矢沢永吉の開けた新しいドア。
「ほぼ日」特別インタビュー2003。

第11回 自前じゃないとダメなんだ

矢沢 イトイなんかも、
ちょうど5年前くらいか、
自分でイトイ新聞を作って、
「メディアが欲しい」
と言ってたじゃない?

それを実際に作って、
今日のここまで迎えるまでには、
タイヘンだったと思うのよ。

でも、あの時は、とにかく、
見切り発車でも何でもいいから、
走らなければいけなくて、そっちに
飛びこまなきゃいけなかったじゃない?
糸井 うん。
ひとりでも、やらなきゃいけなかった。
矢沢 世間は何とでも言うさ。
でも、やらにゃいかん。

イトイ新聞って、
1日のアクセス数、どれくらい?
糸井 今、50万ぐらい。
矢沢 毎日、50万アクセスって言ったら、
まわり、急に態度、変わっちゃってさ。
「イトイさん、今度お茶でも飲みに行きません?」
なんて、なったりしてね。
糸井 (笑)最初は、600アクセスですからね。
矢沢 600だったら、
「小僧が、なんか、チョコチョコしてるわ」
で終わるけど、1日50万アクセスっていったら、
そりゃ、みんな、態度変わりますよ。
糸井 永ちゃんが、ランニング・シャツ一枚で、
シャベル持って、新しいところを掘った時みたいに、
その500だ600だのアクセスを
「ありがたい」って思う気持ちは、忘れないよね。
矢沢 同じ時期、オレは、何が何でも、
アメリカに行かなきゃいけなかった。
イトイは、イトイ新聞立ち上げなきゃいけなかった。
糸井 おんなじ時期だったんだね。
永ちゃんがアメリカに家族ごと移住したときと。
偶然だよね。おたがい、
あたらしい場所に行かないとダメだ、って時。
矢沢 あの時、イトイに電話入れたっけ?
糸井 入れた。
「永ちゃんもそんなこと思ってたの?
 実は、オレもだよ」って。
矢沢 オレが、アメリカ行く前?
糸井 うん。
で、今、笑い話なんだけど、
永ちゃんから電話がかかってきて、
1時間ぐらい、ずっとしゃべってたんだよ。
矢沢 はいはいはい。
糸井 で、その後、
「イトイ、ワルいな、長くなっちゃって。
 あの……悪いけど、切るわ!」って言って。
矢沢 (笑)ハハハハ。
糸井 「おまえが、かけてきたんじゃないか!」
っていう……(笑)。

オレもちょうど、
撮影現場からタクシーに乗ってる時で、
戻んなきゃなんない間、ずっとタクシーの中で、
ずーっと、ぶっつづけで、しゃべってたもん。
矢沢 うん、やっぱり、オレもその時は、
おセンチな部分も、あったんじゃない?
糸井 うん、日本から1回、別れたんだもん。
矢沢 「これから、日本を出るから」
というのが、あったから。

今日も、
渋谷陽一さん(ロッキング・オン代表)と
取材で話した時に思ったんだけど、
渋谷さんも、『BRIDGE』とか、もう、
いろんな雑誌を作っているわけじゃない?
あの人も、すごいよね。
糸井 すごい。
矢沢 メディアを持ったハシリだもんね。

インタビューをしたとかしないとか、
そういう世界の中で、
「自分でメディアを持つ」
という発想は、当時、ハシリだったでしょう。
糸井 うん。
ほんとに、たいしたもんですよ。
矢沢 そうそう。
渋谷さんもそうだし、糸井重里もそうだよ?。

ふつうだったら、取材して、
いろいろな写真を撮って……で終わる。

インタビュアーとしてうまくて、
話のツボを知っていて……っていうと、
だいたい、いくらでもいるじゃん、
そういうの。
糸井 そうなんだよね。
いちばんよくても、
「最高の芸者さん」になっちゃうんだよね。
矢沢 うん。
糸井 芸者よりは、置屋になんないとね。
矢沢 そうだね。
やっぱり、自分で
そういうところの、発信源を作らないと‥‥。
糸井 うん。
なんかやっぱり、
自分でメディアを持たないと、
やっていることに関して、
「上下」「あの人よりうまいか」
みたいな価値観が、ついちゃうんですよ。

(つづきます!)

2003-06-20-FRI


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