〈冒頭聞き取れず〉…これは、いろんな意味合いで興味深いものがあるんです。つまり、どういうところが興味深いかというと、まず第一に、キルケゴールが好きになったのは、女性ではなくて、結局、自分自身ではないかっていうことだと思うんです。
それから、もうひとつ、自分の愛した女性っていうものを好きになったんですけども、相手は、あんまり、好きでなかったんだと思います。というのは、キルケゴール自体がそうなんですけど、非常に自然ではないわけです。つまり、反自然的というわけですけど、とうてい女性にはわからない、得体の知れないという、とくに若い女性だったら、そういうふうにしか映らなかったんじゃないかなと思います。
だけれども、これは、『誘惑者の日記』を読むと、自分でもわかったというふうに、つまり、女性が好きになるとか、女性が好きになったとか、つまり、人間の恋愛感情みたいな、そういうものっていうのは、なにはともあれ、ぶっつけ本番っていうわけで、あんまり、理屈っていうのはないわけです。それから、論理もないわけで、もちろん、思想っていうのもないわけで、ただ、理屈をいうよりも、時計でもなんでもいいですが、プレゼントしたほうが早いっていう、そういうことはあるわけです。
だけれども、キルケゴールって人は、そういうことはわからないんで、あんまりよくわからないんです。だから、女性がわからないです。だから、一人相撲してるっていうことだと思います。つまり、読みすぎるだけだと、たとえば、自分のほうで論をこしらえあげて、それで、結婚を申し込んで、そうすると、相手のほうも成立する、そうすると、成立した途端、がっかりしたんだと思います。
つまり、その契機はなにかっていうと、キルケゴールの思想のなかにある反自然性といいますか、自然に反する論っていいますか、そういうものが、やはり、重要であったと、そういうことは、ぜんぶにおいて結局、一人相撲したことになるわけです。
だけれども、そういう場合に、男性ですと特にそうですけど、ふられるほうがいいわけなんです。つまり、女性にふられるという体験は、自分でふったようですけど、ほんとうはふられたんだと、ぼくは思いますけど、つまり、ふられるという体験っていうのは、体験したときには、男性っていうのは、いちばん神に近いわけなんです(会場笑)。
そういう場合に、むしろ、ふったっていう女性のほうは、ほんとうは、いちばん獣に近いっていう、そういうところにあるわけです。それで、そこのところが、女性としては、おそらく、考えどころなのであって、そのときに、そのときってことは、生涯のうちで、若くていちばんきれいでっていうような、そういう時期に、たくさんの男性に言い寄られたと、そういう体験、みなさん、おもちかもしれませんけど、そういうときは、ちょっと警戒したほうがいいわけです。というのは、そういうときには、いちばん考えどころだってこと、つまり、女性のほうが獣に近いので、男性のほうは神に近いときです。
だから、それを逆に考えて、そういうとき、女性が逆に考えたら、それ以後の、生涯のコースがうんと狂ってしまうというふうに思います。つまり、たいへん違ってしまうと思います。だから、人に好かれて、男性に言い寄られて、つまり、おれはずいぶんモテるっていうふうな状態に、もし、みなさんがなったときには、うんと警戒したほうがいいと思います。つまり、そこのところで、わたしは、きれいでモテるっていうふうに思ったら、ちょっと思い違うのであって、そういうふうに思うと、おそらく、生涯のコースっていうのは狂っていくと思います。
ほんとうはそうじゃないのであって、そういうときに男性っていうのは、とくにふられそうな男性っていうのはそうなんですけど、そういうときには、男性っていうのは、その人を好きだとか、愛しているっていうのではなくて、おそらく、自分自身を愛していたり、自分自身のつくりあげた女性っていうのを愛していたりしているのであって、けっして、その人自体をずばりと好きであるっていうような、そういうこととは違うのであって、それを、もし、女性のほうで思い違えると、いま申し上げましたとおり、たいへん、生涯のコースが狂うだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
男性のほうは、そういう場合には、ふられてがっくりするわけですけど、がっくりしたっていう体験を通じて、おそらく、人間は人間として、いかに、卑小な存在であるとか、つまり、自分を相対化する眼ができてくるわけです。だから、たいへんきついことですけど、そのときは、おそらく、ふられる男性のほうは、わりあいに、神に近い境地にいるわけで、それは、現象的には、表面上はそうは見えないですけど、ほんとうのところはそうなんです。
そこのところで、やはり、男性のほうでも考えどころであって、つまり、自分自身っていうのを、一人の異性なら異性っていうものに通ずる、自分を通じさせることができなかったっていう体験で、自分を、非常に卑小な存在であるっていうふうに考えるわけですけど、卑小な存在であるってことには間違いないんですけど、そういうふうに考えるってことは、いわば、自分自身を相対化する、自分自身を自分自身でながめられることができるっていうような、おそらく、そういうことが、契機になるんじゃないかと思われます。
また、女性のほうも、実際上は、非常に、神のごとく、多くの男性から言い寄られてっていうようなところなんですけど、ほんとうは、いちばん獣に近いところで言い寄られているっていうことは、間違いないことで、だから、そこのところはまた考えどころで、そこのところをどう考えるかっていうことによって、やっぱり生涯のコースっていうのは変わっていってしまうだろうというふうに思われます。
キルケゴールの場合でも、そういう体験、見かけ上は、自分が結婚を申し込んで、そして、相手のほうで承知して、そして、自分のほうで婚約を破棄してっていうふうに、表面上はそういうふうになっていますけど、おそらくはそうじゃないので、自分自身がつくりあげた女性の像に、自分がつまずいたということだと思います。
やはり、その体験のあとに書かれたものっていうのは、たいへん立派ないいものが多いわけです。それは、みなさんのほうが余計に知っているでしょうけど、『反復』でも、『死に至る病』でも、それは、そういう体験から、つまり、自分を相対化するってこと、つまり、自分自身を相対化するっていう眼を獲得した、つまり、深めたってことが、おおいにあずかって、力があるように思われます。
たとえば、『死に至る病』なんかみますと、人間っていうのは絶望なんだっていうこと、絶望なんだってことを意識しているか、いないかにかかわらず絶望なんだと、つまり、絶望っていうのは、とにかく普遍的なものなんだ、つまり、人間が生きていく場合、存在していく場合に、たいへん普遍的なものなんだっていう考え方があるわけです。
絶望を感じているか、いないか、あるいは、意識しているか、いないかってことは、人間の存在が絶望であるかってこととは、あまり、かかわりがないので、いずれにしても、意識していない絶望もあれば、意識している絶望もあると、たとえば、意識していなくたって、絶望は絶望なんだ、ようするに、キルケゴールがいうときには、それは、おそらく、相手の女性っていうのが鏡になっているわけで、いいたいことをもっとはっきりいえば、あの女性というのは、絶望的な存在だということを自分で知らないわけで、知らないし、それから考えようともしない、そういう絶望なんだと言っているんだと思われます。
そういうことが契機になって、そういう考え方ってものがでてきたっていうふうに思われます。そこいらへんのところが、いちばん問題になるところで、人間が自己自身に目覚めようと、目覚めまいと、それから、無知であろうと、無知でなかろうと、絶望は絶望なので、そして、その絶望の可能性っていうものを、あるいは、可能性の絶望というものを提示するものが、つまり、キリスト教的な神なんだっていうふうにいうわけです。
それで、異教的なるもの、それから、いわゆる自然的なるもの、いわゆる、絶望ってことを意識しない、そういう存在というものは、意識しないにもかかわらず、意識しないところの絶望であるってことには間違いないんだっていうような、そういうふうに、人間にかえる契機っていうものを、そこのところでつかんでいったっていうふうに思われます。
ここいらへんのところで、キルケゴールの人間の理解の仕方っていうものを、主観的な契機っていうふうに、かりにそういうふうに言ってみますと、この主観的な契機に対して、そこのところで、鋭く分岐するわけですけど、客観的な契機っていうものもありうるっていうふうに考えます。
ぼくは、べつに、そういうふられた体験からそういうふうな問題に突っ込んだわけじゃないんですけど、ぼくらは、そこから、いまいった言葉でいえば、客観的な契機っていうのは何なのか、そこから、そういうふうに思います。
それは、なにが、そういうふうにいった契機になったかっていうものを、体験的に申し上げてみますと、結局、こういうことなんです。もし、ここにひとつの社会秩序なり、あるいは、観念の秩序なり、つまり、国家みたいな観念の秩序なりがここに存在すると、その観念の秩序なり、あるいは、社会の秩序なり、そういうものに対して、大なり小なり、異を唱えるっていうこと、つまり、大なり小なり、それに対して、反抗的であるとか、反逆的であるとかっていうふうな立場っていうものは、いかにして可能なのかってことが、まず、ぼくなんかの契機だったと思います。
その場合に、それぞれはそれぞれで、多少、相対化している面もあるわけでしょうけど、つまり、多少のごまかしっていうのは意識したうえでしょうけど、それぞれは、自分が真理を保有しているっていうふうに考えているわけです。つまり、思想の数だけ、あるいは、立場の数だけ、真理が自分の手のうちにある、あるいは、自分たちの手のうちにあるってことは、誰でもそういうふうに考えている。
これを大きくいいまして、社会の秩序、あるいは、国家の秩序っていうもの、あるいは、観念の秩序っていうものを守る側も、自分らが真理を保有しているっていうふうに思うわけです。それから、また、それに対して反抗的な立場にある者もまた、自分のほうが真理を保有しているっていうふうに考えるわけです。
これは、極端にいいますと、百人いれば百人とも、各々違ったところで、おれこそが真理だっていうふうに考えているところがあるのです。それは、人間の浅ましさっていうやつで、その浅ましさっていうのは、キルケゴール流にいえば、絶望しうるってことが、人間と動物との違いなんだっていう言い方です。
つまり、そのことも、人間の、逆にいえば、非常に浅ましさなのであって、その浅ましさってことは、様々な形態を取りますけど、いま言ったように、自分こそは真理を保有しているっていうようなことは、百人いれば百人とも、大なり小なり、そういうふうに思っているところがあるわけです。
そこの思っている核のところを、たとえば、自己とか、自己意識とか、あるいは、自己の思想とかっていうふうに言ってしまうわけですけど、しかし、それは、ただ主観的にそういうふうに思っているに過ぎないのではないかっていうのが、まず、ぼくが最初に考えた疑いであるわけです。
ぼくならぼくは、社会の秩序に反逆すると、しかし、反逆されるほうも、それなりに真理を保有していると思っているに違いない。また、ぼくならぼくが、社会に対して反逆する、そういう思想があると、そうすると、ぼく以外の思想で、たとえば、ぼくとは違う思想でやっぱり、おれは社会に反逆する思想があると、そして、おれはやっぱり真理だっていうふうに思っていると、あるいは、自分たちは真理だっていうふうに思っていると、そういう場合に、真理を保有しているものだっていうことを、何が決めるだろうかっていうことが、非常に大きな問題になってきたわけです。
そこのところで、たとえば、ぼくは、キルケゴール的なほうに、つまり、わりあいに、主観的な契機のほうに、それをもっていかなかった、つまり、真理の基準、あるいは、普遍性の基準、人間存在の普遍性の基準っていうものを、そういう主観的な契機のなかに、あるいは、内面的な契機のなかにもっていかないで、かえって、むしろ客観的な契機のほうに、それをもっていったっていうふうに思います。
そこいらへんのところが、いわば、キルケゴールがいう、関係っていうこと、関係性っていうことと、ぼくなんかが考えてきた、そういう言葉を使っているわけですけど、「関係の絶対性」っていう言葉を使っているわけですけど、「関係の絶対性」っていう言葉でいっているものとが、相分かれるところになっていくわけです。それはいいかえれば、べつのことでいえば、それが、たとえば、キリスト教に対する、ぼくなんかのわかれていく契機になったものは、そういうところだって思います。
そこのところで、「関係の絶対性」っていうことこそが、いわば、思想の真理を保障する。つまり、真理を保障するっていいましょうか、どれが真理であるかを測る、いわば、基準っていうものになりうるんだっていうふうに考えていったわけですけど、それでは、「関係の絶対性」っていうのは、どういうことだろうかってことになるわけです。そういうことをちょっとお話してみたいと思います。
それは、「関係の絶対性」ってことで、ぼくが自分自身でつけた内容っていうのは、2つあります。そのひとつは、なにかっていいますと、人間の存在っていうものの根本的な価値観っていうもの、つまり、人間が存在するっていうことの価値っていうのはどこにあるのか、つまり、価値っていうのはどこにあるのかっていうことを、いわば、自然的な人間っていうものに求めるっていうこと、これは、キルケゴールのいう反自然的な、つまり、絶望しうる人間、あるいは、絶望に対して救済の可能性をもつ神っていうような、そういうことと対照的になるわけですけど、非常に自然的な存在過程っていうものを、それを人間存在の価値基準にするっていうふうに、ひとつは考えていったわけです。
具体的にいいますと、どういうことかっていいますと、それは、母親の胎内からこの世に生まれでて、そして年齢を経て、そして、結婚して、そして、子どもを生んで、そして、子どもが大きくなって、自分は年齢をとって、大きくなって青春期に達した子どもに背かれて、そして、そのうちに老いて死んでしまうっていう、そして、その間、生きていくっていうことに対して、その間、今日繰返したように、明日も同じように生活を繰り返そうと、それ以外のことについては、なにも関心をもつまいと、で、明日、自分が飢えるか飢えないかってことは、非常に切実な関心であると、それで、明日、たとえば、10円儲かるか、20円儲かるかってことは、非常に切実な問題であると、だから、そういうことについては、よく考えて、たとえば、15円と値段をつけた魚1匹が、どうも売れなかったと、そしたら、明日は14円で売ってみようじゃないかっていうふうに考える。そういうことは、非常に切実であると、しかし、あたかも自然であるかのごとく、反復、繰り返される、そういう生活過程についてならば、よく考えるけれど、それ以外のことについて、まして、反自然的な、あるいは、形而上学的なことについてなんていうのは、まったく考えない。
それから、世界のどこかに戦争があるとか、革命があるとか、なにがあるとか、そんなことには、ぜんぜん関心がない。ただ、自分が自然過程のように、繰り返し、繰り返し、明日の生活、あさっての生活、そのこと以外には、まったく関心をもたない、そういうふうにして、結婚して、子どもを生み、そして、子どもに背かれて、年寄りになって、それで、くたばって死ぬっていう、そういう生活者っていうものを、もしも、想定できるならば、そういう生活の仕方をして、生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだっていうふうに、ぼくは考えていったわけです。
つまり、人間の存在の価値観の基準っていうものは、それなんだ。それ以外は、大なり小なり、逸脱であり、大なり小なり、矛盾であり、大なり小なり、キルケゴール流にいえば齟齬である、つまり、くい違いであるっていうふうに考えたわけです。
だから、最も価値ある生き方とはなにかっていうふうに言われた場合には、とにかく、自分の生活、日々繰り返される、10年のごとく繰り返す過程、そこで起こってくる問題以外は、あまり、関心をもたない。むしろ、まったく関心をもたない。しかし、それだけは関心をもつと、そういうふうにして、生まれて、年齢をとって、老いて死ぬっていう、そういう生き方が、いわば人間の生き方で、最も価値がある生き方だって、わたしは、そういうふうに考えているわけです。
だから、それがいわば、価値の最大のっていいますか、最上の基準なんだ。人間の個人でもなんでもいいわけですけど、誰それは価値ある生き方をしているかっていった場合に、最も価値ある生き方っていうのは、いま言いましたような、そういう生き方を最も価値ある生き方だっていうふうに、わたしは、そういうふうに考えたわけです。
そうしますと、大なり小なり、人間っていうのは、それに対して、大なり小なり、それからの逸脱として、あるいは、それからのくい違いとして生きていくわけです。
だから、みなさんは、そこのところは逆に考えられて、たとえば、学校を卒業して、そして、どっかに就職して、そのうちに結婚して、定年退職で、子どもに面倒をかけて、そのうちに足腰が立たなくなって死んじまうと、そんなのは、会社入ってから、定年退職まで、給料だってぜんぶ計算できると、こういう馬鹿馬鹿しいことを、おれはやってられるかっていうふうに、そういうふうに考えられるかもしれないけど、それは、ほんとうは、ぼくは嘘だっていうふうに思っています。
つまり、冗談じゃないってことで、もしも、そういうふうに人間が生きられるならば、最もそれは価値ある生き方であるってことなんです。だけれども、ぼくの経験によれば、ぼくは、そんな経験者じゃないので、まだ、四十数年しか生きていないですけど、しかし、その四十数年、生きてきた自分の経験を考えても、ぼくは、そういう、就職して、そして、働いて、そのうち結婚して、そして、定年退職まで…まだならないですけど、そういうふうに生きられたら、いちばんよかったって思うわけだけど、そういうふうに生きられないわけです。
それは、ぼくだけじゃなくて、おそらく、みなさんは誰でも、そういうふうには生きられないっていうふうに、ぼくは思います。だから、みなさんのほうでは、逆に、会社に入って、サラリーマンになって、給料だって終わりまで計算できるんだっていうような、そういう馬鹿馬鹿しいことに、なんの価値がある生き方かっていうふうに、逆に考えられるかもしれないけど、それは嘘だっていうことは、すぐにわかります。もうすこしして、就職したら、つまり、そういうふうにおあつらえ向きには、人間は生きられないんです。大なり小なり、そこから逸脱してしまうわけなんです。
だから、ほんとうは、いま申し上げましたとおり、そういうふうに生きられて死ねば、いちばん価値ある生き方は、どんな人にも、どんな偉大なっていうふうにいわれている人たちよりも、最も価値ある生き方っていうのは、それなんです。しかし、人間っていうのは、大なり小なり、それから逸脱してしか生きられないわけなんです。それは、大きく逸脱するか、小さく逸脱するかは、いろんな契機がありますから、自己意識だけによって、確定できない要素がありますから、わかりませんけど、しかし、大なり小なり、人間は、いま言いました、最も価値ある生き方に逸脱してしか生きられないわけです。
とくに、インテリゲンツィアっていうのは、最も逸脱しやすい存在なのであって、そういうふうにしか生きられないわけなんです。しかし、わたくしなんかの考えでは、それは、あくまでも逸脱なのであって、ほんとうに価値ある生き方っていうのは、いま申し上げましたとおり、自分の生活過程だけに起こることしか考えないのであって、他のことにはなんら関心がない、まして、キルケゴールなんかには、全然関心がない(会場笑)。そういう生き方っていうのは、最も価値ある生き方なんだ。
だけれども、しかし、大なり小なり、それから逸脱してしか生きられないってことは、残念なことに、人間の存在の仕方の浅ましさってやつで、大なり小なり、そういうふうになってしまうわけです。ぼくは、まったく、ひとつには、なにが価値ある生き方か、あるいは、真理を保有した生き方かっていった場合に、ひとつは、そういう人間の生き方っていうものが、最も基準になるだろうと考えていったわけです。
で、もうひとつのことがあるわけです。それは、そういうことになりますと、キルケゴールの思想に対しても、批判の契機がでてこざるをえないわけですけど、たとえば、自己とはなにかっていう、あるいは、自己意識が自己に関係するっていうような、その種の言い方っていうのは、たとえば、キルケゴールなんかはたくさんするわけです。
そういう言い方っていうのは、一見すると、人間の存在っていうものを非常によく考え尽した果てにでてきているように見えますけど、ある面からみますと、たいへん無造作な考え方だと思います。
無造作な考え方だっていうことは、どういうことかっていいますと、自己が自己であるとか、自己意識が自己を関係づけるとか、そういう概念が、あるいは、了解が可能なのは、じつは、人間の、いま言いました、生まれて死んでっていう生涯を考えますと、ある時期的な契機っていうものがないと、そういう考え方っていうのは、そういう問題の出し方っていうのは、でてこないわけなんです。
具体的に説明しますと、あるひとりの人間っていうのを考えまして、ひとりの人間が母親の胎内からでてきたと、世界に投げ出されたと、そうしますと、投げ出されたっていいますと、いかにもポツンと投げ出されたってことになるわけですけど、ほんとうはそうじゃないのです。投げ出された瞬間から、ひとりの投げ出された人間っていうのは、生まれた人間っていうのは、第一義的にいいますと、家族との関係づけ、とくに乳幼児だったら、母親との関係づけのなかで存在するわけです。すでに場自体がそういう場で存在するわけです。それは、お乳を飲むっていうことから、おむつをとりかえる、そういうことまで含めまして、それはすでに、第一義的には、家族との関係のなかに投げ出されていくわけです。
そうしておいて、いわば、青春期になるわけですけど、青春期になったときに、青春期になったところで、ちょっと時間をストップして、そこのところは、微細な区分けをしてみますと、青春期になったときに、はじめて、自己が自己であるっていう場面にはじめて遭遇するわけです。
だから、そこのところではじめて、自己とは何かとか、自己意識が自己に関係づけられるとか、そういう概念が成立するのは、青春期に入ったそのときなわけです。ところで、そのときっていうのは、非常に不安定なわけです。
もうひとつ、今度はいいますと、こう切ったところでは、すでに、今度は社会のなかに投げ出されると、同時に、他の、つまり、自分以外の他の異性との関係のなかに投げ出されるってことが、つぎの一コマには、もう起こってくるわけなんです。起こってきたときにはまた、今度は、自分以外の他の異性との関係づけのなかに投げ出されるか、社会的なものの共同性のなかに投げ出されるか、つまり、つぎの瞬間には、そういうふうに関係づけの仕方っていうのはされてしまうわけです。
そうすると、非常に青春期の、非常に不安的なある一時期の断面を微細に切った場合に、そのところで、不安定でありますけど、一瞬そこで、自己が自己であるっていう問題っていうのが、一瞬提起されて、そして、そういう体験をするかのごとく思われます。しかし、つぎの一コマを切ったときには、すでに、他の異性との関係づけのなかで、自分の意識ってものが拡大されざるをえないと、あるいは、社会の共同性のなかで、拡大をされざるをえないかっていうような場面が、つぎの瞬間に、つぎの一コマにはもう、その問題があらわれていってしまうわけです。
だから、そういうふうに考えていきますと、こういうふうに、人間の存在の仕方っていうものを、あるいは、存在の立場でもいいんですけど、そういうものを真理であるとして測る基準っていうものを設定する場合に、人間の存在、あるいは、自己存在っていうものを無造作にしてはならないのではないかっていうことが、もうひとつ、ぼくが、「関係の絶対性」、つまり、人間の真理を保障する規準であると考えた場合の絶対性っていうものの、もうひとつの契機っていうのは、そういうところに求めたわけです。
つまり、自己が自己であるっていうことは、たいへん非常に不安定なある一時期に提起される問題として、それは、はじめて問題になりうるのであって、ほんとうは、自己が自己であるかのごとくみえる、そういう自己っていうのは、ほんとうは、もうすこし、関係づけとしては、もうすこし、緻密に考えられる必要があるのではないかっていうふうに、つまり、そこのところを緻密に考えるっていうことのなかに、いわば「関係の絶対性」っていうものの、あるひとつの契機ってものが求められるんじゃないかっていうふうに考えていったわけです。
それじゃあ、どういうふうに、ぼくが考えていったかといいますと、ひとつはこういうふうに考えていったわけです。自己が、自分以外の他の一人、つまり、自分以外の他者である一人と関係づけられる関係ってものが、関係の世界っていうものがあって、その世界は、セックスの世界だっていうふうに考えたわけです。
セックスっていいますと、それは、いわば、男と女の間の関係、あるいは、異常であれば、男と男とか、女と女とかあるわけでしょうけど、そういうものをセックスというふうにいうのではなくて、人間が、自分以外の他の一人、一人の他者っていうものと関係づけられる世界がセックスの世界だっていうふうに考えていったわけです。
もうひとつ、人間が、ある共同性の一員として関係づけられる世界っていうのが、これは、いま言いました、自己が自分以外の他の一人と関係づけられる世界とは、まったく次元の違ったところで、そういう世界が存在するであろうってことなんです。
それから、もうひとつは、自己が自己であるっていうこと、完璧に自己が自己である、つまり、それは、その背景に、どういう関係づけの世界があるっていうことじゃなくて、まったく裸で、自己が自己であるっていうふうに、あるいは、自己意識が自分と関係して、あるいは、自分の世界である、そういう世界っていうのがまた、いま言いました世界とは、次元の違ったところで存在するだろうということ、だから、もし、人間の、キルケゴール流にいえば、自己意識の世界なんですけど、それから、人間の観念の世界っていうものを、もし、とことん突き詰めていったとすれば、それは、自己が自己と関係する世界っていうもの、それから、もうひとつは、自己が他者である自分以外の一人と関係する世界っていうものと、それから、自分が共同性の中の一人である、あるいは、一員である世界と、その3つの世界が、べつに混同しているわけじゃなくて、次元が違った世界としてあるだろうってことなんです。
そこのところが重要なわけですけど、次元が違った世界として、その3つの世界の契機ってものがあるだろうっていうこと、つまり、そういうことをとことん突き詰められたときに、人間の観念の世界っていうものが、一種のひとつの統合性として、全一性として、描きうるだろうっていうこと、それは、どんな人間にも、人間の存在っていうものは、その3つの次元の違った世界を日々、相渉っているか、あるいは、一瞬のうちに相渉っているか、あるいは、ある年月、相渉っているか、わかりません。それは個々でありうるわけでしょうけど、その3つの次元の違った世界を、自分の観念の世界として保有するだろうってこと、それで、その3つの次元が違ったっていう認識がそこにないかぎりは、おそらく、様々な混同が起こるだろうっていうこと、いいかえれば、世界っていうものを、つまり、人間存在をとりまく世界っていうものを理解する場合の、了解する場合の、了解の仕方っていうものが、まず、「関係の絶対性」として描かれる場合には、ある基準として描かれうるためには、どうしてもその3つの世界っていうものを、次元の違った世界として、設定せざるをえないってことなんです。
そういう世界っていうものを、人間存在は、観念の世界として、誰でも背負っているってこと、そして、背負っているその世界っていうものを、矛盾ではありますけど、混同することは、ほんとうは許されないのであって、あるいは、混同せざるまでも、自己意識が自己意識として、成立する世界っていうふうに考えれば、自己の問題、あるいは、自己の観念の問題っていうのは終わるっていうふうに考えれば、まったく不安定なことであって、そうではないのであって、自己の観念の世界っていうものを設定する場合でも、その関係づけの世界は、いま申し上げました、その3つの次元の違った世界の契機っていうものを非常に深く考えていかなければ、自己が自己であるっていう世界すらも、存在しえないだろうなってこと、つまり、そういうふうに考えていくときに、世界っていうものは、いわば、関係づけの世界としては、絶対性に近づいていくだろう、つまり、絶対性に近づきうる契機が生まれるだろうっていう、そういうふうに考えていったわけです。
このことは、いわば、キルケゴールにおける死に至る病、つまり、絶望という病、あるいは、病の普遍性っていうもの、それから、救済の可能性としての神っていうもの、キリスト教的な神っていうようなもの、そういう設定の仕方っていうものを、たとえば、かりに主観的な契機っていうふうに申し上げますと、それとは、まったく対照的に、客観的な契機っていうほうに、関係の絶対性、人間に近づくだろうっていう、そういう基準っていうもの、そういうものを求めていったわけです。
それで、たとえば、具体的に申し上げますと、たとえば、あいつは女のくせにとか、女だと馬鹿にしないでくださいとか、そういう言い方があるでしょ、しかし、先験的に、人間は、女または男であるのではないのです。つまり、人間が、女または男としてあらわれるのは、自分以外の他の一人、つまり、一人の他者と関係づけられる世界において、はじめて、人間は、男または女としてあらわれるっていうことなんです。
先験的に、人間は、女または男であるわけではないのです。だから、あいつ、女のくせにしやがってとか、女だ女だと馬鹿にしないでくださいとか、そういう言い方っていうのは、非常に通俗的な言い方であって、そういうことはないのです。人間は人間なのです。
ただ、人間は人間ですけども、おれは人間なんだっていうこと、つまり、キルケゴールっていうのは、そういうことが、いつもいつでもそうなんですけど、どこまでも、人間は人間なんだっていうふうになるわけですけど。
そうではないのであって、人間が、自分以外の他の一人と関係づけられるときには、男または女として、あるいは、契機としてあらわれるわけなんです。それは、どんな人でもそれ以外のあらわれ方はできないのであって、どんな人間でもそうなんです。つまり、他の一人と関係づけられる世界において、はじめて、人間は、男または女としてあらわれるっていうことは、不可避であるっていうことなわけです。
こういうことは、キルケゴールの自己意識っていうものが、客観的契機のほうにいかないで、主観的な契機のほうにいった、非常に大きな要素だっていうふうに、ぼくには思われます。つまり、そういうものなのです。
もうひとつ、共同性の中の人間とかってことなんですけど、その場合には、人間っていうものは、共同性の中での人間っていうものは、どういう人間かっていうと、そういうときには、共同性の中の人間っていうものは、あたかも、観念だけが、あるいは、観念のほうが肉体であって、肉体のほうが観念であるかのごとくあらわれる世界なんです。
つまり、一人の人間は、共同体の中では、あるいは、共同性の中では、観念を肉体であるかのごとく、それから、肉体を観念であるかのごとく、逆さまになって、はじめて、共同性の中での自己っていうものがあらわれるわけなんです。
つまり、共同性の中での人間存在っていうものは、かならず、観念と肉体とを逆さまにしてあらわれるってことが、共同性の中の自己とか、共同性の中の人間とか、人間存在とかっていうものの、非常に大きな特徴であるわけなんです。
だから、具体的にいいますと、なんでもいいので、たとえば、みなさんのあれでいえば、あるキリスト教団の中における自己っていう場合に、その自己っていうものは、かならず、観念が肉体であるかのごとく、そこに参加せしめているのであって、肉体を観念であるかのごとく、疎外して、そのなかに参加しているのです。ということは、みなさんのほうでは、実感としておそらく、論理としてわからなくても、実感としては納得してくれるのではないかなっていうふうに、ぼくには思われます。
これは、どんな小さな共同性でもおんなじなんです。たとえば、3人集まって、あるサークルをつくったっていう場合でも、そのなかにおいて、サークルをつくってなにかした、しようっていう場合でもそうなんですけど、そういう場合には、3人が3人とも、観念を肉体であるかのごとく、肉体が観念であるかのごとく、そのサークルに参加せしめているってことは、みなさんがよく考えられれば、実感をうんと深められれば、おそらく納得してくれるのではないかっていうふうに思います。
もっと大きなあれでいえば、日本の国家なら国家でいえば、国家なら国家の中における自己っていうものを考えますと、その自己っていうものは、国家っていう共同体の中に、どういうふうに参加していくかっていうと、観念のほうで参加しているだけで、観念のほうで参加している国家に参加しているだけであって、肉体とその肉体にのっかって、いろんなことを考えている自分っていうのは、国家のなかに、べつに参加しなくて、市民社会のなかに、存在しているわけです。
で、国家のなかに、もし、わたしが日本人です、日本国人ですっていった場合に、なにが日本国人かっていったら、ようするに、観念がそこに参加しているっていう意味合いしか、べつにないと思います。つまり、国家の共同性みたいなもののなかに、人間がそのなかの成員の一人である、あるいは、そのなかの一メンバーであるっていった場合に、個々の人間っていうのは、観念として国家に参加しているだけです。
だから、ときたま、…大臣なんかを選ぶために、一票を行使したりなんかすると、そういうときに、一票を行使するってことは物質的行為で、誰を選んだりなんかするのは観念の行為なので、そういうことで、国家の共同性なんて、ときどき思い出して、それから、税金を国家から取られたりすると、そういう法律があったっけなっていう、つまり、法としての国家っていうのがあったなっていう、おもしろくないなっていう感じで、思い出すわけです。それからまた、おもしろくないから、デモでもするかっていう場合に、ちゃんと、国家という観念を、いちおう具体化するための機関があるわけですけど、そういう機関に、なんか事務的にする人がいるわけです。そういう人が、〈音声聞き取れず〉…ああかなわない、そういうふうになったりして、そういうときには、具体的に思い出したりするわけですけど、ようするに、そういう共同性の中に個々の人間が参加しているっていう場合には、あきらかに、そういう観念としてしか、しかも、ほんとうは観念の中での共同性のなかにおける自己観念みたいなもので、そういうものとしてしか、そこには参加していないってことが、実感としてわかるっていうふうに思います。
で、つまり、共同性ってものは何かっていいますと、自己が他の一人と関係づけられる世界っていうのは、人間が男または女としてあらわれざるをえない世界、つまり、性の世界であるというのと同じ言い方でしますと、だいたい共同性っていうもののモデルっていうのは、2人じゃなくて、3人になっていて、3人以上が形成する世界としてモデル化することができると思います。
だから、3人いた場合には、3人いて、サークルをつくったっていうような場合には、どんな大きな共同性の中であらわれる問題でも、3人あつまった共同性の中で検証することができます。つまり、3人集まった世界をモデルにしますと、それぞれの人間っていうのが、共同性の中でどういうふうにふるまわなければいけないんだとか、あるいは、どういうふうにふるまわざるをえないのであるとか、あるいは、共同体っていうのは何であるかとか、それは、3人の世界をモデルとしてつかめさえすれば検証することが可能です。つまり、あらゆる問題っていうのは、どんなに大きな共同性の問題でも、3人の世界で、それを検証することができます。つまり、検証することができます。それはモデルとなりうるのです。
だから、男女の関係っていう場合でも、三角関係っていうのがありまして、三角関係っていうのは、ものすごくむずかしいわけです。つまり、むずかしいってことは、極端に突き詰めていきますと、そのなかの三角関係の3人の、こういう関係っていうのは、ぎりぎりに突き詰めていきますと、かならず、一人が抹殺されるっていう、あるいは、いずれ抹殺せざるをえないっていうふうなところまでいくほかはないです。
なぜならば、異性がかたちづくる世界は、あくまでも、1対1の世界、つまり、自分と他の一人で関係づけられる、そういう世界ですから、もともとそういう世界で3人としてあらわれるっていうことは、つまり、共同性としてあらわれるってことは、もともと矛盾に絶対になるわけです。だから、かならず、究極になっていった場合には、かならず一人は抹殺する状態になります。自己抹殺するか、他人を抹殺するか知りませんけど、あとの二人が抹殺するか知りませんけど、あるいは、抹殺するってことは、肉体的な抹殺を意味しますけど、観念においても抹殺するしかない、つまり、そういうことが突き詰められるわけです。
それがいわば、もともと二人の世界として、自分と他の一人との間の世界である男女の世界、あるいは、セックスの世界っていうものの中に、観念として、つまり、共同性として存在するってことは、もともと矛盾ですから、だから、共同性をつきつめていった場合には、かならず、一人が抹殺されるんだ。つまり、そういう理論が具体的にあらわれうるってことは、いま申しました、自己が自己として存在しうる、なおかつ、自己が自己である世界、それから、自己が一人の他者と関係づけられる世界、それから、共同性のなかの人間存在っていう、そういう世界、いわば次元の違う、あるいは、相矛盾する、そういう世界っていうものを、背景として問わねばならないってことがあるからだと思います。
わたくしが考えていった「関係の絶対性」っていう場合に、なにが「関係の絶対性」の基準になれるのか、あるいは、対立する人間存在、あるいは、対立する共同性ってものがあった場合に、対立する共同性のなにが、どれが、より多く、あるいは、絶対真理を有して、そして、力があるかってことが、力がはたらくってことがなければ、なんでもないのであって、そういうことの基盤にあるっていいますか、根源にあるところの、人間が人間であるために、自己が自己である世界が形成されるために、どうしても必要である世界っていうもの、つまり、次元の異なる世界っていうもの、そういうものの、いわば、まず第一に、認知の、あるいは、認識の志向性っていうもの、あるいは、成立自体がいつでも志向性っていうもののなかにそういう基準があるだろうってこと、そして、それ以外のなかには、潜在的ないわばステージってものを、どっちがより多くしているかとか、こっちよりこっちのほうがマシではないかっていうような、そういう意味合いの基準が、徹底できるかもしれませんけど、いわば、そういうふうに総体的な基準とか、これよりはこれのほうがよかろうとかいう、そういう基準に、あるいは、架空だからよかろうっていうような、そういう基準に、もし、人間の存在っていうものが満足できないならば、つまり、それに懐疑をいだくならば、それならば、どこに基準を求められるかっていいますと、それは、架空でもなければ、膨大な権力をもっているからでもなければ、なんでもないのであって、いま申し上げましたところに、疑問にされましたようなところ、また、志向性ってことのなかに、絶対的な契機っていうものは、存在するのだっていうのは、ぼくらから考えて、いわば、血路っていうものを見出してきた方法であるわけです。ぼくらが、そのあと、様々なかたちをとりながら、べつに完結することなく、追及っていうのは続いているわけですけど、ある契機に自分がきたときに、ぼくがどういうふうに考えてきたかってことは、いま申し上げましたようなところに、ぼくが考えていった経路っていいますか、血路っていいますか、そういうものがあったわけです。
これは、べつに、ぼく自身が完結した体系をもっているわけではありませんし、また、いまだに青二才にしかすぎませんから、べつに、追及するところをやめないですけど、しかし、自分の展開のさせていき方っていうようなことを考えてみますと、いま申し上げましたようなところが、ぼくが、いわば血路を見出していったところだっていうふうにいえると思います。
それは、みなさんに説明するには不足かもわからないですけど、みなさんが追及していただいたキルケゴールと、ひいて○○していくと、キルケゴールの説の、絶望としての人間の天性というもの、そういう帰結っていうのは、いわば、主観的な契機の想定っていうふうにいえるとすれば、ぼくらが問われていった、つまり、ここに血路を見出していった、どちらの見方もできるでしょうけど、それは、いま申し上げましたように、いわば、客観的な契機としましょうか、そういうところに、問題を求めていくことがいえると思います。
完結した体系でもなんでもありませんから、言おうと思えば、いくらでも言えるような気がしますし、また、いくら言っても、言い残るっていうような、いくら言っても、なんら問題も解決してしないっていうような、そういうことにもなりましょうが、いちおうこのへんで、ぼくがどういうふうに血路を見つけていったかっていうようなことを申し上げて、これがもし、司会者の方がいわれた、現在の情況のなかにあって、なお、問題を追及しうる契機があるかどうかは別としまして、わたくし自身が、現在の情況のなかでも、あるいは、いまだに追及している、そういうふうなかたちで、それは、依然として、問題として持続している問題であるってことだけは、たしかに申し上げることができると思います。
べつに、それは、解決でもなんでもないのですけど、ぼくが、いちばんきつかったときに、どういうふうに考えてきたか、もう十五,六年になると思いますけど、そういうふうに考えていったということで、すこしでも、ご参考になること、あるいは、反駁の契機になれば、お役に立てたってことだろうというふうに思います。いちおう、これで終わらせていただきます。(会場拍手)
(質問者)
最初のところで、男女の関係ということで、共同幻想を読んだのですけど、あれのなかで、対幻想のところで、結局、具体的な関係のなかでは得られないものであるというところで、たとえば、漱石の夫婦のことなんかで、漱石の求めていたのは、対幻想の本質のところで、鏡子にはそれを絶対に求められなかった、たとえば、鏡子じゃなくても、結局、一人の具体的な女には絶対に求められなかったものなんだってお書きになっていたと思うんですけど、そこで、そういう関係性の本質というものが具体的にはなくて、どういうふうなものとしてありうるのかお聞きしたいのですけど。
(吉本さん)
それは、ぼくはどう書いたか覚えていないのですけど(会場笑)、わからないですよ、つまり、具体的に、個のというか、一人の人間と他の人間との関係の世界っていうのは、どういうふうになるかっていうことは、個々の二人の人間のどちらかによって決定されるのでなくて、つまり、どちらかの人間の自己意識で決定されるのではなくて、その二人の人間のあいだっていいましょうか、関係のうえに築かれる世界ですから、そういう意味合いでいえば、まったく具体的にいえば、特別の形成のされ方をするだろうな、つまり、個々別々だろうなってことしかいえないと思います。
だから、もしも、こういう設定ができるとすれば、つまり、どんな異性にでも愛される異性っていう、そういう設定っていうのは、成り立ちえないと思うんです。つまり、どんな異性にも愛される異性っていうような、そういう言われ方っていうのが成り立つのは、それは、一人の人間が他の人間と関係づけられる世界っていうのじゃなくて、関係ともいえない関係、つまり、ゆきずりっていうような意味合いでは、ハッと目が覚めるような美人だっていうようなことで、なんとなくそういう人がいるように思うかもしれませんけど、それは、無責任なところでしか成り立たないので、一人が他の一人の人間と関係づけられる世界、つまり、そのあいだでしか成り立たない世界っていうような設定のなかでは、一人とその他の一人ってもので決まってしまうので、その決まり方は、まったく個々で違うだろうなってことしか、ぼくにはわからないと思います。
だから、絶対的に、たとえば、絶対的に結婚していい男性とか、女性とか、あるいは、恋愛していい女性とか、男性とかっていうようなものはないのであって、ようするに、誰にとって、誰がいいか悪いかっていうこと、そのことは、個々の一人一人としてきた場合に、その一人一人が、いかに立派な人格をもっているか、もってないかってこととは、まったく違うことだっていうふうに、つまり、そういうことは関係ないです。立派な人格をもっている男または女がいると、それが二人で一緒になると、たいへんうまくいくなんてことは絶対にありえないと、それは、偉大な文士である旦那と、偉大な文士である女性とが愛しあって、一緒になって生活したら、それは絶対うまくいくかっていったら、絶対そうではない、そういうこととは全く関係のない、次元の違う世界だって、ぼくは思います。
だから、それは個々の一人っていうことでしか、その中身っていうのは、つまり、その世界の構造っていいましょうか、そういうものは、決まらないのではないのでしょうか、だから、そこで普遍的にいえることは、ぼくが言いましたように、それは、個々の人間が、一人一人とってきたら、善良なる人間であるとか、人格が高い人間であるとかいうこととは、次元の違う世界であるということしかいえないと思います。つまり、男または女としてあらわれる世界っていうのは、そういう世界だとしか、ぼくはいえないと思います。これでいいですか。
(質問者)
さっき先生が、絶望というところで、その契機を経て、キルケゴールの場合には、昨日、安田先生のお話があって、懐疑っていうことがあったのですけど、キルケゴールの場合には、ほんとうの○○になるために、懐疑の克服に価値をおいたっていうことを言ってらっしゃいました。そして、吉本先生の場合は、関係の絶対性を追及するってところに懐疑の克服っていうものがあるように、わたしには感じられたんです。
わたしの場合には、その懐疑っていったようなものがあるんですけど、そして、それをなにか克服したいみたいな欲求があるんですけど、なんのために克服しようとしているのか、それはいまだわかっていないっていうか、たとえば、その契機を経てから、客観的にいくか、主観的にいくかって、そういう二つに分かれてしまうことが、なんかあれかこれか式で、結局、その両者が対立していって、その溝っていうのは埋められないものなのかって、そこにもまたひとつの疑問がでてくるので、ちょっとうまくまとまって言えないのですけど、吉本先生、どのようにお考えになるか。
(吉本さん)
簡単なようで、むずかしい問いなんじゃないでしょうか。それに答えるのはむずかしいんじゃないかなっていう、それは、懐疑っていうものが何に由来するかってことを追及するのは、自分が自分であるっていう、あなたならあなたの内的な問題として、ひとついえば、内的な問題としてだけ価値があるってことがあると思うんです。
それから、もうひとつは、しかし、内的な問題として価値があるっていう、そういうことと、もうすこし、次元の違ったところで、客観的には、なぜ、懐疑っていうのは、個人の内面で起こりうるかっていう問題が、ひとつあると思うんです。
それは、その場合に、ぼくは、こういうことでは答えることができないのです。つまり、あなたの中に、あなたの懐疑があって、あなたがそれを解こうとしているっていうこと、そのことは、あなたの中で、大きな価値をもっているということ、しかし、それは、他者には解きようがない問題だっていうことがひとつあると思います。だから、そういう面では、なにも答えることができないように思います。
だから、もうひとつは、なぜ、懐疑っていうものが、一般的に、人間の中で生じうるかっていうような問題としてならば、わりあい、客観的にいえるところはあると思います。それで、それは、おそらく、こういうことなんです。つまり、人間がたとえば、いまのあれでいいますと、自分と自分以外の一人の他者との世界っていうもの、そのなかで起こりうる懐疑とか、矛盾とか、疑問っていうのもあるわけなんです。
それは、なぜ、そういうものが、起こりうるかっていうと、それは、たとえば、一人の人間と他者である一人の人間との世界、つまり、人間が異性としてあらわれざるをえない世界っていうものも、じつは、いま申し上げましたとおり、次元の違うっていうふうに、散々、申し上げましたけど、その世界っていうものは、その世界として完結することができないっていうことがあるのです。
つまり、できない理由は、非常に客観的なところにあると思うんです。だから、そういう世界は、そういう世界として、完結した世界でなければならないはずなんですけど、なぜならば、それはあくまでも、一人ともう一人の他者とのあいだの世界であって、そこにいかなるそのほかのあれも、介入する余地がないはずですから、だから、何もないはずなのにもかかわらず、現実的には、その世界に対して、様々な要素が侵入してくるっていいますか、浸透してくるってことが、具体的にはあるのです。
その理由は、おそらく、非常に客観的なところにあるので、その世界だけでは解決できない矛盾とか、疑問だっていうふうに、懐疑だっていうふうに思われます。そういうことがあるのです。
それから、もうひとつはやっぱり、懐疑のはじまりっていうのは、もうひとつの世界でいえば、世界から眺めれば、つまり、共同性っていうものの中から眺めていきますと、一人の人間の中に懐疑が起こるとか、疑問が起こるとか、あるいは、矛盾が起こるっていうことのはじまりっていうのは何かっていいますと、共同性の中では、こういうことが必然的に起こるってことなんです。
つまり、共同性っていうものは、はじめは、たとえば、先ほど言いましたように、共同性の世界のモデルを3人なら3人っていうことでとるとするでしょ、そうすると、3人で追及をやるサークルをつくろうじゃないかって、3人でつくるでしょ、そうすると、つくるにさいして、それじゃあ、そのためには、会場のあれを有しってことで、会費をたとえば月に千円ずつ払おうじゃないか、出し合おうじゃないかとか、それで、編集が一段落まとまったら、パンフレットみたいのをだして、それで、また検討していくってしようじゃないかって、たとえば、3人で決めて、サークルをつくったとします。
それで、非常に卑近なことを例えでいえば、そのなかのひとりが、月々千円持ち寄ろうってなった、千円が非常にピンチになって払えなくなっちゃったってことがあるとしましょう。そうすると、その払えなくなったメンバーが、他の二人を、じつはこれこれの事情で、積み立てる千円が払えなくなっちゃったと、何か月か勘弁してくれないかっていうような了解を聞いて、それで、他の二人が、それはいい、了解しようと、結局、そういうことが積み重なってきた場合に、〈音声聞き取れず〉、たとえば、そういうことが、積み重なっていくとすると、そのお金が出せなくなった人にとっては、だいたい、自分もメンバーとして一緒に加わって、そして、ルールを決めてやっていこうっていうふうに納得してやったものなんだけど、たとえば、会費が払えないってことが積み重なってきた場合には、そういうふうに、自分も参加してつくったであろうサークルが、自分にとって重荷になってくるってことがありうるわけです。
それからまた、逆のほうからいえば、他の二人は、まあ一度二度ならよかったと、こんなに自分は余計に金を持ち寄って運営しているんだけど、あの人は、いかなる事情があるかもしれないけど、事情は事情でわかるけど、わたしたちだけが多く金を負担してあれするのは、おもしろくないっていうふうになるってこともあるわけです。
それからまた、そこはまた人間の浅ましさで、自分らは金を余計に払っているのだからっていうことで、はじめは、3人が3人参加して、3人が3人で平等に協議してつくったはずのサークルなんだけど、運営するのは二人であって、会費が払えなくなった人は、なんかそれから落っこっていっちゃうっていう、その共同性から落っこっていっちゃうことがある。
そうしますと、そこが問題なんですけど、まず、最初の共同性っていうものは、自分も参加し、他の二人も参加しっていう具合に、三人が三様、三人が三人の、全体を満足させたわけじゃないけど、これならば、三人とも納得できるっていう点で、運営が決められたわけなんですけど、いったん、ある事情のもとに、そのなかの一人が、それに対して、疎遠になったとしますと、そうすると、一等はじまりは、自分も参加していましたであろう共同性なんですけど、それが、自分にとって桎梏になってしまう、それから、矛盾になってしまう、あるいは、あなたのあれでいえば、懐疑になってしまう、あるいは、疑問になってしまうことがありうるわけです。
それから、他の二人にとっては、それが、極刑になってしまうってことがありうるわけなんです。それは、たいへんな矛盾なんですけど、しかし、それは、キルケゴール流の言い方をすれば、絶望しうるってことは、あるいは、絶望をもつっていうことは、たとえば、人間が動物と違うところなんだっていう言い方と、おんなじような言い方をしますと、人間っていうものは、観念的にいえば、みすみす桎梏であるとか、みすみす重荷になるんだっていうものを、みすみす知っていながら、なおかつ、それをつくる次元をもっている存在なんです。
だから、いま言ったみたいな、共同性、サークルならサークルなんかをつくろうっていう場合には、自分も参加して、三人が三様で納得してつくって、取り決めをしたにもかかわらず、いったん条件が変わった場合には、そのなかの一人、または、二人が、自分もつくることには責任を負ったはずの取り決め自体が、自分にとって桎梏になってしまう、重荷になってしまうってことがありうるのです。
つまり、そういうことができるっていうのが、人間の非常に特徴だと思います。つまり、みすみす桎梏とわかっているものをつくりだしてしまう、あるいは、つい、ださざるをえない必然的な契機をもつっていうような、そういうことが人間の特徴だと思います。
だから、共同性っていうような面からいけば、おそらく、懐疑のはじまりは、いま言いましたように、いったん、自分も参加してつくったであろう共同性のなかから、自分が条件が欠くために、それを矛盾と感じざるをえないっていうような、そういう契機っていうのは、やっぱり、個々の人間に対して、疑問とか、懐疑とかを与える、ひとつの共同性からの契機だと思います。
それから、いま言いましたように、もうひとつは、自分と他の一人の他者がつくる世界のなかでの、懐疑とか、矛盾とかっていうものも、ほんとうは、その世界が完結された世界であるはずなのに、さまざまな要素から侵攻されるっていうようなことが、やっぱり、懐疑とか、矛盾とかを、外から一人の人間にあたえる契機だと思います。
そういうことが、ぼくが答えることのすべてであって、あなた自身があなた自身に懐疑をもつっていう、そのモチーフっていうものは、これは、ぼくが代弁することができない世界です。だから、これは、極端にいいますと、あなたのなかでだけ、価値があることであって、また、それを問題にするのは、価値のあることであり、また、あなたのなかでは、非常に大きな価値をもっている問題だっていうことであると思います。
そこについては、ぼくは、そこに介入することはできないので、介入することができるのは、他者としての、充分、懐疑を生じしめる根拠っていうのは、こういうことにありうるってことだけは、申し上げられるわけです。それ以上は、ぼくなんかの手に余る懐疑だっていうふうに、ぼくには思われます。それは、他者からは、言うことができないように思います。
だから、非常にそこは具体的に、自分が自分の懐疑っていうものを、自分の中で具体的にあれしていくことが重要なのであって、これはちょっと、他からの、つまり他者からの契機っていうものは、そこには介入できないのです。他者からの契機として、一人の人間に懐疑をあたえる原因っていうのはある、あるいは、根拠っていうのがあるってことしか言えないのです。
(質問者)
吉本さんが、キルケゴールである主観的なものを追及したにもかかわらず、あっさりと、客観的契機に重点をおいたっていうことは、充分、聞いていたつもりなんですけど、よくわからなかったです。
どうして、主観的な契機っていうのが、吉本さんが客観的契機を原点としたのか、ぼく自身は、主観の世界っていうのにすごく価値を置くし、それで閉じこもる可能性も、そういう危険性も、いまのお話のなかで感じるんですけど、客観的契機っていうものを重点にした場合に、自分の存在を問うとかいう、そういうこと、関係としての自分をみるっていうことはあっても、それで、自分をみるってことはあると思いますけど、よく言えないのですけど、あっさりと主観を離れて、客観的還元性っていうことのほうへ、重点、移っていったっていうか、キルケゴールの批判っていうものが、よくまだ、ぼくなりに理解できないんですけど。
(吉本さん)
まず、主観的、客観的っていう言い方が悪いので、観念的な世界っていうのは、みんな主観的なのだっていうふうにいえば、ぼくにも主観的なんです。物質の性っていうものだけが、主観的なんだっていうようなあれでいえば、主観的なんです。あっさりと、客観的な契機っていうものにいきましたといわれるわけですけど、それ自体が、言葉がよくないです。客観的、主観的っていう言い方がよくないです。
人は、自己自身の世界、人間の生みだす観念の世界っていうのは、個々の人間が、掛け値なしに、個々の人間としてあるであろうってこと、観念的にふるまうっていう、そういう世界にとどまるものではないというだけのことで、というふうに考えていったっていうことで、主観的、客観的っていうふうな言い方がまずかったんだと思うんです。ぼくのあれも主観的なんです。
つまり、観念の問題です。つまり、社会の物的な構造がこうだったとか、自然経済ないしは社会経済的構成がこうだから、人間の魂もこうなんだとかってことを、ぼくが言っているのではなくて、ぼくが「関係の絶対性」っていうものを言った場合でも、そのこと自体は、人間の観念の世界なのであるということなんです。つまり、観念的な基準なのです。観念的には、主観的なんだっていうふうにいえば、やっぱり、主観的といえば主観的なんです。
それから、あっさりと、ぼく自身の内的な世界っていうことを…〈音声聞き取れず〉…自己自身なら自己自身としてある世界っていうのを捨てたってことじゃなくて、それでもって、人間の観念がつくりだす世界っていうものを、それで尽きたと思うことは、間違いなのではないかってことなのです。そういうふうに考えていったっていうことなんです。だから、べつに、まったく一人の人間として、内的な世界をもつっていうことを捨てちゃうわけでもなんでもないわけですけど、それはそういう世界としてあるということ、別段、捨ててはないので、それでいいでしょうか。
(質問者)
完璧に自己が自己である世界があるとおっしゃったんですけど、その場所にナルシシズムというのも入るんでしょうか。それとも、それは対幻想のなかのひとつの一変形としてあるのでしょうか。
(吉本さん)
ぼくなんかの理解の仕方では、人間が男と女としてあらわれる意味合いで、自己愛という言葉を使う場合に、自分が自分を自分以外の一人の他者と思っているのが自己愛の世界で、つまり、自分以外に自分を自分でない他の一人だとする世界じゃないでしょうか、自己愛っていうのは。だから、自分が自分で設定した自分というものを、自分の異性としてつくりあげられている観念の世界が自己愛じゃないでしょうか。
(質問者)
いちばんはじめに吉本さんが言われた、自然的な生活態度っていうものを、ぼくもいろいろ疲れちゃうと思ったんですけど、それができないっていうところが、自然的な態度がとれないところが、やはり、そこには自己っていうものを意識するところがあります。
その自己を意識するっていったときに、それの典型として、家族でつくる自己と、それから、家族のというふうに、まず、モデルとしてはそういうふうにとられて、その場合に、たとえば、親が子を認める場合と、子どもが親を認める場合っていうのは違うと思うんです。親が子を認めるのは、当たり前になっちゃうんでしょうけど、子どもっていうのは、自己を意識するまでは、親であるとか、家族であるとか、自分であるとかっていうのは、問題になってなくて、ある時点にいったときに、自分自身のことを意識して、それで、そこのところに、結局は、顔が似ているとか、仕草だとか、そういうことが似ているってことで、親を認めざるをえないっていうかたちになっちゃうわけでしょうけど、ぜんぜん本質的に関係を認めるっていう認め方が違うと思うんです。
まず、自然的な生活態度っていう場合に、まず家族の中で、たとえば、農業なんかの場合に、家族として毎日仕事をしているっていう場合には、自己意識っていうのをとらないで、自然的な生活態度をそのまま通っちゃうんじゃないかと思うんです。つまり、家族が毎日、立ち仕事をして一生暮らしていくっていう場合の同じやり方で、再生産っていうのをおこなうと思うんです。その場合には、自分が老いて、子どもに背かれて死のうが、背かれたところで、親子関係っていうのはなくならず、子どもがどこかいっちゃうってことは起こりえないです。ところが、いつか知らないけれど、背いて出ていっちゃうっていう情況になると思うんです。それがつまり、労働形態によって違ってきたんじゃないかと思うんです。
それがどういうかたちで、たとえば、分業っていうかたちが発展してきたと、で、そういうかたちになったか、ぼくもよくわからないですけど、そこのところで、子どもというものが親を認めなくなるという問題がでてきちゃうと思うんです。そのときには、同時に、自然的な状況が、反自然的な状況になってくると思うんです。ところが、それは、どうしてそういうかたちになってくるか、ぼくもよくわからないんですけど、自然状態を生みだしたものということで、反自然的なものがでてきたっていう場合には、そこにおいて、反自然的なものが今度は、より本格的な自然の元に帰すべきではないか、そういう気がするんです。
そのときには、いちばんはじめの自然的な態度とは、レベルが違った意味で、人間自身が自然と一致した生活ができるのではないか、そういうふうに個人で感じるんですけど、吉本さんが追及していく目標というか、そういうものっていうのは、そこへ帰るっていう意味と同じだと思うんです。より高いレベルでの、自然との一致についての人間の活動、あるいは、世界との一致というか、そういうものを目指しているのか、それを聞きたい。
(吉本さん)
自然に帰るっていいますけど、ぼくが比較的、言葉のあれになりますけど、自然といった場合に、天然自然の自然とはぜんぜん違うので、まったく観念的な自然っていうことです。つまり、自然過程ってことです。観念的な自然過程っていうのは、なにかっていいますと、人間の考えうること、考えだすことっていうのは、たいてい、とってきますと、とってきますとっていうのが、ぼくのいう自然過程ですけど、人間の観念のはたらき方っていうものを、どういうふうになりますかってことをとってきますと、だんだん遠くへ、つまり、直接、家での関係とか、直接、身近な関係とかっていうことは、だんだん遠くの関係へなるような関係、あるいは、見たこともない心の関係とか、心の問題とかっていうふうに、どうにか見えるわけです。〈音声聞き取れず〉…。
現在の世界のように、政治的に、あるいは、社会的に、さまざまなおもしろくないことっていうのは、起こっているわけです。それで、起こっているってことは、ある意味で自然に、こうなっちゃったんだっていう面と、それから、起こっているのは、やがてこうなっていくんだっていう問題があると思います。
やがて、こうなっていくなっていう場合でも、どういうふうに生きていたらいいでしょう、たとえば、国家なんていうのは、どういうふうに消えちゃったら、いちばんいいのでしょうっていった場合に、やっぱり、あたかも自然の過程であるかのごとく、自分の生活にまつわることしか考えないし、そのほかのことはどうなろうとかまわんと、どうでもいいと、あまり関心がないという、つまり、そういう人たちのなかに、たとえば、国家とか、秩序とかっていうものを握っている、つまり、自分が力を制御している、あるいは、自分が把握していると思っている、そういう者がいるんです。
結局、いま言いました、自然過程のように、計画をつくりたいということ、べつに政治に対して関心があるわけではない、国家に対して関心があるわけではない、そういう人たちのなかに…〈音声聞き取れず〉、だけれども、いま言いましたように、自然過程のごとく、繰り返し、繰り返し、生活している、そういう人たちには、そういうのは便利なんです。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
そうじゃないんです。また違うところで、人間が社会とか、国家の中で生きる生き方っていうのは、類型すると3つしかないのであって、ひとつは、〈音声聞き取れず〉。あなたのおっしゃる頻度っていうことで固執して、誤りなからんっていうふうに思えるのは、〈音声聞き取れず〉
テキスト化協力:ぱんつさま