…ことよりも、もっと違うところにあるように思います。それはですね、仏教には大雑把にいって、浄土門っていうのと、いってみれば聖道門っていいますか、そういうものと2つあるわけですけど、浄土門っていうものは、大なり小なり、ひとつの理想の天国である浄土っていうのを思い描いて、そして、それを根拠として、あるいは、根拠地として、あらゆる現象、あらゆる思想っていうものに相対していくっていう考え方が、大雑把にいって、浄土門に共通な考え方です。
その場合、なにが問題になるかっていいますと、他力っていうのと、それから自力っていうことが問題になるわけです。そういうところから入ってしまいますと、親鸞っていうのは、言葉はいろいろ使えるでしょうけども、一種の絶対他力っていった言い方、絶対他力っていうのを思想の根底においている、たいへん日本ではめずらしいタイプの中世の思想家であるわけです。
絶対他力っていうのは、どういうことかっていいますと、そういう言葉があるかどうか知りませんけど、親鸞の描いている他力っていうのはどういうことかってことをいくつかのことで説明してみますと、たとえば、みなさんがそうなんでしょうけど、つまり、知識、あるいは、智っていうもの、あるいは、理っていっても、あるいは、律っていってもいいんですけど、そういう知識っていうものを、いわば、絶対他力っていうところに位置づけてしまうと、どういうことになるかっていうふうに考えてみますと、これは、『末燈鈔』のなかで、親鸞のいった言葉が、つまり、法然から聞いた言葉ってことであるわけですけど、浄土宗の人間っていうのは、いわば愚者、愚かな者です。愚者として往生するっていうふうに、法然がそう言ったことを自分は度々聞いているっていうふうに親鸞が語っています。つまり、一種の愚者でなければ、逆な言い方しますと、愚者でないと、絶対他力っていうようなところにいくのは不可能なんじゃないかってことが根底にあるわけです。
知識っていうものは、段々、みなさんもそうでしょうけど、段々、知識っていうのは、どこまでいくかっていいますと、どんどん突き詰めていきますと、知力による認識っていうものは、結局、その当時の、あるいは、現在でもいいわけですけど、現在における世界思想というものの水準、つまり、世界思想の最高水準っていうところまでは、知識っていうのは、どんどん学べば学ぶほど、上昇していくわけです。そこまではいくわけです。世界思想の水準まで知識っていうものが達したとき、つまり、知力による認識っていうものが達したとき、あとはどこへいくんだろうかってことが問題になるわけです。
たいてい、そんなことは大雑把にいっちゃえば簡単ですけど、そこまでいったときに、一個の人間、一個の個人というものが、そこまでいったときに、だいたい年とって死ぬ間際になりますから、だいたいそれで死んじゃうっていう、そういうふうになるか、もうひとつの考え方っていうのは、いわば愚者になるっていう考え方なんです。
それは、世界思想の最高水準まで到達した知識、つまり、知力による認識っていうのは、その地点から逆に、いわば親鸞なんかがいう愚者です、いまの言葉でいえば大衆っていうことだと思います。大衆っていうのも、目覚めたる大衆じゃなくて、目覚めない大衆っていうことだと思います。そのいわば、世界思想の最高水準のところに達したところで、知識っていうものは、もう一度、還って、親鸞のいう愚者っていいますか、つまり、大衆です。大衆っていうものをどうやって捉えていくかっていう課題に立ち向かうってことが、知識のあり方として、ひとつのタイプになります。
浄土宗で、法然もそうですけど、親鸞なんかもそうなので、その場合、知識っていうものが、世界思想の水準まで到達していく、そういう過程っていうものを、いわば、〈往相〉っていうふうに、親鸞なんかは言っています。
ひとたび、そこのところに達して、いわば愚者っていうものを捉え、そして、自らも愚者に成り下がっていく過程、それを〈還相〉っていうふうによんでいます。
知識っていうのは、いわば〈往相〉のところでとどまるとどまりとして、ここが(往相)の相だとしたところは、浄土なら浄土であるっていうような、そういう知識のあり方っていうものはあるのですけど、いわば、知識が〈往相〉っていうものを歩き尽したときに、ふたたび、その地点から、いわば愚者を捉えるっていいましょうか、つまり、大衆を捉えるってことですけど、大衆を捉えるっていう、いわば還る過程っていう、往き還りの還る過程っていうのは、知識にはあるので、知識の総体性っていうものを問題とする場合には、親鸞なんかの考え方っていうのは、たいへん見事に、知識っていうものの、あるいは、知力による認識っていうものの、双方性っていうものを、たいへんよく捉えている考え方です。
それは、〈往相〉っていう、つまり、(往相回向)とか、〈還相回向〉とかっていう言葉で、お経の本ではありますけど、結局、回向っていうのは、どうでもいいことはないのですけど、回向っていうのは方向づけなので、いまの言葉でいえば、指向性といいましょうか、一般的にいえば指向性っていうことなので、それは、〈往相指向性〉っていうものと、〈還相指向性〉っていうものと2つあると、そのいわば(還相指向性〉というのは、つまり、知識が愚者を捉える過程っていうもの、あるいは、大衆を捉える過程っていうのは、そういう過程に入って、その過程も含めて、知識っていうものの総体性を考えた場合に、いわば知識のほんとうの具現した姿っていうようなものがあらわれてくるっていう、そういう考え方っていうのは、日本の浄土宗なんかの典型的な考え方で、たいへん見事な考え方だっていうことができると思います。
そのことを親鸞は、いわば、師匠である法然が、よく自分たちに、浄土宗の思想っていうのは、いわば愚者となって往生するんだっていう、そういう言い方をしばしばしたと、愚者でなければ往生はむずかしからんっていう、そういうような言い方もしたのを聞いているというふうに、親鸞は語っているわけですけど、そのこと自体は、いわば自らも愚者になっていって、還相過程っていうものを踏むわけですし、また、事実、還相過程を踏んで、愚者自体にできるだけ接近しえたとき、知識の連関性っていうのは完結するんだっていう考え方が、非常に知識っていうものに、あるいは、認識っていうようなものを主体にして考えたときに、非常に典型的に、絶対他力の考え方のなかに、非常に典型的にそれがあらわれてくるわけです。
もうひとつは、いずれにしてもそのことが重大だったわけですけど、宗教のある段階でいちばん重要になるのは、死っていうことが、人間の生死っていう場合の死っていうことがものすごく重要、つまり、恐怖の課題になるわけです。
死っていうのに対して、どうやって、それを飛び越しちゃうかってことが、非常に大きな問題なんですけど、それについては、宗教の浄土宗とか、日蓮宗とか、いわば新興仏教なわけですけど、それは新興仏教も、旧仏教も、つまり、天台、真言宗の旧仏教も共通なわけで、どういうことかっていいますと、浄土っていうのにどうしたら到達できるのかっていうことです。
旧仏教でもそうなんですけど、わりあいに、身体的な修行っていうのをするわけです。そして、頭の中でっていいますか、つまり、想像力でもって浄土っていうものを思い描くわけです。そして、描いて、非常に、浄土が、荘厳な風景と荘厳な美しい生き物と、そういうのに取り囲まれた理想郷なんだっていうことを、いわば瞑想の中でもって、思い描けるように修行するわけです。そういうふうにして、いわば観想っていうやつですけど、そういう修行を積んで、自分でそういう浄土っていうものを思い描けるようになったとき、浄土っていうものが非常に身近になって、つまり、死後の世界っていうのが身近にやってくる、自分に到達してくるっていうような、そういう考え方っていうのが、いわば、旧仏教も新仏教も共通にあるわけです。
修行というのは、いわば、儀式めいたこと、それから、方式めいたこと、いわば、御来迎ってやつですけど、仏がそういうときに、死者を迎えにきて荘厳にしてくれるっていうような、そういう考え方ですけど、それに対して、やっぱり、絶対他力っていうのは、親鸞の絶対他力っていう考え方でいけば、そんな儀式もいらないし、浄土っていうものを荘厳な風景として思い描くこともいらないと、ようするに、信心といいますか、信仰といいますか、それが定まったときに、往生が定まるのであって、それ以外のことは全部、余計な装飾品だっていうことを、非常にはっきりそういうことを言っているわけです。
それはやっぱり、生死っていう問題、ようするに、人間の死っていう問題ですけど、それに対して、非常に絶対他力っていう考え方の特徴なわけです。それはまた、旧仏教に対する一種の否定の論理であるわけですけど、そういう荘厳な風景とか、個人的な修行によって、あるいは、境地によって、そういうものを思い描いて、それが非常に如実に思い描けるようになったときに、いわば浄土っていうのは、修行した○○だっていう、そういう考え方、それから、いわば人間の死っていうものが至ったときに、仏が迎えに来て、死を荘厳にしてくれるっていうような、そういう考え方、あるいは、その考え方にもとづく儀礼、儀式っていうもの、そういうものは一切どうでもいいことであると、ただ信心が定まったときに、往生っていうのは、死っていうこと、つまり浄土へいくってことですけど、そういうことは信心が定まったときに定まるのであって、それ以外のことは、ようするに、飾り物に過ぎないっていうことは、非常にはっきりといっているわけです。そのことは、絶対他力っていうことの、非常に大きな特徴だと思います。
それから、その当時、中世ですから、社会的、政治的な転換期に遭遇するわけで、それからまた、戦争、飢餓ってことで死ぬ人がたくさんいると、そういうなかで、飢餓とか、窮乏っていうものに対して、絶対他力、親鸞なんかの考え方っていうのはどういうふうにとられるかっていいますと、結局、現世の人間、あるいは、現世のものっていうのは、愛し、それに執着し、不憫に思っても、助けることは非常にむずかしいんだっていう考え方をとるわけです。
実際にはむずかしいんだと、それだから、そうだとすれば、人間の生の根拠、存在の根拠っていうものを、いわば浄土っていうところにおいちゃえば、おいちゃうより仕方がないんだっていう考え方です。それが、いわば絶対他力の非常に大きな考え方のひとつだと思います。
つまり、飢餓、窮乏っていうようなところで、民衆がごろごろうち倒れている、そういうものをいとおしいとして、不憫に思い、それを助けうる助け方っていうのは、非常に相対的であるより仕方がないと、そうだとするならば、人間の現世っていうようなものも、つまり、今生っていうもの、現世ってことですけど、そういうようなものも、人間の存在にとっては仮の姿のひとつにしかすぎないっていうふうに考えたら、救済っていうのは、つまり、完全な救済が可能なんだっていう、そういう考え方です。
つまり、人間の存在について、浄土ってところにおいていきますと、そして、仮に、今生、あるいは、現世の人間っていうのは仮の姿をあらわしているにすぎないんだというところまで徹底して、生死の問題っていうものを考えるならば、いわば根底的な救済っていうのは、そういうふうに考えるのだったら、可能じゃないかっていうような、あるいは、そういうふうに考えるより仕方がないじゃないかというのが、親鸞の絶対他力の考え方の非常に大きな特徴だっていうふうに考えられます。
それから、もうひとつは、〈善悪〉ってことがあるわけですけど、〈善悪〉っていう問題では、悪っていうものは、ようは恐れることはないんだっていうのが、やっぱり、他力っていうものを絶対化する場合の非常に大きな根拠のひとつになります。
どうして、人間がやる悪なんていうのは大したことないんだっていうふうに言えるかというと、それは、浄土系の特徴ですけど、『大無量寿経』のなかにあるわけですけど、阿弥陀っていうのが四十八の願をかけるわけですけど、つまり、阿弥陀仏っていうものが、絶対救済する理由っていうのは、どんなやつでも、つまり、下品下生のやつでもぜんぶ救済するっていうような…悪っていうものが浄土への救済を妨げることはないんだっていうような、それが大きな、親鸞の考え方を絶対化する考え方です。大きな特徴であり、それはいろいろな言い方をしています。
例えば、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」っていう、いわば普通だったらば、悪人だって救われるんだから、善人はなおさら救われるものだっていうところなんですけど、それは、まったく逆転していまして、善人さえ救われるんだと、だから悪人のほうがなおさら救われるんだっていうような言い方でいっています。
それからまた、悪なんていうのは恐れることはないんだ、それは、弥陀の本願にくらべれば、どうせ人間の悪なんていうのはたいしたことない、相対的なものにすぎないのだから、そんなものは全部、救済して浄土に突っ込んでしまうっていいますか、それだけの強さっていうのがあるんだと、だから、人間の悪なんていうのは問題にならない。悪が救われないなんていうことは、絶対にありえない。むしろ、悪っていうことのほうが絶対他力、つまり他力っていうもの、救済において他力っていうものに頼る契機っていうのは、悪、あるいは、悪人のほうが遠いだけ多いはずだから、悪人のほうがいいんだと、つまり、悪人のほうが正機なのであって、悪人のほうが救われ、救済される大きな契機っていうものをもっているんだっていう、そういう考え方が、やはり非常に大きな特徴だっていうふうに考えられます。
この考え方を総合していえることは、いわば、観念あるいは思想としては、いま申し上げましたように、徹底的な、あるいは、絶対的な他力でもって、浄土っていうのを思い描くわけですけど、それじゃあ、現実の場で、どういうことになるかっていいますと、現実の場ではどうすればいいのかっていうことになりますと、結局、称名っていいますか、称名を唱えるならば、それが一遍であろうと、十遍であろうと、何遍であろうと、称名を唱えれば、即座に救われるっていう、そういう考え方です。
つまり、なにも自力でもって修練して、浄土を思い描くような観想の修練をすることもなければ、自力でもって知識を積み、そして経験を積み、そして思想を積みっていうような、そういうことをする必要もないと、全然いらないと、そんなことは全部いらないんだと、ただ称名を唱えれば、一遍唱えても、十遍唱えても、千遍唱えても同じく、それは完全に浄土にいけるんだっていう、そういう考え方です。
それは、難行道、つまり、難しい行に対して、易行道、つまり、易しい行っていうわけで、やさしいんだと、浄土にいくのには何もいらないんだと、称名念仏さえ唱えれば、それでいいんだ、それは、一遍唱えたって、百遍唱えたって、十遍唱えてもおんなじであって、それを唱えれば、とにかく、浄土へはいけるのだっていう、そういう考え方です。
この考え方っていうのは、当時、相当な弊害をも及ぼしたように思われます。たとえば、慈円の『愚管抄』っていうのを読みますと、法然、親鸞の一答ですけど、いかさま師たちがでてきて、称名、南無阿弥陀仏っていえば、ぜんぶ救われるっていうことをいって、無知蒙昧な輩をたくさん、それにのっかって集めて、それで、わぁわぁやってると、それで、わぁわぁやってるうちに乱交パーティーみたいになっちゃってる、そういうこともあると、まったくとてつもないことを言うやつがでてきたっていうふうに、その種のことを、慈円は『愚管抄』のなかで言っています。
しかし、たしかに、これを唱えれば救われるんだと、それじゃあ、これを唱えようっていうことで、いわば法然のいう愚者っていうものが寄り集まってきて、それを唱える、それはひとつの熱気であり、また力であるっていうふうなかたちで、それが流布され、伝播されていくと、その有様っていうのは、まことに、いわば往相っていうものを登りつめることが、知識の課題だっていうふうに思っていた、つまり、慈円なんかもそうですけど、旧仏教、つまり、天台・真言系の旧仏教の観点からは、まったくお話にもならないデタラメをいうやつがでてきて、お話にもならないデタラメに迎合するやつがでてきて、そして、わぁわぁわぁわぁやっていると、それがときには、乱交パーティーみたいになっちゃったりすると、まことに嘆かわしい次第だっていうような、そういう批判っていうのはでてきたわけです。たしかに、それを、そういうふうに現象的にとらえると、そういうふうになるわけです。
それならば、旧仏教っていうのは、なにをもっていたのかっていいますと、いわば加持祈祷と呪いっていうようなものをやって、厄払いするとか、病気を払うとか、何々の守護をするとか、そういうことを、結局、具体的にはやっているわけです。
その迷信の度合いのほうが、称名を唱えれば浄土へいけるんだっていうことで、わぁわぁ騒いでいるのと、迷信な馬鹿らしさの深さとして、どっちが深いかっていったら、どうもあんまり、五十歩にして百歩っていうやつで、どっちもどっちだっていうような感じなわけで、だけども当時、先ほど言いました、往相の過程こそが知識の課題だ、つまり、知力による認識にとっての課題だっていうふうに、当時、そういうふうに知識っていうものを考えていた人達が、実際にやっていたことは、いわば、加持祈祷とか、厄払いの呪いとか、あるいはまた、具体的な方違いとか、そういうようなことであったわけです。それは、当時においては、少しも迷信とは考えられていなくて、それは、わりあいに知識の課題だっていうふうに考えられていたわけです。
それに対して、親鸞なんかは、法然もそうですけど、親鸞なんかは徹底して、それは知識の課題でも、信仰の、宗教の課題でもなんでもないんだっていうこと、そんなことはどうだっていいんだと、どうせそれは加持祈祷程度のことしか、そういう考え方からはでてこないんだと、そういうふうに、(往相)っていうものを突き詰めた知識っていうものは、ようするに、愚者っていうのを、どういうふうに捉えられるかっていうことが問題なのであって、つまりその〈還相〉っていうことが、思想にとって最後の課題なんだっていう考え方を、浄土系の新興仏教っていうのはとったわけですけど、その考え方をいわば非常に本質的にはっきりさせるってことが、いわば親鸞なんかが思想家として、最も苦心し、そして、力を注いだところだっていうふうにいうことができます。
しかし、これを(還相)としてみないで、称名を唱えれば救われるっていうふうに、教えとしてはそういう教えをとり、そして、それに対して、無知蒙昧の輩が、称名を唱えれば、それじゃあ、おれは浄土にいけるんだっていうことで、わぁわぁわぁわぁやってるって、それは、そういう現象っていうものを〈還相〉っていうことじゃなくて、〈往相〉ってことで、そういう現象をとらえますと、そうすると、やはり、慈円が『愚管抄』でいっているように、まことに無知蒙昧の輩が、とてつもないことを言いだして、とてつもなく人を集めているっていうような、そういうふうにしか、結局は見えないわけです、現象的に。
しかし、親鸞なんかが、思想家として、ほんとうにいいたかったのは、結局それは、結果あるいは、いわば現象であって、なぜ称名を唱えれば、救われるのかっていうことを、それを知識の課題として、いわば〈往相〉の課題を突き詰め、そして、突き詰めたところから〈還相〉の課題っていうところに還って、そして、それをとらえられたものが、いわば、あらわれとしては、わぁわぁ騒いで称名を唱えれば救われるんだってことで、わぁわぁ騒いでいたことになるわけだけれど、それは、そのことをそういうふうに捉えたら、いわば〈往相〉だけしか知識の課題はないんだっていうのと同じであって、知識の課題っていうものは、〈往相〉と〈還相〉っていうもの両方を、いわば、両方のたどり方をたどれたときに、はじめて、知識の課題としては総体の課題がでてくるんだ、あるいは、宗教の課題として総体の課題がでてくるんだっていう、そういう観点を非常に鮮明にするっていうこと、それが親鸞なんかが思想家として、いわば、いちばん力を注いで、あるいは、いちばん問題としたところだと思います。
これは、まことにくだらん風景であるっていうような見方が正当であるのか、あるいは、知識あるいは教学の課題として最高のところまで突き詰めて、しかし、そこで止まりだっていうところで、いわば、〈往相〉のところで止まりだっていうことで、実際問題として、なにをするかっていったら、加持祈祷ぐらいしかしないと、加持祈祷とか、厄払いの祈祷みたいなこと、そんなことしかしないと、そんなことに何の効力もあるわけもないのだけど、そんなことしかできない。
それをもし、知識の課題であるとするならば、それはやっぱり、まことにおかしいのだと、それならば、それよりは、いわば、(還相)の過程として、法然なんかのいう愚者をとらえるという課題、そこまでいかなければ、思想の課題としては、いわば完備したものとはならないんだっていう、それは親鸞の考え方のほうが、いわばはるかに、現象的にどう見えようと、はるかに、いわば知識の総体的な課題っていうものに対して、はるかに見事な接近の仕方をしたっていうふうに考えられます。
これは、その当時における観点っていうものと、知識人っていうものを驚倒せしめたっていうような、そういう馬鹿らしさの風景っていうもののなかに、ほんとうの思想の課題っていうのは、あるいはあったかもしれないってことは、いわば、その当時としては、結局わからないわけで、いわば〈往相〉の過程っていうのだけが、知識の課題だっていうふうに、あるいは、宗教の課題だっていうふうな考え方のところから、讒訴されて、いわば流されてしまうっていうようなことに、法然をはじめて、主だった弟子が諸国へ流されちゃうっていうようなことになったわけです。
こういう苦心の注ぎ方っていうようなところで、いわば親鸞なんかの絶対他力っていう考え方の深化と新しさっていうのがでてきたわけです。出現してきたわけです。
日本の中世っていうのは、まことに不思議で、不思議っていうのは、まことにいろんな面白いことがあるんですけど、思想的にもありますし、政治的にもあるわけです。それからまた、経済的にもあるわけですけど、なぜか知らんけど、そのときに、親鸞とか、日蓮とか、それから、道元とか、まことに日本の思想史上で、最も見事な思想家だろうなって思われる人達が、続々とでてきたわけです。
その現象っていうのは、まことに見事な現象だって思われますけど、そういうなかで親鸞が究極的に求めた、絶対他力っていうものは、いわば知識っていうものの課題を、一方交通じゃなくて、いわば〈往相〉っていうのと、(還相)っていうのと両方あって、その両方を備えたところではじめて、知識の課題っていうのは完了するんだ。
それじゃあ、そのように完了したときに、知識そのものは、あるいは、知識を担ったそのものは、どうなるのかって、そしたら、それは愚者になるんだ、なりきっちゃうっていうところへいくより仕方がないんだっていうような、なりきろうとしたってなりきれないだろうってことはあるわけですけど、そこのところを親鸞なんかは、逆説っていいましょうか、逆説を使ってそこを飛び越えているわけです。
〈還相〉の過程に入ったときに、知識の課題っていうのは、突き詰められた頂点から、〈還相〉、つまり、愚者をとらえる過程っていうような、そういうところに入ったときに、自分自身も、つまり、知識自体も、愚者になる以外に仕方がないってなって、愚者にかぎりなく接近していくんですけど、ついに、ほんとうの愚者には、そういう場合になりえない、ひとつの矛盾っていうのはあるわけで、なりえない矛盾っていうのを非常に、一見すると逆説なんですけど、逆説を使って飛び越えているっていうこと、つまり、飛び越えちゃうってこと、そのことは、親鸞の思想っていうものの要になっているっていうふうに思われます。
その飛び越え方っていうのに対して、特別の言葉を使っているんですけど、〈横超〉っていうことです。つまり、横ざまに飛び越えるっていうふうな、そういう概念です。こういう〈横超〉っていうような概念を使って、そこの最高水準まで到達した知識っていうものが、愚者をとらえるっていうこと、愚者をとらえる過程でもって、自らもかぎりなく愚者に近づいていくってこと、愚者に近づいていくんだけど、どうしても愚者自体になりきれないと、なりきれないところの紙一重のところに、ほんとうの愚者、つまり、本来的な愚者っていうものと、それから、いわば知識の〈還相〉っていう過程でもって、愚者をとらえ、また、愚者にかぎりなく近づいていく、そういう思想の課題とが、かぎりなく近づくんですけど、どうしてもそこの紙一枚のところで、非常に深淵があって、どうしてもそこをピタッといくことができない。つまり、愚者になりきるってことが、どうしてもできないっていうような、そういう深淵を、いわば横ざまに飛び越えるっていう、そういう考えはなんとなくわかる気がするんですけど、そういう飛び越え方で深淵を超えるっていうこと、そこのところが、いわば、表現としてでてきたときに、親鸞の思想なんかでいうと、非常にいちばん見事な思想っていうのは、そういうところで、そういう深淵を飛び越えるっていうところででてきています。そこがおそらく親鸞の思想なんかがもっている現代性っていうようなものであるわけです。
これはいろんな考え方があるわけですけど、親鸞の主著っていうのは『教行信証』っていう浄土系の経典、つまり、インド及び中国及び日本の経典のいわば選集なんですけど、選集に注釈を加えたものが親鸞の主著なんですけど、『教行信証』っていうものは、親鸞の浄土門の経典の祖述的な主著であるにもかかわらず、これは人目によって違うんですけど、言い方が違うんですけど、考え方も違いますけど、ぼくなんかはどうしても、親鸞そのものっていうのは、『教行信証』のなかでは、でてきてないっていうふうに思われます。
親鸞のほんとうの、一般に三願転入っていうことで、選択本願っていうことがあって、阿弥陀仏の四十八願のうち、十八願なら十八願っていう、つまり、称名念仏したら、かならず浄土へいけるっていう、そういうような十八願なんですけど、そういうところに三願転入、親鸞の思想のどんづまりっていいますか、究極のところはあるっていうふうな考え方からいくと、『教行信証』で終わりっていうことになるんですけど、ぼくらは親鸞の思想っていうのの、もうすこし展開っていうのを認めるのであって、その展開過程っていうのは、親鸞の著書というよりも、たとえば、唯円が親鸞の語録を集めた、そのなかに怪しい部分もあるんですけど、つまり、『歎異抄』みたいなのがあります。
そういうなかで、つまり、親鸞の直接の著書とはいえないんだけど、弟子が親鸞のいうところを祖述したっていうような、そういう著書の中での親鸞っていうのは、いわば三願転入以降に展開されている親鸞の思想っていうものをみる場合に、『歎異抄』のようなものとか、『末燈鈔』のようなものとか、そういうところを、もっと見なくちゃいけないだろうなって思います。それは、いわば三願転入以降っていうことになるわけなんです。
それじゃあ、三願転入以降っていうのは何なのかっていいますと、今度は、称名念仏を唱えれば、浄土へ絶対にいけるんだっていう、それは一遍一念唱えようと、多遍多念唱えようと、それはもうどうでもいいんだと、とにかく、一遍でもいいから唱えればいいんだ、そうすれば、完全に浄土にいけるんだ、それを疑うことは何もいらないんだっていう、そういう考え方、つまり、絶対他力の考え方を、いわば、もういちど解体させるわけです。親鸞自体が解体させてしまうわけです。そこのところが、ほんとうは、いわば三願転入以降における親鸞の最後の思想的な課題っていうのが、そこにあるっていうふうに考えていいんじゃないかっていうふうに思います。
そういうことをいうと、専門家には叱られちゃうから、与太話ぐらいなことで聞いといてくださればいいわけですけど、ほんとうは、三願転入以降に、結局、念仏称名を唱えれば、一遍唱えようと、多遍唱えようと、浄土へ絶対いけるんだっていう、そういう絶対他力の考え方自体を、親鸞自体が解体させるわけです。解体させるっていう言い方が悪ければ、絶対他力をもういちど相対化するわけです。
どういうふうに相対化するかっていいますと、究極的にどういうふうに解体させるかっていうと、つまり、浄土教自体の、念仏称名を唱えれば浄土へいけるんだっていう、そういう考え方、誰だっていけるんだと、そこには知的なあれもいらないし、何もいらないっていう、疑うなかれ、それでいけるっていう、そういう考え方を解体させるわけですけど、親鸞の場合、解体の根本的な思想を要約しますと、「不存知」っていうことになると思うんです。「不存知」っていうのは、「存知せざるなり」ってことです。つまり、知ったこっちゃねぇよってことなんです。
それから、もうひとつ、得意の言葉があるんですけど、「面々の御計」だと、つまり、おまえたちの勝手だよってことです。勝手だよってことだと思います。「存知せざるなり」っていうのと、「面々の御計なり」っていうのは、親鸞の最後に、つまり、浄土真宗っていうのはそうですけど、念仏称名すれば、誰だって、どんな愚者だって全部、どんな愚者だってっていうより、愚者であればあるほど、あるいは、悪人であればあるほど、浄土へいけるんだっていう、そういう考え方に対して、もう一度それに否定を加えるわけです。そういう浄土真宗自体の考え方、あるいは、親鸞自体が究極的に自分で展開した考え方をもういちど否定するわけです。解体させるわけです。その解体の根底になっているのが、「不存知」っていうこと、あるいは、「面々の御計」ってことです。つまり、「存知せざるなり」、知ったことではないですよっていうことなわけです。
それは、言葉としていいますと、どういう言葉で出てくるかっていいますと、とにかく念仏を唱えて、それは念仏が浄土へいく種になるか、地獄へ堕ちる業になるか、そういうことは、総じて「存知せざるなり」っていうことなんです。知ったこっちゃないですよっていうことなんです。つまり、絶対、念仏を唱えろっていうわけです。念仏を唱えなさいと、つまり、それは浄土真宗の絶対他力の精髄であると、しかしながら、それは究極的にそれは解体させられなければいけないと、その解体は、いわば、念仏を唱えなければいけない、しかし、念仏を唱えたから浄土へいけるっていうふうに思ったら大間違いだよっていうことを言っているわけです。大間違いだよっていうことなんです。つまり、念仏を唱えたら浄土へいけるか、地獄へ堕ちる業になるか、そのことは総じてもって「存知せざるなり」っていうことです。つまり、そういうことはわかりませんよっていうふうに言っているわけです。つまり、わかりませんよっていうことは、なにかっていいますと、ようするに、浄土真宗の絶対他力の考え方、あるいは、親鸞自らが三願転入の最後で展開した考え方です。その絶対他力の考え方自体をもういちど相対化しているわけです。だから、念仏すれば救われるぞ、あるいは、浄土にいけるぞ、あるいは、浄土に往生できるぞっていうふうに、そういうふうに教えて、自らもまた展開してきたそれをもういちど相対化したときにどういうことになるかっていいますと、念仏称名、それは真宗の命であると、しかしながら、念仏称名によって浄土にいけるなんていうふうに、自分で主観的に想い決めたら、大間違いですよっていうことをもういちど言うわけです。そうじゃないんだと、念仏を唱えて、地獄へいくのか、浄土に往生できるのか、それはまったく存知しない、つまり、そのことはわからないんだけれども、念仏称名っていうことに、浄土真宗の命っていうのは、思想の生命っていうのはかかっているんだと、しかし、かかっているけども、それをやったが故に、浄土へいけるっていうふうに思ったら、思い込んだら違いますよっていう、つまり、思い込んだら違うのであって、地獄へいくか、極楽へいくか、浄土へいくか、そんなことは、それはわからないです。わからないんだっていうふうに考えるべきだっていうところで、そういうふうに解体させるわけです。
その種の表現っていうのは、至る処にあるわけなんです。それは、親鸞の著書っていうよりも、親鸞の語録、書きとめた、弟子が記録したっていう、そういうもののなかに、そういう考え方っていうのは、非常によく表現されています。たとえば、自分は、父母の孝養のために念仏を唱えたことなんかひとつもないというようなことを、つまり、それで、もし縁ある同行者ならば、それはわが兄弟であり、わが父母であるっていうような、ちょうど『新約聖書』とおんなじようなことを言っているわけです。つまり、兄妹だと、自分は父母の孝養のために、念仏を唱えたことなんかないよっていうこと、その種の言い方はたくさんあります。つまり、分派闘争で、あいつはおれの弟子だっていうようなことで、相争うなんていうのはもってのほかであると、親鸞は弟子一人ももたず候っていうふうにいうわけです。弟子一人ももたず候っていうようなふうにいうときに、いわば、親鸞自体が最後に到達した絶対他力自体をも、いわば、相対化してしまっているわけです。解体させてしまうっていう、あるいは、いまの言葉でいえば、白けさせちゃうってことなんです。自分で白けさせちゃうわけです。白けさせちゃったところに、いわば、念仏を唱えれば、絶対に浄土にいけるんだっていうような、一遍唱えればいけるんだっていうような、そういう絶対他力の考え方をもうひとつ、もういちど相対化する視点っていうのが、いわば「存知せず」っていうこと、あるいは、「面々の御計だ」っていうような、そういう言われ方、非常に受け身の言われ方のように見えますけど、非常に必然的な契機っていうのが、逆にあるっていうふうに考えてもよろしいわけです。「存知せず」っていう考え方、あるいは、「面々の御計」だっていうような、つまり、勝手にしなさいと、おまえがそう思っているならそう思いなさいっていう、そういうような言い方で、いわば、自らが築いた浄土真宗の精髄である絶対他力の考え方っていうのを、自らやっぱり、もういちど白けさせるっていうこと、つまり、相対化するっていうことをやっているわけです。おそらく、そこいらへんのところが、いわば、親鸞の思想の非常に大きな、つまり、最後の到達点なわけです。
こういうふうになったらもう、結局、わからないわけです。つまり、宗教か、非宗教かっていうのとは、わからないと思うんです。つまり、非常に微妙なんですけど、微妙な解体のさせ方なんですけど、おそらくは、専門家がいっている三願転入っていうようなことで、選択本願っていうところの、念仏を唱えれば、かならず浄土にいけるっていうような、そういうところへ最後に計らいを放棄して、そういうところへ到達したっていうふうに、到達点というふうにいわれるわけですけど、しかし、その到達点っていうものは、少なくとも、もういちど解体させられているっていうこと、それは、自らの手で解体しているってことがいえるように思います。
こういうところまでいってしまいますと、親鸞の思想っていうものが、いわば、ひとつの現代性っていうものを獲得する、非常に大きな、いまでも古くなっていないなっていうふうに思えるところは、結局、最後の、絶対他力の考え方を、もういちど相対化していく、「存知せず」あるいは「面々の御計だ」っていう、そういうところで解体させている、そこのところの一種の永続性っていうものが、おそらく現代でも、ぼくらに訴えてくるところがあるっていうようなことだと思います。
ここまでくると、親鸞の思想っていうようなものが、いわば世界思想としての資格みたいなものを獲得しているように思われます。類比すれば、『新約聖書』みたいなものの言われ方のものでの表現のされ方と、ものすごい同じところにいってしまうんです。
それは『歎異抄』のなかにありますけど、親鸞が弟子の唯円に対して、おまえはようするに、おれのいうことを信ずるかって聞くわけです。もちろん、信ずると、あなたのいうことを信ずると、なら、たとえば、人を千人殺してみろって親鸞がいうわけです。すると、それに対して、唯円が、おれはそれだけの器がないから、ひと一人も殺せそうもないと、まして千人なんて殺せそうもないと、だから殺せないっていうふうに答えるわけです。つまり、自分にはそれだけの器がないって答えるわけです。
それに対して、親鸞は、おまえはいま、おれのいうことを信ずるかっていったら、おまえ信ずるっていったじゃないかっていうふうに、親鸞がもういちど問い返すわけです。だけど、それは非常にわかるんだと、なぜならば、人間っていうのは機縁、機縁っていうのは契機です、機縁がなければ、ひと千人殺すこともできないだけじゃなくて、一人殺すこともできないと、しかし、機縁あるいは必然っていうものがあれば、自らは、そういうふうに意図しなくても、千人、人を殺すことっていうのはありうるっていうこと、それは、まったく機縁っていうものの問題であって、おまえがようするに、わたしは千人どころか一人も人を殺す、そういう器さえがありませんっていうのは、ようするに、どういうことかっていうと、機縁なしには、悪も殺人も、みんな可能でないんだと、ただ、機縁が生じたときには、機縁があった場合には、自分が欲しようと欲しなかろうと、殺すことはありうるんだよっていうことを親鸞はいっています。
こういう話っていうのは、『新約聖書』のなかにもあるわけです。イエスっていうのが、明日、磔になるかもしれないっていう、そういうときに、弟子たちを集めて、みんないるところで、おまえたちは、明日の朝、鶏が三度なく前に、かならず、おれを裏切るだろうっていうふうにいうわけです。そうすると、弟子たちは、そんなことはないと、あなたのいくところはどこだってついていくと、絶対そういうことはないっていうふうにいうんです。
それで、翌朝、キリストが十字架にかけれて、殺されそうになるわけです。弟子たちは群衆に混じって、それを見ているわけです。それで、刑事みたいのがいて、おまえは磔になるあの男と一緒にいた男じゃないかっていうわけです。そうすると、たとえば、ペテロならペテロっていう一番弟子なわけですけど、いや、おれはあの人を知らないっていうふうに、そう答えるわけです。いや、そんなことないだろう、確かに一緒にいたぞっていうと、いや、あの人を知らないと、それで、三度、否んだっていうことなんです。三度、否んだっていうことで、ちょうど前の日に、おまえたちはきっとおれを裏切るだろうっていうふうに言った、それを、ペトロは、弟子たちは、そんなことないと、あなたのいくところはどこだってついていくっていうふうに言ったにもかかわらず、いや、そんなことない、かならず裏切るよっていうふうにいって、その通りになってしまった、そういう自分を考えて、いたく泣くっていうような、そういうところがあります。
そこでは何が云われているのかっていうと、いわば、人間の思想っていうものの絶対性っていうものと、あるいは、観念の絶対性といってもいいわけですけど、そういうものと、いわば、生身の人間のもつ相対性っていうものとの、非常に激しいきわどい矛盾っていうものを、矛盾についての認識っていうものを、そこで提示しているわけです。
それに対して、そこの矛盾っていうのは、キリストのほうは、よく洞察しているんですけど、弟子のほうは、それを洞察していない、つまり、往相的にしか、それを考えていないから、そこのところで、前の日、そんなことはないと、あなたがいくところはどこだっていくんだっていうふうにいって、それを裏書きできないで、まったくキリストのいうように、あの人を知らずっていうふうに否むっていうことで、いわば、はじめて、人間の思想の絶対性っていうようなものと、それから、生きて、食って、生活して、そういうあれを繰り返して、そういう位相での、場所での相対性っていうものとの、非常にきわどい矛盾に、ペテロならペテロがさらされるっていうような、そういうことを、挿話、エピソードのひとつとして、記載しているわけです。
これに対して、いわば『歎異抄』のなかの親鸞が、おまえはおれのいうことならを信ずるか、唯円がそれは絶対信ずると、それなら、おまえ、人を千人殺してみろっていったら、わたしは殺せませんっていう、そこで問題になっているのはなにかっていうと、これは、人間の観念、あるいは、思想の絶対性と、いわば生活者としての相対性っていうようなものとの矛盾っていうような、そういうことじゃなくて、そこでいっているのは、いわば、機縁っていいましょうか、契機といいましょうか、契機なしに、人間っていうのは何事もできやしないと、しかし、契機があるならば、それを欲しようと、欲しなかろうと、あることをしてしまうっていうことは、人間にとってありえることなんだっていうようなところに、いわば、思想のポイントを置いているわけです。
これは、いわば、思想のポイントの置き方としては、新約書にあるポイントの置き方とは違うんです。契機、機縁あるいは因縁でもいいんでしょうけど、そういうものを含めずして、あらゆる現象っていうのは、考察してはならないよっていうことだろうと思います。
もし、なにかをそこからもってくるとすれば、引き出してくるとすれば、契機っていうものなしに、ある現象、ある事件、ある事柄っていうものを、契機っていうことを考えに入れずに、考察したら、かならず間違うよっていうようなことが、いわば、親鸞の場合の、非常に大きな問題提示だろうっていうふうに思われます。
そんなことは言ったってしょうがないけれど、たとえば、ある事柄に対する市民的観点、常識みたいなものは、しばしば、契機っていうことなしに、つまり、自分とは程遠いところで、そういうことが、わけのわからんやつによって、わけのわからんことが行われたので、それはどうかしているっていうふうな観点、それがいわば市民社会っていうものの常識なわけですけど、しかし、その常識っていうののなかに嘘があるとすれば、それは、その観点に契機っていうことが、あるいは、機縁でもいいですけど、機縁っていうものがあれば、人間は欲しようと、欲しまいと、なにかをするし、また、せざるをえないってことがありうるのだっていうこと、あるいは、契機がなければ、どんなことだって、しようと思ったって、できやしないんだよっていう、そういう問題っていうものは、しばしば、市民社会における、流通する思想のなかには、しばしば、そういうことがあらわれてくるわけです。
契機、あるいは、因縁とか、機縁っていいますか、そういうことを視点としてめぐっていく、人間の行為、あるいは、人間の思想でもいいんですけど、そういうもののあり方っていうものを、『歎異抄』のなかでの、唯円と親鸞とのそういう問答っていうものは、うんとよく示しているように思います。
親鸞の絶対他力の考え方を解体させる、最後の解体させるさせ方の見事さっていうものは、喩えようもない見事なものなので、たとえば、「弥陀の五劫思惟の願」っていうのは、つまり、本願ってことでしょうけど、よくよくみてみると、それは、「親鸞一人が為なり」なんていうことをいうわけです。
そういうふうに言っちゃったら、もう宗派としての宗教っていうのは成り立たないわけです。そういうことになるわけですけど、結局、そこまで言い切ってしまっているわけです。それは、そうなれば、いわば宗派宗教としては、理念宗教としては、解体する以外にないっていうところだと思います。
つまり、それでもって「親鸞一人が為なり」っていうような、それならば、それっきりじゃないか、言いようがないじゃないかってことになるわけで、そういうふうな解体のさせ方っていうもの、ポイントっていうものは、最後に親鸞っていうのはやっているように思います。
それは、その種の表現っていうのは、あれしてくれば、いくらでも見つかります。これは、善悪みたいなあれでも、先ほど言いましたように、念仏称名して浄土にいくか、地獄にいくか、そんなことは存知せずっていう、そういう言われ方もそうですけど、善悪についてもそうなのであって、そんなのわからんよっていう言い方を、いたるところでやっています。こういう、自分がいわば、最後にして最初っていうところで築いた、浄土真宗の非常に精髄である絶対他力みたいな、そういう考え方を、結局は自己解体させるっていうようなところに、やっぱりいっているように思います。
ですから、晩年になってくると、晩年には徹底していて、浄土真宗でも、各地各方で、いろいろ分派闘争みたいのが起こって、混乱が生ずるわけですけど、それに対して、親鸞は、いちいちでもないですけど、それに対して、書簡でもって答えたりしているわけですけど、そのなかでも、徹底しちゃって、自分は眼も衰えてしまったと、どんなこともみんな忘れちゃったと、だから、浄土宗のことは誰か学者にでも聞いたほうがいいでしょうっていうようなことを、ちゃんとあからさまにそういうふうに言っているわけです。
つまり、自らは、愚者に絶対的に接近して、絶対的に愚者に一致したっていうところまで、自己解体せしめたっていうふうに言っているんだと思います。だけれども、ほんとうの愚者にはやっぱりなれなくて、そこに、どうしても、紙一枚の深淵っていうのが、どうしても、いくら接近してもあるわけで、ですから、親鸞のそういう、つまり、自分は眼も衰えてしまったと、耄碌してしまった、それで、覚えたこともみんな忘れちゃったと、もう浄土宗のことだったら学者に聞いてくれっていうふうに、そういう言い方をすると、その言い方っていうものが、こちらで受け取る場合には、それが非常な逆説をいっているみたいに聞こえるわけです。
しかし、おそらくは、親鸞自体の意図は、全然そういう逆説を使っているってことじゃなくて、ほんとうに、知識っていうものの、あるいは、宗教でもいいですけど、イデオロギーでもいいですけど、それが、〈還相〉っていう過程をどこまで、つまり、愚者をとらえるっていう過程を、どこまでも突き詰めていった場合に、究極的に到達したところは、自分が愚者になっちゃったよっていうことを、愚者になってこれで終わりですよっていうふうに、そういうふうに言っているんだと思うんですけど、それをつまり、自分はまったく愚者同然、つまり、同じになっちゃったと、紙一枚の深淵っていうのも、あるかなしかわからないと、とにかく、そこにいっちゃったんだっていうふうに、そういうふうになっちゃったんだっていうふうに、言っているだけに違いないのですけど、これを、我々が受け取る場合には、一種のイロニー、あるいは、パラドックスみたいなものとして受け取られるところがあるんです。
それは、なぜかといえば、いま言いましたように、本来的な愚者っていうものと、愚者をとらえる過程で、あるいは、愚者にかぎりなく接近する課題こそが、知識にとって最後の課題だっていうふうな、そういうところをずーっと突き詰めて、愚者になりきったっていうふうに考えた親鸞っていうものとの、世界の巡り方っていうものが、つまり、同じポイントに立っているんだけども、こちらのほうは、なにか知らんけど、ひとまわり回ってきて、そこにいったっていう、それと、本来的にそこのポイントにいたっていう者との、非常に微妙な違いだっていうふうに思われます。
しかし、あきらかに、親鸞が絶対他力っていう考え方自体を相対化してしまうっていうようなことで、親鸞の思想が志したところは、結局はそこの愚者にいっちゃうっていうこと、いっちゃって一巻の終わりっていう、そこまでいっちゃう課題っていうものを突き詰めないと、知識の課題、それから、思想の課題っていうのは終わらないぜっていう、そういうことだろうというふうに思われます。
これは、さきほども言いましたように、当時の知識人たちは、念仏たった一口唱えれば浄土へいけるみたいな、馬鹿げたことをいうやつが、デタラメなことをいう坊主がでてきたっていうことで、顰蹙を買ったわけですけど、しかし、その顰蹙っていうものの範囲っていうものは、どこの領域に、思想、あるいは、知識なり、信仰なりっていうものは、どこの領域にいれば、顰蹙する観点になり、それから、どこまで愚者に近づいちゃえば、顰蹙される観点になるかっていうような、顰蹙する観点っていうのは、どこからどこまでの範囲であろうかってこと、あるいは、違う言い方をしますと、人間の思想でも、あるいは、現実生活でもいいんですけど、そのものが相対性に絶えずさらされている、そういう領域っていうのは、どこからどこまでであって、それから、絶対的な領域っていうのは、どこからどこまでであるか、そういう範囲みたいなものっていいますか、領域みたいなものっていうのは、どういうふうに親鸞なんかのなかで、確定されているかっていうふうに考えてみますと、これもまた、いろいろな言われ方があるんです。つまり、表現のされ方っていうのがされています。
たとえば、浄土真宗の観点からいくならば、いわば〈悪人正機〉っていうやつで、悪人のほうが、善人なんかよりもずっと救済される、あるいは、浄土へ超出するっていうか、そういう契機が大きいんだっていう、そうだとするならば、いわば相対的な世界、絶対的な世界ではそういえると、それじゃあ、相対的な世界っていいましょうか、相対的な現実生活と、相対的な思想っていうようなもの、それの範囲、領域のなかで、それに対して、どういう反問っていうのが可能かっていいますと、そういう例っていうのは挙げてあります。
それは、たとえば、悪人であればあるほど、往生して浄土へいきやすいっていうふうにいうならば、つまり、〈悪人正機〉っていうことが正しいならば、それならば、人間っていうのは、どんどん悪を、悪いことをしたほうがいいってことになるじゃないか、つまり、悪いことしようってことになるじゃないかっていうふうな、そういう反論っていうのが、当然、相対的な世界からは発せられるわけです。
それほど、悪人のほうが救われ、浄土にいきやすいっていうならば、どんどん悪いことをしたらいいじゃないかっていう、一種の反問なんですけど、それに対しては、いわば、絶対的な領域っていうのは答えていいわけです。
その答え方っていうのは、どういう答え方かっていうと、そうじゃないと、いわば必然的、つまり、先ほど言いました、機縁があって、あるいは、契機があって、悪をせざるをえなかったとか、人を殺さざるをえなかったっていうもののなかには、自力っていうものはないんだと、しかし、故意に、それならば、悪人のほうが救われるっていうのなら、どんどん悪いことしようじゃないかっていうふうな考え方のなかには、いわば、微妙ですけど、自力っていう考え方が、そこには混入してきているっていうふうに言っているわけです。だから、それは正しくないんだっていうふうに、つまり、悪いことすればするほど、いいってことになるじゃないかと、それじゃあ、悪いことをしようじゃないかっていう、そういう考え方のなかには、いわば、微妙ですけど、自分の力、自力の観点っていいますか、自力の要素っていうのが入ってきていると、だからして、それはダメなんだっていうふうに言ってるんです。
だから、絶対他力の領域で、機縁に促されて、悪をせざるをえなかったとか、人を殺さざるをえなかったっていうならば、そこには、自力っていうものはないと、つまり、自分がそうしようと思ってそうしたっていう契機がないと、だから、機縁のみがそこにあって、いわば自力っていうようなものはそこにないと、それは、いわば、絶対他力にとって、非常に正しい契機になりうるんだっていう、救済の正しい契機になりうるんだと、だけど、そんなことをいうならば、結果からいって、どんどん悪いことをしたほうがいいってことになるじゃないかっていう、あるいは、悪いことをどんどんしたらするほど、救われるってことになるじゃないかっていうような、それはどうなんだっていうような、そういう反問の仕方のなかには、いわば微妙な自力っていうのが混入してきていると、そこがいちばん問題になるんだと、だから、契機無くして、そういう悪いことをしたらいいじゃないかっていう、したほうがいいっていうんだからいいじゃないかっていうようなことは、全然、成り立たんのだっていうふうに答えています。答えられています。
その答えられ方っていうのは、一見すると、うんと、はぐらかされてしまうような気がするんですけど、ほんとうは、そうじゃないと思います。そうじゃなくて、いわば知識っていうものが、最後に知識を放棄して愚者に近づくっていう、そういう課題に対して、相当、徹底的な視点をもったときに、そういう答え方がでてくるんだっていうふうに考えることができます。
そういう問答みたいなものを、たくさん拾いあげることができます。それらは、だいたいは、親鸞自身の著作というよりも、親鸞の弟子が親鸞の語録として集めたっていうもののなかで、きわめて見事に、浄土真宗の絶対他力の考え方、あるいは、親鸞自らが築いた絶対他力の考え方自体をも否定するっていいましょうか、解体させるっていいますか、あるいは、相対化させるっていいますか、そういう視点っていうのは、まことに見事にあらわれています。
たとえば、その種の相対的な世界から、その種の反問っていうのは、いくらでもありうるわけですけど、別なのも記載されています。この念仏を唱えて、極楽浄土に往生できるっていうのが正しいっていうならば、念仏を唱えても、すこしも嬉しい気持ちにもならないし、それから、サッサ、サッサ死んで浄土へいきたいっていう気持ちも起こらないのは、どういうわけであるかっていうのは、そういう反問っていうのは、相対的な世界から、領域から、反問が発せられるわけで、そういう反問を発して、そういう反問に答えています。
それは、どういう答え方をしているかっていうと、ようするに、念仏を唱えて、浄土へいけるんだって、ほんとうならば嬉しいはずなのに、嬉しい心が起こらないのは、煩悩のせいなんだと、つまり、だから、煩悩のせいだから、まことに、煩悩が存在するっていうことは、いわば、浄土への契機のひとつでありうるわけだから、まことに当然のことであるっていうふうに答えています。
それから、なぜ、念仏唱えて死んだら浄土へいけると、それで、浄土はすばらしいところだって、そういうふうな教義になるわけだけれど、浄土真宗の教義になるわけだけれど、それに対して、それじゃあ、どうしてサッサと死んで、そんなすばらしいところにいこうなんて気が起こらないのは、どうしてなんだっていうふうな問いに対しては、煩悩のふるさとっていうのは、なかなか捨てがたいものなんだっていうような答え方をしています。まだ見ない浄土っていうのは、なかなか億劫なんだよっていうような、そういう答え方をしています。
それも一見すると、ちょっとはぐらかされたように、つまり、白けちゃう答えのように見えますけど、その答えの中に含まれている、いわば、思想の解体の契機っていうもの、思想の自己解体の契機っていうものは、これは、あきらかに受け取ることができるわけです。現在でも、ぼくらでも受け取ることができます。これは、非常に重要な、いわば三願転入を、もうすこし発展させたところで考えられる、親鸞の究極の思想として、非常に見事なものだっていうふうに思われます。
これは、現象的には、答えをはぐらかしているにすぎないっていうふうに思えるわけですけども、本質的にいえば、いわば知識にとっての最後の課題みたいなものに対して、親鸞…あいならんっていうことを言っています。
こういう言われ方っていうのは、いわば、宗教にとっては、あるいは、宗派にとっては、まったくの矛盾なのであって、あるいは、救済にとっても矛盾であるかもしれませんし、愚者にかぎりなく接近するっていうような課題にとっても矛盾であるかもしれませんけど、しかし、最後には、親鸞はいわば、浄土真宗自体の本質的な、つまり、核になる思想自体も、ぼくは、解体させているっていいますか、相対化しているように思われます。
だから、そういう相対化のところで、いわば、無伽藍、無宗教、念仏も最重要だけど、その結果がどうなるかってこと、地獄にいくか、極楽にいくか、浄土にいくか、そんなことはわからないと、全然、存知しないというようなところでもって、ほんとうの意味での、親鸞の思想っていうのは、大団円しているように思われます。
この大団円の仕方っていうのは、なぜかしら、現代性っていうのをもっているので、それは、しかつめらしい文章で読んだって、ちゃんと突き刺さってくるものは、ちゃんと突き刺さってきますし、これはちょっと、なかなかいまでも古びないっていうような、知識の課題、それから、思想の課題、あるいは、宗教の課題に古びないっていうような、そういうところへ到達しているように思われます。
ここのところまで突き詰めたときに、親鸞にとって、浄土真宗を信ずるも、信じないも、また、あるいは、念仏を唱えるも、唱えないも、それはやっぱり、「面々の御計」であるというふうなことになっていきます。
これは、別の言い方でいっているところでいいますと、他の宗派っていうものは、念仏称名、つまり、浄土真宗っていうものを誹謗し、これを貶めても、念仏者っていう者は、ほかの宗派っていうものを排斥しっていうことは、してはならんぞっていうふうに、そうしてはいけないんだっていうふうに言っています。
これもまた、きわめて新約書のあれと似てくるので、隣人を愛するっていうわけで、右の頬をぶたれたら、左の頬も差し出せっていうのと、わりあいに、やっぱり非常に似てきてしまうのです。似てきてしまう契機が含まれているんです。
そうなってくると、そこの契機までいくと、これは、絶対に許容するのか、絶対に相手を許すっていうことになるのか、あるいは、絶対に許さないからこそ許すのであるっていうのか、そこのところは、また非常に微妙に重なってくる地点っていうのはでてきます。
つまり、そこのところが非常にまた、弁証法的におもしろいっていうか、興味深いところで、それは聖書の場合も同じなんですけど、右の頬ぶたれたら、左の頬をだせとか、そうすると、いやに隣人を愛しているんじゃないかなんていうふうに、愛する宗教じゃないかなんて思っていると、ちょっとまた違うので、また別の個所では、われは地上に平和をもたらすためにきたのではない、剣を投ぜんためにきたんだっていうような、そういう言葉もあるわけで、そういうふうに出てくるわけで、それをいわば、無限の許容っていうふうに、寛容っていうふうに考えると、ちょっと違うと思います。
それと同じように、親鸞なんかが、他宗が念仏者をどのような誹謗の仕方をしようとも、それはそういうふうに受け取れ、そして、絶対に他の宗派をそれに対して、誹謗してはならんぞっていうような言い方をしているときに、それは解体の思想、自己解体の過程ででてくる、いわば一種の寛容さにみえるような、ひとつの過渡的なかたちなんですけど、思想のかたちなんですけど、そういうものを、いわば単なる寛容っていうふうに考えたら間違うのであって、それは、自ら築いた絶対他力の思想っていうのを自ら相対化する、そういう過程で、はじめて出てくる過渡的な思想っていいましょうか、そういうもののやむをえない発現、発露みたいなふうに考えたほうがよろしいので、その寛容さの裏っ側には、絶対に他宗なんて許さんぞっていうようなふうに考えたほうがいいかもしれないし、そういう含みといいますか、二重性っていうのは、同時にどうしても入ってきてしまうわけです。そのところの含みといいますか、二重性といいますか、そういう、まったく相反し、相矛盾する、そういう考え方を、いわば、二重化している、あるいは含んで、包括しているようにみえるところ、そこが、いわば、親鸞なんかがいちばん重んじた〈還相〉における思想、あるいは、知識の最後のあり方っていうような点だっていうふうに思われます。
ぼくは、うちの習慣的なあれは、浄土真宗だっていうことを除いては、あんまり、宗教も、イデオロギーも、それほど絶対化しては信じてはいないわけですけど、ぼくは、自立だ自立だって、てめえがやれないことは、誰もやらないと思えとか、絶対許すなっていうふうに、そういうことばかり言ってきているので、まことに正反対に、思想っていうようなことに言及しているようなんですけど、自分としては、わりあいに、若い時から親鸞っていうのは好きでして、あんまり、まったくこいつはアホらしいことを言っている、つまり、正反対なことを言っているっていうふうには、ちっとも感じられないところがあります。
それは、おそらくは、親鸞の絶対他力っていいますか、三願転入のなかの選択本願っていうもののあとにくる、自己解体の過程が、いわば、絶対他力が同時に、絶対自力っていうものを二重化するっていいますか、包括するっていうようなところを、あきらかに指し示しているからではないかっていうふうに、ぼくには考えられます。あんまり、違ったものについて、関心を語っているようには、ちっとも感じないのです。わりに、親近感が非常に強いです。
つまり、中世ですから、どこだってそうですけど、イデオロギーっていうのは宗教のかたちでしかでてこなかったわけですし、また、宗教は、いわば一種の宗派宗教としてしか出てこなかったっていうようなことになるわけですけど、これは、いわば時代的現存性みたいなものの問題であって、これは、べつに一概に宗教だからどうだっていうこともないので、宗教だから縁がねえよっていうようなものでもないので、宗教っていうのは、たいへん重要な、無神論者、無仏論者にとっても重要な問題だっていうふうに思われます。
だから、親鸞についての著書とか、解釈とか、そういうようなものは、なんかもう山とありますし、ここ2,3年だけとってきても、相当たくさんありますけど、たいていはつまらないです(会場笑)。つまらないと思います。そういうのをあれするのは相対的なものですから、絶対的な思想からは問題にならないということだと思いますけど、どうでもいいことだと思います。
でも、わりあいに、宗教的っていうことで、偏見をもつんじゃなくて、イデオロギーとして、あるいは思想として、あるいは、そういうことを抜きにしましても、ひとつの知識としてっていう観点からも、それから、ぼくらが最も自分がそうなれないで、そこから遠いと思っている絶対信仰っていうような観点からも、たいへん、日本の中世の新興宗教っていうのは、たいへん学ぶところが多いわけですし、問題が多いっていうふうに思います。
なかでも、好みの問題っていうのはありますから、なんともいえませんけど、ぼくらは、親鸞っていうのが最もおもしろいと思います。最も見事だと思います。つまり、見事だっていうことは、単に、仏教的範疇っていうものに、最後には包みきれないで、いわば、世界観念っていいましょうか、普遍観念っていうところで考えたほうがいいようなところまでいっているように思いますから、そういう意味合いでは、仏教の教義の中でどうしたってことじゃなくて、考えうるところがあります。それをはみ出しているところがありますから、まったく、ぼくは、親鸞っていうのは興味深い宗教家だっていうふうに思います。
(質問者)
さきほど、悪の因縁とかでてきましたね、あれはいわゆる言葉を変えて、情念と捉えてもいいんじゃないかなっていうふうに、思想の情念というかたちに、つまり、思想というものは、○○の中だけではいかないというような、その言葉に置き換えてもいいのではないかな。
(吉本さん)
行き違うけど、それでいいんじゃないでしょうか。つまり、情念というものが機縁を促すみたいな、そういうふうに考えてもいいんじゃないでしょうか。ただ、具体的には、非常に簡単なんです。たとえば、差しさわりのない例を挙げれば、例えば、立教大学の先生が、女子学生と仲良くなっちゃって、すったもんだの挙げ句あれしちゃうでしょ、結局、自ら、あなたのいうように、情念的に追い詰められるわけです。
そういうときに結局、そこまでは確実だと思いますけど、片っぽの恋人を殺しちゃうでしょ、それで、奥さん子どもと心中しちゃうでしょ、たいてい、ぼくがみた致傷っていうのはとてつもないのです。つまり、まったくとてつもないやつだっていうふうに、そういう観点からなされているわけですけど、だけど、ぼくがそうだって、おんなじくらいしかできないんじゃないかって思うんです。それはいわば、契機がないところでいっていると、馬鹿にシラッとなるんだけど、契機があったときには、だいたいおんなじことしか、もうすこし器用かなって思うけど(会場笑)、たいていはおんなじことしかできないんじゃないかって思うんです。
つまり、あなたのおっしゃる情念というふうにいっても、情念としても追い詰められるでしょ、それは、セックスの世界っていうのは、性っていうのは、ようするに、一対一の世界なんです。個対他の個の世界なんです。それなのに3ついるわけですから、絶対矛盾な世界なわけです。しかし、契機があれば、そういうことはありうるんです。絶対矛盾ですからもともと、だから、情念的に、あなたのおっしゃる言葉でいえば、追い詰められていったとするでしょ、そのときになにができるか、どうできるかっていったら、そのことくらいしかできないんじゃないですかね、そうなるんじゃないでしょうか、だから、さきほど、ぼくがいいたいのは、契機っていうものを考えに入れない、事象の、現象事件の、そういうもののあれっていうのは、ちょっとダメじゃないのかっていうふうなことを言ったんですけど、それはやっぱり、そういうことでもそうなので、いざ自分がやってみると、だいたいおんなじことしかできないんじゃないかなって思います。
もっとうまくやれる人も、みなさんのなかにはいるかもしれないけど、だけど、ぼくは、追い詰められたら、そうだってしょうがないじゃないかっていう、親鸞はよくそういうことを言っているわけですけど、自分が善だから人を殺さないんじゃないんだっていう、ただ、機縁がないからそうなんだっていう言い方が好きで、よくそういうような言い方をしていますけど、それは、まったくそうなのであって、こんなの傍から眺めていると、とてつもないあれがいるもんだなってなりますけど、だけど、たいていの人だったら、おんなじくらいしかできませんよ、不可避的にそういうところにいって、あなたのおっしゃる情念的に絶対矛盾に追い詰められたところにいった場合、たいてい、ぼくはそのくらいしかできないんじゃないかなと思います。だから、ぼくなんかは、少しも非難がましいことは言ったことがないので、あれはああいうもんだなっていう…
(質問者)
…それが親鸞の宗教にでてくる観点と見てとれないですか。
(吉本さん)
いちおうイデオロギーですから、わりあいに、情念もあるんですけど、情念も本質としてくるんですけど、イデオロギーですから、いわば、中世における典型的なイデオロギーですから、あまり文体のなかにしか、あなたのいう情念っていうのは出てこないですよね、見ても、もともと論理なんですから、論理と信仰なんですから、論理があり、そして、あと信仰がありっていうことですから、情念っていうのは、言われ方の文体のなかにしか出てこないんですけどね、でも、そうかもしれません、情念っていうことの問題なのかもしれません。これでいちおう終わらせていただきます。(会場拍手)
テキスト化ご協力:ぱんつさま