『中国の職人』塩野米松

5の巻 王南仙ワンナンシェン(恵山泥人形彩色師)

録音日 2011年9月23
録音場所 錫恵公園しゃくけいこうえん内 息子さんのお店で

王南仙ワンナンシェン師とのインタビューは王師のお店で行われた。店は恵山老街と呼ばれる歴史文化街の側にある公園の中にある。この老街は唐の時代から中華民国に至るまでの1200年間に作られた祠堂が118ヶ所も並ぶ中国でも最大規模の場所である。先祖を大事にする中国国民は機会を作っては祠堂にお参りする。大勢の人が集まれば、それを迎える酒家や飯店、茶館ができ、土産物屋が軒を並べる。

こうして出来上がった場所だ。 今でも大勢の観光客が訪れる。王師は店先の椅子に腰掛けて、話してくれた。店は人形作りの後を継いだ息子と一緒にやっている。

息子も高級工芸美術師で、人形よりも泥塑と呼ばれているが、彫刻のような塑像制作者であるという。王師は、退職後は息子の手伝いや喩湘蓮ユイシャンリェン師のものに限って彩色や小道具を作っているという。

その話を聞こう。

『茶館の一人娘』

私は1941年、旧暦の5月15日生まれです。うちは恵山泥人形作りと、境内で茶館をやっていました。私は一人娘だったの。教育熱心な家でしたね。あの時代では珍しく、お祖母ちゃんの娘達、母や叔母を、みんな塾とか学校に行かせてました。

新中国が出来た時に「掃盲班ソウモウハン」というのが出来たんです。字の読めない人達が、みんなそこで字を勉強したんですが、うちの母達は字が読めたから行かなくてよかったんですよ。

私は小さい時に人形作りや彩色の手伝いはやらされなかったわ。ちゃんと学校に行ってました。学校から帰って来て、遊びで人形の目の白い部分を描いたりはしてましたが、ほかはやりませんでしたね。

一人娘だから、父親にはとても大事にされてました。父は時間があると、私をおんぶして山に遊びに行ったり、優雅っていうか、そういう生活をしていたんです。

他所の人形作りの家は、弟子は結構夜中まで仕事をやってましたね。うちにも親戚の紹介で一人女性の弟子がいましたが、父親が非常に優しい人だったから、その弟子にもそんな夜遅くまでやらせなかったですよ。

『文人の集まる高級茶館だった』

うちは、お祖父ちゃんと叔父2人がここ錫恵公園しゃくけいこうえん(園内の一番良い場所。今は観光地になっている。建物が残っていて、庭に池がある立派なところ)で茶館やってたんですよ。茶館の名前は、亦暢イショウ茶室。母のお父さんと、お母さんの弟とお祖父ちゃん、3人で茶館を営んでいたんです。それで、母と妹二人とお祖母ちゃんで人形作ってたんです。

お金持ち? まあ、よその家よりは、少しは良いかもしれない。現金収入があったし、観光地恵山の中心的な家だったから。少しは、余裕があったぐらいで、とても良いほどではないんですよ。あの頃は、みんな、そんなに差はなかったんですから。

父親も叔父もわりと優しい人だったので、田舎の人が来たりする時に、お茶買うお金がないとただで飲ませてあげたりしていましたよ。

母親の一番下の弟、私の叔父ですが、国民党の軍隊の学校「黄埔軍官学校(コウコウグンコウ)」に行ってました。この軍学校は孫文が作って蒋介石も関係していた学校です。

叔父は卒業したら、そのまま国民党に入ったんです。だから、叔父は、文革中に酷い目に遭いましたね。まあ、私達までには影響はなかったけどね。

うちの茶館は、合作社が出来た時に、ここを公園にするから中に住んでる人達は、みんな外側に家をもらって住むようになったから、茶館はやめたんです。それで、みんな工場に入って働くようになりました。

一人前のお茶の値段は、ちょっと覚えてないですね。紫砂しさの急須がいっぱいあったんですよ。あと、お湯を注ぐ薬缶みたいのあるでしょ。それは、錫で出来てるんですよ。各テーブルにお湯を注ぎに行くんですよ。

お菓子とか、饅頭とかは売ってなかったですね。菱の実を茹でたものとか、ピーナッツとか栗とか、そういうようなものはありました。スイカとカボチャの種もつまみにありました。お茶飲む人がそれを買ってお茶菓子にしてましたね。

朝ご飯は、外で食べたり、家で食べたりして、その後にお茶飲みに来るんです。お喋り出来るから、家で飲まないで外で飲むんです。茶代は高くないと思います。それと、あと、陸羽が名付けたという泉「天下第二泉テンカダイニセン」がありますから、観光客が来ます。そういう人達がうちでお茶を飲むんです。観光客は、珍しい泉の水を飲みたくて来るんですよ。

池の側に茶室があって、墨や硯とか文人用のものも置いてあったんです。おそらく、店の名前も名のある書道家が書いたと思うんですよ。大きい額が茶館に飾ってありました。当時、阿炳アーピンという有名な盲人の胡弓の名人がいたんですよ。彼も、茶館に寄って、胡弓をお客さんに聴かせて、お金をもらってましたね。梅蘭芳メイランファンていう京劇の役者がたくさんの人と一緒に泉を見に来たこともありましたよ。

『合作社へ』

うちの家族も、うちで働いていた女の人も合作社に入りました。ちょうど合作社が出来る時期だったので、みんな一緒に工場に入ったわけです。だから、弟子達もみんな第1期の工員になったんです。

新中国になったら、徒弟制度は完全になくなったんです。でも、合作社の中の学習班では徒弟制度みたいな形だったんですよ。合作向上っていう運動だったからね。

合作社の人数は、最初は100人ぐらい。それで、だんだん増えましたね。第2期、第3期と増えて、1958年頃には、800人ぐらいになってました。それでも、生産は間に合わないぐらいだったんですね。

班は3つに分かれてるんです。2つは人形班。阿福みたいな人形を作ってました。これは、手捏ねじゃないんです。型で作るんです。

彫刻班は大量生産のための型作りです。当時は、こっちの方が人気があったんです。型を使えばたくさん作れますからね。手捏ねは人気ないんですよ。手間掛かるからね。

賃金が出来高制だったから、誰も手捏ねなんかは勉強したくないんですよ。

しかも、手捏ね班に入ったユイさん(この本に登場する工芸美術大師)の班の、最初の蒋先生が学校に来て数ヶ月後に病気で亡くなったんですよ。その次に来た先生もすぐに亡くなったんです。それで、3人目の先生が、また何ヶ月後に亡くなったんです。ですからユイさんの班には先生が次々に来たらしいんですよ。しかも、ユイさんのところはものすごく給料安いの。だから、手捏ね組は、人気なかったんです。私は学習班に入りました。

学習班では、勉強の間にたくさんの絵を描きました。顔の絵とか何でも描きました。あと、先生が描いた絵とかもいただいて、集めて残してありますので、自分の財産になっています。

学習班にいた3年間は寮だったんですが、その後は家から通いました。

私の師匠は、もうこの技術は、多分受け継ぐ人がいないからって、自分が使ってたロウの塊を私にくれました。人形の顔にロウを塗って、磨いて光沢を出すんです。そのロウを今でも使ってますよ。今は、漆みたいなので光沢出すんですけど、化学的なものは時間が経つと黄色くなるんですよ。でも、ロウでやったものは永遠に色が変わらないです。

学習班を卒業してからは、みんな工場に入って出来高払いで働くんです。出来高制だから、たくさん作る人は100元ももらえましたよ。

私は、工場の偉い人に「先生に付いてもっと勉強しろ」と言われたんです。それだと30元ぐらいの固定給しかもらえないんですが、その時は、お金の感覚が全くなかったから、更に師匠のチン先生に付いて勉強したんです。優秀だから選ばれて更に勉強させられるっていうのを光栄に思ったんです。それが1969年か、1970年の下放の時期まででした。

66年に文化大革命が始まって、69年に下放がありました。それまで先生の工房に入って、ずっと勉強してたんです。工房は、研究所の中にあったんですよ。

その時に先生に付いて勉強したことは、今でも鮮明に覚えてます。当時、きれいな色彩を出すために顔料は鉱物から取ったりしていました。今は使わないんですけど、そういう知識は全部知っています。装飾、人形の飾りとかも全部その時に覚えたんですよ。だから、その先生に付いて学んだことは、非常に役に立ちましたね。

喩湘蓮ユイシャンリェン王南仙ワンナンシェン泥塑集」より、王師が彩色した作品

『結婚』

結婚は1964年でした。

夫は学習班では同級生だったけど、人形工場に入らず、軽工業部に入ったんです。そこの幹部になったんです。最初公安に行けって言われたんですけど、100歳のお祖父さんに反対されて、軽工業部に入ったんです。

学習班にいた時は、恋愛は出来ないんです。しないように言われたの。だから、卒業して、彼が別の部署に行って、私も工場に入って、それで仲良くなって、64年に結婚して子供3人産んだんです。3人とも男の子です。

上と下は、公安の仕事に就いてます。2番目の息子だけが人形作りの仕事に就いたんです。

文革中、うちの場合は、夫は幹部だったから、彼だけは下放したんですよ。

私は、3番目の息子がお腹の中にいたから一緒には行かなかったんです。幹部は下放しても、給料はそのままもらえました。蘇州の北へ行きました。夫は下放しても幹部だから、畑仕事とか実際にはやらなかったみたいです。なんか会議やったり、下放した人達を管理したり、そういう仕事をしてたようです。しかも、幹部だから自由に町に帰って来られるんですよ。帰ってくるたんびに、安い田舎のモノを買ってきてくれました。だから、その時は、私たちはそこそこの生活をしていたんです。

幹部の人達、みんな良い暮らしをしてました。

虐められての下放ではないです。幹部は農民から学んでくるっていうものでした。中には、随分虐められた人達もいるんですけどね。

夫は下放といっても単身赴任みたいなものでした。私は、下放されないから、こっちで息子3人と一緒に暮らしていました。残った家族は、自分と息子3人と、舅、姑の6人。夫の親と一緒に暮らしてたんですよ。

69年に下放が始まった時に研究所はなくなったんです。それで、みんな、身分が泥人形の工員になったんです。

その時代は、こういう昔の封建社会の人形が作れずに、現代京劇みたいなものを作ってました。文革中はそういうものばかり作ってましたね。

研究所はなくなったけど、名前を変えて創作工作室っていうのがあったんですよ。そこに私たちが入ったの。そこで作ったものを、工場に持って行って、それをお手本にして工場でたくさん作るというシステムでした。

『伝統の復活』

四人組が駄目になったのは、76年。その翌年に研究所復活の準備を始めました。それで、77年、78年、79年と下放した人達が戻って来ました。研究所からは20人ぐらい下放した人達がいたんですけれども、それでも人が足りないから、能力を持ってる人を集めて、30人ぐらいの研究所にしたんです。

下放から戻って来た人は行く先を選べるんですよ。工場に行く人。研究所に入る人。

それで創作工作部と研究所でデザインした物を工場で作らせて、お店で売る。そういうふうにしたんです。

79年になると改革開放が始まって、全部整ったんですよ。でも、私は、改革開放ってそんなに意識ないんですよ。自然に、そういうのが始まったんです。

文革中、芝居の人形は古い因習だって言われて作れませんでしたが、お芝居の人形全てが作れないわけではなかったんですよ。封建社会のものであっても、喜劇の人形は作ってよかったんです。男女の愛情がテーマのものは出来ませんでした。あと、阿片をやってる場面とか、盗賊とか、そういうのもだめでした。

近代、現代の京劇の人形を作らされたんですけど、古い職人や、師匠達はみんなそういう新しいのは作れないんです。古いものばっかり作ってたから現代京劇の人の顔も出来ない。仕草とかも表現出来ない。ですから、あの頃は、大変だったの。職人達が作れないから。

文革中は、伝統的な農家用の猫とか、阿福とかも作れなかったんですよ。古い迷信だと言われたんです。何を作ったかというと、普通の子供が遊ぶような人形とか、遊び道具とか、オモチャみたいなのを作ってたんですよ。

文革が終わって、改革開放になってから給料も年々上がって、生活も良くなりました。文革中、私は自分が勉強したお芝居の人形が作れなくなっても、そんなに残念だと思わなかった。若かったから、そんな深い認識もなくて古いお芝居を作れなくても現代京劇を作ればいいと思ってました。 

私、美術大学に1年間行ったんです。改革開放が始まって、79年か80年に行ったんですよ。ユイさんと2人で一緒に行ったんです。大学は無錫の市内にあったから毎日通ってたの。

私達は、学習班の時から。師匠同士もパートナーだったし。工場に入ってからも一緒にやってましたが、私は、彫刻創作室の方でいろいろなデザインも担当してましたから、そんなにたくさんは一緒に出来なかった。

文革中、彼女は下放して、終わった後に研究所に戻って、また、少しずつやり始めたんです。2人でたくさんの作品を作ったのは、台湾の黄先生からの依頼が来てからです。

あの時、私達は、もうすぐ定年退職の時だったんです。でも、まだ私達は研究所に所属していたから、副業としてやっちゃいけないと思って、退職後に注文の人形の制作をしましょうということにしたんです。

ユイ先生は私より1年先に定年退職したんです。彼女は、人形作りを始めてまして、丁度、土が乾いた頃に私が定年退職して、色塗りしたんです。それが一番たくさん、2人で組んでやった時代です。それからはずうっと一緒にやってますね。

1978年頃に広州で交易会があって、紫砂しさやなんかは、そこで売るようになってものすごく生産が増えたんだけど、人形は、交易会には出しましたけど、そんなには売れませんでした。注文は、人形ではないんですよ。鉛筆削りでした。石膏で作るの。工場でそれを大量生産してたんです。

うちの工場だけでは間に合わないから、ユイさん達が下放した田舎に工場を作って、鉛筆削りを作ってたんです。

恵山の人形が、世界に知ってもらうチャンスというのは、80年代になってから海外に、江蘇省の展示会を開きに行ったときからです。たくさんの国に行ったんですよ。その時に恵山の泥人形を持って行って、そこで制作実演して見せました。それが自分たちをアピールするチャンスだったんです。

最初の海外は、92年に日本に行ったんです。私は1回だけ、息子は2回日本に行きました。東京と相模原。相模原は友好都市だから、こっちの市長と一緒に行ったんです。だから、とても待遇が良かったんですよ。なんか一人、専門の記者がずっと付いて歩いてたわ。

喩湘蓮ユイシャンリェン王南仙ワンナンシェン泥塑集」より、王師が彩色した作品

『工芸美術大師に』

1996年、4期目の工芸美術大師に選ばれました。自分は、ずっと泥人形の彩色だけをやってきたから、非常に名誉に思っています。でも、選ばれても、特別な待遇とかは全くなかったんですね。

ここ2年ぐらいになって、毎年、少し補助金みたいなのが出るようになったんですけど。それまでは何もない。賞状1枚くれただけ。

美術大師になっても、年に何個作んなきゃいけないとか、弟子に教えるという義務はないの。義務はないけど、今、教え子達がいて、2期生なんですよ。第1期生が3年間の授業終わったから。今の第2期生も3年間ですけど、その半分が終わったところですよ。あと1年半で卒業するんですけど、その後は、生徒が来るかどうかわからないし、どうなるかも決まってませんね。

私自身は、今すぐ辞めても良いと思っています。もう、ずうっとやってきたからね。今は、息子の手伝いをしてるんですけど、自分自身は、もう作りたくないです。息子は高級工芸美術師です。

孫は後を継いでないですよ。人形作りは、やっても生活が良くなるわけでもないし、辞めてもいいんですよ。継いでもらわなくてもいいです。

みんなにもったいないって言われてもねえ、大変な生活ですから、やらなくてもいいです。

この仕事は、儲からないです。一生懸命描いても、高い値段を付けると、買う人がいないんです。だからといって安く売ると、自分が嫌でしょ。難しいんです。だから、今は、博物館の所蔵品を作って、これが終わったら、もう終わりにします。

だってすべてが繊細で細かい作業なんです。絵だけじゃなく、衣装をデザインし、飾りを考え、作って、気が遠くなっちゃいますよ。 私の仕事は、人形の顔を描くだけではなく、小物も衣装もみんな作るんです。

この仕事は観劇を積み重ねてなくちゃいけないし、知識もなくてはならないから、とても難しいし、手間もかかるんです。それを、もう60年以上やってるんですよ。

工芸美術大師の急須は100万元にもなるのに、お人形はならない。人形の方が急須より手間も掛かるし、繊細だし、難しいのに。急須は、台湾や香港の商人に値段を釣り上げられて、今みたいになってるんですよ。

だから、宜興では、何万人も急須を作ってるでしょ。恵山では、お人形作ってる人はどんどん減ってるんです。紫砂しさのように値段を高くしてくれれば、もっと作る人が増えるだろうけど、そういう可能性はないですね。

だからといって、彫刻家になるつもりはないんです。こういう伝統的なものを欲しがる人もいるし、コレクションしてる人もいるから、自分たちは、これでいいんですよ。

私の描いた顔とか絵は、ほんとに人形を研究してる人とか、文化レベルの高い人は見てすぐわかります。一般の人はわからないから、なんでこんなに高いのって言うんですよ。

個人のコレクターは、ワンセット1万元ぐらいで買ってくださる。企業とか博物館とかじゃないと大きいセットで買ってくれないから、結局、経済的には率が良くないですよ。

ユイさんの作品は他の人のものより絵を付けやすいし、表情が出しやすいんです。人形作りの下手な人のものに描くとそういう気持ちにならないんですよ。ユイさんと長年、一緒にやってるからね。

彼女が作った人形の指先だとか、首のかしげ方が出す雰囲気は、すごく表現力があるから絵が付けやすいんです。彼女が作ったものは生き生きしてるから。

黄先生は、我々2人のことを合体と言ってるんですよ。だから、離れられない関係なんですよ。我々みたいに何十年も一緒にやってる人はそうはいないんですよ。私達は師匠から教わったそのままを変えずにやってますから。

伝統の作品は2人でコミュニケーション取る必要がないんです。ただし、新しいものを創作する時には必ず2人でこういうふうに作ったらどうですか、ああいうふうに描いたどうですか、とやってるんですよ。

人形作りに問題があったら彼女に直接言うし、彼女も私が描いたものにちょっと違うんじゃないかと率直に言うから、何十年もずっと一緒にやってこられたんです。

年を取ると経験や勘は育つけど、眼も悪くなるし、手もいうこと利かなくなるから、弟子達に指導は出来るんですけど、自分が実際に描いたりは、もうしたくないです。

だから、私もユイさんに今回頼まれている博物館の仕事が終わったら、もう辞めて、のんびりしようと言ってるんです。

息子は、捏ねるのも絵を描くのもできます。研究所で、ユイさんのところで20年ぐらい弟子として修業してきましたから。私は、これからは息子の助手です。彼も、新しいものは、非常にうまいんですよ。これ、息子が作った彫塑です。こういう大きいものも作るし、ユイさんに古いお芝居の作品もみんな教わってますからそういう伝統的な物も出来ます。

『現代の若者へ』

昔の京劇の古い衣装をキチッと描ける人は、私のほかにはいませんね。本当に伝統を守ろうと思ったら、私達が最後です。手間が掛かってしょうがないんです。

文革を挟んで、文革前に修業した人と文革以後の人達とでは大きく差があります。昔の人は、芸術性を追求していたんです。今の人は、数と経済。いくつ作って、いくらで売れるっていうのをみんな求めるからね。

私達、若い時に、そんな誘惑はなかったんです。だから、落ち着いて一生懸命勉強してたんです。今の人達は、社会的な誘惑が多すぎて。給料も低いから、裕福になるためにたくさん作って、たくさん売ってとなると、芸術性は伴わないですよ。ともかく、たくさん作って、たくさん売れば良いと思ってるだけですから。

私達の時は、もの作りが好きで作る喜びを味わってたんです。今の人達は売ることを先に考えるから、喜びがあるかどうか。あっても、きっと、私達よりは低いと思う。

その人の本質にもよると思うんですよ。素質と本質。レベルによって、考え方も違ってくるんです。真面目にやってる人もいると思いますが、私は、彼らのことは、よくわかりませんね。

弟子を募集する時に、上の人に提言したんですよ。なるべく15歳ぐらいの子供を募集しろ、と。なぜならば、真っ白で無垢なら素直に覚えられるけど、出来上がったものを直すのは非常にやりにくい。だから、教えるなら、15歳、16歳ぐらいの子供が一番良いと。けれど、上の人はやっぱり大学か、短大ぐらい卒業しないといけない、と考えてるんです。

だから、そういう子たちがくるんですけど、彼らは言うことは聞いても、なかなか直せない癖もあります。

道具は、私の場合は、筆と顔料だけです。筆は、昔とそんな変わりはないんだけど、顔料は変わりました。昔は鉱物から顔料を取ってたんですが、今は、みんな化学顔料だからね。化学の顔料って変に光ってるんですよ。昔の鉱物の顔料は、落ち着いてましたね。そこは、やっぱり、ちょっと違うんですね。あとは、違いはないですね。

喩湘蓮ユイシャンリェン王南仙ワンナンシェン泥塑集」より、王師が彩色した作品

6の巻 黄売九 ホァンマイジョウ(青花分水・絵付け師)