第6回 キュウリの皮をむいて食べさせる「食育」?

諏訪

糸井さんは
前からおっしゃっていたけど、
野菜を作っていく現場は、
食育やビジネスにつながる、
非常に大切な
要素を含んでいると思うんです。

この会の冒頭で司会していただいた、
パソナフォスターの代表の佐藤さんは、
本来は保育園の事業をしている
会社の方なんですけど、
さっきちょっと打合せをしてて、
非常にショッキングな話というかですね、
子どもの野菜についての話を聞いたので、
突然ですけど、ちょっと話してもらえますか。

佐藤

突然ふられまして、
ありがとうございます(笑)。
私は現在、保育事業をやっております。
企業内保育所や
認可保育所というのを経営しています。
今までは、企業内保育所は、
国とかの補助金が
あまり入っていない状態で経営していたので、
自分たちの庭で育てたお野菜とかを
食べさせていたんですね。

ところが、
認可保育所になると補助金で運営するため、
とたんに、厳しくなりました。
例えば、O-157の発生や食中毒を、
やはりすごくこわがって、
キュウリを生では出せないんですね。
もし生で出すのであれば、
皮を全部むいてください、
という指導なんです。

簡単に言うと
「ことなかれ主義」の保育・食育指導なんです。

わたしは、皮をむいちゃったら
絵を描くときに白いキュウリに
なっちゃうじゃないですか!と
そんな教育が食育であれば、
認可なんかいらないです!って
言いたいところでした‥‥。

まず、そのキュウリが、
すごくショックでしたし、
トマトは、
湯むきしないと出すことが出来ません。
私たちの保育所は、
子どもたちに料理を作らせる、
「キッチン保育」という
カリキュラムがあるのですが
そこで、子どもが目玉焼きを
「半熟で食べよ」ってお皿に盛ろうとした途端に
「半熟で食べさせるんですか!」
って怒られちゃうんですね。
サルモネラ菌を心配して。
ですから、目玉焼きも
すべてカチカチになっちゃいます。
現代の保育では、
本当の野菜の姿や食べもののおいしさというものを
追及できない、と感じているところです。

諏訪

人間が生きてくために食べていく、ということは、
けっこう努力を要することでした。
もともと人間が狩りで生活していたころには、
木の実をさがし歩き回ったり、
洞穴作って隠れて動物獲ったり、
山の中でイモ掘ったりしていましたし、
食べるということに対して、
常に努力が必要だったんです。

それが、ぼくら大人もそうですけど、
お金さえ出せば、
食べ物が簡単に手に入るようになってきちゃってる。
さらに加工食品も進化してきて、
食生活、食習慣が変わってきて、
生で食べちゃうこと自体が
衛生面を含めて「だめだよ!」という
風潮になってきた。
こんなことが、子どもたちの場に
押し寄せてるということに、
ぼくは何だか危機感を持ってるんです。

糸井

ぼくは、ちょっとだけ気が短いから、
「生のキュウリを食べさせることが悪いんだったら、
 あらゆる家庭をみんな逮捕させろ!」
というくらい腹の立つ話ですね。

まあ、たぶん、
食育って、わかってる人はわかってるんですよ。
でも、わかってる人がいるのに、
わかんないように、
仕組みやなんかがあるんです。
でも、それはある意味、
今の時代なら、わりにはやく
解決できる問題じゃないかな。
ここに集まってる人たちが、
「もうこんなに変わったね」
と話ができるような時代が来たことに、
希望を持ったほうがいいと思うんですよ。
オレが楽天的なのかもしれないですけどね。
いや、楽天の人間ではないですけど(笑)。

柳瀬 食育の話は、さっきの佐藤さんの話、
はじめて聞きまして、びっくりしました。

ぼくが食育と聞いて
一番思いだすのが、 実は原始人。
ま、早い話、
最初にナマコを食ったやつは偉いし、
最初にトラフグを食って
死ななかったやつも偉かった
ってことなんですが。

結局、
人間の文明で一番古くて一番でかいのは、
食文明ですよね。
なぜかって言ったら、
食べ物がないと我々は生きていけませんから。

例えば、トマトジュースの原料の
トマトっていうのは、ナス科の植物で、
もともと南米、新大陸にしかなかった。
今は考えられないですけども、
ジャガイモ、トマト、
トウガラシ、ピーマンといった
ナス科の植物は
コロンブスがアメリカにたどり着いた
16世紀より以前には、
ヨーロッパにどれひとつなかったんです。
これらの食べ物がないヨーロッパの料理って、
ちょっと想像つかないですよね。
江戸時代に日本に入ってきたとき
トマトは観葉植物として入ってきました。
色がどきついから、
ヨーロッパなんかでも最初は
毒じゃないかって言われてたんです。

そういう見たことのないもの、
口にしたことのないもの、
そんなもののなかから、
何を食べるか、食べないのか、
どうしたらおいしくなるのか、
その経験を試行錯誤しながら
蓄積していくってことが、
食育の本質なのかな、とぼくは感じます。

たとえば、カキを食ってあたる、
ってことだって立派な食育のような・・・・。
むかし、カキを食って
あたった人たちの経験がなかったら、
カキはどの季節に食えばいいのか、
いまだにぼくたちは知りえないわけですから。

要するに先人のリスクの上に
「食べる」という文化は成り立っている。
だから、ある程度のリスクをとる
という発想が根っこにない限り、
食育ってできないような気がする。

戦後の日本人は
リスクをとることを、食の話にかかわらず
ものすごくマイナスととらえる傾向がある。
お役所の仕組みなんかはその典型で
リスクをとることをものすごく嫌がるんですね。
ただ、お役所にリスクをとりたがらない発想を
抱かせちゃったのは
なんかあったときに役所にむかって
なんでもかんでも責任取れって騒ぐ、
我々の側の責任も、一方ではある。

食育の話にからめると、
保育園や幼稚園の食事で
食中毒があって、親が騒ぐ。
保育園側が悪いケースだって
あるんでしょうが、
防ぎきれないケースだってあるはず。
それを全部いっしょくたにして騒ぐっていうのも、
ほんとは、
かなり不健康な事態だと思う。

ぼくたちは、無菌室で
暮らしてるわけじゃないですから。
食育は、
リスクをいい意味で取るっていうのが大切で、
基本的には
「最初にウニやナマコを食ったやつは偉い。
 フグ食って死んじゃったやつもいるけど」
って視点をベースに考えたほうが、
健康的な気がします。

諏訪 去年、NHKの番組で、糸井さんと
「風の学校」というところを取材したんです。
そこは練馬区で、もともとは農家が
キャベツとか、ほうれん草とか、
小松菜を作ってるところでした。
それを1区画10畳くらいの家庭菜園にしたんです。
指導するのは、農家の人たち。
まさに家庭菜園の学校なんです。
指導料、種代、
育てるのに必要なものがすべて入って3万円。
それが300区画あるんですよ。
1年間で3万円、ということは、
売上にすると900万円です。
同じ場所で、ほうれん草や小松菜を作ってるよりも、
はるかに利益もあがる。
しかも、今まで、奥さんくらいとしか
日々話をしなかったのが、
毎週1回300人の人達とお話しができて、
よろこんでもらえる。
それこそ「食育」のために
子ども連れてくる人夫婦がいたりして、
うまくいってるんですね。

そういうこともあって、ぼくらは、
ビジネスになるのかわからないですけど、
家庭菜園とか野菜作りをキーにして、
「食」とか「農」が社会を変えてく方向へ
持ってくことができるんじゃないか、
という気がしてるんですよね。

 
(つづきます)
2006-05-12-FRI