1 鷗外は美術学校時代の先生

 「鷗外をめぐる人々」ということで、自分がいくらか書いてきました高村光太郎についてお話するわけですけれども、「鷗外をめぐる人々」っていうような理想から動きますと(?)高村光太郎は非常に重要な人ではないと思います。つまり鷗外を中心に円を描いてみれば、その2番目ぐらいの円に入る人だっていうふうに思います。
 それでも高村光太郎に鷗外について触れた文章とか、談話とかがいくらかありますし、またいくらかの現実、生活のうえで交渉もあります。それで、まずそういうところから入っていきたいと思います。
 で、まず文章なんですけれども、ここに要約に書いてありますけれども、鷗外について触れた高村光太郎の文章っていうのは、ここに挙げましたように三つあります。それで、そのほかにもあるかもしれませんけれども、主なものとしてはこの三つだと思います。それで、一つは鷗外先生の『花子』、つまり鷗外が書いた、これは明治43年ごろ書いたと思いますけれども『花子』っていう短編があるわけです。で、それと、それからもう一つはこれは戦後になりまして、川路柳虹と対談したものがあるわけですけども、その対談が『鷗外先生の思い出』っていうことで鷗外について終始触れているわけです。で、もう一つは鷗外が亡くなったときに、これは談話の筆記だと思いますけども、これも短いもんですけども、頭のいい厳格な人だったっていう美校時代の思い出のことに触れて談話シキ(?)を発表しています。で、これが大体において高村光太郎が鷗外について触れたり、またしゃべったりしたことの主要なものだと思います。
 で、鷗外先生の『花子』っていうのは、これも短い文章なんですけども、どういうものかといいますと、つまりロダンのことを書いてるわけですけども、つまりロダンが花子をモデルにしたいって言うんでアトリエに呼んだときのことをテーマにして、非常に短い書いて、短編ともいえないほど短い短編を書いてるわけですけども、それについて高村光太郎はもとよりロダンに傾倒した人ですから、鷗外の書いた『花子』について非常に、つまりロダンの芸術上の考え方っていうものを非常に短い短編の中でよく浮き彫りにしているっていうような文章を書いています。
 で、ただ事実問題として、例えば違うところもあると。で、ロダンが最初に花子に会ったのは、鷗外の小説ではアトリエっていうことになってるわけですけども、最初に会ったのは芝居、劇場の楽屋裏であったっていうような。それはやっぱり事実とは違うことであると。それからもう一つはロダンは花子に「モデルになってもらいたい」っていうことで呼んだわけなんですけども、鷗外の小説では花子が潔くモデルになることを承知して、潔く着物を脱いだみたいになってるけども、本当はそうじゃなくてなかなか脱がなくて恥ずかしそうにしていたっていうのが事実であろうと。そういうようなことは小説ですからフィクションとしていいわけですけども、しかしとにかく非常に短い短編なのに、よくロダンの考え方っていうようなものは浮き彫りにしてるっていうような、そういう文章を書いております。
 それから『鷗外先生の思い出』っていう対談はいろんなことに触れているわけですけれども、つまりその中で一番印象的な場面っていうのは、つまり高村光太郎がヨーロッパから帰ってきまして、それでしばらく経ったころだと思うんですけれども、鷗外に、つまり少し酔っ払いまして、つまり立ちん坊に軍服を着せて剣を吊ると鷗外みたいになるっていうようなことを酔っ払って放言したわけです。で、その放言が新潮という雑誌のゴシップ欄に出まして、で、それに対して鷗外がカンカンになって怒って、それで釈明の手紙やら出かけていって謝ったりしたというような、そういうことが非常に印象深く語られているわけです。で、つまりそういうことを確かに言ったかもしれないけど、酔っ払っててよく言ったかどうかもよく分からないような状態だったけど、とにかく謝りに行ったっていうことです。で、謝りに行ったら要するに「お前は前々から私に含むところがあるんじゃないか」っていうふうに言われて散々油を絞られたっていうようなことを話ししています。それで、高村光太郎は鷗外を非常に尊敬してたと。それで、しかしどうも学校の先生だっていうこと、つまり美校のときに習ってるわけですけども、学校の先生だっていうところでどうしても引っかかって、なんとなく引っかかるもんがあって、そういうところが出たんじゃないかっていうようなことを言っています。で、これはその次の鷗外との交渉についてっていうところでもまたお話できると思います。
 で、もう一つは鷗外が死んだときに談話を発表してるわけですけども、それは美校時代のときに鷗外が美校の先生で、つまり何を講義したかっていいますと美学な、ハルトマンの美学なんですけども、美学の講義をしたと。で、非常に厳格な先生で、近寄りがたいものがあり、それからうっかり馬鹿なことを聞くと怒鳴られそうな気がして非常に怖かったっていうようなことなんですけども、それでそこで挿話を書いていますけども、あるとき1人の学生が仮称ですね。仮称っていうのは仮の形っていうことですけど「仮称っていうのはなんのことですか」っていうふうに聞いたら、鷗外がカンカンに怒って「仮称が分かんないんならお前なんか試験を受けなくていいから帰れ」っていうふうに怒鳴ったっていうような話をそこで書いています。で、鷗外は非常に頭のいい人で、講義も非常に面白いしユーモアもあって、交えて、非常に立派な講義だったけれども、うっかり馬鹿なことを言うと叱られそうな気がしておちおち質問もできないっていうような、そういうような厳格さっていうものを持ってたっていうような、そういうことをこの鷗外が死んだときの追悼の談話では言っております。

2 高村光太郎はへそのまがった人

 で、今度は実生活上でのいろいろな交渉っていうことになるわけですけども、高村光太郎の文章を読みますと、ところどころ出てくるわけですけども、少年時代に鷗外の訳した『即興詩人』を非常に熱読したと。それで暗唱するほど熱読したんだっていうようなことは書いています。それで、このことは『即興詩人』は当時の文学好きであった若い人たちに非常に熱読されたもんで、そういう意味では別段高村光太郎の『即興詩人』に対する(???)執着っていうものが特別であったっていうことは言えないと思います。
 それから美術学校、だから今の芸術大学ですが、美術学校に入っていたときに、先ほども触れましたように鷗外が美学の先生として講義を受けたっていうことが。それで、鷗外が講義したのは今でいえばサルトルみたいなもんで、非常にヨーロッパで騒がれた哲学者なんですが、ハルトマンっていう哲学者なんですが、その哲学者の美学についての講義を鷗外が美術学校でやったっていうことなんです。それで、鷗外は高村光太郎のおやじさんっていうのがやっぱり美術学校の先生でしたから、そういう意味では父親は鷗外と学校での同僚だったっていうようなことがあったわけです。それで、これは真偽のほどはよく分かりませんけれども、っていうのはそんなにはっきりと確認できませんけれども、高村光太郎の徴兵検査っていうものを延期するっていうようなときに、与謝野さん(?)か何かの口利きで、鷗外に頼んで徴兵延期のことを運んでもらったっていうような、そういうようなことが言われています。で、それは美術学校を出てからのことですけども、そういうところでは実生活上、あるいは現実上で鷗外との交渉があったっていうふうに言うことができます。
 で、住まいが皆さんご承知のように、近いですから、鷗外が馬かなんかに乗って団子坂を上がったり下りたりするところを見たかもしれません。そういうようなことはあったと思います。
 それから高村光太郎がちょうどヨーロッパから帰ってきた、割合にすぐ後なんですけども、鷗外が歌会っていうものをやったことがあります。で、その歌会はここに4番目の観潮楼歌会って書いてありますけども、これに高村光太郎も呼ばれたと。そういうようなことがあります。で、ところで高村光太郎は一度ぐらいしかこの歌会には出ていないそうです。これは北川太一さんっていう高村光太郎の研究家が居るわけですけども、北川さんのあれでは1回ぐらいしか出ていないそうです。それで、なぜ出なかったかっていうのは大変面白いわけですけども、とにかくなんだかんだ理屈をつけて1回しか出てないそうです。で、今そこを入ってきました、そこに高村光太郎から鷗外に宛てた手紙がありますけど、あれたいていみんな「今度はどっかへ旅行に行くから出席できません」とかっていうような、そういう手紙があそこに並んでいましたんですけど、そういうような調子でなんだかんだ要するに理屈をつけてあんまり出なかったと。つまり1回だけ出たっていう、1回ぐらい出たっていうような、そういうことらしく思われます。
 で、それは高村光太郎っていう人は非常にへその曲がったところがある人ですけども、文章を読みますとそういうへその曲がったところはちっとも出ていないので、本当のところはよく分かりません。つまり鷗外に対してどういうような考え方、感じ方を持っていたかっていうことは、本当はよく分かりません。それで、ただ鷗外の生き方っていうもの、それから高村光太郎の生き方っていうものを考えてみますと、あながち頭のよい厳格な人であって、自分は尊敬していたっていうような、そういう言葉の裏にはなんかもっと違うものがあったかもしれません。
 つまりあまり鷗外の経理人(?)に向かって求心的なところがあるわけですけども、そういうものに対しては高村光太郎はある意味で非常に反感を持っていた。つまり潜在的な批判を、あるいは反感を持っていたんじゃないかなっていうふうに推察はできます。
 で、観潮楼歌会で高村光太郎が詠んだっていうふうにいわれている短歌が一つだけあります。で、これももっとあるわけでしょうけども、よく分かりません。それは盆という、盆っていうのはお盆っていうことですけども、いやいや、違います。盆っていうのは普通のものを載せるお盆っていうことですけども、
いちりきの こてると我と 酒飲めば 飯をつぐとて 盆を出す人(?)
 っていうのがあるんですけどね。
いちりきの こてると我と 酒飲めば 飯をつぐとて 盆を出す人(?)
 っていうのがあるんですけど、これが観潮楼歌会で高村光太郎が詠んだっていうふうにいわれている作品です。で、それ以外では観潮楼歌会でどのような歌を、1回出席してどのような歌を作ったかっていうようなことはよく分かりません。

3 「立ちん坊」事件

 それからその後の、先ほどもちょっと触れましたですけど、立ちん坊事件っていうのがあるわけですけども、これは高村光太郎がヨーロッパから帰って、一種のデカダン状態であり、また何かと先輩筋、先生筋っていうものには楯を突いていたっていうような、そういう時代だと思うんですけども、そういう時代に先ほど言いました対談で語っているところによりますと、湯島の裏のあたりに妙な格好をする立ちん坊が居たと。それで、そういう立ちん坊が居たっていうことに引っ絡めて、あの立ちん坊に軍服を着せて、それで剣を吊らせた森鷗外とそっくりじゃないかっていうような、そういうようなことを言ったと。それで、それがいわばゴシップとして雑誌に載りまして。それでこれは北川太一さんのあれですけども、鷗外は観潮楼カンワ(?)っていう文章を書きまして、2回にわたってそのことについて触れているそうです。で、こいつは全集には収録されていないんじゃないかっていうように思いますけど、2回にわたってその高村光太郎の放言に対して触れているとのことです。僕自身が確認できませんでした。探しだせませんでしたけども、2回にわたって触れているそうです。そして問題が酔っ払った挙句の放言っていうことじゃ済まなくなって、で、高村光太郎が手紙を出し、そして謝りに行ったと。で、さんざん油をしぼられたっていうような、そういうような事件があります。
 で、鷗外にしてみればそんなことを言われるっていうのは俺に対して含むところがあるっていうか、つまり言い分があるんだろうっていうふうなことなんでしょうが、高村光太郎にしてみれば、つまり鷗外が文字どおりの美校時代の先生ですし、いろんな父親とのいろんな同僚であるっていうような因縁もありますし、いろんなことが挟まっていたでしょうけど、鷗外の文学、芸術に対する態度っていうものが一種のゆとりっていいますか、ムキになってぶつかっていくっていうようなところから若干位置をずらして、それで芸術、文学に対しているっていうような、そういう姿勢が高村光太郎にとっては非常に不満であったんじゃないかっていうことがいえます。で、そういうようなことでついそういう放言が飛び出したっていうような、そういうことらしく思われます。
 で、高村光太郎っていう人はそういうことで鷗外に対してもそういうことで物議を醸すっていいますか、そういうことがありましたし、また漱石とも言い合いをしていることがあります。その場合には、要するに漱石が、つまり芸術っていうものは、芸術あるいは文学っていうものは、自己表現っていうものに始まって、それで自己表現に終わるものなんだっていうような、そういう趣旨のことを述べたのに対して、高村光太郎は芸術ってものは自己表現に始まるなんていうことはあり得ないと。つまり自己表現なんていうものを目指すんじゃないんだ。しかしその結果が、作られた作品の結果が作った人の自己表現になっているっていうようなことが、結果としてあるとしても、まず芸術あるいは文学っていうものが自己表現から始まり自己表現に終わるっていうようなことはないっていうような、そういうような文章をまた高村光太郎は書いてるわけです。で、その場合には漱石の言う意味の、芸術は自己表現に始まり自己表現に終わるっていうような、そういう意味は少し高村光太郎が言った意味とは違っているわけで、つまり文学芸術っていうものは、どんなふうにどうあがいてもそれは要するに、つまり個人のものだと。つまり個々の人間が生み出す以外に、芸術文学なんてものは生み出されることはないんだっていうこと。つまり芸術文学っていうものは、もともと個人の表現に属しているっていうことを言いたかったわけでしょうけども、高村光太郎はそれを一種のだしに使いまして、そして芸術の本当の大きさっていうようなものは自己表現しようと思って始まり、自己表現に終わるっていうんじゃないので、初めに目指すっていうものはそういうことじゃないんで、その結果として自己表現であると。つまり、それは確かにそれを作った者の物であるっていうような、そういうことがあり得るんだっていうこと、若干その意味の取り方のずれがありまして、それでずれをもって言われたために、違う意味合いのものになり、また別にそれが論争として展開されているっていうこともなくて、漱石のほうから言わせれば「あいつは俺の書いた主旨っていうものを本当に理解してない」っていうようなことを漱石に言わせて、それでその問題は終わりになったっていうようなことがあるわけですけども、いずれにせよ当時漱石と鷗外っていうものは一種別格の、日本の文学の世界では別格の存在で、別格の大きな存在とされていたわけですけども、ヨーロッパから帰ってすぐの高村光太郎っていうのは、しきりにそういう別格の存在に対して何かと突っかかっていったっていうような、そういうことがあったわけです。
 そういうことがだいたい高村光太郎と鷗外との関係っていいますか、つまり鷗外をめぐる人々の1人としての高村光太郎っていうものは、だいたいその程度の交渉で終始したっていうふうに考えられます。だから先ほど言いましたように、決して鷗外をめぐる円の中の一番内側の円の中に居たっていうようなふうには言えないと思います。そういう意味では、2番目ぐらいの外回りの円の中に高村光太郎は居たっていうような、そういうことがだいたい結論できるんじゃないかっていうふうに思います。

4 鷗外の留学体験と『舞姫』

 で、皆さんのほうがよく知ってるかもしれませんけども、鷗外には、これは医学の研鑽の目的でヨーロッパへ留学したわけですけども、帰ってきてから、いわば処女作なんですけども、処女作っつっても本当は『うたかたの記』っていうのが最初に書かれたかと思いますけども、とにかく発表された処女作である『舞姫』っていう作品があります。で、この『舞姫』っていう作品は鷗外にとっても非常に重要な作品だと思いますけども、この『舞姫』っていう作品を見ますと、つまり鷗外の留学の仕方っていいますか、留学の仕方っていうものがある程度はっきりと分かるわけです。
 で、この、今ではあまり留学っていってもそれほどの意味はないわけですけども、当時の日本でいってみれば、留学っていうことは非常に大きな意味を、各個人にとっても、それから文化っていうものの全般を考えても、大きな意味を持っていたわけです。で、だから例えば鷗外もそうですし、夏目漱石もそうですし、それから永井荷風も、それから高村光太郎もっていうふうに、それぞれ留学をやっているわけですけども。で、その留学のやり方っていうものは、ある意味でそれらの人たちの一生、生涯の生き方なり、それからまた生涯の作品なりの方向を決定しているっていうふうに言えます。で、それほど留学っていうものは大きな意味を持っていたって、つまり個人にとっても文化全体にとっても、大きな意味を持っていたことが分かります。
 で、だからそういう観点から言いますと、つまり比較留学論みたいなことが非常に可能なのであって、どういう留学の仕方をして帰ってからどういうふうに生涯のコースっていうものを決定したかっていうようなことは、それぞれの文学者、あるいは芸術家っていうものの生き方を、その後の生き方っていうものを比較検討すると、大きくいえばそれは日本の文化っていうようなもののあり方の問題にもつながっていくと思います。それで、そういうような意味での留学っていうようなことの意味は、現在でもあるいはあまり変わらない問題としてあるかもしれません。つまりそれほど重要な意味を持ったわけです。
 で、鷗外の『舞姫』ですと、つまり主人公の太田豊太郎っていうのは、いくぶんか鷗外に似せて書いてあるわけですけども、つまりドイツで非常に貧しい踊り子と仲良くなると。それでそういうことが評判になって、本国からの経済的な支援っていうものを絶たれると。それで自分で雑文書きみたいなのをしながら一緒に居るわけですけども、友人の勧めでいつまでもそういう踊り子と関わり合っていたら駄目だからっていうことで仲を裂かれて、そして帰ってくると。それでその踊り子は気が触れてしまうっていうような、そういうようなこと、結末なんですけども、鷗外の持っている一種の、つまり家名を上げなくちゃいけないっていうような意識とか、立身出世しなくちゃいけないっていうような、そういう意識とか、また非常に品行方正な秀才であったっていうような、そういうような意識っていうものがその踊り子をきちがいにさせて、それで帰ってきたっていうような結末になっていくわけです。実際問題としても、『舞姫』っていう小説の内容そっくりではありませんけれども、それに類したことがあって、この『舞姫』の女主人公であるエリスっていう踊り子が居るわけです。それは鷗外が日本に帰ってから追いかけてくるっていうような、そういうような事件もまたあったわけです。それを親類縁者でもってなだめて、それで追い返してしまうっていうような、そういうような事件が現実上にあったわけですけども、そういう鷗外の、この『舞姫』に描かれた葛藤の仕方があるわけですけども、葛藤の仕方っていうものはやはり鷗外のその後を決定していったんじゃないかっていうことが言えるわけです。
 で、その、つまり鷗外っていうものを、鷗外の文学っていうものを知識人の文学っていうようにじゃなくて、つまり一種の教養人の文学っていいますか、教養人の文学っていうようなところに鷗外の文学を外れさせていったっていうような、そういう要因の中には、つまり鷗外が現実上、つまり現実社会上、つまり非常に大きな地位を持ってしまったっていうことが、非常に大きな要因としてあると思います。だから鷗外の文学っていうものを知識人の文学っていうふうに考えようとするのが、つまり知識人の文学っていうのは何かっていいますと、つまりその時代における社会、そして文明、文化っていうようなものが、そういうものの相対が持っている課題っていうものに対して、まず決して目をそらさないっていうような、そういう生き方っていうものを知識人の文学っていうふうに言えば、鷗外の文学を知識人の文学にさせているのは非常にごく初期の作品に限られるわけです。
 つまり『舞姫』なんかもそうですけれども、つまりそういうところに限られるわけです。そして鷗外はそれチュウドウ(?)で、いわば一種教養人の文学といったらいいんでしょうか、そういうような位相に自分をずらしていくわけです。で、そのずらし方っていうのは、つまり非常に真正面から自分が持ってる問題、あるいは文化が持ってる問題、そういうものに真正面から挑んで、どこまでも追求していくっていうような、そういうような作品を書くにはやはり社会的な地位っていうものが大きすぎたっていいますか、非常にじゃまになったっていうようなことがあると思います。それで鷗外は、そこでいわば知識人の文学、課題っていいますか、文学っていいますか、そういうものからいくらか身をずらしたところで作品を書いていくというふうになっていったと思います。
 そしてそういうふうになっていって、それが一種の自然小説になって完成されていくっていうような、そういうようなかたちが鷗外には考えられるわけです。

5 光太郎の留学体験と『珈琲店(カフェ)』より

 で、これをちょうど鷗外の『舞姫』に相当する、相当するっていうのは匹敵するっていうことじゃないんですけど、相当する高村光太郎の作品っていうのが、ここに書いてありますように『珈琲店(カフェ)より』っていう作品があるわけです。これは非常に短い小説なんですけれども、高村光太郎はあんまり小説なんていうものを書いてないわけですけど、その中では非常に珍しい作品なんです。
 で、『珈琲店(カフェ)より』っていうのはどういうふうな内容かっていいますと、つまり主人公がパリである夜、偶然町中で3人の女の子と会うわけです。で、別に見知り合いでもなんでもないわけで、行きずりなんですけどもなんだかんだっていうように交渉が生じて、主人公がその中の1人の女とホテルへ行って泊まるわけです。それで、一夜明かして、それで翌朝起きて鏡の前へ立ってみたら、非常に気持ちが悪いくらい色の黒い男が、黒い貧相な男が鏡に写ってると。それで、それはいわば自分なわけですけども、それで主人公は急に自己嫌悪にかられて、それで早々にして女と分かれて帰ってしまうっていうような、そういうような作品なわけです。
 で、その作品っていうものはやはり高村光太郎の考え方っていうものを見ていくうえには非常に重要なものであって、高村光太郎にはやっぱりヨーロッパに留学しながらどうしてもヨーロッパに溶け込めないっていうようなものが残ってくるわけで、その溶け込めないっていうような問題をどういうふうに突き詰めていくか、どういうふうに解いていくかっていうことが高村光太郎にとっては生涯をやっぱり決定していく大きな問題であったわけです。で、結局高村光太郎の場合には彫刻なんですけども、例えばヨーロッパの白人の女性をモデルにして彫刻をやって、彫刻のモデルにして制作をやると。そうすると、どうしてもモデルっていうものの心に入っていけないっていうようなことを感ずるわけです。つまりどうしてもモデルが何を考え、そしてどう思ってるのか、そしてその何を考えっていうことの中には、どういう社会的な伝統っていうものが、あるいは文化の伝統っていうものがあって、だからしてどういうふうに考えてるのかっていうようなことがまるで分からないっていうこと。つまり、もし制作しながらそのモデルの心っていうものが分からないならば、制作なんていうのはいくらやっても駄目なんじゃないかっていうこと。つまり日本の女性ならば、例えばモデルならモデルとして向かい合っていても何を考えてるかとか、どういうふうに感じてるかっていうことはすっと、いわば直感的に分かってしまうものがあると。しかし、どう考えても白人の女性をモデルにして制作をしていても、モデル自体が何を考えているのか、そしてその背後にどういうものがあるのかっていうようなことがどうしても分からないような感じに襲われるわけです。で、そういう感じっていうのが高村光太郎を留学から早々に切り上げて帰ってこさせる非常に要因になっていきます。
 それで、そういうことを考えていきますと、その『珈琲店(カフェ)より』っていう作品っていうのは鷗外にしてみれば『舞姫』に相当するような作品であるわけです。それで、高村光太郎はそういうふうに考えてって、つまり例えば芸術っていうものの伝統っていいますか、非常に豊かな伝統っていうような、ヨーロッパにあると。そして、例えば高村光太郎の非常に傾倒していたロダンならロダンっていうものを自分の父親である高村光雲なら光雲っていう彫刻家と比べてみれば、方っぽうは非常に職人であるし、方っぽうのロダンもまた非常に優れた職人ですけども、その職人性っていうものの中には、つまり一種の厚みもあり、それから一種の思想っていうようなものも含まれていると。そういうようなものが、例えばロダンとそれから日本の近代彫刻、木彫ですけども、の非常に重要な作家である自分の父親っていうものを比べてみた場合にまるで違うっていうようなこと。そうすると、そういう問題っていうものは、例えば白人のモデル女の心っていうものが全く分からないっていうような、分からないっていうのは了解できないっていうような、そういうことと非常に一致していくわけで、そういうところで高村光太郎が帰国して後、非常に一種の放蕩、デカダンスの生活っていうものが始まるわけです。つまり自分が考えているような芸術としての彫刻なんていうものは、日本に帰ってきたって居ないと。それで、最も居ないっていうものの典型は、一番大きな典型が自分の父親であると。で、自分の父親は、しかし自分にとっては非常に肉親でもあるし、また父親の経済的な保護っていうものもなしには自分が生活していくこともできないと。しかし、ひとたびヨーロッパの例えば彫刻の歴史の厚みっていうようなものを体験してしまった後では、とても我慢ができないっていうような、そういうような矛盾、混乱っていうものが高村光太郎を帰国後に非常にむちゃくちゃにしていくわけです。
 で、むちゃくちゃの中で鷗外との立ちん坊事件なんていうのが起こってくるわけですけども、つまりそういう精神状態の中で高村光太郎が非常に思い悩むわけです。で、その思い悩み方っていうのは、例えば日本の彫刻の非常の色体(?)でいえば、高村光雲の2代目が彫刻の勉強をして帰ってきたと。そして弟子たちを集めて2代目として彫刻界に押し出していくっていうような、そういうようなことが受け入れればごく普通に受け入れられた状態なんでしょうけど、そういうことが全く受け入れられないと。全くくだらないことであるっていうふうに思えると。そうかといって、自分の行く道が見つかるわけじゃないと。そういうような状態が高村光太郎の留学から帰ってきた最初の、いわば嵐っていうようなものであったわけです。
 で、鷗外が留学したころはそれこそハルトマンの哲学なんですけども、高村光太郎が留学したときはちょうど、いわば文学上の自然主義っていうものと、それから芸術上の印象主義といいますか、そういうようなものの潮流の中にあったわけです。それで、高村光太郎がヨーロッパから、つまりヨーロッパの文学、芸術っていうものから学んできたものは何かっていいますと、いわばそういう自然主義の風潮の中で、自然主義、印象主義っていうようなもののキョウリュウ(?)っていうものを学んできたわけです。それで、ヨーロッパの自然主義っていうものは、文学あるいは芸術のうえでいいましても非常に多種多様なわけで、それぞれニュアンスが違うわけですけども、その中で何が残るかっていいますと、自然っていう、つまり自然っていうものをどういうふうに捉えるかっていうような、そういう問題が最後に残ってくるわけで、その問題はやはり高村光太郎を芸術上、非常に大きく悩ました問題で、それは高村光太郎が帰国後に美術評論とかの翻訳とかでヨーロッパの自然主義と、それから芸術上の印象主義っていうようなもの、そういうようなものの紹介を盛んにやったわけですけども、その紹介をやりながらどういうふうにして自分なりの自然、つまり自分なりの自然主義なわけですけども、そういうものをどういうふうにして築いていくかっていうようなことが、高村光太郎にとっての帰国後の重要な課題になっていったわけです。

6 光太郎の自然主義

 で、そういう課題の中で高村光太郎の生涯のコースっていうものは決定されていくわけですけども、高村光太郎がどういうふうにして自分なりに自然っていうものに対する考え方をどういうふうにして獲得していったかっていいますと、だいたいこれまたヨーロッパの自然主義っていうものとちょっと概念が違うわけなんですけども、高村光太郎の一種の自然主義っていうものは、つまりこれを思想上、あるいは観念生活上、あるいは精神的な課題としていいますと、人間というものはつまり善をなす動物であるし、また同時に悪をなすことができる動物である。それからまた道徳的であることもできるし、また非常に背徳的であることもできると。
 で、もし人間を測る価値基準っていうものはどこにあるかっていうふうに考えていった場合に、何に価値を与えるかっていうふうに考えていきますと、つまり善だから価値があって悪だから価値がないっていうようなことは言えないと。それからまた、道徳的だからよろしくて背徳的だから悪いっていうことも言えないと。で、非常に折り目正しく礼儀正しいから、真実だからそれが価値があるっていうふうにも言えないと。それからまた、非常に狡猾であるから、また非常に獰猛であるから、それが価値が少ないっていうことも言えないと。
 要するに、もし人間っていうものがあらゆる崇高なことからあらゆる卑小なこと、それからあらゆる狡猾なことからあらゆる真実なこと、すべて人間っていうのは行え得る可能性を持っているとすれば、本当に価値があるっていうことは要するに、そこに作為、あるいは功利といいますか、結果に対する配慮っていうようなものが全くなくて、やることが自然であるならば、つまりやることになんら作為がないならば、それは狡猾であろうと獰猛であろうと、それはやっぱり非常に価値があるんだって。それからいわば一般的に非常に背徳であるっていうふうにいわれていることだって、それがもし自然ならば、つまり作為がないならば、それはやはり価値のあることである。つまり、もし、だからそういう意味で自然っていうものに則って、つまり人間の自然っていうものに則っていくっていうことならば、それは非常に個人を律する価値観でもあるし、またいわば世界を律するっていいますか、全体を律する価値観ともなり得ると。つまりまた、それは道徳、あるいは倫理っていうものの名を被せられない倫理でもあり得ると。つまりそれは個人を律する基準でもあり得るし、また全体を律する基準でもあり得ると。そういうふうなものを例えば自然っていうふうに呼びますと、それが要するに最も正しいっていいますか、大きな基準なんだっていうようなこと。
 だからそれは芸術観でいえば、例えば彫刻作品なら彫刻作品っていう場合に、何を、彫刻作品っていうのは一体なんなのかっていうようなことになっていくわけですけども。で、高村光太郎が考えたのは、そもそも要するに彫刻性っていうものは何かっていうと、要するにそれはもともと、要するに自然の中にある、例えば岩石なら岩石がぽっとこうあったと。それでだいたい彫刻なんていうのはどういうふうに始まったかっていうと、そういう自然物っていうものがまずとにかくあって、それでそういうものを例えば人間が改めて、例えば自然の岩石なら岩石があったときに、改めてそういうものを自分の手で作りたいっていうようなふうに欲求したときに、例えば彫刻っていうような芸術のジャンルっていうのが発生したんだっていうのが高村光太郎の考え方なわけです。
 だからもとを正せば、要するにそれは人間がそこに居なくても、また人間が居ない以前からそこに石があり、それで木があり、草がありっていうのは、そういうふうにあったもの、それを例えば人間っていうものがいわば自分の手で作りたいっていうようなふうに、自分の手で実際に手を動かして作ってみたいっていうようなふうに考えたときに彫刻っていうものは発生した。だから彫刻っていう概念ももとを正せばやはり、もうどうしてもそこに行き着くんだっていうようなことが高村光太郎を支えた芸術観であったわけです。
 それで、そういうふうに考えて、つまりそういう考え方に、例えば高村光太郎が到達したっていうにはいくつかの理由が考えられるわけですが、それは先ほど言いましたようにヨーロッパのちょうど自然主義運動の真っ只中に留学して、それを真正面から浴びたっていうようなこと。それでその場合に、先ほど言いましたように、何が、つまり白人のモデル女だったら全く分からないっていう、そういう全く分からないっていうようなものをどういうふうに分かるように、つまり自分のものとして差し出し得るかっていうようなこと、つまり自然主義文学芸術運動っていうもの、そういうもののヨーロッパにあるものを例えば自己流に、自分流に、例えば自分流なところで組み立て直していくっていいますか、そういうことが一つの要因だったと思います。つまりそういう自然観っていうものを自分なりにこしらえていった要因だったと思います。それでその自然観はヨーロッパ自然主義における自然観、あるいは印象主義における自然観っていうものと似ても似つかないわけですけども、それは自分なりにそういうふうに、いわば焼き直したっていいますか、自分なりに考えついていったっていうような、そういうものとして考えることができます。
 それで、だからそういう問題とやっぱりもう一つは、つまりある程度ヨーロッパから帰ってきて混迷状態になって、むちゃくちゃな生活の仕方をするわけですけども、そういう過程が何年かの後に、例えば奥さん、長沼千恵子ですけども、奥さんと結婚した以後ピタリと収まっちゃったわけです。で、つまり収まっていったっていうのはそういう生活上の過程っていうものがまた一つ自然観、高村光太郎の独特な自然観っていうものを作り上げていった要因になったっていうふうに考えることができます。

7 『道程』-独特の自然思想にささえられた作品

そうしますと、例えば皆さんがよく知っておられるあれでは『道程』っていう詩集が最初にあるわけですけども、この『道程』っていう詩集っていうものは、つまり非常に混迷状態にあった時期の作品とはそうでなくて、奥さんと結婚して家庭生活を営んでいくっていうような、いわば先ほどから言っている独特の自然観っていうようなもの、自分なりの自然主義なんですけども、そういうものを形成していった後の作品と、二つ、両方とも合わさって収録されているわけですけども、『道程』っていう詩集を背後から支えている思想のようなものがあるとすれば、初期の模索時代、混迷時代っていうものを経てそういう独特の自然観っていうものに達した以後の作品っていうもの。そういうものが『道程』を背後から支えていた思想だったっていうふうに言うことができます。
 だから『道程』っていう詩集の中に『道程』っていう短い詩がありますけれども、その詩は例えば

自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ

っていうような文句があるわけですけども、自分を混迷から一種独特の自然観でもって、自分を生活的にも、また芸術的にも統一させていくっていいますか、そういうことをさせてくれたものはやっぱり自然なんだっていうような、そういうようなことが『道程』っていう作品の中に込められているわけです。
 それで『道程』っていう作品はどういうところが、つまりこれを『道程』っていう作品をそれだけを取り出して読むっていうことじゃなくて、これを当時の詩の世界っていいますか、詩の世界の中にぽとっと置いてみて、そしてどういうような意味があるかっていいますと、一つは今言いましたように、それが高村光太郎という詩人、彫刻家の独特な自然思想っていいますか、そういうものに背後から支えられているっていうような、そういう問題が一つあります。そういう位置の重要さ。つまり日本における自然主義運動っていうのがあるわけですけども、その日本における自然主義文学運動の中での、そういう意味でも独特の、いわば一つの自然主義としての一つの場所を獲得しているっていうことが言えます。それからもう一つは、つまりこれは例えば皆さんが(島崎)藤村とか、それから少し後の(蒲原)有明とか(薄田)泣菫とかっていうような、そういう象徴主義の詩人たちの作品っていうものと比べてみれば分かるわけですけども、人間、つまり人間の持っている内的なリアリティっていいますか、心理的なリアリティっていいますか、そういうものは詩の作品の中で定着し得たっていうことは『道程』が最初であるわけなんです。つまりそういうふうに当時の詩の例えば象徴主義の代表的な詩人である、有明なら有明、あるいは薄田泣菫なら泣菫っていうような人の詩の作品っていうものと比べてみればすぐに分かりますけども、つまり心理的リアリティっていいますか、内面の動きっていうものを微細に捉えるっていうような、そういう捉え方っていうのは当時の詩の表現の仕方の段階では不可能ではあったわけですけども、それをまず非常にはっきりしたかたちで真っ先に実現しているっていうようなことが言えます。それは『道程』の持っている非常に特徴のある点だと思います。これは例えば白秋の詩にもないし、三木露風の詩にもないので、つまりそういう心理的リアリティっていうものを非常にはっきりと獲得しているっていうこと。それは今でこそ例えば非常に当たり前なわけですけども、つまり今僕たちが『道程』って作品を読めば、非常にそんなことは分かりきっているっていうようなふうに読めるわけですけども、当時の日本の詩の歴史の中でぽっと置いてみた場合には、それが非常に画期的なものであったっていうことが言えると思います。
 つまりそういうことをまず同時代に実現し得たっていうふうに考えられるのは、『道程』とそれから、これは短歌の作品ですけども、短歌の作品における啄木ですね。例えば啄木のなんともいえない懈怠っていいますか、懈怠を歌った短歌の作品があるわけですけども、つまり例えば
うぬ惚るる友に合槌うちてゐぬ施与をするごとき心に
っていうような、そういうような作品があるでしょう。それからそういうような作品とか、空き家の中でこっそりして(?)たばこを飲んだとか、そういうような作品があるんですよ。そういう作品は非常に大きな意味を持っていますし、また非常に困難なことだったっていうことがいうことができます。これはこの困難さっていうのは、ちょっと、つまり想像を絶するわけで、想像を絶する意味合いを持っていたっていうことは言えるわけなんです。これはちょっと現代から考えてではうまく再現することはできませんけれども、非常に重要な意味を持っていたっていうふうなことが言えます。
 で、そういう詩の表現の中に心理的な微細なリアリティっていうものを与え得るっていうことは、そういうことがどうして重要なのかっていいますと、そういうことはある程度借り物でない近代っていうものを、つまり借り物でない近代意識っていうものを、そういうものを借り物でない近代っていうものを少なくとも高村光太郎なら高村光太郎、あるいは啄木なら啄木っていうような個人が獲得していたっていうことを意味するわけなんですよ。つまりそういうことは例えば現代の詩の表現の段階では別にそれは物珍しくもなんでもないわけなんですけども、当時として考えれば、いわば借り物の近代ではなくて、内側から走っていくっていうようなそういう近代っていうもの。そういうものを獲得していることを意味しているんです。で、そういうことは非常に個々の優れた人にしか見られないわけで、啄木なんかも初期の文語調の詩がつまり有明なんかをまねした、有明や泣菫っていうものをまねした詩やなんかあるわけですけど、そんなものは別にどうってことないわけですけども、非常に啄木の場合は、非常に若いうちに生活上の幾辛酸をなめて、それで文学で身を立てるなんていう夢はもうむちゃくちゃに打ち砕かれてしまったと。そういうような、後になって初めてそういう心理的な、つまりリアリティっていうものを獲得するわけです。つまり本当の意味での近代っていうもの。つまり自分の身についた近代っていうこと。つまり自分の身についた、いわば文明開化っていうものを獲得していくわけです。
 で、高村光太郎の場合にはおそらくヨーロッパに留学したときに受けたヨーロッパに対する尊敬っていいますか、そういうものと、それからまたそれにもかかわらず、またその中に入っていけないって、最後にはやっぱり入っていけないものが残るっていうような、どうしても出てくるっていうような、そういう問題っていうものもとことんまで突き詰めたっていうような、そういうかたちでやっぱり今後(?)自分の身についた近代っていうものを獲得していったんだっていうことが言えると思います。

8 一元的な人

で、高村光太郎の生涯っていうのは非常に長いわけで、また文学史的にも長いわけですけども、高村光太郎の文学、あるいは生活っていうものを根底で律していったものは最初にヨーロッパへの留学で獲得した、一種の自然思想なんですけども、そういうものであることは終始一貫変わらなかったというふうにいうことができます。
 ただその内容、変わらなかったけれどもつかまえ方っていうものはずいぶん変化をしているわけで。っていうのは、高村光太郎のように自然っていうものを捉えますと、つまりそれならばどんな、例えばこの世界にどんな大変なことが起ころうと、その起こること自体の中にもし自然っていうものの摂理みたいなのがあるとすれば、それはやっぱりそれでいいんだと。そうしますと、自然はおのずから非常に本当のものだけを残して、それで本当でないものはみんな消滅させてしまうだろうから、どんなことが起ころうとそういうことは、もし最後の審判者っていうものが自然であるならば、必ず判定を下すだけで、でたらめなもの、それから抹消的なもの、そんなものは、それからつまらないもの、そんなものはみんな吹っ飛んでしまって、それで後にはいわば非常に自然の摂理にかなったっていうようなものが残るだろうっていうような、そういう観点にも行き得るわけで。それが例えば高村光太郎を戦争にのめり込ませていったっていうような、そういう大きな要因になったと思います。で、戦争だってそれがもし、そのことが自然の摂理ならば、それはやっぱりやってぶち壊れるものはぶち壊れたほうがいいと。それでぶち壊れないものは残るだろうと。つまり、それは自然が残すだろうと。自然の摂理なるものが残すだろうっていうようなことになっていけば、それはやっぱり戦争といえどもそれはいわば肯定されていかざるを得ないっていうような、そういうようなかたちで高村光太郎が戦争に入っていったと思います。
 で、高村光太郎の戦争詩っていうのは、これはまた数から量からいきますとずいぶんたくさん書かれていますけども、それほど、つまり『道程』を書き、そして『猛獣篇』を書き、また『智恵子抄』に新たな詩の作品を書いたっていうのは、そういう三代にわたって優れた作品を書いてきたっていうような、そういう水準からいきますと、戦争中の詩っていうのは非常に劣るものだって言うことができます。つまりそういうものに匹敵する詩っていうのはやはり数篇ぐらいしか見つけることができないので、非常にたくさん書きましたけれども大抵はつまらない詩であったっていうふうに言えます。
 で、そしてまたその詩のつまらなさっていうのは書いてる高村光太郎自体が充分よく知っていて、っていうのは意識していて、そして一種の宣伝、あるいは記録っていいますか、そういうような意味合いで書かれた作品だっていうふうに言えるわけですけども、しかしいずれにせよ、詩集『道程』を作り、そして『智恵子抄』を作ったっていうような、そういう詩のレベルからいきますと非常につまらない作品をたくさん書いているわけですけども、その書き方の中に高村光太郎らしさっていうものはないわけではないんですけども、しかしそれがいい作品でないっていうことだけは確実に言えるわけです。つまり大部分の作品はいい作品でないっていうような。それで、結局その場合に何が高村光太郎をそういうあまりいい作品でない作品、戦争詩っていうものを書かせたかっていえば、いわば青年時代から獲得していった自然思想っていうようなものをある局面から拡大していきますと、やはりそういう戦争中にあまりいい作品でない作品をたくさん書くっていうような理由っていうものは、根拠っていうものは見つけることができるわけです。
 それからもう一つ、これはいわば生活上の理由があるわけですけども、だいたい高村光太郎が戦争っていうものに没入していったっていうような、そういう意義っていうのはだいたい奥さんが亡くなって、それから父親が亡くなってっていうような、そういうことが重なって自分のいわば一種の自然思想なんですけども、自然思想を支えるための現実的な基盤っていいますか、生活的な基盤っていうものがいわば解体してしまったっていうような、そういうことがまた一方で戦争詩を書いていくっていうような場合の非常に契機になっています。
 つまり高村光太郎って人は非常に面白い人っていうのでしょうか、非常に一元的な人で、芸術観が、あるいは芸術思想としての、自分の芸術作品を律する思想としての例えば自然観っていうものがあるとすると、それでもってまた自分の生活っていうものもまた律していくと。そうすると生活っていうものを律していくっていう場合に、生活の内面を律していくっていうだけじゃなくて、それでもって生活自体のかたちっていいますか、それもまたそれでピタッと決まっていくっていうような、つまり芸術からその生活の末端にわたるまで、みんなそういう一本の糸で通してしまうっていうような、そういうようなことをやった詩人なわけです。だから一旦、例えばそれが生活上のどこかで崩れるか、あるいは逆にいいますと作品上のどこかで崩れれば、それはやっぱり全部に波及してしまうっていうような。つまり生活上のどこかで崩れるとそれがまた芸術上のどこかで崩れてしまうと。または芸術上のどこかで破綻をきたせば、それは必ず生活上の具体的なことにまで及ぶっていうような、そういう一元的なところで非常に筋を通した人なんです。
 だからもし高村光太郎っていう詩人を、例えば(森)鷗外のように生きさせたとしたらば、明らかに例えば高村光太郎の場合には、自分でも書いていますけども、しかるべき江戸前の娘さんと結婚して、そして二代目光雲っていうことでおやじさんの弟子たちに囲まれてなんか彫刻を作って、それで食べていくっていうような、そういう、つまり鷗外ともし同じヨーロッパから帰ってきて同じようにやったとしたらば、そういうふうにするはずなわけなんですよ。

9 『智恵子抄』をどう読むか

ところで、そういうふうにしないわけです。で、全く両親のイメージにかなわないっていうような生き方と、それから作品と、それから作品の作り方と、それから結婚の仕方っていうなほうに、いや、具体的にやってしまうわけなんです。で、そのやってしまうっていうのに一つの思想的な原動力があるわけで、その原動力っていうのは一つの自然観なんだって。自然観なんですけども、そういうもので生活自体の具体的なところまで律してしまうわけです。で、単に詩の作品、あるいは彫刻の作品だけじゃなくて、生活の具体的なところまでそういうふうにしてしまう、そういう生き方をするわけなんです。
 で、これは鷗外なんかの生き方っていうものと非常に違うところで、鷗外の場合には何はともあれしかるべきところの娘さんと一緒になって、母親を喜ばせ、そしてしかるべき官吏となり、しかるべき勤めるっていうような、そういうことは鷗外の場合には非常に几帳面に、非常にきちんとされているわけですけども。で、きちんとされたっていうことの中で鷗外の悩みもあったし、鷗外を内面で苦しめた問題っていうのはあるわけですけども、少なくても外前では非常にしかるべくきちっとあれを決めていくわけです。そしてそういう中で鷗外の作品っていうものも、文学作品っていうものも生み出されていくわけですけども、つまり鷗外の文学作品をそういうふうにやっぱりしかるべきかたちで作らせながら、しかしどこかで絶えず、鷗外のどこかで暗いものがうごめいているっていうような、そういうようなものっていうのは作品の中にあるわけですけども、その作品っていうものは鷗外の中におけるしかるべき生き方っていうものと、それからいわば文学者としての自分の精神のあり方っていうようなものとの、いわば矛盾なわけです。そういう意味では鷗外っていう人は割合に生き方っていうものと文学っていうものと、割合にうまく両立させていく。つまり人間的に両立させて、しかも人間的に両立させたところで起こる矛盾っていうものが、矛盾、葛藤っていうものがまた鷗外の文学作品を生み出していく原動力になったっていうようなところがあるわけですけども、高村光太郎の場合にはそのやり方っていうものは非常に単純といえば単純ですし、はっきりしているっていえばはっきりしているわけで。生活の具体的な隅々っていうものと、それから芸術作品、あるいは詩の作品の隅々っていうところまで、もう一つの太い線でばっとみんなつながっているっていうような、そういう生き方をやってのけたわけです。
 で、そういう、だから高村光太郎っていう人を問題にする場合には、詩の作品、彫刻の作品っていうものはもちろん大変な問題になりますけれども、それと同じように生活史っていいますか、生活の歴史っていいますか、あるいは生活の仕方っていいますか、そういうことが非常に重要な意味を同時に持ってくることがあるわけです。で、いわば高村光太郎の生活の仕方っていいますか、生き方っていうのは非常に無理なわけです。無理なわけですっていうのは、一元的だから無理なわけなんですけども、無理なわけですからどこかでほころびができるっていうようなことが考えられるわけで。で、それがおそらく、例えば高村光太郎の場合には奥さんのほうにしわ寄せがいくっていうような、そういうかたちで現れたと思います。
 で、そういう意味では高村光太郎の生活の歴史っていうものは、あるいは生活の閲歴っていうものは、非常に悲劇的なわけで、それで惨憺たる苦労をしているわけです。つまり物質的にもしていますし、それからまたいわば家庭生活状もしているわけですし、最後には奥さんのほうにしわ寄せがいって、それが精神異常っていうようなことにまでいって、家庭的な崩壊っていうことが起こっていくわけですけども、そういう起こり方っていうのはおそらく高村光太郎の非常に単純ですけれども生活と芸術ってやつを一元的に結び付けて、決してどこかで切り離さないとか、どこかで人間的に切り離して考えるっていうようなことをしないっていうような、そういう一種の緊張といいますか、無理といいますか、そういうものがそこに破綻となって出てくるっていうようなことが非常に重要なこととして浮かび上がってくると思います。
 で、皆さんのほうで読まれる高村光太郎の『智恵子抄』なんていうのは、非常に、いわばきれいな作品なんですけど、美化された作品なんですけれども、その美化された作品っていうことと高村光太郎の生活の閲歴っていうものとは全く違うわけで。むしろ逆にいいますと、高村光太郎という詩人は生活の閲歴上の無残さっていいますか、惨憺たる様相っていうものがありますと、作品の上ではそれを非常に美化するっていいますか、非常に昇華するっていいますか、昇華して描くっていうような、つまり非常に逆さまになった表れ方を『智恵子抄』なんかの場合はしているわけですけども。だから『智恵子抄』の作品が非常に美化されてきれいですし、またその中にやはり一本、一つの自然思想なんですけども、一本筋が通っているわけですけども、そういうふうにまた読めるわけですけども、そういうふうに読めれば読めるほど、またその詩集の背後にある生活の史っていいますか、生活の閲歴っていうものが非常に無残だったっていいますか、惨憺たるものだったっていうようなことを含めて読まれないと、なかなかうまく、例えば『智恵子抄』なら『智恵子抄』っていうような作品も、うまくつかめないんじゃないかなっていうふうに思います。

10 高村光太郎の想像を絶する問題

で、現在詩のブームなんだそうで、その詩のブームっていうような呼び声の中で、例えばいつでも高村光太郎の詩の作品っていうものは一番先に出されて、それでそれがどれほどよく売れるかっていうようなことがブームの度合いを計る試験紙みたいになっているわけですけども、本来的に高村光太郎っていう人はそんなに複雑な思想っていうものを複雑に表現するっていうようなことはしていないわけですけれども、本来的には大変気味の悪い人だと思います。つまり気味の悪い芸術家だと思います。つまり気味の悪いって言っていいのか、得体が知れないと言っていいのか分かりませんけれども、とにかく相当な代物なわけですよ。つまり相当な人なわけですよ。つまり相当な人だっていうことを例えば『道程』なら『道程』、『智恵子抄』なら『智恵子抄』っていうような作品の背後につかんでいかないと高村光太郎っていう人の相対的な人間像っていうものはうまくつかまえてこれないんじゃないかっていうふうに思います。
 例えば『智恵子抄』なんていう詩集があるでしょう。で、だいたいそれ、考えてみればそうだけど、僕なら僕が例えば自分の、例えばワイフがきちがいになったと。そしたら僕だったら書きませんよね、詩なんてのは。そういう書きませんよっていうのは、書けませんしね、だいたい。そんな暇なんてありゃしないっていうようなこと。そんな余裕なんかないっていうようなふうになりますしね。それからそんなものは書こうっていうふうにだいたい思わないですしね。つまりそのことは、おそらく非常に常識的な一般性としてそういうことは言えると思うんです。だから本来そういうものは書けないでしょうし、また書こうともしないでしょうし、またゆとりとしても書くゆとりなんていうものを持ち得ないだろうっていうのが非常に、普通の規模を持った普通の、ごく普通の人の考え方だと思います。つまりそういうのがごく普通なありふれた人間のあり方だと思いますけども、そういうところを高村光太郎っていう人は一段と昇華したかたちで、あるいは美化したかたちで、それでやっぱりそれを書くわけですよ。
 それでそういうことはやっぱりちょっと考えますと想像を絶するわけで。その想像を絶する問題っていうものは高村光太郎っていう人は非常に告白の嫌いな人ですから、文章の中、あるいは詩の中には表現しておりませんけれども、書いておりませんけれども、しかしそれは読むほうの側で充分に突っ込んで読まないと高村光太郎っていう人の全体性っていうものは、全体の像っていうものは浮かんでこないんじゃないかっていうふうに思います。で、つまり芸術についての総合的な歴を(?)、つまり詩人としての高村光太郎、彫刻家としての高村光太郎っていうような、あるいはもう少し言いまして、ある思想家としての高村光太郎っていうようなものを総合的、あるいは全体的な像でつかまえてみますと、やはり非常に大変な人だったっていうふうに言うことができます。
 それで、これは日本の明治自然主義勃興期における鷗外とか漱石とかっていうものの位置が非常に大きかったと同じように、高村光太郎の場合には明治、大正、昭和という三代にわたる位置づけなんですけども、非常に大きい存在だったっていうふうに言えます。で、現在例えば高村光太郎についての研究っていうようなものは、数年来からぼつぼつ出ている状態で、あるいはまだ北川太一さんなんかによって資料なんかもぼつぼつ見つけ出されたりして、割合にだんだんはっきりしてきつつある詩人、彫刻家なんですけれども、高村光太郎についての、つまり鷗外についてやられ、漱石についてやられるっていうと同じような意味での高村光太郎についての研究っていうようなものは、おそらく今後、これから始まるだろうっていうふうに思います。で、これから始まっていく高村光太郎の研究、それから批評っていうようなものは、おそらく今までに出てきた、僕のも含めてですけど、今までに出てきたようなものをはるかに大きくしたような、つまり、また追究を多面的に深めていったっていうような、そういうようなかたちで今後の研究っていうものはなされていくと思います。で、その研究、あるいは追究の今後の課題っていうものは、例えば現在詩のブームであるっていうようなかたちのときに、高村光太郎の『道程』なり『智恵子抄』なりがいつでも試金石に引っ張り出されるっていうような、そういうような意味でのブームとはおそらくあまり関係のないところで、また関係のない全体像として高村光太郎が追究されていくだろうっていうふうに思います。それは全く現在までじゃなくて、今後の課題に属しているっていうふうに言うことができるでしょう。
 それで今日は「鷗外をめぐる人々」っていうことですけども、鷗外をめぐる人々としてはこの第2圏内に入る人ですけども、日本の近代文学、それから近代彫刻っていうようなものの中で、高村光太郎の占めている位置っていうものがもちろん鷗外に匹敵するし、またあるいはその方面、つまり多面性っていうことで言えば凌駕しているっていうような、そういう位置づけが今後なされてくると思います。



テキスト化協力:はるさめさま