1 司会

2 観念の世界を3つに分けて考える

 いま、ご紹介にあずかりました吉本です。うまくお話ができるかどうかわからないところがありますけども、フロイトについては、前から関心をもって、いろいろ読んでみたこともありますし、ユングについても書いてみたことがありますので、そういうことで、今日はお招きにあずかったのだと思います。
 さきほどお聞きしたんですけど、みなさんのほうは、フロイトを目指したって人が主ではないか、ぼくのほうがもちろん素人ですし、教えていただくことも多いと思いますけど、ぼくなりにお話するみたいに、で、ぼくなんかの、人間の基層心理というものを含めて、心理あるいは観念というもののあらわし方である、たとえば、文学とか、芸術とか、その他の分野も含めて、人間の観念の働きがもっている世界っていうのを、ぼくなんかは、だいたい3つに分けて考えるわけです。
 そのひとつは、どういうことかといいますと、自分の自分に対する関係の世界、それは、ふつうの言葉でいえば、個人の、つまり、自分自身の内面の世界だったら内面の世界の表現になっている。そういう世界というものがひとつ。
 それから、もうひとつは、自分と他の一人との関係の世界、これは広い意味でいえば、セックス、性の世界だっていうような、つまり、性の世界といいますと、男と女の世界ということに通常はなっているわけですけど、そういうことじゃなくて、性の世界っていうのは、男と男であっても。ようするに、一人の人間が、自分以外の一人の人間と関係する世界、それが性の世界、セックスの世界だっていうような、そういう世界だっていうふうに考えます。だから、一人の人間と他の一人の人間のあいだに、もし、なんらかの意味の交流があるとすれば、それも広い意味で、性の世界に含まれるっていうことがいうことができると思います。

3 リビドーと集合的無意識が意味すること

 たとえば、今日のあれになっています、フロイトっていうのは、一人の人間と他の一人との関係の世界っていうものを、いわば、人間の心理とか、心の世界、つまり、そういう世界を司る根本的なものだっていうふうに考えたのが、フロイトだっていうふうに、ぼくなんかはそういうふうに理解します。
 つまり、フロイト自身は、かならずしも、そう考えていないので、ひとりの人間の中にリビドーっていうものが根源的にあって、それが、あらゆる人間の精神的な振るまいっていうのを決定しているだろうっていうふうに考えていると思いますけど、非常に厳密にいいますと、フロイトは、そういうリビドーっていう概念でもって、ほんとうは、ひとりの人間の心の世界ではなくて、一人の人間が他の一人の人間と関係した時に、あらわれてくる心の世界っていうものを、人間にとって基本的なものだっていうふうに考えていると、そう理解されたほうがよろしいかっていうふうに思います。
 それから、もうひとつの理解の基軸っていうものは、ひとりの人間が、共同、社会っていう言葉でもいいんですけど、国家っていう言葉でもなんでもいいんですけど、つまり、ひとりの人間が共同の世界で、どういうふうに振るまうか、あるいは、どういうふうな心の持ち方をもつかっていう、そういうひとつの軸を考えるとよろしいんじゃないかっていうふうに思います。
 たとえば、いまのように言ってみますと、ユングが集合的無意識っていうふうな概念でいっているところのものは、実は、もちろん、ユングはひとりの個人の心の世界を決定するときに、個人的無意識のもっと底のほうに、集合的無意識っていうのがあって、それが、ひとりの人間の振るまいを決定しているだろうっていうふうに考えているところが非常に特徴的だって思います。
 しかし、ほんとうは、ユングが集合的無意識っていうような概念で言っている世界は、ひとりの人間が、共同の世界の中に置かれたときの関係の仕方、そのことをユングは集合的無意識の世界っていうふうに考えていると思います。
 ユングの場合には、集合的無意識っていうのは、個人的な無意識の世界のもっと底のほうにあるっていうのは、非常に特徴的な考え方で、それを、まったく個人の中に帰せしめていますけど、本来的にいえば、いま言いましたように、個人の心の世界が、共同の心の世界、共同の観念の世界と関係する仕方っていうもの、それが、ユングが集合的無意識っていうふうに言っている世界っていうものに当たるだろうっていうふうに考えます。
 そうしますと、その3つの、人間の心が関与していく、個人的に、あるいは、共同的に、あるいは、性的にっていいましょうか、つまり、男女的にですね、そういうふうに現れてくる心の世界っていう、全部の人間の観念の世界っていうもの、いま言いました、3つの基軸っていうものを考えに入れまして、そして、それぞれの心の世界っていうものは、次元の違うものとして存在しているっていうふうに考えれば、人間の観念の世界っていうのは、非常に、観念の世界で、つまり、心の世界が現れる全領域っていうもの、そういうふうに理解すれば、理解できるんじゃないか、つまり、そういうふうに理解すべきじゃなかろうかっていう考え方っていうのは、ぼくなんかの根本にあるわけです。

4 日本神話におけるリビドーの世界

 たとえば、フロイトがリビドーっていうことでいっている世界は、いま言いましたように、一人の人間と他の一人の人間と関係する世界っていうふうに理解いたしますと、それは、第一次的には、男女の問題としても、もちろん現れます。男女の問題として現れるわけですけど、つまり、性の問題として現れるわけですけど、性の問題は、いわば、現実的には、いわゆる家族っていうことのなかで、非常に永続的な意味あいでは現れてくる。これが、人間の歴史の中で、非常に原則的に現れてくる現れ方だと思います。
 そうすると、フロイトは、これはかならずしも、普遍性がないと思いますけど、フロイトは家族における家族のあるメンバーと、それから、同じ家族内の他のメンバーとの関係の世界、つまり、性の世界です。その性の世界を理解するのに、もちろん、夫婦っていうものが核にあるわけですけど、フロイトが非常に重くみたのは、いわば、父親と、それから、娘との関係っていうものが、いわば世代的にいいますと、二世代を含めて考えますと、非常に大きな人間の心の世界を決定する要因になるという考え方。
 たとえば、もうひとつは、母親と息子の性的な関係、ぼくの言葉でいえば性的な関係です。つまり、一人の人間と他の一人との関係の世界ってことですけど、母親と息子の関係っていうものが、つまり、幼児からの関係の仕方っていうようなものが、それが、二世代を含めて、人間の心の世界っていうのを考えた場合に、非常に大きな要因として、人間の心の世界の発達、発展というものを決定しているだろうというふうに、フロイトは考えていたっていうふうに思います。
 ところで、この考え方っていうものに、普遍性があるかっていうふうになりますと、たいへん問題があるというふうに思われるのは、例えば、日本なんかでは、ぼくが、日本人っていうものを考えて、心の世界ってものを決定している要因を、フロイト流に家族っていうようなところにもっていきますと、兄弟と姉妹の関係の仕方、つまり、兄と妹とか、姉と弟とか、そういう関係の仕方、つまり、同世代的っていいましょうか、そういう関係の仕方がどうあったかっていうことが、相当大きな要因として、日本人っていうものの心の世界の基層っていうものを決定しているだろうっていうふうに、ぼくには考えられます。
 そこのところに、もちろん、フロイト流にいう父と子の関係、母と息子の関係っていうようなものが、基層を覆うかたちで、重なるかたちで、もちろん存在するわけですけど。ぼくは、ヨーロッパのことはわかりませんけど、日本人の場合には、兄弟・姉妹っていうような、そこの関係の仕方っていうものが大きな基層にあって、そして、父と娘、それから、母と息子っていうような、そういう関係の仕方っていうのは、少なくとも大きな要因として、フロイト流にいえば考えられるだろうって思われます。
 そうすると、これをもう少し、フロイト流の考え方をもうすこし引き伸ばしていきまして、つまり、ユングが集合的無意識の世界っていうふうに言っているところまで、それを拡張してみますと、そうすると、神話の世界があるわけです。
 日本の神話っていうのは、いわば複合型の神話ですけど、日本の神話で、やっぱり基本的な基層を決定してるのは、東南アジアとか、つまり、日本からいうと南方ですけど、東南アジアとか、南中国とか、そういうところにあるわけです。それから、南の島とか、そういうところに、一帯に流布されている洪水神話っていうのがあるわけですけど。つまり、あるときに洪水があって、それで、残された者は、兄と妹だった。残されたのは、つまり、アダムとイブみたいなんですけど、兄と妹だった。あるいは、姉と弟だったでもいいんです。つまり、きょうだいだったっていうことです。異性のきょうだいだった。その異性のきょうだいが残されて、ぜんぶ流されてしまう。それで、異性のきょうだいが結婚して、だんだん人間っていうものができてきたんだっていう、つまり、洪水神話っていうのが、日本と南中国とか、マレーとか、南方でもいいですけど、そういうほうに、一帯に流布されている洪水神話っていうのがあるんですけど。
 日本の神話は、例えば、アマテラスとスサノオっていうようなかたちで、姉弟が、つまり、姉と弟が、はじめ、おりまして、そして、姉と弟を軸にして、姉は天上を支配し、そして、弟は地上を支配するっていうような、そういうことが、日本の神話の非常に大きな核心になっているわけですけど。
 そういう神話的世界、あるいは、ユングのいう集合的無意識の世界っていうふうに拡張していっても、日本なんかの神話を決定している基層にあるのは、そういう神話なわけです。そのことは、非常に、いま言いました、家族内における兄弟・姉妹の関係っていうものを、相当大きな要因としてみなければ、決定されないことがあるということと関連するだろうっていうふうに思います。

5 家族から国家への発展の仕方

 家族っていうのは、どういうふうにして、国家とか、つまり、国とか、共同体とか、どういうふうにして成立、発展していくのかって考えてみますと、家族っていうのは、いま申しましたとおり、一人の人間と、それから、他の一人の人間が関係する世界、つまり、性の世界っていうものを軸にして、家族っていうのは形成されていっているわけです。
 実際の性的行為っていうものがあるなしにかかわらず、性っていうものを広義に解すれば、そういうものは家族集団であるわけですけど、その家族集団がどのようにして、国とか、国家というところにいくかといいますと、それは、性の世界に禁、つまり、禁止とか、禁忌とかって言葉でいいますけど、禁忌というものが導き出されたとき、それは、親族っていう概念を展開していくわけです。
 これは、みなさんのほうでは、そういう考え方はなじまないかもしれないですけど、つまり、家族のなかだって、性的な禁忌、タブーっていうのはあるじゃないかってお考えかもしれないけど、それは、広義な意味で性というものを理解した場合には、そうではないので、家族のなかには性的な禁忌っていうのはないのです。
 つまり、性行為的、あるいは、性交的禁忌っていうのは、もちろん、兄妹と姉妹のあいだでもあるわけですけど。それは、あくまでも、性というものを性行為とか、性交っていうふうに限定した場合に、そういうふうに狭く限定した場合にいえることであって、性っていうものを、生理的であり、かつ、観念的である、つまり、心の世界でもあるっていうふうに、広義に理解した場合には、家族のなかには、性的な禁忌、タブーっていうのはないっていうことがわかります。
 この性的な禁忌のない家族っていうものに、タブーっていうものを導き入れますと、タブーっていうことを導き入れられることによって初めて、親族の展開っていうものが行われるわけです。
 親族っていうのは何かっていいますと、例えば、父親の兄弟と、つまり、叔父と姪とか、叔母と甥とか、そういうものの間では、性的なあれはあってはならないみたいな、そういう禁忌っていうものが、これはわりあいに固有にありますけど、そういう禁忌っていうものがありますと、家族と別の家族というものを結びつける絆っていうのがでてくるわけです。
 そうすると、ひとつの家族と、それから、別の無関係な家族っていうものが、性的な関係を保持しながら、しかも性的な関係のあるところに、いわば、禁忌っていうもの、タブーっていうものを入れていきますと、これは親族っていう概念に展開していくことがわかります。親族の概念っていうものは、少なくとも、社会学でいう血縁共同体っていう概念です。つまり、血縁共同体っていう概念までは、親族っていう概念を展開させることによって理解することができます。
 血縁共同体、あるいは、これは、地域的に経済的理由で離れた場合、地域的に離れた場合に、血縁共同体っていうは消えてしまうわけです。つまり、経済的共同体が強くなると、血縁っていうのは一塊のところに展開できない、地域で展開するようになってくると、血縁っていうのが嫌われて、むしろ地縁っていうのが、非常に大きな要因になって、地縁共同体といわれているものができるわけですけど。血縁共同体または地縁の共同体というものは、まだその段階では国家ではない。つまり、国っていうものにはなりえないわけです。
 国っていうものが成り立ちうるためには、なんらかの意味で、性的な関係を、家族から数家族が結ばれた親族っていうような概念で、ドロドロに大きく展開されていくもの、つまり、大親族の体系っていうものを考えていっても、その段階では、少なくとも、地域的に一塊であろうと、離れていようと、それは国っていうもの、国家っていうもの、そういうものには到達できないってことがわかります。
 それで、国っていうものに到達するためには、どうしても今度は、性っていう概念、つまり、一人の人間と他の一人の人間との関係の世界っていう、そういう次元をどうしても離脱することが必要です。つまり、性の世界っていうものをどんなに拡張していっても、国っていうものにはならないってことです。
 だから、そこでは、性の観念っていいますか、つまり、一人の人間と他の一人の人間とが決定する関係の世界っていうものの限界っていうものは、いわば、新族の共同体っていうものをもって極限に達します。つまり、そこで壁にぶつかります。
 そして、それが国っていう概念になっていくためには、どうしても、性の関係っていうのは、打ち棄てられなければならないということです。つまり、逆にいえば、性という関係の世界から展開された、そういう共同体っていうものと、まったく違った次元に根ざされるものが、国家とか、国っていうのが、そういう概念としてしか生み出されないということ、ですから、ここでは、性という概念は通用しません。つまり、一人の人間と一人の他の人間との関係の世界というものは通用しなくなります。
 これは、言われ方はいろいろあって、戦争中なんかは、天皇と大衆とは、親と子のようなものだみたいなことを、そういうふうに比喩としての言われ方はありますけど、そんなことはありえないのであって、親と子とか、恋人同士とか、あるいは、親族であるとか、そういう概念をいくら広げていっても、国というものにはならないということです。

6 国家=共同性の原型としての3人の世界

 だから、国っていう概念を決定するのは、これは、いわば大勢っていうことです。大勢の中のひとりという関係に人間が置かれたら、それはいわば、国っていう概念です。ですから、この原型は3人の関係っていうことで決定することができます。つまり、最小限3人の世界っていうのを、3人が関係する世界っていうもので、いわば、国っていうものの原型っていうのを思い描くことができます。ある程度の原型を思い描けます。
 つまり、3人がいる場合には、3人の関係する世界っていった場合には、これは、いわば、一人の人間と他の一人の人間っていうものが決定する世界とは、まったく違う様相を構成するっていうことは、これは、たとえば、みなさんが、恋愛関係の三角関係っていうのはありますけど、三角関係っていうようなことを体験されたら、すぐにわかるわけです。ここで絶対の矛盾に陥るわけです。
 そのなかでは、かならず、もしそれが極限まで突き詰められていけば、かならず、そのうちのひとりが脱落するに決まっているのです。それじゃなければ、3人が3人とも壊れてしまう、それ以外には、絶対に、ギリギリまで突き詰めた場合に、解決する方法はないわけです。かならず、3人が恋愛関係になった場合には、かならず一人が排除されるっていう方向に、詰めていけばそうなるに決まっているわけです。そうじゃなければ、3人が3人とも解体してしまう、つまり、参ってしまうっていうような、解き離れてしまう、それ以外の関係する方法はないっていうことは、みなさんが、体験上、よくおわかりだろうというふうに、ぼくは考えます。
 なぜ、そうかといいますと、恋愛みたいな世界は、いま言いましたように、性の世界ですから、つまり、一人の人間と他の一人の人間との関係の世界、つまり、1対1の世界ですから、それを本質としますから、そんなところに3人いたら、かならず、ひとりは排除されるようになるっていうのは、当たり前のことなので、3人の世界っていうことは、いわば、共同性っていうものの原型なわけなのです。
 これが性の世界と違うっていうことは、体験上もよくおわかりになられると思うんですけど、3人の世界っていうのはなぜ、共同の世界、多数の中のひとりっていうような世界の原型となりうるかってことは、たとえば、3人集まって、それは男女問わないわけですけど、3人集まって、何か共通のことをしようっていった場合を考えてみれば、すぐにわかるわけで、その場合には、3人が3人、ある役職を設けて、3人が3人でそれを承認するというかたちで、もっと厳密にいえば、そこで規約をつくってどうするとか、3人が3人で納得できるような規約をまずつくるっていうようなかたちで進められるってことは間違いないことで、規約をつくるっていうことをしないまでも、3人なら3人がともに納得できる最小限の決まりみたいのを設けて、暗黙の決まりを設けて何かをするっていうふうになるに決まっているので、これは、いわば、国家でいえば、法律とか、そういうものに該当するわけです。
 これは、ふたりで、恋愛以外のことで、なにか仕事をしようっていった場合には、これは、べつに約束事っていうか、規約みたいなことを設けなくても、ふたりの対話、話し合いみたいなもので、こうしよう、こうしようって、その都度、決めていけば、結構やっていけるのですけど、3人になりますと、そうはいかないのだろうと思います。
 そうはいかないので、最小限の決まりみたいのを設けて、なにかをやっていくっていうことになっていくと思います。これはやっぱり、3人を4人にしたって同じなのであって、4人を100人にしたって、あるいは、国家単位にしたって、ぜんぶ原型はおんなじことです。そこでは、おんなじことが行われます。
 もし、国家というものの始まりが、そういうようなものであって、少なくとも、誰もが納得する、そういう決まりっていうものを、いわば、掟みたいなものとして、初めに設けたに違いないってことは、間違いないことで、ところが、やっていくうちに、そのなかのひとりが、例えば、掟に背かざるをえないっていうふうになっていった場合に、そのひとりは掟から背くものとして、自分も参加してつくった掟自体が、自分にとって非常に桎梏になるっていいますか、抑圧になるっていうかたちになっていきます。
 これは、みなさんの小さなサークルを考えたって同じなので、3人でなにかをやろうってなって、なにか決めごとをした。例えば、会費を百円にしようって決めた。あるいは、千円にしようと決めた。それでなにかをやっていく。そのうちに、そのうちのひとりが、千円の会費が経済上払えなくなったっていうふうになったとします。
 そうすると、自分もそれがいいって決めたきまりなんだけど、事情によって千円分の会費が払えなくなったと、ひとりがそれを申し出た場合に、ほかのふたりが、よし、それなら、その分は自分たちが負担しとこうじゃないか、補っておこうじゃないか、だからやっていこうじゃないかっていうふうに言って、済んでいるうちはいいんですけど、これが、そうはいかなくなって、だんだん会費を払わないっていうことが、ほかのふたりにとって、たいへん負担になってしまって、もはや、そのひとりが、自らも参加してつくった掟に対して、自らも抑圧されるっていう関係になります。
 これが、国家っていうものが段々発達していった場合に、そこで、国家を是とする者と、国家の法律、それから、政治体系っていうものを是とする者と、それから、それは否であるってなる者とが分かれていく、そういう分かれ道っていうのは、そういうところになります。
 しかし、ずーっと遡っていった場合には、大昔の村落共同体の決まりみたいなもの、そういうふうなところまでいけば、かならず、共同体の全員が参加して、全員がまず、最大公約数として納得できるものが、村の掟として存在したに違いないことが間違いないのですけど、歴史というものは、それをユートピアとして保持できないのであって、だんだん発達していくなかで、複雑な問題がでてきますと、もとをただせば、自分らが共同に参加してつくったであろう掟、法律、決まりっていうようなものから、自分たち自体が、そのなかのある者は、それを抑圧されて、ある者はそれを利益と感ずるっていうような、そういう関係っていうのはでてくる、そういうものが、国家っていうものの存立の行く末っていうものは、大昔からの成り立ちっていうのは、そういうふうになっていくと思います。

7 フロイトとユングの別れ道

 そういうふうに考えていきますと、フロイトの考え方っていうのは、フロイトはかならずしも、集合的無意識っていう概念を承認しなかったわけですけど、ユングとは喧嘩別れをしているわけです。理論的にも対立して、実際的にも別れてしまうってなっているので、ユングの集合的無意識っていう概念を、フロイトは終始承認していないわけです。
 ないわけですけど、フロイトの考え方、つまり、リビドーっていう考え方がどこまでいけるかっていうこと、それから、どことどこの狭間に人間の心の世界が生みだす全世界のなかで、どことどこの範囲にフロイトの考え方が位置するかってことは、いまのような考え方でもって、非常にはっきりわかると思います。
 その領域の中で考えていきますと、フロイトの考え方っていうのは、非常に多くの、つまり、巨大な意味あいっていうのをもっているだろうってことが、ぼくにはいえるような気がいたします。それならば、ユングの集合的無意識っていう概念は、いわば、個人的な認識の、もっと大雑把にいいますけど、個人的な認識のもっと底のほうに、いわば、個人に属さない集合が決定する、共同が決定する、そういう認識の世界があって、それが人間を規定するだろうっていうふうに、ユングが考えたっていうことは、いわば、フロイトの考え方のひとつの発展であろうかどうかっていうことになります。
 あきらかに、ぼくがいま言いました意味あいだけでいいますと、ユングの集合的無意識っていう概念は、いわば、個人が個人である世界とか、個人が他の一人の個人と関係する世界、そういうものともっと別な、つまり、共同の観念の中のひとりの人間の世界、置かれたひとりの人間の心の世界っていうふうなところを、いわば、人間の集合的無意識っていうのは指していますから、それならば、フロイトの考え方のひとつの拡張ではないか、拡張したことになるのではないかってことになっていきます。
 そういうことは、いま言いました意味あいでは、言えそうな気がします。つまり、共同性の中の個人、あるいは、共同の観念が属されている、そのなかでの個人の観念の世界、心の世界っていうのはどうなんだっていうような、そういう世界の問題として、ユングの集合的無意識っていう概念を考えますと、ユングは明らかにフロイトが触れなかった世界をひとつ付け加えてみせたってことが言えそうに思えます。
 ところが、もちろん、フロイトもまた、神話とか、そういうものについて、触れていないわけではないのです。ただ、フロイトの神話の触れ方っていうのは、いずれにせよ、いま言いました意味の、本来は、個体と他の一人の個の関係の世界、つまり、リビドーの世界っていうものを、いわば無際限に神話の世界に拡張したといえなくはない弱点をもっているように思われるのです。だから、そういう意味では、ユングの集合的無意識というのは、非常に大きなものを付け加えたというふうにいえる面がないことはないというふうに思われます。

8 ユングの集合的無意識の問題性

 ただ、ユングは、フロイトがリビドーを人間の本質的なものと考えたのと同じように、ユングは集合的無意識っていうものの決定要素っていうのを、非常に大きなものとして考えたわけです。それですから、なぜ、そういうことを大きな要因として考えたかっていう段になっていきますと、今度はユングの問題になっていきます。ユングの集合的無意識の問題性っていうのものが出てくるように思われます。
 その問題性っていうのは、どういうところに出てくるかっていいますと、ユングは集合的無意識をそういうふうに、非個人的な無意識の世界、あるいは、共同的な無意識の世界、神話として人間が初めて、太古に考えたであろう、そういう世界っていうものを、いわば集合的無意識の典型として、その集合的無意識の世界っていうものは、人間の心の世界を非常に大きく決定するだろうっていう考え方ですから、もちろん、それは非個人的な世界なわけでして、非個人的な無意識っていうわけなんですけど、そういうふうに考えて、それを個人の意識の内部に、深部にそれを考えた限りにおいて、たとえば、ふつう我々が考えている世界とまったく違う、つまり、個人が自分の内部に想定している内部に考えている世界とは、まったく違う原則、法則っていうものに支配される世界というものが、ユングの集合的無意識の世界だっていうふうに考えます。
 ですから、ユングの場合には、夢なら夢っていうものに、集合的無意識っていう概念を適応していきますと、夢っていうのは、そのまんま、ある個人にとって確定的なことが語られているんだっていうふうな夢理解になっていきます。
 だから、たとえば、ユングが挙げている例でいえば、ある男女関係みたいなもので思い悩んでいる男があったと、それで、その男があるひとつの夢をみた、その夢は、山登りをして、それで、崖を登っていきながら、あるところで、自分が崖から空中へ飛び出していった、あるいは、歩き出したっていう、そういう夢をみたっていうふうに、そういう例をユングは挙げていますけど、ユングはそれに対して、それはまさに、あなたが、ようするに、自殺しようっていう、自殺しようとしている、あるいは、あなたが死ぬっていうことを、そのことは予言しているのだから、非常に慎重に行動したほうがいいっていうふうにユングは警告した。警告したけれど、その男はそれを聞かなかった。
 その男は、友人と一緒に山登りにいったと、山登りっていうのは、男女関係のもつれでどうしようもない状態になって、それを逃れるために、しきりに山登りをする習慣をもったという、で、あるとき山登りをしたら、崖から落っこちて死んじゃった。そういう例をユングは挙げています。
 それで、それに対して、自分は散々、そういう山登りをして、崖から空中へ歩き出したっていうような、そういう夢をみたって言われたときに警告した。あなたは死ぬっていうことを予知している夢だから、慎重に行動しなさいってことを警告したんだけど、警告に従わなくて、まったく夢と同じように山登りして、それで崖から落っこちて死んでしまう、崖から落っこちているのを目撃者が見ていたら、あたかも、その人物は崖に登りながら、自分でもって、手を放して空中へ飛び込んだ、そういう有様で落っこちて死んでいったっていうふうに、目撃者がそう語ったっていうんですね、だから、ユングは、まさに人間の夢っていうものは、その人間が未来におこなうであろう行為とか、それから、意味づけとか、そういうものを、ちゃんとあらかじめ表現していることっていうのはありえるんだ。
 なぜならば、人間っていうのは、集合的無意識っていうようなところの領域で考えるかぎりは、いわゆるふつうの状態での意味からは、まったく理解できない、まったく違う法則と意味づけとに支配された、そういう世界が集合的無意識なんだ。つまり、非個人的な世界というものが集合的無意識の世界なのだから、そこでは、そこでしか通用しない法則、規範っていうものがあって、だから、その世界を考えれば、夢が予知することはありうるんだっていうふうに、ユングは考えていたと思いますけども。
 その考え方の危なさっていうものが、ユングが集合的無意識っていうものに非常に力点を置いて、個人の精神の世界っていうものを考えたために起こってくる危なさっていう問題、そういうものがここで露呈されていく、つまり、危なさっていうものが、また出てきたっていうふうに考えられます。

9 ユングの解釈の危なさと利点

 これは、フロイトからいえば、夢っていうのはそんな簡単なものじゃないのであって、夢の世界っていうものは、なんらかの心的願望の表現だということ、表現だっていうことがフロイトの考え方。
 表現だけれども、その場合に、いろんな言葉遣いをしていますけど、たとえば、ひとつの言葉遣いは、検閲っていう言葉遣いをしています。検閲があって、その検閲を通過して、無意識の願望の世界っていうのは表現されるために、かならずしも、願望がそのとおり表現されるとはかぎらない、非常に歪んで表現される場合もあれば、逆に表現される場合もあると、夢で夢見るものとのあいだ、あるいは、夢とその意味とのあいだには、ひとつの表現っていう媒体があって、しかも、表現っていう媒体は、現実の表現と違って、例えば、白墨が欲しいから白墨をとったっていう、そういう表現とは違って、いわば、検閲を通してしか表れないから、うまくそのとおり表れるとはかぎらない。
 そういう考え方が、フロイトの基本的な考え方ですから、ユングのように、夢そのものが未来を語っている、そのまま未来を語っている、あるいは、非常にあることについて直接、物語っているところがあるっていうような、そういう考え方は、フロイトの夢の考え方からすれば、非常に単調な考え方であって、その単調な考え方が、いわば、ユングを次第に、神秘家にしていっちゃうってことが、神秘家に執着していっちゃう、神秘主義者としてのユングはいろんなところにでてくるわけですけど。
 自分の自伝なんかみていても、最後のほうになると、空飛ぶ円盤の、夢とはいえないのですけど、入眠状態、つまり、白日夢みたいな状態で、空飛ぶ円盤をユングは見るわけです。見て、それに意味づけをしているわけです。
 その意味付けをみていると、とても無惨であるなっていうふうに思えるのです。つまり、そんなことをいっても、みなさんのなかにも、空飛ぶ円盤はあるよって思っている人、見たっていう人もいるかもしれないので、あんまり悪くは言えないかもしれないですけど、ちょっと無惨ですねっていう、そういうふうなところまで、ユングっていうのは突っ込んでいっちゃうのです。
 それは、いわば、人間っていうものと、それから、夢と覚醒、目覚めっていうのとを考えますと、その中間に、入眠状態っていいますか、そういうのはあるわけです。白日夢みたいな状態があるわけですけど、中間のところで、ユングはしばしば、そういう神秘的な体験について、実際に自分が体験したことを確信して疑わないっていうふうに言っているわけです。
 考えようによっては、とても無惨なので、フロイトが夢を考える場合には、かならずしも、そう単調じゃなくて、表現するものと、されるものの関係っていうのは、たえず、フロイトのなかにあって、夢っていうのは、ひとつの表現だっていう、表現であるからには、直接なあらわれでは決してない、直接性がないっていうこと、そういうことで、非常に見事な考え方をしていると思いますけど。
 ユングの場合には、しばしば、極まっていくと、夢が予知する、予言するっていうような考え方に、どんどん、どんどん、晩年になるにつれて突っ込んでいっちゃう、そして、その挙げ句っていうのは、どうしても、これはちょっと、異常とか、病気とかっていうふうにはいえないけど、とてつもないものじゃないかってところまで、いわば首を突っ込んでいってしまうっていうようなことになっています。
 だから、そういう意味合いでいって、ユングの集合的無意識っていう概念っていうのは、かならずしも、フロイトの考えたリビドーっていう考え方の発展というふうに、かならずしも言えないところがあるわけです。言えないところがあるっていうことがいえると思います。
 でも、ユングの集合的無意識っていうものは、非常にいいところ、つまり、文学とか、神話学っていうものが考えられるとすれば、文学とか神話学の分野で、たいへん大きな貢献をしていると思います。
 ユングの集合的無意識っていう概念のつくり方っていうものは、非常に大きな貢献をしているので、かならずしも、否定的にのみ評価されるものではないっていうふうに思われますけど、単純にいって、フロイトのリビドーっていう考え方の、もうひとつ奥深くのところまで深めた、発展だっていうふうに、かならずしも、そういうふうにはいえないって思われます。
 ただ、非常に利点っていうのも、たとえば、考えられるわけです。いまの夢っていうものを、ひとつ例にとっていってもいいわけですけど、フロイトはしばしば、あんまり、そこまでは単純化していないのですけど、例えば、靴っていうのは、女性器の象徴なんだみたいなことを、いくつか、まず間違いないと思われる場合を抽出したわけです。
 そういうことを、形式的に考えたところがありますけど、それだったら、もし、各民族で、各種族っていうもので、靴を履く習慣がない種族にとっては、靴が女性器の象徴であるっていうのは、そういう意味合いっていうのは、まったく意味がないことになります。つまり、靴なんていうのは見たことがないっていうような、見たことも履いたこともないっていうような、そういう種族っていうもの、あるいは、部族っていうものが、地球上に存在するとすれば、それは、フロイトが、非常に確かなものとして形式化した、靴っていうのは女性器の象徴であるとか云々っていうのは、いくつかありますけど、そういうことは、まったく意味をなさないってことになります。
 帽子はなんだっていう場合も同じなのです。つまり、そんなものは、帽子なんて被る習慣のない種族っていうのがあったとすれば、そこでは、そういう夢の象徴っていうものは、まったく意味を為さないことになります。
 また、逆にいえば、フロイトが挙げてないようなものでもって、しかし、あるものを、日常慣用している部族みたいなものが、どこかにあるとすれば、ほかの世界では慣用していないけど、その部族だけが慣用しているそのものが、非常に大きな象徴的な要素、つまり、リビドーの表れの象徴的な要素としてありうべきものになります。
 ですから、そういう意味合いでは、ユングの集合的無意識っていうのは、非常に大きな、つまり、種族ないし部族、あるいは、ある民族っていうものの神話的原型っていうものが、人間を決定する部分が非常に多いっていうのが、人間の個人の振るまい、心の世界っていうのを決定する面が多いってことをいっている意味あいでは、たいへん、ユングの考え方は、フロイトのいわば、普遍主義一辺倒というものに対して、有効な修正っていうものをしているというふうにも考えられます。

10 夢の世界をどう解釈するか

 だから、さきほど一等初めにいいました、ぼくが3つの軸があるっていいましたことで、もう少し、いまのことを位置づけてみますと、フロイトがしばしば典型的なものとしてあげている夢っていうものを、やはり、さきほど言いましたように、自己が自己に対する関係する世界っていうものに位置づけられねばならない夢と、それから、自己と他のひとりの自己との関係の世界、つまり、エロス、ないしは、リビドー、フロイトでいえばリビドーの世界です。セックスの世界ですけど、そういう世界に関係づけられなければならない夢と、それから、共同性の中で、つまり、共同の観念っていうものが流布されているなかでの、ひとりの個人の心の世界として位置づけられねばならない夢とは、別の次元にあるというふうに考えなければいけないのではないかっていうふうに思います。
 例をあげてみますと、フロイトの橋の夢っていうのがあるわけです。この橋の夢っていう、フロイトの『夢判断』でもなんでもいいですけど、出てきます。典型的な夢だっていうふうに出てきます。この橋の夢っていうものは、これは、部族とか、民族とか、国家とかにかかわりないわけです。つまり、非常に共通性、あるいは、普遍性のある夢なわけなんです。
 あるいは、日本でもしばしば、こういう話があるわけで、つまり、非常に病気が重くて、危篤状態にあった病人がいた。病人が夢うつつの中で、じぶんが村はずれの川に架けてある橋を渡っていくことになる。
 そうしたら、なぜ、渡っていこうとなるかというと、橋のむこうには非常にきれいな風景があって、また、きれいな人間が手招いていたりっていうような、そういうものだから、橋を渡っていくことにした。渡っていこうとしたんだけど、どうしても、橋を渡りきることができない。
 それで、渡りきることができないけども、途中から引き返したら、意識がさめて、それで、それを契機にして危篤状態から次第に脱していったっていうような、そういう橋に関する夢の話っていうのは、日本でも、ヨーロッパでも共通にあるわけです。
 その場合に、たとえば、その病人が夢の中で、その橋を渡って、橋のむこう側にある、きれいな風景がある、そういう橋を渡りきってむこうにいっちゃった場合には、たぶん、その人間は死んじゃうわけです。
 だけれども、夢の中で、どうしても、なにかわからないけれど、むこうがきれいなところだから、いきたいのだけど、なんでかしら、いくことをためらわせるものがあって、夢の中で引き返してきた。引き返してきたら目がさめた。
 つまり、そうしますと、橋のこちら側とむこう側っていうことは、生と死っていうものを隔てるというか、架け渡す世界の象徴になっているわけです。この象徴っていうのは、いわば、これは、部族、種族、あるいは、民族っていうものに関係なく、たぶん、非常に普遍的な象徴なんです。だから、これは、そういう普遍的な象徴のひとつの夢として、典型的に考えることができるわけです。

11 ひとつの夢を三重に解析する必要性

 ところで、夢のなかでも、今度はフロイトが解釈した夢判断っていうものの固有の領域になってくるわけですけど、夢はリビドー、つまり、一人の個人と他の一人の人間とのあいだの世界、つまり、セックスの世界の象徴である、そういう夢っていうものが明らかにありえます。これは、靴は女性器の象徴だっていうような、そういうような意味合いではなくて、各種族、それぞれ象徴として夢の象徴のなかに表れるあれっていうのは違うでしょうけど、明らかにそれはリビドーのある表現です。歪められた表現があったり、傷つけられた表現があったりする。そういう表現だと思われる夢、そこに帰したほうがいい夢っていうのも、明らかに存在しうるわけです。
 ところで、それだけかっていうと、そうではなくて、そのひとりの個人が、自分自身に関係する世界にどうしても引き寄せなければ理解できない夢っていうのもあると思います。
 それは、ほかの人にとっては、その夢を、昨日、こういう夢を見たっていうふうに、人に語っても、全然ほかの人にとっては意味のないっていいますか、そうって言う以外なにもいうことができないような、固有の夢なんですけど、あるいは、非常に断ち切られた夢で、その人個人の生活をしていないかぎりは、絶対に人には通じないよっていうような、でも、個人の生活をしているかぎり、あっ、この夢はこういうことなんだっていうようなことがわかるっていうような、しかし、他人にはぜんぜん重要性もなければなにもない。しかし、その個人にとっては、非常に重要であるっていうような夢、あるいは、夢の断片っていうのは、みなさん一人一人が非常に、数からいうと、非常に多く見ていると思います。
 つまり、あんまり、他人に言ったら意味がないし、全然通じない。だけど、自分自身にとってだけならわかると、自分にとっては、非常に重要な夢だっていうものです。それは、自分の夢見る前の、直前とか、その日とか、その数日前か、あるいは、もう少し明日かもしれませんけど、そういうものを自分ならわかるけど、自分ならそういうことの意味づけっていうのはわかるけど、他人にとっては全然通用しない。つまり、その人の生活環境を知らないし、その人の生活環境と違ったら、まるで意味がない、わからないっていうような、しかし、その人にとっては、非常に重要だと思われる。そういう夢っていうのもありうるわけです。おそらくは、そういう夢が非常に多く見られているので、普通は見られていると思います。みなさんのそれぞれにとっては、きっと、そういう夢はいちばん多く見られていると思います。
 ただ、典型にはなりえないってことだけです。それは、リビドーの問題であるっていうふうに典型化することができないし、また、橋の夢みたいに、これはどんな種族にも通用しますよっていうような、そういう普遍的なものだっていうふうにも位置づけられないけれども、その個人個人にとっては非常に重要な夢だっていうふうに思われる、そういう夢っていうのはありうると思います。
 一般に夢の世界っていっているものは、大きく分けますと、民族種族にかかわらず、共同に通用する、そういう夢っていうものと、それから、リビドーの問題としてならば、各人間共通に通用する夢みたいなものと、それから、まったくそれと違って、個々の人間にとってしか重要でもないし、意味もないし、分析もできない。しかし、ほかの人にとっては、それはなんのことかわからない、あるいは、ちっとも意味があるものとは思われない。そういう夢っていうものと、その3つの夢っていうのは、分けなければならないし、また、その3つの夢は質が違うものとして考えなければいけないっていうふうに、ぼくには思われます。
 その場合に、明らかに、ユングの集合的無意識っていうのは、共同性の中での個人っていうような、そういうものの世界を非常に大きいものとして見ているのである。
 また、フロイトの夢の世界っていうものは、明らかに、人間と他の一人の人間とのあいだの世界、つまり、リビドーの世界を本質として、そこに還元できるものとして、夢の世界を考えているっていうふうに理解されます。
 しかし、そのいずれでもない夢っていうもの、たぶん、夢を見たその人にとってしか重要性がないし、また、意味がつけられないっていうような、そういう夢こそが、おそらくは、いちばん多く見られているんだと思います。
 それが重要だと思うか思わないかっていうのは、その人にかかっているっていうような、そういう夢の世界っていうのを、もうひとつ考えなければならないし、その3つは、おそらく次元が違うものとして理解しなければいけないだろうと思います。
 それは分類であると同時に、ひとつの夢を解析する場合、分析する場合に、かならずしも、リビドーの世界として分析するのみではいけないのであって、それは、共同性に関する夢かもしれないし、そのひと固有の心の歴史に関与する夢かもしれないってことで、ひとつの夢を解釈する場合に、その3つを明瞭に質の違うものとして、三重に解析することが必要であるかもしれないです。
 そういうことがユングっていうものを位置づける場合に、非常に大きな要因だろう、また、位置づけ方として、そういう位置づけ方をすると、非常にわかりやすいんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。

12 『銀河鉄道の夜』が感銘を与える理由

 たとえば、橋っていった場合にも、日本の橋っていうのは、村はずれの川を流れている丸木橋であったり、木の柱だったり、宙で吊った吊り橋であったりっていうようなことになるわけですし、例えば、ヨーロッパの橋だったら、石造りの橋で、石でもって頑強につくられた橋であるかもしれない。
 つまり、そういう意味合いで、それぞれの民族、種族、それによって、固有の橋っていうのはありうるわけですけど、現代においては、鉄筋コンクリート、そういうものの橋であるかもしれない。また、あるいは、未開の地域では、丸太橋みたいなものが橋のイメージであるかもしれない。つまり、典型であるかもしれません。
 しかし、橋っていうものが、ある片っぽ、片側から、他の片側へ、つまり、ひとつの世界から他の世界へ、あるいは、現世から他界へっていうような、そういうような象徴としてみられるかぎりにおいては、橋っていうものが、非常に民族種族にかかわらず、共通普遍性をもっているわけです。
 例えば、日本の童話なんかでも、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』っていう童話があるでしょ、『銀河鉄道の夜』っていう作品は、非常にいい作品だって思いますけど。あの作品の世界っていうのは、どういう世界かっていうと、あれはいわば、死後の世界っていうものを、非常にリアルに、つまり、形象自体はリアルじゃないんですけど、リアルに再現されているってことが、非常にわれわれに訴える大きな要因だって思います。
 つまり、いま言いましたように、われわれがいわば、夢見るかぎりでは、例えば、橋のむこうにきれいな世界があった。夢の中でそれを渡っていったんだ。ところが、どうしても渡りきることができなくて、なにか引きとめるものがあって、引き返してしまった。たぶん、そういう橋を渡りきったっていう夢を見た人は、生きていないはずなので、いないと思います、ぼくの考えでは。つまり、おれはむこうの世界へ渡っちゃったっていう人はいないんじゃないかって思われる。つまり、それほど、橋のむこうの世界っていうものは、どちらかというと非常にきれいな世界だっていうふうにいえるんですけど、誰もそこにいって、そこの世界を体験したっていう、そういう人は、まず、まわりにいないだろうと思います。
 それで、いても、非常に貧しい形象でならいるかもしれないですけど、昔話にでてくるかぎりでは、たいてい危篤の人が、あるいは、死にかかった病人がそういう橋を、きれいな世界に渡ろうとしたんだけど、また引き返してきたっていうふうに、それ以外の例っていうのは、なんでっていうぐらいないんです。ですから、まず、そういう夢を見た人はいないだろうっていう考え方です。
 たとえば、『銀河鉄道の夜』っていう作品は、ぼくらに非常に違う世界を体験させているような、見事な形象があるわけですけど、感銘があるわけですけど、その感銘っていうのは、どこからくるかっていうと、たぶん、それは、橋のむこうの世界っていうものを非常にリアルに描写しえているから、だから、それがたいへんよく訴える要素だと思います。
 そうすると、少なくとも、こちらには、意識して橋に関する、いま言いました、夢の話っていうものを、ひとりひとりの宮沢賢治の読者っていうものが、それをひとりひとりが知っているか知らないかにかかわらず、無意識の中に、橋の世界についての、橋のむこうにはいい世界があってっていうような、あるいは、海の向こうにはいい世界があってとか、あるいは、天の星のところにはいい世界があってっていうような、そういう話は、おそらく、それこそ集合的無意識として、いわば、神話時代から、あるいは、おとぎ話時代からすると、年々そういうものが累積されていて、それが、いわば、われわれの中に、そういう橋の話を知っていると否とにかかわらず、いわば、それなりのかたち、あるいは、それなりにわれわれの意識の世界、無意識の世界の中に、それがあって、それで宮沢賢治のそういう作品を読んだ場合に、たぶん、そういうものが触発されるっていうふうに考えたら、『銀河鉄道の夜』っていう作品は、非常に夢幻の、夢の世界みたいなものに誘われながら、しかも、非常にリアルな体験をしているような、そういうふうに受け取れる非常に大きな要因として、そういうもの、つまり、昔話としての橋の夢、あるいは、橋の民話とか、あるいは、橋の神話とか、そういうものを知っている、知っていないにかかわらず、それぞれの人の、いわば集合的無意識の中に、それが累積されて残っているような、それがあるんだっていうふうに考えると、あるんだ、実在するんだって考えるといけませんから、あるという意味合いは別に考えないといけませんけど、そういうものがあって、それがきっと、『銀河鉄道の夜』っていう作品を読むと触発されてくるっていうふうに考えると、たいへん作品の夢幻性っていいますか、夢の世界みたいな、そういう世界と、それから、非常にリアリティをもって、その世界を体験しているつまり、銀河鉄道に乗りながら、まわりの世界を体験している、そういう体験の生々しさみたいな、そういうものは、そういうふうに理解すると、理解しやすいんじゃないかなって思います。つまり、わかりやすいところがあるように思われます。
 そのように普遍的な夢っていうのもありますし、それから、いま言いましたように、まさにリビドーっていうところに還元していったらわかりやすいっていうものもあります。さきほどいいましたように、個人個人で考えなければ他人にはわからない、他人にはあまり意味がない、その人にとっては意味があるっていう、そういう夢っていうのはあるように思いますし、いま言いましたように、ひとつの夢を解析していく場合に、その三重の解析の仕方を、つまり、個人に還元されるもの、それから、個人と個人との関係の世界に還元されるもの、それから、共同の世界の中における個人に還元されるもの、そういう、ひとつの夢っていうよりも、その3つの軸をまるで違うものとして、三重に解析しないと、ほんとうのところは、夢の解析はできないんじゃないかって思われます。
 その夢の世界っていうものを、いわば、リビドーの世界を主として還元する、あるいは、ユングの集合的無意識の世界を非常に大きく重んじて、そこで解析するかっていうことは、わたしには、二者択一といいますか、こっちかこっちが正しいかっていう問題ではなくて、いわば二重に、いいうべくんば、三重にひとつの夢を解析してしかるべきところをどこかに還元して、解釈していっているんだっていうふうに理解したほうがよろしいように思われます。

13 入眠状態の意識と胎内以前の意識

 フロイトが口唇期とか、肛門期とかっていう言い方で、幼児期、あるいは、もっと先、胎内、あるいは、体外から出た瞬間から、人間の個人の心の歴史と、それから、歪み方っていうものを考えなきゃいけないっていうふうに、個人についても、フロイトはそこまで遡っているわけですけど。
 それよりも、もっと以前にさかのぼろうとしたらどうなるか、そうしたら、個人については、誕生っていうこと以前、あるいは、母親の胎内以前の痕跡っていうのは考えることができないってことで、あとは、非個人的な世界っていうことで、いわば、ユングのいう集合的無意識みたいな、そういう世界っていうものに遡行しなければならないっていうようなことになるように思われます。
 それで、神話の世界でも、そういう世界っていうのは、つまり、天地がどうやってつくられたかというようなものは、そういうことに該当するわけなんで、例えば、日本の神話でいえば、いっとう初めに、天地がまだ定まらないときに、アメノミナカヌシノカミ、それから、タカムスビノカミとか、それから、カミムスビノカミ、そういう3人の神様がいて、その3人の神様の存在によって、だんだん天と地が、混沌としていたのが、だんだん固まってあれしてきたんだっていうような、で、固まる途中で、次の神様が、例えば、日本の神話でいえば、ウマシアシカビノカミっていうようなのが生まれたとか、アメノトコタチノカミっていうのが生まれたとか、そういうふうにして、だんだん天と地っていうものを、アシカビのように支える、それから、それを、天と地を司る神様、強固に司ろうとするトコタチノカミっていうようなのが出てきて、だんだん天と地が分かれてきたんだってことがやってきますけど、非常に特徴的なことは、そういうふうに天地開闢に立ち合った神みたいに、神話の中にでてくる神っていうのは、「ひとり神」っていう言葉を、日本の神話の中では使っていますけど、「ひとり神」っていうのは、つまり、セックスがないという意味合いです。セックスがないという意味合いで「ひとり神」という言葉を使っています。天地開闢みたいのに立ち合う神っていうのは、性がないってことなんです。
 それで、イザナギ、イザナミノミコトみたいになったときに、はじめて、神っていうのに、性の概念がくっついてくるわけです。それ以前の神っていうのは、性っていうのはないわけなんです。性っていうのがないっていうことは、いわば、開闢っていうことで、天地の開闢のことなんで、天地の開闢っていうものまで、神話っていうものが遡行していった場合に、それは、性っていう概念がそこでは入ってこないっていうことで、これを個人のあれでいいますと、いわば、母親の胎内にいて、それから、体外へ出て分離するっていう、そして、分離しながら、そこで、育っていって、そこで、幼児期の傷みたいなものを負っていく、歪みを負っていくみたいな、フロイトの考え方でいえば、生誕以前っていいますか、生まれる以前の問題、以前の世界っていうものを想定しますと、そうすると、天地開闢みたいな、そういうそれを神話的世界にありますと、天地開闢のひとり神だけしかいないっていうような、そういう世界に該当していくわけです。だから、ユングの集合的無意識の世界でいえば、そういう世界に該当していくわけです。
 これは、いちばんわかりやすいのは、昔でいえば、シャーマンっていうのがいるわけです。日本で、南の方でいえば、ユタっていうような巫女さんがいるわけですし、北の方でいえば、いろんな呼び方があるでしょう、オワカさんみたいな言い方でいわれるイタコみたいな、つまり、神に憑くことができるっていうような、そういうあれがいるわけですけど。
 これは、どこの種族でも、どこの部族でも、その起源のところには、いつでもそれが控えているわけですけど。つまり、シャーマンみたいなものが、そういう巫女さんみたいなものが、たとえば、いわば、神様に憑くっていうような状態になったときに、いろんななり方っていうのがあるわけです。
 つまり、たとえば、シャーマンだったときに、自分が動物になって、動物の鳴き声みたいなものを真似するとか、それから、鳥の鳴き声みたいのを真似するっていうような、そういう状態になって憑くっていう憑き方もあるわけです。
 それは、いわば、人間っていうものがあるとすると、人間の感情っていうのを、神話の中で性っていうのが神に現れた、そういう世界だとすると、それ以後に人間が現れても、それ以前の世界っていうものに憑くことによって、つまり、トランス状態になって入り込んだときに、たとえば、動物の鳴き声をしたり、鳥の鳴き声をしたりっていうようなかたちで憑くっていうような、そういう憑き方もあります。
 それから、天地の初発の時みたいな、そういう祝詞みたいなまがいもの、そういうものを、いわばトランス状態になって唱えるっていうような、そういう憑き方っていうのがあります。その憑き方も、いずれにせよ、神話的にいえば、神話の混沌とした初めの段階の、そこのところの段階に、ユング的にいえば、その段階に憑いたときに、そういう言葉になって現れてくるっていうようなことがあります。
それから、もっと非常に普遍的に、ユタとか、そういう民間のあれっていうのは、八百万の神に憑くわけだと思います。だから、いろんな神様の名前がついてくると、あるいは、名前をいうことによって、逆に憑くっていうことも、トランス状態に入ることも、両方ありうるわけですけど、相互関係なわけですけど、そういう場合も八百万の神の名前が出てきて、その業績が出てきて、こうだこうだってことを、いわば、唱えごとみたいなふうに、口をついて出てくるっていうような、そういうふうな出方でもって、トランス状態に入るっていうような、そういう憑き方っていうのもあるわけです。
 つまり、人間の意識の段階のどの段階に憑くかっていうことは、トランス状態に入る入り方っていうものと、それから、トランス状態の示している入神状態の深さ、深度っていいましょうか、そういうものによって、たぶんそれは違うことになります。
 これは、種族的にも違うことになりましょうけど、いずれにせよ、そういう憑くっていう状態が、どういう状態かっていった場合に、いま言いました、人間が人間でないとき、個人のあれでいえば、個人がまだ生まれていないとき、胎内、あるいは、胎内以前であると仮定されているとき、理解されるとき、そういうところに憑くとか、胎内にあったときの意識の状態に自分が入り込むことによって憑くとか、もっと、母親から、胎内から出て、いわば、乳児として出た状態、そのときの意識状態みたいなものが考えられるとすれば、そこの状態に憑くっていうこと、歴史的にいえば、そういう神話の段階に憑くっていうことと同じことなんですけど、そういう憑き方っていうのに、様々な憑き方の深さっていうものがあるっていうことで、それは、区別されるように思われます。
 それは、今度は、注意しなきゃいけないことは、そういう状態に憑くっていうことは、非常に幼い意識の状態に憑くのだから、意識内容は貧しいかっていうと、必ずしも、意識内容が貧しい、貧しくない、あるいは、無意識内容が貧しい、貧しくないっていうこととは、かかわりないと思います。
 例えば、トランス状態に入って、鳥の鳴き声を叫ぶようなものに憑いたとしますと、それは、鳥になっちゃってるんだから、その意識状態はまったく鳥の意識っていうことで、つまり、あるかなしかの意識ってことになるのかといったら、それはそうじゃないのです。つまり、それは、あくまでも、現在の人間として、そこの状態に憑いていくってことで、その鳥の体験が貧しいかといったら、決してそうじゃないかもしれませんし、また、逆な意味で、鳥の意識があるとして、鳥の意識体験っていうものが、貧しいか、貧しくないかっていった場合、われわれの概念でいう貧しいっていうふうに該当するかどうかは、まったく別だっていうふうに考えられます。
 ですから、そういう憑き方の段階っていうのは、いわば、深さの問題としてありますし、それは、いわば、歴史の時間っていうものをもってくれば、それは、歴史時間のどこの段階に憑いたかっていうようなことによって、それは、決まっていくんじゃないかっていうふうに思われます。
 みなさんの場合でも、きっと大なり小なり、たとえば、臨床的な治療みたいにあれされたときの状態っていうのは、いわば、憑いている状態だっていうふうに思われます。
 その憑いている状態っていうところで、相手っていうものと、自分との関係っていうものは、どういうふうになっているかっていうようなことを、うまく理解する場合に、ぼくはやっぱり、さきほど言いました、それは自分が自分に関係する世界に還元したらどういうことになっているのか、あるいは、自分と患者、対象との、ふたりのあいだの関係として考えたら、それはどういうことになっているのかってこと、あるいは、自分の中にも、対象の中にも、それから、それを規制する、いわば集合的な歴史的な意識みたいのの積み重ねみたいなものだと思いますけど、そういうものがどういうふうに意識できているかってことは、わりあいに明瞭に、それこそ、混沌としてではなくて、わりあいに明瞭に、その3つを重ならせるみたいにして考えていったほうが、非常にわかりやすいんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。

14 フロイトとユングを正当に位置づけること

 ぼくらは、文学っていうところから、はじめに入っていったのですけど、やっぱり、観念の世界の全体っていうのをのっぺらぼうにつかむっていうことは、ものすごくおかしいんじゃないかっていうふうに考えていった段階で、たとえば、フロイトがリビドーっていっているものは、ほんとうはどういうことなんだろうなってこととか、ユングが集合的無意識っていっていることは、ほんとうは、どこに位置づけたら、それは位置づけられるのかっていうような問題がでてきたように思います。
 その問題をあれしていきますと、つまり、細部にわたって位置づけていきますと、非常にわかりやすいところがあるんです。つまり、どこで、はじめに自ら規定した限界を、どこで無意識のうちに超えたとか、集合的無意識っていうものは、すべてを決定するように考えていくっていうのは、どういうところに限界を超えているところがあるのかってことが、非常に明瞭になってきたように思います。
 そういうことっていうのは、お断りしておきますけど、そういうことっていうのは、べつに、フロイトやユングっていうのは優れていないってことを、少しも意味していないのであって、この限界を超えてやっちゃっているってこと、そういうことはいくらでもありうるように思いますけど、そのことは、ひとりの心理学者、思想家っていうものが優れているかいないかってこととは、まったく違う次元のことなので、だから、ぼくは、それはこの範囲でフロイトっていうのは言っているべきものを全部に拡張しちゃっているんだよとか、ユングの集合的無意識っていうのは、ほんとうはこういうことなのだから、この範囲内の問題を展開すればいいのに、うんとそれを拡張しすぎちゃったんだよってことを、ぼくがそういうことを言ったからといって、ぼくのほうが偉いわけじゃちっともないので、そういうこととは、ひとつの思想、あるいは、ひとつの心理学的な体系っていうものが、優れているかいないかってこととは関係ないことだとおもいます。
 その関係ないっていうのは、いわば、そういう問題は、ひとつは、いわば深度っていうか、深さっていうもので決定されることがありますから、問題がありますから、それだからダメだっていうことじゃないんですけど、しかし、はっきりと考えていって、はっきりと位置づけができることで、フロイトについて、また、ユングについて、あまり明瞭でないって思われたところが明瞭になるとか、ここが利点じゃないかっていうふうに思われることが明瞭になるとか、ここが欠点じゃないかって思われることが明瞭になるっていうことがあるとおもいます。
 ですから、フロイトとユングのふたりにとっては、最初に、一緒に同僚であったり、師弟であったりってことがあったんですけど、ある時期から別れて対立して、現在でも対立して別々だっていうようなかたちであるわけですけど、その流れがあるわけですけど、だけど、どっちを選ぶかってこと、どっちかどっちかっていうのは、当事者にとっては非常に死活の問題なので、理論的死活の問題でもあるし、治療体系の死活の問題でもあるわけでしょうけども、べつに、それを死活の問題っていうふうに考える必要はなくて、それは、いわば、人間の観念っていいますか、心の世界の領域、あるいは、観念の世界の領域っていうもののどこに位置づけられるか、つまり、両者はどこに位置づけられるかってことが考えられれば、まったく充分であって、そこのところで学びうるっていうことが非常に多いんじゃないかなって思われます。
 そういう意味合いで、当人たちにとっては死活問題だといっても、かならずしも、誰もがそれを死活の問題として、あれかこれかと選ぶことは少しもないのであって、その両方が正当に位置づけられるとすれば、そこの位置づけができるっていうことで、非常に大きな問題がでてくるっていうふうにおもわれます。

15 フロイトとユングの決別の意味

 ユングが自伝のなかで、非常に象徴的にフロイトとの決別の場面っていうものを語っているんですけど、その場面というのは、まったく馬鹿らしいといえば馬鹿らしいんですけど、大変なことだといえば、大変なことなので、あるとき、フロイトとユングが一緒に話していて、超心理学の話をしていて、つまり、夢が予知するとか、いま流行りのスプーンが曲がったとか、そういうことについてどういうふうに思うかっていうふうに、ユングが聞くわけです。フロイトに聞くわけです。
 フロイトはお話にならないから、まじめに相手にしないような感じであれしているわけですけど、ところが、そうしているうちに、ふたりがしゃべっている本棚かなんかが傍にあって、それがガタガタって揺れだすわけです。
 それで、ユングが、見てごらんなさい、これが超心理学でいう、ひとつの現象なんだっていうわけです。ガタガタっていうふうに揺れだして、ふたりともびっくりして、フロイトもびっくりして、ユングもびっくりして立ち上がるわけです。ユングは、見てごらんなさい、これは、いま自分が言っていた、そういう現象なんだって、ユングはいうわけです。フロイトは、そんな馬鹿げたことはないっていうふうに否定するわけです。
 そうすると、ユングは、先生はそうおっしゃるけれども、わたしが予言しておきますけど、もうすこし、もうしばらく経ったら、もう一度そういうことが起こりますっていうふうに、ユングがいうわけです。そして、ユングの描写によれば、少し経ったとき、ガタガタっていうのは起こるわけです。
 ユングはそこで、自分の理論っていうもの、つまり、自分の夢に関する理論も、神話に関する理論もそうですけど、自分の理論っていうものを確信するわけですけども、フロイトのほうは、まったく馬鹿げた現象だっていうふうに、その時に言いもし、考えもするわけです。ようするに、フロイトっていうのは、そういうことがありうるんだってこと、そういう超能力的なあれとか、夢を予知するとか、そういうことっていうのはありうるんだってことを、フロイトは承認しようとしなかったっていう言い方をしています。
 それから、フロイトのほうは、それは問題にもならないというふうに、そんなことは問題にもならないというふうにいうわけです。結局、それを理論の言葉でいえば、ユングは、あなたはすべてをリビドーに還元してしまう考え方っていうのは、わたしの集合的無意識っていう概念であれした場合には、もっとよく人々に理解されたっていうような言い方をユングはするわけです。
 フロイトにいわせれば、ようするに、ユングはわたしがいるときに、人間の中に確実にありながら、しかし、表現の世界の、それから、ひとりの表れ、つまり、表すことができないで、それぞれの人間が抑圧しているリビドー、つまり、性の世界っていうこと、セックスの世界です、リビドーっていうものを、それをいわば、はじめて、その問題を大きく前面に浮かび上がらせることによって、社会の常識はそれを認識するかもしれないけれど、しかし、そうすることによって、人間がどんなに自分自身で抑圧してきたかもしれない、そういうものに、あるひとつの解放のかたちを与え、あるひとつの解釈の方法を与え、それでまた、治療の方法を与えたっていう、そういうふうにして、しかし、それをいわば、世間的常識っていうようなものからすれば、ことさら人間の中のそういうのを暴き立てることないじゃないかといえば、常識から顰蹙される。まさに、そのところに、自分が人間の心の世界について、それを拡大した、そういう意味あいがあるのに、ユングはそれを神話的な、あるいは、類型的な、あるいは、教養的な集合的無意識みたいな概念で、それを根こそぎ取り払ってしまった。せっかく、じぶんが社会を成り立たせている常識とか、理念とか、そういうもののもっと奥のところに、なんかある人間の本質っていうもの、そういうものを取り出して、それに、そのエネルギー解放の理解の筋道をつけていった。そういう問題をまさに、ユングはまったく集合的無意識っていう、いわば、神話的概念っていうもので潰してしまった、崩壊させてしまったというふうに、フロイトのほうは、そういうふうに批判しています。
 そういうことのなかに、少なくとも、ユングにとっては、決別のきっかけとしてあった体験として、非常に大きく描いて、考えて、いま言いましたように、ふたりでそういう話をしているときに、ガタガタ音がして、爆発音がして、ガタガタ揺れたっていう、それで、それはまさに超能力的に、そういうあれが起こったんだってユングはいうんだけど、フロイトはそれを承認しない。そこが決別の大きなきっかけだったっていうようなことを、ユングはそういうふうにいっているし、そう考えているわけです。
 確かにそういうふうにガタガタ鳴ったのかってことは、誰にもわからない、ふたりにしかわからないわけですけど、そのとき、ガタガタ鳴ったっていうのは、ユングだけの現象であったかどうか、それはわからないのですけど、それは、確かめようがないですけど、そういうようなことがあって、ふたりともふいに立ち上がったってことは確かで、だから、フロイトもその時、なにかがあって立ち上がったわけで、しかし、そのとき、フロイトがそれを承認しなかったのは、ガタガタ鳴ったとか、爆発音がしたから、自分は立ち上がったっていうふうに、フロイトはそう思ってなかったとおもいます。
 つまり、ユングが立ち上がったから、そして、ユングの立ち上がり方にある確信があったから、その確信の強さっていうのが、自分も一緒に立ち上がらさせたっていうふうに、フロイトはそういうふうに理解したとおもいます。けっして、ガタガタびっくりして、ユングも立ち上がり、自分も立ち上がったっていうような、そこをそう理解しなかったとおもいます。
 理解の微細なところにいきますと、自分に説明するっていうようなことと同じであって、いかようにも入ってこれるわけです。それぞれ、どれが正常で正当であるか、どちらのいうことが正当であるかっていうと、なかなか決定することはできないのです。
 ユングはそういうことを信じていたから、信じていたとおりになっただろうというふうに思ったでしょうし、フロイトのほうは、そんな馬鹿なことはないよっていうふうに、自分が立ち上がったっていうのも、結局、ガタガタっていう音とか、爆発音とかじゃなくて、ユングの動作でもって自分も立ち上がったっていうふうに、フロイトはそういうふうに理解しただろうと思います。
 つまり、その種の現象っていうのは、いわば、テレビの茶番みたいなものでありうるわけですけど、しかし、ふたりの優れた、人間の精神の解析について、非常に優れた巨匠っていうのを別れさせる、そういうきっかけにもまた、なりうるという意味あいで、決してそういうことは無視することはできないのではないかっていうふうにおもわれます。
 ぼくは、夢っていうこと、神話とかっていうことに、ぼくなりの一定の理解の仕方、解釈の仕方の方法がありますので、別段、少しも臨床にかかわらないでしょうけど、そういうぼくの考え方からいった場合に、フロイトの立場っていうもの、それから、ユングの立場っていうものは、どういうところに位置づけられるかということを申し上げたかったわけで、けっして、あれかこれか、フロイトかユングかっていうような、そういう言われ方のなかに何かがあるというふうには思われませんし、そういうことでもって、ふたりの優れた思想家であり、学者でありっていうような、そういう人の優れた点っていうのは、少しも損なわれるとはおもいませんけども。しかし、それぞれがそれぞれの限界を持ちますし、時代的限界も持ちますし、また、限界を逸脱したという、限界内で深められたもの、それはどこにあるかっていう問題っていうのは、非常によく位置づけられてあるといいんじゃないかっていうふうに、ぼくはおもいますので、そういう意味あいでお話をしてみたわけです。
 ぼくなりの考え方なので、ストレートにいうわけですし、ふたりの位置づけっていいますか、どういうふうに位置づけられたかっていう位置づけっていうことができて、あれかこれかっていうふうにしないっていうことがいえましたら、それでいいんじゃないかっていうふうに、ぼくはおもいます。いちおうこれで終わります。なにか聞きたいことがありましたらおっしゃってください。

16 質疑応答1

(質問者)
 わたくしは、精神分析をやっているわけではございませんし、素人というか、依頼人、患者の立場からなんですけど、さきほど、ひとりの個体と他のひとりの個体との関係という観念の働きと、それから、共同性への橋渡しの問題として、神話っていう問題がございます。その神話の問題を理解していくひとつの方法について、ご質問したいんですけど、また、歴史の具体的なできごととの対比において、神話というものを組み上げていく方法があると、もうひとつは、そのひとりひとりの個体の学習過程ともうしますか、認識のプロセスと申しますか、そういうものを重要視して、お話していく方法があると思います。
 おそらく前者は、わたくしがやっている、そんなに知りませんけど、わたしも無関心といいますか、後者は主に、発達心理学だったら心理学だからこうこうであると、吉本さんの場合には、方法のうえでも、かなり一面性を指摘されて、いわば両方を総括される認識の総体性を手に入れるような、そういう方法提示しかないと思うんですけど、その場合には、われわれ、吉本さんの方法で、非常にむずかしくてわからないのが、時間っていうものと、空間っていうものとの受け止め方、それは自然の時間でもない、かといって完全な内的な時間でもない、そういう吉本さんのなかで、独特な時間・空間の捉え方、しかも、座標軸の考え方なんかも、そのへんの方法について、われわれでもわかるような言い方でもって、お話をお伺いしたというのが1点ございます。
 第2点は、そうした神話の内容にあらわれたきわめて日本的な問題と申しますか、さきほど宮沢賢治の問題がでてきましたけど、西洋と比較した場合の日本的な神話の特殊性ということ、仮に神話の中にひそむ自然感覚に考えますと、たとえば、吉本さんがいわれます浄土教の問題、あるいは、江戸時代の国学の自然思想とか、あるいは、明治以降のいろんな自然思想があると思うんですが、その人間の観念というものの最も欠点を自然と結び付けてしまう、つまり、自然の人間観の最も抽象性の高い部分、それが、仮に人間の、日本人の特殊性だといたしますと、そのような特殊性というものの具体的な意味あいと申しますか、その点について、もうちょっと深くお話を伺えたらと思います。

(吉本さん)
 いま、ふたつあれがあったと思うんですけど、問題が出されたと思うんですけど、ひとつは、時間と空間の考え方っていうことなんですけど、一般的にぼくらが考えてきて、ここはちょっと不明瞭なんですけど、区別を明瞭にしなければいけないんじゃないかなって考えたことはこうなんです。
 すべての時間と空間についての考え方っていうのは、大雑把に言ってしまうと、自然の時間と自然の空間っていう考え方です。つまり、一日が24時間っていうふうに計れる、そういう時間の考え方、それから、何メートル四方のあれがあるとかいう広場みたいな、そういう意味での、つまり、自然の時間と空間という考え方、それにはそれなりに尺度っていうのはあるわけですけど、そういう考え方と、それから、もうひとつの考え方は、意識の時間っていう考え方です。
 意識の時間っていう考え方は、たとえば、非常に疲れているときには、1時間なら1時間っていう時間の長さが、ものすごく、意識としては非常に長く感じられる。あるいは、非常になにかに熱中しているとか、あるいは、好ましい状態があって、意識状態があったときには、あっという間に2時間も3時間も過ぎてしまった。そうすると、その時間体験は、かならずしも、自然の時間の1時間、2時間っていうこととかかわりない流れ方っていうことがあるわけです。それを意識の軸に流れる時間性っていうふうに考えますと、どうしても2つに考えられるわけですけど。考えられているわけですけど。
 ぼくらは、表現的時間っていうものは、その両方ともまったく違うのであって、表現的時間っていう考え方をひとつ入れなければいけないのではないかっていうふうなことが、表現的時間と表現的空間っていうふうに、考え方っていうのをしたとおもいます。
 それは、表現的っていう言葉を対象的と言っても、対象的時間という言い方をしてもいいのですけど、それは、言葉で表現しても、行為で表現しても同じなんですけど、言葉及び行為を並べる時間っていうのは、かならずしも、意識の時間と違うし、同じでないし、それから、自然時間とも同じでない。
 それは、そもそもは文学っていうことから導き出されて、文学作品を読む場合に、たとえば、一冊の本になるような長編小説っていうものがあるとして、その長編小説がたった一日のできごとだったっていうこともありますし、一日のできごとなのに、それを読むという立場から、それをたどっていったら、無我夢中になってあれして、終わりまで読んでしまった。そしたら、非常に時間体験としてたいへんな体験をしたように思うんだけど、それは一日のできごとだったってこともありますし、逆に、例えば、モーバッサンの『女の一生』みたいな作品をみますと、一冊の本には違いませんけど、一冊の本の長さのなかで、まさにそれを読んでいきますと、その世界に入ってみますと、ひとりの精神的な、結婚し、主婦になり、子どもを生みみたいなことをしながら、老いていくっていうような、そういう女の一生っていうような、その時間が一冊の本を読むなかで、その時間を体験しているっていうふうな体験の仕方っていうのは、文学作品みたいなものをみますと、非常によく体験されるわけです。
 その場合、体験される時間性、空間性によっても、そういうものは、決して意識を超える流れ、時間でもなければ、自然の時間性でもない、また、意識独特の表現的な時間といえばいうよりしかたがない、そういう時間だっていうふうに考えられるわけです。
 それからまた、その表現的時間の流れを決定しているのは、いわば、ある概念がこちら側にあって、そして、その概念に相当する言葉の表現っていうのが向こう側にあって、言葉と概念のあいだで考えられる空間性というものが、まさに、さっき言った作品の空間というものを決定していくだろう、そういう意識とも違う、自然時間とも違う、そういう時間っていうものをひとつ想定しなきゃできないっていうようなふうに考えて、そういうものを基軸に入れていくっていうことだとおもいます。
 たとえば、メランコリーっていう状態があるでしょ、メランコリーっていう状態は、病気の状態、異常っていうような状態って意味ですけど、メランコリーっていうものの本質っていうのを、たとえば、考えていった場合に、考えやすい考え方っていうのは、たとえば、自分っていうものと、表現的自分、つまり、表現される自分とのあいだの異常、あるいは、表現的時間及び空間性の異常と考えると、メランコリーっていうのは、わりあいに解きやすいのです。
 つまり、メランコリーっていうのは、分裂病みたいな意味あいでは内省的になって、外からわかるっていう印象を与えるんですけど、なおかつ、内省的にみえる、そういう微妙なところっていうのを、表現的空間っていうようなものと、また違う言い方をすると、表現的な自己っていうものとのあいだにある関係、概念と立場みたいな関係づけがおこなわれていて、その表現的な自己っていうところに、まさに、他者っていうものが入り込むことができるっていうような、そういう関係を想定すると、わりあい解きやすいんじゃないかってことを考えたりしたわけです。
 それから、もうひとつは、堅苦しさとか、几帳面さとか、完璧主義みたいな、そういう考え方っていうのは、表現的な自己っていうものを眺めていく時間性、空間性に、秩序の変動を許さないっていうことが問題、そういう問題なんじゃないかって、そういう時間および空間の障害なんじゃないかっていうふうに考えれば考えやすいってことです。
 たとえば、「わたしは馬鹿だ」っていう表現と、「馬鹿だ、わたしは」っていう表現とは、まず、意味性としては変わりがないことは、通常ならば、非常によくわかる。ところが、メランコリーのある状態になっていくと、どうしても、「わたしは馬鹿だ」っていうふうに言わなければ、つまり、その順序っていうもので通らなければ、どうしても承認しがたいっていうこと、つまり、「馬鹿だ、わたしは」って言っても意味構成はおんなじなんだっていう、意味としてはおんなじなのだから、「馬鹿だ、わたしは」っていう言い方もできるんだっていう、そういう可能性っていうのは閉ざされていて、これは自我の可能性とか、自己意識の可能性が閉ざされているってなって、表現された自己っていいますか、そこでの可能性が閉ざされているってことで、そのために、かならず絶対に、「わたしは馬鹿だ」っていう言い方に固執する。
 あるいは、なぜか、表現的自己っていう、そういう言葉の、行為っていうことで言ってもいいのですけど、ある行為をする場合に、Aっていうことをやって、Bっていうことをやって、それからCっていうことをやって、Dっていうことをやって、それからならば、寝ることができるという、しかし、そのなかで、Aっていうことをやって、Bっていうことをやって、Cっていうことを抜かして、ある場合には抜かさざるをえないっていうのはあるわけです。抜かして、Dにとんで、Eにとんで眠るっていうことは、絶対にできない。だから、寝る前に絶対にABCDをその順序でやらなければ寝られないっていうような、たとえば、不眠症っていうのがあるとすれば、それは、行為による表現ですけど、その場合には、表現において順序性っていうのは、絶対に固執されるっていうことだとおもいます。この問題はステージBっていうような、そういういわば、そういう流れを絶対固執するっていうことだとおもいます。
 それから、もうひとつ、完璧主義っていいますか、几帳面さっていうこと、つまり、たとえば、精算をしたって何をしたって、会計をしたって、10円違っていたとする、10円違っちゃっていたら、10円違った分をちょうどきちっと合うまで、絶対やめない、時間がどんなにかかってもやめないっていうような、そういう完璧主義みたいのがあるとすれば、ごくふつうのひと、ふつうのひとはそうしないか知りませんけど、ぼくならば、10円、じぶんのを足しちゃって、すぐにはしませんけど、多少、何回か計算が合わなくて、辻褄を合わせちゃうってことを、大なり小なり、どこかで、つまり、ある段階ではやるわけですけど、それを世が明けようが、明日になろうが、とにかく10円違っていたら絶対やり直す、いつまでもやめない、どうしても10円合うまでは絶対にやめない。そういう、いわば、完璧性への固執っていうのがあるとすれば、それもまた、Aの次にはBをやり、Bの次にはCをやり、それで、BとCを反対にやったって、あるいは、Cがそこに抜けていたって、最後までいけばいいじゃないかと、抜ける抜けないってことは状況の問題であって、ある場合に、突発的なことが起これば、CならCの項目が抜けてしまう、ある場合に、どこか10円がそこらへんに転がっているんだけど、隠れてわからなかった。いくら合わせたって、それは、10円は絶対に合うわけはないのですけど。そこのところで、他の可能性っていうのが、もし、考えられるとすれば、そこで、ある程度合わせて、10円合わなかったらやめてしまうわけです。やめてしまうか、やめて、辺りを探して、どこかに落っこちていないか探して、探しても、なお、ダメだったら、とにかく、補っておこうじゃないかっていうような、そういうやり方をどこかで、人間っていうのはすると思うんですけど。
 もし、完璧性に固執して、つまり、メランコリーっていうもののひとつのかたちで、絶対完璧性に固執するひとがいるとしたら、そのひとは、明日が来、明後日が来っていうことがあっても、やっぱり10円が合わなければそれをやるっていう、他の可能性は考えられない。
 どこかに落っこちたんじゃないかとか、どこかで誰かがあれしたんじゃないかとか、そういう可能性が考えられないで計算に集中する、計算に集中するエネルギーと時間っていうものが、仮に、10円を補うか、補わないか、あるいは、10円どうしても足りないというふうに、他に訴えることによって、それを承認させるっていうことよりも、はるかに多くの労力がかかったとしても、10円足りなければそれをやるっていう、それはたとえば、そういう順序性の固執っていうようなもの、そういうようなものは、完璧性の固執っていうものは、いわば、極度になされる場合に、それはどういうふうに理解したらいいかっていうと、やっぱり、表現的自己と自己自身の関係っていうものに固執する。あるいは、順序に固執するっていうふうに、そういうふうに理解したらいいっていうようなふうに考えられる。そこでの時間・空間障害でもって、意味構成っていうのは、単一にしかできないってこと、そういうふうに理解したらいいっていうふうに、表面的時間っていうことを考えたとおもいます。
 そういう表面的時間っていうもの、いずれにせよ、基本的に決定しているのは、じぶんのじぶんに対する関係の空間性っていうもの、それから、関係づけの空間性っていうもの、あるいは、じぶんのじぶんに対する理解、つまり、じぶんがじぶんをどう自己理解するかっていう、そういう理解性の時間っていうもの、時間っていうものが、いわば、基本的に、そういう時間性・空間性に基本性を決定するだろうって考えたと思います。
 そういうところから出てくる問題っていうのは、文学がでてきたわけですけど、いろんなことを説明するのに意味があるような気がします。少なくとも、文学の作品についての理解でしたら、どうしても表現的時間、表現的空間っていうような、それで構成されるというふうに、それから、そう考えるより仕方がないってことがいえると思います。そういう時間と空間と決定するより仕方がないことになると思います。
 それから、神話っていうものの理解の仕方っていうのは、さまざまな解釈の仕方があるわけです。たとえば、フロイトなんかでも、ユングでも、ある意味でおんなじだと思うんですけど、ひとりの個人の胎児の時代から、胎外に出て、乳幼児期から成長して青年期になるっていう、そういう個人の心の成長の歴史、つまりこれは、肉体の成長の歴史を伴うわけですけど、そういう成長の歴史っていうものを、いわば、歴史における人間の存在の仕方の発展の仕方っていうことを類推しているところがあるわけです。
 だから、個人における乳幼児っていうものは、歴史の中の人間っていうことでいえば、未開人の心の世界っていうものと、対応させられているわけです。これは、無意識のうちに対応させられているわけです。
 だから、個人の乳幼児の心の歴史っていうものをどこから解いていくのかっていった場合、さまざまな方向から解いていくってことが、ひとつ結果としてあるわけでしょうけど、つまり、夢の分析とか、問診とか、連想とか、そういうようなことで決定する面があるわけですけど、もうひとつの類推の仕方としては、明らかに、歴史の中での人間っていうことで、未開人の心の世界っていうのはこうじゃないか、おこないの世界っていうのはこうじゃないか、そういうところと類推しているところがあると思います。こういう類推の仕方っていうのがあると思います。
 この類推の仕方っていうのは、非常によく類推がきくので、たいへんわかりやすい、たいへんいいところがあるんですけど、だけれども、未開人と個人の乳幼児と、明らかに違うところは、未開人っていうのは、未開社会のなかでは、未開人っていうのは完成された心なんです。ところが、乳幼児っていうのは、完成された心じゃなくて、過程的な心なんです。つまり、過渡期の心なんです。どこかにだんだん完成されていくっていう心なんです。
 ところが、未開人っていうのは、たしかに乳幼児と対照とすると、非常にわかりやすい、類似が効くところがあるんですけど、未開人っていうのは、それ自体が大人っていいますか、それ自体が成熟した、あるいは、完成した、その時代には完成された心の世界をもったわけなので、乳幼児っていうのは、そうではなくて、完成された心の世界じゃなくて、まさに、ひとりの個人の成長するある時期の心の世界なので、そういう意味では、この類推っていうのは、ほんとうは成り立たないっていうような、つまり、歴史的な時間っていうものがとんでいる連鎖っていうのは、やっぱり考えにいれないと、まったく類似で同じだよっていうふうには、類推はきかないってことはあると思います。
 神話の理解の仕方っていうのは、そういう理解の仕方とか、いわば、文化人類学みたいな、あるいは、もっとあれして、考古学みたいなもの、それから、いわば風俗・習慣、あるいは、文学の表現みたいなものとして残っているもので、比較的、民謡みたいなもの、俗謡みたいなもの、そういうものは、比較的、時代の変化っていうものを、あんまり受けないで、基層でもって、いちばん底のほうのところで長い歴史の時間を耐えてくるところがあります。
 いわゆる、芸術的な芸術みたいなものは、10年も経っているうちに、すでに様式が変わってしまったりするわけですけども、民謡とか、民族品とか、そういうようなものっていうのは、わりあいに、時間の淘汰に耐えてきたあれもありますし、昔話みたいなもの、伝承みたいなものは、時間の淘汰に耐えてきたものなんです。
 ですから、そういうものをもとにして、あるいは、そういうものにまつわる具体的な器物とか、発掘される遺跡とか、そういうものから組み立てまして、神話の世界っていうのを類推するっていう仕方っていうのは、もちろん、風俗・習慣、たとえば、祭りの行事みたいなものから、神話を類推して、神話の構造を明らかにした。そういうふうな仕方っていうのもあるわけです。
 ぼくらは、なにも具体的な、例えば、日本の神話なら神話について、具体的な分析っていうのを、部分的には、断片的にはしたことがありますけど、それ自体を本格的にやってことがないのですけど、ただ、ぼくらの考え方の原理・原則になっていることは、非常に簡単なことなんです。
 簡単なことっていうのは、どういうことかっていいますと、それはあるひとつの過去の種族、あるいは民族、神話でもいいわけですけど、あるひとつの神話っていうものが、その種族のたどってきた、種族がもってきた、さきほどのあれからいいますと、共同の観念っていうことなんですけど、保持してきた共同の観念っていうものです。
 共同の観念に、ある種族の神話っていうものは、いわば、その種族の共同の観念っていうものと抵触すること、つまり、接触すること、接点っていうようなものがあったとすれば、その接点にある物語っていうものは、神話の物語ですけど、物語というものが、どんなに荒唐無稽な物語であっても、そこには、いわゆる実在性はなくても真実性がある。つまり、確かめるっていいますか、明らかにしていくに値する、非常に重要なポイントがあるという考え方です。
 ですから、逆にいいますと、どんなに、ある神話の記述が、例えば、神武天皇がどこかにいって、日向のなんとかからこういって、大和の国に号令かけたとかっていう、そういうような神話の中の記述があるとしまして、その記述っていうものが、どんなに実在の歴史、あるいは、実在の史料、それから、実在のお祭りの行事のパターンっていいますか、型っていいますか、そういうようなものからあれして、どんなに合致するように、神話の物語っていうものが、歴史的なあれと、どんなに合致するように見えても、現在でも、痕跡でも固持されているだろう、共同の観念っていうもの、共同の観念っていうものと、なんら抵触するところがないというふうに、ここだと思われる抵触する箇所がないとしたら、どんなに実在の記述のようにおもわれても、その記述は信じてはならない、つまり、その記述のところにはあんまり大した意味はないというふうに理解すべきだろうってことは、原理的な考え方としては、そういう考え方があるわけです。
 ですから、そういう考え方で、神話っていうものを、神話的な記述、日本でいえば、『古事記』とか、『日本書紀』っていうのがそうですけど、そういうものの記述を読んでいきましたら、明らかに、物語としては、荒唐無稽なことなんだけど、つまり、なんら実在した根拠はないので、荒唐無稽な物語なんだけれども、なんかそこに真実性、種族、あるいは、民族でもいいですけど、そういうものの共同の観念が、非常にリアルに接触しているっていうふうにおもわれるときには、そこの物語がどんなに荒唐無稽でも、そこには、相当重要な事実が含まれているはずだから、そこはやっぱり、大きく問題にしなければならないという考え方であるし、また逆に、非常に歴史的な記述と地続きになって、いかにも、あったらしいように描かれていても、それが、種族あるいは、民俗っていうのが固持している、いわば、共通の観念っていうものですけど、これは、なかなかこれは、ユングの云うとおり、なかなかこれは、そんなに簡単に変化しないものなんです。
 だから、そういうものとなんら抵触するところ、つまり、相触れるところがないとしたら、どんなに尤もらしい歴史記述を読んでみても、それは、あんまり問題にすることはできないということ、そういう原理・原則っていうのは、ぼくらも持っているとおもいます。
 それは具体的に、神話の理解に適応したってことは、ぼくは少ししかないので、部分的にしかないものですから、あんまり、あれを言えないのです。たとえば、共通のあれでいいますと、つまり、どこの国の神話でもあるだろうと思われるというのをひとついいますと、例えば、神話の中にオオゲツヒメっていうのがでてくるんです。
 それは、オオゲツヒメが死ぬと腐った体の部分が、例えば、麦のあれがでてきたとか、穀物のなにやらがでてきたって、そういうふうに体が腐敗したところから出てきたのが、麦だ、粟だとか、そういう記述っていうのはあります、日本の神話の中に。日本の神話だけじゃなくて、多少違いますけど、そういうあれっていうのは、相当のところにあると思います。相当なところの神話でも、みんなあると思います。
 そういう場合には、ほかのは別として、そこのところは、相当、真実性っていうのはみないといけないってなるわけです。つまり、物語としては荒唐無稽なんです。オオゲツヒメが死んで、体が腐敗していったら、足のところから何がでて、ここからは何がでてっていうようなことになるわけです。
 そんなことは、問題にもならないわけですけど、でもそれは、わりあいに問題にしなきゃいけないっていうふうに思われることは、いわば、植物っていうものは、穀物ですけど、つまり、五穀みたいなものですけど、穀物っていうものの、いいかえれば、食べることができる植物っていうことですけど、食べることができる植物っていうものが、生成するためには、生成して代々受け継ぎこられる、そのためには、ある非常に最初の時期、オリジナルなそういう時期に、民族なり、部族なりの、ひとりの神様みたいなもの、つまり、神様みたいなものが殺される、あるいは、ひとりのそういう人間を殺すっていうこと、つまり、ひとりの、部族、民族の神様っていうものは、殺される、あるいは、殺すっていう、そういうことによってしか、食用となる植物っていうのは、芽生えて、それを刈り取るっていうようなことが繰り返すっていうふうに、そういうふうな、植物っていうのは生まれることができないっていうような、そういう観念っていうものは、わりあいに重要な観念だっていうふうになるわけなんです。
 なぜ重要な観念かっていいますと、それが、例えば、いま現存する祭りなら祭りみたいなものを考えても、その場合に、人間を実際に殺してしまうっていうようなことじゃなくて、その代わりに、供え物を、人間のどこかを、頭を象徴するとか、体を象徴するとか、そういう象徴となるような食物をつくったり、もっと前だったら、動物みたいのを殺して供えたりっていうような、そういうふうなことをすることによって、穀物が代々育つようにっていうような、そういうかたちの祭りっていうのは、現在でも存在しますから、そういうかたちの祭りっていうのは存在しますから、それは、神話の中では非常に荒唐無稽な物語であるかのようだけど、それがずーっと変遷してきて、いまのみんなが行う、どこかにいけば行う、地域、地域で行っている、共同で行っている行事のなかに、そういうものがあるとすれば、そういう神話の荒唐無稽な物語っていうのは、非常に大きな意味をもっているんだっていうふうに理解しなければいけないっていうこと、そういうことが一例である。
 たとえば、日本の神話でもって非常に基本的にあれを決定しているのは、さきほどもちょっと出ましたけれども、アマテラスオオミカミっていうものは、女の神様が天上を支配して、それから、その弟のスサノオノミコトっていうのが、葛藤し、対立したり、あるいは、性的な関係を結んだりっていうようなことがあるわけですけど、それから、追放されて、地上の世界を、例えば、出雲の国にきて、地上の世界を治めたみたいなふうな神話があるとすれば、姉が天上を支配し、弟が、男の姉弟が地上を治める。あるいは、姉が信仰を司り、その姉弟が政治的な支配っていうものを握るっていうような、そういうかたちっていうものは、これは、わりあいに基本的なことだから、だから、そこのアマテラスオオミカミとスサノオノミコトに関する物語が、どんなに荒唐無稽にみようと、そのふたりの間の葛藤みたいのが、どんなに荒唐無稽にみようと、そこでは、非常に大きな意味あいがあるというふうに、考えなければいけないってことがあるわけです。
 たとえば、それは江戸時代だって、みなさん、そういうことはご存じでしょうけど、たとえば、女の人が、亭主が嫌になっちゃって、嫌いになっちゃって、離縁したい、離婚したいわけですけど、離婚の成立っていうのは、あんまりできないのです。だから、鎌倉の東慶寺ってところがあって、そこに駆け込みするわけです。駆け込みをして、そこの寺に入っちゃったら、もういいんだってなるわけです。
 ところが、それだけが、江戸時代における女性の、つまり、離婚の自由っていうのは、それだけかっていったら、そんなことは絶対ないわけです。ひとつはこういうことなんです。男性が、つまり、亭主が、女房の持ってきた、嫁入りの際に持ってきたタンスとか、なんでもいいんです、女房が嫁入りの際に持ってきた持ち物があるんです。それを女房に無断で使っちゃったら、女房のほうは絶対に離婚の請求ができるようになるわけです。江戸時代はそうです。
 そうすると、そこだけが非常に、一般的には亭主のほうが三下り半かなんか書いて、帰れって、離婚だっていえば、それは承認するより仕方がないっていうこと、それを破るには、どうしても駆け込み寺にいくよりしかたがないっていうふうに、一般的にはそういうふうに流布されています。それは、そうではないのであって、亭主が女房が持ってきた持ち物を使ったら、そしたら、女房は亭主に対して離婚の請求ができるわけです。そういうあれがあるのです。
 そうすると、その両者っていうのは、非常に矛盾するわけです、一見すると。そうすると、亭主が面白くないとか、なんか理屈をつけて、三下り半を書いて、おまえ帰れ、離婚だって、そうした場合に、今度は、女房は駆け込み寺なんかに行かないで、奉行所かなんかに訴えるわけです。こんな無法なことはないから、なんとかしてくれって訴えたとするでしょ、そうすると、亭主のほうも呼ばれるわけです。それで、おまえは女房の持ち物をなんか使ったことはないかって言われるわけです。そしたら、たいていの奴は使ったことがあるわけなんです。たとえば、引き出しとか開けたら、女房が実家から持ってきた紙切れがあって、それをちょっと失敬して鼻をかんだっていう、そういうことがないことは絶対にありえないはずです。ですから、そういう場合には、なんかないか、紙切れ一枚使ったことがないかと追及されると、亭主のほうは、やっぱり使ったことがあるというふうに、たいていはそうなるわけです。そうすると、三下り半は無効になるわけです。それで、亭主のほうは逆に百叩きになっちゃったりして、離婚は停止ってなるわけです。そういうのはなっているわけです。
 だから、江戸時代に女性のほうが虐げられたなんて、絶対、嘘なんです。いまよりも、もっとそうじゃなかったんです。歴史っていうのは、そういうもので、表面ばっかりあれしたっていけないのであって、表面っていうことは、法っていうものも、私法、公法ありますし、幕府法もあります、官法もあります、それから、私法もあります。
 それで、私法っていうのだけみていくと、三下り半まですると、いかにも男性はすぐに離婚できたみたいなふうになるわけですけど、法っていうのも、共同の観念のひとつなんです。ひとつの形態なんです。法っていうのは、リアルな社会に、リアルな場面にどう接触するか、ここではじめて、真実っていうのがあらわれてくるわけです。
 ですから、江戸時代に、ほんとは、三下り半書けば、すぐに離婚できるように思われたり、それを、ようするに、駆け込み寺にいくよりしかたがないと、女性がなっていると思ったら大間違いで、そんなことは、法の掟の文面のところだけであって、それを実際問題としていったら、かならずといっていいほど、女房の言い分は通るわけなんです。こんな馬鹿な離婚成立はない。亭主を奉行所へ召喚して、おまえ、女房の持ち物を使ったことないか、そんなものはない、女房のことを売り飛ばしたことはないか、ない、しかし、おまえ、紙を使ったことはないかくらいまでいけば、たいていは、それはあるっていうことになって、そうすると、三下り半は無効であるってなって、たいていは、亭主のほうがお尻を叩かれて、百回叩かれて、それで終わりっていう、そういうふうになるわけです。
 そういう場合に、なぜ、そういうふうに、女房が実家から持ってきたそれを使ったら、紙一枚といえども離婚のあれになるっていうふうに、どうしてなっているかっていうと、それは、さきほどの、アマテラスとスサノオのあれなわけで、つまり、母系制っていうもの、日本の社会の起源のはじめのところにあって、母系制、あるいは、母権制社会の名残りっていうものが、江戸時代においても、なおかつ、あったからだってことになります。
 それは、いわば、女房の持ち物一枚を使ったって百叩きだっていうような感じに、かならず、男性のほうが不利になるっていうふうに、ちゃんとなっているのは、いわば、母系制の名残りだって理解すれば、それは、理解することができるわけです。
 そこでもって法っていうものが、私法っていうものが、いわば、神話的な確信ってことにつながっていく、そこのところに真実っていうのがあるっていうような、そういうものは、そこにありうるわけです。
 女性が虐げられるようになったのは、やっぱり、近代以降、明治時代以降、そういうふうになっちゃったわけです。なっちゃってるわけだけど、そうかそうかって思ったら。ちょっと大間違いでして、いまだってわからないですから、そういうことは、そうかそうかって、男のほうは思っているかもしれないですし、それはわからないですから、そういうことは、ほんとうに、共同に保存していく観念っていうようなもの、そういうものと、要は神話的記述における観念、そういうものに抵触すること、そういうところにいわば、真実っていうものをちゃんと見つけていかなきゃならない。そこでもって、神話っていうものを理解していったら、非常に荒唐無稽な記述であっても、ほんとうは荒唐無稽じゃないし、歴史と地続きになって、いかにもありそうに見えても、それはちょっとダメだよ、それはっていうような、ほんとうは違うよっていうような、そういうことになるっていうこと、そういう原則、原理っていうのは、ぼくはそういう原理を、神話を理解するにあたって、そういうふうに理解するんだっていう、原理をもっているってことはいえると思います。

17 質疑応答2

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 さきほど言いました典型的な夢の例っていうのは、橋の例なんかがそうですけど、それから、試験に落っこちた夢っていうのは、わりあいに、どこの民族でもある、ギャーって落ちたっていう夢っていうようなものも、どこのあれにもあるんです。
 そういう典型的な夢については、じぶんの理解の仕方っていうものを3つの軸に即して、ぼくの『心的現象論序説』っていう本の中でやってきてるわけなんです。これもやっているんですけど、本格的にあれしたことはないのです。夢の例をたくさん集めてきて、分析であれしてっていうような、それだけのことをやったことはありません。ただ、典型的なあれについてはやったみたことがあるのです。
 それから、もうひとつは、夢っていうのは何かっていうような原理、ぼくなりの考え方の原理っていうのはあるんです。夢っていうのは表現であるっていうことなんです。表現っていう問題っていうのは、ぼくはいろんなところで、いろんな意味で使っているので、非常に単純化できないのですけど、表現であるっていうこと、つまり、入眠時、あるいは、睡眠時における心の状態のある表現だって考えています。
 それは、原則的には、原理的には、いわば、覚醒して目覚めている、つまり、日常性において、目覚めているときに、時間としてあらわれる、つまり、わたくしは~であるっていうような、「わたくし」の次に「は」があるっていう、それはひとつの時間の流れなんですけど、「は」「わたくし」っていうのは成り立たない、「わたくしは」ってことでないと意味が通らないとなるわけです。
 つまり、そういう目覚めているときに、われわれが、ある現象、あるかたち、そういうようなものに、ある人との会話に、意味があるっていうふうに考えた場合の、そのときの時間性っていうものを、そういうものは、夢の中では空間性として、逆に、空間性としてあらわれるだろうっていう、それから、眼が覚めているときに空間性としてあらわれるということ、つまり、この形象の黒板の次には例えば電球があった。つまり、この黒板の次に柱があって、電球があった。こういうふうに形象的に眺められるとすれば、これは、夢の中では、時間として出てくるであろう。
 むしろ、形象を形象たらしめている、つまり、例えば、この右端から、黒板からずーっといくと、黒板の次に柱があって、それから電球に、こういうふうにいくわけですけど、こういうふうに時間が流れていくわけですけど、その場合に、形象としてあるものは、むしろ時間性として夢の中に出てくるだろうってこと、だから、夢っていうのは、現実の場面での空間性っていうのが、時間性として出てくる。時間性っていうのは、逆に空間性として出てくる。
 だからといって、いわゆるフロイトのいう、夢の中で形象はむちゃくちゃだし、原理もむちゃくちゃだというふうな、そういうことは、いわばそれは、いってみれば、覚めているときの空間性っていうのが時間性として出てくるからであり、逆に、時間性は空間性として出てくるから、通常、覚めているときの意味あいで、意味構成ができるかっていうと、それはそうならないぞっていうことが、そういうことだろうっていうことがいえる、原理的にそういう考え方です。
 それから、もうひとつの原理的なことは、覚めてのち覚えている夢っていうのは、大なり小なり、その人にとって、少なくても、最小限度、その人にとっては意味があるだろうってこと、つまり、追及するに値する意味があるだろうってこと、覚めてものちに覚えている夢っていうものは、夢そのものであったかどうかっていうのは、まったくわからないわけです。夢そのものであったかどうかっていうのは、まったくはかることができないです。まったく覚めたときにのみ、残っているのであって、それが夢の全部であったかどうかは、まったく不明なわけです。
 それにもかかわらず、覚めてののちに覚えられている夢があるとすれば、それは、いま言いました、時間と空間とが、逆な世界における、つまり、睡眠時、あるいは、入眠時における意味構成の世界と、それから、目覚めているときに、通常われわれが行っている意味構成の世界では、なんらかの意味で接点を持っているってことを意味するわけです。覚めてのち覚えられている夢っていうのは、接点を通過していることを意味しています。
 ですから、いわば、無意識の領域と覚醒時の意識ある領域との両方を結ぶ、結節点として結ぶ、非常に重要なものが、少なくとも、その夢を見た個人にとっては、少なくとも、重要な問題が、覚めてのちあらわれている夢の中にはあるだろう、そういうふうに追及するに値するだろうっていう考え方っていうのが、非常に原初的にあります。
 これは、ぼくが、それを突っ込んで、夢の症例をたくさん集めて、それを分析して、解析してっていうことはやっていませんけど、ある典型的な個人にとって、それは個々に重要だっていう、それから、さきほど言いましたリビドーの問題としても重要だと思われるんです。それから、いわば、共同性の中の個人の心的な世界っていう意味あいで、関係の世界という意味あいで重要だと思われる夢っていうようなことで、典型的なものについては少しやったので、少なくとも。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま