1 〈わたしの身体〉の特異性と二重性

 ただいまご紹介にあずかりました吉本です。今日、「思想としての身体」という演題を設けてもらいまして、結局、身体論ってことをお話したいっていうふうに思ってやってきました。
それで、身体論っていうのは、結局なんなのかっていいますと、人間の生理作用ってものと、観念作用といいますか、心の作用っていうものとが、ちょうど相かかわる領域ってものは、どういうふうになってるかっていうような、そういう問題が、結局のところ、中心の問題になるわけで、その問題がうまく解ければ、なにもいうことはないっていうような、そういう問題だと思います。
現在、さまざまなかたちで、そういう試みっていうのは、おこなわれているわけですけど、いずれも、試論っていいますか、試みの段階を出ないってことで、なんらかの意味で、人間の心身の相関する領域っていいますか、相かかわり合う領域について、確定した見解が存在するわけではないというような、そういう状態だと思います。
そういうなかで、わたくし自身の考え方っていうものを、お話してみたいと思います。ぼくはこの近所に住んでいまして、あんまり、偉そうなことをいうと、ご厄介になったときに、一服盛られそうな気がしないではないですけど(会場笑)、十分慎重にやっていきたいと思います。
身体っていうものを、ここに限定いたしまして、〈わたしの身体〉、つまり、自分の身体っていうふうに、考えてみまして、自分の身体ってものが、ほかの存在するすべてのものに対してもっている特異性、つまり、特別なところっていうのは何なのかっていうふうに考えてみます。
そうすると、この〈わたしの身体〉っていうものは、もちろん、みなさん側から客観的にみて、観察することもできますし、また、客観的に診断することもできます。その場合には、いろんな媒介として、いろんな計器を使うとか、器具を使うとか、そういうこと介して、外からみることができます。
それから、もうひとつは、やっぱり、〈わたしの身体〉っていった場合には、中から、つまり、自分が自分の身体をどう思っているかっていうような、そういう意味合いで、中からもみることができるってことが、非常に大きな特異性であるわけです。
つまり、この種の特異性をもっているっていう存在っていうものは、この世には、人間の身体、ここでいえば、〈わたしの身体〉っていうもの以外にはないので、それ以外のものは、たとえば、客観的にそれを観察するとか、検討することができるか、あるいは、主観的に検討することができるか、つまり、そのいずれかひとつであって、そして、自分自身として、つまり、内側からも、これをみることができる。それから、外側からも、つまり、客観的にもみることはできるっていうような、そういう、いわば二重性っていいますか、そういうものをもっているのは、〈わたしの身体〉っていうもの、つまり、いいかえれば、人間の身体っていうものしか、この世には存在しないわけです。そういうことが、非常に、身体っていうものを、特異な存在にさせているものであるわけです。
で、こういうことは、例をあげるとすぐわかるんですけど、たとえば、ぼくなんかの記憶でも、子どものときに、親たちはよく、胸がやける、胸がやけるっていうような言い方をよくしまして、ぼくは、胸がやけるっていうのはどういうことだっていうふうに、親に聞いたことがあります。これは、大人になってきますと、みなさんの言葉ではなんていうか、つまり、胃酸過多っていうかしりませんけど、そういうことで、体験的にわかるわけですけど、子どものとき、幼児のときには、胸がやけるっていうのは、どういうことなのかわからないってことがあります。
だから、そういう場合にぼくはやっぱり、胸がやけるっていうのはどういうことだっていうふうに聞いても、親たちはうまく説明することができなかったっていうふうに、記憶しています。だけど後年、だんだん、年を加えてくると、胸がやけるっていうのは、ハハッ、こういうことかっていうふうにわかってくるっていうような、こういう体験っていうのは、ぼくなんか考えても、いくつもあるわけです。
もうひとつ、そういう例をあげてみますと、たとえば、非常に小さいときには、なにか物に体をぶつけて痛かったっていう、それから、誰かにぶん殴られて痛かったっていうような、そういう場合に、自分が物をぶつけて痛かった、その痛さっていうものは、無意識のうちに、自分以外の人間もそのように痛いっていうふうに、無意識のうちに前提してたような気がします。
しかし、これもやっぱり後になって、すこし成長してから考えますと、わたしが痛いっていうふうに、ぶつけて痛いとか、殴られて痛いっていう痛さの度合いとか、痛さの感じ方っていうものは、かならずしも、ほかの人にとっても、そのように痛いのかどうかってことは、かならずしもわからないんだ。つまり、言えないんだっていうふうに、あとになってから気がついたような気がします。
そういうふうに考えていきますと、なかなか内側から自分の身体をみるとか、内側から自分のいろんな感覚を体験するとかってことは、かならずしも、普遍性っていいますか、ほかの人にとってもそうであるっていうふうにはなってないはずなんですけど、無意識のうちに、ほかの人も自分が痛いように痛いだろう、痛い度合いに痛いだろうっていうふうに、思ってたような気がします。しかし、それは、どうも違うようで、各人各様の痛さの感じ方っていうのがあるんではないかっていうふうに、つまり、そういう問題について考えたのは、思い立ったのは、わりあいに、あとになってからだっていうふうに記憶しています。
この種の体験っていうのは、誰にでもあるわけです。また、だれもそういうふうに感じながら、だんだん、自分の、〈わたしの身体〉っていうものを、自分で確かめていくっていいますか、確認していくっていいますか、そういうふうなことをやっていくんだっていうふうに思います。つまり、そういう特異性っていうのは、身体がもっている、非常に大きな特異性だっていうふうに考えることができるんじゃないかって思います。

2 自然物としての身体の二重性と矛盾

 これは、科学者として考えれば、当然なんですけど、人間の身体っていうのは、いわばこれは、掛け値なしにいいまして、自然物ですね、自然物の一部であることは確かであります。つまり、そういう意味合いで、人間の身体っていうものは、他のすべての、自然に存在するものと、すこしも変わりない、ひとつの自然物だってこと、つまり、自然だってこと、自然の一部分をなしてるってことだけは、確かだっていうふうに思われます。
ところで、身体っていうものは、自然物の一部分であるとか、一種であるとかっていうような考え方には、おそらく、異論はでてこないんですけど、この自然物である身体っていうものの、また、自然物としての特異性っていうのを考えていきますと、その特異性は、身体自身が自然物でありながら、もうひとつ、他の自然物に対して、自然物であるっていうふうな、そういう二重性をもっています。
つまり、他の自然物に対して自然物であるっていう意味合いは、つまり、人間の自然過程っていうのだけは、ほかの自然物と違って、他の自然物を観察したり、みたりってことによって、他の自然物に対して、自然である自分っていうものが、関係づけられているっていいますか、関係をもっているっていうような、そういう、もうひとつの特異性っていうのがあります。
だから、そういう自身が自然物であるということにくわえて、他の自然物に対して、関係づけられる意味でも、自然物であるっていうような、そういう二重の性格っていうのをもっているのは、人間の身体だけだっていうふうにいうことができます。
これも具体的にいえば、すぐわかるんですけど、たとえば、脳なら脳の働きっていうものを考えていきますと、脳の働きっていうものは、その都度に、自然過程っていうのがあるわけです。自然の生理過程っていうのがあるわけなんです。ところが、たとえば、いまいったように、〈わたしの身体〉を、わたしがどう考えるかとか、どうみるかっていう場合には、自然過程である脳の働きによって、その自然過程である脳の働きを含めた自分自身をみるっていう、そういうことを意味しているわけです。
つまり、自然過程でもって、自分の自然過程をみているっていうような、あるいは、確認するというような、そういう特異な性格っていうものを、人間の身体っていうものはもっているわけです。つまり、そういう意味合いでいいましても、自然物としての人間の身体っていうのもまた、かなり特異な存在なんだっていうふうにいうことができます。
このみずからの自然過程、つまり、脳の生理過程を自然過程としまして、みずからの自然過程によって、その自然過程を含む、みずからの自然過程を考えるってことは、ほんとうはたいへん矛盾なのであって、つまり、本来ならば、脳の生理過程っていうものは、自然過程なのだから、これは、客観的にいって自然過程そのものであるってことで、終わりになるわけですけど、これをたとえば、〈わたしの身体〉をわたしがどうみるかとか、どう判断するかっていうような場合には、わたしの自然過程を使って、その自然過程を含むわたしの自然過程を検討するっていいますか、そういう矛盾をやっているわけです。
だから、この種の矛盾っていうのは、かならず、いわば観念性っていいますか、心の世界っていいますか、あるいは、精神作用っていいますか、そういうものをかならず生みだすわけなんです。
つまり、客観的にいいまして、(わたしの身体)がここに存在しているってことは、たとえば、わたしの意識っていうものがなくなっちゃっても、そのことは、客観的に確実であるってことがいえるわけですけども、つまり、そういうふうにいえるものを自然物っていうわけですけども、しかし、人間の自然物としての身体っていう場合には、わたしの自然過程は、わたしの自然過程を含む、わたし自身を判断しているとか、検討しているとかっていう、そういう矛盾をやっているわけです。
つまり、この種の矛盾っていうものは、かならず、観念性っていうものを、人間の身体から、まさに観念的に疎外していくわけで、そこで、人間の観念的な世界っていうのは、ほかのすべての動物に存在するかどうかわからないですけれど、人間には、観念世界っていうものが、でてきてしまっているわけなんです。
つまり、なぜでてくるかってことは、いま申し上げましたように、自然過程が自己の自然過程を含む自分を自然過程としてみるっていう、観察するとか、考究するとか、検討するとか、そういうことをやるという、そういう矛盾が、ようするに、人間の観念的な世界っていうものを生みだした機動力であるわけです。
つまり、この種の矛盾っていうものは、人間の身体以外のものにおいては、おこなわれないっていうふうに考えてよろしいわけで、だから、その場合には、それは自然物であるっていった場合には、それはまさに自然物そのものであって、それ以外のものじゃないんだ。つまり、それは、人が観察しようがしまいが、確かにそこに存在するってことは、客観的にあきらかなことなんだっていうふうにいえるものであるわけです。
ところが、人間の身体だけは、そうじゃないのであって、まさにそうじゃない面があるわけです。そうであるわけですけども、つまり、誰が観察しようがしまいが、自分の意識が消えようが消えまいが、ここに自分の身体があるってことは、まさに非常に確実なんですけど、しかし、そういう身体が、たとえば、自分の身体作用が、自分の身体作用を観察することができるとか、あるいは、考えることができるとか、検討することができるとかいう、そういう矛盾があるわけで、その矛盾っていうのが、人間の身体っていうものをまた、非常に特異なものたらしめているわけで、また、これを発生的にいいますと、人間がなぜ、ほかの動物と違って、観念の世界っていうものを、とにかく生みだしていったかっていう場合の、原動力になっているわけです。
で、これが、だいたい、自然過程としての身体っていうものを考えた場合に、そういう二重性っていうものは、やっぱり、身体に伴う、非常に大きな矛盾であり、特異性であるってことができます。そして、その特異性っていうものが、人間の心身が、つまり、心の世界と、身体の生理過程っていうものとの、相関係する領域っていうものは、ほかの動物、あるいは、ほかの自然物と違って、生みだした、そういう、非常に大きな原動力になっているわけです。
で、この種の自然物としての人間の身体っていうもののもっている特異性っていうものを、無視しようとすれば、無視することができるわけで、そういう無視っていうのを前提として、たいへん創造的なっていいますか、たいへん新しい領域が切り開かれるっていう可能性っていうのは、たくさんあるわけですし、また、そういう可能性がすでに実現されているっていうような場面もあるわけです。
だから、たとえば、人間の身体のもつ自然過程、あるいは、生理過程っていうものを、動物のそういう生理過程っていうものと、類推して考えるっていうような考え方から、生みだされていく、ひとつの体系があるわけですけど、そして、その体系は、かなりな意味で、つまり、人間が動物であるというような意味合いでは、有効性を発揮している体系があるわけですが、たとえば、パブロフの条件反射学っていうのは、まさに人間の自然過程、あるいは、生理過程っていうものを、動物の生理過程と共通なもの、つまり、同じ過程っていうふうにみなしてでてくる、ひとつの体系であるっていうわけです。それはある種の、たとえば、有効性ってものを、有効な成果っていうものを生みだしていることは確かなことです。
また、別の領域でいいますと、たとえば、人間の自然過程、あるいは、生理過程っていうものを、たとえば、外界からの刺激を受け入れ、そして、それを外に向かって送り出すっていうような、そういう、いわば通信刺激の受け入れと、それから、放出っていいますか、送り出しっていうような、そういうものと類推して考えた場合に、それはたとえば、情報理論を生みだしたり、また、電子計算機の基礎になって、考え方を生みだしたりってことで、また、これも、それなりに、かなり有効な成果を挙げているっていうようなことがいえると思います。
こういうふうに考えていきますと、人間の生理過程を、まったく動物過程と同一として前提するっていうような、そういう前提の仕方もまた、人間の脳の働きの過程っていうものを、刺激の受け入れと、伝達と送り出しの機械とおんなじように類推することによって、また、たいへん有効な領域が切り開かれていくような、そういう現状が、たしかに存在するわけです。
しかし、申すまでもないことなんですけど、人間の生理過程っていうものは、いま申し上げました意味合いでも、べつに動物過程と同一でもありませんし、また、人間の脳の働き作用っていうものは、刺激の受け入れと、それから、伝達、構成っていうような、そういうような過程と同じものでもないわけです。
ただ、そのような近似的な前提が、かなりな程度、有効な成果を生みだしているってことは、確かなことですけど、人間が存在するということのなかで出てくる問題というのは、そういうふうに、簡単にあれができないというような、決められないというふうに存在しているというふうに思われます。

3 了解の時間性-イメージとしての身体と自然物としての身体の差異

 次に知覚作用っていいますか、知覚作用ってものを例としてとってきますと、知覚作用の座としての人間の身体っていうものは、どういうふうになっているか、そして、そういう知覚作用の座としての人間の身体っていうものから、なぜ人間が、これこれの対象物に対して、これこれの知覚の仕方をするっていうような、そういうことが、なぜ起こるのかっていうのは、そういう問題っていうものが大きな問題になってくるわけですけども。
その問題について、入ってきますと、これもまた単純化してしまって、ある意味ではまずいのですけど、こういうふうに考えていかれると、非常に、なぜ人間は、自分以外の、あるいは、自分自身に対して、なぜそのような知覚作用をおこなうか、あるいは、そのように考えるかっていうような、そういう考え方の基準をつくっていくのは何なんだろうかっていうふうに考えてみますと、はじめに、たとえば、動物なら動物っていうものを考えるとしますと、動物っていうものは、わりあいに、自分の身体に対する自分の考え方っていうもの、つまり、自分の身体が自分をどう思っているかっていうような、あるいは、自分の身体の生理過程を自分がどう思っているか、どうつかまえているかっていうような問題は、だいたい、動物においては起こりえないっていうふうに考えることができます。
そうしますと、現在、たとえば、ぼくならぼくが、あるいは、みなさんならみなさんが、自分自身の身体っていうものをどう思っているかっていうような、そういう思い方っていうもののなかには、そういう単純化をしていってしまいますと、人類の歴史っていうものを、すべてがそのなかに含まれているっていっても、いいわけなんです。
その意味合いは、どういうことかっていいますと、たとえば、わたしならわたしが、自分の身体をどう思っているかっていうふうに、例として、考えてみますと、外側からみて、こうなってるとか、こうなってるとか、こういうふうに爪のところに傷があってとかっていうような、そういうことで、外側から、たとえば、自分が自分で観察することができる自分の身体っていうのがあります。
ところが、今度は、内側から観察できる自分の身体っていうものがあります。だから、それはたとえば、いろんなことによるわけです。知識による場合もあります。つまり、小学校の頃、理科室かなんかにあった人体模型で、心臓はどこにあって、肺はどこにあってとか、胃はどこにあってってなことを説明してもらったと、そういういわば知識っていうのもありますし、また、さきほどいいましたように、胸がやけるっていうような、そういう体験をとおして、胃っていうものは、ここいらへんにあって、こういうときにはこうなるもんだなっていうような具合に、自分の胃を把握するっていうような、つまり、内側から、さまざまな自分の体験とか、そういうものを介して、自分の身体を把握するっていうような、そういう把握の仕方も自分ではやっているわけです。
内側から自分が自分で把握している自分の身体っていうものが、非常に客観的に正確かどうかは、まったくわからないのであって、それはまた、客観的に調べなければならないでしょうけど、しかし、自分の身体について、あるいは、身体のある部分について、自分なりのイメージをつくりあげて、自分なりの考え方を、すこしくっつけているっていうことだけは確かです。
つまり、そういうふうにして内側から観察される自分の身体と、それから、外側から自分が観察できる自分の身体っていうもの、そういう観察されてでてくる自分の身体っていうものの相対性っていうものは、大なり小なり、人間の歴史っていうものが、現在の段階までに培っていた判断力、つまり、これは、感情であったり、あるいは、理性であったり、あるいは、母性であったり、あるいは、感覚であったり、あるいは、想像力であったりするわけですけども。そういうものの、現在の段階っていうものを物語ることは非常に確かなことなんです。
現在、ぼくならぼくが、自分の身体について、内側からと外側からと、総合してもっている、ひとつの自分の身体についてのイメージといいますか、総合的なイメージっていうものを考えまして、これがたとえば、客観的にぼくの身体が自然物であるっていうふうに考えて、客観的に存在している存在の仕方との差額っていいますか、差異ってものをとってきますと、その差額のなかには、いま申し上げましたとおり、人間の判断力とか、総合力とか、そういうものが、歴史的に、現在まで積み重ねてきた、そういう時間性っていうものが、その差異のなかに含まれているっていうふうに、簡単に考えていただけば、そういうふうに考えてよろしいわけです。
つまり、現在、自分が自分の身体に対して、総合的に抱いているイメージと、自分がまさに客観的な自然物として、自分の身体があるというような、そういうあり方との差額っていうもののなかには、人間の判断力が、つまり、人間の歴史以来ずっと積み重ねてきた、総合された時間性っていうものは、そのなかに含まれているって考えてよろしいわけなんです。あるいは、わかりにくいかもしれませんけども、そういうふうに考えてよろしいわけなんです。
つまり、そういうふうに考えますと、その差額のなかに含まれているのは、一種の人間の、自然物、あるいは、自分以外のもの、あるいは、自分自身の身体ってものに対する判断の時間性ってものは、そのなかに存在するっていうふうに考えてよろしいっていうふうに思います。
つまり、そうすると、そこに含まれてくる時間性っていうのが、差額のなかに含まれている時間性ってものが、われわれが知覚作用ってものをやっている場合の了解、つまり、理解とか、了解ってことなんですけど、つまり、了解ってことの時間性っていうのは、そのことを意味しているわけなんです。
つまり、人間の了解作用ってものを、ひとつの時間性と考えることができるわけなんですけど、その時間性は何によって決まるか、何によって基準が決められるかっていいますと、いま申し上げましたとおり、たとえば、自分の身体ってものを例にとれば、自分の身体を自分が内側からと外側からと、また、体験、あるいは、知識ってものを総合して把握している、把握の仕方っていうものと、それから、まさにそんな把握も何もしなくても、わたしの身体は自然物として確かにそこにあるんだっていう、そういうあり方との差額のなかに、もし、人類が、自分の判断力なり、観念作用なりについて、蓄積してきたものがあるとすれば、その差額のなかに、歴史的な蓄積のすべてが含まれて、つまり、時間のすべてが含まれているっていうふうに考えてよろしいわけです。
その時間性ってものは、われわれがものごとを判断した場合の了解ってものを、ひとつの時間性っていうふうに考えることができる、ひとつの根拠であるわけです。

4 人間の知覚作用は時間性と空間性によって成り立つ

 人間の判断力っていうものは、ひとつの個人をとってきますと、けっして、そういうふうにして、発達していくものではありません。つまり、赤ん坊のときから、一定の年齢に、たとえば、3歳、4歳なりになってから、周囲の環境、つまり、父親とか、母親とか、兄弟とか、そういうものの一種の教育っていいますか、つまり、訓練の結果、人間は一定の年齢に達したときに、一定の判断力をもつようになるっていうふうに、人間は判断力を培ってくるわけですけど、もしも、その場合の両親なり、兄弟なりが、赤ん坊から自分を教えているっていうような、自分を教育していて、判断力を培ってきた、そういう教育を代表している父親なり、母親なり、あるいは、兄弟なりっていうもののなかに、もし、ものの知識、判断力のなかに、やっぱり、人類のいままで通ってきて、現在に至っている、現在の水準というものが象徴されていると考えれば、いまぼくが申し上げましたとおり、自分の身体を、自分の内側からと、自分の外側からと、把握している把握の仕方と、まさに、準自然として存在している〈わたしの身体〉っていうものとの差額のなかに、たとえば、人類がいままで積み重ねてきた判断力の、非常に総合されたものが、そこに完全にあるんだ、含まれているんだ、つまり、そこに、時間的経過っていうのが含まれているんだっていうような、そういうふうに考えることが、かならずしも、不当でないってことが、おわかりになるっていうふうに思います。
つまり、そういうふうに考える場合には、両親なら両親とか、兄弟とか、あるいは、長じて、友だちとか、先生とか、そういうもののなかに、人間が現在まで積み重ねて、歴史的に積み重ねてきた判断力の、現在の水準があるっていうふうに考えれば、そこで教育されて、できてきた自分の判断力っていうものが、まさにそのなかに、人間の歴史的な時間性のすべてを、そのなかに包括、包んでいるっていうふうに考えることが、けっしてそうでないってふうにおわかりになると思います。
つまり、そういうような意味合いで考えていきましても、類推はきくわけなんですけど、つまり、人間の知覚作用における了解っていうのは、一種の時間性であるわけですけど、その時間性の度合いっていうものは、何によって決められるかっていいますと、いま申し上げました、差額、つまり、準自然物としての自分の身体っていうものと、それから、自分が自分の身体を外からと内側からと把握している、そういう把握した自分の身体っていうものとの、差額っていうものが、判断力の時間性の尺度の根拠になっているわけです。
だから、たとえば、知覚作用のひとつとして、視覚作用、眼の作用っていうものをとってきますと、それはなにを、どういうことをするかっていいますと、そう簡単にはわけられないですけど、みたいという、みているという対象があるとすれば、その対象物を、たとえば、人間の眼っていうものが、きわめて自然に、生理的に受け入れると、受け入れて、受け入れたものが、ひとつの了解作用によって、ああそれは何々だ、この花だっていうふうに、了解するっていうことが、だいたい、人間の知覚作用の緩やかな過程なんですけど、その場合も、これは花だなっていうふうに、了解する了解作用っていうのが、一種の時間性っていうふうに考えることができるわけですが、その時間性っていうものが、いま申し上げましたところから、自分の身体を自分の身体として、判断していくっていうような、そういう差額っていうところから、了解の時間性っていうのは、できあがってきているわけです。
それが、この花なら花をみた場合に、花を眼が受け入れて、そして、それが人間の身体の生理過程ってもの、あるいは、脳の過程ってものを通っていって、花だなっていうふうに、了解するっていうような、そういう場合の了解作用っていうものの基準っていうものをかたちづくっているわけです。それを時間性っていうふうにみることができるわけです。
そうしますと、そこに花があった場合に、眼がこれは花だなっていうふうに受け入れるのは何かっていうふうに考えると、受け入れるのは何なのかっていいますと、これは、ひとつの空間性っていうふうに考えることができます。空間性っていうふうに考えることができるので、たとえば、眼の場合の空間性っていう場合には、具体的にいいますと、ここに花があるっていえば、この花っていうものは、どのくらい離れてて、どういう葉っぱをもって、どういう花をもって、どういうかたちになっていてっていうふうなことを眼が受け入れるわけですけど、そういう作用っていうものを、ひとつの空間性っていうふうにみることができると思います。
これは、知覚作用すべてについて、そういえるのであって、かならずしも、視覚だけに限りません。たとえば、聴覚の場合でも、音を発する源があって、その源からの音っていうものが、人間の耳を介してあれするわけですけど、受け入れるわけですけど、その場合の聴覚っていうものの、聴覚の受け入れってものも、一種の空間性っていうふうにみることができます。それは、もちろん、嗅覚の場合でも、味覚の場合でも、おんなじなのです。それを受け入れる作用を、空間性、あるいは、空間性の把握っていうふうにみることができます。
それならば、たとえば、視覚っていうものと、聴覚っていうものと、嗅覚っていうものは、もし、受け入れの場面でみれば、それはすべて、空間性だっていうならば、それならばどうして、視覚作用と聴覚作用の、あるいは、嗅覚作用との差異ってものは、どうして決められるのかっていうような、つまり、同じ空間性だって、どこが違うのかっていうふうになってくるわけですけど、その場合には、空間性ってものの尺度が違うっていうふうに、お考えいただければいいと思います。
つまり、聴覚作用といい、視覚作用といい、あるいは、嗅覚作用といい、それはすべて、知覚作用の受け入れの場面としてみた場合には、すべてそれは空間性であって、それじゃあ、その差別っていうのはどこでつくかっていうと、空間性の尺度、あるいは、度合いっていうものが、それぞれの感覚によって、違うんだっていうふうに考えていただければ、よろしいかと思います。
そのような空間性と、それから、さきほどいいました、了解ってものの時間性ってものよって、人間の知覚作用っていうものは成り立っているわけです。

5 知覚作用の観念的な背景の違いによる意味づけの違い

 この空間性ってものは、たとえば、了解作用と違って、あまり、原始時代とか、あるいは、動物の時代ってものと、それから、現在のわれわれの感覚的な受け入れ、あるいは、知覚的な受け入れってものとは、そんなに違いはないと思います。つまり、あんまり違っていないっていうふうに判断します。つまり、それは、原始人であろうと、動物であろうと、感覚的、つまり、受け入れの場面でみた場合には、あまり差異がないんだっていうふうに考えられます。
ただ、総合的には、受け入れの作用っていうのは、総合的にはっていうことは、知覚作用の総体としてはってことなんですけど、つまり、了解作用までも含めた、そういう過程を含めていいますと、間接的には、そうとう違います。
たとえば、原始人の場合には、ここに花があるっていう場合に、原始人がみても、ぼくがこれをみても、おそらく、この花が、このかたちで、こう見えるってことだけは、おそらく、違いはないわけなんです。違ったふうに見えていることは、ありえないって思われるわけです。ただ、感覚的な受け入れとしては、違ったふうにみえているはずがないのですけれども、受け入れたものを了解するっていうような、そういう過程ぜんぶを含めていいますと、おそらく、たいへん違うわけなんです。
その場合に、何が違うのかっていいますと、一般に知覚作用の体系をなしている、ひとつの観念的な類型っていうのがあるわけですけど、ある観念的な背景のなかで、それをやっているわけですけど、その観念的な背景っていうのは、たいへん違うんじゃないかっていうふうに思われます。
その場合には、この花はこの花のとおり、たしかにそういうふうに見えているんですけど、この花をみて、了解しているっていうような場合の、そういう知覚作用の体系自体が違うために、ある花は、あるいは、ある花のある形態には、非常に特異な意味づけがなされていたり、それから、ある場合には、まったく意味づけがなされていなかったりってことを、原始人っていうのは、やっていただろうっていうふうに推測できます。
なぜ、そういう具合になるかっていいますと、それは、知覚作用の背景をなしている観念的な背景ってものが違うわけなんです。似たものですから、たとえば、原始人なんかの場合に、隣の家の木の上に、ふくろうがとまっていたと、そのふくろうがとまっていたっていう場合に、隣の家の木にふくろうがとまっているのを見て、たとえば、そういう知覚作用の体系としての観念的な背景っていうのはあるわけですね、その背景が、ふくろうという鳥は非常に不吉な鳥であるっていうような、そういう観念的な背景があったとしますと、そうすると、確かに、隣の家の木のところにとまっているのは、ふくろうであることを、眼で見て受け入れて、ふくろうであるそのものが見えているはずなので、その見えているふくろうが、現在のぼくらが見ているふくろうと、けっして違わないように見えているはずなんですけど、しかし、その見ている背景が、たいへん特異な意味づけがなされていて、たとえば、ふくろうというものは、非常に不吉な動物であるっていうような観念が、背景を支配していたとしますと、たとえば、そのふくろうには、特別な意味がつけられてしまうわけです。そうすると、そのために、たとえば、隣の家に住んでいる人間っていうのを殺してしまうってことが起こるわけです。
そうすると、なぜ殺したかっていう場合に、いや、ふくろうは不吉な鳥だと、そして、その不吉な鳥がおまえの家の木にとまっていると、そうだとすれば、それをもたらしているのは、おまえの家なんだから、だから、わたしはその不吉の根源を絶つために、おまえを殺していいんだっていうふうに、意味づけがなされていくわけなんです。
この種の意味づけっていうものは、現在でも、多少の精神異常者、異常の場合にはみられますし、また、ごく普通の人でも、ごく普通の、ぼくでも、みなさんでも、こういうふうなことをやるときがあるのです。つまり、ありうるのです。
その場合には、たとえば、ふくろうはふくろうとして、たしかに、そのとおり見えているのですけど、見えているものは、おそらく、現在、ぼくらが見えているふくろうと、けっして、違ったように見えているはずがないのですけども、その背景をなしている観念的な世界ってものに、ある特異性があるとすれば、そこに特異な意味づけってものがなされていくわけです。
そうしますと、それは非常に、そういうふうに見えているにもかかわらず、総合的には、非常に違ったものになってしまっていて、だから、たとえば、不吉なるふくろうが、あの木にとまっていると、そうすると、あの木は、おまえの家の木であると、そうだとすれば、おまえが不吉さをおれにもたらしているのと同じだから、おれはおまえを殺して、根源を絶つっていう根拠があるんだっていうことで、殺してしまうっていうような、そういうことが、もちろん、記録的にもいろいろ記されているわけで、残されているわけですけど、もちろん、記録によらなくても、考えの発展の筋道からいって、そういうことは、ありうるってことがいえるわけなんです。そして、そのことは、現在の段階でも、人間の判断力が、時に応じて、しばしば、そういうことはやりうるってことがありうるわけです。

6 身体の問題の重要性

 そういうことについて、現代人っていうのは、非常に人類の発展段階の先端にいるわけだから、高級だっていうふうなことは、たしかなんですけど、その高級さっていうものは、一瞬にして、あるいは、ある場面において、さきほどの原始帰りして、原因と、それから、結果まで、非常に総合的に考えた場合には、こういう馬鹿らしいことを、どうしてしてしまったんだっていうような、そういうようなことっていうものを、人間っていうのはなし得る存在である、つまり、そういうことがなし得るという可能性から、わたしたちは誰一人として、現在も、まぬがれてはいないってことなんです。
われわれが、もし、正常だっていうふうに考えたとしても、その正常さっていうのは、かならず、ある場面について、問題については、そういうまったく判断に苦しむような、そういうことをやりうる存在だっていうふうに考えたら、非常によろしいと思います。
そして、そのやりうる存在だっていうようなことを、極端につきつめていった場合に、たとえば、原始人の知覚作用、あるいは、もっと動物の知覚作用ってものの本質ってものを、そういうところから類推しても、それほど違わないだろうなって思われます。
そのようにして、たとえば、知覚作用における感覚的受け入れの空間性っていうものは、それほど、われわれの現在と違っていないと判断できます。しかし、受け入れから、了解へっていった場合に、了解の時間性ってものは、たいへん違っているわけで、その違い方のなかに、たとえば、人間の歴史のすべての点が自覚として、そこに含まれているっていうふうに、大雑把に考えてよろしいのではないかと思われます。
そのようにして、われわれが、たとえば、知覚作用とか、それから、判断力とかってものの基準っていうものは、何によって決めたらよろしいのかって言った場合に、その場合、まさに、人間の身体っていうものが、非常に大きな意味合いをもって、浮かび上がってくるわけで、人間は、たとえば、人間の身体っていうものを、たとえば、どういうふうに自分で把握するか、あるいは、他者として、他者の身体っていうものをどう把握するか、あるいは、自然的にいって、人間の身体というものを、人間はどう把握するかっていうような、そういう把握の仕方のなかに、われわれの判断力の、あるいは、知覚作用、あるいは、感覚作用ってものの、すべての基準っていうもの、つまり、基準を培うっていうような、そういう根拠が、つまり、身体そのものについての判断、あるいは、把握っていうもののなかに、含まれているわけです。
そういうことのなかで、たとえば、身体っていうものが、非常に特異であり、非常に重要な問題っていうふうにして、浮かび上がってくるわけです。この問題っていうものは、たとえば、現在、世界でもし、非常に普遍的なっていいますか、普遍的な課題のひとつとして、たとえば、追及されているっていうふうな、そういう事実が、現在、存在するわけですけど、そういう事実があるとすれば、その理由っていうものは、おそらく身体っていうものの、観察、判断、あるいは、イメージそのものによってだけしか、人間の判断力、あるいは、感覚作用の基準っていうもの、そういうものが決められないっていうような、そういうひとつの座ですから、そういうものの座として、身体が考えられたときに、身体の非常に特異な大きな意味合いが、与えられるんだっていうふうに思います。
このことは、かならずしも、個々の人間をとってきた場合には、かならずしも、そういうふうにして、人間の判断力っていうのは、できあがっていくわけではないので、生まれてから育っていく環境とか、それから、教育とか、そういうものの総合で、人間は自分の判断力を培っていくわけですけども、しかし、そういう場合でも、そういう判断力を培っていく環境っていうもののなかに、たとえば、人類のいままでやってきた歴史的な判断力の積み重ねってものが、そういう環境のなかに、あるいは、環境を代表する人々のなかに、つまり、親とか、兄弟とか、先生とか、そういうようなもののなかにあるというふうに考えれば、そんなに考えにくいことではないだろうっていうふうに思われます。
このようにして、人間っていうものは、自分自身の判断力、あるいは、自分自身の思考力、あるいは、自分自身の感覚っていうもの、自分自身の身体っていうものを、自分がどう把握するかっていうようなことのなかから、基準っていうものをつかみだしていくわけです。そういう基準の座として、身体ってものが考えられなければならないっていうようなことがあります。
だから、そういうふうに考えていったときに、成立する問題っていうものが、いわば、思想としての身体っていうことを意味するわけで、そういうことの把握っていうものが、どういう理解のもとになされるかってことについては、さきほどはじめに申し上げましたとおり、べつに定説があるわけでもないし、こういうのだって考え方があるわけでもないのですけど、しかし、そういう問題が重要だってことのなかに、さまざまな現代の課題ってものが、封じ込めるってことができると思います。
つまり、そういう座において、人間の思考作用ってものの、根本的な問題が決まってくると、それから、根本的な基準ってものが決まってくる、それからまた、なにが、たとえば、異常であり、なにが異常でないかっていう場合の基準っていうものは、ほかのすべてによって、求めることはできないのですけど、たとえば、身体に対する身体的な把握っていいますか、そういうものを基準にするときだけ、そういう基準が成立すると、それ以外の基準では、おそらく、判断力の基準っていうのは、なかなか成立しないんじゃないかっていうふうに考えられます。
こういう問題がたとえば、どのように把握された場合に、どのように有効な成果が得られていくのかってことは、わかりませんけども、これからの問題に属するわけですけども、しかし、われわれが、たとえば、現在、人間の身体っていうものを把握している把握の仕方のなかには、けっして、満足すべき把握の仕方が、なされているってことはないわけなんで、依然として、その問題は、正当に把握され、正当に追及されて、正当に判断されて、そして、われわれのすべての判断力の作用っていうものの、根源っていうのはどこにあるのか、あるいは、人間の生理過程として、あるいは、自然過程としての人間っていうものと、それから、その過程のなかからつくりだされてでてきた、観念の世界、つまり、心の世界ってものとのかかわり合いっていうのは、どういうふうになっているのかっていう問題は、今後とも大きく追及されていかなければ、いけないんじゃないかっていうふうに考えられます。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

7 司会

 ただいま、吉本隆明さんによって、「思想としての身体」の講演を終わります。なにか質問ありましたら、この場でお願いしたいんですけど、質問時間、約15分ほどもっています。先生の講義のなかには、いろいろと新しい造語が含まれまして、理解するのに、非常にむずかしい言葉もあったと思います。
しかし、まず自己というものを、自然過程と、そして、そうでなくて、空間的、または、時間的に、自己というものをみつめて、そして、そこにおける判断としての、基準として、自分の身体を、そして、思想化しようという講演でございました。なにか質問がありましたら、どなたもございませんか、では、どうもありがとうございました。


テキスト化協力:ぱんつさま