── | 山口さんにとって「技術」とは何でしょうか。 |
山口 | 技術。むむむ。 |
── | 先日、会田誠さんが28歳のときに 「子どものフリして描いた」 というコンセプトの絵を、展覧会で見たんです。 |
山口 | ええ、ありますよね。 |
── | そのとき、確固とした「技術」があるからこそ あれほど「子どもみたいに」、 つまり 「じょうずに、下手に」描けるんだろうなあと 思いまして。 |
山口 | なるほど。 |
── | 近著である『山口晃 大画面作品集』の解説で 椹木野衣さんも書かれていますが そんな会田さんが 「嫉妬するくらいの技術」を持つ山口さんに 「技術」とは何たるかについて うかがってみたいなと思い、今日は来ました。 |
山口 | いやいや、わたくしなどまだまだですが‥‥ ただ、ひとつ言えますのは 技術というのは「ない」と「不足」です。 |
── | 大前提として、「ない」と話にならない。 |
山口 | それはたぶん、絵に限らずとも、でしょうが。 |
── | ええ。 |
山口 | ただし、中途半端にあっても いろいろと、じゃまになることがあります。 |
── | そうなんですか。 |
山口 | 生半可な技術で描かれた絵などにくらべたら 子どもの絵のほうが、よほど見どころがある。 思いますに、おそらく「技術」というものは 持っていることを 忘れさせるくらいにまで磨き込まれることが ひとつ、大切なことではないかと。 |
── | 持っていることを‥‥忘れさせる。 |
山口 | ええ。 |
── | それは「見る人に、存在を気づかせない」 という意味ですか? |
山口 | そうですね。わたくし、中学生のころに。 |
── | はい。 |
山口 | 文化祭で絵を展示したことがあるんです。 その、スポーツカーの絵を。 |
── | ははあ。 |
山口 | 国産初のミッドシップなんとか‥‥というような、 まあまあ、ともかく スポーツカーの斜め後ろからの姿を描いたんです。 そのとき、いちおう「背景」も描いておきました。 でも、あまり時間がなかったこともあって 鉛筆でサラサラっと ただの岩山みたいな背景を描いたんですね。 そうしましたら‥‥。 |
── | ‥‥ええ。 |
山口 | スポーツカーの出来については、 そこそこ、まあ褒めてもらえたんですけれど、 「ん~~、背景がね‥‥」と。 |
── | よくない、と? |
山口 | テキトーだ、と。 ダメだ、と。 なってない、と。 スポーツカーの「背景」に関するご指摘が、 たいへん多かったんです。 |
── | へぇー‥‥目についたんですかね。 |
山口 | そこなんです。 私は、スポーツカーを見てほしかったし、 みなさんもスポーツカーを見てくれるだろうと 思い込んでいました。 ですから 背景は、間に合わせでいいくらいに考えていた。 でも、スポーツカーへのお褒めと同じほどの数、 背景について厳しい指摘をいただいた‥‥。 |
── | なにか、絵のじゃまになったんでしょうか。 |
山口 | そう、そうなんです。 だから、技術というのは「透明度」なんです。 |
── | ‥‥と、いいますと? |
山口 | たとえば、タオルがビニール袋に入れられて 売られていたとします。 ビニール袋の「透明度」が高ければ高いほど、 タオルのようすが、よく見えますね。 |
── | はい、見えます。 |
山口 | やわらかそうだとか、柄がかわいいなとか。 |
── | じゃあ、ちょっと買ってみようか‥‥とか? |
山口 | そう、見る人にそこまで思わせることができたら、 タオルをつくった人の「意図」どおり。 |
── | ええ。 |
山口 | でも、もしビニール袋が 中途半端に「不透明」だったとしたら? 「何が入ってるんだろう、これは。 見えそうで、見えない。 やわらかいから、毛糸のパンツか何かかな。 もうちょっと 中身の見える袋にすればいいのにな。 あ、でもこの袋、 恥ずかしいもの入れるのに使えそうかも」 とかなんとかですね、 意識が、別の方向へ飛んでしまうんです。 |
── | ええ‥‥なるほど。 |
山口 | つまり「つくり手の意図するところ」へ 「見る人を すうーっと直に導いてくれるもの」が 「技術」なのではないか、と。 |
── | わ。 |
山口 | どうされました? |
── | いや、いきなり、ものすごくわかったので。 途中まで、あまりわからなかったのですが とつぜん視界が開けたみたいに。 |
山口 | いやあ、もうしわけござません。 家庭でも 「あんたのたとえ話はわかりづらいのよ」 と、妻にたしなめられております。 |
── | いえいえいえ、そんなことないんですが‥‥ つまり、見る人に、 「見せたいものを見せる力」が技術だと。 |
山口 | そのようなものではないかなと、思います。 磨かれるほどに透明となり、 それ自体は見えなくなっていくようなもの。 |
── | そして「見せたいもの」が、そこに残る。 |
山口 | たとえば、映画などでも どんなに脚本が素晴らしかったとしても、 役者の人がつたないと それだけで 物語に没入できなかったりいたします。 |
── | そっちのほうが、気になっちゃって。 |
山口 | ですから、冒頭の会田誠さんのお話なども まったくもって 「透明な技術」をお持ちであればこそ 「じょうずに、下手に」見せる、 という芸当ができるのではないかなと思います。 |
── | たしかに、子ども風の絵の前では 「技術」の存在は、まったく感じませんでした。 |
山口 | それを見せてしまったら、興ざめでしょうし。 |
── | 山口さんのおっしゃる「透明」という概念って 「写実的」であることと、関係しますか? |
山口 | 技術にも、いろいろな種類があると思います。 写実というと西洋的なデッサンの技術ですが 他方で、江戸時代の若者たちは 歌麿の春画で「ムムッ」ときていたわけです。 |
── | はい、ムムッと。 |
山口 | でも、そんな歌麿も、現代の若人にとっては いわゆる「実用品」には、なりえない。 |
── | 実用‥‥たしかに(笑)。 |
山口 | ですから 「写実的である、デッサン力がある」ことだけが 「技術」ではないでしょう。 ジャンルごと、用途ごとに 求められる「技術」は違ってくるのだと思います。 |
── | なるほど、なるほど。 |
山口 | たとえば「漆器屋さん」であれば いっさいの刷毛目を残さず漆を塗ることこそが 求められる「技術」でしょう。 |
── | ええ。 |
山口 | でも、民芸の作家であれば すこし「肌合い」を残すくらいに仕上げるのが 職人技だったりします。 |
── | おお、わかりやすい。 |
山口 | わたくしのやっている絵で言えば、 「そっくりに描くことができる」という腕前は 「技術」のなかでも ひとつの太い柱ではあると思いますが‥‥。 |
── | ええ。 |
山口 | 他方で、西洋的な「デッサン」とは まったく違う仕組みで成り立っているけれど もう、 ビンッビンくる日本の古い絵もありますから。 |
── | ちなみに、ですが デッサン的な技術がすごいという画家には たとえば、どんな人がいますか? |
山口 | ひとりは、ルーベンス。 |
── | あの、『フランダースの犬』で ネロが死ぬときに「見たい」と言った、あの。 |
山口 | そう。 わたし、ルーベンスはとても好きなのですが あの人、ヨーロッパでも 5本の指に入るくらい描写力のある画家です。 |
── | へぇ、そうだったんですか。 素人ながら、今度、そういう目で見てみます。 ちなみに、お好きというのはどんなところが? |
山口 | 絵がうますぎて「誰も見てない」ところとか、好き。 |
── | ‥‥誰も見てない? |
山口 | おパリのルーブル美術館には 「ルーベンスの部屋」なんてあるんですけれども まあ、ガラガラなんです。 モナリザの前に群がっている見物客を 半分くらい、わけてあげたくなっちゃいます。 |
── | そうなんですか。 |
山口 | それはたぶんルーベンスの技術力と関係がある。 |
── | どういうことですか? |
山口 | たとえば、彼の「白」。 |
── | はい、ルーベンスの白。 |
山口 | 油絵というのは、やはり透明感が命なんですね。 で、西洋画の場合は「黒い部分」よりも 「白い部分」のほうが、手数が多い場合がある。 |
── | つまり、白い部分のほうが「塗って」いる? |
山口 | そう。 で、ルーベンスの「白」というのは 「カンバスに手が入る」までは言いませんけど 恐ろしいほどの透明感を持っている。 |
── | はー‥‥。 |
山口 | とまあ、それはひとつの例にすぎませんが ともかく、筆が巧みすぎて 「教科書どおりの優等生な絵」に見えてしまい、 まったく「引っかかり」がない。 「ザ・油絵」「ザ・大画面」なんです。 |
── | なんというか、すでに「風景」みたいな。 |
山口 | ようするに、見る者にとって 限りなく「違和感がない」んだと思います。 また違った意味で 限りなく「透明」な存在と言いますか。 |
── | 絵がうますぎて、「技術」だけでなく 絵それ自体まで透明になってしまっていると? |
山口 | そんなところが、大好きですね。 |
「日清日露戦役擬畫」より「フランス重騎兵」 2002 紙に鉛筆、ペン、水彩 ©YAMAGUCHI Akira Courtesy Mizuma Art Gallery |
<つづきます> |
2013-04-17-WED |