんですね。
(つづきます)
2014-08-17-SUN
(対談収録日/2002年10月)


第1回
もうひとつの世界を持つということ
第2回
「他人の代表」という集中力
第3回
大事なところを掴めばいい
第4回
無難な翻訳=誤訳
第5回
真意をごまかさない方がいい
第6回
どれだけ自分を殺せるか
第7回
イタコになること
第8回
神と透明とのジレンマ
第9回
ロシア語の地獄
第10回
オクテの方が、完成度は高い
第11回
愛と憎悪
第12回
感情をこめると、相手に通じる
第13回
熱演だけじゃ、説得できない
第14回
ソ連の作文教育
第15回
書く訓練
第16回
グローバルスタンダードはない
第17回
日本の特色を聞かれたら
第18回
ロジックは記憶の道具
第19回
記憶は創造の源泉