やなせたかしさん

大正8年(1919年)2月6日生まれ、
現在、94歳。
東京(現在の北区滝野川)生まれ、
高知県香美郡在所村(現在の香美市)育ち。
本名は「柳瀬嵩」。

漫画家
絵本作家
イラストレーター
詩人
歌手
(過去にはデザイナー、
 編集者、舞台美術家、
 演出家、司会者、コピーライター、
 作曲家【ミシェル・カマ名義】、
 シナリオライターなども)

──主な受賞歴──
1967 4コマ漫画「ボオ氏」週刊朝日漫画賞受賞。
1969 「やさしいライオン」大藤信郎賞
1989 日本童謡協会特別賞受賞。
1990 「アンパンマン」日本漫画家協会大賞受賞。
1991 勲四等瑞宝受賞。
1994 高知県香美郡香北町 名誉町民となる。
1995 日本漫画家協会文部大臣賞受賞。
2000 日本童謡協会功労賞受賞。
2000 日本児童文芸家協会児童文化功労賞受賞。
2001 「希望の歌」第31回日本童謡賞受賞。
2002 高知県特別県勢功労賞受賞。
2004 新宿区名誉区民となる

 

ぼくの故郷のまち。

実家は伊勢平氏の末裔で300年続く旧家。
父親は講談社の編集者で、
やなせたかしさんが生まれた翌年に
翌年東京朝日新聞に入り、特派員として上海へ。
その後やなせさんも母親とともに上海に移住するが、
父親が厦門(アモイ)に転勤となったのをきっかけに
東京にもどる。


△父、柳瀬清。


△1歳の誕生日。

大正13年(1924年)、やなせさん5歳のときに
父親が32歳の若さで客死、家族は高知に移住する。
その後母の再婚を機に、父方の伯父に引き取られて育つ。

やなせさんは高知県香美市と南国市ごめん町のことを
「ぼくの故郷のまち」と呼んでいる。


△母・登喜子と、小学生5年生頃のやなせさん。

少年時代は『少年倶楽部』を愛読、
中学生の頃から絵に関心をもち、
東京高等工芸学校図案科
(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学。
学生時代は、担任の先生からの
「デザインは学校ばかりではなく、町で勉強し吸収するものだ」
という教えで、カフェや映画鑑賞を楽しむ
「銀座学校」に通っていたという。


△1938年(昭和13年)東京高等工芸学校時代(19歳)。
後列左から4番目がやなせさん。

 

兵役でも「宣伝」担当。
 そしてグラフィックデザイナーに。

卒業後、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)宣伝部に就職。


△東京田辺製薬宣伝部入社の頃。

昭和16年(1941年)、徴兵され、
野戦重砲兵として日中戦争に出征するが、
乙種幹部候補生に合格、暗号班に配属。
暗号解読のかたわら宣撫活動をした。
紙芝居を作って、地元民向けに演じたりもしたという。
終戦を迎えたのは上海近くの泗渓鎮(しけいちん)。
最終階級は陸軍軍曹だった。
(従軍中は戦闘のない地域にいたため、
 一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。)


△小倉重砲73部隊伍長暗号班教育隊で友人と(23歳)。

終戦後は戦友の誘いでクズ拾い会社へ。
そのときに拾った雑誌がきっかけで
漫画家になる夢がよみがえり、
昭和21年(1946年)高知新聞の記者に就職、
『月刊高知』の編集部へ配属され、
文章、漫画、付録、そして表紙絵まで手がける。
のちに夫人となる小松暢さんと出会う。
昭和22年(1947年)28歳のときに上京、
三越宣伝部のグラフィックデザイナーになる。

三越での著名な仕事としては、
包装紙「華ひらく」(図案は猪熊弦一郎)に書かれた
「mitsukoshi」のレタリングを手掛けたこと。
当初はクリスマス期間限定予定だったデザインが、
のちに長く使われることになる。

 

34歳、漫画家として独立。

三越在職中に『独立漫画派』という漫画集団に所属、
副業漫画家となる。
昭和28年(1953年)、34歳のとき、
漫画家としての収入が給料を上回ったことで三越を退職。
専業漫画家となる。
その後、漫画の世界が変化して漫画やイラストの仕事よりも
舞台装置の製作や放送作家、
作詞家としての仕事の方が多かったという。
当時の代表作はニッポンビール(のちのサッポロビール)の
キャラクターとなった四コマ漫画「ビールの王さま」。


△日本橋三越退社後、新宿区荒木町に住む。


△1953年、荒木町の新居の頃。妻の暢さんといっしょに。
すでにフリーの漫画家になっていて、
これは『主婦の友』に載った写真。

 

手のひらを太陽に。

昭和35年(1960年)、永六輔さんが
作演出のミュージカル
「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当、
そのとき知り合ったいずみたくさんと組み、
翌年、『手のひらを太陽に』を作詞。
この詞はやなせさんが
仕事や健康について悩み迷い続けた中、生まれたもの。
その後、いずみたくさんとコンビを組み
「0歳から99歳までの童謡」シリーズを続け、
代表作を詩集『こどもごころの歌』として自費出版している。


△大阪フェスティバルホールで、永六輔さんの
「見上げてごらん夜の星を」の舞台装置。
暑いのでハダカになってしまった。

昭和39年(1964年)NHKテレビ
『まんが学校』の講師に。
昭和40年(1965年)、
華書房より『まんが入門』出版。
昭和41年(1966年)、
詩集『愛する歌』で詩人としてデビュー。
この本を出版することにしたのは
山梨シルクセンター(現・サンリオ)の
辻信太郎社長だった。


△『まんが入門』を書いた頃、NHKテレビで
『まんが学校』の先生を3年間つとめた。
これで大人まんがから子供のほうへ変わっていく。
右は助手の坂本眸さん(没)。

昭和42年(1967年)、
「ポオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞。
ラジオのドラマ用にシナリオ
『やさしいライオン』を執筆。
このキャラクターはのちにラジオ、絵本、
映画、レコードなどいろいろな分野で活躍。

昭和44年(1969年)、
雑誌「PHP」誌10月号で
「アンパンマン」が誕生する。
アンパンマンは当時は頭部も普通の人間で、
空腹の人のところにパンを届けるという
骨子は同じだった。

 

『詩とメルヘン』編集長に。

昭和48年(1973年)54歳のときに
雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げる。
創刊から2003年の休刊にいたるまで
30年間、通算385号を出版。


△『詩とメルヘン』「創刊☆はじめて世にでる春の号」
(1973年4月創刊号)の表紙原画

この本はちょっとふしぎな本です。
非常に個人的な偏見と趣味に偏してつくられています。
すべて読みやすくということが主眼で
大きな活字でザックリと組みました。
読者層は十才から九十才ぐらいまでを対象にしました。
本職の詩人もいますが、大部分は全くの無名の人の詩を、
ガリ版刷りの同人誌や、
手描きの詩集からひろいあつめました。
この本ははじめからものすごく大量に
売れることはないと覚悟して、
わがままに自由につくってありますが、
それでもできるだけのぜいたくをしました。
商業主義に毒されたくはありませんが、
全く売れなければ一号だけでつぶれます。
一万部売れれば収支トントンで次号がだせます。
さて、どうなりますことか。あなたは買いますか?

──『詩とメルヘン』創刊号編集前記より

 

アンパンマンの爆発的なヒットへ

同年の1973年、やなせさん54歳の時、
前出の大人向けの『アンパンマン』を
子供向けに発展させたキャラクターを主人公に
絵本『あんぱんまん』を出版。

絵本の『あんぱんまん』は
貧困に苦しむ人々を助けるという内容のため、
未就学児には難解とされ、
編集部や批評家、幼稚園の先生などから酷評された。
しかし、次第に子供たちの間で人気を集め、
幼稚園や保育園などからの注文が殺到するようになった。
やがて読者の中心である子供たち(2〜3歳児)に合わせ、
アンパンマンの体型も初期作品の8頭身から3頭身に。
絵本がシリーズを重ねていくに伴い、
アンパンマンの仲間や敵のキャラクターが増えていった。

1988年、「アンパンマン」の絵本の人気が高まり、
『それいけ! アンパンマン』としてアニメ化され、
爆発的な人気となる。
テーマソング「アンパンマンのマーチ」をはじめ
アニメの音楽の多くを、やなせさんが作詞している。

♪そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!

今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君はいくんだほほえんで

そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン やさしい君は
いけ! みんなの夢まもるため

なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!
忘れないで夢を こぼさないで涙
だから君はとぶんだどこまでも

そうだ おそれないで みんなのために
愛と勇気だけがともだちさ
ああ アンパンマンやさしい君は
いけ! みんなの夢まもるため

時ははやくすぎる 光る星は消える
だから君はいくんだほほえんで

そうだ うれしいんだ生きるよろこび
たとえ どんな敵があいてでも
ああ アンパンマンやさしい君は
いけ! みんなの夢まもるため

(アンパンマンのマーチ)

アンパンマンシリーズは
関連タイトル累計約350タイトル、
シリーズ累計は約68,000,000部となっています。


 

震災によせて。

東日本大震災後に、やなせさんからのメッセージが
アンパンマンオフィシャルサイトに掲載された。

そしてインタビューではこんなふうに語っている。

生きていることが大切なんです。
今日まで生きてこられたなら、
少しくらいつらくても明日もまた生きられる。
そうやっているうちに次が開けてくるのです。
今回の震災も永遠に続くことはありません。

アンパンマンは“世界最弱”のヒーロー。
ちょっと汚れたり、雨にぬれただけでも、
ジャムおじさんに助けを求める。
でも、いざというときには、
自分の顔をちぎって食べてもらう。
そして戦います。
それは私たちも同じ。
みんな弱いけれど、
そうせずにはいられないときもあるのです。

そして、子どもたちへ。
こんな大きな地震は初めての体験だろうし、
すごく怖がっていると聞いています。
でも、とにかく元気でくじけないで。
きっとアンパンマンが助けに行くからね。

(MSN産経ニュースのインタビューで)

 

最近のやなせたかしさん。

平成5年(1993年)に夫人が逝去。
以後、独身。
夫婦には子供がなかったが、
「アンパンマンがぼくらの子供だ」と、
夫人の病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、
看護婦さんや見舞い客に配っていたという。

平成8年(1996年)香美市立やなせたかし記念館
「アンパンマンミュージアム」が誕生。名誉館長に就任。


△1996年7月21日、アンパンマンミュージアムオープン。

ここは、やなせたかし記念館アンパンマンミュージアムです。
たくさんの人の協力で完成しました。
ちいさいながらも洗練された建築で、
ぼくごときものには身分不相応の壮麗さです。
この町はぼくの故郷の町ですが、
アンパンマンを愛してくださる人は
みんなここが心の故郷の町。
このミュージアムは自分のミュージアムと思ってください。
幸いにして自然はとても美しい。
山峡の細長い空を旅する雲はぼくの子どもの時とおんなじだ。
物部川にのんきそうな影をおとしている。
ああ、なんていいんだ。この平和な風景。
ぼくはすこしもえらくない。吹けばとぶような漫画家です。
決して高級な芸術家ではなく生涯を大衆の中で生きています。
だから、このミュージアムも小さな子どもでも年とった人も
わからない絵はありません。
世界中でたったひとつのごく気軽なミュージアム。
ぼくはみんなと遊びたい。たとえこの世がつらいとしても
うなだれてるのは好きじゃない。
ぼくの絵の具はいつも明るい。ごく子どもっぽい絵を描いて
ほとんど尊敬されることもなく
ここが人生の終点と覚悟しています。
それではどうぞごゆっくり。またお逢いできる日を楽しみに。

──「アンパンマンミュージアム」開館のあいさつより


平成10年(1998年)には
「詩とメルヘン絵本館」が完成。
平成15年(2003年)には
『ノスタル爺さん』でCD歌手デビュー。

平成23年(2011年)頃から眼をわずらう。
平成24年(2012年)日本漫画家協会の理事長を辞任、
会長に就任した。

人生の楽しみの中で最高のものは、
やはり人を喜ばせることでしょう。

(やなせたかし『人生なんて夢だけど』より)

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