吉本です。本日、三上さん主宰の集会に呼ばれて、お話をするためにやってまいりました。その前に、だいぶ混乱して、事情を聞いてみたんですが、誰が誰に対して責任を取るよりも、この場においていちばん重要なことは、聴衆に対して、金を払った人も払わない人もいるそうです。ですからそれに対して、主宰者が金を払った人に払い戻しをするとか、金を払わなかった人から取るとか、処置についてはっきりしたほうがいいと僕は自分のあれとして申し上げました。それがいちばん重要なことだと思います。もうひとつは三上さんが先にしゃべって、僕が後でしゃべるようになっていたかもしれませんが、騒がしいので、僕が先にしゃべらせていただきます。
僕は読んでいないんですが、夕刊フジという新聞に、ひとつは私が何年ぶりかの沈黙を破って政治的な発言をするというので、それは注目に値する、そう書いてないかもしれないけれども、そういうことが書かれていたそうです。これは事実に反するのであって、私は『状況への発言』という私の批評する雑誌で毎回のごとく政治・思想的状況について意見を開陳しているので、別に何年ぶりに沈黙を破っているわけでも何でもない。だからその記事は間違いだということを申し上げておきたいと思います。
もうひとつは、そういう言葉かどうかわかりませんが、反旗派という党派が分裂していて、僕がどちらに加担するかというのがたいへん興味深いことであると書かれているということです。それに対してもまったくの誤解であるから申し上げておきますが、知識人が知識的課題自体を内在的に持つということ、そしてその持つということにおいて知識人がいわば知識人の究極的な課題として、全政治情勢、全政治党派に対して単独で拮抗するだけの究極の理念を持っていなければ、知識人は知識人として立ちえないということは私の主張であり、私の主張はいまでも少しも変わっていないので、分裂したいずれの党派に肩入れするか注目に値することであるというのはでたらめです。
それから知識人が単独で内在的課題を持たなければならないという場合、その知識人ということの規定が非常に問題になるわけですが、これも私の考え方はすでに明瞭に述べられています。知識人が知識的過程として世界を把握していく、つまり身辺から始まってだんだんに世界を把握していく、そのことは知識人が知識人たるゆえんでも何でもない。それは知識にとってはきわめて自然な過程である。だから知識人と大衆という区別をするとすれば、現在の大衆もやがては現在の知識人並みの知識を自然発生的に獲得していくということは明瞭なので、知識が知識によって世界をしだいに拡大し把握していくということの中には、知識自体の課題は存在しないということです。
知識人の本来的課題というのは、いわば自然過程から知識が世界を把握し、把握されたその場所から大衆というものを再び意識的にとらえることができたならば、そのときはじめて知識人が知識人としての課題を成し遂げられるだろう、知識人が知識人と呼ばれるものになるだろうという主張は、すでに私がたびたび繰り返しているところです。そこから考えて、そういう新聞記事のようなことは概念として全然問題にならないということを申し上げたいと思います。
さらに、こういう言い方はよくないんですが、政治と芸術、文学、文化、あるいは政治運動と知識人でも何でもいいけれども、そのかかわり合いについてこういうことを考えます。従来の政治運動と知識人のかかわり方というのは、政治運動が知識人を周辺に巻き込んでいく。その巻き込んでいく限りにおいて、知識人は何やら非常に不安げに、いわばそれに同伴していく。そしてその同伴していく知識人を集めて政治運動が成り立っていくだろうという、これは理念ではなくて、必然的、歴史的な型があるわけですが、その型というのはまったくナンセンスです。
もうひとつは、たとえば文学でも芸術でもいいけれども、これは必然的に単独者によって単独になされる作業です。これは集団でなされるわけでも何でもありません。たとえ集団を組んでいようと、文学の創造、芸術の創造というのは単独になされるものです。この単独になされる知識的課題、文化的課題について言えば、それには党派的な問題というのは問題にならない。
それよりも何よりも、政治が先にそれを奪取するか、文学、芸術、文化がそれを先に奪取するかわかりませんが、われわれが持っている究極の課題が、世界が改まり、人間が改まりということであるとすれば、その課題に向かっては膨大なすそ野と、膨大な知識的努力、文化的努力、文学的努力、あるいは芸術的達成というものが必要です。具体的にロシアの例で挙げれば、反動的なドストエフスキーも、人道主義的なトルストイも、プチブル的な良心を持ったツルゲーネフも必要であるし、チェーホフ的な冷笑も必要である。そういう基盤がなければ、政治が政治単独でもって何かが成し遂げられるということはあるまいと言えると思います。
文化が文化として、文学・芸術が文学・芸術としていくならば、それが政治よりも先行するか、あるいは政治の後にくっついていくか、その時々によって決まるでしょうが、いずれにせよ究極的な課題に対して挑んでいかなければならないということが、知識人が知識人として立っている根拠であるし、努力であろう。つまり、その問題について安直な利用のしかたも反発のしかたもつまらないことじゃないかと僕には思われます。
ただいままかれたビラの中に、私が個人的なおしゃべりをしないで、こういうことに対して真摯に答えるべき、その種のことがありましたが、僕はこういうばからしいことに対して答える必要はないと考える。つまり、僕は何年かぶりに沈黙を破ったわけでもないし、反旗派の分裂がどうしてこうして、それがここに持ち込まれ、それに対して僕がどっちに肩入れするか、そういう問題でもない。したがって、この新聞記者にもビラの当事者にもお気の毒ですが、僕は今日は逆に政治的漫談をやろうと思って来ましたから、非常にくつろいだ気分で聞いてください。(笑)
つい先ごろですが、僕は頼まれて、埴谷雄高という作家の『死霊』について何回かしゃべったことがあります。そのとき言い残したというか、触れることができなかったところがあるので、その続編というようなところから入っていきたいと思います。
その前に、四、五日前に出た平野謙さんの『リンチ共産党事件の思い出』を読ませてもらいました。これは戦前の日本共産党におけるリンチ殺人事件について、戦前の左翼運動に多少のかかわり合いがあった自分の閲歴を踏まえて、かなり丁重にメスを加えているわけです。それを読んでいくとたいへん興味深いんですが、いちばんの争点になっているのは何かというと、そのときリンチ殺人が行われたか行われないか、その対象となった戦前の共産党の幹部だった小畑と大泉という人物が本当にスパイであったかどうかという問題が追及の中心点になっています。
そこで平野さんの追及は緻密を極めているわけですが、小畑と大泉という中央委員はふたりとも警察のスパイだっただろうと結論づけています。もうひとつは本当にリンチが加えられたために小畑という人物は死んだか、リンチでもって殺人されたか、それとも査問されていたら、もともと心臓か何かの障害があってショック死したものであるかということについて、戦前に当事者として検挙された人物、たとえば宮本顕治が追及されたわけですが、平野さんは明瞭な結論を下していない。つまり、実際に殺人が行われたのか、それとも体を小突いた、いまここらへんでやっていましたが、(笑)そういうことをやっていたらショック死したということであるのかどうかという問題については明瞭な結論を下していないように思うんです。
しかし平野さんが追及の結論として到達しているところは、戦前の治安維持法に触れる行為、言い換えれば日本共産党の組織自体がそうであるわけですが、それが死刑または何々以下の懲役になっている、つまり死刑を含む刑罰が治安維持法として存在した限りにおいて、たとえばある政治組織が追い詰められているときには、政治組織内における分裂、対立、あるいはスパイといった疑惑に対して、死に値するリンチみたいなものが行われるというのは政治の力学として当然だ。つまり、権力がその組織に加担しているそれだけでもって死刑以下の刑罰で臨むという法律がある限り、その内部において、たとえばある人物がスパイだったかどうかが問題になった場合、それが死によって解決されるというのは、権力とそれに抗する政治運動において、政治力学としては当然と言っていいくらい当然な成り行きだと言うことができるというのが平野さんの結論のひとつだと思われます。
この問題を先ほどの埴谷さんの『死霊』という作品の関連で申し上げると、その作品ではもう少し丁重にその問題が扱われています。
その前に平野さんに対して感想を申し述べますと、平野さんはいまがんか何かの手術をしてたいへんなときなんですが、そういうことはそういうこととして、平野さんの結論のしかたに不満があるし、小畑と大泉というのがスパイだったという断定のしかたに対しても僕は僕なりの懐疑を持っています。その懐疑というのは埴谷さんの『死霊』に触れるときに触れてもいいと思いますが、平野さんの発想というのがあるわけです。
僕は元来、やつがスパイだったかスパイでなかったか、リンチ事件はどうなったかみたいな、いわゆる密閉された組織内部における出来事に異常な関心を示す文士というのは好きじゃないですね。好きじゃないということが根本にあるわけですが、たとえば僕はそういう体験があるんです。僕は失業してから、個人の特許事務所に一日おきにアルバイトで勤めていたことがあるんですが、平野さんが何を勘違いしたのか、あなたは特許庁の役人だそうですねと言うわけです。冗談じゃないですよ、いくらばかだって僕を雇ってくれないですよと言ったんです。
そのとき平野さんは露骨には言わなかったんですが、僕の学校時代の友達で同業者の奧野健男というのがいて、彼が東芝の研究所に勤めていたとき、高分子化学の技術的研究で特許庁長官賞をもらったことがあるんです。いい仕事なんですが、その特許庁長官賞をもらったことと引っかけて、僕が特許庁の役人で、要するに僕がうまいこと奧野の仕事を推薦して、その結果、奧野が特許庁長官賞をもらったというふうに言うわけです。僕はびっくりして、冗談じゃない、僕は特許庁の役人ではありません、なったこともありません、個人の特許事務所の一日おきのアルバイトの仕事をしていますと言ったことがあるんです。僕はそのとき、平野さんという人は恐ろしいことを考える人だねと思いました。(笑)
そして、吉本さん、ばかにいい家ですねと言うんですよ。ちょうど建売住宅に引っ越したばかりで、新しかったことは新しかったんですが、僕はびっくりして、こういう恐ろしい人にはちゃんと言っておいたほうがいいと思って、これはほうぼうから借金して、急いで信用金庫にぶち込んで、その信用金庫から三倍ぐらいの金を借りて、建売住宅のひとつを買いましたと説明しました。こんなばからしいことを説明するというのはまったく屈辱的なんですが、政治運動に関心を持った文士とか政治運動に巻き込まれた経験のある文士、巻き込まれてつくづく嫌気がさした文士、政治運動に座礁した文士というのは、こういうことに関心を持ち、かつそういう着想のしかたをするということがあるということです。
僕の政治運動家あるいは革命家に対する評価のしかたというのがあります。政治運動なんて最も汚いことに手を汚さなければならないようなものですから、それにたくさん慣れていった政治運動家というのは海千山千、煮ても焼いても食えないというふうになるのがたいてい一般だと考えます。しかし、海千山千、かつ手を汚すような経験、仲間同士で猜疑心にさいなまれという体験をたくさん積んでいながら、どこかに素朴さというものを保有しているというのが、政治運動家、革命家が第一級であるかそうでないかという判定の基準だと考えています。だからレーニンはものすごく海千山千で、ろくでもないことをしていると思いますが、どこかに素朴さ、率直さがある。僕はそういう意味で、レーニンの理念そのものに決して賛成はしませんが、レーニンはやっぱり第一級の革命家だと考えられます。
しかし、文士で左翼的関心があるとか左翼運動に従事したやつというのはたいてい、自分がスパイだと言われたとか、他人をスパイだと言ったというような経験が何回もあるでしょう。その嫌らしさを持っているから、こういうことに異常な関心を示す。異常な関心を示す場合、その関係づけのしかたというのがいつでも決まっているわけですよ。つまり、ここにある事実がある、ここにある事実がある、もしその中に共通の結びつきやすい現象があるならば、それを結びつけて一度は考えてみる、そういう着想ですよ。こういうばからしいという意味合いでは、平野さんの『リンチ共産党事件の思い出』はたいへんな力作ですが、あんまりいいものじゃないというのが僕の読んだ結論です。
平野さんが政治力学として、権力が政治運動、政治組織に対して死刑以下の刑罰をもって臨むという場合には、権力内部における闘争において、権力につながっているという疑惑を持たれた限りにおいては、それは死に値する、リンチ殺人に至ることもありうるとした一結論というのは、埴谷雄高さんの『死霊』の中ではもう少し抽象化され、かつもう少し広い視野を提出しているように思われます。
それは『死霊』の中で三輪高志という登場人物が出てくるわけですが、三輪高志が弟の三輪与志に対して、自分が組織においてそういう場面に当面したときのことについて語るところがあるんです。お読みになって知っている方もあると思いますが、そのところの埴谷さんの『死霊』という小説における問題の提出のしかたと解き方というのは、平野さんよりももう少し抽象度が高いけれども、もう少し広く大きな視野に立っているように思われます。
たとえばリンチ査問の議長になった人物が、組織を裏切って警察と結びついた者を絶対に許すことはできないというのが組織、党における原則だと作品の中でしゃべるわけです。それに対して、そんなばかなことはない、無能なる指導者がいた場合には、究極的には革命に対して害があるのだから、警察に通報しようが売ろうが何しようが、こんなものは抹殺したって構わないんだというのが、査問を受けているスパイの持っている論理です。
それに対して、一角犀というあだ名の人物は、上部の指導者が無能であった場合、きわめて厳格に下部が従わなければならないという組織原則があるというならば、無能な上部を廃滅するために激烈な闘争をするか、そうでなければいかなる手段を使っても無能なる指導者を排除するか、どちらかしかないんだ。どちらを選ぶかは別として、そういう問題は確実にあるんだと主張します。そしてもうひとつの一角犀の根拠は、人間を処理した者、あるいは人間を処理した組織というのは、必ず死によって逆に復習されるものだ。だから人間を変えるということではなく、処理するという観点はまったく不毛である。スパイに対して死をもって処理する以外にないと言う議長に対しての異論を立てる一角犀の根拠というのはそういうところにあるんです。
三輪高志というのは作品の中では単独派というふうに出てきます。そして、この中に埴谷さんの考え方がいちばん投入されているように思えるんですが、単独派というあだ名で出てくる三輪高志はそれに対してこう主張するわけです。俺たちはいま、この場の必要上、査問に集まっている。しかし、この場の問題を解決するために集まっているだけではない。百年後のためにも集まっているんだ。だから自分はスパイの嫌疑を受けている人物を、あちら側へ預けることを主張する。
そこで問題になりうるのは、ひとつにはこういうことです。現在の地点において、その人物がスパイであるかどうかはわからない。これが革命のために悪であるか善であるかもわからない。ただ、現にそういう問題としてここに集まっている。しかし、自分たちは現在その必要上集まっているけれども、百年後のためにも集まっているんだ。百年後にはじめて、誰が革命的であり、誰が革命的でなかったかという問題に完全な判決が下る。そのときまでこの人物をあちら側に預けておくことを主張すると、単独派である三輪高志は主張します。
「あちら側に預ける」というのは何かというと、実際問題としては殺してしまうということです。しかし、単にその人物が何々のことについてスパイ行為を働いたから、これにはこういう実証があるからという問題でもってこれを殺すというのではなくて、この人物が正しいかどうか、革命的であるかどうかは依然として百年後になってみなければわからない。そのことがある限り、あちら側、つまり未来の側に預けるんだ。そして現在ここに生きている人間というのは必ず百年後にはみなすべて、未来の側に移行するだろう。言い換えれば、死の側に移行するだろう。そのとき本当に預けられた人物が正しかったのかどうか、スパイだったのかどうか、革命的だったのか反革命的だったのかはじめて明らかになるだろう。だからそのときまで向こう側に預けておくことを主張するというのです。
この主張の中に、埴谷さんの考え方が最もよく投影していると考えればよろしいと思います。この考え方は一見すると架空の設定のように見えますが、埴谷さんが未来、百年後、全部が死者に移行したときにはじめてはっきりすることがあるという設定をしたとき、単に観念的に架空の未来を設定して、そこから現在を裁くという視点を提起しているのではなくて、人間の論理的な認識であれ、感性的な認識であれ、過去の歴史的な蓄積、経験から導き出された理念、結論というものだけで、人間の認識の現在性、現実性、状況性を考えてはいけないんだ。もしそう言うべくんば、生きている者の現在と同じように、歴史的に死んだ者の現在、これから死ぬであろう者の現在を全部、現在の問題の中に集約したところではじめて、論理的な判断、理念的な判断はなされるべきものだという埴谷さんの理念の象徴として、単独派である三輪高志の考え方が作品の中で披瀝されていると思えます。
この問題は、平野さんの『リンチ共産党事件の思い出』に比べると、非常に拡大された視野と、われわれに考えることを強いる視点がそこに存在するように思います。平野さんにしろ埴谷さんにしろ同じように、たとえば平野さんはスパイとしてリンチされ殺人された小畑という人物と同居していたこともあるし、埴谷さんはスパイ嫌疑で査問された大泉という人物を同じ農民部にいてよく知っている。両者ともそういう過去の体験を踏まえて現在の仕事、あるいは戦後の仕事をしているわけですが、体験をどのようにして自分のものにするかというもののしかたについて言えば、両者の体験の処理のしかた、体験を自分の血肉の思想として化するという化し方がたいへん違う、別な意味では対極的に違うと考えられます。
この埴谷さん、平野さんの、組織内部において対立が生じた場合、それをどのように考えるべきかという考え方についてのふたつの対照的な見解というのは、僕らから見ると、いずれも戦前の古きよき時代の左翼運動を体験したことのあるその体験の結晶として対照的に存在すると思われます。しかし、われわれは少しも古きよき時代の左翼運動を体験したことがないので、この人たちはあまりにつまらないものにこだわりすぎているよ、つまらないことに関心を持ちすぎているよというのが私の考え方です。なぜならば、私どもは左翼運動が戦前の最後において壊滅した後に自分というものを……
【テープ反転】
……ということももちろんありますが、理念的に言って、私などにはあまり関心のないことにずいぶん関心を持っているじゃないかと言えるところがあるのです。
それは戦前の古きよき時代において、世界は共通にソビエト共産党の主張するコミンテルンならコミンテルンの指導下にあり、その指導下に各国の共産党が動き、各国の共産党は自らの周辺に同伴的知識人を集め、同伴的知識人はその周辺で左翼文学運動を提起するという、おあつらえ向きな政治・文化的状況の中で体験した体験を一個の見解にまで結晶しているということで、われわれから見ると、政治運動と文化、知識人のあり方自体の問題がまったくナンセンスです。また、現在でなくてもいつでもそうなんですが、ある一国の社会主義政党、共産主義政党が世界各国の共産主義運動に対して指導的な役割を果たしたり、そういうのがなかったら一国における政治運動、革命運動、左翼運動ができない、自らの理念をつくり出しえないような情けない革命運動というのは、戦後においてはあまり問題にならないわけです。
だからそういう意味合いも含めて、僕らにはあまり関心のない領域に過剰な関心を持っているという意味では、平野さんや埴谷さんというのは「最後の人」ではないでしょうか。僕は埴谷さんから「最後の人」と言われたことがあるんですが、埴谷さんが「最後の人」じゃないかと思います。僕らはそうじゃない、まったく違うところに立っていると考えています。
埴谷さんが作品の中で、単独派である三輪高志の見解として、革命家とは何かという定義をしています。真の革命家というのは決して歴史の表面に現れてくるものではない。歴史の陰に隠れ隠れして、やがてわからなくなってしまう。そういうところに真の革命家は潜んでいる。本当の革命家のありようを考えれば、革命家というのはそのようにして潜んでしまうか、それでなければある時点から革命の収奪者に変化してしまうか、どちらかしかないんだという見解を作中の三輪高志は披瀝しています。この考え方も埴谷さんの考え方のある部分を代弁しているものとして受け取ることができると思われます。
もうひとつ真の革命者とは何か。それは瞬間のためにだけ生きているんだ。瞬間以外のところでは何でもない生活者であるかもしれないし、誰にもわからない人物であるかもしれない。しかし、そういうものが真の革命家であって、ただ瞬間のためにだけ存在するんだ。瞬間がもし生涯の中に存在しない場合には、それはどこかに潜んで死んでしまうのかもしれないし、ただのサラリーマンとして一生を終わってしまうのかもしれない。それはわからない。しかし、とにかく真の革命家というのはそれ以外のあり方というのは取りえない。これも埴谷さんのかなりの部分の考え方を象徴していると思いますが、そういう見解を三輪高志が披瀝しているところがあります。
この『死霊』という作品は、この箇所だけではなくて、全体を通して言えるわけですが、ここ数年来、連合赤軍事件から、あさま山荘事件、爆弾事件、内ゲバ事件という、政治運動の中に起こった一連の問題の根底のところに触れているように思います。そしてその触れ方の中に、ある意味では予言的であり、ある意味では架空的であり、ある意味では仲介者的でありというさまざまな意味を持つでしょうが、埴谷さんの『死霊』という作品の中で展開されている革命運動における対立、脱落する者と非脱落者、スパイの嫌疑をかけられた者とかける者における組織の力学、政治の力学、権力の力学というものについて、非常に予言的である問題を提起しているように思われます。
当面している状況を考えてみますと、いずれも消耗すべき事柄しか目の前には存在しない。つまり、どこにも中心がない、核を見いだすことができないとよく言われますが、こういう現在の状況をどのように理解していったらいいのか、あるいはここ数年来、一連のラジカルな政治運動が当面してきている問題の、共通の根底にあるものをどのように把握していったらいいのかという問題があると思います。
それをさまざまな観点から取り上げることができるわけですが、ここで漫談風にというか、雑談風にというか、いくらかの観点から申し上げてみますと、たぶんこうだと思うんです。みなさんが単独な人間としても、職場の組織の中においても、政治運動の中においてもそうじゃないかと思われることは何かというと、当事者にとっては非常に重要で、かつ切実な事柄が、当事者以外の者にとっては無関心的なもの、あまり切実でもないし何でもないと思える、その分裂が非常に極端だということがひとつ挙げられると思います。つまり、当事者にとっては生死を懸けた、あるいは組織を懸けた内ゲバであるにもかかわらず、当事者や組織以外の者にとってはまったく無関心であったり、関係がないと思われたり。そういう極端な分裂のしかたをしているというのが、いまの状況の中にあるひとつの問題だと思われます。
これは個人についても言えるわけです。たとえばみなさんは文字どおりの単独者、つまり独身者である方も、家族を営んでいる方もいるでしょうが、現在、家族内部あるいは個人において、たいへん切実なきつい問題、モチーフに当面していると思われます。なぜそうなるかというのはのちほど触れることができるかもしれませんが、そういうきつい問題に対して、家族あるいは当事者以外にとってはどうすることもできないという問題をきっと抱えていると思います。
その最も典型的な例を挙げれば、男女の問題とか家族内における夫婦の問題を取ってきたら、典型的なマンガ、漫談になるわけです。いかに切実かつ生死の境をさまようような問題が夫婦の間にあったとしても、夫婦げんかは犬も食わないよと言われればどうしようもない問題です。そこに他者が介入しようとしても、当事者のいちばん奥のほうにある深奥の部分というか、秘密の部分というか、そこの問題に対しては他者がどうしても触れることができないということがあると思います。だからしてそれが無価値なのではなく、当事者にとっては、それこそ革命が生死を懸けるように、夫婦問題だって生死を懸ける問題でありうるわけです。それほど切実でありうるわけです。切実であるにもかかわらず、他者にとっては犬も食わないよというふうにしか介入することができないということがあるわけです。
それはひとつの比喩であり、現在もろもろの政治運動、政治思想、あるいは大衆的に当面している問題のひとつは必ずそこにあると思われます。つまり、ある地域的、ある個人的、ある家族的に非常に切実な問題があったとしても、その問題が全体的な切実さと少しもつながらない。逆に言うと、全体は非切実さ、無関心さということで、極端に分裂している。それが現在の状況の中にひとつ表れている非常に大きな問題点だと思われます。
この問題は夫婦的な規模で申し上げることもできるわけですが、国家的な規模でも申し上げることができます。国家あるいは国家権力と、その国家権力に対して何らかの意味で抵抗し、反抗し、反逆を企てている個人および小組織というものが当面している問題は何かというと、いま申し上げたこととまったく同じであって、当事者にとってきわめて切実な課題であるにもかかわらず、権力に到達する道がものすごく遠く見えるということです。はるかかなたにかすんで見える。そして、かすむ以前に非常にたくさんの解決しなければならない切実な問題を抱え込んでいて、権力に接触するところまで到達できないというジレンマに陥っているということが、国家的な規模で言えることだと思われます。これは個人、単独者の思想の中でも、知識人の思想の中でも、あるいは芸術的なあり方の中でも切実な問題として必ずあるに違いないと思います。
もうひとつはまったく逆な意味になりますが、権力に対して何らかの意味で抵抗、反抗しつつある政治的な小組織、小個人というものが、大衆からも無限に遠い距離に隔てられている実感を持たざるをえなくなっているということが非常に大きな特徴だと思われます。それは現実に無限に遠く存在しているわけでも何でもありません。つまり、生活的にはごくそばに存在している。しかし、それにもかかわらず抱え込んでいる問題から言えば、大衆の無関心から遠く隔てられている。その中で密室的に、組織内部的に考えざるをえないこと、やらざるをえない切実な問題がたくさんある。
どこをどのようにして大衆の課題に到達し、大衆に到達していいか、その距離が非常に遠く、かつ無関心に思われているように見える。それから権力に対してどうやって直接対峙したらいいのか、そういう場合にどうしてもそれが遠いように見えてしかたがないという実感が、政治運動、権力に対して何らかの意味で抵抗しようと考えている小個人が当面している非常に大きな矛盾、課題だと思います。
この課題は一遍でも手放してしまえば全部しらけてしまう、そういう問題ですが、これを一遍でも手放すことができないということで、そこで問題を解こうとしていけば、権力にも到達しない、大衆の像にも到達しないところで、非常に現実的で切実な課題を抱えていて、ひとつひとつ切実に処理していかなければならない。そういう課題をたくさん抱え込んでしまって、どうしたら遠いように感じられる権力、大衆に介入していくことができるのであるかという問題が矛盾、分裂して存在するというのが非常に切実な課題のひとつのように思われます。
なぜ政治的な小組織、小個人というものがこういう問題に当面しているのかということについて申し上げてみますと、さまざまな観点がありうるでしょうが、ひとつは古典的な政治・国家像、社会像が崩壊しつつあると考えられることです。古典的な国家像、社会像によれば、歴史を必然史的に、あるいは自然史的に規定しているのは下部構造であって、下部構造の中核にあるのは経済社会構成である。経済社会構成を核にして、たとえば国家単位で言えば、社会、もっと近代的に言えば、市民社会が存在する。市民社会の上層には、上部構造としての政治的国家が屹立している。政治的国家の中核にはひとつ法的国家というものが存在する。法的国家が存在し、国家的機関が存在し、それが全政治的、全社会的な上部構造としてそびえている。そういうのが単純化された古典的な社会像、国家像と考えれば、現在、古典的な社会像、国家像が崩壊しつつあると考えられます。
では何を崩壊と言うかということになるわけですが、それを言ってみますと、こういうことじゃないかと思われるんです。ひとつは政治的な国家の比重、つまり権力あるいは強力としての比重に対して、社会的な国家の権力の比重が何らかの意味で大きくなりつつあるんじゃないかと言えると思うんです。
古典的な幸福な時代、つまり近代国家の形成過程、近代資本主義の興隆過程から成熟過程に至るときの古典的な社会像、国家像によれば、社会的国家と政治的国家の分裂、分離、あるいはそれらの比重がどうなっているかという問題は幸運にもあまり考える必要がなくて、政治的国家があり、それは幻想性を本質とし、その幻想性を本質とするところに権力としての力を持ち、それが社会自体を強圧しているという単純化された像を思い浮かべれば、かなりうまく問題が解けたということがあったと思えるんですが、現在では社会的国家と政治的国家の比重が変わっている。つまり、社会的国家の比重が大きくせり出してきている。それから社会的国家と政治的国家を二重権力性として考えなければいけないという問題が現在出てきていると考えると非常に考えやすいんじゃないか。そこのところで古典的な国家像、社会像が少しずつ変わっていると言えると思います。
これに対していちばん有効なアプローチ、つかまえ方と抵抗のしかたというのは何かといえば、それは世に言う構造改革論というのが有効性をいちばん発揮しているわけです。われわれは何か知りません。しかし、構造改革論が有効性をいちばん発揮しうるということになるわけです。
ところが構造改革論の基本的な間違いは何かというと、政治的国家権力と社会的国家権力を混同しているということです。社会的国家権力に対して何らかの意味で取りついて、そこで部分的な改革を加えていけば何かに到達するという観点、革命の相対性に到達するという観点を持っているということがいちばんの間違いです。要するに、政治的国家と社会的国家の区別を全然していない。現在のように社会的国家像がせり出してきたところでは、社会的国家権力に対して少しでも取りついていって、それを部分的にでも改革していけば、革命に到達すると錯覚しているのがだめだというところだと思います。こんなことは百もわかっていることで、昔からわかっていることです。しかし、そういうところがいちばんだめなところだと思います。
ただ、現象的には非常に有効に見えるのではないかと思われます。いろんな例を挙げてもいいんです。つまり、美濃部が大きな地方自治体のひとつである東京都の都知事を占めて、そこでごみをどうするかということに対して改革をした。そういうことをどこの地方自治体でもやれば、革命に到達するみたいなことを考えている。そんなことは全然ナンセンスなわけだ。しかし、それは一見すると有効性に見えているということは確かなことだと思われます。
構改派的な知識人というのはこう考えるわけだ。決まっているよ、そういうやつが行っているところは。芸能プロとか文壇とか文壇編集者、それから大学の先生ですよ。副学長になったとか学長になったとかいう、構改派のマルクス主義者がいるでしょう。俺は何か改革しているんだと思うかもしれないけど、ばからしくてしょうがないとしか僕には言えません。たとえば教育において、学生を多少進歩的なことを言って教えたら、何かしているということになるのか。私にはばからしくてしかたがないとしか思えない。
しかし、そういうことに対して、なぜそういう幻想が抱かれるかといったらば、彼らの基本的な観点というのは、要するにファンクショナリズムなんですよ。つまり、社会的国家というものを国家権力の相対性のように錯覚している。社会的国家と政治的国家というのは、たとえぴったりと重なって考えたっていいという古典時代においても、実は二重的な違うものだと考えなければいけないので、社会的国家におけるいかなる部分的な変革も革命の相対性には絶対に到達しないというのは先験的だということです。そういうことについて理論的、理念的な誤謬を持っているということが根本的な問題です。
だからそこのところでなされるさまざまな問題に対して、みなさんは日々幻想を抱いたり失望を抱いたりしているでしょうが、そのことを現在の状況的な問題としてはっきりと見極めなければいけないという問題があると思います。社会的国家と政治的国家の二重性とか分裂という問題、あるいは社会的国家の比重を大きく考えなければいけないという問題は、像、イメージの取り方なんです。人間は単純なイメージしか取れないので、マルクス流に言って、下部構造があって、その上に上部構造がそびえ立っているというイメージの取り方もあるし、立体的なイメージを描いて、上部構造と下部構造が相互に浸透し合ってごったごたになってわからなくなっているというイメージを思い浮かべるというのもイメージの取り方であって、これはいわば比喩です。つまり、比喩的イメージです。
政治的国家の本質は必ずしも可視的ではありません。目に見えるものを本質としません。しかし、可視的でなくても、政治的国家の本質と社会的国家権力の本質というのは二重によくよく考えてみなければならない。そのイメージはどういう描き方をしてもいいけれども、この問題は非常によく考えなければいけない問題があると思います。
それから市民社会の公正というものの中に、いかにして政治的国家、社会的国家の末尾、末端というものが浸透しているか、どれくらい浸透しているかという問題も考えなければいけません。これはみなさんが身近な問題を実例として取り上げることによって、かなり明瞭な自分なりの現状を把握することができると僕には考えられます。
それでは、現在が陥っている状況とその原因、理由についていまのような把握のしかたをすると、そういうものが具体的に何を私たちにもたらしているかということが問題になります。そのひとつとして、僕にはよくわからないところがありますが、たとえば政治運動、特に権力に対して反抗する政治運動において、レーニン的な意味での職業革命家という概念が成立しがたくなっているんじゃないかと言えると思うんです。
職業革命家あるいは職業政治運動家というのは何かというと、非常に漫談的に言えば、お金をどこかからひったくってくるわけですよ。どこかからひったくってきて、食べるために働くということに対しては、いわば免除されている、あまり考えなくていい革命家、政治運動家の集団があって、これが政治的課題、革命的課題に絶えず方向づけをし、これを指導しというのを古典的な政治運動家の像と考えるとすると、それはたいへん成立しがたくなっていると言えるんじゃないかと思うんです。これは疑問符を打っておかないといけないので、そうじゃないかと僕は推定します。
なぜかということです。それは生活が苦しくなったからではない。現象的にはそうかもしれませんが、そういうことに本質があるのではなくて、先ほど申し上げたところから言いますと、幻想性を本質とする政治運動に対して、社会的現存性、あるいは社会的公正というものの浸透度がきわめて大きいことだと考えればいいんじゃないかと思われます。つまり、先ほど政治的国家に対して社会的国家の比重が大きくなっていると思えると言ったのとまったく同じことであって、その問題が浸透しているということだと思います。
そこでは社会的な諸問題、諸関係というものが、幻想性を本質とする政治あるいは政治運動に対して、物的な壁みたいなものとしてそれを絶えず閉じ込めているという状況が非常に本質的なものだと考えられます。こういうことがあるために、現在、古典的な職業革命家像、職業政治的な政治運動家像というのがたいへん成立しにくくなっていると言えると思います。
これは単に国家に抵抗しつつある小組織というものの場合にだけ存在するのではなくて、ロッキード事件みたいなこともたぶんそうじゃないか。つまり、社会的国家、社会的諸権力の比重が非常に大きくなっているということの表れ方のひとつじゃないかと思われます。僕はロッキード事件というのは、いい芝居をテレビで見せてもらったという関心しかないんですが、(笑)そこにおける本質の問題は、収賄したり贈賄したり、きったねえぞと言うならば、 反体制的といわれている政党だって、どこかから金をもらっているわけじゃないですか。そんなのは同じですよ。つまり、そんなところに何も本質があるわけではなくて、そんなところで人をたぶらかしてはいけないと思うんです。ロッキード事件についても、そんなところに何も本質はないわけです。芝居として見るということではなくて、きわめて本質的なことをまじめに言おうとすればたぶんそうなんです。
つまり、社会的権力、あるいはもっと狭いものとして限定して経済的権力と言ってもいい、その比重というものが国家的規模で組織された場合には、政治的国家に対して相当な重圧力を持ちうる。国家権力を当面の問題として考える限り、たとえばロッキード事件における非常に本質的な問題はそこにあるんじゃないかというのが僕の考え方です。あとは全部芝居だと思っています。政治運動って、きれいなことを言うなよということで、どこかの国から金をもらっているのはどこの政党も変わらないでしょうというのは当たり前のことで、名前なんか言ったら訴えられるから言わないけど、市民主義者もそういうところで大衆をだましてはいけない。大衆を愚昧にしておいてはいけない。そういうことは本質的にあるんですよ。きれいごとがありうるかのごとく言うな。そんなことはありえないのよ。そんなことはわかりきっていることなの。
だからそんなところに本質があるのではなくて、経済的権力、社会的国家権力、経済的社会的権力が国家的に組織され、政治的国家権力自体に対しても、大衆に対しても、非常に大きな権力、力というものを及ぼしつつある、そういうふうに変貌しつつあるということは状況的でもあり、かつ本質的な問題ではないかと僕には思われます。
いま政治的な運動、政治組織みたいなものについて言いましたが、今度は個人的なインテリゲンチャでも大衆でもいいけれども、それが当面している問題というのは何かといったらば、原則的、原理的に導きうることは、いま申し上げたのと同じことです。個人を取り巻いている状況、それから知識人、文化人、芸術人を取り巻いている状況においても、社会的諸関係の圧力、密閉度が非常に大きなものとなりつつあるということです。もっと俗な言葉で言えば、現実が息苦しいと社会心理学者が言える状況があるとすれば、その問題の本質は、社会的諸関係、経済的諸関係、経済的利害の諸関係、社会的国家権力の密封度、個人を何重にも取り巻いている壁の厚みが非常に大きなものになりつつあるということが、小個人、大衆を息苦しくしているいちばん大きな要因ではないかと思います。
みなさんが格好よく、これは経済的に苦しいからだと言ってしまえば非常にわかりやすいと思われるかもしれませんが、それは少しだけ違う説明を要するものです。たとえば経済的な諸関係において、経済的なランキング、労働者という呼び方をしても大衆でも何でもいいけれども、それを五つぐらいのランクに分けたとして、現在の労働者、大衆における最低の経済的ランクに属している者でも、数百万円の貯蓄を持っているんです。それは平均ですから、持っていない人もいるでしょう。(笑)だから俺は持っていないなんて文句を言わないでください。これは平均的な経済的データですからね。
たとえば平均数百万円の貯蓄を持っているということは、これを単純生活の再生産に還元すると、ふたりか3人で1年間なら無理すれば何もしなくても食べられるんです。これが経済的大衆労働者を1、2、3、4ぐらいに分けたときに、最低のランクにある労働者の持っている私有財産、何というか知りませんが、そういうふうになっているわけです。つまり、何もしなくても1年間なら食えるという余力を持っている、これがいってみれば現在われわれが描くべき最低の労働者、大衆の 実像です。
この労働者、大衆が社会的利害に囲まれている状況の壁というものがどれだけ厚いか、どのように誇張しても誇張し足りないくらいに誇張しなければならないと考えたほうがみなさんのためにはよろしいんじゃないでしょうか。みなさんはプロレタリアートというと、変な像を持ってしまうんですよ。古典的プロレタリア像を持ってしまう。本質に隠されているものを現象という実体的なものとしてあれする傾向があるでしょう。だから労働者像というのは、知識労働者を含めて、いかにそれを取り巻いている社会的利害諸関係の壁が厚いかということは強調してもし足りないくらい強調したほうがいいと思われます。
大衆自体が持っている、あるいはわれわれ自体でもいいんですよ、僕も息苦しいですからね。僕らが持っている息苦しさというのは、自らの経済的余剰力と決して矛盾しないのですよ。そのことが非常に重要なことなんです。つまり、幻想性としての息抜き、解放、まず共同幻想性の解放ということが政治革命の本質的な課題ですが、幻想性の解放という言い方をしなくても、もっと漫談的に息苦しいじゃないかという社会心理学的に言う心理的な圧迫感というものの本質は何かといったらば、自らが持っている経済的な余力というものが自らに対して与えている圧力と考えたほうが大衆としては主体的なわけです。自らが持っている社会的余力、経済的余力というものが自らを息苦しくさせている、そういう自己矛盾として考えるのが、大衆的に言えば、大衆自身にとっては非常に主体的な考え方です。
それは誰がそうしているのかと言っていった場合、国家的な規模で言うならば、社会的国家権力、あるいは経済的国家権力が組織された場合には、その比重というのは、政治国家に対する権力的圧迫感も、大衆、市民社会に対する経済的・社会的圧迫感もきわめて強くなっていると考えられたら、ずいぶん単純化してありますが、割合によく現在の状況をつかめるんじゃないかと言えると思います。
もうひとつどういうことになっているのか。いま申し上げた状況というのは世界的な規模に拡大することができるのです。つまり、先ほど国家的規模で申し上げましたが、世界的な規模で言っても、世界的な経済権力、社会権力のウエートが世界的政治権力のウエートに対して非常に大きな比重を示しつつあるというのが現在の世界状況の本質的なところにあると考えられると、ひとつの観点が得られると僕には思われます。これは中ソの対立なり、後進第三地域と中心地域でもいい、先進資本主義国でもいいけれども、そういうものにおける錯綜した対立として現象しつつあることだと考えられると、割合によく考えやすい一視点が得られるのではないかと思われます。
古典的な革命像によると、たとえばマルクスは世界同時革命以外には政治革命はありえない、それは理念的には明瞭なことだと言っています。現象的にはそういうことはなかなかはっきりしないわけですが。それからもう少し後からの言われ方で言えば、最近の言われ方のうちに入るわけですが、第二次大戦以後、社会主義国家が国家単位でどんどん拡大しつつある。この社会主義圏が連合していって、資本主義国家群をだんだんに包囲していけば、世界における社会主義勢力の勝利が得られるんだという理念がつい10年ぐらい前までは通用していたわけです。
しかし、そういう古典的に幸福な時代の左翼運動の人たちが考える国家論、世界像というのはどんどん崩壊しつつある。崩壊しつつある本質が、中ソがここ数年来か十年来か知りませんが、部分的には血で血を洗う紛争を繰り返しつつある。理念的な対立もしつつある。最も敵対的なものとして相互に対立しつつある。そういう状況は古典的なサイクルでは全然考えも及ばなかったことです。しかし、われわれはすでにそんなものは十何年前に予言しているわけだ。そんなことは言いきっているわけです……
【テープ終了】