1 自らの資質と向き合うという体験

 みなさん、主題になっている文学の側からせばめまして、文学において、初期ってこと、つまり、それは、文学創造の初期という意味合いにとられても、あるいは、文学作品をつくる、あるいは、詩を書くっていうようなこと以前というふうに書かれても、いずれでも結構なわけですけど、初期っていうものは、自分が自分であるということを問う場合に、どういう意味をもつのかっていうような問題について、お話してみたいと思います。
 どういうところから、はじめてもよろしいわけですけど、自分の体験から申しますと、ちょうど、12,3の頃でしょうか、あるいは、14,5の頃でしょうか、あるいは、もっと以前かもしれません、11,2の頃かもしれません。あまり、当時でいえば、いまの都電って、市電って言っていますけど、そういう市電に乗って、どこか遠くへ行くってことに、あまり慣れていない、つまり、どこで乗り換えて、どうなのかってことが、あまり、慣れていない時期に、しばしば、体験したことなんですけど、いまは、あまり乗らないから知りませんけど、乗りますと、車掌さんが、「切符を買っていない人は」っていうわけで、車内を通り過ぎていくわけです。
 それで、その場合に、お金を出して、一所懸命になって、それを待っているわけです。それで、たまたま、自分の前を通り過ぎたときに、お金を出して、切符を買おうとするんだけど、車掌のほうが、そしらぬ顔をして通り過ぎて、それで、通り過ぎていって、たとえば、そばの人だと、「どこへですか」なんていうふうに、お金を受け取って、切符をきるっていうような、それで、じゃあ、帰りにまた、前を通るはずだからってことで待ち構えて、慣れてなくて、緊張して出すんだけど、もう次の駅が近くて、さっさと通り過ぎて、で、そういうふうなことで、どうして、おれの前だけ止まってくれないのだろうかっていうふうな、つまり、そういうような齟齬といいますか、ゆき違いといいますか、そういうことが、非常にひっかかった時期っていうのがあります。
それで、そのことには、おそらく、あんまり意味がないので、なぜ、そういうふうにひっかかって、なぜ、自分の前だけ、そういうふうに通り過ぎてしまうのかっていうふうに思えるかっていうと、おそらく、こっちが慣れないことで、過剰に期待してかたくなって、それで、待ち構えていると思っているということが、おそらく、自分のところだけ通り過ぎていってしまうっていうような、そういう感じ方の根本、根源になっているのではないかっていうふうに思われます。
だから、そういうふうなところでは、自分の期待どおりにいかなくて、そんなのひょろっとタイミングよく手を出して切符を買うっていうような、そういうところには、スッと止まるって感じで、しかし、自分が非常に待ち構えて、どうしてもっていうふうに買おうと思って待ち構えて、お金をひっこめたり、出したりしている、そういうところには、ひゅっと通り過ぎてしまうっていうような、そういう場合に感ずるゆき違いといいますか、つまり、なぜ、自分のところだけ通り過ぎてしまうのかっていう、そういう感じ方っていうものが、非常に長い間ひっかかっていたっていうような時期があります。
 そういうところから、どういうふうに、ことを導いていったかっていうと、ある現実的な事件、あるいは、事件でも事柄でもいいんですけど、そういうことがあったとすると、自分がどうしてもタイミングよく、そこにサッといかないと、つまり、自分のタイミングがいつでもずれていくっていうような、それは、一般的に社会全体に対しても、あるいは、非常に限られた範囲の関係でも、なんか自分の感じ方っていうのは、いつでもずれていく、タイミングが合わない、そういうようなことがどこからくるのだろうか、あるいは、自分の資質っていいましょうか、自分の資質ではないのかっていうような、そういうことっていうのは、非常に大きな問題としてひっかかってきたように思います。
 で、その種の体験は、おそらく、大なり小なり、みなさんのほうでも、もっているんじゃないかっていうふうに思います。つまり、なんかタイミングが合わない。タイミングがよく合う人っていうのは、羨望にたえないっていうような面もありますけれども、また、逆な意味では、タイミングが合わないという、そういう自分の資質っていいますか、そういうものを掘り下げていこうっていうような、そういうふうな、逆の考え方もしたっていうような、そういうようなことっていうのは、大なり小なり、人間の生涯の初期の条件のなかには、あるのではないかなっていうふうに思われます。
 これは、そういうことを感じないで済む、少数の幸福な人もいると思いますけど、しかし、大なり小なり、この社会ってもののなかにいながら、そして、そこのなかで成長し、そして、老いていくっていうような、そういう過程のなかで、大なり小なり、その種の、なぜ、おれのところだけ、こんなことがふりかかるのであろうかっていうような、なぜ、自分のときだけ、ゆき違いっていうのは起こるんだろうかっていうような、そういう問題っていうのは、大なり小なり、みなさんが、どっかの記憶にとどめている、あるいは、気持ちのどこかにとどめているっていうようなことがありうると思います。つまり、そういう問題っていうのは、もし、掘り下げようと思うならば、掘り下げるに値するのではないかっていうふうに思われます。

2 夢と記憶は自らの資質を象徴する

 話がとんでしまいますが、夢っていうものがあります。それで、夢っていうもののなかに、正夢っていうものがあります。正夢ってものは、極端にいいますと、自分がみたこともない情景を思い浮かべたと、そうして、あるとき、実際に、どこかを通りがかったら、ちょうど夢で見たとおんなじようなところがあったっていうような、そういうような場合に、正夢であるというふうにいわれます。
 それからまた、自分は、夢で、故郷の、おばあさんならおばあさんが、病気したって夢をみたと、そしたら、しばらくして、郷里から、おばあさんが病気になったっていうふうに、病気になったから帰ってこいっていうような、そういう手紙がきたっていうような場合に、夢が当たった、当たったっていうわけで、そういうものが一般に正夢っていうふうに呼ばれています。
 もっとそれが極端になりますと、夢のお告げっていうものがあります。たとえば、夢のお告げで、これこれのことがあった、だから、あなたには、かならず、こういうことがございますよっていうことを商売にしている女性もいるわけです。たとえば、誰でもいいんですけど、そういう人でもいいですし、また、そういうようなことを商売にしている人が、たくさんいるわけです。
 そういうような人で、非常に信念をもっていまして、自分の夢占いっていうのは、かならず当たるんだ、そうすると、かならず、そういうことがあるっていうふうに、信念をもっています。これは、極端な例ですけど、しかし、この極端な例ってものは、たとえば、自分が、ごく普通の場合でも、電車に乗って、車掌のやろうは、故意としか思われない、おれの前だけ通り過ぎて、おれが金を出しても、切符を買おうとしても通り過ぎて、しかし、なんか隣のやつには止まるっていうような、そういう体験っていうものを、もっと極端にひきのばしていきますと、自分の夢は当たるんだと、あなたには、こういうことが、かならずありますよってことを、商売になるほど、よく当たるってところまで、極端にいけば、いってしまうわけです、いきうるわけです。
 そういう場合に、もちろん、当たるわけでは、けっしてないのです。それは、当たらないのです。つまり、当たったっていうことは、大なり小なり、偶然に属することなんです。
 だけれども、しかし、ある場合に、たとえば、夢をみたと、そして、その夢のみたとおりのことが実現されたっていう場合、それを今度は、つまり、逆のほうに極端にひっぱっていきますと、今度は、朝起きて、たとえば、夕べ見た夢を記憶しているっていうようなことが、誰にでも、今度は、普遍的にありうるわけです。そういうものは、正夢であるわけです。つまり、大なり小なり、朝起きて、記憶に残っているような夢っていうものは、正夢であるっていうふうにいうことができます。
 なぜかといいますと、朝起きて、記憶している夢っていうものは、ほんとうにそのとき、夜、睡眠中にみた夢そのままであるっていう保証はどこにもないわけです。むしろ、そのままでないというふうに考えたほうが、まったく妥当なわけです。
 つまり、なぜならば、睡眠中の心の世界っていうものと、覚めてのちの心の世界ってものは、まったく違うっていう、別次元だっていうふうに考えたほうがよろしいですから、つまり、別次元のときの夢を、朝、目が覚めたときに覚えているとすれば、それは。別次元の、つまり、睡眠状態における心の世界と、それから、朝起きた、目覚めて後の心の世界を、どこかつなぐ、心の通路といいますか、接点といいますか、そういうものが、かならずあったということを意味しているのです。
 だから、ごく常識的にいいますと、夕べこんな夢をみたっていうことを、朝、記憶しているっていうような、記憶のとおりの夢をみたというふうに、常識的には考えられやすいですけど、ほんとうは、そうではないと考えるほうがよろしいので、まったく、違う夢をみたのだと、しかし、そのなかで、ある部分だけは、覚めてものち、なおかつ覚えていたということだと思います。
 それを、なおかつ、覚めてのち、覚えているような夢っていうものは、大なり小なり、正夢だって考えたほうがよろしいと思います。
 つまり、いいかえれば、それは、なんらかの意味で、自分の心の世界において、ひっかかっている、つまり、なんかその夢をよく考えてみると、それは、自分の心にとって、わりあいに、重要な意味あい、つまり、睡眠中の心の世界、それから、覚めたのちの心の世界をつなぐことのできるほど、重要な意味をもつ夢っていうふうに考えたほうがよろしいと思います。
 だから、覚めてものち、記憶している夢っていうのは、正夢っていう概念っていいますか、それを拡張して考えることができます。だから、正夢っていう概念は、いま申しましたように、覚めてのち、記憶しているような夢っていうのは、大なり小なり、自分にとって意味があるっていいますか、よく探求するに価するっていいましょうか、人にとってはどうであれ、自分にとっては、探求するに価する夢であるというふうに考えたほうがよろしいという、そこを、ひとつの限界とし、また、ひとつの限界は、つまり、おれの夢はかならず当たるんだっていうことを商売にしているような人の夢っていいますか、そこまで、そういうものを、ひとつの極端として、そのふたつの極端にはさまれる夢っていうもの、それを、すべて正夢だっていうふうに考えたほうがよろしいというふうに思います。
 それから、記憶っていうことも、同じことなんです。記憶ってことも、たとえば、幼年時代のこういうことを記憶しているっていうことは、誰にでもありうるわけですけど、その記憶している情景というものは、まさに、そのとき体験した、そのとおりのことであるというふうにはお考えにならないほうがよろしいと思います。
 大なり小なり、それは、現在、記憶しているってことで、かならず、それは違うものになっているはずです。だから、それは、過去の心の世界ってものと、現在の自分の心の世界とをつなぐだけの接点っていいますか、通路をつけるだけの意味をもったものだけが、人間の、いわゆる記憶として残っているんだっていうふうに考えたほうがよろしいので、記憶していることはすべて、かつてあったこと、そのことの、まったくの正確な再現だというふうにお考えにならないほうがよろしいと思います。
 だから、記憶っていうことのなかには、現在、記憶するまで、記憶するに価するような、なにか大きな問題っていいますか、自分にとってですけど、記憶する、その人にとって、大きな意味合いがあるというふうに、考えたほうがよろしいわけです。
 これは、夢の場合は、いわば、昨日あったことが今朝あったっていうようなことですけど、つまり、そういう意味では、時間的に同時なんですけど、記憶の場合は、過去と現在という意味合いで、過去の世界と、現在の自分の世界というものをつなぐ、なんらかの接点っていいますか、通路っていうものを通り過ぎたものだけが、記憶として、現在、残っているっていうふうに考えてよろしいわけで、そう考えれば、記憶されているもの、自分の幼児体験っていうようなものは、すくなくとも、自分にとっては、問うに価するっていいますか、考えるに価するものであると、その記憶がどんなつまらないように見えようとも、あるいは、単なる情景にすぎないように見えようと、そのことは、すくなくとも、その記憶しているご当人にとっては、たいへん重要なことが、含まれているというふうにお考えになったほうがよろしいと思います。そういう意味合いを、たとえば、記憶っていうようなものはもっていると思います。
 そして、いま言いましたように、記憶とか、夢とかいうようなものは、もし、覚めてのちの世界に、なおかつ、残っているならば、それは、大なり小なり、自分がもって生まれた、あるいは、自分が、現在まで体験してきたなかで、体験をろ過して、なおかつ、残っている、いわば、自分の資質ですけど、自分の資質っていうものを、なんらかの意味で象徴しているものだっていうふうに考えられます。
自分の資質を象徴しているものだとすれば、夢とか、記憶とかっていうのは、自分にとって、うんと掘り下げていくってことに価すると思います。その、掘り下げていくってことのなかに、あるいは、自分の資質を掘り下げていくっていう問題が含まれているっていうふうに考えることができると思います。

3 二度と帰らない自己資質の世界と処女作品の世界

 もし、人間というものを人類というふうに考えないで、個体とか、個人というふうに考えるとすれば、人間の個人の生涯の曲線のなかで、いわば、初期にでてくるもの、つまり、幼児体験とか、青年時代の体験とか、そういうものとしてでてくる、夢とか、記憶とか、それから、その他、諸々でいいんですけど、つまり、そういうものを、自分の資質ってものに関係がたいへん深いってこと、つまり、その資質ってものの世界ってものは、それなりに、掘り下げていくに価すると、つまり、自分を問うという意味合いで、掘り下げていくに価する問題が含まれているっていうふうに考えてよろしいんじゃないかっていうふうに思われます。
 つまり、大なり小なり、青年期の前期っていいますか、つまり、幼年時代から青年期の前期の間にあらわれてくる世界ってものは、大なり小なり、自己資質といいましょうか、個人といいますか、個体としての自分とか、個体としての人間とかいうものが、いわば、全面的に押し出されてでてきます。
 その個体としての自分というものを考えてみれば、いわば、第一次的な環境なんですけど、それは、家とか、友人関係とか、そういうものからの影響が著しいわけですけど、しかし、そういう要素っていうのは、あまり考えられないで、すくなくとも、自己資質の問題だ、資質の問題だってかたちで、その問題はでてくると思います。
その問題は、やはり、文学としても、それから、文学外の問題としても、掘り下げていかなければならない、あるいは、掘り下げるに価する問題だっていうふうに考えられます。
 なぜならば、もし、個人の生涯の曲線っていいますか、そういうものを考えていく場合に、そういう自己資質の世界ってものは、ひとたび通り過ぎたら、二度と帰ってこないものだからです。
 つまり、ふたたび、それを帰ってこさせることは、おそらくできないのであって、帰ってこさせる場合には、いわば、それを論理的なかたちで、あるいは、思想的なかたちで、ふたたび、再構成するっていうような意味合いでは、帰ってくるかもしれませんけど、しかし、自分が生粋にっていいますか、純粋に自己資質の問題として、幼児体験の記憶とか、夢とか、そういうような問題として保存してきたもの、そして、それを通過してきたものっていうのは、ひとたび、その時期を立ち去れば、二度と帰ってこない世界だと思います。
 そのような世界ってものを、たとえば、再現しようとして、いわば、文学作品のなかでも、つまり、作家たちの、そういう言葉でいえば、処女作っていうわけですけど、処女作の世界ってものは、そういうものとして、文学表現の世界のなかにでてくるわけです。
だから、よく、作家はかならず、処女作に回帰するのであるっていうようなことが言われますけど、この言われ方は、あてにはならないのですけど、そういう言われ方のなかに、真実ってものが含まれているとすれば、ひとたび去ったらば、二度と帰ってこない世界ってものに対する愛惜とか、あるいは、再構成とか、そういう意味合いの重要さってものを象徴して、作家っていうものは処女作に回帰していくものだ、なぜならば、それは、資質の世界だからっていうふうに、よくいわれるわけです。
 実際問題として、かならずしも、そうではありません。体験的にいっても、かならずしも、そうではありませんけど、しかし、そういう言われ方のなかに、非常に重要な真実が含まれているってことは、確実だっていうふうに思われます。

4 島尾敏雄「原っぱ」-資質の世界を掘り下げた作品

 ぼくの好きな作家の作品で、そういう問題ってものを、もうすこし具体的に敷衍して、申し上げてみたいと思います。ひとりは、島尾敏雄という作家です。みなさんは何をやっているのか知らないのですけど、みなさんの聞いたこともないような、特別な人を除いては、聞いたこともない作家で、それは、ぼくのことを聞いたこともないのと同じようなものですけど、島尾敏雄という作家の初期の作品に、「原っぱ」っていう作品があるんです。
 「原っぱ」という作品というのは、どういう作品かと申しますと、全体的にいえば、自分の幼児体験の記憶を、いわば、非常に初期に、作家としての初期に再構成しているわけです。
 それは、けっして、いわゆる一般的な意味で、たいへん優れている作品だとか、あるいは、一般的な意味で、芥川賞をとれるとか、そういうような作品では、けっしてありません。そういう意味では、たいへん幼いといえば、幼い作品です。だけども、いま言いましたような意味で、自分の資質の世界ってものを掘り下げた作品だということができます。
どういう作品かといいますと、主人公の少年が横浜に住んでいるわけですけど、横浜の市電っていうのはあるわけです。その市電っていうものは、ある曲がり角のところにきますと、非常にスピードが遅くなって、ほとんど、ノロノロ運転ってふうになるところがあると、主人公は、そのところで、ヒュッと飛び乗りをやるっていうのが、子どもの世界では、たいへん冒険であり、たいへん興味深い行為であるっていうような、近所の子どもたちの間で、そういうふうになっているのです。
 あるとき、主人公が、駅から駅の間に曲がり角があって、そこでは、ノロノロ運転である、そういうところで、ヒュッと飛び乗りをやるわけなんです。たいへん得意で飛び乗りをやって、車掌に見つからないように飛び乗りをやって、たいへん得意でいるわけです。
 ところが、飛び乗ってみてから、探ってみると、自分が切符を、そのときにかぎって持っていないことに気づくわけです。つまり、見つからないように、飛び乗りをやって、そして、終点にきて、切符を出せば、それでよろしいってわけになるわけですけど、飛び乗ってみて、探ってみるんだけど、その日にかぎって、切符を持っていないってことに気づくわけです。
 主人公が、たいへんオロオロするし、不安に、恐怖にかられるわけです。それで、言いだそうか、言いだすまいかっていうふうに思いながら、お金もないし、そう思いながら、そういう教育をされているものだから、やっぱり、車掌が通りすがったとき、「切符を落としちゃったんだけど」と言うわけです。そうすると、車掌が、「それじゃあ、ちょっと待っていなさい」って言ったまま、通り過ぎていく、で、主人公の少年は、やがて、自分のところに車掌が止まって、そして、どこから乗ったとか、それから、どこまで行くんだとか、そういうふうに聞いて、今日はいいけど、今度から注意しなさいとか言ってくれるだろうというふうに、そう言ってくれれば、自分の不安が解消するんだけどと思うから、そういうことを待ち構えて、だけども、車掌は、何回も自分の前を通り過ぎるんですけど、だけども、見向きもしないで、忘れたように通り過ぎていく。で、主人公は、やっぱり、ぼくは大変そこのところは、非常に共感するわけですけど、どうして、さっき言ったのに、自分のところに止まって、自分に注意してくれないんだということを考えるわけです。
 だけども、車掌は知らんぷりして、何回も通り過ぎるんですけど、知らんぷりして通り過ぎてしまう、不安は募るばかりである、それで、やがて、終点にくると、それで、終点にきて、ちょっと来なさいってことで、終点の電車の出張所みたいなところに連れていかれて、おまえはどこから来たんだっていうようなこと、どこまで行くんだって問い詰められて、結局、曲がり角のところで、飛び乗りをやったってことを言わせられてしまう。それで、そんなことはしてはいかんっていうふうに怒られて、それで、出張所にいる人から、切符を持ってきなさいっていうふうに言われるわけです。それで、主人公はひっかかってしょうがないから、泣きべそをかいて、家へ帰って、それで、母親に切符を落としちゃって、それで、出張所へ持ってこいって言われたからって言って、家にあった切符を持って、そして、出張所に返しにいくわけです。
 その途中ですけど、少年ながら、自分の、ひそかに憧れている女の子がいるわけです。その子は、友だち同士で遊んでいるわけです。その子が遊んでいながら、なんか落とすわけです。その主人公が、落とした物を拾ってあげると、その女の子が、ありがとうって言って、ちょっと持っててっていうふうに言って、そのまま遊びを続けてしまう。
 そうすると、主人公はまた、どうして、あの女の子は、どうもありがとうって言って、遊びをやめて、自分からそれを受け取ってくれないのだろうかっていうふうに思うわけです。だけれども、おそらく、憧れている女の子のほうでは、べつに、そんなことは気にしているわけではなく、遊びに夢中になっているっていうような、ただそれだけのことにすぎないのです。だけども、男の子のほうは、その主人公のほうは、どうして、そう言ってくれないのだろうかっていうふうに思うわけです。
 なぜ、そう思うかっていうと、おそらく、一方的に憧れているからだと思います。つまり、そういうことで、そう思うわけです。ところが、女の子のほうは、ごくふつうに、ふるまってくる。あんまり、落とした物を、自分から受け取ってくれないので、きっと遊びが終わるまでは大丈夫だろうと思って、いちど家へ帰ったりするわけです。
 で、家へ帰ったりして、持ってくると、そうすると、遊びが終わっているんです。で、その女の子が、あんた、人のものを持って、どこかへ行っちゃうなんてことはダメよっていうふうに怒られるわけです。
 だけれども、そこが、いわばまた、ゆき違いの世界なんです。つまり、「原っぱ」という作品は、いわば、ふたつの体験ってものを、いわば、ひとつのゆき違いということで結んでできあがっている作品なんですけど、そのこと自体は、この島尾敏雄という作家の、いわば、資質の世界っていいますか、掘り下げるに価する資質の世界、あるいは、記憶に長くとどまっている、そういう世界ってものを、いわば、文学行為といいましょうか、文学表現行為の初期に、それを再構成したものだっていうふうに考えることができます。

5 片想いの世界

 そういうことは、おそらく、やっぱり、みなさんのほうでも、大なり小なり、体験があるんじゃないかっていうふうに思います。あるいは、みなさんのほうは、体験なくて、みなさんのほうを憧れている人のほうが、そういう体験があるのかもしれません。しかし、みなさんのほうは知らないわけです。そういうことは一切知らないわけです。
 そういう場合に、いわば、男女関係でいえば、失恋とか、片想いとかいう、そういう世界ってものが出現するわけですけど、この片想いって世界ってものは、みなさんは、わりあいに自信があって、つまり、自分が、たくさんの人から片想いされているかもしれないっていうふうに思ってるかもしれません。しかし、その場合に、だけど、あんなのおれは問題にしてないんだっていうようなことがあるかもしれません。
 しかし、ほんとうは、その場合に、どっちが得かっていうと、損得っていうのはおかしいですけど、損得っていうのは、べつに、利害っていうふうに考えないで聞いてほしいんですけど。どっちが得かっていうと、おそらく、片想いしたほうの側のほうが得なんです。もし、その人に、自分の資質の世界ってものを掘り下げるだけの、そういう準備があるならば、おそらく、片想いしたほうのほうが、そういう場合には得するんです。いいんです、得なんです(会場笑)。
それからまた、そのほうが、いわば、わりあいに、神に近いんです。つまり、二度と帰らぬ世界なわけなんです。そういう意味合いで、片想いしたほうの人のほうに、もし、準備があるならば、そのほうが得なんです。そちらのほうが得なんです、そういう場合に。
 で、自分が、自信があって、いろんな意味で自信があって、たくさんの人に片想いされて、片想いだけじゃなく、現実にも、どうもそう思われているというふうに、お考えの方もいるでしょうけど、それは、わりあいに損ですよ(会場笑)。そういうことは、つまり、女性がそういうことに気がつくのは、たいへん、ばあさんになってから気がつくっていうようなケースが多いもので、それは、早く気がついた方がいいんじゃないかと思います(会場笑)。
 そういうときに、ほんとうは、たくさんの人から片想いされているとか、たくさんの人から、現実的に想われているっていうようなことは、ほんとうは、わりあいに、いい気持ちでしょうけど、そのいい気持ちっていうのは、ちょっとおかしいんじゃないかなっていうふうに、その問題は掘り下げられたほうがよろしいんじゃないかと思われます。それが、やっぱり、自分の資質ってものを掘り下げるってことに通ずると思うんです。
 なぜかといいますと、ばあさんになりますと、まあ、じいさんだって同じだと思いますけど、そんなに多くの人から片想いされるとか、ほんとうに想われるってことはありませんから、つまり、それは、人間の個体ってもの、個人ってものの生涯の曲線のなかで、そういうことがありうるってこと、ありうるのは、やはり、青年時代までであって、だから、一度あったら二度と帰らない世界という意味では、そういう体験っていうのは、非常に重要な問題だと思います。
だから、その際に、おれは、たいしたものだっていうふうに思わないで、ちょっとおかしいんじゃないかっていうふうに、つまり、自分のほうにおかしい問題っていうのが、おかしい問題っていうのが自分のほうにあるんじゃないかっていうふうに考えられたほうが、おそらくは、非常に得するっていうふうに、ぼくには思われます。
 ぼくは、そういうことを、うんと考えたことがあるんです。つまり、男と女、男女の問題っていうようなことを、つまり、たくさん片想いしたり、実際に想ったりってことがあるでしょ。そういう場合、きれいだとか、スタイルがいいとか、非常に頭がよく働くとか、センスがあるとか、そういうようなことっていうのは、わりあいに、ものすごい惹かれるわけです。つまり、資質の世界が問題であるかぎりは、うんと惹かれるわけです。
 そうすると、おかしいんじゃないかって、そういうものはおかしいんじゃないかって、ぼくはものすごく考えたわけです。つまり、これは、おれの思想と矛盾するのではないかっていうこと、つまり、矛盾するのではないかっていうことで、ずいぶん、考えたことがあるんです。
 つまり、どうしてかっていいますと、大なり小なり、非常に幼いときから、たとえば、働かなきゃ食えないってことで、たとえば、いま、女中なんていうと怒られちゃうんでしょうけど、メイドさんになって(会場笑)、働かざるをえなかったとか、ぼくらの言葉でいえば、女工さんになって、働かなければいけないっていうような、そういう人っていうのは、いろんな意味合いで、きれいになるっていうような、ゆとりっていうのはないでしょ、そうすると、そうならば、自分の思想から考えて、そっちのほうに、そういうのに惹かれるのが、ほんとうじゃないかっていうふうに考えるわけです。
 ところが、感性的にはそうではないのです。そうじゃないってことがあるんです。だから、そういうことは、ものすごく矛盾じゃないのかってことで、ずいぶん、そういうことを考えたことがあります。つまり、そういうことを考えたってことが、ぼくは、利害という意味合いじゃなくて、ずいぶん得したっていうふうに思います。
 そういうことから考えますと、考えて、その問題をどう解決したかっていうような、ぼくなりの解決があるんですけど、理屈があるんですけど、それは、この際、どうでもいいとして、つまり、いろんな意味で、自分にはそういうあれがあって、想われているとか、あるいは、具体的に想われていることも、自分も知っていると、それから、そうだとすれば、潜在的に想われている。つまり、片想いされている人数っていうのは、もっと多いんじゃないかっていうような、つまり、自分を片想いしているやつは、もっと多いんじゃないかというような時期、あるいは、そのときに、うんと考えられたほうがいいと思うんです。
 そのとき、人間じゃなくて、人間よりも神に近いのは、片想いしているほうのやつであって、想われているほうのやつは、おそらく、生涯で、最もたるんだ時期といいましょうか、つまり、悪魔に近いというような、そういう時期であるわけです。
 悪魔に近い女性が、つまり、大なり小なり、自分が悪魔に近いっていうような、そういう時代っていうものは、やっぱり、二度と帰ってこない。で、人間っていうのは、大なり小なり、神と悪魔の中間のところで、どうにか、ばあさんになったり、じいさんになったりするっていうようなことになってしまうわけです。
 それが、いわば、個体ってものを考えた場合の、生涯の曲線ってもの、そういうもののあり方であるわけです。それで、だから、神に近いか、悪魔に近い時代っていうのは、二度と帰らないという意味合いでも、それから、非常に得意であるか、失意であるか、そのどちらかであるという意味合いでも、たいへん、考えるに価する問題、つまり、そこを掘り下げるかどうかっていう問題なので、非常に本格的な問題っていいますか、ほんとうに、考えるに価する、生涯、考えるに価する問題の、きっかけというものをつかめるっていうことがありうると思います。

6 島尾敏雄の魅力

 で、島尾敏雄っていう作家っていうのが、ぼくらが、なぜ好きかっていうと、そういう資質の世界に対して、わりあいに、見事なっていいますか、わりあいに、着目して、それをごく初期の段階で再構成できている。そういうことが、たとえば、この作家よりも、小説を書かせたらうまい作家っていうのは、ごまんとおりますし、それから、構成力といいましょうか、構成力の雄大さっていうのは、そういうことから考えても、この作家にくらべて、もっと優れたっていうのは、たくさんいます。
 しかし、人間というよりも、文学において、その作家に惹かれるか、惹かれないかっていう問題は、けっして、その作家が大作家であるか、あるいは、非常にもてはやされている作家であるか、そうでないかってことにかかわらないということがありえます。そういうことは、どうすることもできないわけです。だから、どうすることもできない問題っていうのは、かならずあるわけです。
 そういう意味あいで、文学創造の技術からいっても、それほど、もっと優れた作家を探そうと思えば、いくらでも現存していると、それからまた、もっと大作家、より大きな作家だといわれ、より大きな作家で大きな問題をもっているというような作家を探しても、それは、何人もいると、しかし、なぜ、この作家に惹かれるかっていうふうに、ぼくが問われたとすれば、そういう資質の世界ってものに対して、非常に大きな意味合いをもたせた作品ってものをつくり、そして、その資質の世界ってものを拡大していくっていうような、そういう問題については、たいへん粘り強く、現在についても、粘り強くやっているっていうような、そういう意味合いで、ぼくはたいへん好きな、あるいは、惹かれる作家であるわけです。
 これは、文学作品の世界でも、現存する作家の世界でも、たくさんの作家の作品に惹かれたり、それから、惹かれなかったり、反発したりってことをやりながらでしか、やはり、この種の作家っていうのは、なかなか見つけられないんですけど、ごく一般的に見つけられる作家っていうのは、わりあいに、多くいるわけですけど、しかし、そういう作家の世界ってものを、うんと追及していったあげくに、やっぱり、好き嫌いっていうような問題っていうものを、自分自身の資質の世界と結び付けて、そして、考えることができるっていうような、あるいは、見つけることができるっていうような問題が、やはり、文学の鑑賞っていうような場合でも、ありうると思います。

7 埴谷雄高『死霊』の世界

 もうひとり、ぼくが好きな作家がいます。この作家に『死霊』っていう作品があります。この作家の名前も、おそらく、特別に文学が好きだとか、自分で文学作品をつくっているとか、そういうような人を除いては、あまり、ご存じないのではないかと思います。また、この人の『死霊』という作品は、読まれた人は、ごく少ないんじゃないかっていうふうに思われます。
 しかし、この『死霊』という作品を考えてみますと、ここにもまた、自分の資質の世界、つまり、幼児体験みたいな、そういう資質の世界ってものを、自分の思想体験ってものに結び付けた、そういう世界ってものが描かれています。
この作品は、けっして、いわゆる文学作品という意味合いで、けっして、おもしろいとも言えないですし、また、読みいいとも言えないですし、また、そういう意味合いでいえば、うまいというふうにもまた、言えないっていうふうに思います。けれども、いわば、自分の資質の世界ってものを、自分の思想体験の世界ってものに結び付けた、そういう世界ってものが、『死霊』という作品のなかにあります。
 この作品は、戦後すぐに書かれた、わりあいに、すぐに書かれたわけですけど、すでに、戦前に左翼運動の中枢にいて、そして、戦争中を沈黙のうちに、あるいは、蓄積のうちにくぐりぬけて、戦後すぐに発表された作品で、未完の作品です。大きな長編の一部なんですけど、その後、続編が書かれたということはないですから、まだ、未完の作品です。
 この世界が、やはり、同じように、自分の資質の世界ってものを、自分の思想体験の世界ってもの、つまり、自分の資質の世界が、いわば、現実社会における波をかぶった場合、あるいは、政治的世界の波をかぶった場合に、当面した、そういう問題ってものは、いわば、非常に極限のかたちで再現され、また、再構成されている。
 この作品のなかにも、3人、あるいは、4人の主人公がでてくるわけです。その主人公たちは、どういうことを考え、つまり、その主人公たちが、高等学校から、高等学校といっても、昔の高等学校ですから、いまのみなさんの年齢にあたるのでしょうか、そういう時代からはじまって、現実社会の波をかぶるっていうような、波をかぶっていったっていうような、そういう自己資質の世界が現実社会における荒波をかぶっていった、そういう世界へのうつりゆきってものを、まず描いているわけです。
 その3人の主要人物のうち、ひとりの人物、矢場徹吾という、作品のなかでの名前になっているわけですけど、ひとりの高等学校の生徒が、あるとき、その高等学校を訪れてきた女性と一緒に失踪したまま、わからなくなっちゃうわけです。それで、学校では、仕方なしに、放校処分にするってことで、放校処分になってしまうわけです。
 それで、ふたたび、もうふたりの主人公が、矢場徹吾という人物に遭遇した、出会うことができたのは、精神病院の一室である。それは、その間に、左翼運動に従事して、刑務所体験をして、そして、いわば、精神的に狂気となって、病院に収容されるっていうような、そして、収容されたときに、はじめて消息がわかる。そして、消息がわかったときには、すでに、狂気であり、また、いわば、失語症になっていて、しゃべることができないっていうような、そういうふうになっているところで遭遇するわけです。

8 資質の世界を突き詰めて当面する価値観

 そして、この主人公が初期において、それぞれのテーマがあって、自分の資質にもとづいたテーマがあって、それぞれの掘り下げ方を三人三様にするわけですけども、それは、いずれも、どういうふうに要約されるかっていいますと、そのテーマは何であってもよろしいわけですけど、そのテーマってものは、とことんまで問い詰めていったら、どういうことになってしまうのかってことを三人三様に追及して、そして、三人三様に、自分なりの世界をつくってしまうわけです。
 しかし、その世界は、ごく一般的にいって、他人に通ずるかどうかってことは、はなはだ疑わしいと、しかし、なんか自分なりに問題があって、その問題を、どこまでも掘り下げていくっていいますか、どこまでも追及していって、とにかく、とことんまでいってしまうと、とことんまでいってしまって、言葉自体も、おそらく、常識的な世界には通用しないのはもちろんですけども、また、他人に、それが通用するかどうかもわからないっていうようなところまで、それを突き詰めていってしまうわけです。
 それじゃあ、そういうふうに突き詰められた世界っていうのは、どういうふうに言っていいかっていうと、さきほどの言葉でいえば、一種の神に近い時期っていうのに該当するわけで、それは、一般的にいって、人間には精神の世界があるってこと、つまり、精神の世界があるっていう場合に、精神の世界があるっていうことと、精神の世界が、いろんな事件とか、事柄とか、現実的ないろんな問題とか、そういうことに当面したときに、どういう反応の仕方をするかってこと、つまり、精神の世界が、ただ、あるってことと、それから、あるそういう精神の世界が、あるっていうのは存在するってことですけど、存在する精神の世界ってものが、ある外部的な、つまり、自分の外にある事件とか、あるいは、社会的な事柄とか、そういうものとか、あるいは、環境とか、そういうものにぶつかったときに、どういう反応の仕方をするかっていうような、そういう精神の反応の仕方っていいますか、反応の仕方っていうものと、精神がただあるってこととの間には、いわば、間に分裂をきたすってこと、つまり、空隙があるってこと、つまり、人間には、個々それぞれに、精神の世界があるっていうふうに、ただあるってことと、その精神の世界が、外の事柄にぶつかって、どういう反応の仕方をするかっていう、その仕方との間に、もし、分裂があるとすれば、あるいは、空隙があるとすれば、その空隙っていうことが、いわば、生活するということなんです。というふうなところまで、つまり、資質の世界ってものを、とことんまで突き詰めてしまうわけです。
 そうすると、それぞれが生活するってこと、あるいは、生きるってこと、生きるってことは、大なり小なり、精神の世界があるってやつは、大なり小なり、なにかに突き当たって、反応する仕方ってものが、生きるってことですから、そうだとすれば、そこに空隙が生ずるってことが、たいへん、主人公たちは、ごく初期に、そういうことは非常に醜いことだっていうふうに考えるわけです。つまり、そういうことは、たいへん醜いことなんだっていう、だから、ようするに、生きるってことは、あるいは、生活することは醜いことなんだっていうふうに考えるわけです。
 この考え方ってものは、いわば、自分の資質の世界ってものを、いわば、純粋なかたちで突き詰めていくときに当面する価値観っていうものが、大なり小なり、生きるってこと、あるいは、生活するってことは醜いことである、あるいは、醜いことをすることであるっていうふうな観念に到達するわけです。この到達した観念ってものが、まず、精神のあり方として、正当であるかってことは、あるいは、いいことか、悪いことかってことは、別問題であって、ただ、ようするに、青年期に至るまでの、個体っていいますか、個人っていいますか、個人の生涯の曲線っていうものを。とことんまで突き詰めていけば。精神のあり方、あるってことと、精神をもっているってことと、しかし、それが反応するっていう、現実のことにぶつかって、反応する仕方のなかに空隙があると、その空隙こそは、生きるってことじゃないのか、生活するってことじゃないのか、それで、生活するってことは醜いことじゃないのかっていうような、そういう観念に到達する、あるいは、そういう価値観に到達するってことは、たいへん理解できることなんです。
 そういう価値観がいいか、悪いか、あるいは、正当かどうかってことは、まったく別問題なので、もしも、青年期に至るまでの、そういう資質の世界ってものを生粋に突き詰めていけば、おそらく、大なり小なり、そういう観念に到達するってことは、ぼくのたいへん理解しやすいことだっていうふうに思われます。
 そういうことはまた、ある意味で、そういう価値観が正当かどうかってことは別問題として、そういうことは、たいへん重要なことに思われます。そういう、いわば、非常に重要な資質の世界ってものを、いわば、作品のなかに、まず、定着するってところから、『死霊』ってものがはじまっているわけです。

9 三人三様の資質の世界

 で、主人公といいますか、主要人物と目される3人の、いわば学校の同窓生ですけど、そういうものが、三人三様の資質のあり方で、そういうところに到達してしまうってこと、それはもうやっぱり、生きることをやめる以外に、そういう価値観ってものを貫徹する方法がないじゃないかっていうところに、三人三様の仕方で、追い詰められていくわけです。
 もっとも、そういう価値観をもって、いわば、戦前の政治運動の世界ってもの、そういうものに飛び込んだ、3人のうちのひとりっていうのは、究極的に狂気となって、しかも、失語症となって、病院に送られてくるっていうような、そういうふうなところで、他の2人が、そこではじめて、失踪して消息不明であった、そのひとりに出会うっていうようなかたちになっていくわけです。
 この過程もまた、たいへん、いわば、資質の世界がどうやって、現実社会の波っていうものにぶつかっていくかっていうようなことを考えて、そして、ぶつかって、そこに思想を獲得するか、あるいは、自分の資質の世界を拡大するっていうような問題を獲得するか、それぞれ生き方ってものはあるわけでしょうけど、しかし、そういう自己資質の世界を徹底的に、ひとたび突き詰めた、そういう人物が、そういう世界にぶつかって、飛び込んでいくっていうような、そういう場合に、どういうあり方をするかっていうようなことが、まず、描かれていくっていうような、そういうふうなところから、作品は、いわば、展開部に入っていくわけです。
 まず、その作品の展開部において、いわば、狂言回しといいましょうか、狂言回しの世界ってものを、狂言回しの役割っていうのを果たすのは、いわば、主人公のひとりが失語症となって病院にいった、病院の若い医者っていうのが、いわば、狂言回しの役割となって、三人三様の突きつめた世界の突きつめ方ってものを追及して、つまり、突きつめ方を聞きただすっていいましょうか、そういう役割を果たすわけです。
 そのうち、あとの2人のうち1人は、あまり、しゃべることもしないし、それからまた、恋人がいるんですけども、恋人が、その人は、どうも、究極的にはわからないところがあるとしか考えられないような、そういうところをもった、あまりしゃべらない、そして、生活的には、のらりくらりしているっていうような、そういう態度の青年になっていると、で、もうひとりは、貧民街の屋根裏に住みついて、作品では虚体っていうふうに、虚体っていうのは、いわば、実体ってことの反対の概念っていうような、虚体っていうような世界、つまり、なにを追及して、貧民街の屋根裏に住んで、なにをやっているのかしれない、わからない、なにを考えて、なにを追及しているのかわからない、しかし、貧民街の、そういう世界で、子どもたちや、隣人たちにしろ、付きあいはするんですけども、その人物が考えていることは、なにを考えているのか、さっぱりわからないっていうような、そういう生き方の世界にいってしまいます。
 で、ひとりは精神病院に入ってしまう、で、もうひとりは、のらりくらりして、ちっとも、生活するとか、金を稼ぐとか、暮らすとか、そういうこともしないで、外から見ると、なにを考えているか得体が知れない、そういう人物になってしまうっていうような、そういう三人三様の生き方をするっていうようなところで、小説としての展開ってものが、はじまっていくわけです。
 さきほども申しましたように、未完の作品ですから、そのとき、未完なんですけど、最後の場面ってものは、いわば、架空のこと、虚体っていいましょうか、架空のことにつかれた主人公の屋根裏部屋に、貧民街の屋根裏部屋に、住んでいる主要人物のひとり、それから、非常に強力な政治的なオルガナイザーであり、主人公といいますか、主要人物3人のうちの1人の兄貴と、学校時代の友人であったという、そういう人物との問答があるわけですけど、問答といいますか、対立といいますか、そういうものがあるわけですけど、その対立、あるいは、問答っていうようなところで、その作品っていうのは、未完のまま終わっているわけです。

10 極限の未来の眼から現在を見る

 それで、政治運動に従事している強烈な人物が、一体、この男は屋根裏に住んで、なにを考えているんだっていうようなことを盛んに追及して、それをまた、ぶち壊そうっていうふうに考えて、問答をしかけるわけです。
 結局、わかりえたことは、その人物は、ようするに、もし、そういう仮定がなされるならば、極限の未来っていうのを考えて、極限の未来の眼から、現在をみるっていうような、そういう考え方じゃないかっていうふうに、その問答の過程を通じて、政治運動をやって、たいへん優秀なオルガナイザーである人物が、問答をしかけて、そういうことがおぼろげながらわかりかけるわけです。
 なぜ、遠い未来、あるいは、極限の未来ってものから、現在を眺めるっていうような、そういう眼が、なぜ必要なのかっていうようなことが、問答のあいだでもでてくるわけです。そういうことよりも、現在をみて、現在を打開するっていいますか、そういうことの生き方ってもののほうが本当なんじゃないかっていうような、そういう追及の仕方をするんですけど、いや、問題はそうじゃないと、つまり、かって、もし、人間について考え、それから、現実社会について考え、そして、正義について考え、そして、世界について考えっていうような、大なり小なり、そういう考えをした、いわば、偉大だといわれている人物、あるいは、偉大だといわれている思想があるとすれば、その思想が一様に到達していないところっていうのがあると、つまり、そこが限界であって、それ以上の問題については、不問に付しているか、あるいは、到達しては決していないっていうふうに思われる、そういう限界っていうのはあるんだ。
 それで、なぜそれが、そういう限界っていうのがあるのかっていうと、それは、ようするに、人間の精神の世界ってものを、ひとつの完結した世界っていうふうに考えますと、そして、それは、ひとりの具体的に生きて生活している人間が、そういう精神の世界をもつわけですけど、もしも、これを逆に、自分は、精神の世界として生きているので、現に具体的に、こういうふうに存在し、そして、三度のご飯を食べ、それから、会社に行って働きとか、それから、何々闘争があると出かけっていうような、そういうことっていうのが、もし、まったく、嘘の世界っていいましょうか、まったく架空の世界であって、精神の世界ってものが、もし、架空じゃない実体のある世界だっていうふうに、もし逆に考えたら、どういうことになるだろうかっていう、つまり、逆に考えて、たとえば、その問題ってものをとことんまで突き詰めていったら、どういうことになるのだろうかっていうような、そういうふうに考えていった場合に、そういうところまで徹底して、つまり、そういう世界まで徹底して考え方を展開したっていう、そういう、たとえば、偉大だといわれている思想とか、偉大だといわれている人物とか、そういうものっていうのは、かつて存在しなかったのである。
 つまり、大なり小なり、具体的な人間がおり、そして、具体的な社会におり、具体的に生きており、そして、具体的に何々という事件が起こり、それに対して、その人物がもっている精神の世界が反応し、その反応の結果、自分はどうするとか、こうするとか、こう行動するとか、こう行動しないとか、あるいは、こう文学作品をつくるとか、つくらないとかっていうような、大なり小なり、そういうふうに考えられている世界っていうのは、ある意味でいえば、非常に巨大な思想とか、巨大な文学とか、あるいは、巨大な人物とか、そういうものを考えれば、そういうことの、あるいは、極限まで追及されて、あるいは、なされているかもしれない、それぞれのかたちでなされているかもしれないと、しかし、もし、まったく、転倒したらどうであるか、つまり、具体的にこういうふうに、このものが、自分が存在して、何々を考え、何々をやり、それで、社会があり、世界があり、そして、こういう事件が起こりっていうような、そういう世界がぜんぶ架空であると、ぜんぶ架空であって、自分が考え、そして、それが展開された、そういう世界が、ほんとうに、まことに物がここにあり、こうなっていると同じような意味合いで、このほうが実体なんだというふうに、逆にひっくり返したらどうなるんだ。つまり、どうなるであろうか、つまり、逆にひっくり返したときにでてくる問題っていうのはどうなのかっていうことを、そういう問題意識をもとにして、考え方を追及したっていうような、そういう人物っていうのは、かつていないんだ、つまり、どんな巨大な思想といえども、巨大な人物といえども、そういうものはなかったんだと、で、自分が追及しようっていうか、自分がやろうとしていることは、そういうことなんだ。
 そうすると、自分が、たとえば、未来からの眼っていうもの、つまり、未来からの眼っていうものは、いわば、現在考えれば、空想的なわけですけども、しかし、もし、そういうふうに、逆にもしひっくり返っているとすれば、つまり、観念の世界と、非常に物的な世界とが、逆にひっくり返っているとすれば、けっして空想ではなくて、未来の眼っていうことのほうが、まことに実体があるので、その未来の眼が、いまを見るっていう、そういうことが、また可能であるし、そういう眼が、おそらく、人間のかたちづくる世界というものの、極限っていうものを表現しうるのだっていう観念に、主人公のひとり、つまり、貧民街の屋根裏部屋に住んでいる人物は、そういうふうに考えるわけです。
 だから、未来からの眼っていうのは、けっして、観念的なものじゃないというふうに言うわけなんです。それに対して、それは、その考え方の筋道っていうものは、理解できるとしても、そんなことは問題ではないのだ。つまり、現在どうするのかっていうことが問題なのであり、それから、そういう考え方ができる頭蓋といいますか、頭蓋ってものを打ち砕いてしまうってこと、そういうことこそが問題なのだっていうふうに、問答をしかけた、作品のなかでは、非常に強力な政治的なオルガナイザーなんですけど、そういうふうに設定されている人物は、そういうものを打ち砕いてしまうことが、非常に問題なんだっていうふうに、いわば、そのように対立するわけです。
 しかし、この対立のなかに、もし、共通点があるとすれば、登場する人物が、どういうタイプの人物であり、どういうことを考え、あるいは、どういうことをおこなっていようと、それが、いわば、自己資質ってものの世界を、とにかく、とことんまで突き詰めたっていうようなところから、いわば、自分の資質、あるいは、具体的な環境、そういうものに従って、やはり、生き方を変えていくっていうような、そういう生き方を変えている、そういう人物だけが登場して、そして、そういう物語の世界ってものが、構成されているっていう意味合いでは、いわば、共通点ってものが、登場人物のなかにあるといっていいのです。
 つまり、こういう意味合いの極限性ってものを描いた作品っていうのは、ほとんど皆無と言っていいくらいに、日本の文学のなかにはないのですけど、それは、『死霊』という作品が、未完の、いわば、入り口にある作品ですけれど、しかし、その作品のなかには、そういう資質の世界が、やがて、外部の世界に当面して、そして、不可避的に同化せざるをえないっていうような、そういう移り行きの段階を、いわば、展開して、そして、作品の世界を構成しているのです。

11 意志する世界と外界がぶつかりあって決まる
自己資質の世界の歩み方

 これをひっぱっている作家っていうもの、ひとりの作家っていうものを考えますと、その作家は、そういう意味合いで、自分の青年期の資質の世界、それから、政治的な体験の世界、あるいは、それ以降における、戦争をくぐる、くぐり方の世界、そういうものの世界のなかで、具体的ななかで、自分の資質ってものが、荒れ狂った外界と、必死に格闘しながら、明治の北村透谷流の言い方をすれば、考えることをしたってこと、考えることをしたってことにおいて、非常に徹底した生き方をしてきて、戦争をくぐってきたっていうような、そういうことが、ぼくはいえると思います。
 そういう世界を表現している作家というものは、非常に寥寥たるものであって、その寥寥たるものであるというところで、見失われていく貴重なものっていうのは、たくさんあると思います。
 その貴重なものっていうのは、ぼくは、みなさんが、文学が好きになり、そして、文学の創造の世界に飛び込んでいくってことが望ましいなんてことは、ちっとも考えていないので、できるならば、そういうことはやめたほうがいいっていうふうに思っていますけれど、やめたほうがいいと思っていますけれど、しかし、もし、そういう資質の世界が、やがて、現実の世界へっていうふうに展開していった場合に、その現実世界へ進んでいく生き方がどのような道筋であれ、そのときに当面する問題ってものは、おそらく、二度と体験できない世界っていうものを、そういう意味では、貴重な世界、あるいは、未熟であるけど貴重な世界ってものを含んでいるわけですから、やっぱり、その世界っていうのは、いろんな意味で、大事にしたらいいわけですし、もし、大事にしますってこと以上のことをできるならば、掘り下げていったほうがいいんだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
だから、もし、個体、あるいは、個人ってものをもとにして、あるいは、資質ってものをもとにして、人間が生きていく生き方ってものを考えていくとすれば、人間が、人間がって言わないで、具体的に、みなさんがと言ってもいいわけですが、みなさんがどうなるかってこと、つまり、どうなって、どういう具合になって、そして、どういうふうに婆さんになって、そして、どういうふうにくたばるかっていうような、そういうようなことっていうもののなかで、自分の意志っていいますか、意志力ってものの及びうる限界ってものが、もし、個人をもとにして考えるならば、つまり、個体をもとにして考えるならば、たいへん限界のあるものなのです。
 つまり、自分がどう生き、どうなっていくかってことは、誰にもわからない、もちろん、わからない、予言者でもわからない、しかし、そういうふうにわからないというなかで、自分はこういうふうに、こう進もうと思っているっていうような、そういう意志をもっていて、そして、その意志をもっているってことと、それから、それが実現するかどうかってこととは、まったく別だってことは、非常にあきらかなことなんです。
 その場合、自分の意志力が、つまり、つらぬきうる範囲っていうのは、まあ、せいぜい半分なわけです。じゃあ、あとの半分は何なのか、なにが、生涯なら生涯、つまり、自己資質ってことの、あるいは、個体っていうもの、あるいは、個人というものの生涯を、なにが決定するのかっていいますと、もうひとつは外界が決定するのです。
 外界っていうのは、つまり、なんでもいいのです。なんでもいいっていうのは、これを、いわば、家庭的環境と考えてもよろしかろうし、経済的基盤というふうに考えてもよろしかろうし、また、政治的権力からふってわいたように起こってくる事柄であるというふうに考えてもよかろうし、あるいは、社会全体の構成というふうに考えてもよかろうし、それは、それぞれ、次元の異なったところで、存在するわけですけど、どれと考えてもよろしいです。
 あるいは、それ全部かもしれませんけど、そういうものが、つまり、個人、あるいは、個体ってものが、意志する世界、あるいは、意志の世界ってもの、こうなろうとか、こうしようと思っている意志の世界と、強固にぶつかりあうってこと、強固にかならずぶつかりあうってこと、そのぶつかりあった結果、不可避的にぶつかりあった結果でてくる方向ってものが、その個体、あるいは、自己資質の世界ってものの歩み方を決定するってことは、まちがいのないことです。
 かならずしも、そのことを言わなくてもいいので、つまり、不可避的といわない以前で、なにかするってことも、もちろん、人間にはありえます。しかし、とことんまで突き詰めていけば、自分が意志して、こうなろうというふうに、あるいは、こうしようというふうに考えた、そういう自分の意志の構想ってものと、それから、いわば、それにぶつかってくる外的な世界ってものと、それとが、不可避的にぶつかって、そして、不可避的に、こういくより仕方がないじゃないかっていうようなかたちでしか、個人の生涯、あるいは、自己資質の世界ってものの歩み方ってものは、決定されないということ、だから、そういう意味合いでは、いわば、自己資質の世界、あるいは、自分の意志の世界、構想の世界、構想した世界ってものは、個人の生涯、あるいは、自己資質の生涯の曲線を考えた場合には、半分しか実現されない、つまり、非常にうまくいって、半分しか実現されないこと、それ以外のことは、いわば、外界とぶつかったときに、はじめて、これ以外に仕方がないじゃないかっていうような意味合いで決定されるってこと、だから、そういう意味合いでは、どうして、どうなるのかっていうのは、まったくわからないってこと、それが、個体の生涯、あるいは、自己資質の世界ってものの、はじめから終わりまでってものの歩み方ってものを考えた場合に、非常にあきらかにいいうる事柄だっていうふうにいえます。

12 生き方の原点と文学の効用

 だからして、それじゃあ、自分が意志をもち、そして、意志力にもとづいて、自分の構想をたてっていうようなこと、それにもとづいた歩みっていうようなもの、そういうことが無駄なのかってことになります。
 しかし、それは、けっして無駄ではありません。なぜならば、そういうふうにしないかぎりは、個体としての人間、個人としての人間、あるいは、自己資質としての人間っていうものは、けっして、不可避性ってものに、生涯ぶつかる、あるいは、生涯お目にかかることができないってことです。
つまり、おれは仕方がないから、こういう道を歩んだんだっていう、たとえば、そのことが、その道が、善であれ、悪であれ、それは、人からどういわれたって、それは仕方がないのだっていうような意味合いの世界ってものを、その個人っていうのは歩むことができない、つまり、そういう世界にお目にかかることができないのです。
 そういうことにお目にかかるためには、どうしても、やっぱり、意志があり、それにもとづいて構想がありっていうような、そういうものをもたないかぎりは、けっして、不可避性っていう、いわば、非常に味わい深い、他者がどう批判しようと、批難しようと、あるいは、称賛しようと、そういうことは、いっこうかかわらないんだと、おれはどうしようもないから、こういう道をいったんだっていうような、そういう世界ってものを味わうことができないだろうと思います。
 もし、そういう意志、および、意志力にもとづく、構想っていうのをもちえないならば、もたないならば、おそらく、そのときに当面する生涯の自己資質の描く曲線っていうものは、非常に偶然的な事実の羅列、あるいは、集積ってものによって、左右されるだろうというふうに考えられます。
けっして、ぼくは、そういう生き方ってものが、つまらんものだっていうふうには、けっして考えません。つまり、そこには、価値観とか、倫理観っていうのは、ぼくにはないのです。つまり、どちらでも、ぼくにはいいのです。
 どちらでもいいからやってくれってことなんですけど、だけれども、非常にはっきりしていることは、もし、自分のほうに構想がなければ、自分の資質の世界ってものの展開の仕方っていうのは、いわば、そのときの偶然ってものに左右されて、いわば、事実の積み重ねってことで、生涯を終えるだろうってことは、まったくあきらかであり、それから、もし、強固な意志力をもてばもつほど、外界とのぶつかりあいの圧力が、つまり、力が強くて、そして、そのときにでてくる、いわば、不可避のコースっていいますか、不可避の道筋ってものがあって、自分が、こうするより仕方がないんだ、これ以外に仕方がないから、おれは、このコースを歩んだんだっていうような、そういう世界ってものをまた、味わうことができると思います。
 このふたつの極端には、けっして、倫理的な善悪、こっちがよくて、こっちが悪いんだとか、こっちが尊重すべきで、こっちが尊重すべきではないというようなことは、全然、ぼくはないと思います。つまり、どちらでもよろしいのです。どうせたいしたことはないのです、いずれにせよ。だから、それはどちらでもよろしいと思います。
だから、その場合に、いわば、偶然的事実の積み重ねっていうような生き方っていうのは、いわば、人間の生き方としては、わりに原点になりやすいってこと、あるいは、非常に多数ってものを考えた場合に、多数の大衆ってものを考えた場合には、わりあいに、極端にそうじゃないですけど、わりあいに、そういう原点から考えると、考えやすいってことがあります。
 それから、自分の意志を形成し、そして、それにもとづく構想をたて、それにもとづいて生きようとしたんだけど、生きようとし、なにかしようとして、こうなろうとしたんだけど、外界の圧力とぶつかりあった、そこのところで、不可避的に決定されたコースっていうような、そういうところの生き方ってもののなかに、あるいは、大なり小なり、わりあいに、少数な人間の生き方ってものが象徴されているかもしれません。
 そして、わたしたちが生きるっていう場合に、あるいは、自分自身っていうのは何なのかっていうような場合に、声を発する場合に、大なり小なり、いわば、中間で存在するわけですけれども、しかし、ただ中間に存在するっていう存在の仕方のなかで、いわば、存在の仕方を極度におしすすめた場合にどうなるか、それから、極度に逆方向におしすすめた場合にどうなるかってことを知っていると、知らないのでは、たいへんな違いを生ずるでしょうし、また、そういうことを了解しているとしないとでは、たいへん、生き方の体験といっても、同じ体験でも、生き方の深さっていいましょうか、自分に対する問いかけの深さっていうものもまた、おのずから違ってくるっていうようなことがあると思います。
 もし、文学において、もし、初期っていうことが、これは、創造者の側からも、鑑賞者の側からも、初期ということが、もし、文学の側で問題になり、また、初期の世界ってものを拡大し、そして、それを押し広げていくとか、初期の世界が外界とぶつかったときに、不可避的にでてくる問題ってものを、たとえば、小説のテーマ、あるいは、モチーフに選んだ、そういう作品を展開するにしろ、また、鑑賞するにせよ、初期というもののもっている意味あいというものは、いま申し上げたようなところに、非常に核心的な問題があるというふうに、ぼくは考えております。
 そういう核心ってものを表現している作家っていうものは、たいへん少数ですけど、しかし、けっして、存在しないわけではない、そして、そういう作家に、もし、みなさんが、あるとき偶然にでも、当面しえたとしたら、たいへん幸福なんじゃないかっていうふうに思われます。
 文学なんていうものは、どうせ、いわば、架空の世界ですから、架空の世界に本領があるわけですから、その架空の世界がもし、現実に生きている人間になにかを寄与しうるとすれば、そういう世界っていいますか、いま言いました、自己資質の世界、および、それが展開する世界、あるいは、自己資質がさまざまな政治問題とか、思想問題とか、社会とか、そういうものに当面したときに、不可避的にいかざるをえない方向っていうもの、そういうものの表現をどこかに含んでいる、そういうことが、もしあるとすれば、まったく架空の世界を本質とする文学とか、芸術ってものもまた、それを鑑賞することも無駄ではないのではないかっていうふうに思われます。
 文学にもし、効用性といいますか、なにか役に立つことが、個人の生き方とか、社会とかなんとか、そういうものに役に立つことが考えうるとすれば、まったく、そういうことを通じてしか、役に立つってことは、ぼくは、ありえないというふうに考えておりますし、そういう意味合いで役に立つという作品に、もし偶然にも当面しえたってことが、みなさんがありうるとすれば、それは、たいへん幸福なことじゃないかっていうふうに考えます。
 だけれども、それは、現在でも、また、過去でも考えて、寥寥たる世界である、つまり、非常に当面しにくい世界であるってことは、まず、疑いのないところじゃないかっていうふうに思われます。これで、終わらせていただきます。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま