ただいまご紹介にあずかりました吉本です。
最近、進歩・保守両極の側で、非常に復古的な風潮が盛んになっています。
たとえばこのあいだの佐藤の南ベトナム訪問阻止ということでも全学連の学生の1人が殺されました。この場合のマスコミの報道のしかたを見てみますと、一種の暴徒として葬るというのが特徴だと思います。一方、ベ平連なんてものの声明を読んでみますと、これは明らかに行き過ぎであるけれども、これに対する報道というのもまた非常にねじ曲げたものであるという、いわゆる喧嘩両成敗的な声明と読み取ることができます。そして、こういう風潮というものはまさに全学連そのものを占めているわけです。
そこでは何が論議の対象になっているかというと、殺された学生諸君は、味方に殺されたか、敵に殺されたかということに論議が集中していく傾向性が見られるわけです。
しかしながら政治闘争というものは――戦争というものも同じですが――そんなに単純なものではないわけです。要するに闘争というものの過程というのは、味方に殺されることもありますし、また流れ弾に当たって死ぬこともありますし、また敵に殺されることもあります。つまりそういうものが闘争というものの実体だと思います。だからこれが味方に殺されたか敵に殺されたかということは、僕に言わせればきわめてつまらないことなわけです。誰に殺されようと、流れ弾に当たろうと、後ろから味方に撃たれようと、それは敵に殺されたわけです。
問題はそういうことであって、誰に殺されたかを実証的にきわめようじゃないかといって、極めた場合に白黒がはっきりする。そういうふうな風潮というのが一般的に見られるわけです。しかし政治闘争なんてものはそんなものじゃないんです。味方に殺されたってそれは敵に殺されたことになる。それは殺され方というものの問われ方も、さまざまな対応があるということです。つまり、味方から誤って撃たれることもある、故意に撃たれることもある、そういうふうな渦巻きのなかに、ひとつの政治闘争をする者の渦巻きの本質というものがあると思います。そういうところでは、実証的に轢き殺されたのかいないのかというところに論議が滑り降りていくこと自体が極めてナンセンスであるというふうに思われます。一般的に言ってそういうようなものが復古的な風潮というものの本質を占めていると思います。
断っておきますけれども、私はベトナム反戦運動というもののなかに、今日の情況の本質があると少しも考えておりません。
我々の情況というものは、我々の国家権力のもとにおける平和であるのか、それとも緩慢なる死であるのか、それに対してどういうふうに対処していいのかわからない――しかし日常生活は相も変わらず続いている。そういうなかにこそ、我々の現在の情況があると考えています。そして現在の情況がある、ということは、現在の世界の情況がそこにあると僕は考えています。
つまり、我々の日常生活というもののなかにも、裂け目を見つける眼を探さなければならないということです。我々は平和で、そしてベトナムには戦争がある、そういうふうな認識というのは極めて現象的なものに過ぎない。というのは、我々の緩慢なる、平和なる日常生活そのもののなかにも死があり、戦死があり、味方に殺されることがあり、そしてまたうなり声もあげずに死んでいく、つまり年老い、疲れ死んでゆくという情況というのがある。一見、客観的に見ますと平穏に見える生活のなか自体にも極めて鋭い亀裂というものがある。その亀裂を眺め持つというような眼というものを養うこと、そういう眼を持つということの上に情況を発見する何か本質的な鍵が含まれていると思います。
たとえば、夏目漱石が晩年の「硝子戸の中」という作品のなかにこういうことを書いています――自分は、回向院で相撲をとるのを見ていた。お相撲が四つに組んだまま少しも動かない。端から見るとまったく静止しているように見える。しかし実は静止しているのではなくて、全勢力をその一時に傾上しているということがすぐわかる。それは次第に腹が波打ち汗が流れ出るというようなことから、すぐ了解できる。しかしこれを端から眺めるとただ静止しているように見える。しかしながらこの勝負は1分も経たないうちに決せられる。すなわちどちらかが敗れるということで相撲の勝負はつくのです。
しかし人間というものはそんなものじゃない。1分間ではなく、その生涯にわたって力業をやっていかなければならない。つまり日常生活というものを自立自営の観点から見るならば、自然というものは冷酷であるけれども、公正な敵です。それから社会というものは、一見情けありげであり、情緒ありげであるけども、実は極めて不公正な敵である。そして自分の身近な細君もまた敵である。そしてまた自分もある場合には敵である。そして人間というものはそういう力業を一生涯にわたって続けながら、やがて疲れて死んでしまう。そういうふうなものが人間ではないか。人間とはそういう意味で非常に悲惨なものじゃないのか、という感想を漱石は漏らしています。
ここで漱石が漏らしている言葉というものは、まさに日常生活に埋没しているように見える大衆というものが、まさに現実的に行い、そして老いて死んでゆくという過程を象徴しているわけです。この過程というのはまさに平凡きわまるものですけれども、それはまさに鋭い亀裂というものを含んでいて、その亀裂をいったん発見する眼差し持つならば、すべては敵であるという、そういう力業を生涯にわたって続けていくというのが、いわばごく平凡な大衆というものの生き方、そして死に方というものではないのか。それはやはり非常にある意味で悲惨きわまるものであるという感想なわけです。けれども、そういう一見して無事平穏で何ら変化もない、そしてまさに平和であるというような生活のなかに、実は非常に鋭い亀裂があり、危機があり、そしてそれを発見する眼差し、視点というものを必要とする課題というものは、明らかに現在でも存在するわけです。そして、まさにそういうことが、現在おそらく大衆にとっても最も必要な、最も問題となりうる思想性というようなものと言うことができます。
これに対して、知識人というものは、どういう問題に直面しているかということと考えてみますと、もちろん、みなさんもまた知識人であるということを前提にして申し上げるのですが、知識人もまた、知識というものは普遍的なものであり、世界共通性として通用するものであるというような、いわば一見すると平和であり、楽天的であるというひとつの見解があるわけです。しかしそういう見解に、またひとつの亀裂を見つけ出すということ、つまりそういう見解がひとつの亀裂であるということ、その亀裂をいったん知識人が発見していきますと、やはり知識人の世界普遍性というものにはある亀裂があるんだということ、そういうことを発見する眼差しというものはまた、必要となってくると思います。そういう課題というものは、たとえば現在知識人が強いられているひとつの課題であると言うことができると思います。
それでは、そういう眼差しというのは現在何を発見するのか。どういうことを発見して、どういうふうにそれを展開することが必要なのかというような問題が出てくると思います。その問題は、私の考えでは、第一に、国家というものについての考え方なんです。つまり、レーニンが「革命の問題は国家の問題である」と言っていますけれど、国家というのは何かということを考えていく、そういうような問題というのが、知識人が知識普遍性というものに対して、ひとつの鋭い亀裂を発見していく、現在の重要な課題であると考えています。
んで、国家の問題について、国家というのをどういうふうに解釈するかということによって、個々の知識人あるいは知識人集団である前衛的な集団の立脚点が決せられていると考えてもいいと思います。で、そういうふうな知識普遍性に対する亀裂を発見するという観点から申しますと、たとえば現在マルクス主義者と自分で考えている人たちのマルクス主義というのは、実はロシア的マルクス主義であると言うことができます。そうしますと、ロシア的マルクス主義というものが展開してきた国家論というものは、哲学的には弁証法的唯物論というものと史的唯物論を基礎に置くわけですけれども、ロシア・マルクス主義には現在まったく疑わざるをえないひとつの亀裂がある、と思います。そういう情況というものが世界情況として存在すると思います。従って、国家というものをどういうふうに考えるかによって、だいたい現在の思想的立脚点というものが決まっていくと言っても過言でないと考えます。
私はこの問題を私なりに追求していったわけですけれども、結論から先に言いますと、国家というものは幻想である。共同的な幻想である。それ以外の何ものでもない、ということなわけです。現在世界に存在するあらゆる国家についてそれは言えることです。それは国家についての唯一の本質的な規定であるというふうに考えます。
そして、国家論についてどういうような問題意識がロシア・マルクス主義によって提起されてきたかといいますと、それはエンゲルスの「家族私有財産及び国家の起源」という著書が、ロシア・マルクス主義の国家論のひとつの原点になっているわけです。この原点は、レーニンの「国家と革命」にも多く依存しているわけです。また、日本のマルクス主義者が現在さまざまな立場からその修正とか復権を試みているわけですが、そういうものをさかのぼってみますと、エンゲルスの原典、つまりエンゲルスの国家論に行き当たります。
そこで、エンゲルスの国家論というものが問題となってくるわけです。エンゲルスの『家族私有財産及び国家の起源』における国家論というもののなかにどういう欠陥があるのか、したがって日本のロシア・マルクス主義者がそれをどう模倣することによって欠陥を生み出しているかというような問題を考えて、お話ししていきたいと思います。
エンゲルスが指摘するまでもなく、国家というものの起源は、個々の人間の集団からは求められることができません。国家というものの起源を求める場合は、家族というものを媒介として考えるほかはありません。家族とは何かと申しますと、エンゲルス的な規定では、男性あるいは女性としての人間というものの性的な自然関係にもとづくひとつの共同性、そういうものがエンゲルスによって考えられた家族というものです。エンゲルスがその場合、どういう範疇で家族というものを考えたかといいますと、最初の分業というもの――したがって最初の階級分化――は、子どもを生むということにおける男女の分業にはじまるということを言っています。つまり、エンゲルスによれば、「男女の分業による人間自体の生産」は。〈経済的範疇〉に属するわけです。
ところで、私どもの考えでは、〈経済的範疇〉というものは必ず〈幻想的な範疇〉を生み出していきます。〈経済的範疇〉というものを拡大して、〈自然的範疇〉といってもいいわけです。個人の場合でもそうです。〈自然的範疇〉としても、人間というものが外部の自然に関わる関わり方は、必ず〈幻想性〉、みなさんの慣れ親しんでいる言葉でいえば観念性というものを必ず発生させるわけです。エンゲルスが家族というものを〈経済的な範疇〉で考え、〈経済的範疇〉自体は必ず人間の〈観念的範疇〉というものを「自己疎外」する――観念的範疇を必ず発生させる――という観点を欠いていた、ということが第一の問題になってくるわけです。それはエンゲルスの家族論というものの欠陥につながっていきます。
エンゲルスの家族論における欠陥の要点を申しあげます。エンゲルスは、家族的な範疇というものが、部族的な社会の共同性にまで拡大していく契機として何を考えたかと言いますと、いわば「原始集団婚」のような段階を考えました。「原始集団婚」というのは、集団内部におけるすべての男性は、すべての女性と性的な自然行為を営むことができるし、また営んだ段階が存在したという考え方をしたということです。そうしますと家族の範疇がそのまま部落第に拡大できるわけです。逆に言いますと、家族というものを共同体にまで拡大するためには、集団婚というものをエンゲルスは考えざるをえなかったのです。
それ以外では、性的行為というものを、性的な自然行為と考える限りは、性的行為の関係そのものが部落大、最初の共同性にまで拡大する契機というものがちょっと考えにくい、考えられないわけです。部落中のすべての男性がすべての女性と関係を結ぶという段階を考えれば、家族すなわち部落大である、ということができるわけです。エンゲルスはそういう段階を考えたわけです。
しかし、第一の欠陥は、なぜエンゲルスはそういうふうに原始集団を考えざるを得なかったかということです。つまり、エンゲルスは、性的範疇――性的自然行為――における範疇を〈経済的な範疇〉において考えたというところに、第一の問題があるわけです。つまり「性的な自然行為は必ず幻想性を疎外する」――僕の言い方でいえば対となった幻想を必ず疎外するもの、つまり自己疎外するもの、観念として自己疎外する――という観点を導入しますと、エンゲルスの考え方というのが単に実証的に否定されるわけではなく、理論的に否定されていくわけです。
そうすると、もし家族の形態が、国家というものの原始的な形態である共同性にまで拡大する唯一の契機があるとすれば、それは同じ母親から出た兄弟と姉妹との関係だけが、部落大に拡大することができるわけです。兄弟と姉妹との間には性的な自然行為というものは伴いませんから緩い関係ーーつまり緩い対幻想――ですけれど、そういうものをかなり永続的に保持することができるわけです。
ひとつの家族集団におけるその一系列を考えますと、兄弟というものはその家族集団からまったく除外されていくわけですけど、除外されて自分自身は他の部落からの女性と婚姻し、まったく系列を異にし空間的に地域的に分散しうるわけですけども、しかしそれが同じ母親から出たという意味において共同性というものを持ちうるわけです。ここに、氏族制という段階へ転化する唯一の契機が求められるわけです。
だから、エンゲルスの言うように原始集団婚というものを想定するということは実証的に誤りであるだけでなく、理論的に誤っているわけです。なぜ理論的に誤るかというと、エンゲルスが男女の自然的な性行為を基にする関係、つまり家族の本質というものを〈経済的範疇〉でのみ考えたということに基本的な欠陥があらわれるわけです。それだから、集団婚というものを想定することによって、家族以外がすなわち部族全体であるという段階に拡大しうる、と考えていったわけです。
エンゲルスのもうひとつの欠陥というものは、「母系制」というもにに対する考え方にあらわれています。母系制社会というものは農耕社会に非常に多い形態です。「母系制」ということは、兄弟姉妹のうち女系が家族の根幹をなして、兄弟はそれから離れていくという形態です。
エンゲルスは、この「母系制」の基礎として何を考えたのでしょうか。原始集団婚、あるいはそれに近い婚姻形態を考えるとします。すると、たとえばひとりの女性がいて、彼女が仮に部落中の全男性と性的自然関係を結ぶことができると考えたとします。そうすると彼女にとって自分が産んだ子どもは自分の子どもであるということは明らかにですが、父親が誰であるかということはまったくわからない、ということになります。よって、家族系列の発展ということを、女性(母系)を基盤にして考える以外にない、というのがエンゲルスの考え方です。
しかしこの考え方も極めて曖昧であることがすぐわかります。それは僕の考えでは、ひとりの女性が毎日違った男性と性的な自然関係を結び、あるとき妊娠し、子どもを生んだという極端な場合を仮定しても、その父親が誰であるかということは母親にとってまったく明瞭なことだと思われます。それは顔つきとか、いろんなことから確認されるし、また女性自身のなかでも確認されるわけです。
自分の産んだ子どもの父親が誰であるか知り得ないなんてことは、法的な認知の問題をのぞく限りは、必ず知り得るはずです。母親が知っているということは、部落中が知っていることを意味する。なぜなら、いまのような高密な人口密度で部落が存在していたわけではありませんから、俗な言葉でいえば「噂は千里を走る」というやつで、必ず部落中に父親が誰かということがわかると思います。
このように、母系制成立の基盤の根拠としてエンゲルスが考えたことも極めて曖昧であることがわかります。そういうことが、エンゲルスの「母系制」というものに対する考え方のひとつの欠陥というふうに考えることができます。そのことはエンゲルスが原始集団婚を想定したことにつながっていくわけです。
そしてもうひとつ、エンゲルスが考えたことで基本的な間違いというものは何かといいますと、エンゲルスはこういうことを言っています。なぜ人類のみが原始的な集団婚というものを動物とは違った永続的なかたちで持続しえたかというと、それは人間、ことに男性というものの嫉妬からの解放、または相互寛容ということが第一要素であるというふうにエンゲルは規定しています。
しかしこの考え方が、まったくさかさまであるということは、これまた非常に明瞭なことだと思います。たとえば、非常に多くの女性と性的関係を結んだ人の方が、女性と性的関係を結んだことのない人よりも嫉妬感情は少ないだろうという逆のことはいえても、性的感情、嫉妬感情からの解放あるいは相互寛容というものが原始集団婚をかなり永続的に成立せしめた根拠であるというようなエンゲルスの言い方というものは、いわば「観念が現実を決定する」みたいなまったくさかさまな考え方である、ということが了解されると思います。そういう意味でもエンゲルスが原始集団婚を成立せしめる第一要素として考えた、人類の、ことに男性の嫉妬からの解放というようなものが原動力になったという考え方が極めて曖昧で、おそらく間違いであることが考えられていくわけです。
そうしますと、たとえば氏族制あるいは前氏族制段階ということが考えられていくわけです。
氏族制あるいは前氏族制という段階は、国家ではないわけですけれども、国家の原初的な形態であることは確かです。つまり、国家というものの起源を考えていく場合、どうしても家族というものと国家というものの関係からはじめる以外にないし、また国家というものは個々の人間というものから成立しているのではなく、家族という媒介を通じてはじめて成立していくわけです。そこで、家族の考察というものが、エンゲルスにおいて非常に重大な比重を占めるわけです。
そこで、「家族というものが如何にして氏族制あるいは前氏族制に転化する」という問題においてエンゲルスが立てた問題意識は、ことごとくといっていいほど間違いであるということが言えます。
〈経済的諸範疇〉――つまり人間の意識にやってくる全自然的な範疇――というものは、必ず〈幻想性〉――あるいは観念性――というものを必ず伴うから、家族は必ず〈対幻想〉を伴うものです。そして、〈国家の経済的範疇、経済、社会性〉というものは、必ず〈共同幻想としての国家〉を必ずそこに生み出すものだということ、そういう問題意識というものがエンゲルスに存在しなかったことが、その間違いの根底にあります。このことが、おそらく根本的な欠陥につながっていくと考えられるのです。
このことと関連して、エンゲルスがもうひとつ考えた間違えであると考えられる点があります。
国家というものは、家族形態との関係において発展していくものですけれども、先ほども言いましたように、氏族制度というところまでは、ひとつの単系家族を考えた場合に、兄弟姉妹というものの関係の分散、空間的な拡大化というものが氏族制また前氏族制を成立させた、と考えることができます。
そういう段階から、次に氏族制のうえにある部族制あるいは氏族制統一社会すなわち国家というものに段階的に転化したというような考え方がエンゲルスにあるわけです。この考え方ははじめにモルガンにあって、それからエンゲルスにあります。ことを〈経済的範疇〉に限定していく限り、氏族制あるいは前氏族的段階から国家のまったく初源形態である部族制社会というようなものに段階的に転化していくという考え方が、極めて無造作に成立しているのです。
しかし、その無造作な成立のしかたはおそらくありえないわけです。家族形態がどのように発展しても、それは究極のところにおいて氏族制という段階――古代史の学者流に言えば血縁社会――においておそらく壁に突き当たります。それ以上血縁集団自体が拡大していくことはありえません。
それから、単なる血縁集団というものは、統一社会というものを構成することがありません。統一社会を構成するためには、何らか別の契機が必要になります。
だから、その場合には連続的な発展段階として、氏族制から部族制に転化し、つまり国家に転化するということが考えられないので、そこに血縁集団と、地縁集団というものを基盤にしたひとつの統一共同社会、つまり国家というもの、そういうようなものはおそらく個々の段階の発展としてではなく、ひとつの共同幻想というものの断層として、飛躍の契機というものがあってはじめて可能であると言えるわけです。そういう意味でも〈経済的範疇〉として連続的氏族的段階から国家の初源形態である部族制社会というものに転化していくという、エンゲルスの国家論の非常に根幹的な部分、基本的部分が極めて危ういということ、曖昧であり、誤謬であると言えるわけです。つまりそこに問題が転化されていきます。
そうしますと、今度は国家の共同幻想というものは、如何なる意味で国家内部における家族、あるいは個々の成員というものとつながるかという問題――つまり階級の問題というようなものに考えを移していきますと、ロシア・マルクス主義者によってとられている階級概念というものは極めて不十分なものであるということができます。
なぜ不十分であるかというと、それはいわば〈経済的範疇〉としての労働と資本、あるいは労働者と資本家というもののなかにのみ階級発生の基盤を求めようとする問題意識において誤りであるといえます。それはおそらく、哲学としては弁証法的唯物論、史的唯物論というものの結果に基づくわけです。そういう考え方が、ロシア・マルクス主義における階級概念というものの極めて不十分さの根本にあると考えます。だからもちろん、それを模倣した日本の講座派であり、労農派であるというようなかたちで展開されてきたロシア・マルクス主義的国家論が誤謬であるということができると思います。
階級というものを規定するには、もうひとつの契機がいるわけです。その契機は何かと言いますと、これは「国家の共同幻想というものは必ず個人の幻想性と逆立する」ということ、つまり「個人あるいは家族というものが、何らかの経済的あるいは人間関係における必要性から国家を生み出したとしても、国家というものの共同幻想性が必ずいったん生み出されてしまうと、個人の幻想性というものとさかさまになってしまう」ということです。いいかえれば、桎梏になってしまうということ、暴力、強制になってしまうということです。そういう観点から社会の階級制というものを考えていきませんと、階級という概念自体が十分に把握されないということになります。つまり、階級制というものの〈経済的範疇〉からのみ導き出してはならないということです。
〈経済的範疇〉がは必ず〈幻想的範疇〉を生み出しますが、そうすると「〈幻想的範疇〉における共同幻想と個人幻想というものは必ず逆立してしまう」ということです。生み出された「経路」ではあっても、いったん生み出された以上は逆立してしまう、そういう「契機」から階級という概念に近づくこと、「幻想性という概念から階級という概念に近づく」というような操作をしない限り、階級概念に十全に把握されないということが生じてくるわけです。
だから、〈経済的範疇〉として、もし国家が政策的に福祉社会的、あるいは経済政策として構造改良な政策をとったとすれば、階級という概念は極めて曖昧に見えてくるわけです。つまり、階級なんかないんじゃないか、たかだかより富んでいる奴と富まない奴、という見解に横滑りしていくわけです。しかし、〈幻想的範疇〉からの考察をひとつの軸として必要するという観点を導入していきますと、階級というものはたとえ共同幻想性としての国家というものがいかに経済政策、社会政策として福祉政策をとり、資本家が個々人として福祉的な政策をとろうと、そのなかにおける階級制というものの本質がなくなってしまうわけではないことがわかります。そうしますと、国家というものが存続する限りは階級がなくなるということは先験的にありえない、ということがすぐに結論できます。
たとえば、中国文化革命について言いますと、中国の文化革命が幻想の領域においていかに階級廃絶する衝動を含んでいるように見えようとも、中華人民共和国連邦に手をつけずに、階級廃絶のいかなる運動をしようとしてもそれは先験的に不可能であるということが結論されます。したがって、文化革命というものが、単なる政治権力における対立抗争に過ぎないことがわかります。
中国における国家が廃絶するためには、もっとも経済的に高度な先進地域のひとつであるアメリカのようなところにおける国家の廃絶というものがなされない限りは、中国における国家というものは廃絶されえない。したがって中国における階級というものが廃絶されるはずがないのです。その範疇内でどういうふうに操作しても、廃絶されるはずがないのです。
中国における文化革命というものがはらんでいる矛盾というものは、結局そこにあるわけです。毛沢東思想というものの限界もそこにあります。毛沢東がいかに世界プロレタリアート革命ということを鼓舞しようとも、国家がある限りは決して階級が廃絶されないということは、〈幻想的範疇〉から階級というものを考えていく限りはまったく自明の理であるわけです。だから中国における如何なる運動も、階級廃絶に行き着かないということは先験的に決まっているわけです。そういうところで文化革命というものが行われているわけです。
たとえば、日本のロシア・マルクス主義者は種々のことを中国文化革命について発言し、階級について発言し、構造的改革について発言していますけれど、何が問題なのかと言いますと、階級概念自体が決して〈経済的範疇〉からはつかみ得ないということです。〈経済的範疇〉と、先ほどから言っている〈幻想的範疇〉、つまり共同幻想とそのなかにおける個人・家族との逆立の契機というものを導入せずしては、階級の本質的な問題は考えることができません。そういう問題意識を欠く限りは、いわば世界情況というものの動向に割り付けて、その都度自分の考え・理論を修正していく、合わせていくということしかなしえないわけです。しかし我々はそんな問題意識を拒否するわけです。
要するに、そういう問題を批判しても問題は始まらないのです。我々は、それらの根本的な原点であるエンゲルスの『家族私有財産及び国家の起源』のどこに問題意識があり欠陥があるかを辿っていくことによって、問題をはっきりさせることができるわけです。我々はそういう意味で現在におけるロシア・マルクス主義者及びその諸変化というものとまったく違う見地に立っています。我々の情況は、「ロシア・マルクス主義の修正」の次元に存在するとはまったく考えていません。つまり、この平和であり何事もないかごとく、しかしこの何となく重苦しい圧迫感、直接的間接的にあらわれてくる誰でも感ぜざるを得ない圧迫感、そういう情況のなかにこそ本当の思想的課題というものを問うていき、また自ら想像していく契機というものが存在するというふうに考えます。
国家の共同幻想性というものはまず第一に、法的な言語、いわば法律、条文、つまり公法、司法によって具体的な形態を持ち、その基における市民社会に対応、対峙しているわけです。それが共同幻想性というものの最も基本的なあらわれ方です。つまり、国家の共同幻想性というものは、たとえば憲法であるとか、そのもとにおける刑法、諸民法という、法的な言語によって自らの共同幻想性の意志、権力というものを社会に対して及ぼしていくわけです。
それに対してたとえば先ほど漱石の例で言いましたけど、最も原型に考えられる大衆というものは、何によって国家権力の共同幻想性の具現である法的言語に対峙しているかと言うと、いわば「沈黙の意味性」で対峙しているわけです。いいかえれば、「沈黙の意味」でもってそれに服従しているわけです。
「沈黙の意味」で持って服従しているということは、決して唯々諾々として服従しているということとは違います。唯々諾々と、何も言わずに服従しているのではなく、「沈黙の意味性」というものでもって服従しているわけです。
だから、沈黙の意味性ということ、沈黙に何か意味があるかということ、つまり大衆が黙っていることに何か意味があるか、そこに先ほどの漱石が考えた例でいえば、そこに亀裂があるから、そこに亀裂が発見できるか、というような、そういう契機というものを知識人または知識人の集団が自らの思想的課題としてそういうものを取り上げていくこと、汲み上げていくことができない限りは知識人の集団というものは反体制的には存在しえないということができます。
つまり、国家の共同幻想性と本質的に対決しうる唯一のものは個人幻想であるわけです。文学とか芸術とかに属しているところの個人幻想というものだけが、本質的な意味で、国家の共同幻想性というものに対峙することができるわけです。レーニンが考えたように、もし知識人の集団というものが、なおかつ国家の共同幻想性に対して反体制的である唯一の可能性というものを持ちうるとすれば、それはいわば法的言語に対して沈黙という意味性でもって服従しているという、そういう大衆の言動、思想的な問題、亀裂というものを、思想として知識人が組み込むことができるか、自分の思想のなかにそれを組み込むことができるかという問題が可能であるとき、かろうじて知識人の共同性としての集団というものが反体制的でありうるわけです。
もちろん、レーニン、トロツキーが想定した党というような概念は、そういうものであったわけです。しかし実現されたものはそうではなくて、沈黙のいう意味性を持たない、生半可な啓蒙を受けたおしゃべりな大衆というやつが傍に集まってきたという集団に転化して、それ自体、共同幻想性として再び沈黙のいう意味性を持っている大衆の言動というものと対立してしまうということを意味します。これはロシアにおける官僚制というもののなかに根本的に含まれている問題だといえます。
現在、そういう意味で種々のかたちで理論的、原理的な復興というようなものが考えられていますけど、私たちが追求している問題というのは、ひとつは共同幻想性としての国家というものは何であるかということを我がこととして追求するということです。そしてもうひとつは、個人の幻想性、いいかえれば文学芸術が、国家の共同性に対してどういう位相を持って体系的に存在しているのかということ、そしてそれ自体の内的構造を追求していくことが、私などのここ六七年のあいだに考えそして展開してきた思想的な課題であったわけです。この課題の解決なしには如何なることも起こらないだろうということ、それは思想的に言えば緊急な課題だけど、日本におけるロシア・マルクス主義が依然として復権、復興しようとしている、その復古的見解の範疇では問題は解決されないだろうということ、そういうことが私なんかを動かしてきた原動力であるわけです。
こういうふうに問題を展開していくという課題において、僕らは思想的な自立、または自立的な思想という言葉を使ってきたわけです。自立的な思想、あるいは思想の自立的根拠というものは、現在、情況のうえで何であるのかというような問題を考えたときに、私どもが基本的に考え、そして展開してきた問題というものは、いわばそういうところに要約することができます。そういう問題はある程度完成された形で、また未完成のかたちで展開され……
【テープ反転】
……そういう課題というものは最もアクチュアルな課題として存在するということ、そういう課題において我々は小手先の解決では何かができあがるということはありえないという、決定的な情況にあるということがいえると思います。そして我々が当面しているのはおそらくそういう決定的な情況であって、みなさんの学祭のパンフレットの「閉塞と分断を突き破り、コミュニケーションを回復しよう」なんて書いてありますけれども、こんな程度のスローガンで問題が解決されたら、要するにお慰みなわけです。現在の情況はそんなものではないわけです。
ロシア・マルクス主義が種々の修正を施し、アクロバットを施して切り抜けられるような、そんなちゃちなものではないということ、我々が当面しているのはもっと徹底的なものであるということ、そういうことがみなさんに伝わることができれば、そういう問題意識にたっているということが伝えられることができれば、私の今日の目的は果たされるわけです。
まことにお粗末ですけれどもこれで終わらせていただきます。
(拍手)