糸井 |
それにしても、今のはらまきの話とか
いろんなもののデザインを頼む時に、
失礼だと思わないで話せるアーティストって、
世の中にあんまりいないと思うんですよ。 |
横尾 |
(笑)あはははは。 |
糸井 |
(笑)いないんですよ。
やっぱり、みんな、どこかのところで
アートってまつりあげていて、変なんです。 |
横尾 |
日本のアートって、
もともとデザインじゃないですか。
最初は、額縁入りじゃないんですよ。
そこを、戻すべきだと思う。
生活のなかに呼び戻したほうが、むしろいい。
ウォーホールのものなんかは、
ウォーホール自体は
生活にどれだけ戻したかはわからないけど、
やっぱり、ずいぶん
生活の中にアートを取り入れたのは、
最初はウォーホールなんじゃないかと思います。 |
糸井 |
おとなになるにしたがって、
ウォーホールのやったことはすごい、
と思うようになりましたね。 |
横尾 |
彼自身は、あんまりつくっていないと思うけど、
彼の生き方とか様式からヒントを経て、
いろいろなものができたじゃないですか。
いろいろなものができたという点では、
ウォーホールだけじゃなくて、
ビートルズなんかも、そうだけど。
ビートルズが出てこなければ、音楽は
どうなったかわからないって感じもあるし。
そう思うと、変だなとか、
こちらも変だなと思わないとダメですよね。
こちらも恥ずかしいなとか思いながら、
なんかやっちゃっていかないと、
ただ単にイっちゃった人になるから。 |
糸井 |
やっぱり、どこかのところで
アートには「おしつけがましさ」が
あると思うので、おしつける以上は
「俺は自信があるぜ」って言ってくれないと、
受け取る側としては、絵でも何でも、
変なものを受け取ってるわけですから、
気持ちの持って行き場がないわけですよ。 |
横尾 |
その気持ちは、残ってるよね。 |
糸井 |
純粋絵画に行っても、
おおぜいに伝えたい、っていう気持ちは、
心のどこかに入るじゃないですか。
「わかる人が5人わかればいい」っていうよりは、
「5人わかるなら5万人わかれよ!」みたいな。 |
横尾 |
そうね。
ぼくなんかでも、絵は、
子どもの頃に体験したもの、
そこから抜け出せていないんですね。 |
糸井 |
あぁ。 |
横尾 |
ぼくなんかだと、
江戸川乱歩と南洋一郎なんですよ。
そうすると、絵は、
冒険絵物語じゃないとダメなのよね、
どっかでは。
だから、冒険絵画みたいになるの。
あ、アヴァンギャルドじゃなくて。
だから、物語の挿し絵になるの。
何となく、ペーパーマガジンみたいなものに
近づいてくるんですね。
アンディーウォーホールとか
リキテンシュタインとかは、
ちょっと思想的にそういうことを
考えたところがあると思うんですね。
消費社会のなかで、とか、
でも、そういう思想的なものでは
ないところで、やりたいですよね。 |
糸井 |
たぶん、
思想的なことって、
あとから考えたんじゃないですか?
ほんとうは、ただ、
やりたかったんでしょうね。 |
横尾 |
そうかもね。
恥ずかしいなあと思いながら、
思想的なものをつけて。 |
糸井 |
そうそう。
「マリリン・モンロー描いちゃいたいな」
みたいな。 |
横尾 |
よく描いたと思うね。 |
糸井 |
とんでもないですよ。 |
横尾 |
ただ、デザインの世界では、
注文に応じてやっていたから、
とんでもないとは思っていないかもね。
彼はもともとデザイナーで、
そういう世界にいたわけだから。
ちょっと切り替えた話なのかもしれない。
ただ、彼はもともとの
自分がデザイナー出身だということを、
伏せておかないといけなかった。
「これはデザインだ」って言われるのを
防ぐために、彼は一時、自分の
デザインの出自を、消してしまったよね。
いまの時代は、
隠さなくてもいいかもしれないけど。
ウォーホールは、
MOMAで個展をやりたかったけど、
イラストレイターやっていたものも
出てきちゃったから、
できなくなっちゃったもんね。
だけれども、MOMAは
死ぬと同時に展覧会を開いたから、
あとの人はやりやすくなったよね。 |
糸井 |
そこで何を展示するのかも、
決めるのはほんとは自分であって、
展覧会場では、ないんですよね。
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