昨年、この学校へよばれたのですけど、昨年きたときから、現在に至るまで、ぼくの考えてきたことの、すすんだ部分の、どこまですすんできたかってことを、今日はお話したいと思います。で、「幻想としての国家」っていうテーマになっています。
幻想としての国家っていうのは、なにかっていいますと、つまり、国家っていうものの本質っていうことを意味しているわけです。もちろん、国家には、幻想としての国家っていうものが、たとえば、法なら法っていうものによって維持されていくときに、それを執行したり、裁いたりする法機関、法権力機関というものがあるわけですけれど、機関としての国家じゃなくて、幻想としての国家ってことで、なにを意味するかっていうと、国家の本質っていうことのお話をしていきたいと思います。それはだいたい、ぼくなんか、去年のお話したような問題を追及してきた過程で、現在まで考え至っているところであるわけです。
で、この問題は、ぼくらなんかの問題意識ではふたつの側面があります。そのひとつは、文字どおり、幻想としての国家っていうものは、つまり、国家の本質っていうものが、どういうようなかたちで存在するのかっていうような、文字どおりそういうことなんですけど、もうひとつは、具体的に、日本の国家っていうものが、どういうふうに存在しているかとか、存在しうるものっていうか、そういう問題、具体的な問題っていいますか、都市的な問題とか、そういう問題に即して、ある普遍的な法則性とまでいかなくても、移りゆきっていうものが了解されていけばいいんじゃないかっていう、そのふたつの側面が、ぼくなんかが考えてきた側面である。
そういう問題意識っていうものは、ぼくのなかで主観的になぜ大切かっていうと、ひとつには、やっぱり、戦争という、散々、悩まされた国家っていうやつがあるわけです。それから、もうひとつは、天皇制なら天皇制っていう問題があるわけです。それはやっぱり、大きな、ぼくのモチーフになってきているわけです。そこで、そういう特殊性に即しているっていうような問題意識がでてくるわけです。
現在、いろんなかたちで、さまざまな国家論ってやつがなされてきているわけですけど、そういう国家論がなされてきている風潮といいますか、そういうもののなかには、いろんな要素があると思いますけど、確実にいえることは、国家論自体が、よくその人の場所を語るといいますか、そういうようなことになっているってことは、非常に確かなことだと思います。
まず、どういうところから、国家っていうものは、はじまるかっていう問題、つまり、国家っていうものは、どういうところから、はじまっていくかっていう、国家起源っていいますか、そういう問題なんですけど、国家起源の問題っていうのは、それ自体として論ずることはできないことはないんですけど、どうしても、国家っていうやつは、家族っていうものの形態、そういうものを通過して、そして、国家っていう問題がでてくる面があると、そこで、国家っていうものと、家族っていうものを接合するっていいますか、接合する時点っていうのが問題になってくるわけで、その接合点の問題を、どういうふうに捉えるかってことで、いわば、国家の起源についての考察っていうものは、非常に違ってきてしまいます。
わたくしのまず最初に考えたことは、家族っていうものを、どういうふうに理解するかってことなんです。家族っていうものは、経済社会的な範疇でいえば、もちろんそれは、その根源にあるのは、一対の性としての人間っていいますか、一対の男女の自然的な性行為ってものを基盤にする構成になっているわけですけど、それ自体は、経済社会的に、ひとつは、人間自体をつくりだすっていう意味で、それは捉えることができるわけです。
ところで、わたくしどもが考えてきたのは、そういう家族っていうものを、そういうふうに捉えていった場合に、家族集団っていうものは、連合した場合に、ひとつの氏族的な、あるいは、氏族段階に至るまでの、前氏族的な、そういう血縁集団ってものに転化するだろうっていうような問題意識がでてきます。
それで、これはたとえば、家族の起源について論じた、モルガン-エンゲルスの考え方があるわけです。その考え方は、どういうふうにしたらば、家族っていうものを形成する集団ってものが、ひとつの氏族制に転化するか、そういう問題についてのひとつの考え方なんですけど、そのモルガン-エンゲルスの考え方は、非常に家族っていうものを、単純な構成で考えて、こういう一対の男女が営む、非常に簡単な家族っていうものの構成っていうものを考えてみますと、こういうものがいくつも寄り集まって、そして、ひとつの氏族的な、あるいは、前氏族的な社会っていうものを形成するわけですけど、その場合に、一対の男女によって形成される家族っていうものは、どういうような契機でもって、村落っていうものの共同性ってものを形成していくかっていうふうに考える場合に、モルガン-エンゲルスっていうのは、つまり、一対の男女の関係をもとにする家族構成ってものの、非常に前段階に、部落中の全部の男性と、部落中の全部の女性とが、性的自然関係を結ぶことができるっていう、集団婚の段階ってものを考えたわけです。
そうしますと、集団婚の段階を想定しますと、部落内のすべての女性とすべての男性が性的な自然関係を結ぶことができるとすれば、男女の関係、つまり、家族の根幹となる男女の関係ってものが、そのまんま部落大に拡大しうるっていうことを意味します。
つまり、一対の男女っていうもののすまいかたが、永続的であるか、あるいは、非常に短時間的であるかってことは、ここでは、あまり問題にならないのです。とにかく、部落中のすべての男性が、部落中のすべての女性と自然的な性関係を結ぶことができるっていう段階を想定するとすれば、そうすれば、男女の関係、すなわち、家族形態の関係なんですけど、根幹なんですけど、男女の関係ってものがそのまんま、いわば、部落大に拡大できるっていう、拡大しうるっていうような、そういうことがいえるわけです。
そうしますと、なぜに家族形態、つまり、一対の男女における性的関係っていうようなものを基盤とする家族形態ってものが、なにがゆえに、いわば、集団的な村落の共同性を形成することができるかってことについての、ひとつの回答で、そうなることは確実なわけです。それで、この一段階っていうのは想定されているわけですけど、なぜ、それじゃ、集団婚っていうものが、人間において、ある一段階といえるほどの期間、持続する婚姻形態でありうるかって問題について、エンゲルスは、人間の嫉妬からの解放であるってこと、それから、ことに男性の相互寛容ってものが、人間の集団婚っていうものを可能にしたっていう考え方をしているわけです。
そういう考え方っていうのは、よく考えてみますと逆なわけで、もしも現実的に集団婚みたいのが、おこなわれているとすれば、そのなかにおける人間の嫉妬感情っていうものは、少なくなるあろうっていうような、つまり、逆なことはいえますけど、人間の嫉妬感情が少なくなったから、集団婚がある一段階として想定できるほど、ある程度の永続性をもった段階があったってことをいうのは、逆さまなわけです。こういう集団婚的な現実があった場合に、人間の嫉妬感情っていうのは、少なくなるだろうっていうような、逆のことはいえますけど、それを反対のことはいえないわけです。
それから、集団婚っていうものの一段階として想定されるほど、普遍性をもっていたかっていうと、けっして、そうじゃなくて、非常に未開な種族でも、集団婚をとっているところもあれば、そうでない形態を通過したところもあるというような意味でしか、集団婚っていうのは想定できないってことがあります。
問題はいちばん最初に、ここのところにあるわけですけど、なぜこういう考え方がでてきたかっていいますと、エンゲルスが、性としての人間、つまり、男または女としての人間というものは、経済的な範疇でいえば、人間における最初の分業で、それはつまり、子どもを産むことにおける最初の分業で、最初の階級関係の発生っていうのは、そういうところにあるってこと、つまり、性っていうものを、自然的な性行為っていうもので、性というものを想定する、あるいは、経済的な範疇で、性ってものを想定すると、どうしても集団婚を一段階として想定しないと、男女の関係ってものが、そのまんま、部落の共同性ってものに拡大しうる基盤っていうものは、つまり、根拠ってものはでてこないわけです。だから、おそらく集団婚を一段階として想定したということだと思います。
ところが、集団婚をとっている未開種族もありますし、そうじゃない未開種族もありますし、また、そういう理論的なっていいますか、論理的なことを問題にしないっていうような、そういう考え方から、だいたい集団婚なんていうふうに外からみえていても、ほんとはそうでないんだっていうような、そういうような意味で否定する学者もいますけど、いずれにせよ、その根本にあるのは、人間の性としての人間っていうものを、どういう範疇で扱うかってことが問題になるわけです。
あきらかに、エンゲルスが自然の範疇、あるいは、経済社会的な範疇っていうもので、性というものを考えた場合には、やはり、そういうものが、ある共同性、共同体ってものを営むために、結成できるためには、それはたとえば、部落中の男性と部落中の女性が、関係することができるっていうような、そういうことを想定しないと、ちょっと、むずかしいところがあります。
おそらく、そういうことが最初の問題になってくるわけで、そうしますと、モルガン-エンゲルスの考え方の、どこが問題なのかっていうことなんですけど、それは、自然的な性行為っていう場合の性っていう範疇が、かならず、幻想の対っていうのを、ペアっていうのを、かならず、観念として生みだすものだっていうことなんですけど、そういう、もしも、男女の自然的な性関係ってものが、それに見合った幻想のペアってもの、対ってものを観念として生みだしていくとすれば、そうすれば、そういう考え方をとれば、だいたい家族において、ひとつの自然的な母性関係を根幹にしているっていうような、そういう要素はまた、観念性としては、幻想の対っていうものを生みだしているってこと、そういうことで、家族っていうものを考えていくことができるわけです。
そういう考え方をしますと、かならず、一段階に集団婚を想定することは必要ないわけです。かならずしも想定しなくてもいいってことがわかります。どういうふうにしていいかっていいますと、単純な家族でいきますと、このような父親と母親の世代っていうのが根幹になるわけですけど、そこに子どもの世代っていうものを想定すると、そうしますと、もちろん、父親と母親のあいだには、自然的な性関係ってものを基盤にした対なる幻想性っていうのはあるわけですけど、それから、もちろん、父親と自分の娘とか、母親と自分の息子とか、それから、父親と自分の兄弟とか、母親と自分の姉妹の子どもとの、そういう間にもやはり、自然的な性関係ってものは存在しないわけですけども、しかし、対なる幻想性ってものは存在することができるっていうふうに想定することができます。
そうしますと、父親の世代と子の世代でも、そういう対なる幻想性っていう問題については、たとえば、フロイトならフロイトが、よく追及して、また、フロイトが人間にとって最も本質的な問題なんだっていうような、そういう考え方をとっているわけですけど、これは、父親の世代と子の世代でなくでも、兄弟なら兄弟のあいだでも、べつに、自然の性関係が想定できるわけじゃないけど、そこで、対なる幻想っていうような存在を考えることができる。こういう対なる幻想を存在すると考えることができます。
これは、なにかっていいますと、どういう対なる幻想かっていいますと、それはやはり、父親と母親の世代ってものがなくなったときに、ほとんど崩壊に転ずるだろうっていうようなものが想定されます。姉と妹っていう関係における対なる幻想性もやはり、この世代がなくなり、そして、自分が他の男性と、自分たちが家族を営んだときに、だいたい消滅するだろうと考えることができるわけです。そういうような性質をもっているということができます。
いわばフロイトなんかの考え方が、世代的な、つまり、父なる世代、母なる世代と、子の世代っていうようなところで、非常に、人間の幻想性の本質っていうのを考えてきたわけですけど、いまたとえば、そういうことでなくて、兄弟と姉妹っていうものの対幻想ってものを考えてみますと、これはかなり、父親の世代が消滅してしまっても、かなり永続する性質をもっているってことができます。また、兄弟がたとえば、ほかの女性と結婚して、これが、夫ができるっていうような、そういうような場合でも、わりあいに永続する幻想性であるってこと、対なる幻想性であるっていうことができます。
そうしますと、もしも、母系制をとった一社会ってものを想定していきますと、このいまの単純家族も、家族形態の発展っていうものは、母系をもとにして系譜が考えられていくわけですけど、そうしますと、それに対して、兄弟というやつはまったく、この家族系列に対しては、まったく別個の系列に属するわけです。そういう意味ではなんらの関係もない、母系社会ではなんらの関係もない別個の家族っていうものを形成していくわけです。この系列は、まったく関係のないものになっていくわけです。
ところで、関係のないものに系列外に置かれながら、しかし、対なる幻想性としては、永続性をもっているってこと、それで、母系制ならば、それは同じ母親からでたというような、つまり、同じ母親に対しては、一種の同胎盤ってものをもつ、しかし、家族系列としては、まったく別のところにいってしまうっていうような、そういうことが想定できるわけです。
そうしますと、この兄弟と姉妹とのあいだの対なる幻想性ってものは、おそらく、それだけがって言っていいくらい、それだけが、家族形態ってものをある部落大に、部落共同体の大きさに、拡大できる基盤だっていうことができます。
そうしますと、エンゲルスのように、かならずしも集団婚っていうのを想定しなくても、まったく別系列に属する家族体系ってものが、それぞれ発展していきながら、しかも、このあいだには、同じ母親をもとにしていることにおける、兄弟姉妹としての対幻想、わりあいに永続的な対幻想の関係っていうのは想定できる。
そうしますと、だいたい、そういうふうに想定されますと、この関係だけは、まさに部落大に拡大できるわけで、そうしますと、そこで拡大されて考えられる兄弟姉妹との関係、系列なんですけど、そういうものの系列を想定した場合には、集団婚っていうことを想定しなくても、だいたい、前氏族的、あるいは、氏族的段階ってものを考えることができます。
そうしますと、なにが問題になるかっていいますと、ようするに、性っていう範疇っていうものを、自然的範疇、あるいは、経済社会的な範疇でのみとらえるか、あるいは、そういう範疇っていうのはかならず、それに相応する、対応する幻想性ってものを生みだすものであるっていうような考え方をとるかってことで、仮に集団婚ってものを、一段階として想定しなくても、だいたい家族形態ってものが、部落、村落大の共同性をもち、そしてまた、血縁集団っていうふうに考えれば、氏族的、あるいは、前氏族的段階の共同体にまで拡大しうるっていうような根拠っていうものは、集団婚を想定しなくても、兄弟姉妹っていう関係で、その関係の拡張ってことで、対幻想の関係の拡張ってことで、想定することができるわけです。
問題っていうものを非常に具体的に、たとえば、示している例っていうものをあげてみますと、ひとつは、我が国の、古事記なら古事記っていう神話にでてくる、アマテラスとスサノオの関係っていうのが、それは、こういう関係を意味するわけです。
そうしますと、未開な段階では、どういうことになっているかっていいますと、姉妹の系列ってものが、宗教的な権力ってもの、つまり、日本の場合、シャーマン的にいえば、神がかりなんですけど、宗教的な権力っていうものをもっていると、その兄弟ってものが、いわば、現世的な政治権力をもっている。そういうかたちっていうものを、いわば、氏族的、あるいは、前氏族的段階における共同性の形態として、共同体の形態として、姉妹の系列ってものが、宗教的権力をもっているとすると、それが、その兄弟によって、政治的、現世的な権力ってものが行使されるっていう、そういうひとつの統治形態ってものを想定することができるわけです。
これは、日本の、たとえば、神話のなかにおける、非常に基本的な構造になっているわけですけど、こういう構造っていうのは、たとえば、かなり新しい段階で、こういう構造が想定されたものが、邪馬台国論争っていうようなかたちで問題になっているものの、本質にあるのは、こういう統治形態なわけです。
ところが、それは、ぼくの考えでは、わりあいに新しいのであって、もっとさかのぼることができると思います。つまり、わりあいに新しいかたちがあれで、もっとはるかにさかのぼることができるだろうっていうふうに考えられます。
で、もうひとつ、そういう例っていうのはあるわけですけど、これは、日本の南島なんですけど、南島で久高島っていうのがあるんですけど、この久高島っていうのが、だいたい、琉球における、日本の九州にも天孫降臨の地とかいっているところがあるのと同じように、琉球における天孫降臨の地っていうふうにいわれている島なんですけど、久高島っていう島なんですけど、ここでおこなわれている宗教的な行事で、イザイホウ、あるいは、エザイホウっていわれている、村落の共同祭式があります。
それは、どういうものかっていいますと、部落における女性っていうのは、ある面で、ある段階で、かならず、どこに住んでいても、13年に一度ってものは、この共同祭儀に参加しなければならないことになっている。参加しなければ、島における発言権っていいますか、そういうようなものをもたないってことになる、共同祭式があるわけです。
それは13年目に一度やってきて、そこでおこなわれる祭儀っていうのは、なにかっていいますと、すくなくても、部落中の全女性っていうのは、ある年齢、ある段階になれば、それにかならず参加するっていうような、それは、だいたい4日間ぐらい、部落から離れて、森の中に宮をつくるわけですけど、そこで4日間くらい、その裏の共同宿舎ってものに宿泊して、家へは4日間くらい帰らないで、そして、いっしょに神うたっていいますか、そういうものをいっしょに唱えたりするわけですけど、その祭儀の、どういう象徴的な儀式がおこなわれるかっていうと、こういう部落の最高の巫女がいるわけですけど、最高の巫女が、4日間目まで、祭儀を済ませた女性に、たとえば、額と、それから頬に、赤い印をつけるっていう、そういう儀式がある、それでやるんです。
それで、もうひとつ、非常に特徴的なことは、4日間目になりますと、その祭儀に参加した女性は、結婚している人も、未婚の人もいるわけですけど、すくなくとも、その兄弟っていうものがいきまして、そして、雑穀、または、お米でもって、団子みたいのをつくっていきまして、これは夫がいる場合でも、けっして、夫ではなくて、兄弟なんです。兄弟がいきまして、そしてやはり、共同祭儀に参加した女性の兄弟が、雑穀かお米かでつくった団子をもってきまして、それでもって、洗礼と同じような、印なんですけど、そういう印をつけるっていうような祭儀は、いまも残っているわけです。
そういうことは、何を象徴するかっていいますと、やはり、そういうかたちを、もとのほうへ、さかのぼっていきますと、ようするに、部落における最高の巫女さんってものが、いわば、神権っていいますか、そういうものをもっていて、そして、その兄弟ってものが、現世的な意味での政治権力をもっていて、そして、それが神権から現世的な権力へっていうふうに、授受される形式っていうものが、ここで想定されるわけです。
この島っていうのは、もちろん、稲作はできないので、たとえば、雑穀の栽培と、それから、島ですから、魚とり、それでもって生活している、非常に貧寒な島ですから、ここでのこういう祭儀の形式っていうものを、さかのぼるだけさかのぼったとして、たとえば、稲作、水田、または、陸稲でもいいわけですけど、そういう稲作以前の段階における、つまり、農耕社会以前の段階における箇所までさかのぼって想定することができるわけです。
そうしますと、こういう統治形態ってもの、政治権力と宗教的権力との結びつき合いの想定ってものが、かなり先のほうまで、つまり、かなり古いところまで、さかのぼることができるんじゃないかってことが推定されます。もちろん、古事記の神話のなかにおけるアマテラスとスサノオの関係ってものも、まさに、そういうふうに、いちおう規定されているわけです。規定されたそういう関係っていうのは、氏族的、または、前氏族的な段階における共同体ってものまでは、かならず、さかのぼることができるわけです。そこでは、こういうような統治形態ってものが、実際的におこなわれていたっていうふうなことが想定することができます。
そこからは、また、問題がでてきますけど、国家っていうものをどういうふうに定義するかってことなんですけど、国家っていうものをどういうふうに定義するかって場合に、統一的な部族社会が成立したときに、それは、いいかえますと、すくなくとも、家族形態を基盤にする、つまり、血縁を基盤にする共同性じゃなくて、血縁以外のもの、つまり、たとえば、それは土地所有なんですけど、土地所有なら土地所有を基盤にする、統一性をもった部族社会が成立したときに、われわれは、それは、国家っていうふうにいうわけなんです。
こういう段階は、いわば、前氏族的、あるいは、氏族的段階というふうに考えられていいわけで、あるいは、そういうところに発生の起源をもっているっていうふうにいっていいわけですけど、われわれは、そういう面の共同性ってものを、共同の幻想性なんですけど、こういう意味の共同幻想性ってものを、国家っていうふうに呼ぼうとする場合には、どういうふうにして呼びうるかっていうと、それは、統一的な部族社会ってものを形成したっていうふうなときに、非常に原始的な形態ですけど、最初の国家の形態っていうふうに呼ぶことができます。
そうしますと、だいたい統一的な部族社会ってものが形成されたとき、わが国だったら、それは、いわば、農耕的な社会ってものにはいってきているわけです。ここではなんらかの理由で、どこからそれがきたかってことは別として、稲作ってものを基盤にした農耕的な社会ってものが形成されてきたわけです。そこで、はじめて国家っていうふうに呼ぶことができるわけです。
そうしますと、こういう前氏族的な段階における国家の共同幻想性ってものと、想定される統一部族社会における共同幻想性というものは、どういうふうにして移り変わっていくのかってことが、ひとつ問題になるわけです。
それは、かならずしも、前氏族的、あるいは、氏族的な社会から統一部族的な社会へ転化するという観点というものは、これは経済社会的な範疇でとらえていけば、これは、ひとつの発展形態であるわけですけど、幻想性の問題としてそれを考えていけば、つまり、国家っていうものの起源をなす本質というものを、そういうものとして考えていった場合には、けっして、単なる発展性ってことにならないことがいえないことがわかります。
その場合も、どういうふうに発展するかってことが、問題になるわけですが、そこでおそらく、法っていうものと、それから、もうひとつは、道徳、あるいは、倫理でもいいんですけど、法ってものと道徳っていうもの、倫理っていうもの、そういうものの問題っていうのが生まれてくるって考えることができます。
日本における未開社会の法っていうのは、だいたい全部、刑法からはじまるわけです。日本における法っていうものの非常に古い形態は、なにかといいますと、それは、「天津罪」っていうふうに言われているものと、「国津罪」っていうふうに言われているものがあります。
これは、すくなくとも、日本の国家段階へ移行する場合の、最初の法的な問題なのであって、たとえば、近親相姦の禁止、それから、呪術的な要素としての、たとえば、高津鳥の禍っていうのは何かっていいますと、ようするに、カラスとかなんかが飛んできて、それで、作物をどうしたとかこうしたっていう場合には、それはひとつの鳥の禍なので、それはなにか祟りがあるんだという、そういうような呪術的な要素に加えられるのが、国津罪みたいな概念です。
天津罪っていう概念と、国津罪っていう概念が、古代法っていうものの問題になってくるわけですけど、この法の問題っていうのが、はじめてあらわれてくるのは、いわば、前氏族的な、あるいは、氏族的な段階における社会から、社会にける共同幻想から、そういう呪術的な部族社会へ転化する場合の共同幻想、いわば、その転化の時点で、そのふたつの範疇の罪の概念、したがって、その罰の概念が、刑罰の概念が、はじめてでてくるわけです。
その場合、たしかに言えることは、天津罪って概念に属するものは、より高度な法的な表現であるっていう、つまり、高度な段階における法的な表現であって、それで、その前段階における共同幻想の法的な表現っていうのは、だいたい、国津罪っていうものに属する、そういうものであるというふうに想定されるわけですけど、考えられるわけですけど。
ここで問題になるのは、国津罪っていうのは、いわば、これは、自然的カテゴリーに属する、自然的範疇に属する罪っていう概念が、すべて国津罪なんですけど、その前段階におけるものが国津罪っていう概念であり、それから、段階が進んで、いわば、農耕社会の成立段階が問題になったときに、天津罪っていう概念に属する、共同幻想の法的な表現っていうのができあがったっていうふうに、考えていいわけですけど、問題なのは、前段階における共同幻想性と、発展した段階における共同幻想性っていうものとは、どんなかかわり合い方をするかってことが、問題になるわけですけど、法的表現でいいますと、まず、この国津罪、天津罪っていう概念の分け方ができたのは、わりあいに、あとのほうなんですけど、『古事記』のなかには、だいたい両方を混交したような、つまり、農耕法的な罪概念と、それから、自然法的っていいますか、自然的カテゴリーに属するような罪概念とを、混交したものが『古事記』のなかにでてくるわけです。
そのほうが、より古い段階で考えられた罪の概念だって想定するとすれば、天津罪っていう概念に属する、農耕法的な段階が、いわば、後段階であり、前段階が国津罪の概念に属する、そういうような共同幻想の段階だったってことが、かならずしも言えなくて、本来ならば、おそらく想定されるのは、その前段階において存在したのは、いわば、農耕的な侵犯に属する、そういう国概念と、それから、自然的カテゴリーに属する国概念と、ふたつを混交したものを、前段階における共同体の共同幻想っていうものはもっていただろうって考えることができます。
だいたい、それは、次の段階に、いわば、稲作みたいにする、農耕社会に転化したときに、どういう転化の仕方をするかっていいますと、前段階がもっていた農耕法的な要素っていうものを、後の段階、発展した段階における、共同幻想性の法的表現として、いわば、取り込まれていくわけですけど、単に取り込まれじゃなくて、いわば、その取り込みに対しては、これを、農耕法的なものではなくて、自然的なカテゴリーに属するという罪概念っていうのを、だいたい、家族集団を縛る風俗的な習慣とか、それから、家内信仰的なものとか、あるいは、宗教的な慣習とか、そういうようなものに、自然的カテゴリーに属する罪概念を、そういうものとして、いわば、蹴落とすことによって、そのなかにおける農耕法的な要素だけは、こっちの発展した段階において採用されてきただろうっていうふうに想定されます。
そうしますと、そういう結果としてでてきたものが、いわば、天津罪という概念と、国津罪という概念のふたつに分けられてきたんで、これは、祝詞なんかで分けられてる分け方ですけど、そういう分け方になっただろうってことが考えられるわけです。
国津罪っていうのは、前段階に属し、天津罪っていうのは、後の段階に属するっていうような、そういうことじゃなくて、本来は、両者を混交したようなものが、いわば、前段階の共同幻想の法的表現としてあったと、そして、それは、そのなかの農耕法的な要素っていうのは、次の段階に包括されていき、そして、包括される過程で、それ以外の要素、がんらいが自然的カテゴリーに属する罪と罰意識っていうのは、だいたい、家族集団を規制する、いわば、法以前の習慣律みたいな、そういうものに、だいたい落とすことによって、こっちに展開していったってことだろうってことが想定されます。
そうしますと、こういう想定っていうのは、かならずしも、経済社会的な段階における前農耕的な段階から農耕経済へ移行していくっていうような、そういう、いわば、単なる移行とは違いまして、法が自ら、自らの意志を疎外していくっていう形態、そういう形態によってしか、次の段階の、法的な表現になっていかないっていうような、そういう本質っていうものを、共同幻想の発展段階っていうものは、発展形態っていうものは、そういう、いわば、原則っていいますか、法則っていいますか、そういうものをもっているってことが、いいうるわけです。
そこのところが問題になるわけで、なぜ、幻想としての国家っていうものを、幻想の構造として扱わねばならない問題意識っていうのは、いわば、そういう経済社会的カテゴリーにおける発展段階っていうものと、それから、共同体の幻想性における発展の仕方っていうものとは、かならずしも、一致しないからなわけです。
そして、その一致しないけれども、たとえば、そこにひとつの法則性っていうものをたどれるとすれば、いま言いましたように、前段階における農耕法的なものは、こっちへ包括され、そして、その包括されるってことによって、それ以外のもの、つまり、自然的カテゴリーに属する法的な概念っていうものは、侵犯っていうものは、いわば、習慣法みたいなものに、いわば、法的表現以前に近いようなかたちに転化されていくっていうような、そういうような転化され方をして、だいたい、共同幻想っていうものは、展開されていくっていうようなことがいうことができます。
そして、天津罪っていう概念と、国津罪っていう概念が、だいたい明瞭に分離されていったときに、だいたい統一的な社会における、いわば、自然国家の成立ってものを想定される、つまり、考えることができるわけです。
そこで、はじめて、法っていう概念の、非常に明瞭な共同幻想の表現として、明瞭なかたちになって、はじめてでてくると、そして、たとえば、神話のなかで、最初に、天津罪に属する刑罰を受けるのは、さきほどいいました兄弟姉妹っていうような概念における、兄弟に該当するスサノオノミコトってやつが、はじめて、一等最初に天津罪の概念に属する侵犯をやって追放されるわけです。
追放されて、神話のなかでどこにいくか、それは、出雲系の社会へいくわけです。つまり、出雲の国っていうところへいくわけです。スサノオノミコトっていうのは、そういう天津罪的な侵犯を犯して、追放されることによって、出雲系統に接続されるっていうのが、たとえば、日本の神話における非常に基本的な構造になっています。
本来ならば、そこで問題になるのは、なぜ、そういうふうな侵犯をやって追放されるか、それから、なぜ、追放されて、どうして、出雲系へ接続されるかっていうような、そういうふたつの問題が、非常に、日本の神話のなかで基本的な問題なんですけど、その結び付け方っていうのが、農耕の侵犯っていうものを、統一者の弟、あるいは、兄がやる、つまり、兄弟がやるってことは、この形態っていうものは、いわば、最初にいいました、日本における宗教的な権力っていうものと、現世的な権力っていうものとのかかわり合い方の問題を、すくなくとも象徴しているってことがいえます。
それから、もうひとつは、そういう意味で追放されたやつが、どうして、出雲系の土着の農耕社会へいって、そこの始祖っていうかたちになるわけですけど、どうしてそこにいくのかっていう問題は、すくなくとも、こういうことを暗示します。この統治形態っていうものがもっている、非常に前農耕的な権力形態ってものと、それから、いわば、出雲系の土着の農耕部民っていうもの、その他があるわけですけど、そういうものと結び付けるってことで、いわば、大和系っていうやつの支配を出雲系に結び付ける、それから、もうひとつは、だれがその農耕技術をもたらすかってことは、わかりませんけれども、農耕法っていうものを、土着系っていうものと、それから、大和系っていうものとを、支配、被支配の関係で結び付けるっていうような、問題意識っていうものが、ここに存在していることがわかります。
これがいわば、最初の問題になって、最初の法的な問題のなかに隠されている問題であるという、ところで、大和朝廷系っていうのは、どこからきたかっていうことは、いろんなことをいう学者がいてわかりませんけど、わからないけれども、それは、この場合は、必要ないのであって、われわれが考えうる、さかのぼりうるかぎりでは、こういう姉妹ってものが宗教的な権力をもち、そうすると、その兄弟ってものが、現世的な権力をもつっていうような形態は、前農耕的な段階の遺制っていいますか、そういう遺制として存在したということ、そういう形態が想定される。そして、それが、どうしても、土着の系統と結び付けられる、つまり、農耕社会と結び付けられるような段階になったときに、はじめて、神話における、そういう追放譚と、こっちの結合っていうのを、それから、いわば罪概念における、天津罪概念と、国津罪概念と考える概念の分離っていいますか、明瞭な分離、で、国津罪概念っていうのは、いちおう私法、あるいは、習慣法っていいますか、そういうような段階に蹴落とされて、そして、天津罪概念っていうものが、だいたい、われわれが考える、起源的な国家における法的権力の表現っていうものは、天津罪概念ではじめてでてきたっていうようなことで、想定されうるわけです。
それが、どこからきたかってことは、なかなかいえない、また、どこで混合しているかっていうことも、なかなかはっきりと分析することができませんけども、すくなくても、原理的にわかることは、農耕社会へ突入していく段階で、共同幻想っていうものの転化の仕方っていうもの、移り方の問題っていうものは、だいたい、包括されうるものっていうのは、包括していきながら、包括されない部分は、私法的、あるいは、習慣法的な概念のところへ落としていくっていうような、そういうかたちで、だいたい法的表現っていうものを、最初の国家が完成していくってことがいうことができるわけです。
もうひとつ問題なのは、道徳っていうことなんですけど、道徳っていう問題っていうのは、どこで、どういうふうに発生するかってことなんですけど、それは、いわば、道徳っていうものは、個人なら個人の内部を律する道徳律みたいな、そういう内面的な格率みたいな、そういうようなかたちで、道徳っていうのは、もちろん発生するものではなくて、すくなくとも、道徳なら道徳っていうものの最初の発生形態っていうものは、どこにあるかっていいますと、どこにでてくるかっていいますと、いわば、具体的にいいますと、前農耕的な段階における共同幻想っていうものが、次の農耕的な段階における国家の共同幻想へ転化していく、その転化する過渡の問題として、はじめて道徳っていう問題がでてくるわけです。
だから、これはけっして、個人を律するものとして、個人の内面律として、道徳がでてくるのではなくて、前段階における共同幻想性ってものが、発達した段階における国家の共同幻想性へ転化していく、最初の過程における、いわば、矛盾っていうようなもの、そういうものが、いわば、道徳っていうものの発生基盤だってことがいえます。
やっぱり、日本の神話のなかでは、それを非常に、象徴なり、仮託されているのは、スサノオの、スサノオっていうのは、やっぱり、道徳っていう問題についての発生の問題について、やはり、仮託されているわけです。
この場合、最初にイザナギとイザナミっていうのがいて、それが生んだ子どものなかで、アマテラスとツクヨミとスサノオがいて、アマテラスには、高天原を治めよって、天を治めさせ、ツクヨミには夜を治めよといい、スサノオには海を治めよっていうわけです。
それが神話のなかのあれなんですけど、その場合、スサノオだけは承知しないわけです。自分は承知しないと、それで、神話の表現では泣いているわけですけど、どうして泣くのかっていうと、おれは海の国なんていきたくない、おれは妣の国、それから、黄泉の国へいきたいから泣いているんだっていうわけです。
それでやはり、親父であるイザナギから追放されるわけです。その場合の追放には、罰は伴わないわけですけど、妣の国、黄泉の国へいきたいっていう問題は、これは、時間概念としては、他界ってことを意味するわけですけど、空間概念では、やはり、依然として、出雲を意味するわけです。おれは海を治めるのなんか嫌だと、結局、空間的には出雲へいきたいってことなんです。つまり、農耕系へいきたいってことなんですけど、それは一種の母系というものが想定されるわけですけど、そういうところへいきたいって泣いて、命令をきかないっていうので、追放されるわけです。
そういうような処罰は何を意味しているかっていいますと、スサノオっていうのは、いわば、前氏族的な段階における、あるいは、非常に未開な段階における、統治形態の現世的な担い手っていうふうに、そういうふうに規定されながら、しかも、それが次の農耕社会っていうものに結び付けられるっていいますか、農耕社会における共同幻想なんですけど、共同幻想に結び付けられる、つまり、それをがえんずるか、がえんじないかっていう問題に結び付けられたときに、倫理の問題、あるいは、道徳の問題っていうのがでてくるわけです。
だから、道徳の問題っていうのは、これは、神話の一人物、人格っていうのは、べつに個人ではないっていうような、そういう意味でだけじゃなくて、倫理の問題っていうのは、まさに、共同幻想の発展、展開していく段階における、いわば、過渡的な矛盾っていいますか、そういうようなものとして、はじめて、倫理の問題っていうものが、あるいは、道徳の問題っていうものが発生しているってことがわかります。
だから、法っていうものと、道徳っていうものの問題っていうのが、いわば、最初の共同幻想っていうものは、いわば、国家っていうものを考える場合に、最初にでてくる問題っていうのは、そこの法の問題っていうものと、それから、いわば、個人を縛るものとしてじゃなくて、個人の内面律としてじゃない、共同幻想対共同幻想の問題っていうのは、道徳の問題ってものが、はじめて発生してくるってことがわかります。
今度はいったん、たとえば、統一部族社会における国家の見解に入ったときの、法っていうものは、なかでどういうふうに転化する問題をはらんでいくかってことなんですけど、こういう段階における、さきほどいいました、天津罪とか国津罪っていわれている農耕法的なもの、それから、自然法的なもの、あるいは、自然的カテゴリーに属する刑罰概念ってものですけど、そういうもののなかには、ふたつあるわけで、ひとつは、あきらかに、罪を犯したなら罰を受けるっていう、そういう概念なんですけど、これはやはり、神話のなかでは、スサノオっていうのが具現するわけで、追放されるときに、物件を代償として出すわけです。そうしておいて、また、手の爪かなんかを切られるわけです。そういうような刑罰を受けて、そのうえで追放されるっていうふうになってるわけです。
もうひとつは文字どおり、刑罰行為じゃなくて、清祓っていいますか、祓い清めっていいますか、そういうものによって罪が解消されるっていう概念が、最初の法的な概念に移行する場合にあらわれてくるわけです。
そのあらわれてくる祓い清めっていうのは何かっていいますと、具体的にいいますと、それはひとつは、イザナギっていうのはそうなんですけど、けがれていると考えられているものを、身にまとっているものを全部とっちゃうと、とっちゃって、それで、お祓いをして、それで、体を洗い清めるっていうような、そういうものが、だいたい祓い清めっていう概念のなかに入ってくるわけですけど。
その場合に、刑罰の場合には、具体的に、物件を代償として出せってことで出させられたうえで、追放されるってなるわけですけど、清祓の場合には、なにが共同体に対して支払わされる物件に相当するかっていいますと、けがれっていうふうに考えられているもの自体が、まったく幻想なんです。自体を祓うってことは、それを、物件を代償するってことと同じ概念になります。つまり、けがれたものってやつが物件に相当するわけです。
具体的なっていいますか、現実的な法において、罰則に該当するやつが、祓い清めって概念、つまり、法と宗教の中間にある概念ですけど、その中間にある概念では、けがれたと考えられているそのものを身体なら身体から外してしまうっていうような、けがれっていうものは、刑罰における物件に該当するわけです。
これは、もちろん、具体的に、お米とか、そういうことなんですけど、この場合には、具体的に、物ではないわけです。まったく幻想なんですけど、そういうものをとっちゃうってことは、いわば、物件を支払うってことと同じ概念として提起されていることがわかります。
だからもし、宗教から法に転化していく場合の、転化の仕方において、法的な概念が、刑罰っていうものと、それから、清祓っていいますか、祓い清めってものから成っているとすれば、祓い清めの概念は、まさに、法と宗教の中間にあるようなので、法というのを、たとえば、権利義務の問題であると考えるならば、祓い清めにおいて、けがれていると感じられているもの、未開社会で感じられているもの、その感じられているものが、物件っていうものに、相当していくわけです。
もちろん、この分離の仕方も、次第に明瞭になって、刑罰概念っていうのは、たとえば、政治の現世的な権力ってものに結合されていくわけです。だから、この刑罰概念っていうのは、一般的に宗教的な概念ってものをどんどん外していった場合に、どうするかっていうと、権力概念のなかに、それ自体がどんどん吸収されていきます。
まさにそれは、法っていうものは、権力自体の意思表現だっていうふうに、転化していくわけで、この罰則概念は、けっして、最初に物件を補償し、追放されるっていうようなかたちで存在したものが、とにかく、たとえば、農耕社会における農耕的な侵犯をやったっていう場合には、その侵犯自体の意味が、だいたい、他の田んぼに対する侵犯っていうような概念から、空間的な概念っていうのはなくなって、その権力自体のなかに吸収されて、やはり、共同幻想に対する侵犯っていうようなかたちになって、この関係はいわば、ひとつの垂直的な概念に転化していくわけで、どんどんこれ自体が刑罰概念、補償概念ってものを、権力そのものに吸収させて、このなかにその構成を移していくってことになります。
だいたい、そういうところがいちばん問題になって、『古事記』でも、非常にあとのほうの段階になってきますと、天皇のあぶないときに、食料を盗んだっていうような、そういう老人がいるわけですけど、その老人っていうのは斬られて、一族も同じような意味の刑罰を受けるわけです。たとえば、膝の筋を切られるとか、そういう刑罰を受けるわけです。
そういうような段階になってくると、すでに、刑罰の問題のなかに、空間性っていうものは存在しなくなって、空間的な侵犯であれ、農耕法的な侵犯であろうと、それは、権力自体に対する侵犯であるというふうに、いわば、垂直概念に転化してしまいます。
それから、いわば、さきほどからのあれでは、国津罪っていう概念に属する、自然カテゴリーに属する罪の概念でも、だんだん後世になってきますと、神話のなかでも、後世になってきますと、たとえば、軽皇子っていうのがあって、兄妹相姦っていうふうになるわけですけど、そのときにはすでに、兄が流刑罪ってかたちに転化します。
これは、もともと、つまり、自然的カテゴリーに属していた場合には、これはいわば、祓いに該当する罪であって、けっして、具体的な流刑とか、処刑とか、そういうことを伴わないわけですけど、それ自体は後世になってくると、だいたい、流刑されるっていうようなかたちで、権力体系自体のなかにくりこまれていってしまうっていうような面がでてくるわけです。
それで、この場合の挿話では、なにが罰則に該当するかっていうと、権力の後継者たることを禁止されると、つまり、後継者から降ろされると、それから、もうひとつは、具体的に、とにかくどこかへ流刑されるっていうようなかたちになって、神話のなかでは死んでしまうんだけど、心中して死んじゃうってことになってるわけです。
法的概念っていうのは、そういうようなかたちで、権力構造自体のなかに、どんどんどんどん、その構成になって吸収されていっちゃうってかたちになって、そして、共同性がまさに、文字どおりの共同幻想性であるかっていうような、そういう想定される、非常に原始的な段階から、もうすでに共同幻想っていうものが、いわば垂直概念になって、権力に対する侵犯であるかどうかっていうような、そういう問題に転化されていくわけです。
だいたい、われわれが修正している、こういう統一部族国家っていうようなものの成立っていうものが、だいたい、邪馬台国論争とか、そういうような問題としてでてきているわけで、そういう場合には、日本の列島っていうもの全体を統一していくかどうかってことが問題なんじゃなくて、国家っていう概念の最初の概念は、共同体ってものは、血縁的共同体ってものを、なんらかのかたちで離れたときに、なんらかのかたちで、そういう血縁的な共同体の段階から離脱したときに、はじめて、国家というふうにいえる国家っていうのがでてきたわけで、それは、日本列島を統括する単一な国家の成立ということとは違うわけで、国家の成立たらしめているのは、血縁性っていうものを共同体が離れるや否や、国家の問題がはじめて、はじまるわけです。
そこで、そのはじまり方で、法の問題ってものが、どういうようなかたちであらわれるかっていうようなことが問題になり、それで、法ってやつは、だんだん、どういうふうなかたちで、いわば、刑罰行為、それから、清祓行為ってものを、どういうふうなかたちで、法っていうのは、吸収していくか、取り入れていくかってことが問題になってくるわけで、取り入れていくにつれて、いわば、仮に農耕的な侵犯であっても、それ自体が権力に対する侵犯であるというふうに、垂直化されているかたちになっていて、そんなところに、日本の、われわれが考えられる共同幻想っていうものが、どう移っていくかっていう問題が、最初にでてくるわけで、それはどうしても、本質的には法ってもので、それをはかるより仕方がないわけです。
その法っていうものをはかっていった場合には、法っていうものをどういうふうに取り入れたかってことが問題になって、そのことが、法がひとつの、それ自体、権力における意志であるっていうふうに転化しうる、そういう要素っていうのは、いわば、そういう概念が、法的概念な侵犯の概念が、いわば、垂直っていいますか、そういうかたちで転化されて、膨らんでいったときに、はじめて、そういう問題が発生してくるってことが、いうことができるわけです。
で、こういう問題っていうものは、起源的な国家でだけ、想定されるだけじゃないわけで、つまり、共同幻想性としての国家の本質っていうものと、それから、法っていうものは、どういう構造をもつかっていう問題、そういう問題っていうのは、いわば、経済社会的な範疇でいえる発展っていうものと、かならずしも、同致しないし、また、かならずしも、同じような連続的な発展の仕方をしないってこと、で、ひとつの社会における共同幻想性ってものは、どういうふうにして、それ以前における共同幻想性から、どういうふうに転化するかって問題になったときに、はじめて、法っていうものが、権力として、いわば、垂直性をもつようになる、つまり、空間的な侵犯であっても、それは垂直性をもつ、つまり、権力に対する侵犯の問題だっていうふうに転化されていくかって問題がでてくるわけです。
つまり、日本の国家っていうものにおける、共同幻想っていうものの、最初のあり方がどうだとか、そこにおける法の最初の形態である罪と罰の関係、ふたつ、天津罪と国津罪っていう概念にわかたれているわけですけど、そういうわかたれ方のもとにあるのは、どういうことなのかっていうような、そういう問題について、現在でも、けっして確定した説があり、絶対的に確かだって説が存在するわけではありません。
なぜ、存在しないかっていうと、いろんな実証的なデータの不足っていうのもあるわけですけど、もうひとつは、わからない、つまり、国家の起源じゃなくて、種族っていうのがわからないわけです。種族っていうものの起源がわからないってこと、そういうようなことがわかるためには、データが不足しているっていうような、そういう問題があるわけです。
それから、もうひとつの問題は、非常に重要なことなんですけど、今日のお話も、そういうことだけ訴えられればいいっていう問題なんですけど、つまり、国家っていうものの、本質的な発展段階ってものを考えていく場合に、そこにおける明瞭な、理論的な把握がないっていう、つまり、原理がよくわからないってこと、だから、実証的なデータっていうのも不足している、そして、原理的にも、実証的なデータなしにも、こういうはずなんだっていうような、そういう原理的な把握ってものが、国家については、なされていないってこと、つまり、存在しないってこと、それだから、前段階における共同幻想性ってものから、最初の統一部族社会における共同幻想性ってものは、どこに導き出されるかって問題が、だいたい実証的にも確定しないし、もちろん、原理的にもよくわからないって問題が、とにかく、つきまとっているわけです。
これは、ようするに、自然国家の問題だけではなくて、もちろん、日本の近代国家っていうような、つまり、近代天皇制っていうような問題の理解についてもいえるわけで、もし、わたしたちが、旧講座派的な天皇制理解にも、旧労農派的な天皇制理解にも、同意できない部分がある。そういう問題がひとたびでてきたときには、やはり、どうしてもこういうことが問題になるわけです。
だから、たとえば、明治維新というようなものをやる場合、明治維新とは何なんだってことを、どういう革命の成就であり、また、挫折であったか、そういうような問題を考える場合にも、一方では、どうしても、前段階における幕府法と、それから、諸藩における法との関係っていうのはどうなっていて、それが、明治の統一近代国家っていうものによって、法的には、どういうふうに転化していけるのかっていうような、そういうことを具体的にせめていかないと、明治維新っていうものの性格が、ほんとうには、わからないんだってことがある。
そういう問題っていうのは、依然として、ぼくらが知ってるかぎりでは、各藩の藩法みたいのが公刊されて、わたしたちが、金さえあれば読むことができる、調べることができるっていうような、公刊されだしたのは2,3年前ですから、まだ、いわば幻想性としての国家っていうものが、どういうふうに、明治維新なら明治維新で、どういうふうに転化したのか、なにが革命だったのか、そういう問題についての、幻想性としての、つまり、国家本質としての理解っていうのは、いまだになされていないってことがいえます。
これは、現在の問題、つまり、天皇の問題でも、同じことになってくるわけで、そういう問題意識っていうものが、非常に具体的なかたちででてくる、達成されていくっていうことは、今後に待たなければならないことは言えると思います。
それは、起源の問題でもそうなのであって、原則的に問題が、原理的にどうなるのかって問題がつかめないと同時に、実証的にどうなってるのかっていうような問題が、つかめない場合というところで、国家の問題っていうものが、論議されてくるわけですけど、この論議されてくるところの、最初の問題っていうものは、ひとつは、経済社会的な構成の現在性といいますか、現存性といいますか、そういうものから、国家の問題っていうものを突き詰めてくって問題があるわけですけど、もうひとつの問題は、共同幻想性としての国家、つまり、本質としての国家っていうものは、いったいどういう問題をもってるか、どういう構造をもっているのか、そういうところから、問題を提起し、そこでの一般法性っていうようなものは、なかなか考えにくいかもしれないですけど、そこでの原則性ってものは、だいたいにおいて確定されていくっていうような、そういう理論的な把握態度ってものも、実証的データがないのが、未開、古代以前の国家なんていうのは、そういうような場合には、原理的な考え方の確立っていうこと、筋道の確立ってこともまた、非常に重要な問題になってくるんじゃないかって考えられます。
このように考えられると思うんですけど、共同幻想っていうのは、つまり、法なら法っていうようなかたちで、はじめて、具体化の糸口を見出すわけで、その具体化の糸口っていうものは、起源にさかのぼっていけば、われわれの知りうるのは、たかだか数千年っていうところをでないわけですけど。
その数千年のなかで、だいたい、原則的に確立されている問題っていうものは、確立できるだろうって問題は、今日お話したように、どうせ国家っていうのは、家族っていうものを通過して結集していくわけですけども、家族理解っていうもののなかに、最初の問題がでてくるわけで、家族理解の問題で、最初に明瞭な原則性っていいますか、原理性っていいますか、そういうものが提起されなければ、それは国家起源の問題でも、またそれから、国家学説の問題でも、やはり、依然として、われわれの、あいまいなところで、経済社会構成というもの、それから、人間の生みだす観念世界っていうものの、共同性の問題っていうものと、あいまいな位相で折衷するっていうかたちでしか、国家論っていうものは、展開されていかないんだっていうふうに考えます。
その考え方の最初の糸口っていうのは、ある程度はいえるわけです。ある程度はいえるはずだっていうような問題を、今日、お話してみたわけです。だいたいにおいて、こういう起源の問題は、みんな、もし、原則性といいますか、原理性といいますか、そういうものがよく把握されていないと、見てきたような嘘をいうことになってきちゃうわけです。
だから、だれも見てきた者はいないわけですけど、見てきたような嘘をいうことを免れる、唯一っていいますか、方法っていうのは、きわめて実証的なデータってものが、取り揃えられる段階がくること、それから、もうひとつは、非常に原則的なっていいますか、原理的な意味で、正当な把握が、幻想性に対する把握っていうものがなされるっていうこと、そういうことが重要なことなんじゃないかって考えます。
そういう問題っていうのは、つまり、古代法、あるいは、古代社会史の学者たちの論議のなかには、見つけ出すことができないわけです。やっぱり、みんなそれぞれ違うわけです。おれはこう思ってることを言ってるにすぎないわけで、なにも確定したあれはないのででてこないと、だから、たとえば、最近でいえば、西郷信綱さんの『古事記の世界』というものが、岩波新書ででていますけど、やっぱり、読んでみて、ぼくらが納得できるっていうのが、一か所ぐらいしかないわけです。あとみんなは納得できないっていう、それは、おんなじことが、たとえば、ぼくが、今日、しゃべったことについてもいえるかもしれません。つまり、おれは納得できないというふうにいえるかもしれません。
つまりだから、相互に、見てきて言ってるっていうような問題意識をどうしても免れない。しかし、そのなかでも、嘘じゃないはずだっていうふうに、それを救済する方法っていうのは、やはり、どうしても、いまの段階では、そういうことに対する、原則的な、あるいは、原理的な論理、あるいは、理論ってものがはっきりされなければならないってことがあるわけです。その問題がはっきりされるならば、たしかにそれは、ひとつの仮説だといわれる、実証データがそろわないと仕方ないとしても、しかし、原理的に納得しうるっていう問題として、存在しうるんじゃないかなと思います。
だいたいそれは、各人各様の説が、まったくそれぞれ都合のいいところがありますから、そういう都合のいいところを引証して、都合のいいように使われていくっていうような、たとえば、単に国家の起源じゃなくて、具体的に、日本国家の起源なら起源っていうものを、ある普遍性をもって捉えようとするならば、そういうような段階にしか、現在も存在していないってことができます。
それから、もうひとつは、国家とは何かっていう問題についての本質理解っていうものが、まだ依然として、未開の段階にあるってことがいえると思います。そういう問題っていうのは、ぼくらの問題意識としては、共同幻想性についての考察っていうことになるわけですけど、ぼくなんかが、去年ここへまいりましたときから、考え方がすすめられて、なかなか思いどおりにうまくひっかからないわけですけど、すすめられたところは、こういうところだってことを、今日、お話してみたわけです。
なにせ問題が七面倒くさいですし、あんまりしゃべるのが上手じゃありませんから、うまく伝えられたかどうかは疑問ですけど、ただ共同幻想性っていうような、本質としての国家の構造っていうものを解明していく場合には、ひとつの原理的な、あるいは、原則的な、把握の仕方が必要だっていうような、そういう問題が伝えられればいいんじゃないかっていうふうに考えます。いちおうこれで終わらせていただきますが、あとなんか討論があるということなんで、そのときにお話したいと思います。いちおう終わります。(会場拍手)
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
よくわかります。対幻想っていうものとは、つまり、家族形態の総和が、家族集団の集合ですけど、それが共同幻想になるわけではないわけです。つまり、これが1,2,3,4,5って集まって、共同幻想になるってことじゃないんです。なんらかのかたちで、対幻想が転化されて、共同幻想になっていく場合には、個々の家族っていうものを、それぞれに規定している幻想性っていうものの、いわば、総和として考えられるものは、たとえば、そこで、習慣的な不文律っていうようなものは、総和として密着して考えられるわけですけども、これが、それじゃあ、共同幻想に転化するかっていうと、これがどこまでいっても、共同幻想に転化するわけじゃあないのです。
共同幻想に転化するためには、ひとつの契機がいるわけです。契機っていうものも、さまざまな契機がありえましょうけど、非常にわかりやすいのは、経済社会構成のなかでの、たとえば、この場合に、家族集団的な経済生活を営んでいた。たとえば、非常に初期段階の日本だったら、雑穀を栽培したりとか、魚をとったり、家族でやって、そこでひとつの協業っていうのが成り立って、共業体に矛盾が生ずるってことが、あなたのおっしゃる、一般者として、ここに矛盾を疎外していけば、それは、共同幻想のひとつのかたちになってきます。
しかし、対幻想っていうものを総和して、その位相で考えるかぎりでは、いつまで経ったって、それは習慣的な不文律が支配している段階の社会なのであって、そうやってひとつの共同幻想っていうものが、ある水準で想定されるためには、それは、対幻想と異なれる位相に飛び移っていかなければならない。つまり、疎外されていかなければならない。
この疎外要因っていうのは、あなたのおっしゃるように、経済社会構成のなかに、大きな原因があるっていうふうに考えてよろしいと思うんですけど、これの総和が共同幻想になるってことではないです。
それから、もうひとつは、あなたのおっしゃる、個々の成員っていうことなんですけど、ある共同幻想のもとの個々の成員ってことですけど、その個々の成員なるやつも、なかなか面倒くさいので、個々の成員っていうのは、範疇として考えた場合に、それは、経済社会的範疇としての個々の成員っていったり、厳密にいえばです、性的範疇としての個々の成員っていったり、それから、幻想的範疇としての個々の成員っていってみたり、厳密にいえば、そういうふうに言わなければならないと思うんです。
だから、たとえば、幻想性としての個々の成員ってやつは、共同幻想性に対しては、逆立していくわけです。そういう関係を想定することができます。個々の成員っていった場合にも、単に個々の成員じゃなくて、なにとして個々の成員かってことが問題になってきて、経済社会的な範疇としての個々の成員であるとか、あるいは、幻想性の範疇としての個々の成員であるとか、それから、対幻想性の範疇、つまり、性としての個々の成員なのかってことは、厳密にいえば、ちゃんと言っとかないといけない。その場合の個々の成員ってものを、同様に幻想性の世界って考えれば、個体の幻想性ってものに属しているか、それが、個体の幻想性ってものが、いわば、他者とぶつかる最初の点っていうのは、性としての範疇ってなっているわけです。
それぞれ、個々の成員ってやつの、つまり、個人幻想性ってやつを、やっぱり、いくら総和を集めても、もちろん、対幻想にもなりませんし、共同幻想にもなりません。それでも、個々の幻想性ってやつ、個体の幻想性ってやつは、これとは位相が違うし、もちろん、位相が逆さまになってるんです。そういう関係としてあるわけで、べつに、これの総和がこうなるってことじゃないです。それは、位相が違います。
位相が違えているのは、いろんな要因が考えられます。それは、幻想的なっていうか、観念的な要因っていうのも考えられますけど、いちばんはっきりしているのは、経済社会的な範疇で考えれば、いちばんはっきりするわけで、これの位相の違いっていうのは、はっきりするわけで、個体の場合でも、個々の成員っていう場合でも、その範疇をどこに属していくかってことで、とるかってことで決まってくるわけです。
幻想性としていけば、共同幻想性に対して、かならず、ひっくり返ることがでてくるわけです。それだから、けっして、総和がこうなるってことじゃないです。総和は、いくらいっても、対幻想の総和は対幻想の総和で、もしそこで、共同性が考えられるとすれば、それは、いわば習慣的な不文律みたいなものとして、こういう場合には、こうしようじゃないかっていうような、そういうような意味での総和しか、共同性は考えられないわけです。
共同幻想性っていうものが考えられるためには、個々の対幻想の総和っていうのと、違う位相で考えなければいけないってこと、そこのところは、そっちで混同しているわけで、あれが共同幻想性になるわけでもないし、また、対幻想性ってものが、そのまま共同幻想性に総和でもって移行するってことでもないわけです。
それから、個々の利害っていうものを、非常に、個々の成員が、特殊に追及しようとしはじめて、特殊な個々の利害っていうものを、個々のものとして、取り込み方をきわめていけば、あなたのおっしゃる、一般的な利害としての、共同利害っていうようなものが、抽出されてくるっていう、あるいは、疎外されてくるっていうような、そういうような関係に、いわば、利害関係っていいますか、経済社会的な範疇で考えられる、利害関係っていうものの、個々と共同性っていうような関係は、そういうふうになるわけですし、それから、幻想性としても、個体の幻想性ってものは、ひっくり返していかないと、共同幻想性に関係づけられないってことがあります。
ぼくが、いつも言ってることは、問題意識っていうのは、そういうことをはっきりしないと、解けないことがでてくるってことをいうわけです。つまり、個々の成員、個々の人間っていうような場合、それはどういう範疇で言ってるのかってことを明瞭にしないといけない。それから、家族っていうような場合、家族っていうものの、やっぱり、経済社会的な範疇での家族っていうものは、想定できるわけですけど、そういうものと、それから、そういう家族形態っていうものが、いわば、必然的に、生みだす観念なんですけど、その観念としての対幻想ってものを、明瞭に想定しないと、そこは、なかなか解けないって問題がでてくると、だから、そこのところをはっきりさせないといけないっていうのが、問題意識なわけです。
だから、けっして、同じ総和っていうもので、個人の総和が共同性で、それから、家族の総和が初期の共同体であってっていうようなことをいっているのではなくて、それは、対幻想っていうものの関係と、対幻想と共同幻想っていうものの関係であって、それで、対幻想っていうものが、共同幻想っていうものに転化する場合には、かならず、対幻想にふさわしい、つまり、対幻想として、特殊に、保持されるべきものを保持して、それから、それ以外のものは、共同幻想性ってものに、包括されていくってこと、逆にいえば、次の段階の共同幻想性っていうのは、その前段階における、対幻想に固有なものを、あるいは、それに付随しうるものを、付随したままに残して、自らが、次の共同性ってものに転化していく、そういうことが問題だと思います。
だから、連続とか、総和ってことで、個人が共同性になったり、家族が共同性になったりするものではけっしてない。そのけっしてないってことを、はっきりさせるためには、いわば、人間の自然としての範疇ってものは、かならず、観念的な、幻想的な範疇ってものは、かならず、疎外していく、生みだしていくものなんです。
生みだしていくっていう問題意識ってものが、明瞭に必要であると、そうじゃなければ、非常に、曖昧な位相で、たとえば、共同利害とか、個々の利害とか、曖昧な位相で、経済社会的な範疇っていうものを、曖昧な位相で、取り込むことになって、それは社会的に必要だったからそうなので、社会的に必要だったから、集団が組まれているっていう、そういうような言い方になってしまうんです。
それは、非常にあいまいなわけで、つまり、社会的に必要だから、個々の人間ってやつは、共同性をつくるのでありとか、かならずしもそうでないんです。それから、社会的必要っていうような言い方は、きわめて曖昧模糊として、社会的な必要性ってやつは、どういう位相で、問題のなかに入れ込んでいったらば、個々の人間の問題が、共同性の問題に転化していくかっていう、そういうことをはっきりさせないといけないっていう、はっきりつかまえていかなくちゃいけないっていうのが、ぼくの問題意識です。
(質問者)
近代天皇制、現代の天皇、その問題なんですけど。
(吉本さん)
近代天皇制っていうのは、つまり、旧帝国憲法によれば、萬世一系の天皇、これを同致するってわけです。その形態ってものは、徳川幕府時代には存在しないわけです。つまり、幕府法のなかには、萬世一系の天皇が統治するってことはないわけです。そうすると、それはある意味でいえば、非常に復元ってことになるわけです。
つまり、幕府時代において、天皇制っていうのは、どういうかたちで存続してたっていうと、いわば、さきほどからの問題意識でいえば、言い方でいえば、共同的な祭事、お祭りですね、主としてそれは、農耕に由来する祭りが多いわけです。そういう宗教的な祭り、宗教的祭事ってやつを、世襲的に持続してきたっていうふうにみられるわけです。
そうすると、そんなものにどうして、もちろん、現世的なっていいますか、政治的な権力はなかったわけです。だけど、そういう共同祭事ってやつは、つまり、共同性の性格をもったお祭りってやつは、それ自体が、イデオロギー的な意味でも、力っていうふうに、あるいは、権力っていうふうに、考えられる面があるわけです。そういうことを世襲してきたってことが、そいつが、明治以降の近代になって、統治したいっていうふうに、旧帝国憲法では転化するわけです。
そうしますと、幕府なんかを考察する場合には、明治維新のあれを考察する場合もそうですけど、幕府に政治権力があって、そして、諸藩がここにあると、これは、幕府法と藩法との関係をみると、いちばん明確にわかるわけですけど、諸藩ってやつは、いまでいえば、アメリカの州国家っていいますか、州政府、そういうものの位相で考えていいのか、それともまったく、ある程度、独立した小国家って考えたらいいのか、あるいは、そうじゃなくて、幕府における、現在の地方自治団体みたいなものとして考えればいいのかっていう問題が、ひとつあって、それから、もうひとつは、天皇制ってやつが、幕府時代には、すくなくても、現実的な政治権力っていうのはもってないわけです。
しかし、何をやっていたかっていえば、それは、共同的なお祭り、そして、共同的なお祭りを、とにかく、世襲してきたってことはやってきてるわけです。これが、ある力だっていうものを、たとえば、英国なら英国っていうのは、わりあいによく似てた、これが力だと、それから、フランスなんかは、あんまり、こっちの問題はよくわからなかったです。ところが、英国なんかは、よくみていて、これが力で、これとこれの関係はどういうふうに関係しているかとか、こっちは政治的な権力はないんだけど、なおかつ、なんらかの力があるようにみえる。その力があるようにみえるものの本質は、それは世襲的な共同祭事の主唱ってことに依存する。共同的な宗教、お祭りってやつは、非常に力として機能しうるわけです。
もし、それが、洗練されて、かつ、凝縮されてるっていうような、そういうものとして、共同的な祭事を主唱しているとすれば、その主唱者っていうのは、ある力をもっている、それは、けっして、現世的な、政治的な権力ではありませんが、そういう規制力がなくても、しかし、力をもっているのは確かです。
そういう問題から、ようするに、明治になってから、萬世一系の天皇が統治するっていうようなかたちで、わりあいに、さきほどからいいました、古いかたち、統一国家っていうものができあがって、非常に当初のかたちなんです。そういうかたちがある意味では、非常に復元されて、明治に入ってきたことがいえます。
いまの憲法では、天皇は国民統合の象徴だっていうふうになっていると思います。国民統合の象徴っていうのは、なにかっていうと、これは、象徴っていうことの解釈の問題になってくると、象徴っていう言葉は、非常にあいまいな概念ですから、いまは全然、天皇制なんていうのは、なんの現世的な政治権力をもっていないわけで、ようするに、統合の象徴だってことなんですけど、この象徴ってやつは、解釈の如何によっては、うんと拡大できるものをもっています。それを拡張解釈すれば、相当の拡張をできるという面もあると思います。
つまり、そういうふうな意味では、いまでも力をもっていると思います。しかし、いま、たとえば、それが、政治権力をもっているわけではないから、それは、もし、日本の資本主義社会がぶっ倒れたら、一緒にぶっ倒れるだろうって思います。しかし、イデオロギー的には、ゼロかっていうと、そうじゃないんです。ゼロじゃなくて、そいつはまた、司法上の解釈によるわけですが、あたかも、自衛法の解釈、どんどん拡大していけば、そうとう大きなものに拡大できるのとおんなじ、象徴だって拡大して解釈していけば、どんどん広がる、そういう面もあるということです。
だけど、べつにそれが、現在の段階、つまり、戦後の段階で、さしたる力を、現実的に発揮するっていうふうには、ちょっと考えられないと思いますけど、しかし、象徴であるっていう意味では、象徴という言葉で包括される意味は、非常に多様ですから、そういう意味では、なんか力みたいな、無形のものがあるんじゃないかな。
(質問者)
明治期のちょっと前、井伊大老の安政の大獄が起きました。あのときに、なぜあったかというと、江戸幕府以外にものすごい力があったってこと、勅諚をもらおうと思ったと、ところが、くれなかったんです。幕府は、唯一の権力じゃないよっていったんだと、天皇のもっている、国民全体の誤解も含めて、もっている潜在的な力、シンボリックな、シンボル言われましても、シンボルも含む、悪魔的な力に関して、問題はあるだろうし、ようするに、天皇が人間の手にあった、あのときから日本人の精神の挙動が起こってしまった。ああいう考え自体も、おもしろいんじゃないか、その裏付けに関しては、人間相互間では、たしかに、絶対力がないと、ところが、人間ならずに、現人神たる天皇にでてくる場合、そこにおいては、絶対的なものがあって、人間と人間の付き合いのなかに含まれるエゴイズムのそれが、政治家だって、国家のもつエゴイズムのアンチとして、天皇をもってくる場合、そのアンチとして、国家のアンチとして、天皇制を考える、それはたしかにおもしろいもので、そのあたりに関してはどう思われますか。
(吉本さん)
藤田○○っていう法律学者がいて、法的な面から天皇制っていうような問題について、本を書いているんですけど、ぼくらの一種の原罪みたいなものですね、ぼくの考えでは、だいたい、共同的なお祭り、世襲者っていう、その共同的なお祭りっていうのはなにか、それは、主として農耕的なお祭りなんです。
その農耕的なお祭りっていうものは、それが世襲されていくってことで、どうしてそれが力であるのか、それは、ぼくの考えでは、天皇制っていうのはそうなんですけど、稲作がなされて以降の問題なんですけど。つまり、共同的な祭儀、お祭りってやつは、あるいは、宗教ってやつは、そいつが非常に凝縮されたかたちになっていきますと、共同的な批判っていうものと、紙一重っていうか、そこまでは、いくものだと思うんですけど、そいつは、すくなくとも戦争中までは、恐ろしい力を発揮してきたわけで、ぼくの考えでは、そういうことで、メカニズムがわかっている祭儀、お祭りっていうのは、ひとつしかないんです、いままで、ぼくは、メカニズムが非常によくわかっている。
それは、ダイガラリョウソンにある大漁祭っていうのがあるんですけど、その大漁祭のメカニズムだけは、だいたいわかっているわけです。何なんだこれは、何を意味してるんだっていうのはわかっているわけです。それ以外のものっていうのは、それこそ資料不足で、ちょっとわからない、性格がよくわからない、だから、そういうことがあって、よくそういうものが、ひとつの追及の対象になってきて、その世襲している共同祭儀の問題を全部、メカニズムが全部できてしまうってふうになったときに、すくなくとも、知的な水準では、天皇制、あるいは、天皇の象徴っていう位置づけっていうのは、知的な水準ではなくなっちゃって、すっとんじゃう、しかし、それは、知的な水準じゃなくて、生活感性の問題だとか、そういうような問題になった場合、それはわかりませんけど、どこまでひっぱりだされるかわかりませんけど、すくなくとも、最初の契機っていうのは、共同祭儀で何をやってるのか、どういう共同体としてのことっていうのは、非常にはっきりしようが、それを追及してきた、知的な水準では、共同規範的な力、人間の力っていうものは、とんでしまうと思うんです。
(質問者)
天皇制の制度としての、天皇制の土台たる制度と、たしかに変わりますけど、ぼくは変わらないと思うんです。おそらく、江戸時代にいけば、おなじように、まったくとはいえませんけど、でてくる可能性もある。
(吉本さん)
でてくる可能性もあるでしょ、あるけれども、すくなくとも、そういう可能性については何も言えないわけだけど、すくなくとも、現在の憲法で判断されるかぎりでは、多様に拡張され解釈されても、それは、象徴ですから、それは、象徴的な意味での力っていうものをはっきりするってことがいえるとしても、べつにそれ自体では、さして問題になるっていうふうにはないと思うんです。
(質問者)
憲法さえも前提にできない状況が、いまの日本の政治的なポジションのなかに起こっている。それは、三島のように、天皇がおいでになったとは、思いませんけど、もちろん、日本の問題として、日本人の精神の問題としてでる。
(吉本さん)
ぼくは、べつにいかようにしても、いかように考えても、すでに、天皇制みたいのが復活していくっていうような、それがふたたび政治的な権力になって、たちのぼっていくっていうような、そういうふうになることは、ちょっと考え及ばないんです。
だけど、及ばないけど、根底から変わるものだとは思ってない、それは、そういうことに戦争中ふりまわされてきたわけだから、だから、わかるんですけど、そんな根の浅いものだとは思ってません。もし、それを個々の生活の次元っていう、そんな根の浅いものだっていうふうには思ってないです。
だから、その根っていうのは、ようするに、解明すればいい、できればいいんです。解明の対象として、決定的に解明できれば、ぼくはいいと思います。解明できれば、それは、いわば、知識的な水準っていいますか、そういう問題、頭の問題、観念の問題では、だいたい、力がなくなるんだって、ぼくは思っています。
(質問者)
あくまでそのままなんですか。
(吉本さん)
そうです、もちろん、現在、戦後20年、そういうものを基盤にしていっているわけです。これからどうなるかっていう問題は、わかりませんけども、そんな余計なことはできませんけども、しかし、それがふたたび、旧憲法的なかたちになっていくってことは、ぼくは想定できないです。
(質問者)
やがて、わかるんじゃないか。日本の戦争が、もう一回、繰り返されて、矛盾をあらわすんじゃないか、それに関しては、準備しておかないとダメなんじゃないかっていうのが、ぼくの考え方です。
(吉本さん)
そういう、神話っていうのはむずかしいと思うんですけど、解明するっていうのは、なかなかむずかしいと思うんですけど、神話というものの取り扱いで、いちばん面倒なのは、日本みたいに、神話自体がいくつも層をはさんで、重ねてあって、つまり、人的にいっても、混血著しいっていう、それは、もちろん、文化の層っていうのもいくえいにも重なって、わからない。そういうようなかたちで、わりあいに、新しいですから、よくできてる。つまり、派生がたくさんある。そういうことを明瞭に、つまり、作為性ってものの、神話の神話たる本性、具体的な本性っていう問題と、それから、それが、何に由来するかっていう問題、そういう問題について、ほんとうに解明されないってことは、やっぱり怖いと思います。
つまり、解明されない部分だけは、あなたのおっしゃる、復元されるあれが、可能性って、いつでもあると思うんです。しかし、解明されてしまえば、もうそれは、どうってことないわけです。もう、こういうものであるかってことで、終わってしまうわけです。なかなかむずかしい、扱い方は、だから、いまの段階というのは、ようするに、確実に、勝手な説を間引きっていう、非常に大雑把にいえば、そういう段階であると思います。それは、やっぱり、誰が見ても、そういうふうに理解する以外にないっていう考え方っていうものが、提出されてくれば、問題はおのずから解決しちゃうわけです。
いまの段階は、けっして、そうじゃないので、各人各説で、どんな人の、古代史の本を読んでも、古代法の本を読んでも、どうしても納得しない、あるいは、神話学とか、古典文学っていうのも、どうしても納得しないっていうような部分が、大なり小なり残るわけです。それは、だれについてもいえるわけで、残ると思います。
それで、だから、その残ってる部分だけは怖い面もあると思います。つまり、そういうところから、いろんな復元の意図っていうのがなされてくるわけで、そんなものは、完膚なきまで、全部はっきりさせてっていうふうになったらば、復元しようにもしようがないっていう、それを神話としてじゃなくて、イデオロギーとして、復元しようとしてもしようがないってことに、ぼくはなり得ると思います。
だから、そういう解明っていうのは、それ自体、そんなに無意味なことじゃない、まあ、緊急だとは、けっして思いませんけど、しかし、ぼくは、体験的なあれがあるから、それに固執している面もあるわけです。非常に具体的に解明して、それが、一般性として、原則、あるいは、原理っていうもの、そこに貫かれていれば、その解明がよしとした意味ではそういう関心をもつわけです。それが、力として復活するかどうかっていうことについては、ぼくは楽観的な考え方ですね。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
想定されるってことは、はっきりできるわけですし、またそれは、かならずしも、一致しないっていっても、一致しない行動はどうなってるかってことは、解明できるわけですね。それは、具体的にやれば、すぐできると思います。
すぐにっていうのは、簡単にっていう意味じゃなくて、やれば大変ですけども、しかし、こうすればできるっていう原則は、非常に簡単だと思います。そういうことは、いちばんはっきり、たとえば、そういうことをはっきりしたいと思うならば、たとえば、憲法なら憲法で、基本的人権っていうのが、確立されてるってことになってるわけです。でも、そういう説明があるにもかかわらず、確立されていない実態っていうのがあるということ、そうすると、憲法っていうのは、法的な表現と、具体的な社会で実際に起こってくる問題と違うわけでしょ。どれだけ違うかっていったら、これは、具体的に調査研究していけば、すぐにでてきます。
それから、たとえば、婚姻なんていうのがあるでしょ、男女の自由な合意があればいいんだっていう条文なわけで、実際に合意があったらいいのかっていうと、そうじゃなくて、なかなかいろんな規制があって、それは、家族から、いろんなものからあるとか、それは条項を、どのくらい、法文ですっきりして、いわれているようなことが、どれだけ具体的には矛盾があるかっていうような、それは、具体的にあたっていけば、わかるわけです。
そういうふうな掴み方は、いわば、政治的な国家っていうものと、いわば現実的な、あるいは、経済社会的な国家っていうものとの矛盾っていうものをあらわしているっていうふうにとることができます。だから、それは、そういうふうに調べていけば、そういうふうにでてくるんじゃないですか。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
習慣的な不文律みたいのは、現代においても残ってるってことですか。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
つまり、原始的な段階での習慣とか、タブーみたいなものが、現在もなお残っていると。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
つまり、技術の発達ってことで、そういうものがつぶれてなくなっちゃうものなのか、それとも、なんかの拍子で残っているものなのか。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
共同幻想っていう問題、つまり、幻想性の問題っていうものは、幻想性と関係します。つまり、観念の共同性の問題、観念性と関係します。観念性と対応します。それから、共同幻想っていうものを、具体的に支えたり、執行していったりする機関っていうのがあるでしょ、いろんな機関があるでしょ。そういう機関の問題っていうものは、物質的な問題と関係します。対応します。
だから、あなたのおっしゃることはよくわからないけれども、ようするに、それを考えていく場合に、どういうふうにしたら考えていかれるかってことは、ようするに、共同幻想性っていうのは、たとえば、個人にとっては、個人の幻想性ってことと関係します。対応します。だから、それは、幻想性の問題として、対応させて考えるべきである。
もし、それが、幻想性の問題が、たとえば、それをどう行うかっていうような、機関とか、装置とか、そういうような問題だったらば、それは、個々の人間における物質的な問題、それと対応させて考えるべきじゃないかな。そして、そういうふうにして、関係づければいいじゃないですか。つまり、関係があるかないかって問題は、そういうふうに関係づければいいので、幻想性の問題と物質的な問題ってものを対応して、その反対をやってみたりすると、うまく解けないじゃないですか。だから、それは、幻想性の問題は幻想性の問題と、対応させて考えていけば、糸口がでてくるんじゃないか。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
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