1 司会(笠原芳光)

2 古典の世界をどう理解するか

 今日は「文学の現在」というテーマでお話しするわけですけれども、ここ何年かのあいだ、ちょっと現在につかず、文学のことでは古典の世界に入っていたもので、どういうふうに入ってどういうふうに文学の現在というものに到達したらいいのか、少し考えたりしたものですから、その脈絡をつけながらお話をしてみたいと思います。
 古典の世界は、みなさんも読まれると同じ体験や実感があると思いますが、その世界に入っていくと、自分の視野がだんだん狭くさせられ、そして立体的に行きているこの現実が、だんだん平面のなかに閉じ込められていくような感じを伴います。この実感はいったいどこから来るのかというと、現在にいながら遠い過去に書かれた作品の世界に入っていくために、そういう平面のなかに閉じ込められてしまうという実感を伴うんだと思います。
 これをどうやって逃れるかを考えた場合、たいていは古典の世界のなかから主なパタ-ンを現在に引き寄せて、そこでもう一度、古典の世界を組み立て直すというやり方をしますと、平面のなかに閉じ込められてしまう息苦しさは、緩和されるわけです。しかし、おそらくそのやり方は、本当ではないので、どうしてもこの平面のなかに閉じ込められてしまうという実感の大切な部分は失われてしまいます。そういう平板な世界に閉じ込められながら、現在に引き返してくる角度とか、引き返し方が問題になります。その問題がきっと、文学の現在につながる問題のひとつでありうるんじゃないかと思います。
 具体的に中世を考えてみます。中世に、後鳥羽院という天皇がいまして、歌も詠みますし向こう気も強く、幕府に挑戦して島流しになっちゃう天皇です。その後鳥羽院の歌に、

 見渡せば山もと霞む水無瀬川
夕べは秋となにおもひけむ

 という歌があります。
 この歌をなぜあげるかというと、僕がみなさんと同じ年齢くらいの頃、保田与重郎という人の『後鳥羽院』という本があり、そのなかで、愛唱歌のひとつであるし名歌のひとつである、という評価がなされていました。現在もそういう評価があるのではないかと思われるので、例にあげるわけです。
 この歌がなぜいい歌と読めるのかといいますと「夕べは秋となにおもひけむ」という表現のしかたがポイントになります。
 「夕べは秋と」という表現を現在にひきよせて読みますと深読みすることができるわけです。どういう深読みかというと、「夕べ」というのは夕方を一種擬人化して、その夕方と秋とが、対話を交わしているみたいな深読みができます。この深読みができるために、耳さわり、口ざわりがいいし、また感性的にいって「夕べは秋と」というコトバが、現在的なメタファを校正していると読めるのです。
 しかしこの読み方は明らかに深読みなんです。清少納言の『枕草子』のなかに季節季節で何がいいんだろう、「春はあけぼの」がいい、「夕べは秋」がいいという箇所があり、それは当時流行言葉みたいなものとして流布されていました。それを歌のなかにもじってとってきて、「夕べは秋」がいいと人は言うけれど、そうでもないよ、春の夕べもまたいい、ということを言っているんだと思います。
 そうすると「夕べは秋と」という言い方は、いまで言えば「頭痛腰痛にサロンパス」というのと同じ定りコトバなんです。つまり「頭痛腰痛にサロンパス」といった標語と同じことが、後鳥羽院の歌のなかの「夕べは秋と」という表現になるわけです。
 つまり、古典というのは、現在に引き寄せたり、あるいは現在の感覚でもって同時代に入り込んでいったりしますと、「腰痛にサロンパス」とか「ファイトでいこうリポビタンD」とかいう定り言葉の次元で表現されている「夕べは秋と」が、高級で芸術的なメタファになってしまったりします。そうすると歌全体が芸術的に高度な感性を狙った歌のように読まれるわけです。
 古典が現在読まれる場合に、多くそういうふうな読まれ方して、そういう解釈のされ方をしてるということは、みなさんがちょっと考えればすぐにわかると思います。しかしこの歌はそんなに高級なことを言おうとしたのではなく、「夕方は秋の夕暮れがいいと流布されているけれども、水無瀬川の流れが春霞につつまれた山際から流れてくる風景を見ていると、そうでもないんだよ」と言っているだけで、そういう次元でつくられた歌だということがわかります。
 もし古典を現在にすぐに引き寄せて再構成しようとしたり、現在われわれが持っている感性、認識、そういうものをあげて古典の世界をくぐっていこうとすると、通俗的な意味でつくられた歌というものが、高度な芸術意識でつくられた歌だと理解されたりします。ですから古典の世界を理解するためには、いずれにせよ一度は立体のなかから平面のなかに閉じ込められてしまう息苦しさとか、空しさみたいなものをどうしてもくぐることが必要なんだということがわかります。それをくぐらないと、とてつもない解釈になるんじゃないかと思われます。問題はそういう世界から出てくる出方だと思うんです。引き返してくる引き返し方ということでもって、古典の評価ということが決まっていくところがあります。

3 言葉の表現が体験そのものだった神話時代

 そう考えていきますと、中世から現在に生きる未来というものが、どういうふうに見えただろうかということが問題になるわけでしょう。しかし未来は豊かであって、自分たちの芸術的意識も何もみな貧しいと思われていたかというと、必ずしもそうではないということが言えます。
 ある時代における文学、芸術というもののあり方から、先の時代が文学芸術にとって豊かな時代に見えるか、あるいは文学芸術にとって閉ざされたくらい時代に見えるかという問題は、その時代時代のあり方、情況が決めるので、必ずしも直線的に同時代から未来を見ると文学芸術にとって豊かな土壌が開けていると見えるか、あるいはその反対に見えるかを断定できません。この問題を、もう少し本質的に言うために、遡って、たとえば神話がつくられる古典の幼年期を考えてみます。
 神話の時代まで遡りますと、現在考えているのとはるかに違って、コトバを人間から話して対象的に見ることのできない時代が想定されます。言ってみれば、平面への閉じ込められ方が、さらにきわどかった時代ということです。神話の時代には言葉の表現が体験そのものであった。言葉が自分から分離されない時代ということを想定することができるわけです。
 その時代には、表現されたものは、人間にとっては現実の体験と同じ体験と見なされていたでしょう。神話は荒唐無稽な物語なんですけれども、人間が言葉を自分から切り離すことができなくて、言葉に乗っかったまんま、体験した世界だと言えます。ですから、実際にそういう体験を現実的にしたわけではないのですけれども、神話時代の人間にとっては、言葉がそのまま現実の体験の通りではないんですけれど、そこに形象化されたもののどこかには、真実性が含まれていたことがわかります。
 神話を歴史的な事実と解釈することも、またこれを荒唐無稽なつくり話と解釈することもできない微妙な核が、神話的な物語のなかに含まれていて、その核をどういうふうに探すかということが、きっと神話学の大きな要素じゃないかと思います。こういうことは原則的な言い方なんで、たとえば『古事記』とか『日本書紀』という日本の神話物語は、新しくつけ加えられたであろう表現を、どんどん削っていかなければなりません。そうするといくつかのパターンでは、いま申し上げました通り、神話的な物語自体が、あたかも現実的な体験そのものであったかの如くみられる核を探り当てることは可能だと思います。現在残されている『古事記』とか『日本書紀』というものが、みんな古いものだと考えたら、とても違うと思います。

4 文学芸術にとっての最初の問題

 ついでですから、もう少し遡って、もはや現在からみると閉じ込められ方がまさに一点に修練してしまうというところまで考えてみます。つまり、そういう原始的な時代を考えてみますと、人間の外にあるものは、すべてが生き物だと考えられていた、そういう時代を想定することができます。人間もそうですけれども、動物も植物もみな生き物であるかの如く体験される、そういう世界があるということです。
 そうしますと、何気なく通っていたらけつまづいた石、そこにあった池とかそういうものが、言ってみれば擬人化されて、みんな生き物のように人間に作用してしまう。そういう時代までいくと、もはや現在われわれが持っている感覚、認識、そういうものではまったく通用しない奇態な考え方がなされていたでしょう。
 そこでは、たまたま自分がけつまづいた石というものが、あたかも生き物のように考えられたり、あるいは何かに動かされて自分にけつまづかせるためにそこにその石がおかれていた、というように、石自体に人格を与えてしまうという認識のされ方が流布されていたということだと思います。つまり、人間というのは感性的に言えばそういう認識のしかたしかできなかっただろう時代を想定することができると思います。
 そこへいきますと、もはや現在の感覚からは、点のなかに閉じ込められたという感じしかないわけで、その点のなかに閉じ込められたときには命あるものがそこらへん、山にも川にも見ずにも至るところにある。人間がぶつかったことで、その人間にとって、切実な観念づけができるとすれば、そのものはすべて人格化されて考えられてしまうのです。
 そういうふうに想定されてしまいますと、現実の行為というものと、観念の流れというものが、そのまま自分の現実体験として未分化のかたちで行為が考えられるわけです。
 たとえば、ある道を通ってある山の傍らに言ったときには、こういうことにぶつかったとか、こういう心の体験をしたということが、もしすべての人々にとって共通だったとすれば、そこは人間の行為の流れが滞る場所でああって、繰り返しそのことがすべての人にとって問題になりうる。おそらくそういうものが今も形を変えながら残っているとすれば、お祭りとか儀式、そういうものとして残されているわけです。そういうものを、いくつかつなぎあわせますとひとつのドラマができるわけです。それが、文学芸術にとって最初にある問題だと思います。

5 言葉と現実の隔たりを現在としてつかむ

 それ以前の問題を考えると、人間が生まれない以前の世界ということになってしまうので、もはや人間はそれに具体的に関与することができないということになります。ただ、人間がどうして生まれたのか、できあがったのか、それから人間より前に天と地、つまり自然というものがあるとすれば、自然はどうしてできあがったか、つまり開闢神話になってしまいます。原始人が、自分がなぜ存在したかということから逆に、では天と地はどうして存在したかということをつくり出していく。それがどの神話でもきっと巻頭にやってきます。もはやそこまで遡ってしまえば、もう遡りようはないわけで、そこがおそらく、言葉による表現、行為というようなもののいちばん最初にやってくる問題ではないかと思われます。
 日本の神話で言えば、天地が生まれたときにできた神は、日本語の表現では「ひとり神」となっています。「ひとり神」というのはセックスがない神という意味だと思いますが、ひとり神からずっときて、イザナギイザナミみたいな男女神が生まれてくることになるわけです。つまりその場合の男女神が生まれてくるところと、ひとり神というものが最初に生まれてくるその空白を時間として考えれば、未開人の頭のなかで、ひとり神というものと、男女神というものがはじめてできた、そういう時代との隔たりとして理解されていただろう、と言えます。
 それ以上に遡ることはもはやできないのですけれども、その状態から現在に帰っていこうとする場合に、何をよりどころにして帰ってくることができるかと言いますと、ひとつは、人間というものが、自分を取り巻いている世界から失墜した、という意識だと思います。言葉あるいは世界というものと、自分自身の置かれている現在とがどれだけ隔たっているか、どれだけ落差を生じているかを性格に掴めるならば、現在というものがつかめることを意味すると思います。それは必ずしも、文学を文学史としてたどることで獲得する必要はないので、もし直感的であろうと理知的であろうと、コトバの世界と地部自身の現在とがどれだけ隔たっているか、つまり観念の行為というもの、現実的な行為というものが、どれだけ隔たってしまっているかを、現在として掴むことができるならば、おそらく確実な方法で現在の文学のあり方あるいはそれを取り巻く世界のあり方、あるいはコトバのあり方が掴まえられることを意味しています。
 そういうことはどういうふうに可能かということが、現在の文学の情況というものをどう解釈するかということの違いとして現れるのでしょうけれども、いずれにせよ原則的に確実なことは、いま言いましたようにコトバの世界が現実の行為と未分化であった時代と、現在のわれわれの言葉の表現の世界と行為の世界とがどれだけ落差を生じ、亀裂を生じ、どれだけそのあいだに暗唱があるのかということが、うまく穿かれるのならば、それは現在を把握したことになりうるでしょうし、また逆に言えば古典の時代を、それぞれの時代を把握したことになりうるんじゃないか、ということです。

6 女性シャーマンの特質

 言葉の世界と、人間との隔たりが自覚されるようになったある時代になりますと、もはや言葉の世界と人間とがひとつで区別、分離することができなかった時代を、自分の体験であるかのように体験できる人物は、特定化されてしまうことになります。それが例えばシャーマンのようなものが、専門化された人間として生み出されてしまう根本だと思われます。
 シャーマンみたいな特定の人物だけが、言葉と行為が現実的な行為と未分化で、世界と自分とが未分化で、しかもどこかに命が潜んでいるみたいに考えられた時代に入り込むことができることになります。そして、そういう体験のできない人とは区別されることになります。
 シャーマンと、シャーマンでな人間との区別に日本の特徴があるとすれば、ひとつは日本の者-マンガ、多く当初は女性であったということです。もうひとつは、シャーマンとシャーマンでない人間との区別が、それほど明瞭でなかっただろう、ということです。
 ごくふつうの、シャーマンでな人間も、先ほどで言えば、何かひっかかる自然の場所に集って、お祭りみたいな行為をやりますと、その瞬間だけは容易にシャーマンと同じ状態になりうることが日本の場合には多かったんじゃないかと思われます。そういうことと、おそらくはじめ、女性がシャーマンであったということが、日本の場合には特徴的なことでした。神話で言えば、ちょうどアマテラスと弟であるスサノオがいて、一方が女性のシャーマンであり、そのご託宣にしたがって地上の政治が行われるという形態が核にあるわけです。
 それは日本を含めて東南アジアつまり南シナ、それから南方の島というようなところに共通な、洪水神話みたいなものです。あるとき、大洪水が起こって、すべての人々が何もかも押し流されてしまって、異性の姉弟だけが残された。その姉弟が結婚して、それから人間がだんだん増えていった、という原型になっています。東南アジア、南中国、それから南方の島々を含めた、洪水神話のパターンみたいなもののなかに、日本の神話もまた基層では含まれるだろうと思います。
 男性のシャーマンですと、当初から部落のなかで特異な行為をしたり、特異な素質を持ったりしている人間がいますと、それがいわば専門化しまして、その人間が大きな試練を経るわけです。山のなかにフラフラ入っていってしまい、飢えては木の実を食ったり、まるで何か夢幻のなかにいるのかわからないような行為をして、痩せ細って死んじゃう奴もいるわけですけれども、死なないでそういう行為からふと目覚めたときに、その人間がシャーマンとして機能するわけです。
 北アジア系の男性シャーマンはそういうかたちで、世界に対して、また言葉に対して、自分自身を極端に分離していきます。そして自分が、常人では考えられないように、森のなかや山のなかにさまよって、まるでわけのわからない苦しい体験を素質上してしまうわけです。そういう行為の根本にあるのは、世界あるいは言葉から分離しているという意識を、ふつうの人間よりももっと極度に突き詰めて、いわば苦悩と夢幻のなかをさまよい歩くことです。
 もちろん実際に飢えたり傷ついたり死にかけたりしながら、ある期間そういう体験をするわけですけれども、その体験がいつ果てるとも本当はわからないんです。しかし少なくとも、当初のシャーマンでは、そういう体験をしたあとであるときふと正気に返って、そういう体験を必然的にせざるを得なかったところから解放されるわけです。そのとき、その人物が部落のシャーマンとして機能し、また非シャーマンを指導していくご託宣をたれることができるようになります。
 女性のシャーマンの場合は、世界と言葉との分離を自ら体験するというよりも、世界と言葉との分離の距離を、自分自身でどうやって縮められるかということで、シャーマン足りうる資質を獲得していくので、これは、世界と言葉との分離の意識を極端に突き詰め、そこから何らかの意味で脱することによってシャーマンとなりうる、北方系のシャーマン、男性のシャーマンと違っています。つまり、常人にはできないのですけれども、自分で世界とコトバとの分離を埋めてしまえる状態へ入れるとき、おそらく女性のシャーマンが生まれてくると思われます。つまり、天地といったいになるよりも地と一体になるのかもしれません。そういう世界との融和を、自らできるってことが、女性のシャーマンの特質と見ることができます。

7 現在の作家のモチーフは何か

 文学芸術の現在の創造者を、古典的世界におけるシャーマンに類推させれば、都合良く類推することができます。
 現在、男性の作家芸術家も女性の作家芸術家もいるわけですけれども、それを一種のシャーマンのように類推するとすれば、もはやそのシャーマンたちは、世界や言葉と自分とが一体になって、融合しているという体験からは隔絶してしまって、自分の言葉の世界を神話として思い浮かべることは可能でなくなっているのです。そうしますと、作家芸術家は、何をつくりだし、そして誰を自分の世界に引き込もうと考え、そして誰に向かって書いているのかが、大きな問題になってきます。既に現在の文学者たちは、神話に向かって自分の作品をつくりあげていくことは、意匠とか主題以外としては不可能であるとよく自覚していると思います。
 それでは、自分がつくりだす世界というものに、現在の共同体の個々の人たちをそこに引き込み、ご託宣と同じような効果を得ようとしているのかといったら、もはやそれほどの自覚はないだろうと思われます。自分のつくりあげた世界を、シャーマン的世界と仮定すれば、シャーマン的世界に引き込みうるのは自分の作品を読んでくれる読者だけです。しかし、そういうふうに読者を一時的にしろ作品のなかに引き込んだときに、その読者を今度はどこへ連れていくつもりなのかを問うと、〈何処へ〉というものが失われているだろうと思います。こういうところで、現在の文学者たち芸術家たちは、自分の作品をつくりあげつつあるわけです。
 それならば、作品をつくりあげる行為が、何を意味してどこに行ってしまうのだろうということが、最初に重要なもんだイデアあると同時に、最後に重要な問題だと考えることができます。
 現在の作家で、自分は自分の作品の世界にこういう読者たちを惹き込み、そしてそう惹き込んだ読者たちをこういうところに連れていきたいというような明瞭な自覚を持ち得ている者が存在するかと言いますと、もはやそういうものは存在しえない状態になっているのです。だから、まさに存在しないということによく自覚的であり、そういうことが作品のモチーフになり得ているという作家というものを想定しますと、それはきわめて現在的な作家であると考えられると思います。

8 現在の神話的世界――古井由吉『男たちの円居』

 そういうすぐれた作家のひとりとして、たとえば古井由吉という作家をあげることができます。どういうふうにすぐれているのかといいますと、いつでも神話的世界に、シャーマンのごとく人々を引き込み、そこで神話的世界に人間の心を連れていくということができなくなっている、そのことが自ずから作品のモチーフになって存在しているという意味で、すぐれた作家だということです。
 たとえば古井さんの『男たちの円居』という作品では、どういうことがモチーフになっているかを言ってみます。
 山登りの好きな学生さんが、友だちと連れ立って、就職も決まらない期間に山登りにいくわけです。そして山小屋に閉じ込められるわけです。既に生業につききちっと生活をして自信ありげに振る舞う働き盛りの人たちと山小屋で一緒になります。すると自分たちは体よく山小屋の二階に追い上げられてしまいます。なぜ追い上げられるのかわからないのですけれども、自分たちの方に、学校は出たけれども職に就くことができないで、万事につけて自信がない、いつでも不安にさらされている、そういう弱点みたいな意識のところに、そのいかにもいわくありげな、堂々とした壮年の人たちの雰囲気が圧迫感を与えるし、またそういう人たちは自分たちを疎外して体よく隔離してしまっているように見えるということが、大きなモチーフになっています。
 先ほど言いました、神話的世界というものとの類推で言いますと、古井さんが呼び起こすことができている世界というものは、たかだか就職して生業について、それ相当に自信ありげに生活している人たちの世界に対して、就職していない自分たちというものがどれだけ隔てられているか、というようなことが神話的世界ということになります。つまり、現在の神話的世界というのも、たかだがこの社会で就職していかにも自信ありげに生活しているそういうサラリーマンに対して、学生たる未分は終わったんだけれども就職も定まらず万事不安でしかたがないという人間が隔てられている、ということに過ぎないということです。いかにもお粗末な世界史か存在していないのですが、しかしお粗末な世界しか描けていないということは、まさに現在の世界というものがお粗末以外に何者でもあり得ない、そういうところをよく掴み得ているからだということです。

9 なぜみじめでお粗末な世界が描かれるのか
  ――古井由吉『雪の下の蟹』『櫛の火』

 もうひとつふたつ例をあげますと、古井さんの作品のなかで、『雪の下の蟹』という作品があります。これは大雪にとじこめられた、ある地方の町の世界を描いているわけですけれども、そこで大雪にとじこめられた人々は、毎日雪おろしに忙殺される。それで、しまいにトイレがつまってきてそれを捨てることができない。それを、夜陰ひそかに自分の家の汲み取りをやって川に流す。と、その臭いが雪にとじこめられた町に充満していく。そこで、雪に閉じ込められた町にそこでいさかいが起こるわけですけれども、そのいさかいの世界と、いかにも雪にとじこめられてどうすることもできなくなっているそういう世界というものは、蟹がある世界の中で這いつくばって、そして生きているというようなことと同じようなことじゃないのかという象徴になっています。そこでは雪が、とじこめる側のいわば神話世界であって、そこの中で人々は、どんなに滑稽にどんなに這いつくばって、そしていさかいをしながらとじこめられているか、が大きなモチーフになっています。
 これもまたみじめなお粗末な世界なんですけれども、しかしこのお粗末な世界も、またこれは現在の社会が、人間の観念にとってはお粗末になっているということを、よくモチーフとして象徴しているということができます。その町の古くからの風習を例にあげているんですけれども、その町では火事が起こったとすると、火事を起こした家の人は、裸足で荒縄を腰に巻いて、火事で焼けた町並みをあやまって歩かねばならない。自分のところから火事を出してしまったそういう家の主人が、荒縄を腰にまわして裸足であやまって歩いたときに、その町の人たちはどういうふうに考えるかといえば、ののしったり暴力をふるったり、ある場合には、袋だたきにして殺したりするというようなことになってしまうし、そうでなければ、嫌悪感をもって眼をそむける以外にどうすることもできない。そういう風習が行われたときに、そういうふうにしか町の人々の世界は反応しない。そういう世界がまだそこに存在しているし、また雪に下にとじこめられた町の人々のありさまは、そういう古くからの風習のあり方のみじめさと、パターンが少しも変わらないことを描いています。古井さんの作品は、終始一貫そういうテーマを離していないんです。
 これは、つい去年か今年の作品ですけれども『櫛の火』という作品があります。『櫛の火』という作品では、主人公は学生運動をかつてやったという人物なんです。主人公が、かつて自分の仲間であった女性の死に立ち会って、何か自分の中からすべてが死んでいくようなそういう感じにおそわれるのですけれども、それからあと、人妻と恋愛に陥るわけです。恋愛に陥って、恋愛のいかにもありそうな、三角関係の息苦しさみたいなものを体験しながら、アパートの一室に、でてきた妻君と一緒に同棲していくそれだけのことが描かれています。
 この古井さんの描き方によれば、主人公はちっとも非凡な人間として描かれてないんで、非常に平凡な人間が、平凡な感じかたをしながら平凡にそういう事件に巻き込まれて、そういう事件を自分なりに処理していくというそれだけのことなんで、どこにも不可解なところも何もないんですけれども、そういうふうに描きながら古井さんが見事だと思われるのは、社会の考え方というものを、ひとつの架空の枠組みとしますと、その中で、主人公がいかにもありそうに体験していくその世界や、当面する人間と人間の関係のしかたというようなものが、その強固な枠組みに対して小説の中で展開される物語の人間模様が、影のようにしか少々されてこないというふうに、意識的な方法で描いていると思います。そうしますと、もはや人間模様自体が、つまり作品の中に登場してくる人物のいろいろな交渉というようなものが、作品の大きな枠組みというようなものではなくて、そういう物語として登場してくる人間の関係のしかたとか、交渉のしかたというものが、それ自体が影であって、作品を限定しているあるひとつの枠組みが、かえって主人公のように大きく象徴されてくる。

10 古井由吉の現在的な方法

 この方法は何故すぐれて現在的かを考えてみます。一般的に文学が描きうる現在の個々の人間が、個性のない、いわばマスとしてしか理解できないものになっていて、しかもマス自体も拡散してしまってどうすることもできない。そういう世界を描くには、いわばマスとしての人間というのをとらえていくというような捉え方というのは、まあ作品の中で普通なわけですけれども、古井さんはおそらくそういうふうに意図していないので、いわば物語の展開としてはそれぞれ登場人物の動き、関係のしかた、交渉のしかたを描いているのですけれども、そういうふうに描きながら、しかもそれを影の部分に、影の役割のところにおいてしまって、そしてむしろ作品を漠然と限定できる世界というものを、それをいわば強固な、逆にリアルな世界の如く浮かび上がらせるというような、そういうやり方をしています。そういうさかさまのやり方がいってみれば、現在的だというふうに思われます。
 現在の世界をつかまえるのに、さまざまなつかまえ方があるわけでしょう。つまり現実の社会があり、その中に個々の人たちが生活している。その生活している人たちは、何か知らないけれどもとてつもないところに迷いこじゃってしまっている。そして、どこに抜け道を探していいのか判らない。それは自分の周囲を見まわしても、政治の世界を見まわしても、社会を見まわしても、それはどこにどう抜け道があるのか判らないみたいになっている。そういう世界を、もし現在の世界のひとつの象徴としてみるならば、その象徴は作品としては、いわば象徴自体として描くことはできるわけです。しかし古井さんはそれをとっていないので、批評家からは内向的だというふうにいわれるわけです。古井さんは社会が判らない、政治が判らなくなっちゃっているよというふうに、現在をとらえないで、むしろ作品の中では、個々の人間がいかにもどうすることもできない状態で、いわば人間の関係を作り上げながら、しかしかにもそういうふうにしかありえないだろうというふうな環境を描きながらそれ自体を方法的に影にしてしまって、作品の中ではことばでは登場しない全体の、ひとつの枠組みというものを強固に浮かび上がらせて、それの方が現実的なんで、つまりそれから否応なく落っこしてしまっているのが、個々の登場人物たちの演ずる人間模様だなんていう、そういう逆向きの描き方をしながら現在の情況というものに、文学的によく対処しているといえます。古いさんの世界は、いつでもそうなんで、もし世界がこうあり、そして人間がこういうふうに置かれていて、そしてなんとか人間をこういうふうにもっていけばいいんだということが、強固に信じられているとすれば、そういう信じられ方からはいかにも登場人物たちがつまらない世界に、つまらなくじくじくと拘泥しながら、何ともはや何ともなっていないということでやりきれない世界だけが描かれているということになるわけです。それは、おそらく現実への読みが単調なんで、そういう世界を取り巻いている大きな枠組みは、ちっとも社会的なものとしては描いてないんですけれど、その枠組みというものを自然に、リアルに浮かび上がらせる。その枠組みの中で、いわば個々のどこも抜け道のない、ある意味では平凡でしかない、そういう登場人物たちの人間模様というものを、そういう枠組みの中で逆にその虚としてといいますか、影として描く方法を取っていると思われます。ですから、社会的でないといいますか、情況的でないというのは、まったく僕には当たらないように思われます。見事な方法で、現在の情況に知らず知らずのうちに対応する世界を描きえていると思います。
 文学の作品を流れる時間を考えますと、その時間は、個々の人間の内的な意識の時間ともちがうし、また人間の外を流れる時間、自然の時間ともちがうある独特の時間であるといえます。それを表現的時間の世界というとすれば、表現的な時間の世界に人々をとにかく引き入れて、その表現の世界のある時間体験をさせた上で、それから再びもとの時間体験に人々を帰していくことになります。それが、作者が意図しようとしている時間体験だとおもいます。

11 理想の文学と現在の文学

 そうすると、あの神話的な時間体験、あるいは神話以前的な時間体験というようなものは、いってみれば、無時間の体験だということになるだろうと思います。宮沢賢治の作品の中に、「岩頸だって岩鐘だって時間のないころのゆめをみてゐるんだ」ということばがありますけれど、自然に、もし時間体験というものを想定できるとすれば、自然の時間は無時間、あの、流れない時間というようになり、神話的な世界というものは、大なり小なり、あるいはゆるくしか流れない、しかしすべての人々にとってある共通の時間体験というようなところに、人々をもっていくことになりましょう。そうだとすれば、本当に理想的な文学は、時間のない頃の夢を見させてあげた上で、もとの現実の時間体験に読者を戻していくことになりそうです。しかし共同に流れていく時間体験の中に読者を引き入れていくことは、もはや現在の文学では絶対といっていいほど不可能なんで、その不可能なところで、独特な時間体験をさせた上で、いわば読者を、自然に放りだしてしまうというふうにしか、現在の文学はありえないのではないでしょうか。現在本当に良心的ならば、あるいは情況的ならば、もはや読者に対して、それ以上のことは文学者にはできないことに、自覚的であるほかありません。そういう情況に、現在の文学は置かれていると思います。これがおそらく、現在の文学がもっている大きな矛盾なのであって、文学が、現実社会のあらゆる苦患とか苦悩とか、様々な矛盾とかいうものから、一時的に感性的にでも読者を解放させる時間体験をさせた上で、また現実の体験に戻すことが、文学の機能として可能ならば、文学の歴史を全部包括するものとして最も望ましいわけなんですけれども、それはおそらく、現在の文学の状態ではまったく不可能なんです。
 ということは、不可能になっていることを、不可能だというふうに読者に体験させる以外に、もはや文学の現在の在り方が、ありえなくなっているということです。これを安直に飛び越えようとすれば、ただ素材または主題として現代の神話をもってきたり、あるいは古典の世界をもってきたりというようなこと以外にはしかたがありません。そういう世界をもっていることがそれ程の意味があるかというと、僕はないと思います。それで、むしろそういう世界は、実現不可能になっているんだというようなことを、文学作品としてひとりでに体験させるということが、おそらくすぐれて現在的であるし、すぐれて情況的であるというふうに思われます。

12 小川国夫『青銅時代』の見事さ

 小川国夫という作家がいますが、小川国夫の作品の中で『青銅時代』なんて作品をみてみますと、主人公とその恋人が荒々しい漁師町の空気の中で、偶然な事件に遭遇するわけです。その偶然な事件というのは、歩いている時いきなり車がやってきて、その車の中から兄ちゃんが降りてきて、主人公は高校生の先生なんですけれども、はり倒されちゃう。はり倒されて意識を失っちゃう。で、主人公の恋人は、その兄ちゃんに襲われて犯されてしまうわけです。
 で、その偶発的な事件というものがもはやその後で両方を、体験が決定的に違えてしまっている。違えて、もう何がどう変わったのか、誰の責任なのかといった場合に、せいなのかといった場合に、少なくとも主人公とその恋人の責任では決してないはずなのに、しかしそこで起こることは、もうその後ではどうしても両方の気持ちというのはどうしてもしっくりいかない。ある恋人同士が、偶発的な共通の体験をもとにしてもはや、その体験をした以前と以後では何かが違ってしまっているというようなことは、もちろん現実の体験としてもあるわけで、そういう意味合いでは別に誰にでもあるし起こりうるし、また誰にでもひとたびくらいは体験したことがあるような、そういうある事柄が起こった前と後ででは、人間と人間との関係が何かちがってしまう。そういう世界を描きながら、やはりその偶然の事件あるいは偶発的な出来事というものを、単に偶発的な事件というふうに、作者自身が考えていなくて、そういう偶発的な事件というものを、包み込んだ形で、それにたまたま触れた人間というものが、それがいわば触れた後と触れない前では決定的に関係のしかたがちがってしまうというように描かれています。つまり、偶発的な事件を、観念の枠組みとみなし、それが強い枠組みであるが故に、体験した後と体験しない前とでは、まったく決定的にちがってしまうということが起こるのだというふうな、独特な世界の理解のしかたをしていることが作品をすぐれて現在的にしていると思います。
 つまり、これを偶発的な事件に偶発的な主人公たちがぶつかって、その関係がこわれてしまったというふうに描くならば、これは別段情況的でも現在的でもないわけですけれども、そういうふうには描かないで、その偶発的な事故をも、包括する強固なある眼にみえない枠組みがあって、その眼にみえない枠組みに触れた個々の人間同士の関係というものは、触れない前と触れた後では決定的にちがってしまう。なにが、そうさせてしまったのかということは、個々の人間にも判らない。そういうどうしようもない、そういう世界を、ありふれた事件とありふれた物語の発展のしかたの中で、よく描いていると考えます。これはやはりたいへん情況的な、見事な描き方だというふうに思われるんです。

13 大衆小説の抱える問題

 現実の社会が強固な枠組みになっていて、そこに触れた人間模様は、こういうふうになっていくということを、型として取り出してしまいますと、いわゆる大衆小説というものになっていきます。大衆小説という言い方は、つまり読者の数でもって分けているような感じで、あまりよろしくないのですけれども、語るように書かれたあらゆる小説は、高級であると低級であるとにかかわらず、大衆小説というふうによんでおけばよいと思います。話すように書かれた作品に、本質的に特徴的なのは、人間にとって決定的な意味のある行為とか事件とかは、すでに神話時代とか、もっと先の原始時代に、もう行われてしまったというふうに、作者に考えられてることだと思います。つまり、人間の存在にとって、決定的な出来事、体験は、既に人間の歴史のはやい時期に、もっといえば古典の時代にもう行われていて、人間は、ただどんな時代どんな社会に生きようと、既に行われた事件を、いわば型として、繰り返していること以外にはできないよという考え方が、潜在的にでもあるとすれば、それは大衆小説というふうにいわれているものの特徴だと考えられます。ですから大衆小説というようなものは、既に以前に決定的に行われてしまって、もう判ってしまっている、決まってしまっている、そういう型を、形を変えながら現在も繰り返し繰り返し展開して、語り継いでいる作品です。そういう作家を、大衆文学の作家とよぶことができると思います。こういう言い方は、価値という評価とは少し次元が違いますから、大衆小説とここでいったからといって、作品としてよくないということを少しも意味していないというふうに受け取っていただければいいと思います。そういうものの特徴は、いわば人間の存在というものを決定するような大きな事件、大きな体験、大きな心の出来事というのは、既にもう人間が当初にやってしまったという考え方だと思います。
 ですから、あの現在も大衆小説が繰り返しているのは、当初にやってしまった事件、ことがら出来事、心の体験を、引き延ばしたり変形したりしながら、あるいは素材を現在に求めたり、どっかに求めたりしながら、語るように書いている作品を指しているんだと理解されたらいいんじゃないでしょうか。人間はただその型を変えながらすぐれて時代的に繰り返しているにすぎないという考え方が、問題となりうるわけです。つまりそこの問題が、大衆小説の抱えている問題であります。
 現在のすぐれた大衆小説家として、井上ひさしという作家がいます。それから野坂昭如という作家がいます。こういう作家はすぐれた大衆小説家だと思います。大衆小説家という言い方は何ら侮辱的な意味を含んでいないこと、つまり高級か低級かということが、作品がいいか悪いか、価値があるかないかということは関係ないというふうに、言葉として受け取ってほしいんです。この大衆小説に、もし弱点があるとすれば、人間が昔々に、決定的なことは行ってしまっていると、そういう型が繰り返されているという理解が、根本に無意識のうちにありますから、何かを描くときに、おあつらえむきに描かれて、そこの類型はちっとも突き崩せないということが、特徴的なんです。宗教を描けば、いかにも宗教というのはこういうんだよというふうに、型としてわれわれが潜在的にか習慣的にか受け取っているものに、合致してしまうということなんです。型を疑うということがなされないのです。
 けれども、これが利点な所以は、型を取り出していますから、習慣の歴史が型に加担していて、強いということなんです。これは別に文学作品をもってこなくても、流行歌とか、服装などの流行でも何でもいいんです。型は刻々に変えるようにみえますけれども、ひとつの型の本質があって、それだはどうしても崩れない。
 たとえば、あの涙が何とかであって、その港ある町でどうしたという(笑)流行歌があるとすれば、メロディーをも含めて存在する型というのは、高級な人間であろうと、低級な人間であろうとどっかにはちゃんとしまってある部分に訴えるのです。型を刺激されますから、強固に心に入ってくる。だから、逆にいえば、そういう型を現在的な素材と現在的なやり方でつかまえるならば、流行歌の作曲家というものにはなれるわけです。だから大衆小説家にもなれるわけです。その型をどういうふうに強固につかまえるかということができれば、大衆小説は成り立ちます。だから井上さんとか野坂さんというのにはなれるわけなんです。

14 井上ひさし『道元の冒険』の場合

 井上さんの『道元の冒険』という戯曲があります。その戯曲で、無念無想かどうか判りませんけど、坐禅を組んで、ある境地を、つぎつぎ開拓していく、いわば生きながら、自分が、仏陀の境地に到達できるんだというふうな、そういう考え方をする中世の新興宗教の教祖の道元をつかまえてきます。それと、現在生きているひとりの精神病患者の男をつかまえてきます。その男は、人間の観念を増幅させ、他者に伝えるには、自分が女性をつかまえてきて性行為を行なって、その女性に自分の観念を移植して、その女性がまた他の男性と性行為をするとまたその男性が他の女性と別の女性と性行為をする。そうすると自分の観念はすべての人間にいきわたるんだということを妄想しているために、精神病院へ入れられる。
 そういう道元のパターンと、黙って女性と関係していけば、世界を観念づけられるという考え方をしている男とは、現在と中世とに同ひとり物として設定されていて、相互に転換する面白さが作品の核になっています。それは現在的なんで、型としてはよく風刺にもなっています。
 この転換の面白さというものは、謡曲の型を模倣しています。謡曲があるでしょう。シテがいわば現在に転換したり過去に転換したりというのが、謡曲の大きなパターンなんですけど、その型はよく使ってあると思います。そういうふうにしていきますと道元も型である。妄想している精神病患者も型である。その相互転換のしかたも型である。型自体を疑っているかといったらちっとも疑っていない。もちろん、その中に宗教に対する風習もありますし、それから、われわれが精神病だとか異常だとかいっているものに、正常な特権を与えるという風刺も含まれていますから、たいへん現在的といえば、現在的なんです。しかし、決して道元の思想はどういうんだということを疑ってないし、探究もされていないということなんです。道元というものは、こういうふうに現在まで評価されてきた。しかし、自分が評価するとそういうふうにならないということを、モチーフとしている人間が、その作品をみたらば、道元がいかにも型としてしか描かれていないと思うに決まっていますし、またそういうことを、いわば自分の課題としている人間というものからみれば、それはもうよそごとにしかすぎないというふうになりましょうし、また精神病というのは、こういう型があって、それであるというふうにいわれてきたけれども、しかし精神病というのはよくよく追究していったら、どういうことになるのかということを、自分のモチーフとしている人からみたらば、これはいかにも型としてしか描かれていないだろうというふうになります。また能の前シテと後シテの転換のしかたというものを中心に、能というものを探究してる人からこの作品をみたらば、今まで流布してきた型を、そのまま使っているじゃないかという評価になるだろうと思います。
 その種の、疑問とか内省は、すべての型がこわれてしまうところまでいきます。そうなっていったら、既に、型をこわすためには、話しことばというのはあんまり適当じゃありませんから、大抵そういう型をこわすということが含まれてきますと、書きことばの小説になって、大衆小説ではなくなってしまいます。だから、型なんてものは全部あてにならないんだという、人間の存在のしかたの認識に、根本的な疑問をもっている人が作品を読んだら、これは型だけしか描けていないといわざるをえないと思います。しかしここに現代性あるいは現在性がないことはないので、その現在性があるがためにたとえば井上ひさしさんの作品が、えと、あの評価される所以であろうし、また野坂さんの作品が評価される所以であろうと思われます。

15 文学の現在的課題

 われわれは現在の文学作品の世界をどう理解していいんだろうか。どこへつれられていけばいいんだろうかという問題に入っていきます。
 ただこういう問題は、個々の人にゆだねられてしまうよりしかたがないので、個々の人の生き方、存在のしかた、考え方の経路が、その行方を決定するという以外には何ものも指し示すことができません。ただ確かにいえることは、こらえ性とかエネルギーというものが、もし、あのみなさんの方で、今でも残っているならば、現実世界から、あるいは、世界全体から自分を分離し、ここで流布されている言葉から、自分を分離して、現実の森や
林の中に別に入らなくてもいいですけど、精神の森や林の中をとことんまで分け入って気違いになるか死ぬかというような、そういうところまでいって、ある時そこからふうと抜けられるか、やっぱり死んじゃうかどっちかだというところまで、やるべきじゃないのかと思います。自分への自戒も含めてそういう気がするんです。
 それから、女性の方もおられるから申しますと、世界の言葉が人ごとだというんじゃなくて自分の言葉と、一体になれるところまで、もしエネルギーがあるなら突っ込んでいっちゃってほしいとおもいます。異論もあるでしょうけど、そこを通っていかないと、どうしても現在の世界は、何処から何処へいくんだということが、つかめないような気がしています。
 文学が、幸福になる時があるのかも知れないけれども、少なくとも歴史、時代を省りみるかぎりは、文学が幸福だったということはまずないわけです。文学が本質をめざすならば、そういうふうになるよりしがたがないよ、と思うんです。ただ、文学にもし人に対して影響力というものがあるとすれば、それは読者が大勢いたとか、小さいとか少ないとかそういうことじゃなくて、何といったらいいんでしょう、人を不安に落とし入れるというかゆさぶるといいますか、そういうことが、本質的にはできるんじゃないかと思います。
 だから個々の人をゆすぶったってしかたがないんですけれども、しかたがないというか必然的にゆすぶる以外にないんですけれども、そうじゃなくて、政治というのはこっちからここまでやるんだ、文学というのはここからここまでやる、経済学というのはここでやるんだ、宗教というのはここをやるんだ、といった分担があるみたいになっているから、そうじゃなくて、文学というのはアルファからオメガまでやるんだよ、というふうなことをいわば現在的に指し示すことによってですね、政治だってこっちからここまでやればいいというんじゃないんだよ、人口はちがうけど、アルファからオメガまでやるんだ、それが政治だよ、それができなくて、ここらへんのところでいい気になっていたら、それは政治じゃないよっていえばいいし、そういうふうにゆさぶればいいと思います。また経済学なんていうのはこっちからここまでやればいいんだ、これが経済学の役割だよなんていってたら、はじめっから終わりまでやんなきゃだめですよっていうふうに、文学がゆすぶらなくてはしかたがないと思います。ある意味では、文学だけしか、それができないんじゃないかというふうな気がします。その課題はすぐれて現在的な課題じゃないかというふうに僕には思われます。
 これで終わらせていただきます。

 

16 司会

(質問者)
 文学と哲学の境界線があるとお考えでしょうか。

(吉本さん)
 文学というのはこういうものだという枠組みがあるかということでしょうか。初めから決まっている枠組みがあるという意味あいですか。

(質問者)
 文学、哲学の境界線があると先生はお考えでしょうか。

(吉本さん)
 ぼくはそういう境界線というのはないんじゃないかと思いますけど。それは哲学者の人とか、元々、文学者の人とかに聞いてみないとわからないです。ぼくはアマチュアですから、何に対してもアマチュアですから、アマチュアにとって都合がいい言い方をさせてもらえれば、ぜんぶ境界はないよというのがいちばん都合がいいんです。だから、ぼくはそう思っています。
 それは一般には通用しないんじゃないでしょうか。そうじゃないと、やっぱり境界はないよと言っておかないと、ぼくは商売にならないです、アマチュアだから。だから、ぼくはないと思っています。そういう境界はないんだし、型もないだろうと思われますけど、それはたいへん異論があることなんじゃないでしょうか。

17 質疑応答1

(質問者)
音声聞き取れず

(吉本さん)
 なんとなくわかるような気がするんですけど。だいたい、あなたは過大評価のしすぎだと思うんです。だから、うちの女房なんか、そんなの聞いたら怒りますよ。そうじゃないんです。つまり、こうだと思うんです。たとえば、ある事柄について、一から十まで言い切ることができる事柄があるとします。言い切ることができるのだけど、これを言い切れる奴は宗教家だと、宗教になっちゃうような気がするんです。
 なぜならば、言い切るためには、どこかで自己欺瞞を超えないといけないんです。自己欺瞞を超える方法を持っていなければいけない。それには、ぼくはどう考えたって、自己欺瞞みたいなものを超える方法を持っていなければいけない。
 それから、そうじゃなければ、自己欺瞞を他所にそれを外す方法を持っていないといけないように思うんです。身につけていないといけないです。ですから、ぼくは十わかっていて、十言い切れることがあるとしても、四ぐらいしか言わないと思うんです。言っていないとおもいます。
 あなたは同情してくれたけど、評論家でも、詩人でもなんでも、そういうほうが気が楽です。気が楽だということはわりあいに言い得ているんじゃないでしょうか、つまり、十言い切れることだって自分に対して嘘になっちゃうからなということが、いつでも付きまとっているから、4ぐらいしか言わないことにしている。そういうところでいえば、たいへんいいんじゃないでしょうか。ぼくはいいとおもいます。評論家とか、詩人とかいう言い方は、いい言い方、悪くないと思っています。
 ただ、文学の表現の世界というふうに入っていきますと、今度は逆に十言い切っちゃったら理想だというふうになるわけです。だから、それを目指すということがあるでしょ。それを目指すということは非常に矛盾なわけです。おそらくは、現実の世界でわかっていることは十言い切っちゃえって言い切ったら、いま言ったように、自己欺瞞みたいなものがどこかで超えなければいけないとなりますけど。
 表現の世界というのは、それと別な意味あいで超え方というのができると思うんです。ですから、十の事柄については十言い切るということは、少なくとも文学にとっては理想なように思うんです。つまり、αからΩまで言えちゃうということは、文学にとっては理想なんです。それを目指さざるをえないというような、そういう矛盾みたいなものが自分の中にあって、それが言ってみれば、非常に自分を混濁させているんじゃないかなというふうに思いますけど。その処理というものを、ありますよね、いろんな言い方が。たとえば、漱石なら「則天去私」とか、小林秀雄なら「無私の精神」とか、そういう色んな言い方が、つまり、超える言い方というのはあるでしょ。
 だけど、ぼくは嘘だと思っているの、それは文学じゃないよと言っているわけです。つまり、「無私の精神」なんていうのは、そんなのは嘘だよと思ってるの、つまり、年取ってくれば安心立命の境地に達するなんていうのは全然うそで、体験上うそだということがわかります。ますます、我執と妄想のなかにのめり込んでいくというのが、いまのところ、ぼくに微かに見えているような気がするんです。
 だから、小林秀雄だってそうに決まっているよと、ぼくは思っているわけ、だけど、あいつは読者といいますか、人間というのをなめているから、馬鹿にしているから、無私だというんですけど、冗談じゃないですよと、小林秀雄自体がそれであるはずがないんです。というのは、ぼくにはわかるような気がします。
 だけれども、それをそうじゃないよ、ひでえもんだよ、人間というのは、あるいは、人間の一生というのはひでえもんだよというふうに言っちゃったら、言い切っちゃうことなんです。そうすると、文学だから言い切っちゃってもいいんだけど、それはやっぱり「無私の精神」みたいにいうと格好いいわけですよ。そんなのは、「無私の精神」と言うためには、こちらでもって我執を引き受けなければ、そんなことは言えないのです。
 それから、漱石が「則天去私」という場合もそうなです。つまり、我執を普通の人以上に自分が引き受けなければ無私ということは言えないわけです。「則天去私」みたいなことは言えないです。
 もうひとつは、それをそのまま「無私の精神」なんていうと、年取るとああいうふうになるのかと思ったりする人もいるわけです。そういう人も、そんなことないよということを、そんなことないですよと言わないといけないと思います。それを言っていないのは、小林秀雄というのは馬鹿にしているだとおもいます、人間というのを。
 つまり、小林秀雄の若い時のあれに、私は女とはかくかくであるというような言い方をする奴を好まないという言葉があるんです。ということは、そんなことはわかるものじゃないと、いくらでもわかないよと、何十年付き合ったってわからないよというような、つまり、それだけのわからなさというのはあるんだよという、それを、女とはこうなんだなという言い方をする、そういう奴を自分は好きじゃないと若い時に言っている。それは自分の体験を踏まえているわけでしょうけど、それと同じような意味あいで、人間とはという言い方も、ぼくはどんな年寄りも、人間とはこうだよという言い方をする奴を好まないです。
 だから、無私みたいなものがあったら、悟りみたいなものがあったりするみたいな、そういうふうに人間を決められる、そういうあれというのは、ぼくは、少なくとも、文学としてはとらないです。そうじゃないとおもう。ぼくはまだ結論に達していないですけど、つまり、おぼろげな輪郭からいえばそうじゃないとおもう、突っ込めば突っ込むほど、ようするに、生きれば生きるほど、我執にいき、妄想にいくというような、そういうふうにいくんじゃないかなと、おぼろげにそんな感じがしているから、やっぱり、無私の精神みたいなことを言われたら、それだけ言った奴が偉いとすれば、たぶん、言ったために、普通の人より多く、我執、妄執を自分の中に引き受けているというふうに思います。それがなければ、そんなのは本当に人を馬鹿にした話だって、ぼくには思います。文学は決してそういうことをすべきではないというふうに、ぼくには思われますけど。
 それはしかし、ある代償をこっちに引き受けた限りにおいては、そういう言い方をしてもいいのかもしれません。そうすると、やっぱり、楽になるということがあるのかもしれませんから、ぼくもわかりませんから、なんか突然、無私の精神みたいに言いだすかもしれませんし、わからないから、あんまり断定はできないですけど、いまのところそう思っています。そういう問題じゃないかと思います。

18 質疑応答3

(質問者)
音声聞き取れず

(吉本さん)
 ぼくは可能だというふうに思います。それは、それは異常というか、少なくとも1対1の関係の世界だったら、とことんまでやっちゃっていますから、不思議なあれを呈するので、『死の棘』という作品じゃなくて、死の棘一連の作品の中で、郷里へ奥さんが異常な時に帰って、異常な事を異常なように、諍いを異常なように繰り返して、散歩しながら繰り返すところがあるんですけど。そこで何回も繰り返される諍いの型というのがあるんです。
 そうなってくると、ひでえものだよと言ったらいいのか、壮絶だと言ったらいいのかわかりませんけど、異常なところで異常に突っ込まれると、主人公のほうが逆にそれに耐えきれなくなって、おれのほうが死んでやるというふうにして、何度も死のうとするわけです。そうすると、異常な奥さんのほうがそれを止めるわけです。そのことは何回も何回も繰り返されて、何年も何年も繰り返されてきた同じパターンです。
 ところが、郷里へ帰った、そこのところでは、その型が違ってくるわけです。ひとつだけ違うわけです。それは、やっぱり諍いは同じなのですけど、精神に異常な鋭敏さでえぐられて、その場合に主人公はその時に限って、それならおれは死んでやるという言われ方がしている時には、余裕がまだあるわけなので、つまり、発作的にしか死ねないわけですけど、その時には、ほんとうに主人公が死のうと思うわけです。そこに外連はなくて、死のうと思って、木の枝から落っこちていた縄きれみたいのをさげて、ほんとうに死のうと思っているから外連は何にもないから、ごくあたりまえに死のうとするんです。
 そうすると、そのとき初めて、奥さんのほうが、お前は死のうというのは、ほんとうは嘘だろうとは言わないわけです、つまり、言わないで本当に止めるわけです。そこのところで、いわば、ひとつの新しいあれができてくるというような、そういう作品になりますけど。
 それができてくると、何が可能になるかといいますと、死というもの、つまり、先ほどのシャーマンの苦悩が森を彷徨うというのと同じなのですけど、死というものから引き返す過程というのがわかるようになるんです。描けるようになるんです。
 まさに島尾さんという人は、その現実体験もあったと思いますけど、その作品を書いて初めて、あの人は戦争中、特攻要員で、まさに出撃という時に戦争が終わって、お預けになっちゃう、お預けになっちゃうところは何遍も描いていますけど、お預けになってから、今度は生のほうに、いったん死のほうにそこまでのめり込んだ人間が生のほうにどうやって回復することができるかという経路は描けなかったのですけど、それ以後、初めて、戦争が終わった時、死の寸前にのめり込んで、それがまたどうやってしんどい過程を通って、生のほうへ回復して、島から本土まで帰ってきて、そこで日常生活を、まあ、ありきたりに職に就きながら日常生活を繰り返すという、そこまでどうやっていけるかという経路を描けるようになったのは、その作品を書いた後なんです。
 その作品を書くまではいっけん深刻に見えるけど、死へ突っ込んでいくところまでは描けているんです。それで、そこを引き外されたという、そこまで描いてるんだけど。そこから、生へ引き返してくる過程というのは描けなかったんです。
 だから、そういう関連性と、それから、どこから引き返すか、つまり、どのように引き返すかということです。どのように引き返すかという問題というのが島尾さんの場合には含まれていくわけで、そこでは現実の枠組みが強固にあってというような理解の仕方というのも可能でしょうけれども、やっぱりそれよりもシャーマンの個人のあれに即して、作家個人の体験に即して、つまり、どうやって死のほうにいってしまった、どうやって散々、じぶんの生について、生涯について苦しめられた、そういう体験をした人間がどうやって死のとことんまで、極限まで、そこまでいって引き外されて、そこからどうやって生のほうに引き返すことができたかという、いわば、現在的なシャーマンというもののあり方のひとつの問題みたいなものの往路と復路といいますか、そういう問題の全体みたいなものとして、ぼくはそういうふうに理解したほうがわかりやすいような気がしますけど。

19 質疑応答4

(質問者)
 男性のシャーマンは世界に対する自己幻想みたいなもの…そういう過程だというふうに、それに対して女性のシャーマンというのは言葉が自分と世界の距離を縮める方法というような、自己と世界の関係を融和させていくというのか、あるいは、自己幻想と共同幻想を両立させていくというような形をとる。ぼくらが現代文学に対して感ずる魅力というのは、男性のシャーマン的な、いわゆる自己幻想を媒介として世界をどういうふうに捉えていくかというふうな感じで描かれたものにたいする魅力だと思います。女性のシャーマン的な魅力というのがあるんです、古典を媒介として…そういう実感性みたいなものに入ってくことができるというふうな、そこに魅力があるのかなというふうに考えているんですが。

(吉本さん))
 いいんじゃないでしょうか。図式的にいえばいいんじゃないでしょうか。きっと女性の作家とか、女流作家というふうに言われることを好まないんじゃないかなと、女流も男流もへちまもない、作家だけがあるんだという言い方のほうが正しいのでしょうけども、なんかありますね、特徴があるような気がしますけど。
 つまり、それは分離というか、分割というのと、それから、結合という概念を使えば、分割よりも結合というか、融合というか、そういう尺度で測ったほうが、女性の作家とか芸術家というのはわかりやすいような気がしますけど。
 だけども、女性の作家とか、芸術家というのは、わりあいに中性的になっていく現象もまたあるので、そこはよくわからないですけど、中性的というより、人間的といったらいいのかなというふうに思いますけど。なかなかわからないです。
 だから、本質がこうであるということと、現在、女性の作家とか、芸術家がどうあって、どういう作品をあれして、どういう共通らしい特徴が抜き出せるかという問題、あるいは、それは男流・女流なんて言わなくていいんだよというふうに言えるものかどうかということというのは、いまの問題としてはあるんじゃないでしょうか。
 でも、本質的には、どこに作品の全体の世界があるにしろ、一度は分割するみたいなものを極度にやるのを特徴とするか、そうじゃなくて、やっぱり、結合、融合というか、そういうようなものを特徴として、また全体的には分割を含んでいるというような、そういうものかどうかということは原則的には言えそうな気がするんですけど。
 実際のあり方はそれこそ様々ですから、そこで違う面が出てくるんじゃないでしょうか。それ以上のことは言えないような気がしますけど、本質的にはあなたのおっしゃったのでいいんじゃないかなという気がしますけど。

20 質疑応答5

(質問者)
音声聞き取れず

(吉本さん)
 勁草書房という本屋さんに聞いていただけないでしょうか。ぼくの手を離れているはずで、わからないのですけど。そういうことは冗談として、いちばん掴むのがむずかしいのは、そういう直前まであれしたところのモチーフをもった作品じゃなくて、日常生活をするわけですけど。
 その時代に書かれた作品でなんでもない作品があるんです。なんでもない作品というのはおかしいかな、つまり、女の子と一緒にピクニックに行ったとか、グループでどこか遊びに行ったとか、そういうようなことだけしか書いていない作品がありまして、それはたいへんむずかしいというか、理解がむずかしいということで、いくらかつっかえちゃっているなという感じがあるというのが現状なんですけど。
 いっけん無意味なといいますか、いっけんなんでもない日常性の中で、なんでもない作品のごとく書かれた作品が、なにか非常に、この作家にとって決定的な意味があるんじゃないかなというふうに思われて仕方がないところがあって、そこのところが島尾敏雄の全体をつかむ場合にひっかかっているところだというふうに思いますけど。

21 質疑応答6

(質問者)
音声聞き取れず

(吉本さん)
 文学の理想というものを過去に投影していくでしょ。そうすると、そういう神話的な世界、あるいは、それ以前の世界みたいなものにあれしていけば、もし作品がそこに引き込んでいって、そこからまた出してくれるというようなことができたら、たいへん理想じゃないのかということになると思いますし、それを理想じゃないかというのを、今度は矢印を未来のほうに描けば、神話的な世界と部分的な開放性じゃない同質な開放性というのは、あなたのおっしゃる、いま言った共同幻想みたいなものがなくなったところで、初めて実現されるでしょうし、また、そういうふうに考えることができるのではないでしょうか。つまり、ベクトルを過去に置くか、未来に置くかということの違いに過ぎないのではないでしょうか。ということだと僕には思います。
 それから、よく政治的に、原始共産主義みたいのがあって、それはやっぱり原始という言葉を抜かせば、理想だみたいなのがあるでしょ。そうすると、その言われ方の、原始共産主義という言われ方と、未来に描かれる共産主義という言われ方とは同じ言葉ですけど、まったく違う次元で考えられているだろうなということと同じじゃないかなと僕には思いますけど。
 それからなんでしたっけ。

(質問者)
音声聞き取れず

(吉本さん)
 あなたがおっしゃった、笑い話じゃないというけど、そういうふうに笑い話みたいに言っちゃうよりしょうがないということがあるんじゃないでしょうか。笑っているから真面目じゃないということはないような気がするんです。

(質問者)
音声聞き取れず

(吉本さん)
 そうかもしれないです。ただ、ぞろぞろしたことを切断して、たとえば、整理づけるとすると、その切断した部分というのは、やっぱり、こっちのほうに引き受けられているような気がするんです。だから、言われ方というものと、全体のあり方というものとの関係というのは、ちょっと考えたほうがいいんじゃないでしょうか。
 さきほどの無私とか、則天去私とか、そういうのと同じで、そういうふうにいったら悟っているのかとか言い返したら、ちょっと違うように僕には思われますと申しましたけど、同じことというのは言えるんじゃないでしょうか。
 もうすこし、包括的に考えたほうがいいような気がしますけど。ただ、あっさり言ってくれるなというのはあるかもしれないですね。永遠なるあれとしてあるような気がしますけど。これでも、あれだけあっさり言っても、話し方が下手ですから、むずかしいんじゃないでしょうか。だから、あなたがあなたと一対一でこういうふうにやったら、どろどろでやりきれないみたいな、そういうことが言えそうな気がしますけど。

 

テキスト化協力:(16~21)ぱんつさま