『中国の職人』
1の巻 徐秀棠(彫塑・紫砂壺に彫刻)
録音日 1999年8月16日から数度、
撮影は2011年9月24日
録音場所 中国 宜興工房にて
江蘇省無錫市宜興は太湖の西岸にある焼き物の町である。南京や上海からバスで街に入ると、至る所に大きな壺や瓶などが置かれていて陶磁工場の看板が目立つ。ここでは古くから紫砂という質のいい磁器の原料がとれる。紫砂は宜興近辺でしかとれない甲泥という岩の間に入っているが、その量は極わずかで、紫砂を含む甲泥数十キロから百キロ以上の中にたったの500グラムほどという。これを使った焼き物は空気をよく通すために茶壺や盆栽用などの花鉢が作られてきた。茶壺とは土瓶や急須のことである。大きさはさまざま、一人用の小さな物から薬缶ぐらいの大きなものまで。土瓶類は、焼きの温度が高いから、そのまま火にかけることができる。朱泥と呼ばれる赤味を帯びた艶のある褐色や紫がかった物が多い。古くから、文人達に愛され、この急須を使うと茶がおいしく飲めるというので、世界中で人気があった。
宜興の急須には興味があった。鹿児島を旅していたときに、古道具屋で金属の蔓が2本付いた大型の土瓶を買ったことがあった。直火に掛けて使える形の良いしっかりした焼きの土瓶である。その土瓶の底に記された「宜興」の文字が気になって、資料を探したことがあったのだ。ある本には、世界で最初にポット(茶壺)を作ったところと書いてあった。そんなこともあって宜興の茶壺作りの職人の話を聞きたいと思っていた。
1999年に、中国の職人達の聞き書きを始めたときに、徐秀棠師を紹介してもらって、話を聞きに行った。その後も数度、師の家を訪ね、工房で仕事を見せてもらい、庭に造られた茶室でお茶をいただいたり、茶壺作りのふるさとと呼ばれる蜀山南街にも案内してもらった。
丁蜀鎮という地区に茶壺作りの名人を輩出した地域がある。荷物を運ぶ船が行き来する「蠡河」という川にかかる石造りの橋を渡ると、細い路地がある。両側に2階建て作りの家が並ぶ路地だ。幅が2メートルほどの石畳の道で、中央に排水路がある。家々の1階は土間で作業場、2階は住居。1階では土を捏ねたり、成形している。それぞれの家がさまざまな磁器に関わる仕事をこなしている。できあがった鉢が窯に運ばれるのを待っている。そのまま工場で買い取られたりもするらしい。幾つかの家の前には名前を書いた標識が貼り付けてある。茶壺作りの名人とか、茶壺に漢詩や絵を彫り込んだ陶刻師が住んでいたと記してある。
ここらがかつては茶壺作りの中心的な地域だったのだ。
現在の徐師の工房は蜀山南街から離れて大通りに面したところにある。すぐ近くに外国人が泊まれる大きなホテルがある広大な敷地で、入り口には電動の扉があり、門番の居る建物が付いていて、出入りを見守っている。3階建ての工房までは長い曲線を描いたアプローチがあり、紫砂を砕くのに使った巨大な石臼が道に沿って並べてある。
左手には池があり、真ん中の小島に茶室がある。工房は1階が弟子達の作業場、2階もアトリエで、奥に徐師の部屋がある。3階は作品の展示室。
徐師の住宅は隣接している。あの小路の様子とはずいぶんと違って立派な佇まいである。生け垣で囲まれた敷地の隣には独立した弟子達の家がある。どれも庭付きの3階建て、鉄筋作りの立派な建物である。
その1軒は、私が1999年に訪ねたときに内弟子だった青年のものだった。
茶壺と紫砂の陶塑作りが徐師と弟子達の主な仕事である。いずれも芸術作品として人気が高く、収入も多い。文人や茶人達が愛用する物も多いのだろうが、投機の対象にもなっている。国の工芸美術大師となれば、買い手が殺到するし、オークションの場でも高額で競り合われている。
茶壺や水滸伝の登場人物の像、野菜や筍、兎、牛などの像が展示室にも並んでいた。市場開放政策が始まった頃に、すぐに台湾や香港の業者が買いに入っていた。初めて会った頃に徐師は60センチほどの高さの道師像を作っていたが、1体が日本円で100万円はすると言っていた。注文主は台湾の人だと。今はそんな値段ではとても買えないそうだ。有名作家の茶壺や陶塑はそういう位置に置かれている。
徐秀棠師は日本の年号で言えば、昭和12年の12月に生まれた。この年の7月7日に盧溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。
彼が生まれて2日後の12月13日が南京事件のあった日である。
彼の家は職人を雇って茶壺を作り、それを売っていた。職人の雇用の形態や徒弟制度、茶壺の作り方、彼が小さかった頃の学校制度のことが話される。
徐秀棠師の話を聞いてもらおう。
『祖父の代から急須を商う』
1937年12月11日生まれです。祖父の代から紫砂壺(急須)を作って売ってきました。
私の家で急須を扱うようになったのは、祖父が、宜興に移ってからです。それも、職人に作らせて、焼いて売るという仕事でした。
祖父は、最初は、政府機関の仕事についたんです。読み書きが出来たので、急須の会社、紫砂の会社に入って管理者をやってたんです。そこで、経営を勉強して、自分らで「福康」というブランド名を付けた品物を売る経営者になったんです。
そのお祖父さんの3番目の子供が私の父、祖純です。
福康のブランドは、祖父の代で作ったものです。
この間骨董店で、福康の土瓶を見つけたんですよ。もう、そのブランド名はないですね。私達も福康というブランド名を使ってないんですよ。
なぜなら、あれは家族みんなのブランドだったからね。祖父の兄とか、親族一同が関係してたわけだから、私が使うわけにはいかないんです。
それに、今は私の「長楽弘」というブランドが広まってますからね。
家系図を持ってきますね。ずっと探してたんですが、つい最近見つけたんですよ。ある日、妻が、宜興の郊外の農民が徐家の家系図を持ってるという話をテレビで見たんです。息子が見に行ったら、1939年に作った家系図だったんです。
1937年生まれの私の名前も入ってました。それに基づいて、私、自分でお金出して印刷して家族のみんなにあげたんですよ。これで一族のことがみんなわかりますから。
コウジョウ初年。清の時代ね。ショセン、ショザンに移転したと。お祖父さんの名前は錦蓀。
祖父は、自分では窯は持ってなくて、いくつかの工場や工房が共同で一つの窯を使っていました。窯は個人で持つような小さなものではなかったのです。
そこには窯専門の人達がいて、ずっと焼き続けていました。お金を払って、どのぐらいの焼く物を入れる鉢を借りるとか。そういうしきたりだったんです。
紫砂を焼くための燃料は、ススキを燃やしたから、天候が悪いとか曇っていると余分にススキを使うでしょ。そうすると、窯屋さんが、もうちょっとお金を払えみたいなことを言うんです。ススキは焚き付けじゃなく、これで焼き上げるんです。木の灰は釉薬になって、焼いたものに色が付くでしょ。紫砂はきれいなものだから、釉薬とか掛かると困るので燃料にススキを使ってるんですよ。ススキは、火が着き易くて早く温度が上がって、温度調節が楽なんです。
今も同じですが、祖父達が材料の紫砂を手に入れるまでにもたくさんの仕事がありました。まず紫砂を掘る人がいます。紫砂は石炭の層に近いところにあって、硬い石の塊なんです。一つの会社がそれを掘って、他の会社がそれを粉にします。会社といっても実に小さな数人や家族程度のものもありました。紫砂の塊は露出していれば、風雨に晒されて粒状になってますが、普通は岩ですから、石臼にかけたり鉄の玉を回して粉にします。それを水で練って泥状にする仕事があります。
祖父の工房は、その紫砂泥を買ってきて、職人達が形を作っていました。働く人が30人ほどいました。
急須は形になるまですべて一人で完成させます。宜興の急須は、底に作った人の名前が彫ってあります。景徳鎮の場合は、景徳鎮という名前しか彫ってありません。それは分業で、たくさんの人が関わってできあがっているからです。私たちの場合は、急須の形を完成させるまではすべて一人の仕事です。
焼く作業は別の人達の仕事で、それも幾段階の工程があって、それぞれ職人がいます。シャボ(焼き物を窯に入れるときに入れる容器)に入れる人がいて、燃料を用意する人、運ぶ人、焼く人がそれぞれ別にいて、他に火加減を見る人がいて、出来上がったものを出す人がいるのです。
祖父の工房にいた人達は、職人として祖父に雇われていました。1個作ったらいくらという人もあれば、月単位で賃金を払う人もいました。
雇用形態には、長期雇いの「長工」と、臨時に雇いの「短工」がいました。物を作ったり、出来上がったら窯へ担いでいくような、体力を使って仕事をするのが短工で、シャボをいくつ運んだかで賃金を払うのです。
労働を管理してくれる人や、物を売りに行く人などは長期に雇って給料で払います。これが長工です。長工は給料で、短工は出来高払いの人が多かったですね。
職人の場合は、腕の良し悪しでもらう賃金に大きく差がありました。その差はだいたい十倍、いやもっと十何倍の差がありました。
急須の形を作るのは一人の職人がやりますが、急須に彫刻や字を彫ったりするのは別の職人の仕事です。彫刻をする職人の賃金は高いですね。
形を作る一番腕の良い職人と、彫刻のうまい職人の給料はだいたい同じぐらいで、一番腕の良い人で一月に十数枚の銀元をもらえたのです。よく覚えてないのですが、腕のあまり良くない職人は何枚かしかもらえなかったと思います。
急須の底には形を作った人の名を彫りますが、彫刻をした人は表に名を残します。
とても腕の良い有名な職人の急須は、形を作るだけでも1個で50キロのお米を買えるぐらい高価な物でした。それに、さらに有名な人が彫って、サインをしてあったら、さらに高価になるのです。
祖父の仕事を父が受け継いで1955年までずっとやってきて、その後に合作社になりました。祖父も父も経営者ですが、職人達には先生と呼ばれていました。
父親は三男坊だったから「三番先生」と呼ばれていました。それが、解放後に合作社になって、偉そうな呼び方はよくないから、本人はやめてくれと言ってましたが、ずっとそう呼ばれていましたね。
解放後には、工員とか農民が国の主人になったわけです。工房の主や師匠たちは資本家とか地主の類のなかに入るわけです。ですから、そういうふうに呼ばれると非常に困っていたのです。
祖父や父の工房で働いていた職人の呼び方は「師付」です。なかには弟子がついている師付もいました。弟子の呼び方は「徒弟」です。
『家のこと』
私は兄弟7人です。そのうち、急須作りの道を進んだのは、すぐ上の兄・漢棠(同じく国の工芸美術大師)と妹と、私の3人。
男兄弟6人は、みんな急須作りを小学校の時からずっと手伝わされてました。友達が放課後に遊んでいるのに、私たちは家に戻って手伝いをしました。私たちは人形のような小物を作ってました。それを急須のなかに入れて焼けば、窯屋さんに余計にお金を払わずに済んだのです。それも商品になりましたし、おまけにつけたりして喜ばれました。それを10歳前からずっとやらされていたんです。
でも、1949年の解放と共に上の兄は解放軍に入って軍隊と一緒に行動していたんです。2番目は公務員になりました。解放前は急須がそんなに売れなかったから、1番目、2番目の兄は、紫砂から離れて行ったんです。
三男の漢棠は、中学を卒業してから、親父が、急須作りの名人だった顧景舟の所に弟子入りさせたんです。
私の母は顧先生と同じ村の出身でした。そして顧先生が作ったものを、うちの父が買っていました。顧先生は、母と血縁関係がありましたから、顧先生は、私の母のことを伯母と呼んでいました。そういうこともあってだと思いますが、兄が顧先生のところに弟子入りしました。それが1951年です。
二人の弟も急須作れるんですけど、別の仕事に就きました。妹は、学校行ってましたから、文革のときに下放されてたんです。文革後、下放から戻って来て工場の経理をやってたんですが、つまらないというので、小さい時から急須に触ってるから、私が助言して、急須作り始めたんです。妹は改革開放後から始めたんですが、今では名のある作家の一人です。
私は1937年の生まれで、6歳で小学校に入って、12歳で卒業しました。家に中学校に行くお金がないから、卒業後は家で急須作りをしていたんです。
急須の値段は覚えてないです。お米の単位で一番小さいのは合ですよ。1合、2合ね。10合は1升。1俵は中国では75キロぐらいです。
急須に文字や絵を彫る人は1個で1合のお米をもらうんですよ。急須作る人は、恐らく1合の米をもらうのに急須3個でした。勿論、急須の質にもよるんです。顧先生なんかだと、当時でも、急須1個で米1俵です。一番うまい方でしたから。
当時も高級好みというのもあったんです。普通の生活用品は、ものすごく安い。1合とかで交換出来る。でも顧先生のものはとても高く値が付きました。
私が小学校6年生で卒業する時が1949年、新中国になった年でした。解放前は、国民党の時代です。その頃は貨幣もころころ変わってたんですよ。勝手に作ってたからね。ですから物価も上がって、非常に不安定な社会情勢だったんです。ですから国民党のイメージが非常に悪かった。例えば、「あなたは、オカハチみたいだね」と言うと国民党の兵隊のことを言うんですよ。それは「最低な人間だ」っていう意味なんですよ。そのぐらい国民党は嫌われたんです。だから、みんな早く解放軍に来て欲しいと願ってたんです。来た時にみんな喜んで迎えました。各家に解放軍が住むようになって、みんなと仲良くしてたんです。
解放軍が入ったら、解放区になるんですけど、学校で、「解放区の空は、青空だ」という歌をうたいましたね。児童団に入って、朝早く町に行って踊ったりうたったりしましたよ。私はその地の少年先鋒隊になる児童団という、団体に入ったんです。
あの頃は学校に行ける人は、非常に限られていました。当時、ここ、丁蜀鎮ていうんですけど、何万人もいる中で、学校に行ってたのは300人ぐらいだったんですよ。その多くは、急須職人の子や会社を経営してる人、お店や食堂や茶館をやってる人の子供たちでした。
学費は覚えてないんです。というのは、家が貧しかったから、いつも、村の村長のところに行って学費を払えないと証明を書いてもらってました。家族何人だと生活費はいくらだと、それが水準以下になると学費が一部免除されたんです。
連合営業所というところがありました。商人達の組合みたいなものです。材料の仕入れや販売を一括してやろうというのでした。例えば、うちで売ったものは、それを買った人が、組合にお金を払うんです。それで、我々が毎月の最後に、税金を除かれた後のお金をもらうんです。
我々は、小窯戸と呼ばれたんです。
学費のことでは悲しい思い出があります。
先生に学費を払いなさいと言われた時に、父親にお願いしたら、連合営業所からお金が戻ってきたら払うと言ったんです。それが15日だと。それなのに15日なっても、払えなかったんです。先生が「どうなってるのか」と言うので、父にもう1回確認したら、「連合営業所の人が、おたくは自分でモノ売ったりして税金を払ってないから、お金は、罰金として一銭も払わない」と。次の日、学校で、そういう事情で今月払えないと言ったら、先生が「おまえは狡い、嘘つきだ」と言うんです。私自身、ずっと正直に生きてきた人間だと思ってたのに、狡いとか嘘つきだと言われた時に、もう、堪らないから大泣きしたのを覚えてます。そのことが今でもすごく残ってます。
この連合営業所にはずいぶん虐められました。
ですから、その後の合作社の呼びかけは、「みんなで一緒に働けば、毎月、ちゃんと給料をもらえるよ」っていうものだったので、みんないち早く入りたかったんです。だから、もう全てのもの、家のどんなに良いものでも持って参加しました。赤い釉薬の中に金粉が入ってる高い釉薬があるんですが、それも。家具でも何でも、全部持って合作社に入ったんですよ。
ちゃんと給料もらえると聞いたからね。共産党も勧誘の仕方がうまいんです。
小学校を卒業して1年ぐらいしたら父が「学校に行ってもいい」と言ってくれたので、13歳で中学校に入ったんです。3年勉強して54年に卒業しました。
◎『公私合併』と『身分制度』
ここまで徐秀棠師の修業時代から合作社入りまでの話を聞いた。合作社のことを少し話しておく。毛沢東は1955年に「農業共同化」を宣言した。農地の国有化、農民公社を目指したものだった。農民の他に数百万人の手工業者を「手工業生産合作社」に組織し、私企業を「公私合営企業」に変えようとしたのである。目的は社会主義国家の樹立である。
初め、私企業が持っていた道具や機械などの生産手段を適正価格で評価して、10年間にわたってその5パーセントを配当するとした。形としては公私合営だが、管理権は国家に任せるという形態であった。この方法に賛成しない者もいたが、56年には私企業の多くが合営に参加し、110万人以上の資本家が配当を受け、80万人ほどが合営企業の技師として、経営や管理部門に雇われる形となった。
徐師が話したのはそういう合作社の形のことである。
また、徐師は旧中国の「工房の主や師匠たちは資本家とか地主の類のなかに入るわけです」と述べているが、解放にあたり、政務院は人々の身分を13の階級に分けた。「地主」「ブルジョア」「開明紳士」「富農」「中農」「知識人」「職員」「手工業者」「商売人」「貧農」「労働者」「貧民」。ここに述べた順に資本主義者に近いとして敵対視された。この身分階級は档案と呼ばれる記録に残され、就職の際にも、進学や昇進、結婚、軍隊への応募、共産党への入党の際にも調べられ、人生に重要な影響を及ぼした。
徐師が言った「我々は、小窯戸と呼ばれたんです」というのはその身分の扱いのことである。工房の主でも小さなところだったと言っているのである。このほかにも幾つもの身分分類があり、文化大革命時の粛清や自己批判のときに批判の対象として、こうした身分が掘り起こされた。
徐秀棠師は合作社に入る前に、師匠の元に弟子入りし、昔のままの徒弟制度での修業を始めたのである。そのあたりの話を聞いていこう。
「中国紫砂」より、徐秀棠師の作品
『弟子入り』
1954年、父が私に彫刻の方を勉強させるために任淦庭師匠のところに弟子入りさせました。当時、師匠は67か68歳の陶刻の先生でした。兄が急須を作り、私が彫刻する方、二人が一組になればいいと思ったのでしょう。あとで、合作社に入ることになるのですが、私の師匠の任先生は、とても地位の高い職人として迎えられました。1956年に全国で非常に腕の良い職人が何人か選ばれたのですが、お師匠さんもそのうちの一人でした。
急須に絵とか文字を彫る人は、知識分子として非常に大事にされてました。例えば、急須を作る人や土を掘る人を雇うと、彼らは窯の近くでご飯食べるんですよ。彫る人は文化人だから、ちゃんとテーブルに座ってご飯食べましたね。
修業は筆で字を書いたり、先生が描いた木版の絵を彫ったりするものでした。ほかにも、水墨画を描いたり鳥の絵の練習をしました。
通常の職人の弟子入りの話を少ししましょう。
徒弟に入るときはこれといった面倒な契約はありません。口約束で3年間の修業をさせてもらうということだけですが、弟子入りの儀式が私の時代にはありました。
ここは丁蜀鎮です。鎮は、村より上で、町ぐらいの規模です。鎮の有名な職人を自分の家に招いて、弟子入りの儀式をやるのです。私の親たちが酒や料理を用意して、入門の宴をやりました。
料理は、鶏肉とか豚肉とか魚とか、日頃より立派な高級料理で、お酒も用意します。
その席に、有名な職人を呼ぶということは、みなさんに徐家の息子が任先生のところに弟子入りしたよという証人になってもらいたいためです。
これは、私の家だけが特別なのではなく、業界に入るときには必ずこういう儀式がありました。ただ、私は1954年の弟子入りでしたから、こういう儀式をしましたが、1955年には私営の会社や工房ではなく合作社になってしまいました。「公私合併政策」です。そのときからはもう、徒弟という呼び方はなくなって、「徒工」という言い方になりましたね。
つまり、国が弟子を雇うことになったのです。ですから、入門の儀式は全部なくなってしまいました。私は、昔の徒弟制度で修業した最後の世代です。
弟子入りをするときの儀式は「拝師酒」といいました。3年の修業を終えて、卒業するときは「満師酒」をします。
私の拝師酒のときは8人座れるテーブルが用意されました。父、母、自分の師匠を除いてほかに5人で、私は、先生の隣で立っていました。私の場合は、昔に比べれば、招待客は少なかったですね。それというのも、1949年に解放された後の弟子入りだったからです。
解放後は、「古いものを新中国に持っていくな」と政府が呼びかけていましたので、古い習慣を続けていることを他の人に知られたくなかったので、お客をたくさんは呼べなかったんです。お金もなかったし。
貧乏な家の子供が弟子入りするときにも拝師酒の儀式は必ずありました。貧乏だとなかなか豪華な酒や料理の準備はできませんが、解放前はやっていました。
弟子としての修業は3年で、その間はもちろん無給です。3年間の修業が終われば、師匠のところで働くことになっても、給料をもらえることになるのです。
普通は師匠の家に住み込むことになるのですが、私の場合は、近くでしたから自分の家から通っていました。
普通、師匠のところに住み込む場合は、干し大根飯で3年間を送るといいます。干し大根というのは、漬け物の大根を干したものです。だから、干し大根飯というのは、沢庵だけでご飯を食べる質素な食事のことです。修業中はそういうふうに粗末なものを食べて教わったものでした。
私は通いでしたが、修業をしている間は、師匠の家の家事など手伝いを全部しなければなりませんでした。それでも、お師匠さんは文化人だったので、私が間違ったりしていても、そんなに叱ったり殴ったりというのはなくて、丁寧に指摘して、教えてくれましたね。今、私が自分の弟子に接しているよりは、師匠が私に接してくれたほうがずっとやさしかったですよ。
師匠は、私のことをすごく気に入ってくれて、息子のように接してくれました。師匠には子供がいなかったのです。ですから、師匠が死んでからも、私が師匠の奥さんをお世話しました。
宜興では修業の途中で投げ出したら、二度と同じ仕事には就けないというような景徳鎮ほどの厳しいルールはありませんでした。それでも、同じ職種の別の師匠さんに付くということは禁じられていました。ですから、急須作りが1年間修業してだめだったら、他の仕事をしに行けばよかったのです。
宜興では、紫砂の急須作りの他に、他に七つの職業がありました。
同じ焼き物なのですが、「祖貨」と言って瓶などの大きなもの、小さな物だけを作る「渓貨」、釉薬を塗った「黒貨」、粗い土を焼く「砂貨」、土鍋や薬研を作る「黄貨」、瑠璃瓦やタイルなど元々は中国になかった類を焼く「洋装」。そして紫砂を使った「紫砂貨」と七つの業界があったのです。
紫砂の急須はその一つなのです。ですから、急須の修業を途中で辞めても他の仕事をすることができました。
ただ、組合があって、修業を終えた人達の名前は全部登録してあります。師匠について修業を終えていないと登録されないのです。もし登録されていない人が、彫刻とか急須を作っていると、ただちに排除されます。
登録してない人は仕事ができないようになっていたのです。ですから、途中で師匠のところをやめて勝手に独立したり、独学で始めることはできませんでした。
そうはいっても、それは建前で、隠れて作ることはできましたよ。
農繁期のときには農作業をして、農閑期にはいると、この近くの村ではみんな急須を作ってました。組合も、そこまでは管理できないのです。
それに急須は一人でできますから、だれにも知られずに作ることは難しいことではなかったのです。それを隠しておいて、業者が買いに来たら売ればいいのです。私の家のように大きい工房では、自分のところで作っただけでは足りないのです。足りないときに、農家を廻って急須の良いものを見つけて買ってきて窯で焼くとか、そういうこともありました。
作ってもらうときに、私の家の名前を彫ってもらうこともありますし、その人が有名な人で高く売れるときはその名前を入れてもらいます。この商売は、柔軟性があって自由だったのです。
『全ての工程を一つずつ確実に』
通常の急須職人の修業は3年間ですが、徒弟時代に教わることはたくさんあります。
急須作りには、形を作るだけで10工程あります。
最初は道具作りです。道具はたくさんあります。ヘラはケヤキで作ります。道具を自分で作れるようになるのが、最初の修業です。
次に、泥を叩く仕事です。良い紫砂土を作るには、土のなかの空気を抜くために大きい木槌で叩くのです。叩いて、土を折って、また叩いて、また折って、また叩いてとずっと叩くんです。土は酸性で非常に硬い。普通の土だったら、棒で適当に叩いたら空気が抜けますが、紫砂は違います。徹底的に槌で叩かないと空気が抜けないのです。数ヶ月ずっと叩く修業が続きます。これは全部弟子の仕事です。一番嫌だったのが叩き仕事でした。大変力がいるし、一番疲れる仕事なのです。一日の仕事が終わって、師付たちが休んだ後も、弟子は叩き続けます。次の日の材料を準備するためです。
次の工程は、材料を型の上に張り付けて、また叩くんです。そうやって形を整えます。
それができるようになったら、今度は、取っ手を付ける修業です。次が蓋の上の摘み、的子を作る訓練です。
それが終わったら、蓋を作ります。蓋には異なった3種類の形があります。それをみな覚えなくてはなりません。次は注ぎ口。それが終わったら、やっと外形を成形する修業です。それを終えたら、今度は口と取っ手を、泥に水を加えて糊状にして、くっ付けるのです。口の付け方にもさまざまな形があります。その一つ一つを作り方から付けるまで全て覚えていくのです。
その後が乾燥です。これはとても重要な工程です。
私たちは、仕事の3分は形を作る、7分が乾燥という言い方をします。乾かし具合が、とても重要なのです。いくら上手に作っても、乾かし方が良くなかったら、焼くときに失敗するのです。乾かし過ぎると、焼くときに亀裂が入ったり、くっ付けた口や取っ手がとれたりするんです。
一つずつの工程はすべて非常に精密な技術が必要とされます。それを3年で覚えるのは難しそうに思えますが、仕事で毎日作らなければならないから、作っているうちに体が覚えてしまうのです。
急須にはさまざまな形があります。その一つ一つの代表的なものを完全にできるように師匠に教わるのです。代表的な形を覚えられれば、どんなに形を変えたりしていても作れるわけです。
「中国紫砂」より、徐秀棠師の作品
『合作社の修業』
1955年、合作社ができました。私はまだ師匠の元で修業中でしたが、師匠と一緒にそこに入りました。
合作社には、父の工房の人達もみんな参加しました。ですから、そこには父がいて、兄、私、お師匠さんの任先生がいて、それから兄の師匠の顧先生もいたんです。
合作社には、資本家と判断された人は入れないんですよ。でも、小工業や手工業の人は入れました。父は少しは大きくやってたけど、7人の子供がいたから、食べるのに精一杯で、お金もないから、小工業の分類だったんです。
私は弟子の身分で入りました。合作社では、賃金がもらえました。徒弟制度の弟子とはここが違います。もらったのは13.6元です。
以前に任先生のところで修業していましたので、他の人は3年かかるのに、私は1年で卒業しました。
合作社には、紫砂工芸学習班というのがありました。正式には、工芸学習班と言うんです。学習班は、形を作る師匠が4人、彫刻の師匠が1人、釉を塗ったり絵を描くとか、そういう師匠が1人で、全部で6人の師匠がおられました。それぞれに8人か9人の弟子がつきました。
学習班って学校じゃないんです。学習班の制度は、複雑で、昼間は工場で働いて、夜、夜間学校みたいに、みんなで勉強したり、午前中は仕事をして、午後は学習班で学んだりもしてました。
学習班はみんな一緒に寝泊まりしていました。修業の期間の給料が13.6元。そのうち9.6元は食費。残りがお小遣いでした。初めは全員寮におりました。私は1年で修業を終えて、普通の工員のお給料をもらうようになったんです。そうなっても、住むところは、ずっと工場だったんです。
自分の家は人も多いし、狭いんですよ。工場が移転する度に宿舎も建てて、ずうっとそこに寝泊まりしてたんです。結婚するまでそうしてました。
あの頃は、みんな愛社心は非常に強かったんですよ。工場の庭に焼く前のシャボ(焼くための容器)が置いてあるでしょ。家に帰って、雷が聞こえて、雨降りそうだなと思ったら、みんな誰にも言われないのに、工場に行って、それを片付けてました。今では考えられない。毛沢東が、文化大革命をやらなかったら、人々のエネルギーはものすごかったんですよ。文革は、失敗だったと思います。
学習班は勉強になりました。合作社が招いた国語の先生から文化知識を教わりましたし、美術の先生も雇って本格的な水墨画を教えてもらったり。
私にとっては、とても大事な期間でした。中央工芸院へも勉強に行きました。そこでは、先生とわれわれとの関係は非常に密接でした。先生たちは工場にも教えに来てくれました。
芸術院を卒業したての学生が私たちの先生になって、デッサンを教えてくれたり、鳥に触らせながら、彫刻を教えてくれました。南京芸術学院でも研修を受けたし、北京の中央工芸美術学院の先生のところにも勉強に行きました。
今みたいに、学校と実践の場とが離れているのではなかったのです。学校と実践の場がうまく、密接につながっていたのです。
あの時期は長い歴史のなかでも特別な時期だったと思いますね。
一番、私が影響を受けたのが高庄という中央工芸美術学院の先生でした。彼がいった言葉は、ずっと頭に刻まれています。「工業化が進めば進むほど職人に未来がある」と言ったんです。
彼は、毛沢東に「あなたは偉大な政治家かもしれないけれども、芸術においては無知です」と、手紙を書いた人です。この先生は陶磁工芸が専門でしたが、中国の国の国徽の設計者で、中央工芸美術学院の権威的な教授だったのです。その先生は、ポーランドの留学生を連れて来て、私たちを厳しく指導してくれました。
学習班では叱るということはありませんでした。私は勤勉でしたし、師匠に嫌われないように努力していたおかげかもしれないのですが、師匠には殴られたことはありません。1949年に新しく国家ができて、解放してましたから、私が弟子入りした54年には、殴ったりは一切しないようにと、師匠たちも気を遣っていた時代です。
それは今に続いていますが、それがいいかどうかはわかりません。
簡単な例でいえば、私が弟子のとき、仕事が終わった後に作業台の後かたづけをしますが、この道具はここに、この道具はここに置くと決まっていました。それを間違えると、師匠に罵られたりするのですが、いまは少し怒るぐらいはするけど、殴ったり罵ったりはできないでしょ。ですから、いまの子供たちはだらしがないですよ。
仕事を覚えにきているのに、学校に行っているような感覚でいます。厳しい環境がないせいか、緊張感がありません。
昔は12歳とか13歳、14歳ぐらいで弟子入りしましたから、心も体もやわらかかった。いまは学校を卒業してから教わりに来るから、利口になっているし、口も達者です。教える環境も厳しくないでしょう。これは非常に大きな問題だと考えています。
大人になってからの修業を「半路出家」といいます。
仏教用語だと思うのですが、半路(はんろ)というのは途中でという意味です。彼らは、頭では、やろうとすることがもう形になっているのです。頭の中で像ができてしまっているんです。
私の時代には、まだ若くて、頭が真っさらな時に、師匠が急須の形を作るようにとんとんと叩いてくれました。そうやって、自分を作ってもらったのです。時間は掛かりましたが、私という土を活かして形を整えてくれたのです。
いまの子は型に合わせて速く作ることばかり考えてます。それが一番の問題です。
土から空気を押し出すために叩く話をしましたが、これは機械でやればできないことはありません。だけど、自分の手で、槌を使って叩いているうちに、土の性質だとか粘り具合とかいろいろなことを体で覚えているのです。それはとても大切です。ですから、いまでも私の工房では全部手でやっているのです。
話はそれますが、機械の導入で失敗したことがありました。1958年の全国的に工業化を進めようという運動をやったときに、われわれの合作社でも機械を入れたのです。土を叩くのと、それを平らにする機械でした。うどんの生地を作るように機械でやってみたわけです。それはもう機械ですから、土の性質や作る物に関係なく、もう全部同じ厚さで出てくるのです。
ですから、どんな急須を作っても同じ厚さで、個性がなくて、出来たものも大きさに関係なく同じ厚さなのです。大きな急須も小さな急須も同じ厚さ。それで失敗が多くて、逆に効率が悪くなってしまったのです。
その後、それに気がついて、また手作業に戻ったのです。1958年に機械を導入して、その同じ年にまた手仕事に戻りました。
人に技を教えるというのは難しいものです。
形にしても簡単には教えられません。急須のカーブがありますね。これは自分が良いと思う形を勘で削り取っていって作りあげます。この手の加減を他人に教えられると思いますか。これは、師匠が作ったものを見て自分が感じとる。そういうふうにやるしかないんです。
この紫砂急須作りの場合は、われわれの業界ではだいたいピラミッドを形成しています。一番下手な人が大多数で、真ん中はその次ぐらいで、ほんの一部の人だけが頂点に立っています。ですから、この完成した急須には、その時代の文化の素質がすべて含まれているのです。
『競争原理が技を磨く』
合作社に学習班を作ったことで徒工たちの腕はあがりました。当時は1ヶ月に1回、批評会があって、弟子の作品を全部並べるのです。名前は隠して、師匠に批評してもらうのです。師匠が、この急須が100点、この急須が90点と、点数を付けるのです。みんな一番に選ばれたいので、競争しました。それが良かったのです。励みになったし練習も張りがありました。
合作社に陳列室があって、優れたものが展示してありました。われわれはそれを見て勉強していたわけです。私達はこの仕事でゆくゆく裕福になるとか、お金持ちになるとは誰も考えていませんでした。ただ、ひたすら一番になりたい、いい急須を作りたい、腕の良い職人になりたいと必死だったのです。
それがだんだんと「こんなことはやめよう」と言う者がいて、批評会がなくなりました。批判されたり、比べられたりして、負けるのがいやだったのでしょう。そういうふうになったら、全体の腕も落ちてきてしまったのです。
解放前と、現在の教え方は似ています。師匠は教えない、弟子が自分で盗む。
解放後の、ちょうど私が合作社にいたころは、伝統工芸を残そうという呼びかけがあって、師匠も一生懸命自分の持っている技術をわれわれに教えてくれたのです。でも、それは思ったほどうまくはいきませんでした。途中で辞めたりした人も結構いたのです。
◎『大躍進』
1956年、毛沢東中国はフルシチョフのスターリン批判を知り、ソ連共産党との関係が悪化した。そして独自の道を選択する。1957年には河南省での人民公社にはじまり、10月には全国で公社化が進められ、74万余りの合作社が2万6千の人民公社に統合され、全農家の99パーセントが加入したといわれる。そうした背景のもと、毛沢東は1958年に「大躍進運動」を呼びかけた。がっちりと組織化され、ノルマを課せられたシステムは融通が利かなくなる。身分差別や批判は固まった組織の中で脅威であった。膠着した組織は反対意見を封じてしまうのだ。農村の食料生産は、生産の躍進のかけ声に応えて前年度の1億9500万トンの倍増の4億トン以上あったと報告された。農村幹部の権威主義と出世競争が加熱し、報告された数字が上に行くに従って雪だるま式に大きくなったのだ。控えめな報告や事実通りの少ない量を告げる者は、運動に水をさす右派の保守主義者と批判された。上層部はその数字を信じ、「重工業へ人的、物的集中」が謳われ、重工業を中心にした更なる国力の増加を目指すことになった。
先進国に追いつけ追い越せの「製鉄増産運動」は当時世界第2位にあったイギリスを目標にして号令が掛けられた。58年に生産量目標を620万トンから1073万トンにあげた。都市や農村のあらゆる職場で製鉄の増産目標が掲げられ、小型土炉法という稚拙な炉が60万個も作られ9000万人が参加して、1073万トンの製鉄が達成された。そのうちの土炉法で作られた鉄は使い物にならなかったといわれる。翌年には目標が2700万トンから3000万トンに。結果は目標達成のために鍋や釜、鍬などを溶かしてまで鉄を作る事態になった。
製鉄事業と同時に「建設資材」や「燃料確保」「原料確保」なども掲げられ、資材確保のために古い建造物が壊されたり、山林の大規模な伐採が進み、現在の洪水の原因にまでなっているという悲惨な事態を招いた。他にも「四害駆除運動」ではハエ、蚊、ねずみ、スズメの駆除が唱えられ、北京近郊だけで300万人が動員され3日間で40万羽のスズメが捕らえられ、イナゴやウンカの大発生を招いたり、「密植・深耕運動」が導入され食料生産に大きな傷手を与えた。
いずれも速く、大きな効果を生み出せという方針に駆り立てられた人々が数字だけを目的にした拙速のなせる結果であった。この運動の影響はチベット政策にも及び、青海省、四川省などでは大量の餓死者が出ている。背景には1951年以来中国の支配下にあったチベットで59年反中国、反共の暴動が発生、3月12日に独立宣言、3月31日にダライ・ラマはインドに亡命、臨時政府を作っている。この後暴動が続いたチベットは1962年に解放軍によって鎮圧されている。過剰とも言えるチベットへの報復であった。この影響は今に続いている。
1959年の反乱に、政府がどう反応したかの一端は、この本の最後に登場する黄売九師の話に出てくる。
この「大躍進運動」では推測であるが、2000万から5000万人の餓死者が出たと言われている。その悲惨さや政策による失敗、被害、数字的なことを国民の多くは知らなかった。
その頃の徐師の話を聞こう。
「中国紫砂」より、徐秀棠師の作品
『大躍進の時代』
1958年になると、合作社が国の工場になって、さらに拡大しました。国の政策で組織が変わったのです。
ですから、56年に弟子入りした人達は2年間しか勉強できませんでした。58年に国営の工場に拡大したときに、指導者がたくさん必要になりました。そのときに、紫砂工場は一遍に1000人ぐらいの工場になったのです。
そうなってくると、私たちと一緒に、2年間しか勉強してなかった人もすべて先生になったわけです。下手でも先生になりました。
工場で働く人が一番多かったのは、58年の大躍進のときです。その時は、ドンドン人を入れたんです。そして作りに作ったんです。それでも作るのに間に合わないからドンドン人を入れました。やたらに募集したんですよ。12、3歳の子供も入れました。
応募してきた子供たちが、窓の側に並んでるんです。背が低い子は石に乗って身長高くしてまで入ろうとしていました。
刻字班は、一番多い時が60人ほど。それもまちまちなんです。たくさん彫らなくちゃならない時に人を入れますが、注文がなくなったりすると、急須作りの工場に行かせて、そこで急須作りを覚えさせたりしました。
私の妻もその時に急須作りの現場に行って、覚えたんです。
工場では、上から年に何個作れとノルマを課せられました。けれど、間に合わないから、お猪口とか、スプーンとかお玉とか、小さいものも作って、数合わせしていました。名人の顧景舟先生もスプーンとか作っていたんですよ。とにかく数字が合えばいいわけなんですよ。
58年は私は、工芸美術学院に派遣されて行ってましたが、身分は工場の人なんで、夏休み、冬休みには帰って来て一緒に仕事していました。
そのときは学習班はもうありませんでした。
だいたい一つのチームに2人の先生がいて、20人ぐらいの徒工の面倒を見るというふうに変わりました。修業期間はだいたい3ヶ月です。3ヶ月で、一回転させるのです。生産量を高めるためにいろんな革新をしてたんです。
型で取る方が速いと思って型で取ったり、轆轤に載せて、真ん中を刃物で削る道具を使ってみたりしました。でも、紫砂は、型に取っても、轆轤にしても、うまくいかないばかりか、逆に手間掛かってしまうんです。だから、何年間も掛けて改良しようと思ってたんですが、結局うまくいかずに、また、完全手作りの方に戻ってしまったんです。
あの時、急須1個1個に絵を描いて、他の人が彫る。それだと非常に手間掛かるから、判を作ったんですよ。油紙みたいのでプリントしたものを貼り付けていく。そうすると、何十個もできますからずいぶん時間節約できた。そういうことも考えたりもしました。
伝統の作り方よりも、効率よく、たくさん作るためだったんです。
当時、値段は、どういうふうに決めるかっていうと、急須1個に、どのくらいの土を使ったか量るんです。例えば、0.5キロの土を使った、その土の値段はいくらなのか。それと、彫る人の給料を30日で割る。更に、1日に何個彫るか。その1個の平均のお金。それと、急須を作る人の給料、その個数で割って1個の値段。それから、管理費。窯を焼く人の給料と窯のコスト、そういう細かいコストを全部足して初めて一つの急須の値段が決まるんです。
1個の急須が工場から出る時の値段は、4元ぐらいです。
日当が0.1元とか、0.3元とか、そのぐらい。それの10倍ぐらいですから3、4元ぐらい。名人が作ったものであろうが、腕のいい人が作ったものであろうが、普通の工員が作ったであろうが、一律に同じ料金でした。
こういうやりかたは1年も続かずに終わりました。そこで働いていた1000人のうちの大半をまた田舎に戻したのです。作ったものが売れなかったからです。需要もなかったのです。結局、こういうことは無駄だったということに気がついて、また小規模経営に戻ったのです。
小規模になったのは1959年。田舎から連れてきた人は田舎へ戻して、町で募集した人達は残したわけです。田舎に帰した人達のなかには腕の良い人もいて、78年の改革開放後にまた、急須を作り始めた人もおりました。
運が悪いことに、59年から数年中国は自然災害に遭ったのです。
ご飯は食べられないし、作ったモノも売れない時代でした。
◎『帰農』と『自然災害』
15年間かけて製鉄でイギリスを追い越し、新しい科学的な農法で大収穫をと指導した大躍進政策は、初めの成功報告を毛沢東は鵜呑みにして、3年間で目標達成と修正した。だが、急ぎすぎた増産計画は結局失敗に終わり、毛沢東は自己批判し、国家主席を辞任した。1959年のことである。この増産計画でたくさんの人を集めたが、失敗に終わったために、人員整理のために地方からきた人達を故郷に帰した。「帰農」という。運の悪いことに、1959年から61年にかけて3年続いて大規模な自然災害が襲った。華北、華中では干ばつが、東北地方や河南では水害が続き、深刻な食糧難が起こった。私が聞き書きをした山東省河南村の農民切り紙細工師は、畑の縁の雑草さえも争って食ったと話してくれた。この時に1500万人もの死者が出たと言われている。
徐師が話しているのはこのことである。
『寄り道』
私は、58年に北京の工芸美術学院に行ったんです。天津の泥人形の名人である丁先生の工作室に入って1年間勉強したんですよ。
でも、宜興の工場は、大躍進の時代で、増産に人が足りないから戻って来いと。私は戻りたくなかったんですが、当時は、ご飯食べるのに食料の配給券が必要だったんです。お金送ってくれなくても良いんですけど、食料券がないと食べられないんです。その食料券を止められたんですよ。それで戻らざるを得ないんで、仕方なく帰ってきたら、南京で開戦記念碑の彫刻を作る仕事を工場が頼まれてました。
私は行きたかったんですが、派遣されなかったんです。年老いた職人二人が派遣されました。私は、こっそりと船に乗って、宜興の市内に行って、そこから、バスに乗って南京に向かったんです。彫刻を是非やりたかったんです。工場から派遣した二人の職人の一人は、彫刻ができないから帰ったんです。それで、私が残ったんですよ。
でも、工場からは、規律違反ということで「戻って来い」とか、「検討しろ」と命じられました。それで帰って来て、ちょっと検討書を書かされました。検討という言葉は、中国で反省のことですよ。反省書書いて、また、現場に戻ったわけです。そこで2年間、彫刻をやりました。現場で勉強して、小さい彫刻をいかに拡大するかなどの技術を覚えたわけなんです。
私の人生の中では、いつも、上の人に言われて動くんじゃなくて、自分の方からいろいろやったから、いつも反省書を書かされました。
58年の1年間は北京。それから南京に行って、62年に帰って結婚したんです。それで赤ちゃんが63年に生まれた。
結婚は南京から帰ってすぐです。戻って来て、字を彫る刻字工場に入って、そこの工場長になったんです。だから、上の立場になってたんです。
南京に行った時は、行った先の企業に身分を置くことになるんです。戸籍とか何もかも南京に持っていったんですよ。それで、終わった時に、そのまま記念館に残るか。中央美大に入るか、工場に帰るか考えました。
一緒に仕事した人達はみんな美大の出身でした。残っても、私は学歴が低いせいでみんなと一緒にいてもずっと下っ端だから、それは自分の本意ではない。美大に行くというのもあったんですが、故郷に待ってる恋人いるから、ちょっとためらいがあった。自分は紫砂の出身だし、紫砂のところに戻るしかないと。それで戻って来たんですよ。
恋人は私の弟子です。58年、北京に行った頃から恋愛していたんです。学習班にいた時には、恋愛禁止だったんですが、学習班ではなくなったので。
徒工を卒業した時に、給料は37.9元。次の年に43.9元。その後は、もうはっきり覚えてないですね。私は、出来高払いの待遇は受けたことがありません。出来高の人は100元にもなってたんですがね。ですから、うちの奥さんより、私は給料は安かったんです。奥さんは、出来高払いだったからね。
出来高払いは、稼ぐためにみんなうまく速く作らなくちゃならないんです。同じ急須作りで国の工芸美術大師になっている周桂珍(この本に登場する)さんは、その時に鍛えられたから、速く、うまいんです。我々は出来高払いでなかったから、私の世代の人は速くは作れないんです。
1960年代の前半、私は40元ぐらいの給料で、顧先生は90元ぐらいでした。南京に彫刻の仕事しに行った時に、中国の有名な画家で大学の教授でもあった人がいたんです。学生たちが、みんなで話してました。「あの教授は、学校にも来ないのに600元ぐらい給料をもらってんだ」って。私はそれを聞いて、600元なんてもらって、どうやって使うんだろうと思いました。自分は40元ぐらいだったからね。
「中国紫砂」より、徐秀棠師の作品
『文化大革命の頃』
文革の時、紫砂の工場を管理しに来た人達は、共産党が統一管理してましたから、地元出身の人には限らないんですよ。工場長は江蘇省の北部出身の人でした。全く急須や紫砂の基礎もわからない人でした。そういう人が景徳鎮に見学に行って、水の圧力で土を捏ねるのを覚えて来たんですが、それは工場の上に水を溜めて下の臼で砕くという設備でした。それを作ったんですが、貯水場から下に落ちてきても全然圧力足りないんです。ですから出来ませんでした。そういう人ばっかり来てました。
顧景舟は自分勝手過ぎると、全員集めて批判したりしましたよ。先生は自分が作りたいようにやっていたからです。文化大革命のスローガンは、資本主義の道を歩む闘権派打倒でした。権力者、資本主義の道を歩む権力者を打倒するんだと。
毛沢東の主旨は、劉少奇たちなど一緒に革命してきた人達をやっつけることでした。それで、工場でも、上の人を批判したり、自己批判させたり、扇動してたんです。
そういう前兆は、大躍進の頃から少しずつ浸透してきたんです。顧景舟を「あなたは大躍進の邪魔をしてる」と批判したのもその頃からです。そういうのが始まって、文革中にふたつの派閥に分かれました。
60年からの自然災害の時、仕事がないからと帰ってもらった人達が自分達は都合良く利用されて解雇され、収入もなくなったと、工場に抗議しに来たんです。我々の経済損失を弁償しろと。
それで、経済ばっかり重んじちゃいけないと主張する組と、その反対派と、ふたつのグループに分かれたんです。改革派と経済主義反対派です。
そういう状況でしたが、生産はずっとしていたんです。大字報を書いたりはしていたんですけど、生産は止めなかった。生産量を減らしたんです。というのは、もう、お茶を飲むのは資本主義の趣味だと言いだしたからです。
ブルジョアの趣味だから飲んじゃいけないと。ですから急須は売れないし、鉢も売れない。鉢は花を植えるものです。盆栽とかも資本主義の、ブルジョアの趣味だから、それも売れないんです。
それで、ご飯を炊く土鍋を作ったり、少量の急須を作って国の卸市場に卸に行くんです。その売り上げで工場の人に給料を払って、維持をしていたんです。
文革中は、紫砂工場は一番困難な時期だったんですね。
私は、1976年まで、国や政府の命令で大量生産品を作っていました。文革当時は、紅衛兵の彫刻を作るのが多かったですね。紅衛兵を褒めたたえることをずっとやっていました。
あのときは、政治が一番優先だったので、作るものもすべて政治に合わせて指示されました。例えば、卓球外交が取り上げられると卓球の彫刻を作ったり、毛沢東の「人民も兵隊になろう」という呼びかけの時には、民兵の像を作ったり紅衛兵を作ったり、政治に影響されてものを作った時代でした。急須の側面にも民兵だとか卓球だとか、そういうのを彫ったのです。
それは、売るためではなく、展示会に参加するため。全く経済価値のないものを作っていたのです。
文革の後半から、輸出用急須作りが回復したんですよ。量も増えて、生産が間に合わないから、田舎に戻った人達の所に工場から指導員が行って、その人達にも作らせました。
1976年にやっと文革が終わって、工場のなかに、私や兄や顧先生、腕の良い人達が中心になって、再び工芸研究所を作りました。もう一度伝統的な手の技を教えるための組織です。私たちがそれぞれ弟子を2人ぐらいずつ取って、伝統的なやり方で教え始めたのです。手で作る工程に戻しました。
私達の合作社から下放はなかったんです。研究機関とか、大学とか、そういうところの知識分子は下放されてたでしょ。工場は労働者の場所だったから下放はなかったんです。
兄や師匠達は生産にもかかわるし、彼らにデザインしてもらったりするので、下放はなかったですね。
『不毛からの脱出』
文革の前は、出来上がった急須には合作社の判子を押してたんですよ。ただ、私の兄とか、周さんのお師匠の王寅春さんとかの名人達は、自分の名前を押してました。
文革中は「中国宜興」や「宜興紫砂」と押してました。でも、それでは窯に入れてから失敗しても誰のかわからないから、作った人のちっちゃい判子を蓋に入れようということで、そういうこともしてました。
私は、文革の終了前は南京博物院で彫刻の仕事をしていたんです。南京のデパートのガラスに、林彪副主席の写真を飾ってあったんです。それは江青が撮った写真なんだけど、暫くしたら、その写真がなくなったんです。その後に、「林副主席がモンゴルに逃げようとして墜落して死んだ」と新聞で読んだんです。それでまた、暫くしたら、今度は四人組が退治され、華国鋒という新しい主席が出てきたと。
仕事をしていた博物院の後ろに、海軍の駐在所があったんです。毎日、兵隊が訓練で歩いてましたが、それもいつの間にかいなくなったんです。そうしたことや四人組の話、新しい主席が出てきましたので、これで文革が終わったなっていう認識が広がりました。
これは76年の頃の話です。
76年に周恩来が亡くなりました。新しい方向変換は、周恩来のおかげもありました。周恩来は中国の産品で、外国に出せるのは工芸品であると考えたのです。そういう下地があったので、76年に文革が終わったと同時に、私は工芸研究員に選ばれたのです。
これは、一つの政策というよりは、そこで働いている私たちのような中心になっている工員――工員は工員なのですが、主力工員の意見でした。
それは危機意識でした。師匠達、先生達がどんどん年を取っていくのに、後継ぎがいなかったのです。非常に重要な問題でしたから、私たちが工場長とか、幹部に強く後継者育成の機会を要求したのです。
そして、研究所に10人ぐらいの人が集まったのです。
その後、手工芸品が輸出されるようになって、工芸研究所開設は間違いではなかったと、みんな思うようになりました。
伝統的方法で、少ない弟子をしっかり教えましたから。自分の考えで、像を彫ったり、絵を描いたりできるようになったのです。
文革の10年間は、とても人材を育てられる状況ではありませんでした。当時は、技を尽くしたすばらしい急須を作る人も、すばらしい像を彫る人もいなかったのです。あのときは、一番のスローガンは「誰のために働くのか」という問題でした。答えは「大衆のために」でした。
そんななかで、きれいなもの、すばらしいものを作るのは、ブルジョア思想で、大衆のものではないと言われました。封建的で資本主義的なものだから、作ることはいけないことだということで、みんな大衆的なものを作ったのです。
ただ、われわれの仲間のなかには、芸術の仕事をしている人もいれば、お医者さま、学校の先生とかもおりまして、その人達は紫砂急須の良さ、すばらしさというのはわかっていて、彼らは良いものを求めていたわけです。
良い作品のなかには、その時代の文化や、作った人達の知恵のすべてが含まれています。精一杯の技を発揮した品物は、一つの文化を表せるのです。
ですから、文革が終わったときに、伝統的な物を世に残すために、本当の人材を育てなければならないということを痛感したのです。
最大の理由は、技というのは、人から人にしか受け継げません。そのためには、弟子はある期間ずっと一緒に暮らすなり、師匠の側にいて学ぶことが必要です。
私が弟子に入ったときもそうでしたし、いま私が弟子を育てるときもそうしています。 私がやるのを見せますし、弟子の手を取って手の形を学ばせています。技は体で覚えるしかないからです。黒板にチョークで書いたりすることでは絶対に伝わりません。
私は、歩んできた道が間違っていたとは思いません。
われわれは小さい子供の時に、弟子入りして、解放したら、合作社のときに工芸美術学院や大学に研修しに行かせてもらいました。それで、また戻ってきて、実践の場でやって、また、研修しに行ったのです。その繰り返しだったから、自分の腕はここまでこられたと思うのです。
ですから、昔はよく、工場に大学の美術学部の出身者が来ましたが、どうしても落ち着かず、こんな工場で働くのでは大学で勉強してきた自分がもったいないと、政府に手紙を書いて、研究機関に移って行ったですが、そういう人は立派な職人にもなれないし、名人にもなれないし、彫刻家にもなれませんでした。そうやって、どうにもならなくなったケースは多いのです。
いま私は、研究会とかシンポジウムで、工芸美術学院や美術系の学校は、実際に修業をした経験のある子のなかから、受験生を募集した方がいいと進言しています。
高校や中学校を卒業したら、私のようなもののところで、弟子として、何年間かの修業を積んだ後に、そういう美術学校に勉強しにいけば、なお効果があると。そうすれば、学んでいることがよくわかりますし、技を磨くことに役に立ちます。
手にものが覚えやすくて、体がいうことをきいて、弟子に入るのに適した年齢は、17歳から18歳の間です。高校を卒業してもまだ間に合います。
76年に改めて研究所を作って、顧先生とか兄とか、みんな戻ってきました。彫刻組、それから刻字組は、合併して、彫刻研工場になったんです。私がそこの主任になったんです。彫刻研の車場、工場のことです。ここの責任者が主任ですよ。それが、私の肩書きでした。ですから、兄も、顧先生も立場上は部下になったわけなんです。
これが77年か78年ぐらいだから、改革開放の直前ぐらいですね。
◎『改革開放』
文化大革命で失脚していた鄧小平は再び復活し、1978年改革開放を唱え農業政策を見直し、家内副業や多種経営など禁止されていたことを解き、生産請負制度を導入、農民の生産意欲をかき立てた。農地の所有権は集団に残しながら農地や道具を貸し、約束した生産量を超えた分は農家の取り分として与えた。「郷鎮企業」と呼ぶ農村の中小企業の形も認め、これはやがて私営企業の解放へと発展した。これはこれまでの階級闘争から経済重視の国家建設への変換であった。現在、中国各都市には、デパートや専門店、海外ブランド店が多く進出し、資本主義経済となんら変わることはない。こうしたことは改革開放のもたらしたものである。
「中国紫砂」より、徐秀棠師の作品
『改革開放』
78年の改革開放は私たちにとって全く思いもよらなかったことでした。特に工芸美術は、政治との関係が一番曖昧で、関係がないような位置にあったから、開放後すぐ、海外のお客さんへの贈呈品制作者に選ばれ、その制作が始まりました。
また、毎年、広州で中国輸出入商品交易会(広州交易会)というのがあり、中国で輸出できるものを全部そこに展示するのです。そこへ各国から貿易商が来て、気に入ったものを選んで契約します。
われわれも1978年から参加しました。それから少しずつ注文が来て、いいものは売れるのだという意識が広がるようになって、1981年には、香港で展示会をやりました。そのころから、経済的な意識がだんだん広がってきたのです。
1978年、改革開放があって「郷鎮企業」を作ろうという国の政策があったんです。そこで、郷鎮企業として、第二紫砂工場を作ったんです。
史さんという人は、下放された農村の人でした。彼が先頭に立って第二工場を作ったんです。そこに、私が声掛けられて入ったわけなんです。
こんなことがありました。紫砂工場での話です。上の人が、今度、他所の会社の人が見学に来る。でも、紫砂は我々の命だから、大事な部分は見せないようにしよう。私は、工場長に「話が違います」と言いましたね。みんなが、ここに勉強しに来るんだから、そんなことはしちゃいけません、と。
そういう性格だから、最後まで出世はしなかった。嫌々働く人だって、いっぱいいます。みんな上から命じられたり、言いつけられたからやるんです。だけど、私は、やるからにはいつも最高の方法でやろうと心がけてきました。どんな仕事も嫌だと言わずに、最善を尽くしてやったんです。
言われたままやるっていうのは、私の性格ではないんです。上の人にしてみれば、私は可愛くない性格ですね。私は、誰よりも一生懸命働いて、誰よりも責任持って、工場のために貢献したんですけれども、結局、工場の主任で終わってしまったんです。本当ならば、私の工場に対する貢献度や、能力から見れば、宜興市の陶磁公司の社長にもなれたと思います。ただ、可愛くない性格だから、誰も、私を薦める人がいなかったんです。
何で私が第二工場に行ったかっていうと、そういう性格だから第一工場では重要視されなかった。なのにプレッシャーを掛けられる。そんななかでは気持ちよく働けなかったんです。
しかも、紫砂がまた少しずつ売れるようになったら、みんなが工場の道具を持って帰ったり、作った急須持って帰ったりするんですよ。そうすると、工場側が公安と組んで各家に捜査しに行くんです。私は反対しました。公開の会議の時にも立って反対したから、私は、ものすごく攻撃されました。これは、法律上、犯罪だと。
そういうのがあったから、私は、第二工場の話がまだ出ない時に、紫砂工場から美術陶器工場に行こうと思ったんですが、工場側が行かせてくれなかったんです。
仕方なく、私の妹の旦那が建築装飾用の煉瓦を作る工場にいたので、その工場から声を掛けられて、副工場長という身分で行ったんです。そこに行ったのは良いんですけど、そこの工員たちの素行が悪くて、煉瓦を焼く前に、もう既に壊してるんです。いろんな不正もやっていました。そんなだから、一生懸命働いても、ちゃんとお金ももらえないし、稼いだお金は、上の人に使われるという始末でした。
丁度その時に第二工場が出来て、声掛けられたので、私は行ったんですが、そこにいたるまでにはまだ紆余曲折があったんです。
第二工場に入る前に、紫砂工場に戻って来て欲しいと、周桂珍さんの夫の高海庚さんに言われたんです。高さんの息子と私の娘は結婚していて、親戚同士だし、彼に誘われたのだから戻ろうと思っていました。
高さんは、当時、紫砂工場の工場長でしたから、無条件で、何でもいいから、とにかく、戻って来て欲しいと。私が、そうしようと思っていた矢先に、高さんが亡くなったんです。高さんが亡くなったから、戻ってもしょうがない。それで、1986年に第二工場に入ったんです。
第二に入った時は、彫刻の分野の責任者として入ったんですよ。その後、彫塑分工場を作って自分が工場長になりました。
第二工場やった時に、声掛けてくれた史さんが出世して、丁蜀鎮の鎮長になったんです。その後に来た工場長は、とんでもない人で、工場の物を売却したりするもんですから、第二工場は、経営困難になってました。
それで、私は独立したい、と言ったんです。そしたら、その工場長も何も反対せずに、「どうぞ」と。
その頃に、顧先生の紹介で日本の芸大の高橋弘先生と知り合ったんです。その高橋先生が私のことをとても気に入ってくれて、その後一緒に工場を作ることになったんです。それで95年頃に高橋先生と合弁会社を立ち上げたんです。今は、現在のこの土地を買って、分工場ごと、こっちに移ってきました。
私は、元は第一工場の人間、紫砂工場の人間だったんですが、紫砂工場からは退職金はもらえないし、出てきた時も私は、自分の力で自分を養うから誰からも退職金をもらわない、と決めたんです。
そしたら最近になって、紫砂に貢献してるのに退職金がないのはおかしいと他の方が言い出して、国に申請してくれたおかげで、今、毎月社会保険課から、退職金をもらってるんです。1ヶ月1300元ぐらいです。幹部待遇ではなく、工員待遇です。
今も紫砂第一工場、第二工場はあるんですよ。今、紫砂、よく売れてるから工場としては稼働してないんですけど、いろんな工場を人が借りて急須作っているんです。なぜならば、宜興の紫砂工場という名前は知られてるから、みんな、そこに買いに行くんですよ。そういうところになりました。
『自由販売』
自由に自分で作ったモノを売ったり買ったりすることができるようになったのは、いつからかな。紫砂の人気が出て、台湾の人がたくさん買いに来るようになったんです。ただ、台湾の人は、直接、来られないから、香港の商人が買いに来るんです。香港の商人は勿論、工場にも行くんですけど、個人の所にも来たんです。
それは隠れての活動です。みんな、家でこっそり自分で作ってましたが、自分の家に窯がないから、袖の下あげて、工場の窯の人にお願いして焼いてもらってたんです。それを、その商人達にこっそり売っていたんです。
でも、そのことがばれちゃって、公安が出動して、台湾からの依頼できた香港の商人や上海からの商人を見つけて、刑務所に入れるとか、そういうのをやったりしたんです。
同じように、売った人からも罰金取ったり、作った物を没収したりしました。そういう時期があったんです。
それで、1985年から86年になると、少しずつ公にやれるようになったんです。そして今は、自由です。
1995年に、この土地を自分で買って、独立したのです。
独立したのは、経済的なことももちろん一つの目的なのですが、それよりもっと大きいのは、国営の工場にいると自分の作りたいものが作れないことでした。私はやはり一人のアーティストというか職人として、自分のものを作ろうという気持ちがあります。
私が作っているものは大きいものが多いので、乾燥させるのに乾燥部屋が欲しいと思っても、それを作るときには、工場に申請しなければならないし、工場はさらに上の機関に申請しなければならないでしょ。許可をもらうのも大変ですし、私は陶芸の責任者ですが窯の責任者ではないので、窯で焼いてもらうときに、焼き過ぎると、窯の責任者が、今回の石炭はよかったからねって、失敗して焼き足りないときには、今回の石炭が悪かったと、それで済ませてしまうわけです。
それは私にとっては、我慢できないことでした。
それで、自分でやるなら、工場はこういうふうにしたい、窯はこういうふうに作りたい、乾燥部屋はこういうふうにしたいと考えていたのです。それで、日本人の出資者の協力を得て、会社を作ったのです。ここには窯も作りましたし、弟子というか従業員も30人ほどいます。
「中国紫砂」より、徐秀棠師の作品
『これからの手工芸』
この後、中国の手工芸は弟子を育成して、技術を引き継いでいくことに可能性があると思います。というのは、いまは、昔のように家庭的な小さい規模の工房が非常に増えたのです。そこでは、昔のように、父が息子に伝え、息子がまた子供に伝えているのです。ほかにも、私のようなところで、よそから有望な子供を弟子に入れて育てているところもあります。
何年か前までは、国民はおなかいっぱい食べたいということで精一杯だったのですが、次の目標は電化製品を揃えることでした。私たちの作る、こういうものを楽しむのはまた次の段階でしょうが、それもだんだんとよくなっていくと思います。
お茶の文化がいま、盛んになってきています。
急須には、実用と文化が同居しています。お茶の文化が広がれば広がるほど、こういうものを楽しむ人が増え、どんどん売れるようになるでしょう。
私のところは、昔の徒弟制度に戻りつつあります。
弟子入りする人も自分が良いと思う人のところへ弟子入りできます。師匠も弟子を選びます。開放以前は、すべて配給制で、弟子も師匠も否応なく、適切かどうか関係なく配給されていたのです。いまは、また昔の姿に戻りつつあります。
欧米の芸術についてですか?
私はずっと伝統工芸をやってきましたから、いま、若いアーティストたちが、ピカソがすばらしいとかゴッホがすばらしいとかいいますが、それにはあまり賛成できないんです。残念ながら、私は彼らの作品がよいか悪いかを識別する目を持ってないからです。
私は、師匠や尊敬する中国の先輩たちのものを真似して学ぼうとしたようには、彼らのものを真似してみるつもりにもなれないし、作ることもできません。ですから、若い者がそういうものを真似したり、評価をしますが、本当にわかって良いと言っているのか、みんなが良いと言っているから良いと言っているのか、それが私にはわからないのです。理解できません。彼らの作品が良いとか悪いとか言えません。あえて言えば、基礎のデッサンなどは良いと思うのですが、何を表現したいのか、何を表現しているのかは私にはわからないのです。
私はいま弟子を育てていますが、昔ながらの方法で、急須や像を作っています。会社の経営は息子に任せています。
工場を除いた私の弟子は9人で、この者たちは、昔のように徒弟制度で育てています。これらの弟子は、急須を作ったり、彫刻物を作ったりしていますが、伝統的なものを作る人もいますし、近代的なアートを作る人もいます。
中心は急須を作る仕事と置物を彫る仕事です。いずれも紫砂土を使った像です。
急須は、高級品と中級品と普通のちょっとレベルの低いものと3種類作っています。彫刻のほうは低いレベルのものは作っていません。高級品、あるいは中級品です。
なぜなら、私の弟子たちはみんな芸術師の肩書きを持っています。そういう肩書きを持つことになると、作ったものに自分の名前を彫ることができます。そうすれば、価値が求められるので、高級品から中級品を作ることになるのです。
急須と彫刻を一緒に作る理由は、同じ工房を使い、窯の温度もほとんど一緒。そういうことから、2種を作っているのです。
私たちの伝統工芸品の世界はこれからも可能性が大きいと思っていますが、新しい道も探っていかなければならないとも思っています。
新しいというのは、昔のやり方もよかったのですが、問題もありました。昔は手の職としてずっと覚えて、技はありましたが、芸術的センスとか、そういうのはあまり重視しなかったわけです。
私のところでは、やはり手の技術も重視しなければならないし、センスやデザインの面も大事で、この2本の足で保っていかなければならないと思っています。そうすれば、新しい世界が開けてくるのではないでしょうか。
自分の作品に対しては、満足できるような作品は1個もないのです。常に今よりいいもの、これよりいいものをと、高いものを目指していたわけです。そうしてきたら、ある日、工芸師に選ばれました。まだ満足できずに続けていたら、今度は高級工芸師に選ばれ、今度は国の工芸美術大師に選ばれたのですが、私個人としては、それが目標ではなく、一つのものをちゃんと本当にうまく作れるように努力してきただけなのです。
『国の工芸美術大師』
国の工芸美術大師に選ばれるまでも、紆余曲折がありました。
93年でしたが、この頃、上の人に嫌われていました。その時、工芸美術大師の申請に、第一工場から3名推薦したんです。第二工場では、兄と私の二人に資格があったんですけど、上の人は、第二工場には枠が一つしかないと言うんです。
私は、最初は、そんなのはどうでもいいと思っていましたので、兄を推薦してもらったんです。でも、友達がそれは不公平だと。あなたは十分資格あるから「そんなのに負けちゃいけません」と言うんです。それで上の人に会いに行って話をしたり、北京の軽工業部とか工芸美術協会に行って交渉して、追加で私と兄の申請を出したんです。
それで、私は、93年に国の工芸美術大師に選ばれましたが、兄は落ちました。
まあ、これは余談だけど、兄は作品として、盆栽鉢を出したんです。それが作品として良くないからという理由で落ちたんです。兄のお嫁さんが、急須で出すとあまりにも良い作品だから、狙われると思ってそうしたのです。次にもう1回申請して96年に工芸美術大師になりました。そんなわけで、私より一期遅くなったといういきさつがありました。国級の工芸美術大師の制度は1979年に33人、1988年に63人選ばれていました。ええ、毎年じゃないんです。次が93年で、64人。一緒に恵山泥人形の喩湘蓮も選ばれました。ですから、私達の時には中国工芸美術大師は160人だったのです。
今は、私は作品を自由に作って売れるようになりました。
それ故に、自分は、紫砂に対して責任を持ってると思います。自由に作品を作って、名前彫って、たくさん売ることができます。お金儲けがしやすいのです。
たくさんの人が、みんなで作ってあなたの判子押して、あなたの作品として売りましょう、と言ってきます。でも、私は、自分の紫砂に対する責任は、守らなくちゃならないから、そういうことはしません。
今、紫砂は、非常に高く売られています。たくさんの富裕層が投資として買っていくんです。彼らは高額の金を提示します。でも、自分の作品は、歴史の中に残っていくものですから、その責任は、自分で取らないといけません。
今、私は、自分の作品を作る以外は、本を整理したり、資料を残したりすることに時間を費やしています。
私は、中学校を卒業して師匠に弟子入りして、紫砂でもって自分が一人前になったんです。紫砂で出世して、紫砂が利益ももたらしてくれました。だから、そういう感謝の気持ちでやってるんです。
自分の作品が芸術だと思ったのは、いつ頃からかな?
彫刻の人は政治性のある作品を作っていました。香港人が来てから、芸術性とか、芸術がどうこうと言うから、私は初めて自分たちが作ってるのが芸術品だと思ったんです。それまでは、お客さんの希望に合わせて作っていたから、自分の作る物が芸術品だとか、そういう認識はなかったんです。
芸術品は創作であって、誰かに合わせて作るもんじゃないですから。
上手な職人と芸術家の違いは、腕の良い職人は、生計のために仕事しなくちゃならないですね。アーティストは、一定のお金を保障された上で創作する。芸術を創作する。これで答えになってますか。
手の仕事は、芸術とは結びついてるところもあれば、結びついてないところもあると思います。宜興の出身のゴカンシュさんていう画家がいるんですよ。その人は、ちゃんとラインも描けない。字もすごく下手です。基礎がないのに、立派なアーティストになってるんですよ。だから、技の訓練が芸術に結びついてるところもあれば、結びついてないところもあると思います。
伝統工芸は重視されているんですけど、これは、一体、アートにどのぐらいの影響があるか、もっと検討しないといけないと思います。
無錫の泥人形は、単なる民間の習慣を引き継いで、捏ねて、色付けしてますが、それにどのぐらいの芸術性があるか、みんな問われてるんです。伝統と芸術がお互いにどんな影響をあたえているのかは、再検討する必要があると思います。
急須作りがうまいというだけで、工芸美術大師と呼ばれたくないんです。
工芸っていうのは、歴史上、やっぱり一番下っ端の仕事だから、みんな工芸美術大師と呼ばれたくなくて、工芸を付けずに美術大師と呼ばれたいと思っているんです。
ほんとにうまく急須を作れる人が、工芸の名人なんですよ。アート的な価値は、あるかどうかは別として、技術が良く、工芸が良いからうまいんです。だから、どのぐらい、そのことが芸術と関係があるのかは私にはわかりません。
私は、工芸大師の方を好んで付けてます。先程の、基礎のない画家は、中国の工芸美術大師にはなれないでしょ。そこには伝統がないんです。私達は、伝統の上に乗ったから初めてなれたんですよ。
国は、大師や伝統工芸を本当に大事に……してるかな。工芸美術大師に選ばれて、私は感想を述べる機会があったんです。その時に、私は、言ったんですよ。
私たちは、良い時代に恵まれました。こうやって工芸美術大師に選ばれたんですから。でも、肩書きのために工芸美術大師になったのなら、意味がないことです。こういう肩書きをあげるのなら、ちゃんと考えて、維持していく、管理が非常に必要だと言いました。
ちゃんとした人にあげるべきだし、この名誉にふさわしいか、考えるべきです。そうじゃないと乱れてしまうでしょうと。
美術大師になれば、作った物は高く売れます。でも、それは、物にもよります。紫砂の場合は、高く売れます。人形なんかだと、美術大師の作品でもあんまり売れてないですね。だから、国が大事にしてくれているかどうかは別にして、肩書きのおかげで、私達は高く売れてるのは事実です。
今、工芸美術大師になって、生活が難しい人には、少しは補助金出てると思うけど、紫砂にもそれがあるかどうか、私はわかりません。紫砂は、もらえてないかもしれない。生活困難な人に補助してあげてるかどうかも、ちょっとわかんないんです。
私のところは、息子の嫁が管理しているので、お嫁さんがもらってるかもしれない。
大師になって、やらなきゃいけない義務も、はっきりしてないんです。
紫砂は、泥人形みたいに、伝承を受け継いでくれる人がいないという状況じゃないから、後継者の育成にも問題はないんです。後継者はたくさんいますから。
今、工芸美術大師が何人いるか、ちょっとわかりません。紫砂の分野もややこしいんですよ。まず、中国工芸美術大師があるでしょ。同時に、中国陶芸大師っていうのもあるんです。普通は、まず、陶芸大師に申請するんです。陶芸大師が先に認可されて、その次に工芸美術大師に申請するんです。私は両方持ってるんですけど、陶芸大師を持って、工芸美術大師を持ってない人もいるし、反対の人もいるから、ややこしいんですね。でも、この肩書きを使うからには自分に誇りもあるし、後継者を育て、伝統的な技を残す義務もあると思っています。
「中国紫砂」より、徐秀棠師の作品