1 司会

2 日本のボクサーを応援する自然感情

 ただいま、報告者の方が、「ナショナリズムとインターナショナリズム」ということで、ブレヒトの文章を引用されたわけですけれど、僕はブレヒトというのは技術主義者と思っているから、あまり評価しないので、別の同じようなエピソードを。
 僕はボクシングが好きなんですけどね。日本のボクサーと、日本以外の国のボクサーとが試合をする場合、僕は必ず日本のボクサーを応援しているんです。それは強い弱いに関わらず、いや、別に「頑張れ」なんて言うわけじゃないけれど、気持ちの中で、意識の中でちゃんと応援しているわけです。ある時、谷川雁にそういう事を話したら「俺は違う」と言うんですよ。「俺は白人と黄色人種が試合をしている場合には、必ず黄色人種を応援する。黄色人種と、例えば黒人のボクサーとが試合する場合、必ず黒人のボクサーを応援する」と。本当にそうかなあとも思ったのですが、非常に確信をもって言っていました。そのやりとりをまた、鮎川信夫という詩人に話したら、「そんなの君、いんちきさあ!」と、言下に言うわけです。なぜか。例えば、アメリカにおける黒人の問題というのは、要するに白人対白人の問題が本質であって、黒人自体が本質的な問題では決してない。だから、ボクシングで、白色人種より黄色人種のボクサーを応援する、黄色人種より黒色人種のボクサーを応援しているというのはインチキですよ、と。
 僕の考えでは、僕自身がなんとなくいつも日本のボクサーを応援する、というのは作為とかナショナリズムとかいうことじゃなくて、わりあい自然の感情なんだと思います。みなさんはどうか知りませんが、僕は自然の感情で、理屈がつきようがないですから、理屈をつけないことにしているわけです。ところで、白人とボクサーと日本のボクサーなら日本のボクサーを応援する。しかし、日本のボクサーと黒人のボクサーなら黒人のボクサーを応援するというのは、例えば自然感情としてそうであるように見えても、実はそこにはイデオロギーの契機というものは入っていると言えると思う。それから、黒人の問題なんて嘘だ、黒人自体の問題なんてありゃしない、白人対白人の政治的問題、政策的問題、階級的問題、いろいろな問題を含むけれど、要するに白人対白人の問題であるという考え方もまた、ある意味自然感情ではない。たとえ自然感情であったとしても、いわばイデオロギーの問題、思想の問題というものとして考えることができるわけです。
 僕は、僕自身が自然感情としていつでもそういうふうにボクシングを見ているなあと感じているというだけで、あまりそのことに理屈をつけようとは思わない。報告者はブレヒトを引用されて問題を出されたわけですが、そういう引用をしなくても、いろいろなタイプの考え方があることは紹介できるという意味で、そういうエピソードを紹介して、参考に供するだけです。
 みなさんがこういう集まりでどういうことをやってこられたかということを、僕は詳細には知りませんけれど、前にやった国家論の問題とか、天皇制の問題とか、そういう問題についての報告と、助言者の発言と、そういうものを要約したものを見せてもらったわけですが、僕は、だいたい全部反対なんです。つまり、そのようになされている、そのように現在論議されている国家論というのはすべて無効である、というのが僕の考え方です。つまり、古くさいんです。現在は反動期ですから、そういう古くさいものが復活する兆しはたくさん、方々にあるわけですが、非常によくない兆候です。僕はそういうものに対して、非常に鬱屈と、批判を感じていますからね。そんなのはすべてやっつけた方がいい。やっつけた方がいいと思う、そんなのは古いんですよ。
 つまり、スターリン主義という風にひと言で言って、ロシア・マルクス主義の展開、国家論の展開の過程で、内部においてそれをどう修正するか、どう考えるか、というのが問題なんです。そういう問題はいくらやっても無効であるから、俺はそれに対して反対である。そういうのはことごとく無効であると認める、と。僕自身は、そういうものが無効である、なぜ無効であるのかという根拠についてお話しようと思うんです。
 例えば、報告者として名前が記載されてあった神山茂夫とか、津田道夫とか、そういう人はまあ、いわば、なんといいますか、すでに耄碌した思想家、あるいは政治運動家にすぎない(会場笑)、そういう人を批判してもしょうがない。しかし、それらが共通によっている拠点、国家論の拠点というのは、エンゲルスの『家族・国家および私有財産の起源』。タイトルの順序が違うかもしれませんけど(笑)(『家族・私有財産・国家の起源』)、それに展開されているエンゲルスの国家論なんですよ。僕は、いわば、雑魚みたいな人を批判するより、やはりエンゲルスを批判したほうがいちばんいいと思いますから、起源におけるエンゲルスの方法がいかに違うか、という問題をお話しします。

3 エンゲルスの国家論への批判

 国家というのは、エンゲルスのような「起源」にさかのぼりますと、どこに起源を求められるのか。個人、というか、個体には求められないんです。では、何を媒介にして国家を起源するかといいますと、「家族」というものを起源にするわけです。家族を媒介にして国家というものの起源が考えられていく、エンゲルスもその通りやっています。家族という問題と、国家の起源という問題がどういう地点で関連づけられるかといいますと、氏族制の前段階というのがあるんですが、エンゲルスは家族形態として、いわば原始集団婚というのを想定するわけです。
 原始集団婚とは、ある部落なり地域的な集まりの中におけるあらゆる男性は、あらゆる女性と性的な関係を結ぶことができる。そういう段階です。もちろん、性的な関係を結ぶ事ができる中で、ある男性とある女性の結びつきは比較的長く、ある男性とある女性の結びつきは一夜のことであった、といろいろな形態は考えられるわけで、もちろんエンゲルスもそういうことは考えているのですが、要するに、相対的な原始集団婚というものが問題にされるわけです。集団婚の柱をなすのは何かといいますと、ひとつは母系制です。母系制とは、単純化して単一家族を想定すると、母親というものが根幹になって、その子ども世代というのが、女の子ども、つまり兄弟姉妹のうち姉妹の方が母親の系統、つまり主系統を継ぐというものです。男兄弟は、そこのたんけい?的な家族から外される、それが母系制の特徴です。
 それに対してエンゲルスはどのように特徴づけたか。原始集団婚というもの、ある部落内のあるひとりの女性を想定すると、その女性にとっては自分が産んだ子どもは、自分じゃない人が産んだ子どもと区別はできる。しかしながら、その父親が誰かということは区別されないだろう。そうだとすれば、子どもの系列は、母親を根幹にして系列づける以外にはありえない。というのがエンゲルスのひとつの根拠なんです。つまり極端に言えば、部落中のすべての男性と、毎日のように性的関係を結んでいたひとりの女性が、ある時子どもを産んだ。その母親は自分が産んだのだから自分の子どもなのは確かだとわかる。しかし、その父親が誰だかわからない、というのが、母系制が成立する根拠である、という風に考えた。しかしながら、そんなことが果たしてあり得るでしょうか、というのが第一に問題になるわけです。
 僕の考えでは、ひとりの女性が、たとえ部落中のすべての男性と性的関係を、性行為を毎日のように結び、そしてある時子どもが産まれたとしても、その産まれた子どもの父親が誰であるかは、必ずわかると思うんです。(会場笑)つまり、法律的認知を求める段階になればわからないわけですが、法律的認知が問題になっているわけではないので、子どもの父親が誰であるか、そんなことを母親がわからないことはない。たとえ、毎日のように違う男性と性的関係を結んでいても必ずわかるはずだ、というのが僕の考え方ですね。
 どうしてかといいますと、だいたい、産まれた子どもは親に似ているでしょうが。面影があるでしょうが。そうじゃなくたって、現代みたいな都会の集団と違って、原始的な部落を想定すれば、まだらに少数が部落をつくっているわけですから、母親自体がわかっているということは、要するに部落中にわかることを意味しますよね。とすると、エンゲルスの考え方というのはまったく嘘だ、ということになるわけです。(会場笑)そういう意味で、エンゲルスが母系制の根拠としてあたえた考え方はまったく違う、ということがひとつ、問題になるわけです。

4〈経済的範疇〉は〈幻想的範疇〉を疎外する

それから、もうひとつ。エンゲルスは原始集団婚を想定する場合に何を主柱にして考えたかといいますと、つまり何と表現したらいいんでしょうか……つまり、エンゲルスは動物と違って、人間、特に男性が、嫉妬感情からの解放、つまり男性の相互寛容というものが原始集団婚を成立しえた非常に重要な、第一の要素だと考えた。そのように原始集団婚というものが成立し、比較的長く続く集団を人間はくみ得た、というのがエンゲルスの考え方なんですが、ところが、これもまた嘘だということがわかるわけです。なぜならば、これは、要するに「さかさま」なんです。
 みなさんも体験があるかもしれないけれど、多くの女性と性的関係を結んだやつほど、嫉妬感情は少ないわけです。つまり、集団婚が成立するには、嫉妬感情からの解放、あるいは、相互寛容ということが第一要素であったというエンゲルスの考え方はまったく反対である。むしろ集団婚的なアレが成立していれば、人間というのは嫉妬感情からわりあい解放されるだろうなあ、という風に逆にいえるけれども、嫉妬感情から解放されたという要因があるから、原始集団婚が成立したという考え方はまったく逆である。いいかえれば、エンゲルスのは観念論だということ。大意?に嘘である。要するに、批判の的になる。
 それからもうひとつは、エンゲルスが性的関係という場合に何を想定したかというと、経済的な範疇としての性的関係、つまり男女の性的行為によって人間自体を生産すること、そういう範疇で人間の性的行為を考えた。しかし、性的行為というものは決して経済的範疇ではないんですよ。あるいは、経済的範疇圏とされるものではない。つまり、そういう経済的範疇は、あらゆる別の経済的範疇が幻想性、あるいは観念性を阻害するように、やはり同様に観念性を自己阻害するわけです。これを僕は自分の言葉で「対幻想」と名付けておりますが、いわゆる性的な自然行為というものが人間の間にあるとすれば、必ず「対幻想」というものを観念性として阻害する。その問題がエンゲルスの中で考慮されていないということが、エンゲルスの考察が原理的に違う、という僕の第三の批判点です。
 そして、モルガン、エンゲルスが指摘するように、原始社会で集団婚を営んでいた部族は確かにあった。しかし、そうではない、一夫一妻制を厳守している原始的な部族というのも、また実証的に存在するわけです。つまり、実証的にエンゲルスの原始集団婚説というものを、ひとつの段階として想定することは成り立たない。これは、僕が自身が実地調査したわけではなく、もろもろの学者が調べたものを受け売りにしていますから、原理的な問題としてではなく参考までに供しますが、現代の学者によっては、原始集団婚を、一種族の一形態として想定することはいいとして、一段階として想定することはまったく否定されている。
 そのように、エンゲルスは、自身の原始集団婚という考え方を一段階として、プナルア婚という段階にいくわけですが、プナルア婚の段階における氏族制というのは、制度の問題、つまり国家の初源?的な形態の問題になってくるわけで、およそナンセンスだということになる。では、なぜエンゲルスは原始集団婚を想定したのか。
 これは僕の推定になりますが、要するに家族形態、男女の自然な性的関係を基盤にした家族形態というものが部落外に拡大するという段階を想定しないと、国家論というものが出てこないわけです。だから、家族というものは、ひとりひとりの男女の性的関係を基盤にして営まれるものであり、そしてそれが点々と個々に存在していくということだけでは、集団性、あるいは共同性をもった社会というものは想定はできないために、なんとかして家族形態というものが共同性をもった統一社会というものに拡大する形を考えざるをえなくなる。そこでエンゲルスは、集団婚というものをある段階として想定したと思うんです。部落中のどの男性とも関係できるとなれば、一対の男女の性的な関係、つまり家族の本質がそのまま部落内に拡大されることになるわけです。だけど、そんなことは、いいましたようにまったくナンセンス、まったく問題にならない。

5 家族から社会の共同性への転化の契機

 しかしながら、国家の起源、つまり共同体の起源というものを考える場合、どうしても個人の集まりというように考えることがどうしてもできない。それは、経済的な生産社会関係、つまり農耕とか狩猟とか、あるいは性、セックスということ自体が人間にとって自然的なものですから、それを無視することはできない。要するに家族、というものが共同性に転化する契機というものを考えざるをえない。
 それに対する僕の考え方をお話ししますと、家族というものも、様々な形態をとりうるわけです。つまり女性の所に男性が訪問していく婚姻の形態もありますし、あるいは逆の場合もありますし、婿入り婚みたいな場合も、いろいろな形態が、それはもう種族ごとに違うといっていい様々な形態がありますが、その本質はいわば対幻想、自然的な性環境を基盤にした対幻想というのが家族の本質なわけです。そういうものが部落大に拡大しうる契機をはらむものは何かというと、それは例えば一対の男女の自然的な性環境を基盤にした対幻想ではないんです。みなさん、経験的によくわかると思うんですが、そういう一対の男女の自然的な性的関係を基盤にした関係は、だいたい社会から縮小しよう、その段階から隠されたものとならしめようという傾向をもっていて、決して拡大することはできないわけです。そういう拡大を人間が空想し得ることになったのは、だいたい18世紀になってから。つまり資本主義社会できてから、例えばサドの小説のように、ある意味必然的に人間はそういう事を空想せずにはちょっとやりきれねぇ、ってことになったからです。非常に近代になってから、実際問題として隠れよう、隠そうというような形、つまり、社会の共同性というものから理想をずらそうという傾向こそあれ、それを拡大しようという傾向は実際には存在しないわけです。

6 兄弟姉妹間の対幻想

 それならば、家族のうち少なくとも部落大に拡大しうる傾向性をもちうる対幻想というのは何であるか、と考えていきますと、それは例えば、同じ母親をもった男の子の世代と女の子の世代、兄弟というものと姉妹というものとの間の対幻想であると。もともと特別な例外を除いては自然的な性関係をもたない、つまり、まったく幻想性としての性的関係にとどまりますから。ある意味で非常に非常に不安定で淡い関係でありますけれども、別の意味でいえば、拡大し、隷属しうる可能性をもつわけなんです。
 要するに、非常に単純化してひとつの母系制、ひとりの母親がいて、その兄弟姉妹がその母親の家を継ぎ、婿さん、夫を持ち、またそこから女性の道をなす、というような家族の形態をひとつとしますと、男兄弟というのは少なくとも家族系列からまったく無関係に除外される。だから、空間的拡大に頼るわけです。地域的に遠くに行ったり、離れていたりすることができるし、またその間には、家族形態、あるいは家族体制として関係はないわけなんです。しかしながら、同じ母親から出ているということを根幹として、非常に淡いけれども、姉妹が夫を持ち、兄弟が家族系列から外れて別の所へ行って他の部族の女性と結婚して家族を営もうと、その間の……
……氏族制というものの非常に原始的な形態がそこで想定されるわけですなんですよ。そうしますと、氏族制度の非常に原始的な形態というものは、家族体系の中では一致しない、家族体系の中には含まれない。しかしながら、地域的には離れていて別個の家族系列をつくっていくという意味でまったく別なんですが、同じ母親を持つという意味では同じである。母親を同じくするという意味ではつながり、対幻想としてはつながるというね。
つまり、そういう血縁的な集団、共同体というものの非常に原始的な形態が、ある程度複雑化した形態を考えれば、そこから氏族制への転化、氏族制というものの成立はわりあいに簡単に想定できるわけです。
 それを例えば、日本の場合でいいますと、水稲耕作、稲作というもの。日本の場合、雑穀栽培とギョボウ(魚房?)、それから山へ行って少ないながら獣をとってくるくらいの形態までは遡れると思うんですが、兄弟姉妹において、姉妹、女性が宗教的な権威、権力をもつと、つまり神ですね、その兄弟が現世的な政治権力をもつ。そういう形態が初期においては存在しうるわけです。
 もっと遡っても同じことですが、要するに国家権力の原始的な形態というのを考える場合に、氏族制が統一されて部族、あるいは種族というものになった社会を想定しますと、そこでの最初の形態として、例えば姉妹が宗教的権力を握る。そうすると、宗教的権威でもって兄弟を動かす。兄弟がそれをいわば政治的権力として部族を支配する、という初源的な形態というものが考えられるわけです。氏族制の原始的な形態というのがそれです。みなさん知っている、例えば邪馬臺国論争なんてありますけど、そういう形態のわりあいに新しい形です。水稲耕作が日本に輸入されたか、発明されたか、発見したかは知りませんし、確定できないですが、現代の天皇制は、それ以後の問題ですから。

7 氏族制から部族国家への転化の内的な契機

 ここでエンゲルスの考察にもうひとつ批判があります。?家族が親族のようなものに拡たいしたとしても血縁の集団ですが?、モルガン、エンゲルスは、氏族制度から統一国家への展開がなされたというように考えるわけです。しかしながら、氏族制というものは血縁集団というものが発達し、極限までおしすすめられた形態なんですが、血縁集団というものは、そのまま連続的に、統一社会、部族社会、種族社会、あるいは土地の共同性をもとにする社会というものには移行しないということなんです。段階的に移行しないで、氏族制を限度とする血縁集団の整った形というものと、氏族制の統合としての最初の部族国家の共同性の間には、単なる連続的経緯ではなく、血縁集団か土地所有集団かといわれるように、そこには断層が、ひとつの転化の契機があるわけなんです。
 その契機の問題というのはよく想定しなければならない。つまり、血縁集団が非常に整った形の中で、また階級文化が経済的、社会的におこってくると、幻想的にも、観念的にもおこってくる。要するに、血縁集団内部における権力構成の共同性が、ある段階まで強固になるという内部的な諸契機がなければ、部族国家、部族社会として統一した社会に成り得ないんです。だから、氏族制が地域的に拡大していけば部族国家になるというようなエンゲルスの考え方は間違いである、というのが僕の批判です。
 それは先の間違いと同じことで、婚姻形態、あるいは男女の性的な自然行為を基盤にした家族形態というものを各部落大に拡大すれば、婚姻形態―家族形態―部落形態、つまり僕の言葉でいえば、「対幻想」は、すなわち共同幻想というところに拡大できると考えるのと同じような間違いをやっているわけです。例えば氏族制というものを地域的に、員数的にもっと拡大していけばそれが部族国家、氏族よりちょっと大きい統一社会になるというの考え方は成り立たないということ。それには内的な諸契機がいる。内的な契機というのは何か、どうしたらわかるのか。単に経済、社会的な問題に人間の集団の組み方の決定的要因を、その範疇で考えるだけならば、決して諸契機というのは探れない。そういう経済、社会的な諸契機、観念性というものは必ず自己疎外する、という問題意識を明確にとらえない限りは、氏族制が、また地域的に拡大していけば部族国家になる、というような問題意識を壊すことができない。そこのところはエンゲルスの一貫した欠陥です。だから、『起源』の問題でいいましたけれど、血縁集団を媒介としては国家というのは成立しないというのは必然性があり、エンゲルスの『起源』の中で展開されている国家論というのは、そういう意味で一貫して間違っている、と僕は思うわけです。

8 現在における国家論の問題意識

 僕は、提出された国家論に対する報告書の要約を読んだだけですが、みなさん、そういうことをわからない、知っていないわけです。だから、そういう人にとっての問題意識は、エンゲルスの「起源」というのをどれだけ精密に読み込んで、それを例えば、天皇制なら天皇制の問題に展開、適応しうるか、せいぜいそういうところにあるわけです。
 例えば、「権力」という場合、エンゲルスの『起源』を正確に読み込むと、法の支配者と、それを受け入れる者との間の双務的な関係、相互規定制、権利義務の規定、それを「法」というわけですが、象徴的には法的権力であるマート、法的な権力が、自分自体を阻害しますと、マートではなくゲバルトというものになる。ゲバルトというのは、権利義務もヘチマもない。強制力であって、権利の必要なんか別に許されなくてもいい。つまり、義務は絶対履行しなければならないとういう、法が法自体を阻害するという形。そういう風に分けられますね。エンゲルスもそういう所に細かい芸を使っている訳で、読み込んでいくとそういう問題はでてきますが、そんなことをいじくっていたって何もならないわけですよ。
 つまり、現在における国家論の問題意識というのは、だいたいにおいてそういうことをやっているか、それじゃなければ、昔ながらの、こうざん派、労農派、神山派、そういうものを蒸し返しているだけなんですよ。僕の状況判断というのはそうではありません。そういうものの範疇にどんなに精密なことをしても、そんなもので問題が解かれるという状況には一向にない、というのが僕の考え方です。だから、そんなものをやっているやつは無駄である、無駄ならもっと根本的にいこうじゃないか、彼らの種本とはなにか、それはエンゲルスの『起源』である。では、エンゲルスの『起源』のどこが間違っているのか、というのはやればすぐわかりますからね(会場笑)。ならば、そういうところで問題を展開していたほうがずっといいだろうといえるわけなんです。
 例えば、そういう問題意識を、一般的にマルクス主義者・スターリン主義者といえば、スターリン主義者以外のやつはどうかというと、それに対して実存主義的な修正を施す、サルトルみたいなやつとか、日本のエピゴーネンみたいなやつが、それに修正を施せば通る、という問題意識です。それが現在我々が当面している思想状況における最も原則的な立場の分類になるわけです。しかし、僕は、そういう問題意識のいずれの立場もとらない。そういうものは無駄で、全然意味もない。そんな問題意識は駄目だ、というのが僕の立場です。なぜ駄目かといえば、元を探ればいいわけで、元を探ればエンゲルスにいきあたる。エンゲルスの国家論というのは、いかに経済的諸範疇というものと、幻想的・公権力的諸範疇というものをあいまいにくっつけているかが、すぐにわかるわけです。では、なぜ、曖昧なくっつけ方をするようになったのか。それはあらゆる経済的諸範疇というものは、必ず幻想性・観念性というものを阻害する。だから、男女の性的な関係、つまり家族形態の本質においても幻想性を阻害する、そういうことをはっきりしないから『起源』の問題から間違ってくる。それが、エンゲルスの当面している問題としてあった、ということがいえるわけです。

9〈経済的範疇〉としての世界性と
 〈幻想的範疇〉としての国家共同性

 例えば、マルクスなんかは、そんなあほらしいことはしないわけでね。要するに、国家とはなんであるか。それは共同的な幻想である。あるいは、幻想の共同体である。それだけのことです。それ以外の定義は成り立たない。つまり、それ以外のことを具体的なごとき次元で言おうとすれば、必ず誤謬に導かれる。エンゲルスが典型的です。実証性があるがごとくにいって、反対の実証性もまたある。つまり、反証はいくらでもあるということ。国家とは、幻想の共同性である。本当にいえるのはそれだけのことですよ。それ以上詳しいことをやりたいやつは、具体的にやればいいわけです。現在における日本国家の幻想の共同性というのは、いかなる具体的な機関をもち、具体的な形態で支配を行っているか。例えば、民主制から法体系?へと矛盾するところの現実的ショヒョウ軸というように、具体的にやっていけばいいだけのことです。ソビエトだろうが中国であろうが、どこの国でも同じです。ちゃんとそういうことをやればいい。要するに幻想の共同性です。それ以外のなにものでもないですから。それが具体的にどうなっているか、それが法的な規定と現実的な規定とどこがどう違っているのか、どこがどう矛盾しているか、そういうことは具体的に探ればすぐにわかることです。ただ、それだけの問題。それ以外の問題ではないわけです。問題の根幹は、すこぶる簡単で、不可思議なこともなにもありませんし、誰に気兼ねすることもありません。(会場笑)簡単、といいますか、非常にはっきりしていることなんです。つまり、人間というのは、はっきりしていることを、はっきり性というやつを、いったん自分自身で観念的に追いやりますと、ふと、様々な神話が生まれ、様々な迷信が生まれ、様々な問題意識が生まれ、ということになるわけです。それが要するに、いろいろな人の様々な立場を象徴しているということになるわけですが、そういうことは、どうでもいいことですから。たいした問題ではないですからね。ただ主観的に、自分は真理だ、自分の方が正しいと思っているだけでね。別に客観的保証があるわけでもありませんし。そういうふうにしか存在していないわけです。
 だから、要するに、僕がいえることは……何もない。(会場笑)ねぇ。プロレタリアートの国際的連帯もヘチマもないのでね。要するに、何が国際的であるかといえば、経済的諸範疇、人間自身の生存であろうと、物における交換であろうと、価値概念であろうと、経済的諸範疇に入り込んだときには、国際的、あるいは世界的なわけです。つまり、そこでとらえられる人間というのは、世界性、インターナショナリズムというものをもっているんです。しかし、幻想性という範疇はもたない。現在の段階では、国家という次元以上の幻想性は存在しえない。つまり、国家の具体的諸形態以外の観念の共同性というのはありえないということ。それはインターナショナルではありません。ひとりの個人・社会についていえば、経済性におけるインターナショナリズムというものと、幻想性における世界性でないもの、つまりナショナルなものとの矛盾に相さいなまれているというのが、現在人間のおかれている状況であり、それが根本である。それをもっと具体的に調べたいなら、具体的に調べればよろしい。しかし、根本はそれだけである。人間はプロレタリアートであろうと資本家であろうと、要するに経済的諸範疇に入る限りは世界性として存在するのです。世界性としてしか存在しえないのです。
 それから、幻想的範疇、つまり観念性の範疇では、現在のところ国家の共同幻想性というものにいろんな意味で制約されて存在しているということ。それがひとりの個人によって演じられるのならば、そういう自分の中にある経済的範疇としての世界性というものと、観念性の範疇としてのナショナル性、つまり国家共同性といったものの相矛盾を感じながら、人間というものは存在しているということ。だから、プロレタリアートも、また資本家も、そのように存在しています。そういう風に自分自身を阻害されて存在している、というようにもいえますけれども。
 だから、様々な概念で使われていようとも、ナショナリズムという概念が依然として通用する部分があるとすれば、それは幻想性の部分で通用するということ。つまり、ナショナリズムとは、国家の問題、法の問題、政治の問題、芸術の問題、家族の問題、そういうようなものとして問題となっていく。いったん経済的範疇に入っていきますと、そこではどんなものも世界性という範疇に存在しますから、そういうものが誰であっても人間という存在をとらえる。だから、現在の状況におけるひとりの人間は、「我が肉体、我が物質は世界である」ということと「我が観念は国家の問題、つまり法律であり政治であり、そういうものに制約されて存在している」ということとの矛盾を、いかにして断ち切るかという問題に苛まれて存在しているわけです。

10 サルトルとのタイトルマッチ

 ですから、丸山眞男がこういう見解を持ち、その他のみなもそういう見解を持ち、それから日本の戦争中の中央国家主義者がこういう見解を持ちといったように、どういう見解を持とうと、それはそれでいい。そういう意味では非常に個別的なわけです。では、問題意識として何を扱っているかといえば、大雑把にいえば「幻想性」の問題というものをあつかっているわけです。そして、その中で様々な解釈がなされていく。天皇はカリスマであるとか、天皇のカリスマ性に依拠して、官僚、軍人、兵士などが様々なことをやらかしたか、やらかさなかったかとか。そのような問題ですから、それはやはりそれぞれの人の体験、そこからでた解釈あるいは思想、様々なものが生み出されますから、それはそれでいいんじゃないかと僕は考えます。
 このごろ、あまり関心ないですからいいんです。ただ、ボクシングでいいますと、バンタム級でもなんでも、やっぱり世界タイトルというのは奪取しなきゃいけない。(会場大爆笑)思想的に奪取しなきゃ。現実的にも奪取しなきゃならないことはあるんでしょうが、あるいは将来のことはわかりませんけれども、現在、僕のいる位相では思想的に奪取しなければならない。非常にたいへんなことなんです。なんといいますかねえ……例えば、サルトルならサルトルが、日本に生まれていたとすれば、つまり日本における国家的土壌にいたとすればね、やっぱりたいしたした人じゃないというふうに僕は思うんです。だけどしかし、ヨーロッパの文化的その他の土壌にのっかっている人ですから、僕は、タイトルマッチをしようじゃないかと思う。ですが、5回戦か6回戦くらいで倒せなきゃ、15回戦やったら大差の判定負けで負ける、そういうことはよくわかっているんです。なぜ負けるのか。個人のせいだけではないという問題があるんですよ。要するに、やつが俺と同じように日本に生まれ育ってたらぜったい負けるわきゃないよって思うんですけど(会場笑)、しかしそうじゃないから。逆に弱々しそうにみえたり、いいチョロかげんなやつだなぁと思うけれど、やれば必ず負けるのですよ。やたらに腕をふりまわしているうちに、ぽかっと当たって倒れたりすることがあるかもしれない(会場笑)。だけど、みっちりやったら必ず負けるということは、やはりわかるわけなんです。しかし、だからといってサルトルがいいかということはないんですよ。
 しかし、それは個人のせいじゃない、個々の人間の問題として解消できないところに、例えば思想なら思想という問題の、非常な矛盾なり困難な箇所というものがあると思うんです。それはやっぱり、僕らと、サルトルがくればサルトルを受け入れ、研究すれば学者になれる、受け入れさえすれば通用するというようなものと、まるで違うところです。僕らは、そんなものを受けうりしているわけじゃないですからね。自分で考えて、体系をくんでいくわけですから。だから、じりじりとしか進んでいきませんから、一見すると六回戦で負けるようにみえると思う。?ここからいえば、ずっと強い。だから、そういう人はやっぱり駄目であるけれど、そういう人の根幹であるサルトルならサルトルを考えてみれば、それはどうしたって負けるんです。どうしようもない、というのは非常に社会的な、あるいは歴史的な問題であると思うけれども、しかしまたそれを歴史のせい、社会のせいにはできない。しかし、それでもやる。必ず勝ちます、打倒するさ、そういうような問題っていうのは、どうしても持たざるを得ないことがあるんです。
 そういう問題を、例えば、ナショナリズム感情じゃないか、そんなことをするよりサルトルでも読んだ方が早いんじゃないか、というのはブレヒト的インターナショナリズムなわけです。そんなものは一見いいようですが、いくらあってもしょうがない。というのは、問題は、結局最後、ぎりぎりのところでは透明にしますからね。やっぱりどうしたって社会のせいにはしない。絶対に勝つというところまで必ず行くんだ、また、行かなければしょうがないんだという問題意識というのはどうしてもでてくるんです。
 そういう問題意識をもつやつはナショナリストだ、世界には人間の普遍原理があって、翻訳か原書を買ってきて勉強すればすぐわかるんだと、そういうものをインターナショナリズムっていうならば、逆にナショナリズムと呼ばれてもいいんですけどね。しかし本当は、そういう問題じゃあないんですねぇ。本当の意味の世界普遍性というものを獲得していくためには、非常に困難な道を歩まなければならない。単に思想や文化といったもの領域だけではなくて、全幻想性の中にもそういう問題が孕まれていますし、経済的範疇諸問題の中にもあると思います。そういう問題を根底的に考えすすめていく、という問題意識をナショナリズムと呼ぶならば、僕らはそういうもんだ、といわれても差し支えないのです。別に、一民族、一種族、一部族の共同性というものに固執するわけでもなんでもない。しかしながら、それが制約している問題と、経済的範疇としての世界性の矛盾っていうものは、どこにあろうとやはり絶えず持たざるをえない。そういうことは、必ずあるというように思っています。
 一応、これで終わらせてもらいます。

11 司会

 現在の思想的な課題の問題とはなりえないのかという質問に対して、吉本さんは根底的にナショナルな視点というものから遡っていって、サルトルとボクシングに例えてお話されたという、根底的にナショナルな視点を踏まえながら国家を超えていくというか、そういう端の方にインターナショナリズムみたいなものをいこうとする場合には、持っていたインターナショナリズムなんてものは簡単に負けてしまうんだと、鶴見俊介の場合も具体的な場合はお話になりませんでしたけど、幸福な時代のインターナショナリズムなんていうのは結局は負けちゃうんじゃないかということです。
 それから、いままでの僕たちが国家論を中心にして、たくさんの講師を迎えてきたわけだけど、そうした古典的な国家論の無効性ということをエンゲルスの国家論の問題点、『家族・私有財産・国家』の理論的な根本的な誤りを吉本さんは指摘されたと思うのですけど。
その問題点に集約されて出てくるところの、いままで僕たちが読んできたところの神山茂夫とか、スダミチオとか、そうした人に国家論ないし資本論なんかの間違いの根拠みたいなものを指摘されたという、それから、端的にいってしまえば、国家というのは幻想の共同性であって、それ以上、言おうとすれば、必ず誤謬になると、それを具体的な場面に変換しようとすれば、それを具体化するほかないんだ。
 それから、インターナショナリズム、ナショナリズムの理論というか、はっきりした規定みたいなものとしては、経済性みたいなもの、消費経済の物質的な過程の貫徹としては、物質的な実体みたいなものはインターナショナルであるけれど、しかし、それ以外に人間がもつ幻想性みたいなものがインターナショナリズムとナショナリズムのかい離というか、物質的な過程を体験しながら、幻想性みたいなものを人間というのは切り開かざるをえないんだというふうな、そうしたナショナリズムみたいなもの、だいたいこういうことが、かなりサルトルの批判なんかと、丸山眞男の批判なんかは、どう吉本さん自身はどう表現されてるかわからないのでやめておきますけど、いちおう、中川君からさっき提出されたインターナショナリズムとナショナリズム、いま僕がいった古典的なインターナショナリズムみたいなものは、現在の思想的な課題みたいなものとしては終わってしまったのではないのかという問題から入っていきたいと、その次に、その問題の根底にはいままで国家論をしゃべってきた講師たちのエンゲルスの『家族・私有財産・国家』の読み込みの問題、あるいは、その間違いの指摘の問題、国家論の根拠にあるところのエンゲルスの問題なんかとふれながら、たぶん、出てくるんじゃないかと思うので、いちばん初めに、インターナショナリズムとナショナリズムの問題みたいなものをフォローしていきたいなと思います。

12 質疑応答1

(質問者A)
 中国とかソ連のほうが日本よりもより明るいとか、あるいは、幸福な時代の幸福なインターナショナリズムということをお答えになられた、これはどういうことなんですか。

(発言者B)
 いまだに僕が整理がつかないというか、まったく僕の考え方と逆なところがあるわけです。吉本さんは肉体的には人間というのは世界的に存在するんだけど、しかし、精神的には国家という枠組みを中心にしてしか存在しえない。それは人間の幻想の共同性の最高の発展段階が国家という単元によってしか語られないというふうな吉本さんの提起とあれするわけだけど。
 ぼくの思想の原始とするときに、いちばんの根本的なところにあったのは、吉本さんに言わせれば、非常に間違っているプロレタリアインターナショナリズムに規定されるのだと思うのだけど、ぼくたちが、自分たちの希望というか、為さなきゃいけない課題として、自分のなかに、精神的、肉体的に負わされている国家、そういうものの続きに実際に精神的には政治支配という形でもって支配されているし、また、肉体的にはそこにしか住めないというか、じぶんが生まれちゃったわけです。実際に非常に不条理なことに、この日本に生まれちゃったわけで、許されていないわけです、他の国に生まれることは。
 そういう僕にとって、抽象的な言い方だけれど、ぼく自身が世界のセンター的な存在として生きるということのために、ぼくは肉体的には国家に縛られている、実際にここに集まっている人たち、ほとんど学生だと思うけど、実際に自分たちは国家から逃げられないし、じぶんは他の国に行きたい、ぼくはアメリカに行きたいと言うかもしれないし、ソ連に行きたいと言うかもしれないし、中国に行きたいと言うかもしれない。ぼくは実際に生まれたときから、日本よりはソ連なり、中国にいたほうがいいというような希望をもっていたわけだけど。
 それを国家というものを媒介に超えていくというか、実際にいえば、革命ということによって、国家という自分に加えられた政治的な桎梏を払いのけているわけだけど。じゃあ、その場合の闘いは、ただ偶然性として自分が生まれたということを基盤とする国家、もしくは、その民族を対象とする考え方じゃダメなんだと、ぼくは吉本さんとそこで絶対的に違ってくるわけですけど。
 とにかく、自分の意識は本を読めば超えられるし、サルトルを読めばサルトルまで達することができる、自分が肉体的に読みこめば、サルトルに達することができるし、また、マルクスの思想も自分のものにすることができる。そういうことによって、意識的に自分の国を超えることによって、その国家を廃絶していくというような方法を僕は選んだわけです。説明になりますか。

(司会)
 説明にならないけど、まあいいです。吉本先生いかがですか。

(吉本さん)
 だから、いま言ってるのは、どこか地上に天国があると思っているんですね。ぼくは、天国はないと思っているわけです。どこに行ってもないです。ようするに、ソ連に行こうが、中共に行こうが、アメリカ行こうが、地上に天国があるわけがない。
 天国はないとしても、しかし、天国をあらしめることの前提条件というのは、ようするに、国家、つまり、共同幻想、そしていま、現在の段階で共同幻想としての最高形態といいますか、そういう形態として、国家というのを取っ払っちゃえばいいんだということ。それだから、天国ができるかどうかは別として、それはひとつの前提であるというふうに思っています。だから、どこかに行けば天国だなんてちっとも思っていないです。
 だから、この人は天国だと思っているわけです、ソ連とか中共が。そうだと思ったら、ぼくの考えでは行けばいいと思うんです。20万円くらいあればいけますから、それで向こうで働ければ、行ったらいいと思います。いまは簡単ですよね。飛行機か船に乗っていけばすぐにいけます…(テープ切れ)
 …そのもとにある生活であり、それから、個人であり、芸術であり、政治であり、そういうもののなかに情況があるというふうに思っているわけです。どこにも僕は行ったって情況がないというふうに、ここにないならば、他に行ったって情況はないというふうに僕は思っているわけです。

13 質疑応答2

(発言者B)
 ぼくは決してどこかに天国があるという言い方をしていないので、ひとつの自然成長的な段階の最高の発展段階としての国家の共同性というのは、吉本さんが何かでお書きになったように、さまざまな発展段階が考えられる。あるところでは、日本という水準の国家の幻想性の発展段階が考えられるし、また、それよりも上なのかわからないけど、フランスならフランスというものがあり、また、下にアメリカならアメリカというものがあり、また、ソ連ならソ連、中国という、様々なものを想定しうると思うんです。
 ぼくがインターナショナリズムという言葉を使う場合に、それは、決してどこかに天国があるということではなくて、ぼくらは自然史の最高の発展段階としてのひとつの水準というものを論理的な帰結としてどこかに持っているわけです。
 肉体的には達せられないにせよ、自分たちの意識性としてそこに到達することは許されるとおもう、様々の本を読んだりすることによって、それを幻想性でもって自分たちが肉体として捉えられている国家を討つことを媒介にしてそこに達するという、だから、もちろん、ぼくが20万円あって、中共に行けばいいわけだけど、ぼくだけが行くのではなくて、ぼくの親父も行かなきゃいけないし、お袋も連れていかなきゃいけないし、奥さんがいれば子供も連れていかなきゃいけないだろうし、それは行かないという状況になっている。

(吉本さん)
 それは行けますよ。20万円なかったら借金して行って、簡単にいけます。

14 質疑応答3

(質問者)
 近代ヨーロッパが、とくにイギリスなんかにある封建制から分解した過程を通って生じてきたと、ところが、日本の場合だと、封建制という段存した形で西洋化、近代化という形で資本主義が入ってきたと、そこに封建思想というのが、ひとつの日本の天皇制ナショナリズムの媒介というか、そういったものを媒介として、そこからインターナショナリズムというものが出てきたと思うのだけど。
 その場合、日本人の大衆のたどった過程というのが、大衆がそういった過程をたどる場合、徹底的に落ち込んで、転向の意を示して、疎外を落ちていくという過程をとるか、それともどんどん追随していくというか、国家なり天皇制なりに。そういった場合、日本人は後者の上昇の過程というか、どんどん上のほうへ僕は昇っていったと思うのだけど、ぼくらが問題にしなくちゃいけないのは、過去の過程を、どう自分自身の中で状況の中から取り出していくか、そこに問題意識として、さっき言った20万円で中国に行ったって何もならないというようなところに僕がくると思うのですけど。
 その場合、いわゆる土着的ナショナリズムという言葉が存在しうるとするなら、まさに過去の論理過程をどう崩しながら構築していくかということだと思うのですけど、そこをいわゆるポイントといったらおかしいのですけど、何をおさえていくか、お聞きしたいのですけど。

(吉本さん)
 国家みたいな幻想性、観念性の問題というものは、これは様々な地域がありまして、けっして、構造まで探っていくと単一じゃないと思うんです。たとえば、日本の場合には、神山は天皇制の諸問題でよくをそれを指摘しているけど、おそらく、交通形態の問題だと思うのですけど、氏族遺制みたいなものが、経済の構造の中に非常に多大に残っている、それは離れ島の特殊条件でしょうけど、そういうようなあれはあります。
 それから、線一本超えれば、他の国家へ行くというような、そういうところにおける国家というのは、連動する国家というものと、構造的にいえば、言い換えれば千差万別、さまざまに存在しうるというようなふうに言えると思うのです。
 だから、その問題というものは、とにかくまず、はっきりさせないかぎりは、つまり、それが国家論の普遍的な問題として、どういう問題であるかということと、それから、まず、そういうふうに、さまざまな実体構造をとりうる国家の実体というものの契機がどこにあるかという問題に決定して、把握していかないと、問題が始まらないというふうになると思うのです。
 だから、そこのところで、国家に対する和解というものの目標の設定の仕方というものが決まってくるわけです。そういうものをはっきりさせろということが、いわば、思想の問題としてはひとつ存在すると、つまり、そういうことがはっきりされたことはかつてないと、つまり、静止的なというか、スタティックなというか、そういうような状態というのは、丸山さんがよく分析しということはあるけれど、それが変えられる問題、あるいは、変えられねばならない問題というのは、そういうようなモチーフをもって、それが実体的につかまれては、いまだかつていないというようなふうに、ぼくには思われるのです。だから、そこを問題としなければならないというようなことがある。
 それから、日本の場合には資本主義といっても、封建的な遺制というものを引きずっているし、また、前封建的な要素も引きずっていると、経済的な要素も引きずっていると、それをまた、ある意味では不可欠な条件として日本の資本制というのは成り立っているというような、それはやはり他と違うじゃないかというような問題があるでしょ。
 その場合に、違うという問題は、2つの場合に考えられるわけです。ひとつは、どこかに、たとえば、理想の資本主義モデルというものを設定して、それに対して違うというふうにいうか、それじゃなければ、あとは相対的に、つまり、AとしたらBは違うとか、そういう意味でいうか、どちらかであるわけです。違いというふうに言う場合には。
 だから、どちらかの方法で、それは文学でいえば、比較文学論みたいな形でいうか、それとも絶対的に資本制経済機構というのは、こういうものだというモデルをもとにして、そんなものは地上には存在しないと、しかし、モデルは形成することはできると、そのモデルに対して、これだけ違うじゃないかというふうに、そういうふうに違うという言い方をするか、ぼくの考え方ではそのどちらかだというふうに思いますけど。
 だから、その問題は、どちらかの問題として考えていくことはできる、ただ、国家の問題というのは、これは観念の問題ですから、これは観念性によって、実体をまったく個々別々だとおもわれる実体を、ひとつのモチーフであると、これはなぞらえればいいんだと、モチーフとして。そういうモチーフからどこまでつかまえられるか、つまり、歴史的に、それから、現在性、情況的にどこまでつかまえられるか、そういうことは思想の問題としてはあるだろうというふうに思うのです。
 そういう問題は、いわば、はっきり区別してといいますか、区別は、はっきりとはなかなかつかないところがありますけど、とにかく、区別して考えたほうがいいのではないかと思います。国家の問題として、それから、資本主義経済機構という問題というものは、それはいちおう区別して、それはしかるがうえに区別して、構造的なつながりというのはどういうふうになっているのかというような意味で今度はくっつけたらいいと思います。僕の考えるという問題意識は必要なんじゃないかというふうに思います。
 それがたとえば、エンゲルスなんかの場合には、非常に曖昧にぼかされていますから、家族なんていう概念も、性的あるいは婚姻という場合でもそうですし、実体的な行為、つまり、自然的な性行為のことを言っているのか、あるいは、もっと大雑把なといいますか、大きな意味でといいますか、もっと違う要素も含めて、観念性を含めていっているのか、そこのところ自体がはっきりしていないところがありますから、だから、エンゲルスでもマルクスでもそうなので、たとえば、最初の群像というのは、あるいは、最初の階級分裂というのは、ようするに、男女の性における分業に発するというようなことをいうでしょ、そういう場合には、はっきりと経済的範疇としての性、セックスというものをはっきりと限定されているわけです。はっきりと範疇が構えられたうえで、そう言っているわけです。
 ところが、それじゃあ性的範疇というのは、それで全体性かというと、けっしてそうではないわけです。そうではないけれど、経済的範疇としてはそういうことが言えるということがあるわけです。
その場合に、マルクスは経済的範疇としていえば、最初の階級分裂は、男女の性的分業にはじまるとか、そういうような断り書きはべつにしないわけです。断り書きはしないけれど、それはもちろんそういうふうに理解すべきであって、人間の全性的範疇というものはべつに経済的範疇にとどまるものではありません。
 つまり、幻想的範疇を伴いますから。そういうような問題というのは、べつにそこで、その場面で必要なければ言わないというだけで、必要があれば看過できない問題ですから、そういうところは、なんかはっきりさせてからじゃないといけないように思いますけど。

15 質疑応答4

(質問者)
 音声聞き取れず

(吉本さん)
 それは非常に明白なわけなんです。つまり、経済的範疇としては、資本家であろうと、労働者であろうと、世界性であるということ、そのことは明確なわけです。ただ、資本家の場合には世界性であること自体が所有である、あるいは、私有であるというような形で世界性である。労働者の場合には喪失であるという形で世界性がある。そういうことが経済的な範疇で考えられる階級というものの発生、あるいは、階級が存在しうるという、そういう根拠であるわけです。
 それじゃあ、階級というのはそれで解けるかというと、けっしてそうじゃないです。階級というのは、国家の共同幻想に対する個々の労働者、あるいは、個々に職業に就くものとしてしか存在しえないですから、人間は、経済的範疇では、資本主義社会でいうと。だから、そこにおける共同性というのがあるでしょ、つまり、共同の意識、あるいは共同の観念、あるいは共同の幻想というのがあるでしょ。そういうものは部分的に成立するわけです。そういうものが必然的にひっくり返らざるをえない。
 つまり、国家の共同幻想というものと、個々の人間がある生産の場面で持たざるを得ない幻想、つまり観念、あなたの言葉でいえば意識でもいいです。そういうものと、それから、同じ職場であるとか、同じ職種であるとかいうことの共同的な意識、そういうことがひっくり返らざるをえない、そういう契機を突っ込んでいかないと、階級というものの総体的な把握というのはできないだろうと思います。
 つまり、階級というものも経済的範疇でのみ考えたら間違うということ、だから、幻想的範疇としての階級、つまり、国家というふうに結集している共同幻想というものに対して、個々の労働者、あるいは、職業的人間、そういうものの持つ幻想性、あなたでいえば意識性ですけど、そういうものとがひっくり返る、そういうもののひっくり返り方というもの、そういうものを入れていかないと、つまり、考えに入れていかないと、国家の階級というものの把握自体が間違えるだろう、だから、プロレタリアートという概念規定自体が間違うだろうと、そういうことがあるわけなんです。
 だから、そういうことの問題意識というのは、かつてまともに提起されたことがありませんから、あえてそういうことを言うわけですけど。あえて分離した形で言うわけですけど。ほんとうは分離できないですけど、分離した形でいえば、幻想的範疇としての階級というもの、そういうものと、経済的範疇としての階級というもの、そういうものはちゃんとはっきりと両方から発展させていかないと、階級というものを全的に把握できないということがあるわけです。
 だから、そこのところは、はっきりさせないといけないと、そのはっきりさせるという問題意識は、ぼくがいま縷々言ってきたそういう問題意識から始まっていきますけど。それをはっきりさせないかぎりダメであろうと思うので、ダメであろうというのは、なぜかというと、たとえば、非常に為政的には、つまり社会福祉国家みたいに、国家権力自体が社会福祉的なあれで、労働者の生活条件を向上させるとか、労働条件を向上させるということは、為政的にはできるわけですから、そうすると、階級というのはなくなっちゃうんじゃないか、そういうふうな考えになってしまいますから。
 それはなぜなるかというと、経済的範疇でだけ階級性というのを捉えるからそうなるんです。だけど、幻想的範疇というものがあるんです。つまり、個々の労働者が労働の場面、それから、家庭の場面でもいいです。つまり、労働力の再生産の家庭の経済的範疇でもいいです。そういう家庭での生みだす幻想性というのはあるわけです。そういうものが国家の共同幻想性というものと、どういうふうにひっくり返るか、ひっくり返り方の実態というのはどういうふうになるかということ、そういう範疇として階級というものをまた考えていかないと、階級というものは全面的に把握できない。つまり、福祉国家みたいなものが、非常に為政的にうまくいくと、階級なんかないじゃないかというふうに、そういうふうになっていきます。
 ぼくはおそらく経済的範疇としてだけ階級というもの、あるいは、プロレタリアートを把握している人は、おそらく、だんだんそういうふうになっていくと思います。これはどう考えてもおかしいじゃないかとか、なくなっちゃったじゃないかというような、そういう自制に陥るとおもいます。
 しかし、ほんとうの階級制というのはそんなものじゃないです。現在の段階では国家ですけど、国家というものの幻想性に対する個人幻想というものが、どのようなあり方で、やり方でひっくり返るか、それはかたっぽからいえば強制であり、かたっぽからいえば、ないほうがいいものだというふうに、ひっくり返るかというのを、そういう契機をそこへ突っ込んでいかないと、つまり、考えていかないと、階級制というのは最後にはうやむやになってしまう、ぼくにはそう思われます。そういう問題意識というのは、はっきりさせたほうがいいんじゃないかというふうに思います。



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