1 「小説は書き出し」

 吉本です。今日は、いろいろ考えたんですけど、太宰治と森鷗外について、お話ししてみたいっていうふうに思ってます。太宰治っていうのは、短編の名手なんですけど、太宰治の短編小説に、いろいろ大きな影響を及ぼしたって考えられる、作家とばかりいえないのですけど、2つあると思います。
 ひとつは落語です。つまり、近代落語の伝統っていうのは、三遊亭円朝からはじまるわけですけど、落語の影響っていうのは非常に大きいと思います。落語の影響っていうのは、たとえば、どういうふうにあらわれているかというと、太宰治の短編のなかでは、いわば、落語のオチっていうのがあるわけですけど、オチっていうものが非常によく使われていて、一生懸命、太宰治はまともな意味で、落語っていうのを、よく読んで、話したっていうふうに考えられます。
 もうひとつは、鷗外の短編といいたいところですけど、鷗外の訳しました短編小説があるわけです。ひとつの本としては、『諸国物語』みたいなかたちで出てくるわけですし、「蛙」っていいますか、そういう作品集としても出ているわけです。
 鷗外自身は短編がたいへん下手くそであって、つまり、短編のなかで、自分の主観的な考え方みたいのをあらわに出したりして、そんなにうまくないんですけど、鷗外の翻訳した短編っていうのは、たいへん見事なものが多い。それは、太宰治のなかに、非常に大きな影響を与えているっていうふうにいうことができると思います。
 どこを要にして、その問題を、つまり、太宰治と鷗外ってことを結んでみられるかっていいますと、いま言いましたように、鷗外の翻訳しました短編っていうものと、それから、太宰治の短編っていうものと、これを結ぶところで、いちばんの影響を考えることができると思います。
 鷗外の訳しました短編っていうのから、具体的にどういうふうに影響を受けているかっていいますと、それは、「書き出し」っていうことだと思います。つまり、書き出しの見事さっていうこと、それを非常に大きく影響を受けていると思います。
 ぼくは、太宰治の生前に、学生時代に、一、二度、会ったことがあるんですけど、酔っ払って、太宰治が放言していうには、小説っていうのは、最初の1,2行をみれば、わかっちゃうんだよっていうような放言をよくしていました。1,2行みれば、わかっちゃうんだよっていう言い方のなかに、いわば、書き出しが示唆するものっていうことが、非常に大きいんだっていうことを意味していると思います。言っていると思います。
 もうひとつの言い方では、太宰治は、書き出しがうまいか、まずいか、書き出しをよくするかどうかっていうことは、いわば、読者に対するサービスなんだっていう言い方を、これは、晩年になって、志賀直哉に食ってかかったときに、そういうことを言っているわけです。
 つまり、志賀直哉の小説っていうのは、いい、いいっていうけども、おまえの小説っていうのは、ようするに、詰将棋とおんなじじゃないか、ようするに、詰むのがわかりきっていることをやっているじゃないか、つまり、芸術家としての、文学者としてのおののきなんてものは、どこにもないじゃないかっていうのが、志賀直哉に対して食ってかかった、いちばん大きなポイントなわけです。
 それに対して、じゃあ、文学者としてのおののきっていうのは、先がわからないっていうこと、つまり、書いてみないと先がわからないと、先がわからないだけじゃなくて、詰むかどうかもわからないと、それでもって、しかし、書き始めなければならない。そうすると、書き始めなければならないっていうときに、すでに書き出しのところで、いわば、ある意味では、全部が決まってくるところがあると、そういう意味合いを込めて、晩年、つまり、死ぬ直前に、いろんな文学者に当たり散らしたわけですけど、そのなかで、志賀直哉に対して当たり散らした、そのなかでの言葉、ようするに、最初の文学者としてのおののきっていうものは、おまえにはちっともないじゃないかと、おまえの小説なんていうのは、みんな詰将棋だっていう、すでに決まっているんだっていう、そういう言い方だと思います。
 そういう意味合いでいいますと、太宰治の短編っていうのは、どれをとってきたって、いわば、書き出しから見事な展開を示しているってことがいえると思います。それは、鷗外の翻訳しました短編から、非常に大きな影響を受けている、受けたんだっていうことがいえると思います。

2 オイレンベルグの「女の決闘」

 その要をいちばんはっきり示しているのは、太宰治の中期の非常に安定した時期がほんの少しあるわけですけど、その中期の非常に安定した時期の短編のなかに「女の決闘」っていう作品があります。「女の決闘」っていうのは、森鷗外が翻訳した小説を、いわば、だしに使っているわけです。
 森鷗外は、ヘルベルト・オイレンベルグっていう、19世紀末から活動しだしたドイツの作家、戯曲家がいるわけですけど、その戯曲家の翻訳を鷗外は明治44年にやっています。オイレンベルグの「女の決闘」っていう作品が鷗外の翻訳にありまして、「女の決闘」っていう鷗外の翻訳を、いわば、だしにして、太宰治は独特の突き崩し方をしているわけです。突き崩し方をして、自分の作品にしてしまっている、太宰治の中期の代表作といえるもので、あるいは、太宰治の全体の作品のなかでも代表作といえる優れたものなのです。ですから、「女の決闘」っていう作品を結び目にしますと、鷗外と太宰治の関係っていうのは、非常に見事に描かれるっていうことになると思いますので、「女の決闘」っていう太宰治の作品をもとにして、ちょっとその問題っていうのをお話してみたいっていうふうに思います。
 原作であるオイレンベルグの「女の決闘」っていうのは、どういう筋かといいますと、非常に簡単な短いもので、非常に簡単なんです。その作品は、鷗外がオイレンベルグのゾンデルファールギリシテンっていう、珍しい事件集っていいましょうか、そういう作品集の中から訳してたものなんですけど、オイレンベルグっていう作家はもともと反自然主義的な作家なわけです。
 だけども、そこではおそらく、逆に自然主義的な描写をきわめて冷静に試みた、そういうものを集めたものだっていうふうに考えられます。というのは、ぼくはそれを読んだことがございません、つまり、「女の決闘」以外に読んだことがございませんから、そういうふうに推定するだけですけど、そういう作品だと思います。
 それはのっけから、つまり、ロシアのある医科大学の女学生がなにやら高尚な講義を聞いて、下宿に帰ってきてみたら手紙がきていたと、その手紙にはこういうことが書いてあった。つまり、自分はいままで、ある男の妻だっていうふうに自分で考えていた女であると、あなたは、あなたを侮辱したことのない第三者があなたから侮辱されたってことに対して、責任を回避するような人じゃないと思うと、それから、あなたは拳銃、つまり射撃ですね、拳銃の名手だと聞いていると、自分は拳銃なんてものはいじったことがないと、ところで、何月何日にあなたと決闘をしたいと、言うまでもないけども、自分はいちども拳銃をいじったことないし、あなたは拳銃の射撃をたびたびやっている、そういう人だって聞いているから、もちろん、あたしのほうが不利だって思うと、だから、少しも、そういうあれは不都合じゃないと思うと、それで、場所が指定してあって、そういう手紙がやってくると、そこから手紙を出した女、つまり、ある男っていうものの女房っていうことになるわけでしょうけど、その女房は町へ出かけた、それで、町の拳銃屋に入って、軽くて使い良い拳銃っていうのはないか、自分は賭けをしているので、これをやってみたいんだっていうふうにいうわけです。拳銃屋の親父に、撃ち方を教えてくれんかっていうわけです。拳銃屋の親父が打ち方はこうやるんだって、裏の自分の家の中庭のところで教えるわけです。その女房は拳銃の使い方を教わりながら、夕方から夜まで練習するわけです。きな臭い匂いでムカムカしながら、はじめは、撃つんだけど、すぐそこいらへんの木に当たったり、それから、とんでもない窓に当たってガラスが壊れたりっていうようなことをやって、だんだん向こうにある的の白黒もわからなくなっちゃう、だんだん灰色しか見えなくなって、そのくらいまで練習するわけです。
 練習して、これでいいだろうってことで、その晩、帰って、その女房が拳銃を抱いて寝たっていう、それで、翌日になって、その場所へ行って、医科大学の女学生と、黙って並んで歩きながら、その場所で、お互いに6発撃つようにしましょう、先にあなたが撃ちなさいっていうふうに女房のほうがいうわけです。それでお互いに撃ちあうわけです。
 みんな当たらないですけど、だんだん途中で、その女子学生のほうが、だんだん逆上してきちゃう、6発ぜんぶ撃ち尽くしても当たらないと、女房のほうは、最後の1発で、眼もかすみ、もうおかしくなっちゃって、むこうのほうに灰色の的みたいのが見えると、で、撃つと、最後の6発目が女子学生に当たって死んじゃうわけです。
 で、無我夢中で拳銃を放り出して逃げてきて、次第に醒めていくんだけど、そこに、自分の亭主を女子学生に盗られたっていうような、その女子学生に復讐したみたいな、そういう復讐の快感とか、そういうものは全部なくなっちゃって、ただ虚しさだけが残る。で、すぐに村役場に駆けこんで、いま決闘して人を殺したと、だから拘束してくださいって言うわけです。拘束したって、お互いに了解のうえでの決闘で殺したっていうことは、そんなに不名誉なことじゃないんだからっていうんだけども、拘束してくださいということを言って、どうしてもそれを改変しない、それから、亭主が来たって会いたくないから、来ても会わせないようにしてください、そういうふうに言って、その女房は、自分で、未決の監房の中で食事をとらないで、やせ細って餓死してしまうわけです。つまり、死んでしまうわけです。その最後の締めくくりのところが、そのとき監房にやってくる牧師に対して、もう二度と尋ねてこないでくれっていうような手紙を牧師に託す、その手紙だけが残っているわけです。
 その手紙には、どういうことが書かれているかっていうと、自分は、あなたの言うような天国から人間が来たとして、天国なんかには帰りたくないというふうに思っていると、また、自分はもはや人の母でもないし、子どもでもないと、ただ自分は拳銃を買って、拳銃を撃つ練習をしているときに、一発一発が自分の心臓を自分で射貫いているんだってことを、そういうことを自分はよく知っていたと、だから、自分の心臓ももはやバラバラであると、だから、ふたたびわたしが何かになるっていうようなことは、つまり、天国にいくっていうようなことも望まないし、どういうことも望まないと、それだから、このままもう訪ねてこないでくれっていうふうに、牧師に対して、そういう書き置きみたいのを残しているのがみつかる。
 それで、自分は、例えば、キリストが十字架に釘付けにされたように、自分は自分の恋愛に釘付けにされたと、少なくとも、自分の第一期、第二期の生活、つまり、生まれる前と、生まれてからの生活では、自分が生まれてから後の生活では、自分のそういう生き方っていうものが、どういう意味をもっているのかっていうことについて、確たる回答を得ていないと、これから、死後の第三期の生活のなかで、それがあるいはわかるかもしれないっていうふうに思っているっていうような、なんか牧師にもう訪ねてこないでくれっていうような、そういう手紙だけを残して、それで死んでしまう。作品が、その手紙のいくつかを並べて書いたところで、それで終わるわけです。

3 太宰治のつくりかえた「女の決闘」

 たいへん見事な描写といえば見事な描写ですし、たいへん情緒抜きの描写であると、太宰治は、そこから、自分の作品に、それを解体してしまうことをやっているわけです。どういうふうに解体したかっていいますと、太宰治は、こういう冷淡無比な描写っていうのができるっていうのは、2つの場合しかない。
 ひとつは、作者がなんらかの意味で現実に対して、非常に疲れていて、疲労していて、投げやりになっているっていうことがあると、投げやりになると、人間っていうのは、どんな冷酷無残なことっていうのもできるものであると、だから、そういうふうになっていたっていうことが仮定のひとつだと、もうひとつの仮定は、実はこの原作者っていうのは、決闘をした女房の亭主だったんだっていう、そういう仮定が成り立つ、そして、決闘の一部始終っていうのを、いわば、木の後ろに隠れて、ちゃんと見ていたんだっていうふうに仮定すると、どういうことになるんだっていうようなふうに、まず、作品を崩していくわけです。そこで、太宰治流の作品に、それをつくりかえてしまっているわけです。そういう仮定をしまして、太宰治があらたに設定した場面っていうのは、いくつかあるわけです。
 そのひとつは、いわば、医科大学の女子学生のところに、女房から決闘の手紙がきたと、その直後に、まず男がやってきた。つまり、男っていうのは、太宰治の仮定した原作者なんですけど、やってきたと、いやえらいことになったよと、ばれちゃったよというふうに女子学生に言うと、言うっていう場面を設定するわけです。
 それで、とんでもないことになった。それに対して、女子学生っていうのをどういうふうに設定しているかっていうと、自分はちっともあんたなんかは愛しちゃいなかったんだと、愛しちゃいないのに、こういうことになっちゃって、愛しちゃいないんだけど、自分は貧乏な医学生であって、ちょっとした芸術家と関係して、文学者と関係して、パトロンみたいにしてもらって、自分はちっとも不都合じゃないと、そのくらいの程度で、あなたを少しも好きじゃあなかった、愛しちゃいなかった。それなのに、こういう無茶苦茶な手紙を書かれて、無茶苦茶なことに巻き込まれるっていうのは、非常に馬鹿げたことだっていうふうに、女子学生がいうわけです。あんたみたいな芸術家っていうのは、だいたいろくでもないやつばっかりいて、どうしようもないっていうふうに馬鹿にしているっていう、そういう場面を設定するわけです。
 それから、もうひとつは、どういう場面かっていいますと、女房が町の拳銃屋にいって、そこで拳銃を買って、そこで拳銃の練習をすると、練習をしているところっていうのを、ちゃんと後をくっついていったと、それで、それを見て、凄まじい執念だっていうふうに思った。それでもって、決闘の場面っていうのもやっぱり、後からくっついて、木の陰で見ていたっていう設定をしているわけです。
 その前に、忘れましたけど、女子学生が、女房の亭主、つまり、太宰治が設定している原作者なんですけど、それに言うんですけど、あんたが決闘の場に見に来てくれ、見に来たら、自分は相手を、つまり、あなたの女房を殺さないと、見に来ないなら殺しちゃうっていうふうに、その女子学生がいうわけです。
 亭主のほうは決闘の場面を木陰でみていたと、見ながら、もう少しで、ふたりとも、もうやめてくれって飛び出していいそうになる。それからまた、次の瞬間には、女房のやつは殺されてくれればいいっていうふうに思う、それから、もうひとつのあれは、また別の瞬間には、ふたりとも死んじまえっていうふうに思う。つまり、木の陰で隠れながら、原作者である芸術家は、さまざまな、つまり、ふたりとも助かってくれと思ったり、女房のほうは死んでくれたらいいと思ったり、それから、ふたりとも死んじゃえって思ったり、そういうふうに心が動いていく、そういう場面っていうものを、太宰治があらたに設定しているわけです。
 そこで、太宰治が、芸術家っていうものに対する考え方っていうものがでてくるわけですけど、太宰治が芸術家あるいは文学者っていうもののなかに、例外なくみんな好色漢だっていうこと、それから、例外なく好奇心に富んでいる、それは、非常に特徴なんだ。それは、例外なくそうだっていうふうに言っているわけです。
 この芸術家っていうのも、この原作者っていうのも、御多分にもれるものではないと、特にこの原作者がくだらないっていうわけでもないし、特別いいっていうわけでもないけども、たいへん、芸術家一般として、この原作者のような、卑怯未練な態度で、自分の女房と、自分の女といいますか、そういうものとが、ふたりとも死んじゃうかもしれない、あるいは、そういう場面を平気で、木の陰で隠れて見ているっていうような、そういうことができる、そういう要素っていうのは、芸術家のなかにはあるんだ。芸術家、文学者のなかには、例外なくあるんだっていうような、そういう考え方を指摘しているわけです。

4 太宰治の理想の人間像

 それから、いくつかあるんですけど、もうひとつの非常に特徴的な場面を太宰治は設定しているわけです。それは、どういう場面かっていいますと、決闘が終わって、女房のほうも、原作によれば、監房の中で出される食事を全部食べないで、それで餓死してしまう、そこの餓死の描写っていうのは、まことに見事なわけなんですけども、気がついて、看守が抱えあげてみたら、その女は着物の重量だけの重さしかなかったっていうような、たいへん見事な描写をしているわけですけど。女房も死んでしまった、そして、検事が原作者である女房の夫っていうのを取り調べるっていうような、そういう場面を今度は設定しているわけです。
 その場面で、どういうふうに展開されるかっていうと、あなたは決闘中どこかにいっていたっていうけど、ほんとうはそれを見ていただろうって検事に言われるわけです。それは、ちゃんと調べてわかっていると、あなたがそのときに、どちらが死んでくれればいいと思ったかっていうことを検事に聞かれるわけです。
 原作者である夫が、それに対して、いや、わたしは両方とも生きていてくれればいいって思ったっていうふうに答えるわけです。それに対して検事が、そうでしょう、そうじゃない答え方をしたら、いわば、殺人補助罪ってことになって、あなたをとにかく拘束しなければならないところだったっていうふうに検事が言って、それで、その検事との問答の場面は終わりなんです。
 ところが、そこでまた、太宰の突き崩しっていいますか、作品の解体の仕方っていうのがあるわけです。解体をしているわけです。そういうふうに検事と芸術家の問答っていうのは、そういうふうに行われたと、結局、芸術家っていうのは、ようするに、両方とも生きていてくれればいいと答えたと、検事のほうも、それはそうでしょうっていうふうに、それは当然ですねっていうふうに言って、取り調べを打ち切ってしまった。
 ところが、われわれの中に小さな検事がいて、そのくらいの問答じゃどうも納得しないと、疑いが残るっていうふうに考えると、その疑いによれば、だいたい二人ともペテンじゃないか、芸術家のほうもペテンじゃないか、検事のほうもペテンじゃないか、つまり、大人同士の、日本流にいえば腹芸ってやつで、無事平穏に済ましちゃったっていうようなことじゃないのか、ほんとは、この芸術家は、女房の野郎が死んじゃって、殺されてくれればいいって思ったり、二人とも死んじまったほうがいいと思ったり、かならずしたに違いないっていうふうに、疑い深い、われわれの心の中にある小さな検事はそういうふうに思わざるをえない、そこのところで、太宰治の、いわば、非常に根本的な芸術思想っていうものがあらわれるわけですけども、みなさんもそう思うだろう、つまり、みなさんも小さな疑い深い検事っていうのを自分の心の中にもっていて、ずるい芸術家が自分の愛人のほうも、女房のほうも、二人とも死んじゃったらサッパリするっていうふうに考えたり、女房のほうが殺されてくれたら助かるっていうふうに考えたり、そういうふうに考えたことが絶対にあるに違いないっていうふうに思うだろう。
 しかし、わたし、わたしっていうのは太宰ってことですけど、わたしの考えではそうじゃないんだと、この場合の芸術家の答えたところは、それは真実なんだっていうふうに、考えるべきなんだっていうふうに、太宰治が作品の中に割り込んで、そういうふうに言っているわけです。
 人間の心っていうのは、時々刻々、年々に移り変わっていくものであると、そのなかで確かに、原作者である芸術家っていうやつは、女房のほうが殺されてくれればいいと思ったり、それから両方とも死んじゃったほうがいいっていうふうに思ったり、あるいは、両方とも生きていてくれって思ったことも、確かであるかもしれない。しかし、そういうふうに、年々、刻々に移り変わっていく人間の心っていうものに、真実、つまり、固定した真実をみては、ほんとうはいけないのであって、固定した真実っていうのは、ただひとつしかない、それは、いわば、二人とも助かってくれればいいって思っていた。そういう答え方のなかに、ほんとうの意味の真実があるっていうふうに考えるべきなんだっていうふうに、太宰治は、その作品の中に割り込んで、そういうふうに言っているわけです。
 その太宰治の考え方っていうのは、いわば、中期における太宰治の、人間に対する理想像なのであって、太宰治の中期の作品のなかに、しばしば登場してくる理想的人物のひとつのタイプ、たとえば、「駈込み訴え」の中のキリストとか、「右大臣実朝」の中の実朝とか、そういう人物に、太宰治がいつも仮託しているっていいますか、託している理想像っていうのは、そういう、人間の心のなかにある悪っていうようなもの、それから、背徳っていうようなもの、そういうようなものも全部含めたうえで、つまり、全部承知したうえで、それを飲み込んでしまっている人物っていうのが、太宰治の中期のたいへん理想的な、理想像であるわけです。
 それで、その理想像っていうのは、まさに「女の決闘」の中での、自分の細君と愛人とが決闘をしあって、殺しちゃうっていうような、そういう場面を覗き見ながら、なおかつ、やっぱり、両方とも助かってくれればいいっていうふうに、ほんとうは思ったんだっていう、それが真実なんだっていうふうな、割り込み方のなかに、やはり太宰治が中期に描いた理想像っていうのが込められているわけです。
 それから、もうひとつ、太宰治が鷗外の訳したオイレンベルグの「女の決闘」っていう作品をつくりかえていく過程で、もうひとつ設定した重要な場面があるんです。それは、鷗外の「女の決闘」では、最後に、さっき言いましたように、牧師にあてた手紙っていうことで締めくくられるわけですけど、そこでまた、太宰治が作品の中に、「わたし」っていうことで割り込んできまして、わたしの友人に、やはり優れた牧師がいると、その牧師は、聖書に関する研究もたいへん深いと、優れた牧師であって、しかもあんまり牧師ぶらないで、自分のような無頼の作家のところにも、よく訪ねてきて、それで、普通どおり付き合ってくれると、そういう牧師がいると、その牧師に、オイレンベルグの「女の決闘」の最後の、牧師あての手紙っていうのをみせて、どういうふうに考えるか、つまり、ここでは、牧師っていうのは、たいへん、作中の女性から馬鹿にされているというふうに思えると、あなたはこれを読んでどういうふうに思うかっていうふうに、知り合いの牧師さんに聞いてみた。
 それで、聞いてみたら、牧師さんが答えていうには、女っていうのは、惚れてしまえばそれまでです。つまり、どうすることもできませんっていうふうに、顔を赤らめながら答えて、二人で照れくさそうに顔を見合わせて、苦笑したっていうようなところで、太宰治は「女の決闘」っていう作品を締めくくっているわけです。

5 三角関係の解決の仕方

 太宰治はこういう締めくくり方のなかで、中期のたくさんの非常に安定した作品を生んでいくわけで、歴史小説といえば、短編小説としては、非常に一種の自己悲観っていいますか、自分を悲観する意味の作品っていうのも書いているわけです。
 たとえば、「きりぎりす」っていうような作品がそうなので、「きりぎりす」っていう作品は、みなさんもご承知だと思いますけど、ある作家の女房の眼から作家を描いているっていうような、そういう作品。で、うちの亭主っていうのは、世間からは、たいへん、デーモンっていうものも、真実っていうものも、もっている作家だっていうふうに思われていると、しかし、わたしは、この作家となぜ結婚したかっていうと、この作家は、決して世間でもてはやされたり、それからなんかってことは絶対ない人だ。そういうところが好きで、自分はこの作家と結婚した。ところが、どうだろうか、この人は、世間からは、デーモンもあり、真実もある作家だっていうふうに思われているんだけど、じつは、うちでは台所でなんかしながら、おいとこそうだよなんていう鼻歌みたいのを歌ってあれして、人が来ると尤もらしいことを言っているんだけど、ほんとは、まったくだらしない、なっていないやつだっていうふうに、こんな男が、こんなふうに世間から、もてはやされたりしちゃうってことは、どうも自分には納得できないっていうような、そういうひとりの作家、それはもちろん自分自身ってことなんでしょうけど、太宰治自分自身ってことなんでしょうけど、自分自身を奥さんの眼から描いたっていうような、そういう「きりぎりす」みたいな作品も、そのころに書いています。
 それもまた、たいへんいい作品なんですけど、ここのところで太宰治が問題にしているひとつのあれは、芸術家っていうもののあり方っていうようなことのようです。芸術家、文学者っていうもののあり方っていうようなもののように思われます。
 「女の決闘」のなかでも、こういう狡猾な男はないっていうふうに描きながら、一方では、芸術家っていうやつは、いつでも、冷酷無残なあれっていうのをどこかにもっていて、悪魔っていうものをどこかにもっていて、それは、その虫はどこかで騒いでしまう、それで、普通の人からみると、冷酷無残なようにみえるけど、ほんとは人情深いようにみえる普通の人のほうが、非常に冷酷なのであって、芸術家あるいは文学者っていうものは、かならず、どこかで自分の心を破り続けているんだっていうような、一方でそういう設定の仕方も、救済の仕方っていうのも一方でしているっていうことになります。
 ここいらへんから、今度はまた、ぼくの作品にしてしまいますけども、ぼくはそういうふうにモテたことはないですから、つまり、自分の女房と、好きなあれがいて、それが自分を抜きにして決闘をするっていうような、そういう場面を実感として体験したことはございませんけれども、その逆の場合ならないことはない(会場笑)、ないような気がしています。
 そういう場合に、そういう問題が解き明かされる、つまり、解決する、唯一の解決っていうのは、男の決闘っていうのが行われることが解決なんです。つまり、その場合に、男性っていうのが、自分を、男性のどちらか一方が、自分を無限に低くしていった場合には、それに挟まれたひとりの女性っていうものは、決して、どっちかに自分を決定するっていうことはできないものだっていうふうに、ぼくは思います。
 それは、たいへん、ぼく、いまの若い人はわからないですけど、いまの若い人は非常にあっさりしているよっていうふうに言われていますけど、ぼくはそうは思いません。つまり、そんなはずはないよっていうふうに思っています。
 そういうふうな逆の場合に、もし二人の、既婚であろうと、未婚であろうとかまわないと思いますけど、二人の男性っていうものに、はさまれた女性っていうものが、いずれかに決定してしまうっていうようなことが、結果がどうであれ、それがひとつの解決だっていうようなことがありうるとすれば、その場合にやはり、男性っていうものが、自分を高くしないかぎりは、それの解決っていうのは、つかないっていうことだと思います。男性がそのときに無限に自分を低くしてしまった場合には、絶対に女性っていうのは、どちらかに自分を決するっていうことはできないように、ぼくには思われます。
 そういうことから、逆に推定しまして、「女の決闘」っていう作品の場合に、どういうところで、こういう問題が解決するだろうかって考えた場合に、この場合には、非常に、オクターブが両方の女性とも高くて、決闘だっていうことになるわけですけど、そうじゃあない、つまり、凡俗の、通常ありふれた場合においては、両方の女性がいずれにせよ、間に挟まった一人の男性を、とにかく徹底的に軽蔑できたときに、そうしたときに、ぼくは解決できるように思います。
 つまり、そうでないかぎりは、こういう場合には、解決できないだろうっていうふうに思われます。ですから、こういう場合にもし、たとえば、みなさんが遭遇したとすれば、やっぱり遭遇して、ぼくは男ですから、男のあれでいいますと、自分を徹底的にくだらん男だよっていうふうに、両方の女性に思わせたら、それで成功なんじゃないでしょうか、つまり、解決するんじゃないでしょうか。
 それができないで、自分に、いくらかのプライドみたいのが残ってて、多少はマシな男だっていうふうに自分が思っているかぎりは、おそらく、この場合に、解決するっていうようなことはありえないんじゃないかっていうふうに、ぼくは推測に過ぎないですけど、ぼくにはそういうふうに思われます。

6 太宰治の女性観

 そういう問題っていうのは、非常に世情多くあふれていて、それは決して、ニュースの表面にあらわれたり、それからなんかしないで消えていってしまうっていうことで、まあ、消えていってしまうかぎりなら、なんらかの意味で解決をしたってことになってくるのでしょうけど、しかし、こういう問題が起こった場合に、どこでどう解決するかっていうようなことの、非常にポイントっていうのを考えてみると、やっぱり、男のほうが徹底的に両方の女のほうから軽蔑されるようになったら、それは解決するだろうというふうに思われます。
 それから、女性の側からいえば、女性が二人とも、男っていうのを徹底的に、男そのものっていうことも含めまして、その一人の男っていうのを徹底的に軽蔑できる、どこかで軽蔑できる、それで、どこかで軽蔑した相手に全面的に軽蔑できるっていうふうになったときに、たぶん、解決するのであって、どこかに、その男にマシなところがあるっていうふうに、女性のほうが考えているあいだは、そういう場合には、解決しないのではないかっていうふうに、ぼくには推定されます。
 太宰治っていうものが、なぜ、つまり、太宰治っていうのはここで、自分はいろんな細工をしてあると、ほんとうをいえば、この原作者が誰であるかっていうことを全然わからないようにしてしまうっていうふうに、意図したとさえいえるというふうに作品の中で言っています。
 しかし、そこまでは、やりきれなかったけども、自分は自分の体験とか、いろんな実感とか、そういうものを全部込めて、そこのなかに挿入して、それで、いわば、自分の作品につくりかえちゃっているつもりだと、それをよく読んでくれたら大したものだ、ありがたいっていうふうに、作品の中で、自分自身を登場させて書いているわけです。
 それじゃあ、太宰治の自分の実感あるいは自分の体験っていうのが、そこに込められているっていうようなところは、どこにでているかっていいますと、それは、その作品の中で、こういうたとえ話っていうのがでてくるわけですけど、女性の芸術家っていうのがいると、女性の文学者でもいいですけど、つまり、女流の文学者っていうのがいると、女流の文学者っていうのは、自分は女性であるし、自分が描く、たとえば、女性っていうのは、ほんとに女性なんだっていうふうに考えていると、しかし、ほんとうはそうじゃないのです。それは、男性の作家が描いた女性っていうものを、ほんとは真似しているんだっていうふうにいっています。
 ところで、男性の描いた作品の中で登場せしめる女性っていうのは、しばしばそれは、男性自身が女装したものに過ぎないと、つまり、自分自身の女装した姿に過ぎないんだと、それをまた、女流作家あるいは女流芸術家っていうのは、それを模倣して、自分は女だから、女性っていうのを描くと、ほんとに描けるなんていうふうに考えているけど、そんなのは、全然嘘だっていうふうに言っているわけです。そんなことはないんだと、つまり、それは、男性が描いた女性、つまり、女装した男性っていうのを、またそれを、ほんとうに女性だと思って、女流作家っていうのは、真似しているに過ぎないんだっていう言い方をしています。
 それにひっかけて、この原作者である卑怯なる芸術家は、いままで自分の女房っていうのを馬鹿にしていたと、女房を馬鹿にしていたっていうことは、女性一般を馬鹿にしていたと、それで、女性っていうのはどうしようもないやつだっていうふうに考えて、適当にやっていればいいんだっていうふうに考えていたと、しかし、この事件を、つまり、決闘ですね、決闘をした挙句、餓死してしまうという、そういうあり方をみて、ちょっと衝撃されたと、これほど女性っていうのは、むきになりうるんだってことが、はじめてわかったっていうふうに、原作者がそういう感想をもつっていうふうに書いているわけです。
 で、女性っていうのは、いままで馬鹿にしていたけど、女性的本質っていうものを、そのままむきだしにしたら、それは、芸術にもなにもなりはしないと、つまり、非常に生々しく、直であり、かつ、それはある意味で絶対的であり、どうすることもできないっていうような、そういうものであると、だから、これにはまいるほかはどうしようもないということを、はじめて悟ったっていうふうに、登場する原作者に述懐させているわけです。
 であるから、女性っていうものを描くときに、たとえば、女流作家が、女性を描こうとした場合に、それをストレートに直接的に描いたら、そんなものは作品にもなにもなりはしないのであって、だから、これはやはり、男性が描いた女性っていうものを模倣しながら、女性を描くっていうような描き方、つまり、そういう間接的な媒体をとる以外に、芸術になりっこないんだと、女性的な本質の女性っていうのは、本質自体として描いたならば、芸術にもなにもなりはしないと、真面目、真剣、どうしようもないという、それだけのものであって、どうすることもできないものだってことがわかったっていうふうに、作中に登場させている原作者に述懐させているわけです。

7 20世紀の芸術は解体の芸術

 それじゃあ、太宰治の「女の決闘」に対する細工の仕方っていいましょうか、解体のさせ方っていうものは、どういう意味合いをもつかっていうふうなことになります。太宰治は自分自身でも、作品の中に書いていますけども、また、ある自負を込めて書いていますけど、もしも、原作の「女の決闘」よりも、自分の書いた「女の決闘」のほうが、ようするに、読者諸君にもっと生々しさっていうものを感じさせたとしたらば、それは、わたしの成功だと思うと、そして、20世紀の芸術っていうものは、そういう言葉では、決して述べていませんけども、太宰治のいっていることはそうだと思いますけども、つまり、20世紀の芸術っていうものは、いってみれば、解体の芸術だっていうことなんです。
 いわば、つくられた芸術っていうのが、もしあるとすれば、つくられた芸術に対して、楽屋もみせてしまう、楽屋もみせてしまうし、また、原作者っていいますか、作者自身も登場させてしまう、そういうことによって、いわば構成的に積み重ねられている作品のモチーフっていうものを突き崩してしまうっていう、そういうやり方のなかに、いわば、芸術作品を非常に身近に感じさせる、ひとつの方法的なポイントがあるんだっていうことを、太宰治は「女の決闘」のなかで、意図しているわけですし、また、そういう言葉ではありませんけども、そういう言葉に該当することを、やはり、作品の中で述べています。
 これは、たとえば、様々な前衛的な芸術家っていうものが、そういうことを試みたりしているわけですし、たとえば、そういう高級なところっていいますか、高尚なところをとってこなくたって、テレビやなんかでも時々、そういう意図が登場することがあります。意図の模倣っていうのが登場することがあります。
 みなさんは見ているかどうか知らないけど、テレビで何曜日かに、欽ちゃんのドーンとやってみようか何か知らないけど、見たことがあると思いますけど、それはそういう突き崩しっていうのをやっているわけです。そのなかで、まったく素人に、なんか言ってみろって言わせてみたり、素人を登場させたり、コマーシャルさせたりっていうことで、テレビの舞台あるいはスタジオでしょうか、スタジオの中にいる司会者っていうものと、それから、生のまま、つまり、街に出ていって、生のまんまのかたちで、生のまんまのなんでもない人に、なにか言わせるっていうようなことをつきまぜたりすることによって、そういう番組のドラマ性っていうものを非常に現実に近づけさせようとする、そういうやり方をしているわけです。
 そのやり方っていうので、みなさんのほうでは、つまり、そこのスタジオとか、現場に立ちあわなければ、立ちあえばすぐにわかることですけど、そのなかで、生の素人を使って、突然そこへいって、突然インタビューさせてっていうふうに、画面ではつくられていますけど、ほんとはそれ自体を、いわばプロデューサーなり何なりが、それ自体を作為しているっていうことは、非常に疑いのないことなんです。
 だけれども、作為しているっていうふうに、画面には見せないで、作為じゃなくて、突然そこへ訪問して、突然なにか言わせたっていうふうに見せることによって、いわば、スタジオ内に限定された場面っていうものを一方では拡大させるし、また一方では、非常に生々しく身近に感じさせるっていうような方法っていうのをとっているわけです。
 しかし、それは、あくまでも、それ自体がフィクションであって、決して、突然そこにいって、突然、素人にインタビューしているのではないっていうことは、芸術の構成方法上、非常に明瞭なことなので、ただこれは、そういうふうに見せていて、その作為自体を感じさせないように、打ち消しているんだっていうことは、非常に間違いのないことなので、その方法っていうのは、べつにテレビのプロデューサーの独創でもなんでもないのであって、いわば、20世紀の文学・芸術の方法の中に、そういう方法のひとつが非常に伝統的にひとつありまして、そういう方法を非常に安直に真似しているっていうふうに過ぎないものなんですけど、そういう方法っていうのは、太宰治の「女の決闘」のなかでも、非常によく使われているわけです。
 ここらへんから、もうすでにわからなくなっていますけど、太宰治は原作者の、ヘルベルト・オイレンベルグっていうんですけど、原作者っていうのは、どういう人であるか知らないっていうことを、やはり作品の中で述べています。
 それで、自分の友人の独文学者にそれを訪ねてみたと、その友人も、それは知らないよっていうふうに言った。しかし、調べることだけは調べてくれた、つまり、事件類のたぐいを調べてくれた。そして、とにかく、こういう作品があって、19世紀末のドイツの作家だっていうことだけはわかったと、作品のいくつかはわかったと、並べてくれたと、わたしの、つまり、太宰のもっている知識っていうのは、オイレンベルグに対する知識っていうのは、それだけしかないと、どうもわが国でも翻訳されたりなんかしているものはないように思われる。鷗外がわずかに、「女の決闘」っていう作品、それから、「塔の上の鶏」っていう作品、二つを訳している。それだけであって、あとは全然わからない作家であると、わからない作家であるからこそ、自分がこういうふうに、つまり、デタラメなっていいますか、勝手な仮定を設けてつくりかえるっていいますか、作品を解体してしまうことができたので、わかっている作家だったら大変だったろう。ただ、この作家は、少なくとも当時において、非常に優れた作家だっていうふうに、つまり、第一級の作家だっていうふうに言われていただろうことは、作品自体をみれば、非常に明瞭で、作品の良さからみて、非常にはっきりわかると、確かに、そういうふうに思われた作家に違いないっていうふうに、自分は思うけど、それ以上のことはわからないっていうふうに太宰治は言っております。作品の中で言っているわけです。

8 トーマス・マンと並び称される作家だったオイレンベルグ

 ところで、ヘルベルト・オイレンベルグっていう作家っていうのは、どういう作家かっていうことについて、ぼくも知り合いの外国の文学に堪能な人に聞いて、ドイツ文学辞典の類をめくってもらいまして、それによりますと、オイレンベルグが書いてありますからちょっとあれしますと、オイレンベルグっていう作家は1876年にケルンで、工場主の子どもとして生まれたと、それで、ベルリンとか、ライプチヒとか、ボンなどの大学で、法学士になったと、反自然主義的、新ロマン主義的な傾向の作品がでていると、初期において、「Anna Walewska」、「Ein halber Held」、「Belinde」っていうような作品があると、「Belinde」っていうのはシーラー賞っていうのを1912年に受賞している。
 ところで、その後、要としてわからないというふうになるわけですけど、戦争中は、わりあいに、自由主義的な立場をもって、ナチスの時代に沈黙したと、それで、戦後、1948年にハイネ賞っていうのを受賞しているっていうふうに書かれて、そういうことがわかります。
 それでは、それだけしかわからないかっていうと、鷗外は二つの場所で、オイレンベルグについてふれています。ひとつは、「椋鳥通信」っていう、スバルっていう雑誌が明治42年に発刊されたわけですけど、発刊されて第3号目かなんかの大正3年ですね、終刊号までだいたい3回ぐらいしか休まないで、「椋鳥通信」っていうことで海外の文学事情、とくにそれはドイツ文学なんですけど、事情っていうものの紹介をやっているわけです。
 そのなかで、オイレンベルグに関する記事っていうのは、ぼくはこういうふうに数えてみると38回でてきます。38回でてくるっていうことは、鷗外自身もたいへん評価していたってことを意味しますし、また当時、つまり、19世紀末から20世紀初頭にかけて、つまり、オイレンベルグの初期において、たいへん優秀な作家として存在したっていうことがわかります。ですから、太宰治がいうように、見捨てられた片隅における作家っていうようなものではなかったっていうことがいえます。
 それから、もうひとつ、森鷗外は「水のあなたより」っていう、これも海外の文学事情っていうものを紹介する記事っていうものを、要約っていうのを、『我等』っていう雑誌に、大正2年頃から大正3年にわたって、連載しているわけですけど、そのなかでやっぱり、オイレンベルグについて、3か所にわたってふれています。
 ですから、鷗外のなかで、オイレンベルグっていう作家・戯曲家っていうのは、非常に大きなウェイトを占めていたし、当時のドイツ文学、つまり、19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ文学のなかで、たいへん大きな地位を占めていた作家・戯曲家のひとりであるってことが、当然、推定されます。推定されますっていうのは、ぼく自身が、もとに当たって読んだわけじゃないですから、そういうより仕方がないのですけど、そういうことが推定されると思います。
 じゃあ、そのなかでいくつか、オイレンベルグに関して、鷗外が、だいたいオイレンベルグっていうのはどういう作家っていうことのアウトラインをつかむ意味で、いくつか読んで、鷗外がどういうふうにあれしているかっていうと、「水のあなたより」のなかに、1913年12月の『我等』ですけど、ヘルベルト・オイレンベルグが風刺的自伝を書いたと、誕生日は1876年1月23日であると、両親は生きていると、キョルンって書いてあるけど、いまはケルンっていうんでしょうね、ケルンのギムナジウムで学んだと、21の時、大学に入って、法学士にかわったと、イタリアへたびたび旅行したと、劇場では、フェルディナンド・ヴォ・ドン、それから、ルイゼ・トゥモントのもとで働いたと、4年前から独立して、ライン川に近いカイザーウェルトに住んでいると、脚本「Belinde」を書いて、シルベル賞を受けたと、自伝の中から、これだけの事実を書き抜くっていうふうに書いてあります。これが自伝を書いたときの記事。
 それから、鷗外に、これは「椋鳥通信」のなかですけど、ヴェデキント、ヴェデキントっていうと、日本では、岩波文庫はもちろん、ほかの文庫にもあるかもしれませんけど、「春のめざめ」っていうのは、みなさんがご承知だと思うんですけど、ヴェデキントが作劇、つまり、ドラマトゥルギーです。シャウスピークレンソルアインウォッツァリウム、つまり、作劇術辞典みたいなことでしょうね、そういうものを、ヴェデキントがそういう小冊子を出したと、そのなかでどういうことを言っているかっていうと、鷗外が要約しているわけですけど、演劇は自然主義のために堕落して、パトスがなくなって、韻語を語ることのできなくなったっていうふうに、ヴェデキントは嘆いていると、自己弁護の権利はだいぶ利用せられているっていうふうに書いてありますけど、これは、意味がよくわかりません。また、後進を推薦することをも努力して、ヘルバルト・オイレンベルグ、トーマス・マンを挙げて、流行を追わないのを褒めているというふうに書いています。
 そうすると、ヴェデキントが少し先だとして、オイレンベルグは初期のトーマス・マンなんかと同じように、反自然主義的な当時の傾向のなかでは、トーマス・マンと並んで評価されるほどの評価を受けていた作家・戯曲家だっていうことがいえると思います。
 それから、まあ、これはくだらないといえばくだらないのですけど、「ファン」という文学雑誌があって、その中で、オイレンベルグの、鷗外っていうのはドイツ語ができるからダメなんですよ(会場笑)、ブリーフアイネツウンゼウェルタイトだから、我らの時代の手紙っていうことになるんでしょうけど、オイレンベルグはそれを載せたために、発禁を受けたと、反自然主義文学だし発禁を受けたと、これは、中身のことですけど、青年学生に宛てた父の書状に擬したもので、主に除職のことが云々してあると、すこぶる真面目なものであると、しかし、尋常のなかれなかれし、いまの言葉でいえば、ことなかれしってことでしょうね。なかれなかれしでないのが悪いとみえるというふうに鷗外はいっています。
 それから、ベルリネル・ターゲブラットは、新聞か週刊誌の類だと思います。クリスマスにドイツの諸作家に何をしているかという問いを出したと、その答えの中から抜き出すっていうことで、幾人かを抜き出していますけども、ここでは、オイレンベルグとトーマス・マンのことだけをあれしますと、オイレンベルグはシャッテンベルガー、つまり、影法師ですね、影法師未完っていうのを書いているって答えています。
 それから、トーマス・マンっていうのは、みなさんご存じの「ベニスに死す」っていう、初期のトーマスの作品があるでしょ、それをおれは書いているっていうふうに答えています。
 そうしますと、いま言いましたように、ヴェデキントとか、トーマス・マンとか、ハウプトマンとか、ハウプトマンも「沈鐘」っていうのがあると思います。それから、エルンストとか、エルマンバールとか、そういう人が同時代にいて、同時代に非常に優れた青年作家として、トーマス・マンなんかと並び称せられるっていうような、そういう作家・戯曲家であったっていうふうなことがわかります。

9 なぜ「女性の決闘」には永続性がなかったのか

 それで、もちろん、三十何か所のあれでもって、オイレンベルグのこういう戯曲がどこで上演されたみたいなことをたくさん、そういう記事を鷗外が書いています。初期のシーラー賞っていうのをもらった「Belinde」について、鷗外が書いているあれがあるのですけど、ヘルバルト・オイレンベルグの「Belinde」は効果がなかったと、今度は内容のことです。「Belinde」っていう作品の内容のことですけど、オイデンという、つまり夫なんです、作品の中では、心を恥じて、妻ベリンデを置いて、どっかへ出てしまうと、10年間外国に行っていて、金持ちになって帰ってくると、そうすると、妻はその間にオイデンがもう死んでしまったものと思って、ある青年と婚約してしまって、婚約っていうのは、そのころ約婚っていったのか知りませんけど、約婚って書いてあります。それで、その3人の葛藤っていうのが、「Belinde」っていう作品の主題であるっていうふうに、鷗外は紹介している。
 そのくらいでいいと思いますけど、オイレンベルグっていう作家っていうのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ文学では、マンやなんかと並び称せられるほどの作家だったっていうことが、おおよそ輪郭上いえると思います。それなのにもかかわらず、オイレンベルグだけが、どうして、同時代に活動していたドイツ文学の作家たちっていうのは、大なり小なり、ぼくらみたいな素人にも、だいたいどこかで聞いたことがある名前だっていうようなほど、みんな翻訳せられて、日本でも知られているのに、オイレンベルグだけが、どうして全然知られていないと言っていいくらい知られていないのだろうか、おそらく、専門家に聞いたら、そんなのは、よく知られているんだよっていうふうに言うかもしれませんけど、少なくとも、われわれ素人からみれば、知られていないというより仕方がないのは、どうしてだろうかっていうふうに考えますと、太宰治も「女の決闘」という作品の中で、わたしっていうことで登場して言っているわけですけど、さきほども言ったと思うんですけど、この作家っていうのは、ようするに、構成っていうものが投げやりだっていうことを言ってるんです。
 構成が投げやりだっていうことは、ある種の事典の中に書いてあるんです。つまり、構成が平面的でみたいな言い方で、様式が平面的みたいなかたちで書いてあるんですけど、「女の決闘」っていう作品のなかでいえば、最後の締めくくる部分っていうのを、餓死した女房が、牧師に宛てた手紙を連続的に引用して、それで、バタッと終わらせているわけです。そういうところなんかは、非常に投げやりだっていえば、投げやりなわけです。
 こういう投げやりさっていうのは、たとえば、トーマス・マンの初期の「ベニスに死す」でもいいんですけど、「トーニオ・クレーガー」でもいいんですけど、マンの作品の中なんかには、そういうことはないと思います。
 ただ非常にうまいといえばうまいです。うまさのなかに、通俗性の匂いっていうのを嗅ごうと思えば嗅げないことはないってことはいえると思います。そういう意味合いで、おそらく、同時代的にいえば、当時において、トーマス・マンなんかに並び称せられる作家であったとされていたんだけれど、おそらく、そういう点が、マンなんかにくらべて、いわば、永続性っていうものがなかった点じゃないかなっていうふうに考えることができると思います。

10 「女性の決闘」と通俗性

 太宰治が、なぜ、この作品をつくりかえようっていうふうに感じさせたか、つまり、考えさせたかっていうことを考えてみますと、それは、文体のなかに、そのことがあるということがいえると思うんです。
 たとえば、読んでみましょうか、文体分析っていうのは、様々なやり方っていうのはあるわけですけど、ひとつのやり方っていうのは、一人の作家がここにいて、そして、その作家が作品を表現しているのだっていうふうに考える。そうすると、表現した作品と表現された作品と表現した作家との間には、どういう関係のされ方、関係性、あるいは、どういう距離の取り方がなされているだろうかっていうことが、文体分析の場合の、非常にわかりやすいやり方のひとつなんです。
 みなさんがそういうことをご自分でやってみたかったら、やってみられるといいです。たとえば、一般に、通俗小説、つまり、この小説は通俗小説だよっていうふうに言われている作品っていうのは、どういうふうになっているかっていいますと、これを書いた作家っていうものと、それから、書かれた作品のなかに作家が登場する場合も、それから、作品の主人公が登場する場合もあるわけですけど、その書かれた作家と作品のなかに登場する人物との間っていうものが、間の距離といいましょうか、位置の取り方といいましょうか、それが、非常に曖昧だっていう作品が、一般にみなさんが直感的に、これは通俗小説だっていうふうに言われているものの特徴だっていうことがわかります。
 つまり、通俗小説であるっていうことは、いわば、大衆小説であるっていうこととイコールではありませんよ。それから、いわゆる純文学の作品だって言われているもの自体に、通俗性がないと考えたら、それも違うと思います。そういうふうに一般的にいわれている枠組みからは、その作品の通俗性であるか、そうじゃないかってことは言えないと、ぼくには思われます。
 ですから、それを言うための色々な方法がありますけど、それを確かめるための色々な方法がありますけど、みなさんがある作品を読んで、これは通俗小説だよって直感的に感ずるものがあったら、みなさんがそういうやり方で分析してごらんになると、かならず、これを書いている作家が、こういう位置にいて、こういう登場人物が、こういうふうに言っているなとか、やっているなっていうような、そういう考え方の関係、位置の取り方っていうものを検討してみますと、それが、非常に曖昧だっていうことが、特徴であることがわかります。
 たとえば、いるでしょうが(会場笑)、ようするに、固有名詞を言って、しばしば、ぼくは憎まれるわけですけど、固有名詞をいわなくても、おれは純文学の作家だっていうふうに自分で思っている人の作品で、読んでみたら、通俗小説じゃないかって、あるいは、通俗小説的要素があるじゃないかっていうふうに思える、そういう作品のなかには、たとえば、例を挙げないで(会場笑)、いいますと、たとえば、作中の人物が、ある場所がありますね、ある場所で、ようするに、会話しているわけです。つまり、物語を展開するために必要な会話をしているわけです。そういうところに、突如として、作者っていうふうに決して言わないのですけど、その場所が、どこでもいいです、あるところだとします。例えば、それが金沢なら金沢のどこどこ、登場人物が会って話をしているみたいなのがあるでしょ、そうすると、それは物語の構成に非常に必要な会話をしているわけですけど、そこのところで、突如として、金沢の名物は何々がうまいっていうようなこと、そういう描写がヒュッて入ってくるわけです。
 そのとき、わたしは金沢の名物は何々であって、何々がうまいと思うというふうに、突如それが入ってきたとしたら、わたしはうまいと入ってきたとすれば、ある意味では、それは、ひとつの突き崩しの効果になるわけです。
 だから、そのことが作品の通俗化の要素にはならないのですけど、そういうふうに意識的に入ってくる場合には、明瞭に意識されて、書いている私が、明瞭に作品の構成を自分で突き崩そうとして、意識的に崩そうとして入ってくるわけです。
 ところが、そういうふうに入ってこないで、わたしっていうふうに入ってこないで、そういうふうに、主人公たちが会話をしていると、登場人物が会話をしていると、そこに金沢でうまいものはって、こういうふうに入ってくるわけです。
 そうすると、金沢でうまいものはって言っているのは誰なのかってなるわけです。それは、明瞭にそれを書いている作家でもないわけです。さればといって、登場人物が金沢でうまいものはって言っているわけじゃないわけです。つまり、会話のなかでそう言っているわけじゃない、いわば会話じゃない地の文のなかに突如として、金沢でうまいものがあるっていうふうに入ってくるわけです。
 そうすると、この入り方は、非常に曖昧なわけです。つまり、作者が故意に、緊密に構成している、展開している作品を、いわば、故意に崩してやろうっていうことで、わたしはっていうふうに割り込んでいって、それで、そういうことを言ったら、その作品の構成は、いわば白けてしまうわけです。白けることの効果っていうのは、また別に、芸術的な効果としてあるわけです。
 しかし、そうじゃなくて、曖昧な距離、位相でもって、突然、物語の展開に必要な箇所に、突然、金沢でうまいものはっていうふうに入ってきたとしたら、これを、入り方は通俗性というより以外にないので、この通俗性というものは何かといったら、その入ってくる描写が、どういうものであるかってことは、作者のなかで、意識されないで、つまり、距離が測られていないのにもかかわらず、そういうのが入ってきちゃうってことです。
 これは、ご自分が純文学の作家だって思っていたって、どう考えたって、これは通俗的なものだよっていうふうに考える以外に仕方がないのです。ですから、みなさんが直観的に、この作家は通俗的な作家だよっていうふうに、あるいは、そう思わなくても、純文学だっていうような作品を読んで、なんだこれは、通俗小説と変わらないじゃないかっていうふうに、直感的に思われる、そういう作品に出会われたら、そういう簡単な分析っていいましょうか、やり方をやってごらんになれば、かならず、作家自体の告白でもないし、また、作中人物の、登場人物の会話でも、また描写でもないような、そういう曖昧な描写っていうのが、しばしば混入している、つまり、混じり合っているっていうことがわかると思います。それは、作品を通俗的にさせている要素だっていうことが、非常にはっきりわかると思います。
 そういうことは、みなさんがもしあれだったらば、やってごらんになることは、たいへん作品を単に鑑賞するっていう意味だけじゃなくて、この作家がどうしてダメなのか、どうして、自分ではいいと思っているにもかかわらず、ダメなのかっていうことを知るためには、非常に役に立つと思います。そういうことによって、文学に対する選択眼っていうものは、確かになっていくわけです。
 すべての人々は文学に対して、創造家の立場で、つまり、創作家の立場で、あるいは、批評家の立場で読む必要はないのです。しかしながら、鑑賞者の立場として読むにしても、この作家が、世間の評判にもかかわらず、この作品はちっともいいとは思わないと、なにもない、これは非常に通俗的だっていうふうに感じられることがあるとしたら、それは、自分のほうが間違った読み方をしているのか、あるいは、多くの人が間違った読み方をしているのか、あるいは、批評家ってやつが、多少、いろんな利害関係もあって褒めあげているのか、いろんなことがありますから、そういうのとは別個に、自分がそうだと思ったら、それはそういうふうに分析されてごらんになれば、かならず、これは他人がいくらなにを言ったってダメだよっていう作品のなかには、かならず、そういう曖昧な位相で、つまり、曖昧な位置づけと距離でもって混入してくる描写っていうものが、かならずあるっていうことがわかります。

11 書きかえた理由は文体のなかにある

 たとえば、このオイレンベルグっていう作家・戯曲家について、なにをぼくは論ずる資格っていうのはないのですけれど、太宰治が、なぜ、この作品の背後にこれを崩してやろうという考えで、崩すにはどうすればよいか、これは、この原作者の女房が、ようするに、自分の愛人と決闘をしたんだっていうような設定を、これはできるよっていう、そういう崩し方をできるよっていうふうに、太宰を考えさせた、つまり、感じさせた要素っていうのは、もちろん、文体のなかにあるわけです。まことに優れた作品ですけど、その文体の位相のなかにあるわけです。
 それは、非常に適切な箇所がありますから、そこのところを読んでみますと、これは、さきほど言いましたように、女房が拳銃屋にいって、拳銃屋の主人から鉄砲の撃ち方を教えてくれって言って、いいかげん習って暗くなってやめた、そのあとのところの描写です。描写自体はたいへん見事なものです。
 このくらい稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出かけられますでしょうねと、冗談のように、この男に言ったら、この場合に、適当だろうと女は考えたが、この男っていうのは主人ですね、拳銃屋の。手よりは声のほうがふるいそうなので、震えそうだってことでしょうね、ふるいそうなので、そんなことを言うのは止しにした。そこで金を払って、礼をいって店を出た。例の出来事を発明してからは、まだ少しも眠らなかったので、例の出来事を発明してからっていうのは、いまの言葉でいえば、自分の亭主が、ほかに愛人がいるっていうことを発見してからですよね、いまの言葉でいえば、鷗外の訳ではそうなっています。例の出来事を発明してから、まだ少しも眠らなかったので、女はこれで安心して寝ようと思って、6連発の銃を抱いて床の中へ入ったっていう描写があります。
 ところで、もう1回、最初のところをあれしますと、このくらい稽古したら、そろそろ人間の猟をしに出かけられますでしょうねと、冗談のように、この男に言ったら、この場合に適当だろうと女は考えたが、手よりは声のほうがふるいそうなので、そんなことを言うのは止しにしたっていうような文章があるとするでしょ。描写としては、とても簡潔で見事なわけです。
 ところで、この場合に、「女は考えたが」っていうのを、「私は考えたが」って直してみましょうか、おんなじだっていうことがわかります。このくらい稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出かけられますでしょうねと、冗談のように、この男に言ったら、この場合に適当だろうと私は考えたが、手よりは声のほうがふるいそうなので、そんなことを言うのは止しにした。そこで金を払って礼をいって店を出たというふうに、「女は」っていうのを「私は」に変えても、少しも不思議ではないです。ちっともおかしくないふうに書かれています。
 ということは、ようするに、どういうことかっていいますと、これは、作品を、ある意味で、たいへん生々しくしているわけです。つまり、いつでも、私は、私はっていうふうにいえるような、生々しい位相で描写しているっていうことを意味しているわけです。それは、太宰治をたいへん突きつけたであろうというふうに考えられます。
 しかし、太宰治が、なぜ、それを崩してしまおうっていうふうに考えたかっていう、その考え方の崩し方でもって、作者っていうやつが、自分がこれを見ていたんだっていうような設定をしたら崩せるぞっていうふうに、太宰治が考えた根拠は、いま言ったように、「女は」」っていうところを「私は」と書いても、少しも文章が不思議にならない、つまり、おかしくならないっていう、そういうことが、太宰治にそうさせたっていうふうに思われます。
 太宰治はそういうことについて、おそらくは、意識的な分析をしたわけじゃないでしょうけど、太宰治って人は天才的な作家ですし、とくに短編の作家としては、いわば、世界のどこにもっていっても大丈夫だっていう、そういう作家ですから、そんなことは、もちろん、わかりきっているわけです。勘でもってわかりきっている、直感でわかりきっているわけです。
 これは、そのことを分析的にいってみますと、この作者っていうものは、ほかの作品はともかくも、「女の決闘」っていう作品をみるかぎり、オイレンベルグっていう作者っていうものは、現実の私っていうものと、現実のこの作品を書いている私と、それから、作品の中に登場してくる私、あるいは、作品の中に感情移入してくる私っていうものとを、はっきりと区別できていなかったということを意味していると思います。つまり、そこの距離が曖昧だったということを意味していると思います。
 そのことは、作品自体の描写を生々しくはしていますけど、逆な意味からは、非常に通俗的にしているってことがいえると思います。つまり、この作者っていうものは、「女の決闘」に関するかぎりは、現実の生身の自分、つまり、作品を書いている自分っていうものと、作品の中に登場すべき自分っていうものの距離、あるいは、位相っていうものを区別できていなかったということを意味していると思います。そこの取り方が曖昧であったっていうことを意味していると思います。
 もちろん、この作品の中に、私っていうものは、少しも言葉としても登場してきません。客観描写と女の主観描写みたいなものしかないわけです。しかしながら、いま言いましたように、ここに、女は考えたがっていうことを、私が考えたがというふうに変えても、少しも不思議じゃない、ちっとも変わらないということは、いわば、潜在的にこの作家っていうものが、「女の決闘」っていう作品の中では、少なくとも、現実の生身の自分っていうものと、作品を表現している場合における、その表現の中における自分っていうもの、つまり、それは虚構の自分、フィクションの自分なんですけど、フィクションの自分っていうものの位相っていいますか、位置っていいますか、距離っていいますか、それをうまく測れていない、あるいは、自然に測っていなかった、自覚してはいなかったっていうことを意味していると思います。
 それが、この作品を、ある意味では、非常にリアルで生々しい作品にしているとともに、ある意味では、通俗的だっていうふうにいえば、通俗的だっていうふうにいえる要素だっていうふうに思われます。
 そのことがおそらく、こういうことを言ったら非常に冒涜になりますけど、オイレンベルグっていう作家を、つまり、トーマス・マンなんかと並び称せられるほど、当時、非常に優れた作家だとされていながら、われわれの耳に届くほど、オイレンベルグの作品っていうものが届いていない、おそらくは、理由のひとつではないだろうかっていうふうな、つまり、まことにわがままな推定っていいますか、想像をめぐらすことはできそうに思われます。
 このことは、太宰治をして、主人公っていうやつは、この決闘を、一部始終を見ていたんだっていうふうに設定すれば、この作品は崩せると、崩せばおそらく、この作品をもっと身近なものにできると、身近なものにできるとともに、この作品のもっている生々しさ、それは、ある意味で、太宰は不愉快さっていうものに通ずるっていうふうに言っています。生理的な不快感に通ずるって言っていますけど、つまり、それは、通俗性ってことなんです。通俗性っていうものをはめ直して、いわば、通俗的でない小説に直せるに違いないっていうふうに、太宰治を考えさせた根拠であるように思われます。

12 太宰治「女の決闘」を解体する

 もうすこし、太宰治が突き崩したように、この作者、作品っていうものを突き崩してごらんにいれますと、このオイレンベルグっていう作家っていうものは、どういう作家であるっていうことを、太宰治は友人のドイツ文学者に聞いたというふうにして聞いたけれど、初耳だよ、そんなの知らないよっていうふうに言われて、でも調べてみましょうっていうふうに言われて、こういう作品があるっていうことと、これこれに生まれたっていうことだけはわかるっていうことを聞いたと、それ以上のことは、専門のドイツ文学者でもわからないことであるというふうに太宰治は作品の中でそう言っていますけど、ほんとうは、もっとたくさんのこと、たくさんのことっていうことじゃないですけど、もう少し聞いていたんじゃないかなっていうふうに考えられる節があります。
 それから、もうひとつは、太宰治が、ほんとうは、鷗外全集のなかで、「椋鳥通信」なんていうのを、自分で必死にめくって、かなりな印象を得ていたのではないかなっていうふうに、そういう推測ができるような気がします。
 その根拠として言いたいことは、太宰治はそんなに知られていない作家だっていうふうに言っています。それから、私は無学者であるっていう突き崩し方を、まず、しているわけです。ここに『鷗外全集』がありますと、当時の全集刊のほうが、翻訳遍であると、これは私の持ち物ではないと、私は、蔵書なんていうものはひとつもないんだと、どこかから借りてきたんだっていうふうに、作品の中に書いてあります。借りてきたんだと、だから、あなたたちと同じくらい、読者諸君と同じくらい無学なので、本なんか何も持っちゃいないというふうに言っているわけです。
 そのなかで、だいたい鷗外を非常に自分たちから遠ざけてしまったのは、私は勉強をして貧しきも、大学を卒業してから、大学の時代の講義ノートを10年ばかり後まで大事に抱え込んで、私は研究していますみたいな、そういうやつが、鷗外を非常に読者から遠ざけてしまったんだっていうようなことを言っていますけども、ほんとうは、そうじゃなくて、太宰治は「椋鳥通信」っていうのを読んで、もっと印象をもっていたんじゃないかってことは、なんとなく言えそうな気がするんです。
 というのは、鷗外は、「女の決闘」を訳した44年に「百物語」っていう作品を書いているんです。「百物語」のなかに、ある金持ちの道楽もんの、向島かなんかの寮へいって、百物語の会をやるんだっていうような、それで出かけていったと、依田学海っていう文学者がいまして、それと話している新派の俳優さんが、私も書見などをして、これから勉強しなければいけないみたいな会話をしていたと、それを傍で聞いていて、ちょっと滑稽な感じがしたと、それであるとき歌舞伎を見ていたら、歌舞伎の若集が、台を一生懸命めくりながら、どれ書見でもいたそうかっていうようなことを言って、そういうセリフをいうのをみて、思わず噴き出したっていうようなことが、「百物語」のなかにあるわけです。
 「百物語」っていうのは、「女の決闘」と同じ年に書かれているんです。太宰治はそれを読んでいたことは確実なのであって、太宰治は「女の決闘」のなかで、鷗外先生も、役者が書見などいたそうかっていうのを聞いて噴き出したみたいなことを、どっかで言っているっていうことを作品の中で書いています。ということは、「百物語」を読んでいた、そのときに、一緒に読んだだろうってことが推定されるわけです。
 それからもうひとつは、太宰治の「女の決闘」っていうのは、昭和15年に書かれているわけです。昭和15年っていいますと、みなさんのほうでは、遥か彼方でしょけど、ぼくらのあれでいうと、昭和16年に太平洋戦争っていうのは始まっているわけです。その直前であるわけです。その前に日中戦争っていうのは、始まっているわけです。当時でいう大東亜戦争、いまでいう太平洋戦争っていうのは16年に始まっているわけです。
 オイレンベルグっていう人は、大戦中、リベラリストだっていうことで、沈黙していたってことがあるわけです。太宰治は、この「女の決闘」を書いたときには、オイレンベルグっていう作家は、沈黙していただろうってことはいえるわけです。
 そうすると、太宰治っていう人は、戦争中の過ごし方として、たいへん見事な過ごし方をしたひとりなんですけど、「女の決闘」っていう、この作品を昭和15年の戦争のなかで書くっていうことでもって、あるいは、オイレンベルグっていう作家の傾向についても、それから、いろんなことについても、あるいは、よく知っていて、そういうことを、わりあいに意識していながら、戦争っていうものに対する一種の暗黙のアンチテーゼといいますか、そういうようなものとして、この「女の決闘」という作品を書いたのではないかっていうふうに、推理を極端に働かしますと、そういうふうに言えないことはないわけです。
 そういうことは、太宰治の中期の作品、それから、戦争中の作品っていうものは、まことに見事に、いわば、純文学的な立場っていうものを死守しながら、戦後にいったわけです。たいへん見事な戦争中の過ごし方をしたわけですけども。それは、この中期の作品から、いわば、戦争中の作品にかけて、それが見事にあらわれているわけです。
 現に、ぼくらは、太宰治の「女の決闘」に遭遇したのは、「富嶽百景」っていう、戦争中に出たと思うんですけど、これでもってお目にかかったわけです。はじめてお目にかかったわけですけど、たいへん見事な、それでイカれたっていいますか、好きになったってことなんですけど、そういうことを考えあわせてみますと、やっぱり、「女の決闘」っていう作品の中で、太宰治がやっていることっていうのは、もっと勘ぐっていけば、もっと違う意図っていいましょうか、そういうアンチテーゼといいますか、そういうものを含まれていたのではないだろうか、そうだとすると、オイレンベルグについても、相当多くの印象っていうものを、太宰治自身がもっていて、しかし、作品の中では、それは、あまり知られていない作家であってっていうようなことで、いわば、突き崩し方をやったんじゃないかっていうふうに考えられるわけです。

13 鷗外の史伝小説のモチーフ

 では、今度は、また崩してしまいますけど、森鷗外は、なぜ「女の決闘」っていう作品を明治44年にどうして訳したんだろうかっていうふうなことを考えてみますと、もちろん、さきほどから再三申しているとおり、オイレンベルグっていう作家が、当時において優れた作家としてドイツ文学に大きな位置を占めていた。同時代のドイツ文学の大きな位置を占めていたってことは、鷗外が先刻承知であったっていうこと、そのことが、いわば、この作品を訳したっていうことの非常に大きな部分であるっていうことはいえると思います。
 ところで、もうすこし推理を働かせてみますと、たとえば、「女の決闘」を訳した44年に、鷗外の作品を、翻訳もいくつかありますけど、鷗外の作品をあれしてみますと、みなさんもよく知っているものでは、「雁」なんていう作品というものが、この年に書かれていると思います。それから、これもまた、みなさんがよく知っておられると思いますけど、「灰燼」っていう、灰燼っていうのは、灰に燼っていいますか、「灰燼」っていう作品が、やはり、この年に書かれています。
 この「灰燼」っていう作品が、それこそ、鷗外の作品はやっぱり、ほとんど構成が投げやりで、あまり良いと言えないのですけど、投げやりなものが多くて、良いといえないのですけど、「灰燼」という作品も、非常に投げやりな構成の作品で、途中でもう腰砕けてしまって、勝手なことを言って終わっているってことになってしまっています。ただ、勝手なことを言っている、勝手なことのなかに、非常に重要と思われることを言っていないことはないのです。
 それをちょっとあれしてみます。これは、「灰燼」っていう作品の中で、作者が節蔵っていう名前で登場するわけですけど、節蔵の独白っていいますか、そういうものとして書かれているのです。
 おれは刹那の輝きに幻惑せられもせず、灰色に耽溺しもしないと、おれはあらゆる価値を認めない、いかなる癖好、癖好っていうのは、つまり、いまでいえば、癖ってことだと思います。いかなる癖好も有せない、有せないってことは、有しない、持たないってことだと思います。公平無私であると、おれが何か書いたら、誰の書くものよりも、公平なものを書くから、あるいは、これまでに類のないホモジェニな、つまり、均質なってことだと思います。な、文章ができるだろう。そして、世間のやつは、たぶん、冷酷な文学だというだろうっていう感想を、「灰燼」の中で、節蔵っていうのは、そういうところがあります。
 また、もうひとつあれしますと、英書が少しずつ楽に読めるようになったので、あるとき、ポーのものを読むと、自分のゆくべき道をこの案内者が示してくれるようでもあり、また、自分の企ての無謀で危険なのを、この先進者が高いところから見て、笑っているようでもあったっていう箇所が、その節蔵の感想として、作品の中に出てきます。
 つまり、おれが何か書いたら、誰が書くものよりも公平なものを書くから、あるいは、これまでに類のない均質な文書ができるだろうと、そして、世間のやつは、たぶん、冷酷な文学だというだろうっていうふうな感想を、「灰燼」の中で節蔵という主人公が述べているわけです。
 節蔵という主人公は、すなわち、鷗外自分自身であるというふうに設定してもいいほど、たいへん、構成的にも投げやりな作品なんです。ただ、言っていることは、たいへん意味深いことを言っているように思われます。といいますのは、「女の決闘」を訳した、44年ですけど、45年から、いわば、鷗外の晩年の、鷗外の文学の主流である歴史小説、あるいは、史伝小説っていうものを45年から書き始めるわけです。
 そのきっかけとなったのは、明治45年に、明治天皇が死んで、それで、みなさんはもう知らないでしょうけど、歴史上の人物としてしかあれでしょうけど、乃木希典って将軍が、ようは殉死っていいますか、それに等しい死に方で死ぬわけです。
 この死に方っていうのは、鷗外にたいへんな衝撃を与えるわけです。これは、漱石にも衝撃を与え、漱石は「こころ」っていう作品の中で、そのことを、いわば、明治はここで終わったんだっていう言い方で、「こころ」のなかの先生にそういうことを言わせています。それは衝撃を与えたわけです。
 鷗外は、その衝撃をもとにしてっていいますか、衝撃を受けて、その日のうちにと思いますけど、「興津弥五右衛門の遺書」っていう作品、つまり、鷗外の史伝小説の、いわば発端をなす作品なんですけど、そういう作品を書いています。
 この作品は、興津弥五右衛門っていう人物は細川藩に実在した人物で、この人物が、自害して切腹して死んだっていう事実っていうのはあるわけですけど、その遺書そのものは、いわば、鷗外のフィクションであるわけです。
 フィクションでありますけど、フィクションを構成しているもとっていうのは、種本っていうのは、『翁草』とか、その『三代実録』でしょうか、いまは『国史大系』っていうのがあるわけですけど、そのなかにある、いくつかの記載なんですけど、そういうところから、できるだけの事実を拾いあげながら、フィクションとしての遺書、短い遺書をつくっているわけです。
 それで、その遺書っていうのは何かっていうと、興津弥五右衛門っていう細川藩の藩士がいて、その藩士が同僚と一緒に殿様のあれを受けて、どこかで、たいへん名木っていいますか、名香木っていいますか、匂いのいい香木をどこかで買うっていうあれで、それで、伊達藩でもまた、それが欲しくて、両方で競り合うので、同僚とケンカになって、同僚は、こんなものはどうせ道楽、つまり、第二義的なものであって、第一義的なものは武道であると、武士の道であると、それにくらべるとこれは、第二義的なものであるから、こういうふうに値段を競り上げて、つりあげてまで、これを無理に細川藩で買い取る必要はないんじゃないかというふうなことをいうのに対して、弥五右衛門はそれに反対して、やはり、風流の道もまた、細川藩の伝統なのであって、だから、そのために、使命を受けたからには、どんなに高くても、伊達藩にとられないで、自分たちが買い取って、それを持っていくっていうのが、忠義である、主君に対して忠節なゆえんであるっていうふうに言って、喧嘩口論になって、それならば、おまえの武士道っていうのは、どの程度のものかみたいものだっていうふうに、同僚から切りつけられて、それをこういうところの花瓶かなんかに受け止めて、その次の瞬間に相手を切ってしまうわけです。
 それで、そのときに切ってしまった自分は、自殺しようっていうふうに、自分も自殺しようと思うのですけど、香木を買ったのを届けなければっていうので行って、殿様に報告すると、その一部始終をあれして、自分を、不幸を呪ってくれっていうわけです。
 殿様のほうは、いや、おまえの考え方のほうが、あっぱれであるっていうことで、そんなことはいいっていうふうに、切腹しなくてもいいっていうことになって生き延びると、それだけれど、いつでもそのことが、同僚をそういうことで殺してしまったっていうことが、いつでも引っかかっているわけです。それでもって、殿様が死んだときに、自分も死んでしまうっていう、そのときの遺書っていうことになるわけです。
 これは、乃木希典っていう将軍は戦争で、そういう意味の失敗っていうのはしているわけです。たとえば、明治10年の西南戦争ですけど、そのときに軍旗を奪われたと、西郷軍に奪われたとか、失敗しているんだけどなだめられて、生き延びているっていうような、そういう負い目っていうのが、いつでもありまして、それで、明治天皇っていうのが死んだときに、自分も自殺してしまうわけです。
 だから、それに衝撃を受けて、鷗外は乃木希典の葬儀に参加するわけです。それで、衝撃を受けて、その日のうちに、その作品を書き始める。それで、その作品が、鷗外の晩年の史伝小説っていうものの、いわば、発端になっていくわけです。そのあとで、次の年だと思いますけど、『阿部一族』みたいな作品を書くわけです。それから、『護持院原の敵討』みたいな作品を書いていくわけです。それから、『大塩平八郎』みたいなのを書いていくっていうような、鷗外の史伝小説っていうのは、そこから始まるといっていいくらいなんです。
 そうすると、鷗外の史伝小説の、いわば、根本的なモチーフになっているのは、なにかっていいましたら、いま読みましたように、おれは、刹那の輝きに幻惑されもしないと、灰色に、つまり、いまの言葉でいえば、灰色のニヒリズムに耽溺するのでもないと、おれはあらゆる価値を認めないと、どんな癖好、つまり、好みっていうのも持っていないと、公平無私であるっていうふうに言っているわけです。おれが何か書いたら、誰の書くものよりも公平なものを書くから、あるいは、これまでに類のないホモジェニな、つまり、均質なということだと思います、文章ができるだろうと、世間のやつは冷酷な文学というだろうというふうに、こう「灰燼」の中で述べている。
 そのことは、いわば、その後に展開される鷗外晩年の史伝小説の根本を貫くモチーフだっていうふうに言ってもよろしいわけです。たしかに、鷗外の史伝小説は、たいへん冷静な記録っていうものと、それから、フィクションっていうものとが、紙一重で混合しているものが大部分を占めていて、たいへん冷酷な文学だっていうふうにいえば言えるわけです。

14 なぜ鷗外は「女の決闘」を訳したのか

 しかし、もちろん、いうまでもないことですけど、公平無私だっていうことは、ありえないのです。つまり、公平無私であるわけがありえないのです。つまり、公平無私でありえないってことは、鷗外が、かならずしも、主観的なイデオロギーで、自分の考え方で、史伝的な事実を曲げているってことではないのです。
 つまり、そういう意味合いでは、鷗外は、かなり冷静に史伝小説を書いていっているわけですけど、そういう意味合いじゃなくて、文学っていうものは、すでに表現ですから、表現されたときに、場面を選択する、あるいは、場面、場面をどうつなげるかってことのなかに、すでに、作者のモチーフと作者の思想的立場っていうものは、もちろん、潜在的にかならず出てくるものだっていうふうに考えることができます。
 ですから、鷗外は、自分で自負していたほど、公正無私なものではありません。公正無私でないことを実証したいと思えば、さきほど申し上げたように、みなさんがやってごらんになれば、すぐにわかります。たとえば、『大塩平八郎』なんていう作品をみますと、大塩平八郎が当時の大坂の天満与力であって、学者でもあるわけですけど、天満与力であって、当時の学生の横暴さと、それから、民衆の疲弊、飢餓と苦しみっていうものを見かねて決起するわけです。決起して、それで、壊滅するまでの過程っていうものを、たいへん冷静に描いているわけです。
 しかしながら、これでもし、みなさんが、中身は非常に公正無私、冷静に書かれているように思われますけど、みなさんがさきほど言いましたような、文体分析をなさってごらんになれば、すぐに、これが公正無私でないってことがわかります。つまり、いってみれば、これは、読む人の主観にもよりましょうけど、秩序っていうものに抗する人間っていうものが、どんなに圧迫感と、それから、どんなに惨めさっていうものを噛みしめながら、しかしながら、それをまた、跳ね返すことができるならば、それを跳ね返しながら、そして、そういうふうに抗していって、そして、壊滅していくものであるかってことが、非常によく描かれています。
 つまり、そのなんともいえない、秩序に抗する者の持つ特有の、つまり、抗する者が、誰でも持たなければならない、内心の不安とか、危惧とか、それから、しかし、それを跳ね返そうとする意志とか、それから、ある意味では、誰からも受け入れられないっていう、そういう惨めさとか、そういうものが、どうしたって感ぜざるをえないよっていうふうに、そういうものが感じられます。
 つまり、これはまた、ぼくが読むから、そういうふうに読めるので、あるいは、そうじゃないように読める人もいるのかもしれませんけども、しかし、そういうことは、非常に鷗外は冷静に書いているにもかかわらず、あるいは、冷静に書いたからこそ、逆にそういうものが非常によく感じられるように書かれています。
 これは、たいへん、いろいろな意味で刺激してくれる要素がある、たいへん良い作品だと思いますけど、それは、いわば、非常に冷酷、冷静に大塩平八郎なら大塩平八郎の大衆的な基盤っていうものがなにもないところ、ただ非常に、暴圧っていうものと、それから、飢餓っていうものとがある。そういうことのなかで、いわば、激情にかられて、村々に檄を飛ばして、自分が思ったほどの兵力が集まらない。しかし、それにもかかわらず、決起するほかはないってことで決起して、そして、壊滅して、最後に追い詰められて、知人の家の一間に火を放つ、それで、自分が自害して死んじゃう、そこまで、まことに冷静、あるいは、鷗外の言い方でいえば、冷酷の文学だといわれるだろうことに、まことに冷酷無残に描かれていますけど、それは、決して、公正無私なものではありえないことは、文体をそういう意味合いで、現実の作者っていうものと、それから、書かれている登場人物、それから、書かれている描写っていうものとの、距離の間合いの取り方っていうものを、よく分析してご覧になれば、これは非常によくわかると思います。
 しかし、これが、単なるいわば、ジャーナリストが書く記録文学でもなければ、通俗小説でもないってこと、それだけは、非常にはっきりとわかります。それは、そういう意味では見事な作品だっていうふうにいえると思います。
 そういういわば、史伝小説への枕っていいますか、つまり、史伝小説への根本的モチーフっていうものを鷗外は「灰燼」の中で述べていますけど、それは、もう少し、推理を働かせますと、それは、鷗外が、いわば「女の決闘」っていうオイレンベルグの作品を見たところで、読んだときに、あるいは、翻訳したときに、あるいは、鷗外がそのモチーフをつかんだのでは、つまり、晩年、史伝小説のモチーフをそこでつかんだのではないだろうかっていうふうな推理を働かせることができるように思われます。
 これは、あくまでも、勝手な推理でして、ぼくは厳密な研究者では決してありませんから、厳密な研究者からみますと、もちろん、いろんな反証もぶつけられるでしょうし、あるいは、そういうことは、立証せられている事実があるのかもしれません。しかし、ぼくは、それを存知しません。つまり、知ってもいませんし、この際は、これを問題にする必要もないと思います。
 ただ、ぼくが、「女の決闘」っていう太宰治の作品、その原作となっている鷗外の「女の決闘」っていう翻訳作品、そして、それが明治44年に書かれているってこと、そして、明治45年から、鷗外が最後の、つまり、自分の主要な仕事である史伝小説を書くに至るっていうような、そういう直前の翻訳作品として、「女の決闘」という作品は翻訳しつつ、鷗外にいわば、冷酷あるいは冷静の文学っていうものは、どういう文学なのかっていうことを、いわば、「女の決闘」という作品を訳しながら、その作品から学んだのではないだろうかっていうような推測がくだせるような気がいたします。つまり、推測をしてもよろしいような気がします。ただ、繰り返し申しますが、これは、私の勝手な推測にしか過ぎないのです。
 鷗外が、なぜ、晩年に冷酷の文学、冷静の文学、そういう文学っていうところにいかなければならなかったかっていうことについては、様々なモチーフが考えられると思います。すでに、鷗外はその数年前に軍医総監になっていまして、いわば、陸軍の高官になっていまして、そこでは、あんまり、小説らしい小説っていうものを書きようが、つまり、社会地位上のいろんなことから、制約から、書きようがなかった。しかし、鷗外のなかに、いわば、文学者としての心っていうのは抜けていない、つまり、ことなかれ主義でないっていうような、そういう文学者としての根本的なモチーフっていうのは、決して衰えていなくて、それは、どこに託するかっていったらば、非常に冷静な、一見すると、記録歴史小説のように思える、そういうもののなかに、自分の文学の心っていうものを託すより以外になかったっていうようなモチーフもひとつ考えられるでしょう。
 また、鷗外の個人的な家庭生活のなかでの、様々な葛藤っていうようなもののなかで、そういう史伝小説へ赴いたモチーフっていうのを見つけ出すこともできるだろうっていうふうにも考えられますし、もともと、鷗外の文学作品のなかには、いわば、傍観的というふうに、自ら言っている、いわば、一種の冷静さ、事件記者的冷静さっていうものが、いつでも支配しているといえば、支配していますから、それがいわば、必然的な道行として、晩年の史伝小説に赴かせたってことも、もちろん、いえると思います。
 また、さまざまな動因っていうのも考えることができると思いますけども、ここで推理としてはっきり言えることは、たとえば、オイレンベルグの「女の決闘」っていう作品を訳しながら、そういう史伝小説へのヒント、あるいは、晩年の自分の文学を全うする方法のヒントっていうものを得たのではないかっていう推理が働かせうるのではないかっていうふうに考えることができると思います。
 もう少し工夫して、これまた、ぼくは、自分の批評にしてしまいたいっていうふうなこともありますけど、もはや、これだけ申し上げれば、たいてい言いたいことは言えたのではないかって気もいたしますし、時間的にいいますと、30分過ぎていますので、これで終わらせていただきます。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま