1 比較留学論

 ひとつは「共同幻想論」といいまして、つまり、共同幻想っていうのは、具体的には、国家とか、法とか、それから、共同性としての宗教、そういうようなものを共同幻想と呼ぶわけですけど、そういうものについての考えを発表したり、書きすすめたりしているわけです。
もうひとつは、同時に「心的現象論」と申しまして、これは、個人の観念の構造といいますか、観念の構造が、生理体、あるいは、自然体としての人間っていうものと、どういうふうに関係づけられ、どういう構造をもち、また、その境界領域っていうのがどういうふうになっているか、そういう問題を、現在すすめているわけです。
だから、当然、お話するとすれば、そういう問題をお話すべきなんですけど、そういう問題は、ぼくは方々でしゃべりまくっていますし、これはいちおう完成されたとき、もし興味があれば、ご覧になれば、すぐにわかることですから、そういうことと、それから、今日は寮祭だということなんです。ぼくは学生時代、寮に3年間いたことがありますけど、それは、戦争中ですけど、戦争中の寮、あるいは、戦前の寮っていうのと、いまの寮生活というものは、まるで違うかもしれませんけど、寮生活で得た、たとえば、友人との葛藤、関係、それから、社会性、その他、そういうものは、ぼくの経験では、その後の、ぼくが人間および社会を考える場合の原型になしたっていうふうに思っています。
寮生活っていうのは、公的生活および私的生活、両方を混合して含んでいるわけで、そういうようなことも考慮しまして、ぼくが今日選んだのは、今日のやることは、ぼくのほうにゆだねられていたわけですけど、選んだテーマは、非常に特殊なもので、「詩人としての高村光太郎と夏目漱石」っていうテーマを選んでみました。
なぜ、そういうテーマを選んだかといいますと、「比較留学論」っていいますか、「比較留学論」っていうものに、わりあいに興味をもっているわけなんです。つまり、両者とも、明治のだいたい後半に留学をやっているわけですけど、それから、留学を契機にして、考え方がそうとう変わっているわけです。これは、高村光太郎、それから、夏目漱石だけでなく、たとえば、永井荷風をとってきてもいいわけですけども、あるいは、森鴎外をとってきてもいいわけですけど、それらの留学の仕方っていうものを比較することによって、つまり、日本以外の国に学んだことがあるという、そういう経験を比較することによって、それぞれの人の、その後の、思想の発展のかたちっていうものが、それぞれある意味で違ってくるっていうような箇所があるわけです。それぞれが、日本の明治以降の近代文化・思想っていうものの、ある骨格っていうものにつながってくるわけなんです。そういうものに興味をもっていますから、そういう問題をとりあげてみようと思ったっていうことがあります。
それから、なぜ、詩人として、それをとりあげようかっていうような問題ですけど、高村光太郎はみなさんにも知られている詩人ですけども、夏目漱石は、みなさんのほうは、あまり、ご存じないでしょうけど、作家として、小説家としてご存じかもしれませんけど、詩人としてはご存じないと、しかし、生涯にわたって、詩を書いているんです。夏目漱石の場合は、詩といっても、漢詩です。漢文による詩っていうものを書いているわけです。もともと漱石の場合は、本業は散文家、つまり、作家です。それで、つまり、詩っていうのは、鴎外や漱石にとっては、自分の散文の世界を、ある意味で散文として守るために書かれたっていうような意味合いをもつわけです。
ところが、高村光太郎の場合、本職は彫刻家なわけですけども、自分の彫刻から文学性っていうものを排除するという意味で、詩を書いて、それが余技っていう段階を脱して、つまり、近代詩のうえに、大きな足跡を残すっていうことになっていますが、もともとのはじまりは、ようするに、自分の文学性っていうものを排除するっていうような、そういうような意味をもって詩を書いただけです。
そういう意味で、わりあいに似ているところがあります。そういう点から考えて、このふたつを比較してみようっていうような、そういうようなことを考えたわけです。みなさん、いま、紹介者の方が、知的欠乏状態についてっていうようなことを言われたんですけど、つまり、知的欠乏状態っていうものを、ある程度、満たすために、ぼくはそういうことをしたことがないんですけど、行き当たりばったりでお話するわけですけど、いちおういくらかメモ程度のことを書きとめてきましたから、そういうことでお話をすすめていきたいと思います。

2 漱石の留学体験

 まず、夏目漱石の留学っていうのは、明治33年から2年ばかりにわたって、西暦でいうと1900年です。つまり、20世紀にちょうどピタリとくる、そういう境界のところなんですけど、漱石の留学のテーマっていうのは、これは、あたえられたテーマですけど、時の文部省からあたえられたテーマっていうのは、「英語研究」っていうことなんです。
「英語研究」っていうことは、英文学研究ってことと違うわけです。つまり、英語の研究っていうテーマをあたえられたのです。漱石はそれに対して、非常に疑問をもって、わざわざ文部省を訪ねていって、英語研究とはいったいなんだっていうことで、それは帰ってから、教えることに対して、多少、便宜が、有利であればいいと、つまり、利点をもたらせばいいっていうことで、その英語研究という範囲内で、ある程度、自由にやってよろしいというような、そういう回答を得て、いやいやながら、安い留学費で、英国、ロンドンへ出かけていったわけです。
つまり、英語研究っていうのは、どういうふうに考えてみても、つまり、ヨーロッパ人の日本文学研究、あるいは、日本語研究と同じように、いくらうまくいっても、ようするに、英国人にはかなわないことはわかりきっているわけです。それで、漱石は、2年間の留学期間のまる1年というものは、だいたい英語研究、つまり、会話、それから、英語の文法、それから、その他、そういうことについて、とにかく、まじめな人ですから、まっ正面からぶつかっているわけです。
ところで、1年ぐらい経って、疑問を生じています。その疑問っていうのは何かっていいますと、ひとつは、いま言いましたように、いくらやったって、これは英国人以上にいけるわけはないっていうことが、はじめからわかっているってこと、そういうことがひとつ疑問だっていうこと、それから、もうひとつは、英文学っていうものを、表記としては素材にして、研究していくわけですけど、英文学っていうものに対する、英文学における文学の概念と、それから、漱石が、小さいときから漢文に、子どものときから漢文に学んで、つまり、その当時のだれでもの教養なんですけども、漢文学っていうものに、ある程度、造詣をもっていると、漢文学でいう文学っていう概念と、それから、英文学でいう文学っていう概念とは、まるで違うっていうことに、はじめ一年間経って当面するわけです。
そこで、漱石は、はじめて、疑問に突き当たって、結局、何に到達したかっていうと、文学とは何かっていう問題に突き当たったわけです。それで、あとの1年っていうものは、文学とは何かっていう問題に費やしたっていうことができます。
それは、どういうふうにしたかっていうと、だいたい、下宿にこもりっきりで、金があればあるだけぜんぶ、本を買い込んできて、下宿に閉じこもりっきりで、もちろん、学校なんかでていかないで、とにかく、読み漁りをやるわけです。そうしといて、それをノートに、要所要所、あるいは、自分の感じた問題をノートに書き込んでいくっていうようなことを、それを、あとの1年、これまた必死になって、やったわけです。
だいたい、そのノートを基にしてできたのが、漱石の『文学論』っていう、最も読まれない本なんですけど、だから、みなさんのほうの英文学科の人を除いては、読んでおられないと思うんですけど、漱石の文学論っていうのは、文学とは何かっていうことを、ある意味で社会学的に、ある意味で心理学的に、非常に突っ込んだわけでして、これは、日本で、文学論っていうのがありますけど、そのなかでは、やっぱり、指折りのできばえ、つまり、漱石以前でいえば、坪内逍遥でしょうか、坪内逍遥の『小説の真髄』っていうのがありますけど、それ以降はじめてっていうような、非常にたいへんなことなんですけど、そのかわり、おもしろくないこと、つまり、無味乾燥であるっていう意味では、ほとんど現在でも、専門家以外には読まないっていうような、無味乾燥のものです。『文学論』のためのノートをとったわけです。
で、下宿にこもりきりで、人とも付き合わんもんですから、漱石っていうのは、神経衰弱にかかったっていうように言う人もいるし、そういう噂が本国に伝わって、戻ってこいなんて言われるっていうふうな、そういう状態で、とにかく、付き合いを一切やめて、下宿にこもりきりで、それをやるっていうようなことを、1年間やったわけです。
それで、『文学論』には、序文があるわけですけども、序文のなかでも、漱石がどういうことを言っているかっていうと、ロンドンに留学した2年間っていうのは不愉快きわまる2年間だっていうわけです。それで、自分が英国紳士の間に混じって、ひとりの東洋人で、金も持たない野良犬みたいな存在で、しかし、ロンドンの空気だけは、2年間だけ吸ってきたと、それで、それは、英国人に感謝せざるを得ないじゃないかと、しかし、おれは、二度と再び、こういうところに来たくねえっていうような、そういう意味の、非常にまったく不愉快であるという、そういうことを記しているわけです。
そこで漱石が当面した問題っていうのは、何かっていいますと、つまり、漢文学でいう文学、つまり、江戸時代から明治にかけての、いわば純文学っていうものなんですけど、そういうものと、英文学でいう文学っていうのとは、まるで違うじゃないかっていうこと、それから、もうひとつは、留学っていうのは、まことに不愉快じゃないかっていうこと、なぜ、せいぜい、いくらがんばっても英国人には及ばないようなことを、なぜ、わざわざいって、やらなければならないのだろうかっていうような、そういう疑問にたどり着いて、そして帰ってくるわけです。
帰ってきても不愉快なわけです。しかし、学校の講義は、そのノートを基にしてやるわけですけど、まったく学生諸君には通じないと、何を言っているんだかわからない、それから、だいたいおもしろくないと、そういうようなことで、まったく不愉快である、これもまた不愉快であると、そういうような体験を経ているわけです。

3 光太郎の留学体験

 いっぽう、高村光太郎っていうのは、漱石よりも遅れて、明治39年に留学しているわけですけど、これは、最初アメリカいって、それから、英国へいって、それから、最後にパリ、つまり、フランスにいってくっていうような、そういうあれをだいたい漱石とおなじくらい、3年間くらいやったわけですけども、高村光太郎は、もちろん、彫刻美術学校の留学生として行ったわけですけども、やはり同様に、非常にあまり愉快でない思いをさせられて帰ってくるわけです。
その愉快でなさっていうのは、どういうことかっていいますと、ひとつにはこういうことなんです。あるとき、これは留学の末期なんですけど、あるとき、父親から手紙がきて、「体を大切にして、規律を守って、勉強しなさい」っていうような、そういう手紙がきた。そういうときにちょうど、むこうも女の子と約束で、どっか遊びに行くことになっていたんですけど、ちょうどそのとき、その手紙がきて、遊びに行くのがいやになっちゃって、考え込んでしまうわけですけど。
そのときのあれが、高村光太郎の「出さずにしまった手紙の一束」っていうようなものに書かれていますけど、どういうことを書いてあるかっていいますと、「身体を大切に、規律を守って勉強せられよと」此の間の書簡でも父はいつも変らぬ言葉を繰り返してよこした。外で夕飯を喰って画室へ帰って此の手紙を読んだ時、深緑の葉の重なり繁った駒込の藁葺の小さな家に、蚊遣りの烟の中で薄茶色に焼けついた石油燈の下で、一語一語心の底から出た言葉を書きつけてゐる白髯の父の顔がありありと目に見えたと、僕は其の晩モンマルトルのある女史を訪ねて、一緒にネアンという不思議なカフェへ、喫茶店へ行くつもりだったが、急に悪寒を覚えて、其方は電報で断り、ひとり引込んで一晩中椅子に懸けたなり様々のことを考えた。
親と子は実際、講話の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子にしてしまうと、孝行息子にしてしまうと、子が強ければ、鈴虫の様に親を喰い殺してしまうのだ。それはいやだと、自分が子になったのは仕方がないと、親にだけはどうしてもなりたくないと、君はもう、誰かにあてた手紙をその送った、二人の親の子になったそうだが、いま考えると、ぼくを外国へ寄こしたのは、親爺の一生の誤りだった。「みづく白玉取りて来るまでに」と歌った、つまり、奈良朝の留学生と自分とを、同じ人間だと思っていたのだと、ぼく自身でも取り返しのつかぬ人間に、ぼくはなってしまったと、いまに鈴虫の様なことをやるにきまっているというようなこと。
それから、もうひとつは、君は動物園に行ったことがあるだろう。そして、虎や、獅子や、鹿や、鶴の顔を見て、寂しさを感じなかったかと、君の心と彼等の心と、何ら相通ずるところもない冷ややかな、インディファレンスな関係に脅かされたことはないかと、虎の眼を見て、自分は永久に相語り得ぬ彼と僕との運命を痛み悲しんだと、この不自然な悲惨の滑稽を忍ぶに堪えなかったと、かかる珍事が白昼に存在しているのに、古来何の怪しむこともなかった人間の冷淡さに驚嘆した。
それがいま、自分がパリのなかで、骨を刺して悲しみ苦しんでいるのは。白人っていうのは東洋人を目して、核を有する人間だって言っている。ぼくにはまだ、白色人種っていうのが解き尽されない謎である。ぼくには、彼等の手の指の微動すら了解することができない。相抱き合いをしながら、ぼくは石を抱き、死骸を擁していると思わずにはいられない。その真っ白な蝋の様な胸にグサッと小刀をつっ込んだらばと思うことがしばしばあるのだ。
ぼくの身の周囲には金網が張ってある。どんな談笑の中、団欒の中に行っても、この金網が邪魔をする。海の魚は河に入る可からず、河の魚は海に入る可からず。駄目だ。早く帰って心と心とをしゃりしゃりと擦り合わせたいっていう、そういう感想を書いているわけです。
そういう意味で、この高村光太郎の留学っていうのもまた、非常に失敗だったというふうに言うことができます。その失敗の仕方、それから、不愉快の感じ方っていうものは、その後の漱石、その後の高村光太郎っていうものの骨格を形成していくわけです。

4 三角関係という漱石の生涯のモチーフ

 漱石の、みなさん、小説を読まれたことがあると思いますけど、漱石の小説のいちばん根底になっているのは、三角関係なんです。つまり、三角関係っていうのは、たとえば、『行人』なんていう小説では、兄が、兄嫁と、それから自分の弟との関係に疑惑を抱いて、ある日、わざと、弟と兄嫁を旅館に泊まらせるっていうような、そういうようなことなんですけど。
それから、『こゝろ』なら『こゝろ』っていう小説をとってきますと、若い学生時代に下宿の娘さんに対して、自分と友人とはいっしょに好意を抱くと、友人が好意を抱くのを知っていながら、それをいわば、友人からとってしまうと、それで、その『こゝろ』の先生っていうのは、そういうことが生涯にわたってひっかかっていて、そして、ちょうど明治が終わるときに、自分の運命も終わったっていうようなことで、先生が死んじゃうわけですけども。
それから、『門』なんて小説を読みますとやはり、好きであった女の人がいて、それが友人の妻になっているわけですけど、それが、両者がとうてい幸福な夫婦であると思えないっていうことで、それから、友人の奥さんをやっぱりとってしまう。それで、自分がひっそりとして、生活していると、それで、ところが、ある偶然のことから、友人っていうのは、自分の近所に住むようになるかもしれないっていうのがわかって、それに、異様におびえるっていいますか、罪の意識を感ずるっていいますか、そういうことで禅寺の門をたたくと、その門は自分を入れるようでもあり、入れないようでもあるように、そびえているっていうような、そういうようなことがテーマになっています。
つまり、漱石が一貫して追求したテーマのなかには、そういう三角関係っていうものを異常に執着するわけなんです。これはどういうことなんだろうかっていう問題を考えてみますと、その根底にあるのは、ひとつは、非常に個人的な生い立ちのことがあるんですけど、漱石の家っていうのは、江戸時代から続いた名主の家なんですけど、ところが漱石は晩年の子どもであったために、両親が、恥ずかしいってことで、まったく意味もなく、漱石が赤ん坊のときに、古道具屋に里子にやってしまうわけです。
漱石は、その古道具屋さんが四谷の夜店で古道具を売っていると、その古道具と一緒にザルのなかに置かれて、道ゆく人に棚ざらしにされているわけです。それで、その古道具屋さんから家に帰ってくるわけですけど、帰ってきたらまたすぐ、今度は養子にやられるわけです。
養子にやられて、それは『道草』っていう小説を読んだらすぐわかりますけど、養父が、つまり、養子先の親父さんが、女出入りをおこして、そのためにまた連れ戻されるわけです。しかし、漱石が晩年に至るまで、この養父っていうものから、つきまとわれるわけです。つまり、零落した養父っていうのが、漱石はいわば洋行帰りの大学の先生なんです。世間的にはそう見えるわけで、漱石のところに金をせびりにくると、そのたんびに、金をいくらか出してくれてやる。それで、それがおもしろくなくてしょうがないんですけど、不愉快でしょうがないんですけど、それをそうせざるをえないっていうような、つきまとわれるわけです。
そういう体験があるわけですけど、そういう非常に個人的な体験っていうのもありますけど、なぜ漱石が三角関係に固執したかっていいますと、それは一種の文明、つまり、明治でいえば文明開化なんですけど、文明における、つまり、近代日本における知識人の文明の象徴みたいなものに置き換えることができるわけです。
だから、たとえば、三角関係の漱石の小説の主要なモチーフのなかで、三角関係っていうのは、たとえば、友人っていうのを西欧っていうふうに置き換えるわけです。あるいは、西欧社会っていうふうに置き換えるわけです。そして、自分っていうものを女性に置き換えるわけです。そして、その弟なら弟っていうもの、たとえば『行人』でいえば弟なら弟、つまり、三角関係のもうひとりの男っていうものを日本の社会に置き換えるわけです。
そうしますと、そこで得られる図式っていうものは、つまり、『文学論』における漢文学と英文学の本質的な相違っていうものと同じように、たえず、あちらに動かされ、こちらに、しかし、疑いをもち、それから、疑いをもつからこちらに動かされるんだけど、こちらに動かされると、また罪の意識を感ずるっていうような、そういう図式、つまり、そういう思想的な図式に置き換えることができるわけです。
漱石っていうのが生涯にわたって、非常に思い悩んだ悩み、それから、自分の作品のモチーフにしたそういう問題、つまり、男女の三角関係っていうような、そういう問題っていうのは、いわば、日本近代っていうものと、ヨーロッパの近代っていうものに対する自分の、こちらにくっつけば罪の意識を感じざるをえない、それから、むこうへつけば疑惑を感じざるをえないっていう、そういうような、いわば二律背反っていいますか、そういうものにさいなまれた、そういう漱石の問題意識っていうものを象徴的にあらわしているわけです。
だから、たとえば、漱石の弟子で、芥川龍之介なんていうのは、やはり、三角関係に固執した「開化の殺人」っていうような小説を書くわけですけど、それもまったくおんなじことなんです。非常に暗い三角関係なんですけど、その三角関係の追及をせざるをえなかったっていうところは、ほんとうは、つまり、思想の問題っていうものに、漱石の抱いた思想の問題っていうものに置き換えることができるわけです。

5 光太郎にとっての「自然」概念

 比較のために、たとえば、高村光太郎の場合をいいますと、高村光太郎は若干遅れて留学しているわけですけど、それはちょうど、絵画でいえば、後期印象派っていうもの、それから、文学でいえば自然主義の後期というようなもの、それが、ヨーロッパの文芸の流れの主流を占めているわけです。
そういうなかで、やはり、高村光太郎っていうのは、ほかの同時代の美術留学生、たとえば、安井曽太郎とか、梅原龍三郎とかいるわけですけども、そういう人たちと違って、ほとんどと言っていいほど、彫刻作品というものを残していないのです。いったい何をしていたかっていうのが、まったくわからないくらいなにもしていないです。ただ、書物だけは、たくさん読み込むわけです。
それで、どういう書物を読み込んだかっていうと、やっぱり、自然主義っていうもの、ヨーロッパの自然主義、それから、象徴主義っていうもの、それから、絵画上の印象派っていうものについての書物っていうのを読み漁るわけです。つまり、それがどれだけの文化的な根底っていうものを、つまり、根っこっていうものをもっているかっていうことを追及したくて、そういうものを読み漁るわけです。
それで、ある程度、それがわかるわけです。だから、たとえば、みなさんは意外と思われるかもしれないですけど、アルチュール・ランボーなんていう詩人を、最初に日本で訳したのは、高村光太郎なわけなんです。つまり、自然主義文学運動っていうもの、あるいは、自然主義文学っていうもののはらむ問題っていうのは、絵画上の象徴派、それから、詩のうえの象徴主義っていうもの、つまり、まだ、包括する概念をもっていたんです。
そこで、高村光太郎が固執したのは、自然っていう概念なんです。つまり、自然主義文学における自然っていう概念っていうものが、どれだけ変遷し、それから、どういう根底をもっているかっていう問題を徹底的に考えるわけです。
それを考えていけばいくほど、日本の、日本っていうのはいつもそうですけど、同時代の自然主義文学っていうのはあるわけですけど、それから、象徴主義の詩の運動っていうのがあるわけですけど、そういうものがいかに根の浅いもので、意味がないかっていうことが、だんだんわかってくるわけです。
だから、それは彫刻上でいえば、たとえば、ロダンなんかが自然っていう場合にも、ロダンっていうのは自然主義の影響を受けるわけですけど、ロダンの彫刻が自然っていう場合には、非常に即物的なんです。物そのものなわけなんです。物そのもので、それ以外の曖昧なるものは一切排除するっていう意味をもっているわけですけど。
それが、日本の彫刻では、そうではなくて、彫刻のなかに文学的要素と、それから、職人的要素、つまり、江戸時代から現代までの職人的な彫刻っていうものの要素と、それから、非常に文学的な要素というもの、そういうのが彫刻のなかに入ってきているわけです。
そういうものは一切、彫刻そのものの概念のなかに存在しないわけなんです。そういうことで、だいたい、ものすごく嫌になってしまうわけです。つまり、日本に帰ったって身の置きどころがない。しかし、ヨーロッパにいたって、いま読みましたように、だいたい、モデル女を前にして、スケッチなんかやっていても、だいたいモデル女の心がわからない。いったいどういうことを考えてるのかもわからないし、生い立ちがわからない。環境がわからない。それから、それをあれしている文化がわからない。そういうような、非常に孤独感に襲われるわけです。そういう意味では、日本の女性のほうが非常に通ずるわけですけど、しかし、それなら、日本のモデル女はなにかといったら、ヨーロッパのモデル女に比べれば、だいたい体が貧弱であるし、胸は薄っぺらであるし、なんかどうしようもないと、それから…(会場笑)、これは、ひとつの比喩ですけど、ようするに、日本の彫刻の美術っていうものの概念っていうものが、その程度のもので通用しているってことに我慢できないわけです。
それで、漱石は帰ってから、散文の作品に手を染める、つまり、小説に手を染めるわけですけど、はじめの小説、つまり、『草枕』とか、『坊っちゃん』とか、あるいは、『虞美人草』なんて小説は、ある程度、余裕のあるものです。しかし、だんだん余裕がなくなってくるわけです。非常にきつい仕事になってくるわけです。きつい仕事になった途端に、漱石の小説の主要テーマを占めるものは、そういう三角関係っていうことなんです。
それは、疑惑であり、それからまた、罪であるっていうような、そういう、つまり、疑惑と罪の間を行き来するっていうような、そういうことに固執していくわけです。つまり、恋愛っていいますか、男女の関係のなかで、いちばんむずかしいのは三角関係なんですけど、三角関係っていうものは、どうしても最後に追い詰めていくと、死ぬか生きるかっていいますか、相手を殺すか、殺して、自分の恋なら恋を成就するか、それじゃなければ、自分が死ぬかっていうような、だいたいそういうところに追い詰められるほど、きついものです。つまり、そういうきつさっていうのを、漱石っていうのは、作品のモチーフとして、生涯にわたって描いていくわけです。
だいたい漱石は、そういうモチーフを、だいたい終わりまで貫徹するわけですけども、最後の未完の作品である『明暗』っていう作品は、若干、色合いが違います。つまり、そういうぎりぎりに自分が追い詰めていったものをもう一回見直すっていう眼を獲得しているところがあるんです。それは、漱石が胃の病気で死にそこなったときに、やっぱり、そういう考え方を獲得するわけですけど。『明暗』っていうものを除けば、ほとんどぎりぎりに、そういう三角関係の問題っていうのを追い詰めていったっていうこと、そういうことに終始しています。
このことは、たんに三角関係っていうふうに見たならば、非常に、男女間の問題ってことに限定されてしまうわけですけど、さきほど言いましたように、この三角関係の原因の追い詰め方っていうのは、文化における三角関係っていうもの、つまり、ひとりの日本の知識人っていうものが、明治において、ヨーロッパ文化っていうものと、近代日本の文化・思想っていうものとの対比において、ぎりぎりに追い詰められざるをえなかったっていうような、そういう問題に、置き換えることができるモチーフであるわけです。だから、そういう意味で、そういう問題を、漱石は一生にわたって追求し、そして、バッタリと倒れたっていうふうにいうことができます。
で、高村光太郎っていうのは、ヨーロッパで留学したときに獲得した自然っていう概念の根強さ、それから、自然っていう概念と一致するわけですけど、彫刻上でいえば、プラスチックっていう概念があるわけですけど、つまり、プラスチックっていう概念っていうのは、彫刻的っていうことなんですけど、彫刻的ってことは、ようするに、いっさいのピラピラっていうものを、装飾品を取り除いた、非常に即物的なものじゃないのか。
つまり、非常に即物的なものに即して、もし、人間の思想っていうものが律せられるならば、それならば、つまり、そこでは、倫理的な善とか、悪とか、あるいは、退廃とか、きまじめとか、そういうことは問題にならないんじゃないか、ようするに、自然っていうことに、即物的に求めうるならば、それは、もっとも人間というものを律する倫理と呼ばれるべきじゃないかってことで、ほとんど、日本の彫刻界っていうものとは、まったく隔離したところで、自分の彫刻の仕事をはじめるわけです。
これを、たとえば、詩の作品っていうことでいって象徴させてみますと、たとえば、高村光太郎の場合には、『道程』っていう詩の中に、「道程」っていう作品で象徴させることができます。それは、どういう詩かというと、

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

っていうような詩に象徴されるわけです。ようするに、自然っていうことと、父っていう概念とはおんなじなんで、それから、自分の父親である彫刻家、その高村光雲っていうのが問題なんじゃなくて、自然っていうことが父なんだっていうこと、そういうふうに置き換えられるわけです。それが、おそらく、生涯にわたって、高村光太郎っていう詩人を律していくわけです。

6 日常性を見るふたつの眼-『明暗』を支える漱石の思想

 漱石は、散文を書いているときは、だいたい詩をあんまり書いていないんです。詩を漱石がほんとに書き始めたのは、漱石が胃の病気で吐血して、瀕死の状態に陥るわけですけど、そういうところで書かれたものは、それ以前に書かれた漱石の詩として、立派なものになっているわけですけど。その例をあげてみますと、仰臥っていうのは、仰向けに寝ているっていう、漢文ですからわかりにくいですけど、

仰臥人唖の如し
黙然として大空を見る
大空雲動かず
終日杳かに相同じ

相同じっていうのは、一日中おんなじだっていうことなんですけど。そういうのが、イギリス留学中に感じた、漱石が考えている文学っていうものの概念と、英文学っていう概念とは違うところっていうのが、そういうふうにあらわれているわけです。
ここでは、漱石が考えている漢文学っていうものは、江戸時代から明治の初期にわたる、いわば現在の言葉で純文学っていうものに該当するわけですけど。純文学っていうものの基本を律しているのは、やはり、自然なんです。その自然も、ヨーロッパ的な自然、つまり、18世紀的な自然っていうことじゃなくて、非常に教養的な、つまり、花鳥風月の自然っていうふうなもの、そういうものがどこか根底にあって、それで、文学事態が成り立つっていうふうに、漢文学っていうものは、本質的に存在するわけです。
漱石っていうのは、そういうものを、本来ならばそういうものを文学って考えていたわけなんです。しかし、一般に英文学に限らなくても、ヨーロッパ文学っていうものは、まったくそうじゃないわけなんです。そういうことは、まったく、ワーズワースが田園詩人である、あるいは、自然詩人であるっていうような、そういう意味では問題になるわけですけど、文学概念の本質においては、そういう意味の自然っていうものは、問題にあんまりならないわけです。
それから、社会思想でいっても、たとえば、漱石が留学したときの思想としては、つまり、学んできた文学概念っていうものの作品、つまり、三角関係をモチーフにしたそういう小説のなかに込めていくわけですけど、漱石が自らを救済しようとして考えてきた文学概念、つまり、漢文学概念っていうのは、漱石の漢詩の中に、詩の中にそれがあらわれてくるっていうような、そういう関係になって出てくるわけです。
それで、漱石の晩年っていいますか、死ぬ一年前に『硝子戸の中』っていう小品を書いているわけですけど、その『硝子戸の中』を見ますと、漱石が追い詰めに追い詰めていったぎりぎりの文明的な近代思想の問題ってこと、それから、自分が個人として抱いている疑惑っていうものと、罪っていうものの問題っていうのは、ある程度はっきり出てきているわけで、つまり、そこで漱石が考えたのは、人間っていうやつは、つまり、人間の生活っていうやつは、傍から見ていると、だいたい職業につき、働き、銭をとり、そして、帰ってきて、妻子を養い、それからまた明日、職業につきっていうようなことを繰り返しているうちに、年とって死んじまうと、傍から見ていると、そこでは平穏無事、波立たないようにみえるけど、しかし、いったんこいつをよーく考えてみると、そうじゃないと、人間っていうやつの、そういう傍から見て、そういうふうに平々凡々な、平和に流れているような、そういう生活といえども、ほんとうはものすごい力わざなので、そこでは、ようするに、自然っていうものは、公平であるかもしれないけど、非常に残酷な敵である。それから、社会っていうものは、いっけん、情けあるかのように見えるけど、しかし、不公平な敵であり、それから、自分の細君っていうものは、慣れ親しんでいるように見えても、じつは、考えてみれば、自分の敵であり、それから、自分自身といえども、また、自分の敵であると、いわば、敵中に囲まれて、それで、力仕事をしながら、やがて疲れて死んでしまう。そういうのが、人間の一生じゃないのかっていうような、そういうような考え方、そういうようなことを書いていますけど。
漱石がそういうところで、何を言っているかっていうと、非常に無事平穏に見える、そういう日常生活といえども、ある視点からみれば、きわめて大きな裂け目っていうものが口を開いていると、その裂け目っていうのから覗いた場合には、人間っていうのはすべて疑わしいと、自分自身も、もちろん疑わしいけども、社会といえども疑わしい。それから、細君といえども疑わしいと、家族といえども疑わしいと、それから、自然といえども疑わしいと、そういうような裂け目っていうものをもっているんだと、この裂け目から覗いた場合の、人間の生活っていうのは、じつに悲惨きわまるものだっていう考え方を、漱石はしているわけです。
しかし、この悲惨きわまる生活っていうやつも、その裂け目をふさいでしまえば、非常に無事平穏、日々同じごとく流れている平和であるというふうに存在していると、しかし、これはきわめて恐ろしいものじゃないのかっていうのが、漱石の考え方です。
だいたい、そういう考え方を漱石は、つまり、日常性ってやつをある裂け目から見ると、非常に恐ろしいと、しかし、ある遠くから見ると、それは非常に無事平穏なるものであると、そういうふたつの眼っていいますか、ふたつの別々の眼で、日常性っていうものを見ていく眼っていうのを獲得していくわけです。
そこで、漱石が、自分がぎりぎりに追い詰めていった、文芸批評としての三角関係、つまり、ヨーロッパ近代と日本の近代のはざまに位する自分っていうようなもの、そういうものと、また、人間としての、個人としての疑惑っていうもの、つまり、自分が父親からも、母親からも尊重されなかったと、子どものときから尊重されなかったと、裕福であったにもかかわらず、里子にやられたり、養子にやられたりしていると、ぜんぜんわけがわからんと、だから、自分にとって故郷なんていうもの、個人的にも、あるいは、一般的にも、故郷なんてのは自分にはないんだ。そういう疑惑っていうものにさいなまれた自分っていうものを、ふたつの眼ですっとみられるような観点っていうものを獲得しているわけです。それがおそらく、『明暗』っていう小説、未完になっているから、筋書きをいうことはできませんけど、『明暗』っていう小説を根底で支えている漱石の思想であるわけです。

7 思想的問題から身をそらさなかった漱石

 これに対して、たとえば、高村光太郎の思想を支えていた自然っていう概念はなにかといいますと、高村光太郎は漱石と違って、非常に貧乏、つまり、貧しい裏長屋に住んでいる、いまでいう仏具屋さんっていいますか、仏具彫刻っていいますか、そういう仏具屋さんを父親にもっているわけです。その父親は、のちに彫刻家として、自己完成するわけですけど、物質的には、はるかに漱石なんかと比べると、不充分なところで育っているわけですけど。
たとえば、高村光太郎の「揺籃の歌」なんていう小品っていいますか、雑文っていいますか、そういうものを見てみますと、子どものときに、母親の背中に背負われて、よく子守唄を聴かされたと、それで母親は、お父さんと、お母さんどっちがおまえは好きだっていうことを聞いたりしたと、それで、女の姉弟だけしかいなかったから、当時の家の概念からいえば、男の子がほしいというふうに家族が思っていると、そのときに男の子が生まれたと、おまえが生まれたので、家中のものから自分は感謝されたというようなことを、母親が言ったっていうことを回想していますけど。
そういうように、高村光太郎にとっては、わりあいに、家っていうのは、そんなに居心地の悪いものじゃないわけです。だから、高村光太郎にとっては、即物的な自然っていう概念をつくろうと、それを意志する場合には、だいたい居心地の悪いところに、わざと意志的に自分の身を置こうっていうような、そういうことを意味したわけです。
だから、それが漱石なんかと違うんです。漱石なんかにとっては、ヨーロッパ、つまり、英国に行っても居心地が悪いし不愉快であるし、日本にいても不愉快なんです。どこにも、自分の故郷とするところ、つまり、そういう想いっていうのがどこにもないのです。だから、漱石の苦しみ方っていうのは、ある意味で、近代のヨーロッパ人のエゴの苦しみ方と、わりあいに似ているのです。つまり、故郷っていうものがないのです。どこにも居心地のいいところなんていうのは、はじめからないのです。だから、そういう意味で、わりあいに漱石っていうものは、近代ヨーロッパ人のエゴっていうもの、そういうものが日本において悩んだ悩み方っていうものと、わりあいに似ているところがあるんです。
ところが、高村光太郎の場合には、非常に意志的に、居心地のいい場所っていうものを拒否するっていうようなことで、自然っていう即物的な概念が生涯の思想を律していくわけです。だから、こういう律し方の違いっていうものを、高村光太郎の作品っていうものと、それから、漱石の作品とを、非常に異質なものにしています。
たとえば、漱石っていう作家は、明治以後100年経っていますけど、だいたい、日本の近代思想のもっていた、あらゆる意味での問題点っていうものから、けっして身をそらさないで、だいたい、じりじりじりじりのぼりつめていって、それで、力わざをしておいて、バッタリと『明暗』の途中で倒れて死んでしまうと、そういうやりかたをした唯一の作家なんです。
つまり、それ以外の作家っていうのは、日本ではたいていあるところで、すこし身をずらすわけです。たとえば、鴎外っていうのは典型的にそうなんですけど、鴎外の留学時代のことをテーマにした「舞姫」とか、「文つかひ」とか、そういう小説っていうのは、非常にいい小説なんですけど、近代知識人っていうものの思想的な問題っていうものを、文学そのものとしてはらんでいるわけですけど、しかし、鴎外っていうのは、途中でスッと身をそらすわけなんです。
たとえば、鴎外の晩年の歴史小説っていうのがありますけど、これは若干、日本の知識人がぎりぎりに直面しなければならない問題っていうものを、スッとすこし避けたところで書かれている小説なんです。
この避け方っていうのは、大なり小なりそれをやっているんです。たとえば、荷風なんていう人は、同じように、ほぼ前後して留学して、アメリカに留学して、フランスにいってってやってるわけですけど、永井荷風なんていう作家がいますけど、初期の『アメリカ物語』とか、『フランス物語』なんていうのは、思想としても非常に問題をはらんでいるような小説なんです。しかし、荷風なんかは晩年になるほどそうですけど、もうこの世を捨てるわけです。つまり、現世を捨てるわけです。それで、たとえば、もちろん現世を捨てますから、社会的な栄誉っていうのも捨てるわけですし、浅草かどっかに住んで、浅草の踊り子とか、売春婦とか、そういうものと交わって、それで、もちろん、日本の文学的な潮流とは交わらなくて、そういうようなところへ身をひそめるっていうようなかたちで、ずーっとそれていくわけです。
つまり、大なり小なりそれていくわけですけど、漱石っていうのは、非常にそういう意味でめずらしいので、はじめこそ、非常に余裕をもって、『坊っちゃん』とか、『虞美人草』とか、『草枕』っていう小説を書いていますけど、じりじりじりじり、あとになるほど、非常にたいへんな問題っていうものを追及していって、それで、バタッと倒れちゃうわけです。
そういう作家っていうのは、日本にはいないのです。そういう意味では、漱石っていうのは、100年に一度、一世紀にひとりぐらいしか出てこない作家なんです。あらゆるそういう近代の文学だけではなく、思想的な問題っていうのも、たくさんはらんでいる作家であるわけです。
そういう漱石の身の処し方っていうのは、漱石が、つまり、ヨーロッパにいても、日本にいても、故郷っていいますか、つまり、居心地のいいところがどこにもないっていうような、それは非常に個人的な事情にもよりますし、また、思想的な事情にもよって、理由にもよって、居心地のいいところっていうのがどこにもないっていうこと、だから、もちろん、エゴっていうものに固執する以外にないんです。エゴの疑惑っていうもの、エゴのもちうる疑惑と、それから、罪っていうもの、そういうものとの間を彷徨せざるをえないっていう生涯っていうものを、だいたい貫き通したわけです。
だいたい、それが漱石の身の処し方なんですけど、高村光太郎なんかの場合は、居心地のよさっていうのは、あるわけです。そいつを意志的に拒否するっていうことを、ずっとやっていたわけです。それが、高村光太郎っていう人の詩の骨格っていうものを成し遂げているわけです。

8 思想の崩壊の仕方

 ところで、だいたい、漱石にしろ、高村光太郎にしろ、その思想っていうもの、文学っていうものの、崩壊の仕方っていうものはどういうふうに出てくるだろうかっていうことが、問題になるわけですけど。
高村光太郎の場合には、居心地のよさっていうものに帰ってっていいますか、最初にそういう兆候をあらわすものとして、ひとつ詩をあげてみますと、「堅冰いたる」っていう詩があるんですけど、堅冰というのは、堅い氷というようなものと考えてくだされば結構です。字自体は、『無門関』という禅の本からでてきているわけですけど、「堅冰いたる」っていう詩があるわけです。
これは、だいたい昭和8,9年でしょうか、10年代にかかるまでだから、もうすぐ日中戦争に入っちまう、そういう時代になるわけですけど、それから、ナチスが興隆してくるっていうような、そういう時代です。「堅冰いたる」っていう詩があるんですけど、読んでみますと、

乾の方百四十度を越えて凛冽の寒波は来る。
(乾っていうのは乾っていう方向なんです、昔の十二支でいう乾なんです。)
書は焚くべし、儒生の口は箝すべし。
(これは、ようするに、ナチスの悪書追放という事実を言っているわけです。)

つんぼのやうな万人の上に
左まんじの旗は瞬刻にひるがへる。
(左まんじっていうのは、ナチスの旗です。)

世界を二つに引裂くもの、
アラゴンの平野カタロニヤの丘に満ち、
いま朔風は山西の辺彊にまき起る。
(これは、山西っていうのは、蒋介石監禁事件っていうのがあるんですけど、それを契機にして、中共、つまり、中国共産党と中国国民党との合作抗日戦線っていうのができあがるわけです。)

自然の数字は厳として進みやまない。

漲る生きものは地上を蝕みつくした。
この球体を清浄にかへすため
ああもう一度氷河時代をよばうとするか。
昼は小春日和、夜は酷寒。
今朝も見渡すかぎり民家の屋根は霜だ。

堅冰いたる、堅冰いたる。
むしろ氷河時代よこの世を襲へ。
どういふほんとの人間の種が、
どうしてそこに生き残るかを大地は見よう。

っていう詩があるんですけど。つまり、いま流行りの言葉でいえば、抵抗の詩なんですけど、抵抗の詩だけど、同時に、どんなことでもやってこいっていう、ようするに、どういうやつがほんものであって、どういうやつがダメなのか、そういうものはちゃんと自然が決めてくれるっていうふうな意味では、いわば、戦争に入っていく過程っていうものをひとつの自然としてみるっていうような、あるいは、即物的な自然過程としてみるっていうような、そういうあれも同時に含まれているわけです。
同じように、漱石の崩壊っていうものを語る、崩壊の仕方っていいますか、様式っていいますか、そういうものを語る詩があるんですけど、

百年の功過吾知ること有らず
(功過というのは、功績と過失ですね。)
百殺百愁了期亡し
(つまり、この世でありうる諸々の事件っていうのは、おれは知らない。ようするに、知らないけれど、諸々の事件っていうのは起こる。それで、百の殺人なり、百の憂いがあると、しかも、そういうものにはかぎりがない、というようなことでしょうね。)

作意西風短髪を吹く
(つまり、これは、ヨーロッパ風の小説を…これも面倒くさいからそういうことにしましょうか、ようするに、作意西風短髪を吹くっていうのは、短い髪をした若者に、西の風が吹いていたりというようなこととしましょうか。)

無端北斗長眉に落つ
(無端は、端がないということです。つまり、長眉っていうのは年寄りです。年寄りに北斗星が落ちてきたりする。ようするに、何が起こるかわからんぞっていう、わからんし、何かが起こっているぞっていう、それからまた、だいたいおんなじことですけど。)

室中毒を仰いで真人死す
(つまり、非常に優秀な奴が、毒を仰いで死んだりする事件もまた、この世にあるということでしょうねぇ。)

門外仇を追って賊子飢ゆ
(また、恨み、遺恨をもっているやつがうろちょろして、復讐を企てたりもしているってことで、ようするに、いろんなことがあるんだってことでしょうね。)

誰か道う閑庭秋索寞と
(ようするに、暇な庭です。つまり、おれの家の悠々閑とした庭は、秋索寞としてなにごともおこらないじゃないかというふうに、誰がいうのかっていうわけです。)

忙看黄葉自ら枝を離るるを。
(つまり、忙しくみる黄葉です。黄色い葉っぱ、落ち葉です。)

っていう、つまり、誰が、おれが暇人で、家の庭には閑散たる秋の気配がして、なにごとも起こらない、ひっそりしたものだって、誰がいうのか、そこでもやっぱり、忙しそうに、枯れた木の葉が、自分自身で自分自身を次々と散らしているじゃないかと、そういうふうに考えれば、ちっとも索寞でもなければ、静かでもないと、騒がしいじゃないかっていう、そういう詩だと思うんですけどね。

9 漱石・光太郎が抱えた問題は現在も存在する

 それはいわば、究極的にいえば、漱石の『明暗』っていうもののモチーフをかたちづくっているわけです。『明暗』っていうのは、みなさん、お読みになった方はご存じだろうと思うんですけど、非常に平凡な夫婦を設定するわけです。それから、その平凡な夫婦の親戚と、それから、知り合いっていうものを設定するわけです。
そして、事件として中途で終わった、中絶されたってこともあるんですけど、事件としては、ほとんど何ほどのことも起こらないわけですけど。しかし、何ほどのことも起こらないわけですけども、平凡な夫婦の間に、時としてすごく恐ろしい断層といいますか、裂け目っていうものがスッと覗いているっていうような、そういう問題っていうのを、現在の流行り言葉でいえば、非常に実存主義的に描いているわけです。
漱石のどの小説をとってきてもそうですけど、平凡な夫婦っていうのはいないのです。非常に社会的には平凡な夫婦をとってくるわけです。あるいは、非常に高等遊民ってやつをとってくるわけですけど。つまり、金がわりあいに、親父の遺産みたいなのがあって、生活的にはあんまり苦労しないっていうような、そういう人をとってくるわけですけど、しかし、そういう人の内面っていうものは、心の中っていうのは、非常に荒れているってこと、その荒れ方っていうのは、なんで荒れるのか、ようするに、三角関係で荒れるんです。罪の意識っていうものと、疑惑っていうもの、他者に対する疑惑っていうもの、そういうもののあいだにさいなまれることによって、精神の嵐が荒れているっていうような、そういう主人公を描いているわけですけど、『明暗』では、そういう意味の嵐っていうものは、少なくとも、書かれたかぎりでは存在していないのです。つまり、中絶されたわけですから、それから後、存在するかもしれませんけど、書かれたかぎりでは存在していないのです。ただ、非常に平凡な人物の平凡な生活の範囲のなかで、それをある観点からみるならば、非常に鋭い裂け目っていうものがあるんだっていうような、そういうような問題、モチーフっていうものを、『明暗』っていう作品を、ほかの作品と別にしているところなんです。
そういう問題が、いま読みました、漱石の詩の中によく出てくるわけです。漱石の詩、つまり、漢詩なんですけど、漢詩っていうのは、だいたい死ぬ一日か二日ぐらい前まで書かれているわけです。それで、作品もかなり多いんです。だから、けっして重要でないわけではないんです。漱石という作家を考える場合には重要でないわけではないんです。
また、ある意味では、漱石の文学とは何かっていう疑問、つまり、問題意識に対して、すくなくとも半分のウェイトを占めて、漱石の詩、つまり、漢詩っていうものは書かれているわけなんです。
そういう漱石の問題、それから、高村光太郎のもっている即物的な自然概念の崩壊の問題っていうものは、現在でも、依然として、ある回答、解決っていうものを迫られている問題ではありうるわけです。つまり、現在では、たとえば、みなさんのほうで、どっかへ留学したりとか、外国へ行きたいとか、あるいは、そっちへ行って住みたいっていう場合には、非常に、ある金さえあれば、一日程度かかるかかからないくらいで、どこへでもいけるわけです。そういう意味ではどこへでもいけますし、それから、いわゆる交通が発達していますから、どことでもインターナショナルな交通っていうのはできるわけです。つまり、そういう意味では、はるかに、漱石とか、光太郎とか、そういう人たちを支配した時代にくらべて、そういうあれをもっているわけです。しかし、問題をもっと厳密に考えていきますと、ほんとうに一日かそこら、せいぜいあれば行けるんだっていう、この場所からその場所へいけるんだっていうような、人間の体がここからこっちへ運ばれる、移動できるっていうような問題に過ぎないかもしれないっていうことがいえるわけです。それで、ほんとうに思想の問題っていうものは、ほんとうに考えたならば、現在でも依然として、漱石が考え、それから、高村光太郎が考え、それで、ある意味では崩壊したっていうような、そういう課題っていうものを依然としてもっているかもしれないわけです。だから、依然として、知識っていうものは、国際性をもって、かつての時代より、まったくすぐに獲得することができますけども、周囲に、自分たちの社会問題、あるいは、自分個人の問題、そういうものに、個人の問題に目を凝らしたかたちで、それを獲得するっていうことは、依然として大変だろうなってこと、大変だっていう問題っていうのは、現在でも存在すると思います。
だから、たとえば…、大差の判定で負けるわけです。ところで、負けるのは能力の違いかっていうと、ぼくはけっしてそう考えていないのです。たとえば、サルトルなんていう人は、日本にもってきたら、もちろん、ぼくよりダメな人だっていうふうに、ぼくは思います。もし、サルトルをして、日本に生まれ育てしめたというふうに仮定したならば、ぼくよりはるかにダメな人だっていうふうに、仕事としてもダメなことしかしていない、できない人だと、ぼくは思ってます。しかし、そうじゃないおかげで助かっているわけです。そうじゃないおかげで、だから、タイトル・マッチをすれば負けるわけです。
負けるっていうことは、非常に自覚的によくわかるのです。これは、サルトルの思想っていうものが、あれはプチ・ブルの思想であるから、だからあれはダメなんだっていう意味で負けるとか、勝つとかっていうのじゃないんです。そういうことじゃなくて、根底として、根底から考えたうえで負けるわけです。
つまり、右か左かという意味で負けるわけではないのです。だから、たとえば、右か左か、あるいは、あいつはプチ・ブル的だっていうことで、サルトルを批判しおおせたとしたら、と考えたら、非常に間違えるっていうような問題っていうのは、依然として残るっていうこと、依然として存在するっていうことがあるんです。
つまり、そういう課題、文化・文学・思想っていうようなものの課題において、そういうことはおそらく個人の能力っていうものを、現在でも超える問題であるかもしれないのです。しかし、それを個人の能力を超える問題だから、それは仕方がないのだっていうふうな弁解っていうものは、依然として許されないってこと、やっぱり、そうだってしょうがないで、タイトル・マッチをやればかならず、判定で、ちゃんと十五回戦、ちゃんと打ち合って、判定で勝つというふうに、もっていくっていうような、そういう課題っていうものを、現在でも依然として、日本の知識人っていうのは、もっているかもしれないのです。
そういう問題っていうものは、たぶん、漱石が死に、それから、高村光太郎が死に、明治が死に、大正が死に、昭和が死ぬ、それでもってそういう問題が死んだかっていうと、けっしてそうではなくて、現在でも依然として、その問題は存在すると、それについて弁解はいっさい許されないと、それは基盤がなければ、基盤のないところから発して、しかし、究極的にはちゃんと判定勝ちするんだっていう、そういうようなところへ、どうしてもいかなければ、どうしようもないんだっていうような、そういう課題っていうのは、依然として現在でもひかえて、わたしたちがもっているかもしれないわけです。
その問題っていうのは、たとえば、日本の文学だけに限っていっても、日本の近代以降の文学者っていうものを、ものすごく根底で苦しめているんです。つまり、苦しめて、ある者はとんでもない方向にそれていき、ある者は途中でスッと身をずらしたところでそれを処理するっていうようなかたちでやらざるをえないっていうほど、非常に苦しめている、日本の近代文学者っていうものを苦しめてきたわけです。苦しめてきて、なかなか解決されない、それは言い換えれば、社会全体の問題であるって言ってしまえば、それまでだっていうほど、たいへん苦しめてきてるわけです。

10 〈25時間目〉を使う以外にどんな道も残されていない

 ところで、文学とか、芸術とかっていうものは、いわば個人の観念の世界に属するものですから、個人の観念の世界に属するかぎり、個人が、社会がいたらないからだっていうふうに、たとえば、社会がいたらないから、おれの作品がダメなんだっていうふうに、弁解をすることができないっていうような、そういう問題がたえずあるわけで、これは、どうしようもないんです。弁解しないでいくより仕方がないと、そういう課題のむずかしさっていうものを、やっぱり、どうしても抱え込んでいかざるをえないってことが、現在でも依然としてあるわけです。
ただ、そういう問題に対して、非常に先駆的であったっていうような詩人として、たとえば、いまの高村光太郎と漱石を比較したわけですけども、こういう問題っていうものは、依然として、昭和にいた人も、それから、戦後にいた人も、依然として抱え込まれた問題だっていうふうにいうことができます。
おそらく、みなさんが学校で何を勉強し、そして何を専攻し、それでどういうことになっていくのかっていうのは、予想がつけられないことだし、また、人間の個人についていえば、人間の生涯なんていうものは、青春時代に予想もしなかったかたちで、実現されるようにできあがっているわけですから、そういうことはまったく予想ができませんけども、いずれにせよ、本質的な問題っていうものを、もし手放さないとすれば、そういう問題っていうものは、たえず、抱え込んでいかなくちゃいけないんじゃないかっていうふうに、そういうことに当面するに違いないと思います。
だいたいそういう問題に当面しなかった人っていうのは、あんまりおもしろくないわけです。いろんな意味でおもしろくはないわけです。その人の作品とか、つくられたメモとか、そういうのを見ても、あまり、おもしろくはないのです。なんか根拠がないような気がするんです。
そうすると、これまた社会のせいにすると、まことに都合がいいんですけど、文学みたいな、個人の観念の世界でつくるものとしては、そういうふうに言うわけにいかないことを、あるからあれするわけですけど、だいたい、イデオロギーを本質的であろうとすると、どうしても、非常に危ない橋といいますか、危ないところに、危ない谷間に、追い詰められていくっていうような、そういうふうにならざるをえないところがあるんです。
だから、こういうことを、文学なら文学の創造っていう、作品の創造っていうようなことに限っていいますと、非常に本質的な問題を手放さないと、つまり、1日が24時間として、だいたい25時間目以降を使う以外にないんです。本質的であればあるほど、やっぱり、25時間目以降を使わざるをえない、つまり、24時間っていうのは、だいたいヨーロッパの文学者なんてのは、体験する必要がないというようなところで、手から口へっていうふうに、そういうことに費やさざるをえない、そうしといて、それを費やしたら一巻の終わりだっていうふうに、一巻の終わりっていいますか、およばないんだというふうにならざるをえない。
そうすると、24時間ぜんぶ奪われても、つまり、日常性っていうものが全部奪われても、しかし、25時間目っていうのは、確固として、おれの私有財産に属すると、つまり、25時間目以降はおれの私有財産に属するというようなところで、たとえば、文学の創造なんていうものをやらざるをえないっていうこと、つまり、そういうことは非常に困難なんですけど、困難でかつ非常に無駄なことなんで、おそらく、ヨーロッパの文学者ならば、そんなことは、しないでも済むようなことに違いないですけど、しかし、必然的にそういうことを強いられると、そうすると、25時間目以降っていうものによって、文学なら文学の創造っていうものをやっていかざるをえないっていうような、そういうことに当面していくわけです。
結局、それについて、泣き言をいうことがだいたい許されない。つまり、泣き言をいったってしょうがないんだっていうような、そういう問題に当面するわけで、そこらへんのところをよく耐えうるかどうかっていうような問題が、たえずつきまとっていくわけです。だから、ぼくは、みなさんの私生活とか、行動とか、そういうことをまったく知らないですし、また、関与することができないわけですけど、いずれにせよ、事を個人の創造っていうような問題に限って、つまり、そういうものに限って、限定していま言ってみれば、だいたい25時間目以降を使う以外に、どんな道も残されていないっていうような、そういう谷間っていいますか、谷間を歩む以外にしょうがないんだっていうような、そういう問題に、やっぱり、当面していくだろうなっていうふうに思うんですけど、つまり、24時間のうち、12時間働いて、12時間遊ぼう、そういうことについては、ぼくはまったく知らないわけです。しかし、いずれにせよ、問題は25時間目以降の問題であるというような問題に、やっぱり、どうしても当面せざるをえないっていうような、そういう課題をもっていると思うんです。

11 文学芸術の本質を貫いた漱石と光太郎

 みなさん、だいたい秀才でしょうから、案外、23時間ぐらいで済むかもしれないですけど、しかし、事を文学なら文学、あるいは、芸術なら芸術っていうものの創造っていうことに限定していいますと、限っていいますと、そういう問題についていいますと、そういう問題の非常に本質的な部分っていうのは何によって占められるのかっていうと、つまり、手仕事によって占められるのです。つまり、手仕事をやるかやらないかってことで決まるわけなんです。
手仕事っていうのは何かっていいますと、ようするに、文学の場合なら文学の場合、つまり、たとえば、毎日のように、机の前に原稿用紙をおいて、万年筆か、ペンか、それを持って、机の前に座って、そして、さて何かやろうと、たとえ、書くことが何もないじゃないかと、書くこともないと、それから、何もないじゃないかと、それから、だいたい書く気分がのらないと、そういうような、たとえ、そうであろうと、やっぱり、原稿用紙を前に、ペンをとって、そこに座って、それで、さてってことでやろうってこと、つまり、もう書きたくなかろうと、なんであろうと、嫌であろうと、書くことが何もなかろうと、頭の中がからっぽであろうと、なおかつ、やるっていうこと、そういうことをやるか、やらないかってこと、そういうことを、たとえば、持続できるか、できないかってことは、一般の芸術、つまり、文学の創造っていうものの中心を決定していくわけなんです。
それ以外のものだったらあるいは、それを必要としないかもしれないけど、それは、文学芸術っていうものに関する限りでいえば、かならず、それなくしてはダメなんです。つまり、われわれが、たとえば、アマチュアってやつと、プロってやつを区別する唯一のメルクマールっていうのは何かっていうと、それをやれるか、やれないかってことにかぎるわけです。
つまり、書きたいときだけ書くんだってやつは、だいたいアマチュアなわけです。しかし、そうじゃないんです、プロっていうのは何かっていうと、書きたくなくたって、やっぱり書くんだっていうこと、嫌だって書くんだ。しかも、それは、25時間目で書くのであって、25時間目以降で書くんだ。それをどうしたってやるんだ。それをやるか、やらないかってことは、プロっていうものと、アマチュアっていうものを区別する唯一の区別点なんです。
けっして、書いたものを売って、金が手に入るか、入らないかってことは、アマチュアとプロを区別するあれにならないわけなんです。アマチュアでも食ってるやつもいますし、プロでも食ってないやつもいますし、そういうことは、ぜんぜん関係ないんです。
そういうことは関係ないんだけど、とにかく、嫌だってやれるか、嫌だって、習慣によってやれるか、つまり、サラリーマンが会社に行き、そして、机に何時間もかじって、1日8時間も座って、帰ってきて、また翌朝、だいたい同じような仕事をやって、また帰ってきて出かける。そういうことを習慣のようにやって、だいたい年とって、くたばるわけですけど、そういうことをやっているのとおんなじ意味で、それをやれるかどうかっていうことは、アマチュアっていうやつと、それから、プロっていうものとを、つまり、アマチュアの文学者、詩人っていうものと、プロの文学者、詩人っていうものを区別する、唯一の点なんです。
つまり、そういうことが何を意味するかっていうと、それをやらなければ、だいたい、文学・芸術なんていうもの、つまり、一般的にいえば、人間の観念がつくるものなんですけど、観念のつくるものは、よく、具体的な現実っていうものを、よく拮抗することを、耐えることができないわけなんです。
それを拮抗することができない。それに拮抗できるってことが、それを拮抗するためには、どうしても、それが全部の条件じゃないとして、最小条件として、どうしても、そういうことに耐えなければならないわけです。そういうものに耐えた上で、文学・芸術における、たとえば、思想の問題、あるいは、個性とか、資質の問題っていうものが、はじめて、あらわれてくるわけです。
それで、はじめて、そういう意味で、創造の問題っていうものが、本格的にあらわれてくるわけですけど、その前提となるものが、たとえば、サラリーマンが十年一日のごとく職場に行き、働き、それでくたばるってこととおんなじことを、だいたいできるかどうかってこと、それを同じように、嫌だって、嫌じゃなくたって、それをできるかどうかってこと、嫌な日でも、食うために働かなければならないのとおんなじように、それができるかどうかってこと、それに耐えられなければ、文学・芸術が、一般に、現実そのものに耐えられるはずがないのです。
つまり、文学なんていうのは、架空の事業であると、つまり、二葉亭的にいえば、男子一生の事業とするに足らずっていうふうな、そういうふうなもの以外のなにものでもないわけです。
ただ、だけどしかし、文学・芸術っていうものが、なにかでありうるとすれば、その前提は、あきらかに、そういう手仕事っていうのを耐えられるかどうか、嫌だろうが、嫌いであろうが、くたびれていようが、どうであろうが、病気だろうがなんであろうが、そういうことに耐えられるか、そういう手仕事に耐えられるかどうか、耐えて持続できるかどうか、つまり、そういうことが、少なくとも最小条件として、文学・芸術が、現実そのものの、非常に具体的かつ有効的にみえる、有効性があるかのごとくみえる、そういうものに拮抗しうる唯一の基盤であるわけです。
それを耐え得た上ではじめて、所定の時間、耐え得た上で、はじめて、文学・芸術っていうものにおける思想の問題、それから、創造の本質の問題、それから、資質の問題、個性の問題、そういう問題が、はじめて、あらわれてくるわけです。
そういうものを、たしかに、そういうことをしたっていうふうに、ぼくらが、明治以降の近代文学、芸術のなかで、そういうことをしたっていうふうに、確言っていいますか、言い得るなっていえる人は、わずかに、作家としての漱石、それから、自然彫刻家としての高村光太郎、そういうような人だけです。
つまり、ほかの人は、大なり小なり、それに耐えられなかったっていうふうに言うことができます。それほど、むつかしいことであると言うことができるわけです。つまり、たいていの人は、10年、それをやったっていうふうに過ぎないってこと、つまり、なにも思想もへったくれもないと、ようするに、10年やっただけじゃないかと、それは、たとえば、靴屋さんが10年、靴づくりに専念したら、自分が靴屋さんになったっていうのとおんなじじゃないかっていうような、だいたいそういう意味合いしかもっていないわけです。
それ以上の意味合い、それからはじまる文学・芸術の本質的な意味合い、思想性、資質っていう、そういう問題にぶつかって、それをすすめていたっていうような、そういう作家、芸術家、あるいは、詩人なんていうものは、ほんとに、わずかに、数人に過ぎないっていうほど、それは困難な問題だっていうことができます。
ぼくは知らないわけですけど、みなさんが何を専攻されているか知らないわけですけど、べつに、文学者、芸術家になる必要もなにもないわけですけども、何になろうと、学者になろうと、実業家になろうと、そういうことは、どうでもいいわけですけど、もし、なかに文学・芸術を志すような人がいるならば、ようするに、そういうこと、手仕事っていうものが、手仕事を持続しうるか、否かってことが、少なくとも、文学・芸術の創造における最小条件であるってこと、そういうことをぼくは断言することができると思います。
それから、思想の問題、創造の本質的な問題っていうのがはじまっていきますが、すでにそういうことがはじまったっていうときには、日本の作家、芸術家は、だいたい横すべりしているっていうような、それが、だいたい、日本の芸術家、それから、文学者っていうものを訪れる運命っていうか、宿命であるっていうようなこと、そういうことを申し上げられれば、ぼくのお話は終えてもいいわけです。
しかし、もうちょっと蛇足で付け加えれば、ぼくは、まだ横すべりしていませんから、勝負はまだ、これから決着をつけますから、つけるつもりですから、ぼくは除外しておいていいですけど(会場笑)、ほかの人はそうだって思われたほうがいいんじゃないのでしょうか、これで。(会場拍手)

12 質疑応答1

(質問者)
〈前半音声聞き取れず〉漱石は自己本位ということで、それは、彼が、日本の文化と西洋の文化を、生涯にかけて追及したことと関係があるのでしょうか。

(吉本さん)
 関係があるでしょうけど、漱石の自己本位とか、個人主義っていうような、そういう問題っていうのは、漱石が、ようするに、どこに行っても、自分が偽物だというふうにしか感じられなかったことに由来すると思いますけど、つまり、英国に行っても、あるいは、英文学を対象として追及していっても、おそらく、日本でいえば、第一級の英文学者であったでしょうけど、それを追及しても、やっぱり自分は偽物の英国人っていいますか、つまり、どう考えたって、どうやったって、英国人が英文学を研究する以上にいけるわけがないんだっていうような、そういうことは、はじめから決まっているんだっていうような、意識しかもちえなかったっていうこと、それならば、それじゃあ、日本へ帰ってきてやったらば、それは、安心するとか、一流の英文学者、一流の作家っていうことで、世間がそういうふうに思ってくれるわけでしょうけれど、漱石は、そういう安心することに耐えることができなかったってこと、つまり、安心をすることができなかったっていうことがあるでしょ。
だから、そこでもやっぱり、おれは偽物じゃないかっていう、つまり、おれは偽物の日本人であり、偽物の作家じゃないのかっていうような、つまり、そういう、さきほどからいう言葉でいえば、どこへ行ったって、偽物だって、つまり、虚偽の意識、どこにいったって居心地がよくない、つまり、故郷っていいますか、居心地のいいところがなかった。見出すことができなかったっていうこと、そういうことが、漱石の個人本位とか、個人主義っていうものを規定しているんじゃないでしょうかね。ぼくはそういうことだと思いますけどね。

13 質疑応答2

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 ぼくは自分が思想的な問題に、現に直面して、現に手出ししようとしているような観点からいうと、伝統と近代化とか、現代化とかっていう問題っていうのは、あんまり意識にのぼってこないんですけどね。そういうことは、究極においては、やっぱり自分がやることだと、そうでなければ、そういうことはどんな解答もあたえられないっていうことですから、そういういふうにしか、こちらからは言えませんから、そういうふうに思ってるだけなんですけどね。だから、一般論として、伝統と近代化とか、現代化っていう問題については、あまり、ぼくは関心がないんです。
ただ、自分が押し進めていく問題として、そういうものは確信にあるわけだけど、それは、その場合の考え方、ようするに、創造者の考え方で、自分がそういう問題に耐えられなければ、それは誰に依存することもできないんだっていうふうに考えているだけですけどね。
それから、中国の、あなたの主張する近代っていうものを飛び越えて、現代化しているような、そういう経路っていうふうに、あなたが言われた経路も、それは、ぼくはそういうふうに考えていないんですけどね。現在の中国で起こりつつあることを、正確に、ぼくは、把握することは、少なくとも、日本に入ってくる新聞その他の解釈とか、情報とか、そういうものによっては、断定的な判断ができないんですけど、中国の現代の文化革命っていうものに対する、ぼくの考え方っていうものは、ようするに、あれは、基本的には、政治権力内部の一種の交代劇といいますか、それが交代する、政治的軋轢、闘争の過程いうふうに評価しているだけですけどね。
だから、すこしも、それが○○体制の問題だっていう考え方にも組しませんし、それから、近代を飛び越えて、前近代である現代的へっていうふうにいく過程であるっていうようにも評価しませんし、つまり、ああいうもの、文化革命、その場合、文化っていう言葉は広義に使われているわけですけど、文化革命なんていうものはどういうことかっていいますと、つまり、国家として、現在、存在している、世界のどこでもそうなんですけど、国家として存在している人間の観念の共同性ですね、あるいは、観念の共同体、あるいは、共同の幻想なんですけど、そういうものの廃絶なしには、いかなる意味でも、階級なき社会っていうものが実現されないってことが先見的なわけです。
だから、もちろん、中国の文化革命が、階級廃絶運動であるってことは、もともと先見的にありえないんです。それで、中国の国家っていうものが消滅するためには、だいたいにおいて、中国よりも非常に大きな、俗な言葉でいえば、先進的な国なんですけど、先進的な資本主義国なんですけど、そこでの国家の廃絶運動っていいますか、廃絶っていうものがなされないかぎりは、だいたいなされないわけなんです。
中国なら中国国家っていうものの内部で、階級廃絶っていうようなことをやろうとしても、それは先見的に不可能なわけなんです。だから、そういう意味合いをもたないわけです。中国の文化革命っていうのは、だから、ぼくはその程度のものとして理解していますけど。

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 そういうことをべつに意識していないんですけどね。つまり、客観的に他人が見てどうだっていうふうに評価するかしないかってことは、また別なんですけど、それぞれの立場っていうのは、そういうことを意識はしていないんですけどね。自分は、こういう奴隷的な立場によるとか、あるいは、西欧的な立場によるとか、そういうふうな意識は全然していないんですけどね。だから、それが他人から見てどうかっていうのは、また別なことなんですけど、そういうことは、べつに意識しませんけどね。

14 質疑応答3

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 それは、おっしゃるとおりでしょう。つまり、あなたのおっしゃることは、たとえば、漱石なら漱石っていうものを、自体の内部っていいますか、個人についていえば、まったくそのとおりだと思うんですね。
個人の創造ってことでいえば、おれは西洋人だとか、おれは東洋人だっていうことを意識にいれて、創造をやっているわけでもなんでもないわけですけど、それが出された、仕事の結果が出された、創造の結果が出された、そういうものを理解する場合、どういうものが、どういう要素で、どのくらいどういうふうになっているかっていうような、そういう一種の解釈というんですかね、そういうものが、はじめて成り立つっていうような、創造っていうことの内部では、べつにそういうことは意識されないわけです。
ただ、解釈っていうような場合に、そういうふうな問題が出てくるっていうような、それから、漱石の文学論のなかにもありますけど、自分でそういう解釈をしていますね、漢文学と英文学の文学っていう概念の相違っていうようなことを、自分自身で言っていますけど、自分がなんかつくるっていうような場合でも、つくるっていうような立場でいえば、そういうことはどうでもいいわけなんです。漱石はそう考えたっていうようなことでよろしいと思いますけどね。

15 質疑応答4

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 そういう考え方っていうのも成り立ちますし、そういう、ある面でいうとそうなんですけど、高村光太郎っていう人は彫刻家ですから、本来的に、彫刻作品っていうのを抜きにすると、うんと違ってきます。
詩人っていうふうにいわれている高村光太郎っていうのは、余技とか、趣味っていう段階にはないわけですけどね。ないわけだけれども、ないほど、レベルも高いものですけど、あの人は本来的に彫刻家ですから、それは、彫刻家としての高村光太郎っていうことを勘定に入れないと、違うんじゃないですかね。それを、彫刻家としての高村光太郎っていうやつは、やっぱり、近代日本の彫刻家で、ちょっと桁外れの仕事をしてるんですけどね。だから、そこを言わないと、なんともいえないところがあるんじゃないですかね。

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 問題を逸らしたっていうふうにも言えるかもしれませんし、逸らさなかったのかなといえるかもしれません。つまり、そういう意味では、漱石もそうですけど、何にひっかかったかっていうと、詩人としての漱石、それから、詩人としての高村光太郎っていうのは、何に最後にひっかかったかっていうと、天皇制、あるいは、天皇ですね、天皇制っていうものにひっかかったんです、両方とも。
漱石も天皇制にひっかかった漢詩を残していますけどね。そういう意味でいうと、ひっかかったっていうふうに、両方ともいえるのかもしれませんね。つまり、なんか非常に面倒なわけです。近代の天皇制ってやつは、面倒なものですから、それはひっかかっていると思いますよ、両方とも。だから、そういう意味では、あなたのおっしゃるように、逸れているのか、ぶっ倒れてしまったのか、つまり、肉体的にじゃなくて、心的にぶっ倒れてしまったのかっていうようなことの、また、問題になるんじゃないですか。

16 質疑応答5

(質問者)
〈音声聞き取れず〉…


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