この書き済みのあるプログラムの、1ページ目の下のほうに、吉本先生の簡単な紹介を書いてあります。改めて申し上げるまでもなく、吉本先生は、詩人として、思想家として、戦後史を切り開いて来られたわけですが、吉本先生については皆さんのほうがよくご承知かと思いますので、このプログラムに沿って簡単に説明申し上げます。
吉本隆明先生は、今日は、言葉の根を問う聖書のリアリティ、ゆうべの木田先生に引き続いて、同じ題で講演してくださいます。
吉本先生の著作には、共同幻想論、心的現象論、言語にとって美とはなにか、といった3つの流れがあります。そして、3つの流れの底を流れているものとして、マチウ書試論-反逆の倫理から最後の親鸞に至るキリスト教・仏教を問題とする著作が位置しているように思われます。
今日は、先生に始め、1時間半ほどお話いただきまして、そのあと、みなさんの質問を受けまして、それから午後のシンポジウムに入りたいと思います。
それぞれの人の期待、思い込み、思惑、いろいろな準備があると思いますが、まず、先生の話を一生懸命に聞いて、しっかりと受け止めて、先生の講演を中心にして、午後へとつなげてみたいと思います。それでは、先生お願いいたします。
ただいまご紹介にあずかりました吉本です。今日はいろいろ考えましたんですけれども、考えましたんですけどっていうことは、聖書について考えたってことでなくて、僕は、今、ご紹介の方も言われたと思うんですけれど、もう10年か20年くらい前でしょうか、マタイ伝について書いたことがあります。それはマチウ書試論っていう題ですけど、それ以後は、格別、聖書についての理解とか考えを深めたっていうわけではないんです。しかし、そのほかのことで、つまり自分の固有領域のことで、考えは自分なりに進めてきましたので、そういう進め方、進めてきた自分の考え方を元にして、もう一度、新約書って言っても僕が主に見てきたのは、マルコ伝なんですけれども、マルコ伝について、それじゃあ、おしゃべりしてみましょうかっていうのがこういう題になったわけです。
それで、言葉の問題っていうことは、自分にとっても非常な関心であって、それでもってやってきましたので、そういう問題から、新約書っていうものを見てみたら、どういうことになるのかねっていうことが、今日のお話の僕の主題です。うまくいくかどうかわかりませんけれども、やってみたいと思います。
みなさんの方では、例えば、マルコ伝ならマルコ伝を、信仰の書っていうふうに読まないこと、読まないとしたら、それは、いい読み方じゃないと言われるかもしれませんけれども、いちおう信仰の書っていうのではなくて、これを思想書っていうふうに読んだらどういうことになるのかっていうことから、ちょっと入っていきたいっていうふうに思うんです。
で、思想書として読むっていうことと、信仰の書として読むっていうことは、どこが違うのかっていうことになるでしょうけれども、僕は、いちおう、思想として読むっていうことは、それは信仰にまつわることであれ、宗教にまつわることであれ、あるいは科学にまつわることであれ、社会科学にまつわることであれ、思想として読むっていうことは、なんっていいますかね、そのものの領域の中に、内部に、あらかじめ自分を置かないで、つまり、いつでも、宗教と宗教でないもの、信仰と信仰でないもの、信ずることと信じないこと、そういうことの境界を踏まえているっていうことが、思想にとって一番重要なことなんだっていうふうに僕には思われるんです。ですから、境界を踏まえて、つまり、信じないぞっていう、聖書なんていうのは信じないぞとか、キリスト教なんてのは信じないぞとか、マルクス主義なんか信じないぞとか、そういう、つまり、信じないぞっていうものと、それから信ずるっていうこととの、なんていいますか、その境界をたえず出入りできるっていう、そういうところの場所っていうところで、考えるのが、思想にとっていちばん、あらゆる思想にとっていちばん重要なことではないかって思われますので、そこいらへんのところが、思想として読むっていう意味合いだっていうふうに、理解してくださったらいいと思います。
で、そういうふうにして読んでいき、つまり、思想の書として聖書を読むって、つまり新約書を読むっていうふうに考えた場合に、いちばん、まとめると非常によくまとまるし、いちばん、捕まえるによろしいし、またいちばん、思想として関心が深いことを言ってるなあっていうふうに思われることから入っていきますとね、それはひとつはね、ひとつはっていうより、それが僕は非常に、僕にとっては非常に大きな恩恵、受けた恩恵なんですけれどもね、それはひとつはね、思想、あらゆる、つまり、なんていいますか、社会に対する働きかけ、社会に対する思想、あるいは公共に対する思想、つまり、公の思想っていうものとね、近親っていうのがいるでしょう。つまり、兄弟とか姉妹とか、親とか子とか、そういう関係っていうのがあるでしょう。そういうことの関係とはどういうふうにして、例えばぎりぎりに追い詰めていった場合に、どういうふうにして、どういう関係になるのかっていう問題、それから、これはキリスト、みなさんの方では、どういう言葉を使うのか知らないですけれど、キリスト教徒、同じキリスト教徒じゃないか、同じ同信の、同信の人間じゃないかとか、これは仏教みたいに言うと、仏教の方でいうと同胞って言うんですけれど、同胞って言い方をするけれど、どういう言い方をするかっていうと、同信者っていうか、同胞者っていうもの、つまり、同志、これマルクス主義の方で言うと、同志っていうことになるんでしょうけどね、同志ってやつは、ぎりぎりに、ぎりぎりに追い詰めていった場合には、あるいは、ぎりぎりに現実的に、追い詰められていった場合、あるいは、その相互の関係が、精神的関係が追い詰められていった場合、同志っていうのはいったいどういうことになるんだっていう問題、それから、もうひとつは、聖書、つまり新約書の主人公であるイエスっていうのは、イエスっていうのはそれはどういうことになるの、ぎりぎりに追い詰められていったら、どういうことになっちゃうのっていうこと。それから、最後に言葉っていうのはどういうことになるのか。そういう問題ってのが、思想として新約書を読んだ場合に一番すばらしいことを言っているように思われる点なんです。
で、みなさんの方がよくご存じなのかもしれないですけれど、その反をいとわず申し上げますと、例えば、近親について、つまり、兄弟姉妹とか、親とか子とか、そういう近親について、例えばマルコ伝ならマルコ伝、言ってる箇所がいくつかあります。
どういうところかっていうと、第3章のところに、イエスが街道でお説教してたと。街道っていうのか礼拝所っていうのかわかりませんけれども、そこで説教していたと。そうすると、イエスの兄弟姉妹が、それから母親などがやってきて、イエスに会いたいっていうふうに、なにか会って話をしたいっていうふうにやってきたと。その時に、誰かが、お前の母親とか兄弟姉妹もやってきている。やってきてお前と話したいと言っているぞっていうふうに言ったときに、キリストが、つまり、イエスが、わが兄弟、わが母とは誰ぞ、わが兄弟とは誰ぞっていうような言い方をするわけです。そして、私の兄弟とか母親とかっていうのはここにいる。ここにいるみんなのことだ。べつに近親だから、つまり、自分を生んだ人間だから母親だとか、自分と血のつながりがあるから兄弟姉妹だとか、そんなことは、どうでもいいことなんだ。自分にとって母とか兄弟とかっていうのは、ここに話を聞いて、そしているところの。これが自分の母親であり、兄弟である。っていうふうな言い方をするところがあるんです。
で、そこのところは大変見事なところだっていうふうに思えます。つまり、何が見事だって言いますと、血のつながりのある肉親というものは、ひとりの人間が社会に対して、あるいは、公に対して抱く思想とか考え方、それから、行為とかそういうものにとって、血のつながりのある肉親っていうものは、しばしば矛盾したり、それから、背反したり、それから、対立したり、そういうふうな関係にどうしても置かれちゃうっていうことが、ある場合に、ぎりぎりに追い詰めた場合に、致し方のないことなんだっていうような、そういう認識が非常に見事にそこにあるっていうことが、思想として非常に見事だっていうように、僕には思われるわけです。
それからこの種のことはもう1か所くらいあります。もう1か所がどういうところかっていうと、これもみなさんがよくご存じなんだけれども、やはり郷里でもって、つまり、故郷へ帰ってお説教をするわけです。お説教すると。それで、その時に聞いていた、聞いている人たちがこう言うわけです。あいつは大工の子じゃないか。あいつの兄弟姉妹っていうのは、俺たちと日常よく付き合って、そこらへんにいるやつじゃないか。兄弟とか両親とか姉妹とかそこにいる奴じゃないか、あいつ自身も大工の子じゃないか。いつのまにああいう偉そうなことを言うようになったのか。いつのまにああいう権威あるもののごとく語るようになったのか。あるいは、いつのまにああいう知恵を獲得したのか。あるいは、ああいう能力を獲得したのか。元をただせばあいつは、兄弟が我々の仲間にいて、親父は大工でそこらへんにいるように、あいつは大工の子で、どうってことなかった奴なんだけれども、いつの間にかああいうふうな偉そうなことを言うようになったのかっていうことを、そこに聞いていた人たちが言うわけです。
キリストは、イエスは、そこでは奇跡をあらわすこともできないし、おしゃべりをしてもノることができない。なぜならば、相手が自分に対して、あいつは大工の子だとか、あいつはうちのインチキな亭主だとか、そういうふうにを思っているやつのところではいくら偉そうなことを言ったって、通用しやしないんだっていうことは、人間にとっては非常に普遍的なことなんですよ。つまり、その普遍的な認識っていうのが、そこに存在するっていうことで、それに対して、マルコ伝のイエスはどう言うかっていうと、預言者は、わが故郷、わがさと、わが己が親族、それから、己が家の外にいては、外にいては尊ばれざることなし。っていう言い方をマルコ伝の中でしているわけですけれど。逆な言い方をしているところもあります。つまり、共観福音書もあります。預言者っていうのは故郷ではいられないものなんだよ。っていうふうな言い方をイエスがするっていう。それで、そこでは奇跡も何もあらわすことができなかった。あんまり、あらわすことはできなかった。信じぬ好き者よっていうように、さじを投げたっていうそういうことなんですけれども。
つまり、そういうところは非常にすばらしいところなんです。新約書のすばらしいところだと思われます、つまり思想としてすばらしいところだと思われます。なぜならば、ひとりの人間っていうのは、表側からも見られますし、つまり、社会的な人間としてもその人間をみることができますし、それから、その人間は、近親者の目から、それをみることもできます。つまり、どんなに社会的にどうであろうとも、自分の子どもは子どもだよっていうふうな親の見方っていうのはありますし、また、子どもの見方からすれば、あのおやじは偉そうなことを言っているけれども、うちではろくでなしでしょうがないやつじゃないか、それなのに外に出て、なに偉そうなこと言ってんのとか、書いてんのっていうふうに子どもは思うかもしんないし、それから、女房ってやつは、あのぐうたら亭主がとか、わがままでしょうがない奴だとか、なにをおもてで偉そうなこと言ってるのとか、なんかどうとかしてるのっていうふうに、女房ってのはそういう目を持ってるでしょ。つまり、近親者っていうのは必ずそういう目を持つものなんですよ。それは、平野謙さんで言えば、女房的リアリズムっていう、つまり、人間っていうのは、どういうことかって言いますとね、人間っていうのは、ひとりの人間っていうのはね、様々な次元を持つっていうことなんですよ。けっして個人としての人間っていうもの、私としての人間っていうものだけではなくて、それは、夫婦としての人間とかね、親族としての人間っていうような、あるいは、兄弟姉妹としての人間、そこからみられる人間っていうふうなことも、人間っていうのは必ず持っているわけです。それから、もうひとつは、社会的人間、社会の中での人間、あるいは、共同体の中での人間とか、国家の中での人間とか、世界の中での人間とかっていうような、そういう公共的な中での人間っていう面も必ず、ひとりの人間は持っているわけなんです。それから、個人としての人間、つまり、自分自身としての人間っていうのも持っているわけです。この自分自身としての人間っていうのは、自分が自分に問いかける以外ないわけで、つまり、自分が自分に問いかける分には、これは、端の人もわからないわけです。つまり、近親者もその人間を理解することができない。そういう面を、そういう弁、あるいはそういう瞬間を必ず人間は持つわけです。それから、同時に今言いましたように、近親者としての人間の面も持つわけで、兄弟から見た人間、兄弟としての人間、姉妹としての人間、あるいは、親としての人間、子としての人間っていうのは、そういう面を持って、そういう関係の中でいる人間っていうのが、ひとりの人間はありうるわけです。それから、先ほど言いましたとおり、公の人間っていうのもありうるわけです。それらはある場合には、互いに相矛盾するわけです。ひとりの人間の中でも相矛盾します。そして、人との関係、他者との関係の中でも矛盾したり、それから、対立したりするわけです。それは、ひとりの人間としても対立しますし、他から見た人間としても対立的に見える。つまり、まったく正反対に見えるっていうことは、人間の中にあるわけです。つまり、それはけっして偽善者であるからそうなんでもなければ、ごまかしてるからそうなんでもなく、ごまかしもなく正直にふるまったとしても、公共的人間、公の人間としてふるまった人間っていう場合のその人っていうのと、それから近親者から見たその人間っていうものと、あるいは自分自身が自分に問うている、その自分の内面に問うている場合の自分自身がこうだと思っている自分自身もまた、互いに対立したり、互いに異なったり、互いに矛盾したり、っていうことは、どんなに正直にふるまおうとありうることなんです。つまり、人間っていうのは、ひとりの人間の精神的な領域っていうのは、言ってみれば、そういう全部の領域を踏まえて立っているっていうことなんです。そのことを、そういう言い方ではないですけれども、思想としてみると、聖書っていうのは非常によく取り出しているっていうことが、僕には非常に見事だって思えるところで、感銘が非常に大きいところなんです。
で、もうひとつ近親者っていうことについて、例えば、マルコ伝ならマルコ伝の言ってるところがあります。それは、どういうところかっていうと、マルコ伝13章にあるわけですけれども、13章のところに、イエスが最後に近い頃なんですけれども、君たちは、福音を述べて歩いていると人から迫害されるだろうと、人々はおまえたちを裁判所に手渡したり、集議所に手渡したり、それから、迫害したりするだろう。っていう言い方をしているところがあるんですけれども、そのところで、兄弟は兄弟を、父は子を師に渡し、子は親たちに逆らって立つだろうっていうことを言っているところがあります。つまり、兄弟であろうと、おまえを裏切って、おまえを裁判所に渡したり、それから、長老のもとに渡したり、おまえを裏切ることがあるだろう。それから、父親が、おまえが福音を述べていることでもって、おまえをやはり売り渡すってことが、ありうるだろうと、つまりおまえを権力に売り渡したり、長老会議に売り渡す。そういうことを、親が、父がすることもあるだろうと。また、おまえの子がそういうことをするっていうこともあるだろう。つまり、そういう場合に、公の人、福音を述べるっていうことは、つまり、神の国が近づいたっていうことを述べている。そういう公の考えっていうのを述べるって場合に、それをつらぬこうとすると、ある場合には、親兄弟がおまえを、あいつは変な奴ですっていうふうに、おまえを裁判所に売り渡したり、集議所に売り渡したり、それから、おまえを迫害したりすることはありうるんだよっていうことを言っている箇所があります。
それは実際的に、原始キリスト教が見事に実際に当面した問題を述べているんだっていうふうに思われますけれども。つまり、そういうことをはっきりと言っているところがあります。そういう場合に、公についての思想っていうものが、その社会における秩序っていうもの、現在なら現在でも、現在の社会秩序っていうものに、反逆する、反する部分があるとすれば、反する部分をおまえは信じ、それを述べ、おまえはそれをつらぬこうとするならば、ある場合にはおまえの近親、おまえの親兄弟っていうものがおまえを裏切るっていうことは、ありうるんだよっていうことを言っているわけです。これもまた非常に見事な洞察であるし、見事な人間に対する洞察であるし、見事な思想だっていうふうに、僕には思われます。つまり、そういうことによって、近親っていうものは何なのかっていうこと、あるいは近親っていうのは何なのかっていうことよりも、近親っていうものが自己自身に対しても、それから、自己が持つ公に関する考え、思想、あるいは、行動っていうものに対して、近親っていうのはある場合には、その足をひっぱることもありますし、矛盾することもありますし、ある場合には、もっとひどいめにあわすことっていうのもありうるんだよっていう、そういう矛盾っていうものを人間の思想っていうもの、あるいは、信ずることっていうことは、そういう問題をはらむものですよっていうことを言っていることはあると思います。つまり、そこのところが、やはり、取り出しうる見事なところだっていうふうに思われます。
それから、次は、同じキリスト教徒、つまり、同信者っていいましょうか。福音書で言えば、イエスがいて、しょっちゅうくっついている12人の弟子は、同信者であるわけですけれども、それは、同信者っていうのはいったい何なのかっていう場合の、マルコ伝ならマルコ伝、マタイ伝でもいいんですけれども、その認識っていうのはどういうふうにできあがっているかっていうことは、これはやっぱり、大変見事な、僕には、洞察に思われるわけです。例えばそれは、マルコ伝ならマルコ伝で14章のところになります。14章のところで、よく知られているように、最後の晩餐っていう場面があります。そのところで、イエスが言うでしょう。つまり、この中にいるひとりが自分を裏切るだろうと、裏切るに違いないと予言するところがあります。それはどういうことか。もう少し言いましょうか。それから、同じところにこの中のひとりが自分を裏切るだろうと、そうすると、弟子たち、特にその一番チーフの弟子であるペテロが、いや、すべての弟子たちが裏切っても、裏切るっていう言葉は使ってないかもしれません、つまづくっていう言葉を使っているかもしれませんけれども。私は裏切らない。私はあなたを裏切りませんよっていうことを、ペテロが言うところがあります。つまり、われはあしからじ、われはそうじゃない、私はそうじゃないよ。すべての人があなたを裏切ることがあったって、私はそうじゃないよっていうふうにいうところがあります。それに対して、イエスがどういうふうに言うかっていうと、明日の明け方、鳥が、にわとりが鳴く前に、私を3度否むところ、つまり、おまえとは関係ないって3度言うだろうっていうふうに予言するところがあります。ペテロは、いや、私はすべての人は裏切っても、私はあなたを裏切ることはありません。つまり、私だけは別ものですよっていうふうに言うわけですけれども、もちろん、イエスはそんなことは信じてないわけです。で、明け方にわとりが鳴く前に、おまえたちは私を3度否定するだろうっていうふうに、ちゃんと言うわけです。それで、イエスが捕まって、まさに12人のひとりであるユダの害によって捕まって、十字架にかけられるわけです。で、十字架にかけられたイエスを見るために群衆がいるわけですけれども、その群衆の中にペテロは隠れて、群衆の中に潜んでいるわけです。そうすると、大祭司の端女、つまり下女ですよ、端女がペテロの顔を見知っていて、ペテロを見つけて、おまえはナザレのイエスにいつもくっついてた人じゃないかっていうふうに、端女が言うわけです。すると、いや、そうじゃない、私は知らない。あの人を知らないって言うわけです。で、結局、そうじゃないと、おまえは確かにあのイエスにくっついていた人だ。つまり、イエスの弟子に違いない。そうすると、いや、そうじゃない。自分は知らない。あの人は知らない。それから、違う言い方もします。マルコ伝だと、われ汝らの言うその人を知らず。その人を知らずっていうことを3回、3度否定するわけです。3度否定して、ペテロは、イエスがその前に予言した、私を3度否むだろう、つまり、否定するだろうっていうふうに予言したのと同じように、3度自分はあの人とは関係ないっていうふうに言ってしまった自分っていうものに、ほぞを噛む思いをして、いたく泣いたっていうふうにマルコ伝の中に書かれています。
これもまた見事な洞察なんです。つまり、同信者、同胞者、あるいは、マルクス主義で言えば同志っていうことなんですけれども、つまり、同志っていうのは何なんだっていった場合に、新約書の認識っていうのは、まことにリアルであるし、まことに見事に人間性っていうものを見事に洞察していますし、また、けっしてそこで、人間性ってものに対して幻想を抱いたり、同じ信者だから、同じことを信じてんだから、それだからその人を信じられるとか、そんなことはありえないんだよ、人間っていうのは元々そういうふうにはできていないんだよっていうことをよく知っているっていうことを、主人公、イエスを通じて、マルコ伝の著者っていうのは、よくそのことを述べているわけです。この洞察は、不朽の洞察であって、つまり、人間が存在する限り、現在でももちろん通用しますし、みなさんの間でももちろん通用するわけですし、それは誰にとっても通用する。まことに見事な認識であるわけです。こういう認識が、千年なら千年、2千年なら2千年前に、もうすでになされている。人間性についてなされているっていうことが、まことに思想として見事だっていうよりほかないわけです。つまり、何千年も経って古びない言葉ってものを吐くっていうことが、人間にはなかなかできないのですけれども、そういうことが見事に書かれているっていうことは、それは大変すごいことだ。つまり、人類っていうものはそういう人間をそんなに度々は生むことができないわけです。これまた、千年にひとりとか、2千年にひとりとかっていうふうにしか、そういうふうに千年経っても滅びない言葉、千年経ってもちっとも古びない言葉、誰にでも通用するでしょう。どんなモダンなことを言っている現代の人にも通用するでしょうっていうような言葉を、千年も2千年も前に言えるっていうことが、そういう人間を人類っていうのはなかなか生むことができないわけです。それは、見事な思想っていうふうに、単純なようですけれども、見事な洞察であり、見事な思想だっていうふうに言うほかはない、言うことができるわけです。僕は嫌なことばっかり言っているように思われるかもしれないけれど、まさに聖書っていうのは、新約書っていうのは、嫌なことばっかり言っているわけですよ。それが、聖書の思想の一番大切なところだっていうふうに、僕には思われます。つまり、まさに同信者とか同志とか、そういうものでも最後に人間っていうものは、ぎりぎりに追い詰められていった場合には、そこで互いに背反したり、矛盾したり、裏切ったりするっていうことはありうるんだよっていう、そういうふうにして、もし、信ずるっていうことだったら、人を信するとか、何かを信ずることがあるならば、そういう信じ方をしちゃだめだよ。つまり、どう言ったらいいんでしょう、つまり、肉体を信ずるような信じ方をしたらダメなんですよ。それは本当の信じ方じゃないんですよっていうことを言ってるんだっていうふうに理解すれば、できると思います。そこは、大変重要なところではないかなっていうふうに思われます。
それじゃあ、今度は自分自身っていうものは、新約書の主人公であるイエスは、自分自身を信じてるかということになる。すると、そこはまた非常に重要な問題だって思われるんですけど、それはまた、それなりに言っているところであります。見つけようと思えばあります。
たとえば、マルコ伝の14章のところで、それこそみなさんもよく知っているところで、ゲッセマネでキリストがひとり弟子たちから離れて、祈るところがあります。その祈った内容が問題なんじゃなくて、祈るところにいったときに言うことがあります。それは、マルコ伝の言い方ですると、わが心いたく憂いて死ぬばかりなり、っていうところがあるんです。それで、これは福音書の中では唐突に出てくる。なにがいたく憂いているのかわからないじゃないかっていうふうに読めるんですけれども、ただ、なにか知らないんです。そういう解釈の仕方をすると非常に単純解釈しますと、なにかわからないけれど、とにかく、死の予感だけはあるわけです。イエスにはあるわけです。死の予感があるわけです。ものすごく悲しいわけで、憂鬱なわけですよ。死ぬほど憂鬱になるわけです。それで、ひとりで弟子たちから離れて、祈りたくなるわけです。それで、その時に吐く言葉が、わが心いたく憂いて死ぬばかりなりっていうふうに言うわけです。それで、なぜそんなに死ぬばかりなのって言ったらば、やっぱりそれはひとつの予感なんですよ。死の予感なんですよ。で、そこでイエスがどういうことを言うかっていったらば、これもみなさんがよく知っていることである言葉だ。つまり、父よ、ってことは神様のことですね、自分のいたく心が憂いている今の自分のこういう状態、死ぬほど心が憂鬱なこの状態を過ぎ去らしてくれ、早く過ぎ去らしてくれ、っていうことを言うわけです。つまり、それは杯を取り去ってくれっていう比喩で言うわけですけれども、この状態っていうのを早く過ぎ去らしてくれっていうふうに言うわけです。過ぎ去らしてください神様よって言うわけです。それで、だけれども、私の思いどおりに、心のままに、過ぎ去らしてくれとは言わない。つまり、この憂いを取り除いてくれ、この憂いの状態を取り除いてくれとは自分はけっして言わない。神様よあなたの心のままにしてくださって結構だと、しかし、この憂いて死ぬばかりの状態っていうのは、早く取り去ってくれないですかっていうふうに言うところがあるわけです。
ここのところの問題っていうのがひとつあるわけです。なぜ、イエスっていうのはほかの場合には、新約書の主人公っていうのは確信に満ちているわけですけれども、自分の信仰についても確信に満ちているわけですけれども、もう死ぬ間際になってきた時には、そうじゃなくなってくるところの描写がひょひょっとあるわけです。つまり、なぜ、それほど確信に満ちた信仰、人にも述べ、そして自分自身も確信している。そういう人間が。どうして死ぬ間際になって、心が憂いて死ぬばかりになっちゃうんだろうかっていうことを考えていく場合に、つまり、そういうふうに描写していることを考えると、言ってみれば、まず、それは自分自身としてのイエスって言いましょうか、あるいは、イエスが自分自身としての自分っていうものを、やや信じかねてきつつあるっていうことを意味するだろうっていうふうに思われます。つまり、そういう象徴として読むことができると思います。
それから、もう少しそういうところを拾いますと、マルコ伝の15章のところで十字架に架けられるわけです。架けられると、役人たちも、それを見ている群衆たちも、また左右に死罪にさせられる罪びとがいるわけですけれども。それも、みんな言うことがあるんです。それは、おまえは人に対して、人を救おうとして、そして、人を救うために様々なことを言ってきたと、様々なことを述べてきたと、それで、人をある場合には救ってきたと、それならば、そんな人を救えるのだったらば、今、十字架上に架けられているおまえは、自分自身を救ってみろ、そうしたらば、俺はおまえを、おまえの言ったことを信じてやるっていうふうに、群衆たちも、それから人々も、みな役人たちも罵るわけです。言うわけです。つまり、人を救えるんなら、おまえ自身だって救えるはずじゃないか、おまえは人を救えるようなことを言ってきたし、それから、実際に人を救ってきたと、病人を治し、足なよの人を治し、悪鬼に憑かれた人を治してきた。そうだとしたらば、今、十字架に架けられて死ぬばかりになっているおまえ自身を救ってみろと、救えるはずじゃないかと、人さえも救えるなら、おまえも救えるはずじゃないか。そう言うわけです。おまえはおまえ自身を救えるならば、俺はおまえが人を救うっていうことを信じてやると、しかし、おまえ自身さえ救えないならば、おまえを信じるわけにはいかないし、おまえの言ってきたことも信ずるわけにいかないよ、っていうふうに群衆たちは言うわけです。
これは、非常に重要な思想なんです。つまり、どういうことかっていうと、思想の、あるいは、思想のリアリティなんです。それは、どういうことかっていうと、よく言うでしょ、つまり、しばしばもっと非常に低俗的な、通俗的なことで言えば、易者が人の明日こうだとか、おまえはこうだとか、結婚はこうだとか、よく言うくせに、こうすれば金持ちになれるとかなんか言うならば、おまえが大道易者なんかしてないで、自分でなったらいいじゃないか(笑)、金持ちになったらいいじゃないのっていうふうに言うことがあるでしょ。つまり、そう言いたくなるってことがあるでしょう、みなさんだって、みなさんだって人に対して、人が偉そうなこと、僕に対してもそうかもしれないけど(笑)、偉そうなこと言ってるけどよ、っていうふうにさ、人に対して言いたいことがあるでしょ。先生に対して、親に対して、それから政治家に対して、それから哲学者に対して、それから誰それに対して、言いたいでしょう。言いたいことあるでしょう。おまえ偉そうなこと言うなよっていうふうに、おまえ何してるのっていう言い方があるでしょう。つまり、みなさん言い方もあるし、みなさんもそう言いたくなる時があるでしょう。瞬間があるでしょう。あるいは、そういう時間があるでしょう。あるいは、そういうことに当面するでしょう。そういうことにしばしば遭遇するでしょう。そういうことは人間だれでもそうです。だれでも当面するんです。どんな人でも、あいつ何偉そうなこと言ってんのっていうふうに、あいつ、俺知ってるけどさ、こうじゃないかっていうふうに言いたくなるってことがあるわけなんです、人に対して。だけども、その場合に、自分のことは棚上げにしてあるわけですよ。自分もそうなんですよ。自分もそうだってことは誰でもそうだってことで、誰でもそうだってことは、ある意味では、人間は誰でもおんなじだよって意味ではなくて、人間性ってものの中に根差しているものってのが、誰でもおんなじものがあるのですよっていうことなんです。つまり、人間性のある本質っていうものは、そこに含まれているんですよ。つまり、どうして、人を救えるなら自分だって救えるでしょうって言いたくなるってこと、言いたいってこと、あるいはそう言うっていうこと、そういうことの中には真理が含まれているわけですよ。つまり、そういうことを取り出しているっていうことが、非常に重要な思想なんですよ。重要なことだって思えるわけです。
それで、そういうことを、非常に福音書の主人公っていうのはよく知っているんですよ。人間は本来どういうふうにできあがっているか。人間性っていうのはどういうふうにできあがっているかってことは、よくよく知っているんです。だから、もちろん、そういうふうには書いてないですけれどもね、罵られるわけですよ。つまり、おまえそんな十字架に架けられて、無残じゃないかと。それから、おまえ無残じゃないかと、おまえ人を救うこととか偉そうなことばっかり言ってきたり、やってきたりした。しかし、おまえ自身さえ救えなくて、こんな惨めに十字架に架けられて、しょげてるじゃないか。そんだったらおまえ自身を救ってみなっていうふうに言われているわけなんです。それで、言われていることに対して、答えないわけですよ。聖書の中のイエスは答えないんですよ。答えないけれども、しかし、そんなことは答えることは簡単なんです。答えることはわけないんですよ。つまり、何を言ってんのって言い返すことってのはわけないんですよ。それは、おまえは、そんなこと言うのはおまえは人間っていうものを、人間性っていうものを知らないのだよっていうふうに、人間性ってものを知らないのだよっていうふうに言えば言えるのです。つまり、そんなことを言えるのですよ。いくらでも反発できるのです、反論できるのです。でも、福音書の主人公は、もちろん福音書の主人公っていうのは、そんなことよーく知っているように、よく読みますとそういうふうに知っているように書かれています。だから、もちろん、その場合だって、そうじゃないんだよ、人間っていうのはそういうふうにできていないんだよ、人間は他人を救うように自分を救える、他人を救うのと同じ次元で自分を救うっていうようにはできていないんだよ。それから、現実的に惨めであるとか、虐げられるとか、惨めであるとか、惨めな目に合うとかってことは、人間にとってそんなに大したことじゃないんですよっていうことを、本当は言えば言えるのですよ。だけど、そんなことは言わないのですよ。言わないけどそういうことはよく知ってるっていうふうに描かれているわけです。主人公は知ってるんですよ。主人公イエスはよく知ってるんですよ。で、そういうところは非常に重要なところだし、思想として見事なところだと思います。つまり、そのことを描写したこと自体が見事であるし、また、そういうことを洞察してると、そういうことを洞察してんだっていうふうに描かれている主人公自体が見事だっていうふうに思います。
これを、もう少し進めて、もうひとつあります。それじゃあ、イエスってやつは、新約書の中のイエスっていうのは自分自身を信じ切れたのか、信じ切れて死んだのかっていうふうなことが、非常に問題になるわけです。イエスが自分自身を信じ切れて死んだのかどうかっていう問題は、すでに群衆たちが、おまえは人を救うようなことを言ってきて、おまえ自身を救えないのに、救ってみなっていうふうに言われているそういう次元とはまったく今度は違うのです。違うんですけれども、違う次元でイエスが、たとえば、自分自身を自分が救えるっていうふうに思ったかどうかってことなんです。だから、そこんところは、例えば、マルコ伝の15章で、これもよく人々があげるあれなんで、つまり、イエスは最後に、マルコ伝では、エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニって書いてあり、エリ、エリ、レマ、サバクタニっていうふうにマタイ伝ではそう言われています。つまり、神よ、神よ、なぜ私を見捨てるのか、っていうふうに言って息絶えるところがあります。つまり、なぜ、私を見捨てるのだっていうふうに言うことによって、結局、イエスっていうのは自分自身としての自分っていうものを、自己自身としての自分、つまり、人にはわからない、自分が自分に問いかけて、問いかける意味での自分っていうものですね、つまり、自己自身としての自分っていうものを、最後にやっぱり信じ切れないっていうことだと思います。つまり、信じ切れなかったっていうことだと思います。つまり、イエスは自分自身を信じ切れないで死んだっていうこと。これを普遍的に言いますと、人間はやっぱり自分で自分自身を信じ切れるか。それは信仰のあるなしにかかわらず、あるなしの問題とは別にして、生き方ってことでもいいんですけれど、自分に、自分自身に問うた場合、自分自身を信じ切れるかって言った場合に、やっぱり信じ切れないんだよ。誰でも信じ切れないんだよ。まして、千年に1度なら千年に1度しか出現しないだろう。そういう人物だって、やっぱり信じ切れないんだよ。自分自身は、最後に、それは人から問われるってことじゃないし、人から批判されるとか、非難されるとかって意味じゃなくて、自分が自分に問うた時、自分が自分に対面した時に、自分が信じ切れるかって言った場合、やっぱり信じ切れないよ。これほど偉い人だって、千年にひとりっていうような、つまり、人類がなかなか生みだすことができないような、そういう人だって、やっぱり信じ切れないよっていうふうなことを描写しているってこと。マルコ伝はそういうふうに主人公を描写しているってこと。それから、主人公自身がやっぱりそういうふうに自分自身を信じ切ってないっていうこと。そういうふうに自分自身を考えているってこと。そのことがやっぱり、また非常に見事だっていうふうに思われます。思想として、やっぱり見事なことだ。見事に人間性の普遍性っていうものを取り出しているっていうふうに思われるんです。
じゃあ、結局どうなんだいっていう。どうなんだいって言いますと、それは、近親っていうもの、それはダメですよって言ってる。それじゃあ、同信者、同胞、同じ信者っていうかその仲間、それも信じ切れないよ結局は、最後にきたら、最後のどん詰まりにきたら、やっぱりそれだって信じ切れないんですよ。それで、自分自身は信じ切れるのかいって言ったら、自分自身も信じ切れないですよっていうことを言ってるわけですよ。で、結局、それじゃあ全部信じ切れないってことになってしまうわけです。それでいいんです、っていうふうに僕には思われるわけです。思想として言うならば、それだけのことが言えれば十分だっていうふうに僕には思われます。つまり、人間が述べうる、人間が考えうる思想として言えば、それだけのことが言えれば十分でしょうっていうふうに僕には思われます。僕は信心者ではないですから、僕はそれで十分だっていうふうに思われます。つまり、あらゆる思想にとってそれは十分であると。それだけのことが言えたら大したもんですよ、十分ですよっていうふうに思われます。
だけど、みなさん、それじゃあ、おさまりがつかないわけでしょ。つかないからやっぱり信じているわけでしょ。信じているか、信じようとしているわけでしょ。しかし、だから、それじゃあおさまりかつかないってことになるわけです。それで、僕はおさまりがついてそれでいいわけなんですけれど、やっぱりそれじゃあそれだけかなっていうふうに探していきますと、象徴的にではあるけれど、信じていることがあるんですよ、聖書の中で。
マルコ伝ならマルコ伝を土台にしますと、マルコ伝の中でも、どうしてもこれは信じてるなっていうふうに思われるところがあるわけなんですよ。それはね、何かって言ったら、言葉なんですよ、言葉。言葉、信じてるところがあるんですよ。それは、どういうところかって言いますと、僕が探したところでは、13章のところに、やっぱりね、先ほど述べたところとおんなじようなところなんですけれど、伝道っていうこと。つまり、秩序が認める宗教、それから、習慣、そういうものに反するようなことを伝道する。あるいは、思想でもいいんですけれど、そういうものを述べ広げる宣伝するっていうような時には、必ず迫害ってものが伴うものですよっていうこと。だから、そういう場合には、こうしたらいいですよって言ってるところがあります。そのなかのところに、こういうことを言っているところがあるんですよ。これは、みなさん忘れちゃってるかもしれないんだけれども、人々が、おまえたちを裁判所に引き渡すとか、集議所に引き渡すとか、そういうふうに引き渡された時に、どういうことを言ってこれを言い逃れようとか、あるいは、今の言葉で言えば、今の政治運動家みたいなやつは、黙秘権(笑)、どういうふうに黙秘するかとか、そういうことを思いわずらうなって言ってるわけですよ。つまり、なにを言わんとするかってことは、思いわずらうなって言ってるんですよ。それで、引き渡されたら、引き渡されてふん捕まったら、なにをどう弁解して言い抜けようかとか、どういうふうに言って言いくるめようかとか、どういうふうに言わないでいようかとか、そんなことは思いわずらうなって言ってるんです。言ってるところがあるんですよ。ただ、その時、こういうことを言ってるんです。ただ、その時授けられた言葉を言えって言ってるんですよ。言えばいいって言ってるんですよ。どうしてかって言えば、マルコ伝の言い草によれば、どうしてかって言うと、言葉っていうのは魂が言わしてくれるんだから、魂っていう聖霊が言わしてくれるって言うんだから、ただの魂じゃないですよ。神の聖霊ってことだと思いますけれど、それが言わしてくれるんだから、だから、あらかじめ、ふん捕まったら、あるいは、いじめられたら、ぎゅうぎゅうやられたら、どう言って言い逃れようかとか、そういうふうに一切考えるな、あるいは、考えるなって言ってるだけじゃなくて、考えることはよくないことだって言ってるんだと思います。だから、そんなことはぜんぜん思いわずらうな。ただその時、出てきた言葉を言え、出てきた言葉を言えって言ってるんですよ。つまり、授けられた言葉を言え、なぜかって言えば、言葉っていうのは聖霊が言わしてくれるんだからって、こういうふうに言ってるわけです。これを、信仰のない、僕、思想的な言葉に言いなおしますとね、もし、自分になにかあるとすれば、それは信仰でも信心でもなんでもいいんですけれど、なにかがあるとすれば、その時に言われる、そういうあるがままの、つまり、自然状態で言われる言葉っていうものはね、言葉って言うものは必ず、自分の持ち物に背かないものだ。っていうことだと思います。つまり、自然状態で、自分に信仰があるとすれば、自然に言われる言葉ってのは、なんら自分に制約したり、こうしよう、こういう言葉を言おうと思ったり、意図したり、そういうことをしないで言われる言葉っていうものは、必ず、つまり、そういうふうに自然状態で言われる言葉っていうのは、その人の持ってる信仰なら信仰とけっして外れないものなんだよって、ひとつの確信だと思います。それこそ、信念だと、確信だと、信仰だと思われます。つまり、それは信仰じゃなくてもいいんです。理念であってもいいですし、それから、理念とか信仰と関係がなくてもいいんです。あるいは、その人の持ち物っていうふうに言ってもいいんです。その人が何かを持っているとすれば、その人が自然状態で言った言葉、なんら制約なしに、あるいは、人の思惑を気にしないで言った言葉っていうものは、必ずその人の持ち物に背かないものですよ。つまり、その人の持ち物から外れて、とてつもないこと言っちゃったなんてことは、絶対にないんですよってことを、言葉について言ってるんだと思います。そういう言葉についてのひとつの考え方を言ってるんだっていうふうに、理解すれば、非常に普通の言葉に直るんだろう。普通の思想の言葉に直せるんだろうと思います。つまり、マルコ伝では、新約書ではそういう言い方をしないので、言葉は授けられたものだ。言葉を言わせるのは、聖霊なんだから、だから、あらかじめ何を言おうというふうに思いわずらったりするなっていうふうに言ってるわけです。そこの箇所が、言葉についてのひとつの、言葉は信じてるなってことなんですよ。つまり、聖書っていうのは、言葉っていうのは信じてるなってことなんです。
それから、もうひとつ言葉っていうのだけは信じてるなって思えるところは、もうひとつあります。それは13章のところなんですけれども、やっぱり13章の同じような、同じところです。で、同じようなところで、信仰と、それから、審判と、そういうことについて言っている。つまり、キリスト教の割合に大きな、教理の大きなの部分なんですけれど、その問題について言ってるところなんですけれど、こういう言い方しているところがあります。つまり、天地っていうのは、天地は過ぎていくだろう。今の世も過ぎていくだろう。しかし、私の言葉は過ぎていかないよって言ってるんです。私の言葉は過ぎていかない。しかし、天地も過ぎていくんだと。それで、今の世も過ぎていくんだと。だけど私の言葉は過ぎていかないって言ってるんです。これは非常に、わりに特異な考え方なんです。天地が過ぎていかないってことは、どういう意味なのかっていうことは、僕は語学ができないから、そのテキストのあれができないんですよ。読解っていうのができないんですよ。ですから、間違ってるかもしれないので、日本語として受け取れる限りで言うってことになるんですけど、天地が過ぎていかない、天地も過ぎていくだろうって言い方は、言い方の中に、いくつかのことが含まれていて、ひとつは、歴史っていうものは、人類の、人間の歴史っていうものは過ぎていくもんですよっていうことが、ひとつは含まれているように思うんです。それから、もうひとつは、なんていいますか、もっともっとすさまじいことを言っているような気もするんです。つまり、人間も含めて、この宇宙、天然自然っていうのは、そういうものはみんな過ぎていっちゃうんだよっていうことのように言っているようにもとれるんです。とれるんです。つまり、いずれにせよ、そこで、抽象的に取り出せることは、時間っていうのは過ぎていきますよ。時間っていうのは過ぎていくんですよっていうふうに、抽象してしまっていいますとね、そういうことだって思うんです。で、時間っていうものに耐えるのは、言葉だけなんですよっていうことを言ってると思います。天地も過ぎていっちゃうし、今の世も過ぎていっちゃう。だけど、言葉は過ぎていかないよ。つまり、言葉っていうもの。聖書の場合、私の言葉って言ってるんですけど、私の言葉は過ぎていかないよって言い方をしてると思います。それじゃあ、誰も信じられない、自分自身としてのイエスっていうものも信じられない、同信者、同胞ってのも信じられない、近親者ってのも信じられない、結局、かろうじて残るのは、言葉じゃないか。言葉は残りますよ、過ぎていかないですよ。そういうことだけが残るんじゃないかっていうふうに思われるんです。それで言葉っていう問題は、僕は言葉っていう問題は、関連させてきた場合、それが僕には、そこんところが一番ひっかかってきたところなんです。
そういうふうに考えて、喩として、喩っていうのは比喩とか例えとかそういうことですよ。喩としての聖書ていうことを考え、題を付けたのは、そういうところなんですけれど、そういうふうに考えていきますと、新約書っていうのは、特に新約書の主人公ですよ。主人公のイエスっていうのは、言葉にがんじがらめに捉えられているわけなんですよ。がんじがらめにされて登場するわけです。どういう言葉にがんじがらめにされているかっていうと、旧約書の言葉にがんじがらめにされているんです。つまり、旧約書にある預言っていうものに、がんじがらめにされて、登場してるのが新約書の主人公イエスっていうことなんですよ。で、ことごとくそうです。ことごとくっていうとまた怒られちゃうから、ことごとくって言わないですけれど、非常に多くの部分が、新約書、つまり多く預言される部分は、イエスが預言する部分とか、預言する部分っていうのは、ほとんど全部旧約書から取られたものですね。引用されたものですね。そういうふうになってるんです。つまり、言ってみれば、新約書の主人公イエスっていうのは、言葉っていうものにがんじがらめに絡み取られて、それで登場していると言えば言えないことはないくらい、言葉が新約書の中に氾濫している。しかもその氾濫している言葉ってのは、ことごとくと言っていいくらい、旧約書の言葉の氾濫に捉えられているわけで。かろうじて、そうじゃなくて、捉えられない見事な部分ってものを探していくと、僕が言ったようなところが、かろうじて残るわけですよ。あとはほとんど、旧約書の言葉に絡み取られて登場するのは、新約書のイエスなんですよ。で、それほど、言葉っていうものは聖書の中で大きな部分を占めているわけです。それは、預言的な言葉で言えば、神の言葉であり、っていうふうになるわけですけれども、それほど大体主人公自体が、言葉にがんじがらめになって、されて登場するってようなことは第一に、全体的に総体的に言えるわけだ。
で、そうして今度は、言葉っていう面から、新約書、福音書っていうものを見てったら、どういうことが見えてくるか。1、2、例をあげましょうか。例えば、マルコ伝の4章のところに、イエスが舟に乗って、弟子たちも群衆たちも別の舟に乗って、海へ出るところがあるんです。あるのをご存じだと思います。その時に、嵐に遭うわけです。嵐に遭って、波が荒れてくる。で、イエスが、聖書によれば、しとねを敷いてじっとして寝てたっていうふうに出てると思います。それで、弟子たちは、嵐で舟がひっくり返りそうになるし、波は荒れ狂うしってなことで、弟子たちは、慌てふためいて、不安になって慌てふためいて、今我々は死にそうになっているのに、あなたはどうして平気でいるんだっていうふうに、弟子たちがイエスに言うところがあります。そうすると、イエスが海に対して、黙せ、鎮まれ。あるいは、黙んなさい、静まりなさいっていうふうに言うところがあります。そうすると、海は静まったっていうふうに書かれ、そこのところに、そうする前に、弟子たち、慌てふためいている弟子たちに、信仰が薄い奴よっていうふうに、言うところがあります。言っといて、黙しなさい、黙りなさい、静まりなさいって言うと、海は静まった。弟子たちは、この人は海を、海の波さえ従えさせることができるとは、どういう人なんだろうっていうふうに言うところがあります。
それで、この種のいわば奇跡っていうのがあるでしょ。つまり、イエスがやる奇跡っていうのは聖書の中にばらまかれて出てるでしょ。で、奇跡って言うのはいったい、言葉って言う面から見たらどういうことかっていうことがあるんです。例えば、らい病の患者を人々が連れてきたと、それで、これを治してやってくださいっていうふうに言うと。そうすると、イエスがお前はもう浄められたっていうふうに言うと、らい病は治ったとかね。あるいは、触って、立てって言ったら、足なよの人が立ったとか、奇跡っていうのがあるでしょ。奇跡っていうのは、いったい、言葉っていう面から言えば、なにかっていうことを、どういうふうに理解できるかっていうふうなことを、あれしてみましょうか。今のところを例に取りますと、言葉の、これは言語学の歴史があるんだけれども、言葉の使い方の中に、喩っていうのがあるんです。たとえば、喩っていうのは、よく使われる喩の例で言いますと、直喩っていうのがあるでしょ。それから、暗喩ってのがあるでしょ。直喩っていうのはシミリーってことです。それから、暗喩っていうのはメタファーっていうことですけれども、直喩っていうのは例えば、あの人の目はゾウのように細いとか、あるいは、ゾウの目のように細いっていうような、何々のようにっていう用法があるでしょ。つまり、あの人の目は細いって言えば、意味だけならば通じます。しかし、よくあの人の目はゾウのように細いとか、あの人の首はキリンのように長いとか、そういう何々のようにっていうのを、本来ならば、持つ意味だけからいえば、使わなくてもいい、意味は通ずるのに、そういう何々のようにっていう言い方をして、それを鮮やかにさせる。そういう言い方が、ごく普通に言って、直喩って言うわけです。それで、メタファーっていうのは、その場合に、ようにって言い方をしない。例えば、あの人はゾウみたいだとか、あの人の顔はゾウみたいだとか、あの人の目はゾウだとか、あの人の目はゾウだって言えば、その人の目はゾウの目のように細くて柔和だって、そういう意味。そういうことを言うために、あの人の目はゾウだって言えばいいわけです。その場合に、そういう言い方の時には、暗喩って、メタファーって言うわけです。で、直喩の場合には、ゾウの目のようだとか、ゾウのようだとか、あの人の目はゾウのようだって、何々のようだ、ごとしっていうような言い方をする場合には、直喩って言うわけです。で、暗喩っていう場合には、あの人の目はゾウだって言えば、まるでゾウだって言えば、ゾウのように細くて柔和だっていうような意味合いになるでしょ。つまり、そういう言い方をメタファーって言うでしょ。
そうすると、この今の例で言いますと、奇跡っていうのは、新約書の主人公が聖書の中で演ずる奇跡があるでしょ。さまざまな奇跡があるんですよ。奇跡っていうのはなにかって言ったら、メタファーなんですよ。メタファーなんです。ところで、一般的なメタファーならば、普通のメタファーならば、例えばあの人の目はゾウだとか、まるでゾウだとかって言えば、誰にでも、一応はどんな人にでも、ああそれは、ゾウのように細くて柔和だっていうことを言おうとしてるんだなって、誰にでもわかるでしょ。ところが、奇跡っていうのはわからないわけですよ。つまり、我々、合理的に言い換えしても、聖書の中で奇跡のところを読んでも、つまり、海が荒れてるのを静かになれ、って言ったって静まるわけないじゃないかっていうふうに、誰でも思うわけですよ。だけど、そういうふうに書かれているわけですよ、言葉で。そういうふうに書かれているわけです。それはどういうことかって言うと、つまり、普通のメタファーだったらば、人間の目があって、で、ゾウの目があると、それで、それを結び付けるわけです。あの人の目はゾウのようだってふうに結び付けたり、あるいは、あの人の目はゾウだってふうに言ったりして、結び付ける、それがメタファーなんです。しかし、それは誰にでも、一応はわかるわけですが、わかるメタファー、喩なわけなんです。
ところが、奇跡っていうのは、本来ならば、隔たっていて、あまりに隔たっていて、あるいは、あまりに相反していて、けっしてどんなふうな結び付け方を言葉として結び付けようとしても結びつけられない言葉を、言葉を結び付けているのが奇跡なんです。言葉としてみた奇跡なんです。つまり、言葉から見た奇跡とは何なのかって言った場合、それは本来ならば、結び付くはずない2つの対象を結び付けているっていうのが、奇跡なんですよ。言葉としてみた奇跡なんですよ。この意味はわかりますか。これは、大変重要なことを言っているつもりなんです。うまく言えないですけれど、重要なことを言っているつもりです。それが、奇跡なんです。それじゃあ、なぜ、本来ならば喩として成り立たない、つまり、直喩にもならない。直喩としても意味が通じない。それから、暗喩として考えても意味が通じない。つまり、荒れ狂った海に対して、鎮まれって言ったら、海は静まったっていうふうに言われたって、本来的にそんなの嘘でしょ。嘘でしょっていうのはつまり、絶対信じることはできないでしょ。信ずることをできないことをするから、奇跡なわけですよ。それは、そういうふうに描かれているわけです。これを信ずるか信じないかっていう問題になるわけなんですよ。すると、みなさん半分くらい信ずるのかもしれないし、あやしいなと思いながらも、仕方がないから信ずるのかもしれないですし、あるいは、心から信ずる人もいるのかもしれません。しかし、言葉そのとおりに信じることは、信じられる人は、たぶん、そんなにいないんですよ。それで、そういう人がいたとしたら、そういう人は自分をごまかしてるんだよ、というふうに理解するのが、一番理解しやすい理解の仕方なんです。ところが、新約書の主人公っていうのは、自分をごまかしてないわけですよ。ごまかしてないで、そう言ってるんですよ。言っているように描かれていますよ。つまり、これはフィクションだって理解するか、そうじゃなければ史実に反するというふうに理解するか、あるいは、言葉としてそういうふうに作っただけだっていうふうに、つまり、言葉のフィクションとして理解するか、あるいは、そうじゃないもう少し違うことを言おうとしてるよ、と理解するか、どちらか、その3つしかないだろうというふうに思うんです。
で、もう少し違うことを言おうとしてるよ、っていうことについて、僕は言ってるわけです。僕は、べつに、こんなのは奇跡じゃないと思っているわけです。そんなことありえないと思っているわけです。絶対に信じてます。絶対に確信を持って、そんなことは絶対ないよって、荒れた海、おまえ鎮まれって言ったら、静まった。絶対そんなこと誰がやってもダメだよ。というふうに思ってます。つまり、自然っていうものを、僕はそういうふうに信じてます。それから、人間も自然の一部だっていうことを信じてます。だから、僕はそんなこと信じてるわけじゃない。しかし、信じてないような、それはペテンだっていうか、それじゃなければこれは言葉だけのフィクションだとみるか、それ以外にないのだろうかっていうふうに考えた場合に、そうじゃないもうひとつだけ、考え方があるんだよ。ありうるよってこと言っているわけです、僕は。そのありうるってことは何かっていったらば、もしも、言葉に対する全き信仰っていうものを、それがあるならば、あるいは、言葉に対する全き信仰とは、いわば聖書の言い方ですれば、それは神に対する全き信仰ってことでしょっていうこともあるんでしょうけども。言葉に対する全き信仰っていうのがあるならば、信仰っていうのがこの両者を、この2つを、まったくつながりそうもない2つの対象を媒介するならば、聖書のマルコ伝の言葉で言えば、黙せ、鎮まれって、イエスがそう言ったと、黙せ、鎮まれっていう言葉が、もし言葉に対する全き信仰として、信仰のもとに、黙せ、鎮まれっていう言葉が、この両者を媒介するならば、つまり、まったく結びつきそうもない2つの対象を媒介するならば、これはメタファーになりうる。つまり、誰にでもわかるあなたの目はゾウだとか、おまえの目はゾウだ、ゾウのようだとか、ゾウだとか、そういうのが誰にでもわかるように、凪げ鎮まれって言ったら、静まったっていうことが、わかるんだよっていうことだと思います。つまり、メタファーとしてわかるんだよっていうことだと思います。つまり、それは言葉として見られた奇跡っていうのは、全部そうだと思います。だから、先ほど言いましたね。らい病の患者の人が来たと、これを治してくれ、あなたが能力を持つなら治してくれって言われて、もうおまえは浄められたっていうふうにイエスが言ったら、そしたらたちどころに治ったっていうようなところがあるでしょ。そして、手なよの人を触ったら、そしたら治ったっていうようなところがあるでしょ。そんなことは、フィクション、いわゆるフィクションっていうのが、現実に由来していなければフィクションとも言えないっていうふうに言うならば、そんなことは、ありうるわけないよってことになるんですけれどもね。だったらば、言葉だけのフィクションかっていうことになるわけですけれども、そういう意味じゃなくて、もし、まったく成り立たないような2つの対象ですね。結び付けられないような2つの対象、あるいは、連合することができないような2つの対象っていうものも、もしある言葉に対する信仰っていうものがあったとしたら、そしたら、それはメタファーとして結び付けることができるんですよ。だから、奇跡の話っていうもの、聖書の中の奇跡の話っていうのは、そういうふうに読む読み方っていうのが、ありえますよっていうことなんです。つまり、これを全きフィクションとして読むっていう、こんなでたらめよっていうふうな読み方も、もちろんありうるし、また、本当に信じればそうなるんだよっていうふうに、なるもんなんだよっていうふうに、本当に信仰者の、信心として、そう読むっていう人もいるでしょうけれども。僕はそうでもない。その2つでもない読み方っていうのはありますよ。それは、言葉っていうものに対する信仰っていうものが、まったくあるとすれば、完全にあるとすれば、それはまったく結び付かないような2つの対象も結び付けて、1つのメタファーとすることができるっていうことですね。これをメタファーとして、奇跡の話っていうのは、聖書の中の奇跡の話っていうのは、メタファーの一種。しかも、それはまったく結び付けることができないような、常識じゃ結び付けることができないような2つの対象を結び付けようとしているメタファーなんだっていうふうに読むっていう読み方もありますっていうことを申し上げたいっていうことなんです。
それで、この問題っていうのは、もう少し違う例から、もう少し違う言い方がすることができると思います。それは、例えばマルコ伝の第8章のところにあります。そこのところで、やっぱりね、こういうところがあるんですよ。ツロの地方にイエスが行った時に、悪霊に憑かれた、つまり悪鬼に憑かれた小さな娘を連れてきた母親がやっぱり、悪鬼を追い出して治してくれっていうふうに、治してくださいっていうふうに言ってくるところがあるんです。それで、その前にツロの地方で、イエスはあまりにもなんか群衆から取り囲まれ、それから、そういうようなことがあって、非常に静かになりたいっていうふうに書かれています。静かになろうっていうふうに、なりたいんだっていうふうに、なって退きたいんだっていうふうに思うっていうようなところが、その前のところにあります。それでもってツロの地方に来たと、そしたらば、静かになれるどころじゃなくて、悪鬼に憑かれた、つまり今でいえば精神病理者でしょうけどね。精神病の小さな娘を連れた母親がすぐにもやってきちゃって、それで、この娘を治してやってくれと、悪鬼に憑かれてるんだ治してやってくださいっていうふうに言われるわけです。それで、その時に、イエスが、その母親と取り交わす比喩があるわけなんです。イエスはそういうふうに治してくれって言われて、まず、子どもに飽かしむべし、っていうんですよ。飽かせるっていうのは飽きさせるってことですね。まず、子どもに飽かしむべしと、子どものパンを取りて、小犬に投げ与えるはよからずっていうふうに言うわけですよ。つまり、どういうことかっていうと、まず、子どもに満足させてやるべきじゃないかと、それで、子どもに満足させてやらないで、子どものパンを取り上げて、犬にやっちゃうっていうのは、それはいいことじゃないよっていうふうにイエスが言うわけです。それに対して、それは喩ですよ。どういうかってことは別にして、とにかく比喩です。で、それに対して、娘を治してくれって連れてきた母親が、然り主よ、食卓の下の小犬も子どもの食べ屑を食らうなりっていうふうに言うわけなんですよ。どういう意味かっていいますと、そうですあなたよ、だけどね食卓の下にいる犬も、食卓の下に犬がいるとすると、その犬は子どもがパンを食べていると、食べ残しっていうことじゃなく、食べてると同時にこぼれ落ちたパン屑を小犬が食べるんですよっていうふうに、食べるもんじゃないですかっていうふうにその母親は答えるわけです。で、その答えに対して、その答えを聞いて、イエスは、汝この言葉によりて、安んじて行けって言うわけです。そしたら、治ったっていうわけです。つまり、そしたら治ってたっていうわけです。つまり、この言葉によって治ったっていうわけです。つまり、おまえの答え方っていうのはいいって言ってるわけです。見事だって言ってるわけですよ。だから、治ったって言ってるわけですよ。
なんのことがわからないでしょう。しかし、わかんないでしょうけど、解釈を、つまり、わかんないってことは喩なんですよ、喩。喩でもって問答しているわけです。そうすると、喩でもって問答して、それでわかんないわけです。すると、ところが、答える方もまた、喩で答えてるわけです。そうすると、この種の言い方っていうのは、みなさんのご存じのあれで言えば、謎謎なんですよ。謎謎っていうのはそうでしょう。謎謎の問答っていうのは、こういう謎謎とかね、諺っていうのがあるでしょう。諺っていうのがあるでしょう。それはね、いつでもこういう言い方なんです。それで、これは古代においては、例えば、古代における古代の共同体っていうものに、世界である意味で共通なんですけれども、共同体で信仰を司る者っていいますか、信仰を司る者と共同体を政治的に、あるいは、行政的に司る者っていうのは、しばしば同じであるっていうことがあります。また、しばしば別な場合にも、たとえば信仰を司る人が、ある言葉を、神の言葉を受け取って、そしてそれを、その受け取った神の言葉によって、共同体を司る人たちが実際的に村を治めるっていうふうに、共同体を治めるっていうような、そういう形っていうのは、別々にあろうと、同一人物であろうと、そういう形っていうのは非常に強力にあったっていうふうに考えられる。そういう場合に、そういうところで、そういう時代においては、ある諺、ある比喩、ある喩ですね。非常に普遍的に言えば喩なんです。謎謎、諺、喩ですね。そういうものを、解けるっていうことは、それがわかるっていうことは、信仰が非常に強固だっていうことを意味したわけです。同時に、それはその共同体を治める資格がある。能力がある、資格がある、そういう人だけが、謎謎、諺、そういうものをわかったんだと。それは、諺、謎謎がわかるとか、すぐにわかるっていうことは、それは、信仰が篤いことを、つまり、神の御託宣っていうのは、心っていうのは、すぐにわかるっていうことを意味しましたし、そのことは同時に、ある共同体を実際に政治的に治めるっていうことの能力があるってことを意味していたことがあるのです。それは、実際問題としてもあるのです。だから、ここのところで、つまり、謎謎のように、子どもを、まず子どもに飽かせるべきじゃないかと、それで、その後で、子どもに飽かせない前に、犬にパン屑を、子どもにやるパンをやっちゃったらよくないことじゃないかっていうふうに、そういう言い方をした。メタファーで言ったんですけど、言い方をしたらば、それに対して、答えた母親の方が、答え方は、いや食卓の下に犬がいると、そして、その場合に、子どもがパンを食べていると、そのこぼれ落ちた屑を犬が食べるっていうことはあるでしょうっていうふうに答えた。そうすると、その答え方、メタファーとしてまことに見事な答え方だっていうことで、イエスが、おまえは信仰があるっていうふうに判断したことになるわけです。だから、おまえはもう治ったと、信仰があるならば絶対治った、だから行ってごらんって言うと。行ってみると、子どもは、もう悪鬼に憑かれて狂っていたのが治っちゃったと、こうなっているわけです。
そうすると、実際のメタファーとしてそう言っている本当の意味は何を言おうとしているかって言ったら、結局、これ違うかもしんないし、あてになんないですけど、わかんないですけど、要するに、まず、子どもに飽かしむるべきじゃないか、っていうことは、俺くたびれっちゃってるんだっていうことだと思います。俺くたびれっちゃったもんで、静かに休んで祈るって思っているのに、いるところに、本当に祈って、つまり、少し精神を統一してさわやかにしようって思ってるのに、疲れっちゃったんだって、それなのにやってきて、そういうふうに、神の子どもである自分が、まず、憩って、精神を統一して、精神を浄めて、そういうふうにならないうちにやってきて、子どもが悪鬼に憑かれて治してくれって言うのはよくないよっていうふうに言ってるんだと思います。よくないことじゃないか、そういうのはよくないんだよって言ってるんだと思います。ところが、答えた母親の方が、いやそういうわけじゃないんだ。ただ子どもが、つまり、神の子たるあなたが、憩ってる、憩った時にも、なお、若干のゆとりはあるでしょう。つまり、食べ屑っていうのはあるでしょう。食べ残しの屑っていうのがこぼれ落ちるっていうのはあるでしょう。そのこぼれ落ちる、そのこぼれ落ちたものを、自分の子どもに与えて治してくれって言ってるんですよって、けっして、あなたの憩おうとしている、神と言葉を交わそうとしている、それを邪魔しようっていうふうに、邪魔してひったくっちゃって、こっちに奇跡をよこせって言ってるんじゃないですっていうふうに母親は答えたんだっていうふうに思います。つまり、そして、その答え方は、あっ、こいつはわかってるよっていうふうに、こいつはわかってるんだ。つまり、わかっているってことは言葉がわかっているんだと、言葉がわかっているっていうことは、比喩がわかっている、喩がわかっている。喩がわかっているっていうことは、信仰が全き信仰、つまりいい信仰を持っているんだっていうふうに思ったので、要するにそんなの治ったと同然だよ。治ったっていうふうに言ったんだっていうふうに思います。つまり、こういうことっていうのは、いわば奇跡、先ほども言いましたけれども、奇跡っていうものを言葉から見た場合に、あるいは、一般的にもっと普遍的に言って、新約書っていうものは、言葉から見た場合に、言葉っていう言語から見た場合に、言語っていう観点から、言語っていう思想から新約書っていうのはどういうふうに読めるかって言った場合に、非常に重要な問題だっていうふうに、重要な理解の仕方だっていうふうに、僕には思えるわけです。
で、時間なんですけど、時間が来たのであれなのですけどね、もうひとつだけ言わせてください。言わないとちょっとおかしいことになるんですけど。マルコ伝のね、第4章にたとえ話だけ集めたところがあるんですよ。それに触れなきゃちょっと、せっかく言ってもナンセンスじゃないかっていうことになるので、ちょっとそれだけ触れさせてください。マルコ伝の第4章にたとえ話だけ集めて、たとえ話でなんか言ってるところだけ集めたところが、いくつか集めたところがあります。たとえをもって語るということはなにかっていうことについて、ちゃんとマルコ伝は言ってってたんですけど、弟子たちに聞かれて、お前達みたいに信仰のある程度奥義に達したような人間には、ストレートに語るんだ。ストレートに語るんだ。だけれども、そうじゃない人に対しては、比喩をもって語るんだ。喩をもって、たとえ話でもって語るんだっていうような言い方をしてるところがあるんです。これは、どういう意味なんだっていう、理解の仕方、大変むずかしい複雑な、怪奇のような、複雑なような気がします。ただ、そういうことについてならば、僕がお話ししたことの方がいいと思います。十分だと思います。ただ、なぜ、ここに集めたたとえ話っていうのはたくさんあるかっていうこと、それから、たとえ話を集めたところが、殊更あるか。それは、どういう意味を、どのようなことになっているか申し上げてみますと。
僕が拾い集めてみなくても、みなさんが読んでもきっとわかると思うんですけれど、わかるからいけないってことはないんですけどね。わかりやすいからダメだっていうわけじゃないけどね。つまり、マルコ伝の中にたとえ話だけ集めて、集めたところにある例えっていうのは、概して幼稚なんですよ。つまり、概してあんまりよくないんですよ。それはね、あなたの目はゾウのようだっていうようなわかりやすさとおんなじなんですよ。たとえば、神の国は何々のごとしなんですよ。つまり、ひと粒の芥子種のごとしっていうような言い方っていうようなところがありますけれども、そういう言い方なんですよ。つまり、これで言うと、直喩なんですよ。非常にわかりやすいんですよ。わかりやすいっていうことは、わかりやすいから悪いっていうことじゃないんですけど、せめて先ほど言いました謎謎の、つまり、子どもを飽かしむるのがまず最初じゃないかっていうような、それくらいだったらちょっといいんですけどね。あまりにわかりやすいわけですよ。大部分がそうです。つまり、例をあげてみましょうか。マタイ譚、われら神の国を何になぞらえ、如何なる例えをもって示さん。ひと粒の芥子種のごとし、地にまく時は、世にある萬の種よりも小さいけれど、既にまきて生え出ずれば、萬の野菜より大きく、かつ大なる枝を出して、空の鳥その陰に棲み得るほどになるなり。っていうようなことなんです。つまり、そう言っているわけ、誰にでもわかるわけですよ。そういう何々のごとしっていうのは、多いわけ、多いってことなら、油雲のようなものです。
それから、メタファーのところもいくつかあります。ひとつかふたつあります。で、メタファーとしても、あんまりいいメタファーじゃないんですよ。わりにわかりやすいっていうか、幼稚なメタファーなんですよ。この幼稚っていう意味とか、わかりやすいっていう意味は、たぶん、みなさんにはよく通じているっていうふうに僕には思えるんですけど。例えば、僕があの人の目はゾウの目だとか、っていうメタファーとか、ゾウの目のようだっていう直喩とか、そう言ったとするでしょ。例を言ったとするでしょ。今、思いついたから言ったんだけれども、そしたら、これはいいメタファーじゃないってすぐわかるでしょ。幼稚なメタファーだって、あんまり、いいメタファーじゃないなあ。人間の目の、細くて柔和な目っていうのを何かに例えようっていう場合に、ゾウの目のようだっていう言い方っていうのがいかにも幼稚だっていうことは、みなさんもすぐわかるでしょ。だから、もう少しまともな、目っていうのは、比喩っていうのはあるはずだってことなんですよ。だけど、思いつきだから僕は今出てこないんで、詩を書く場合にはそんな幼稚なメタファーを、僕は使わないです。だから、そうじゃないです。それはすぐわかるでしょ。わかりやすいけれども、あまりいいメタファーとは言えないなっていうことはわかるでしょ。それと、おんなじことが、聖書のメタファーだけ集めた第4章のところ、みなさんが読まれて、これ幼稚だっていうことがわかるでしょ。あんまり、わかりやすいけど、いいメタファーじゃないなっていうことがおわかりになると思います。だけれど、そのことが重要なんですよ。わかるっていうことは、そのことがわかるっていうことは、非常に重要なことですよ。このメタファー、聖書の中のこのメタファー幼稚だよっていうようなことが、わかるってことは重要なことなんですよ。みなさん、きっと信仰にとっても重要だし、そうじゃない言葉にとっても重要なことなんですよ。それとおんなじようにあんまり高級なメタファーじゃないんです。直喩っていうのは多いです。暗喩っていうのもあります。つまり、メタファーっていうのもあります。例えば、ちょっと読んでみましょうか。聞け、種まく者、まかんとて出づ、まく時、道の傍らに落ちし種あり、鳥来たりて、ついばむ。土うすき石地に落ちし種あり、土深からぬによりて、速やかに萌え出でたれど、日出でてやけ、根なき故に枯れる。茨の中に落ちし種あり、茨育ち塞ぎたれば、実を結ばず。良き地にて落ちし種あり、生え出でて茂り、実を結ぶこと、30倍、60倍、100倍せり、っていうようなところがあるでしょ。そうすると、ちゃんとそれの解説が、同じマルコ伝のすぐあとに解説がしてありますけど、要するに、種まく人っていうのは、神の言葉を述べ伝える人だっていうふうに、そういう比喩なんだよ。それで、道の傍らに種がこぼれた。それを鳥がついばんじゃうっていうのは、あんまり信仰がないもんだから、ぼんやりしてて、たまたま神のこういう信仰の言葉が落ちてきた。そんなのは、悪い奴で、悪鬼が来て、悪い奴が来てついばんでいっちゃっても、ぱーって消えちゃうんだって、それから、石地みたいな、石が固いところに種をまいたら、根が浅いものだから、ちょっとした誘惑みたいなものがあると、すぐに信仰はすっ飛んじゃうんだって、誘惑とか迫害があるとすっとんじゃうんだって、こういう例えだっていうふうに絵解きがしてあります。そうすると、いかにも幼稚でしょ。幼稚でしょっていうことは、みなさんにすぐわかるでしょ。こんなのは、絵解きしてもらわなくたって、こんなのは、ああはーんって、そういうこと言ってるのかって、わかるでしょ。このわかるっていうことは、いいことなんですけれどね、わかるって感じに幼稚って感じが伴うのは、けっしていいことじゃないんですよ。いいことじゃないっていうことは、言葉の使い方っていうものにとっても、言葉としてもいいものじゃないってことなんです。もちろん、比喩としてもいいものじゃないんですけどね。言葉としてもいいものじゃないってだけじゃなくて、たぶん、僕に関係ないって言ったらいけないんですけど、みなさんにはきっと関係あることだ。つまり、非常に多くあることだ。信仰にとってもいいことじゃないんです。つまり、幼稚なメタファーで、ふわぁーべらべらってなっちゃう人はダメなんですよ。それはダメなの。そういうのはダメな人なの。それで、それは幼稚なのは幼稚だって言えなければ、本当に信ずるってことは、なにかっていうことを突き詰めることはできないのですよ。ですから、本当の信仰とはなにかっていうことを言うとおかしいから、信仰とは言わないで、信ずるか信じないかってことを問い詰める場合に、自分を問い詰めて、あるいは、他者を問い詰めていく場合に、そんな幼稚な比喩とか、幼稚なあれで引っ掛かってくような奴は全然ダメなんだよ。ダメなんですよ、それは。信仰としてもダメなの。これはね、理念としてもダメなの、マルクス主義やなにかでもおんなじなんです。つまり、幼稚なこと言われて、はあーって思っちゃう奴なんかダメなんです、そんなことは。ダメだから、こんなものはダメだと否定しなきゃいけないんですよ。そのことが思想の問題なんですよ。だから、それは信仰についても言えるのです。だから、必ずしも高級じゃないっていうことを、マルコ伝ならマルコ伝に出てくる比喩っていうのは、たとえ話っていうのは、そんなにあれじゃないってことは、メタファーならまだあれだと思いますけれど、そんなに上等なものじゃないってことは、申し上げといておきたいわけです。それで、それはどうしてかっていうと、これはまったく聖書とかなんかの理解ってものから離れますけれど。
これは、僕は聖書っていうものを研鑽してきたわけじゃないんですけれども、僕が、マチウ書試論以降考えてきたことの、わりあい大きな柱のひとつに、言葉ということがあるわけですけれど、言葉に対する理解とか理念とか考え方っていうのは、自分なりの考え方っていうのはあるわけですけど。それでもって追究してきたことなんですけども、殊に言えば、喩っていうものは、例えっていうもの、喩っていうものには、それ自体、べつに時代性とか時間性ってものはないわけなんです。つまり、今でも直喩も使われますし、それから、メタファーも使われますし、それから、もちろん喩なんて使わないで、ストレートにおまえの目は細いっていうふうに言う言い方も、その方が通じやすいから、ストレートにそういう言い方もあります。つまり、今でも様々な喩っていうのは使われているわけです。つまり、人間が言葉として、比喩として編み出したすべてのことは、今も使われているわけです。ですから、言葉に時間性とか、歴史性っていうのは、比喩に歴史性っていうのはないのですけれど、ないのですけれど、喩っていうものを時間性から理解することもできるのです。それは、発生史的にもできるのですし、また、発生史っていうような考え方をとらなくて、現在性、現在の立場っていうものから、時間性を入れていくっていう考え方を、言葉に時間性を入れていくっていう考え、時間の累積性っていうものを入れていくっていう考え方を取りますと。
まず、一等最初に、喩として一等最初にあったのは、僕が勝手に名前を付けたんだけど、虚喩っていうものが最初にあったんですよ。虚喩っていう言い方が最初にあったんです。その次に、時代に、時間に発生したのが、暗喩なんです。メタファーなんですよ。その次に発生したのが、直喩なんですよ。何々のようにっていうような言い方なんですよ。それで、最もあとに出てきたのがストレートな言い方なんですよ。これは、みなさんは不思議に思うかもしれないですけど、この意味はこうなんです。つまり、私たちがメタファーと考えているものっていうのは、現在、メタファーだと考えているものは、その時代の人に、メタファーが発生して、使われて、流布された初めの時代の人にとっては、それがメタファーじゃなくて、当たり前な言い方だったっていうことなんです。今、われわれはストレートにおまえの目は細いっていうのを言うことと同じことを言うのに、メタファーが発生した時代の人は、おまえの目はゾウのようだとか、ゾウの目だっていうふうな言い方をしたんです。したっていうそういう意味なんです。だから、それが時間性っていうことなんです。だから、ストレートな言い方っていうのは、時間としては一番あとに出てきたんです。だけど、そんな馬鹿なことないでしょ。喩とかの方が言葉の飾りじゃないですかっていうのは、それはちょっと固定した考え方なんで、そうじゃなくて、それ以外には言えなかったんですよ。人間っていうのは、言葉を、言い方を知らなかった。言えなかったんですよ。だから、ある非常に重要なことを言おうとする場合、例えみたいな言い方しかできなかった時代っていうのはあるのですよ。それが、それぞれの喩が発生した時代なんです。ですから、メタファーが発生した時代に、これ抵触するなって、マルコ伝が抵触するなっていうふうに思える箇所は非常に僅かしかないっていうこと。
僕は先ほどメタファーの例として、問答としてあげたでしょ。あのような箇所はたぶん、非常に古い時代に存在した文書かなにかに存在した部分じゃないかってことが、言葉の面から言えます。言葉の面から新約書を見た場合に、言えることなんです。それで、それが当たってるかどうか、実証的に当たってるかどうか、学者の先生に実証してもらわなくちゃいけないと思う。しかし、言葉の面から理論的に言えることは、そういうような古い時代にできあがったものだなっていうことが言えるのです。それから、メタファーとして出てきたのは、それよりあとの時代なんです。ですから、みなさんが聖書を読んで、わかりやすいメタファーっていうふうにあるそれはね、たぶんね、大変新しい時代に出てきたか、出てきた文書にあったか、それじゃなければ、それは、当時のイスラエルかそこら辺より、もっと文明の発達しているローマとか、ギリシャとか、発達しているところがあるわけでしょ。そういうところから既に文明が、輸入文明として存在している。それで、輸入文明として存在していたそれを、つまり、今で言えば翻訳文学ですよ。翻訳文学っていう意味で、これは、このたとえ話はあるんだな。それは取り入れたんだなっていうふうに理解された方が、おれはいいと思います。つまり、それが言葉の面から見てる、喩の面から見た聖書っていうものの見方の非常に大きな問題なわけです。これは、雑にこと言うといけないのであるし、これは、いわば、こんなことはテキストクリティークしない、つまり、言語がわかんなくて、テキストクリティークをして、それで立証してってなことをしないわけだったら、で、実地調査しなかったら、そんなことは言えませんよっていうことは、一応の理屈ですよ。一応の理屈ですけど、そうじゃないんですよ。言葉っていうものに対して、言葉の理論っていうものがあるんですよ。言葉っていうものがどういうふうに発生して、どういうふうにあれしたか、理論っていうものがあるんですよ。理論がたぶん正しければ、それが言えるのですよ。そういう言い方をしても間違いないと思います。これは間違いないと言っても予言ですからね、予言ですから間違うかもしれません。つまり、今に実証的な人が実証して、実証的な学者が実証したり、原文のテキストクリティークを厳密にやったら、僕の言うことは外れてるかもしれないけど、しかし、僕が理論的に、僕が築いてきた言葉についての考え方、理論から僕が言えることはそういうことなんです。つまり、聖書っていうのはそういうところからも、クリティークできますよっていうこと、クリティークできますし、信仰っていうこと、あるいは、一般に信ずるっていうことはどういうことなのかっていう問題に対して、言葉の面から、喩の面から、アプローチすることができますよっていうことが言えるっていうことなんです。これは、僕がマチウ書試論以降、僕が自分なりの固有領域でしてきたことがありまして、それを、仮にそういう読み方、そういうところからマルコ伝を読んでみて、僕が抱いたひとつの感想っていうもの、そういう点にありましたので、自分もみなさんのところに来る、おしゃべりする契機がなかったら、そういう勉強も、そういうふうに聖書を読んでみようなんていうふうに、あらためて読んでみようなんて思わなかったでしょうから、僕にとってもありがたい機縁であったわけですけれども、また、僕が、おまえはマチウ書試論以降、聖書について何をしてきたんだ、何を考えてきたんだって言われたことに対する僕のわずかな回答っていうのが、今日お話ししてきたようなことなわけです。いちおう、これで終わりにしたいと思います。(会場拍手)
どうもありがとうございました。今日はメタファーという一点に絞りたてて、極めて情熱を込めて、お話ししていただき本当にありがとうございます。それでは、貴重な時間、15分だけ延長させていただけるようですので、ぜひ、みなさんの率直な質問をたくさん出してください。今から12時15分まで、質問の時間にしたいと思います。今の吉本先生の講演をめぐって、いろいろさらに確認したいこと、もう少しこういう点を聞きたいというところがありましたら、どうぞ質問なさってください。
(司会)
はい、どうぞ。大きな声で立っておっしゃってください。
(質問者)
さっき話された内容とは変わってしまうんですけど、吉本さん自身は、思想家としても、また、詩人としても、2つの顔を持っていると思うんですけど、吉本さん自身が自分自身の思想として、言葉っていうのはどのように考えるのか。
それと、吉本さん自身が、文学っていうのは僕自身だと思うには、フィクションによって文学っていうのはあくまでも暗示っていうものをしてると思うんですね。それと、思想っていうのはもうちょっと暗示というものから離れて、もっとマニフェスとして考えなくちゃならない面みたいなのがあると思うんですけど、吉本さん自身の思想家としての一面と、文学者としての一面で、思想の言葉と文学の言葉っていうのはどのように捉えていくかっていうことをお聞きしたいです。
(吉本さん)
大変根本的で、大きな質問なんで、いっぱいいっぱいに答えたらいくらでもしゃべれる感じなんですけど、しゃべってもキリないっていう感じなんですけど。なぜ、僕、元々文学なんですけれど、思想っていうふうに考えていったかって言いますと、僕が、もちろん自分が自分自身をなぐさめる為に文学的なものを書いていたのは、非常に若い時っていうか、十いくつくらいの時からそういうことはしてたわけですけど。そうじゃなくて、自分が、そういうふうに文学の方にのめり込んだっていうか、のめり込まされたっていいますか、そういうふうになった時に、文学の世界で、一番僕なんかに関心がありましたし、一番問題にされてたのは、政治と文学っていうテーマだったんですよ。政治と文学とはね、政治っていうものと文学と、どういう関係があるかとか、それはどういうふうに考えたらいいのか。そういう問題として、問題は提出されていたわけです。そういうとこから、ずーっと考えていって、政治と文学っていうそういう言い方を、政治と文学で並べたって、これは、関係なんかありようがないじゃないですかっていうふうに、だんだん僕の方はそういうことになってきたわけですよ。そうしたら、わずかに政治っていうものと文学っていうものと、わずかに結びつける媒介っていうものがあるとすれば、それは、思想っていうことじゃないかっていうふうに考えていったわけです。それで、たぶん、そこのところで、自分はそういう面の事柄っていうのにしてきたように。じゃあ思想って、どういうことっていうことになるわけです。思想っていうのは、たくさんあるわけです。たくさんあるんですけどね、様々なことがあるわけですけども、おおざっぱに言いますと、さっきとおんなじなんですよ。つまり、公に対する思想、国家社会がどうあるべきなのか、どういうふうに関わったらいいのかっていうような意味の思想があるでしょ。つまり、政治思想とか社会思想とかっていう思想もあります。で、それとどういうふうに関わったらいいのか、国家や社会とか、あるいは、公とか、そういうのとどうやって関わったらいいのかっていうことについての考えがひとつあるでしょ。それは、政治思想とか、社会思想とかって言われているものになりますよね。それから、もうひとつは、僕の考えですけれど、先ほどの、つまり、近親とか、そういうことについての考えなんですけれど。つまり、それは普遍的に言ってしまうと、性なんですよ。セックス。セックスについての思想っていう領域っていうのはあるわけなんです。つまり、セックスとはなにかっていうことです。それは、近親とか、夫婦とか、男女とかっていうことですけど、もっと普遍化して言ってしまいますと、セックスっていうのはなにかって言ったら、それは、一人の人間が自分以外の一人の他者と関わる世界。それは、セックスの世界なんですよ。一人の人間が自分以外の他の一人の人間、自分とでもいいんですけれど、一人の人間と他者と関わる世界っていうのは、世界では人間は性として現れる。セックスとして現れるわけですよ。つまり、男性ないしは女性として、現れるわけですよ。同性同士でも同じです。つまり、男性または女性として現れる。人間が性として現れる、人間の存在が性として現れる世界っていうのは、性の世界。それは、近親者の世界であるし、家族の世界であるし、男女の世界っていうのはみんなそうです。つまり、そういうことについて、どういうことになってんだっていう、自分はどう関わっているんだっていう考えていく領域っていうのが、そういう思想の領域があるでしょ。それから、もうひとつはやっぱり、自分が自分自身に関わる、関わっていく、おれっていうのはいったい何なのっていうことです。そういう領域っていうのはあるでしょ。思想っていうのは、おおざっぱに言っちゃうと、そういう3つの領域があるっていう言い方。僕がなぜそういうことを考えてきたかっていうと、はじめはさっき言いましたように、政治と文学、つまり、とてつもなく違ったものですよね。結びつかないものを結び付けようとする論理とか、無理に結び付ける論理とか、無理に統一しようとする論理とか、いやそれは別々だっていうような論理とか、そういうのがいっぱいあったわけですよ。それで全部懐疑的になっていって、それならばかろうじて、思想っていうことは、かろうじて文学っていうものと結び付くし、あるいは、政治っていうものと結び付くかもしれないなっていうことで、思想っていうものを考えました。その思想の内容っていうのは、今申し上げましたように、僕は考えてます。
(司会)
他の方から質問がございますか。はい、どうぞ。一番後ろの。
(質問者)
私、キリシタンですけれど。最も大切なところで、奇跡をほっぽらかしてあるところ、十字架にかかって3日して甦って、昇天されることが奇跡だと思うんですけれど、それについて、触れなかった理由を聞かせていただきたい。
(吉本さん)
それは、重要なんですよ。時間がないってだけで、僕はもう少し勉強してきたので、触れられるんですけど。あるでしょ。するとね、そこで重要なことは、マルコ伝の中にある中で、その復活っていうことと、再臨っていうことでもいいですよ。それで、重要なところがあるんですよ。今このノートを見れば、その箇所を指摘できるんですけど、おおざっぱに言いますと、こういうところがあるでしょ。つまり、イエスに対して、いじわるをしようとするあれが、学者、民衆たちがいじわるな質問をするところがあって、要するに、7人兄弟がいると、まず一番上の兄が結婚してたと、で、その子どもなしに死んでしまったと、その寡婦は、旧約書のあれでやれば、その兄弟と、つまり弟と娶せて子どもをもうけてもいい、あるいは、もうけるべきだって書かれていて、そうすると、子どもも、そういうふうに一緒になったと、その次の弟も死んじゃったと、で、子どもはなかったと、そうしたらまた女は、その次の男と結婚して、それで7人最後の弟と結婚して、子どもがなかったんだけど、最後の弟は死んじゃったと。そしたら、復活の時、復活の時に細君は、つまり女は、女の人は誰の奥さんになったらいいんだっていうふうに質問するところがあるでしょ、マルコ伝の中に。
それに対して、答えているところがあるんですよ。それに対して答えてるところで、そんなとてつもないっていうことがある。つまり、復活した時には、人はどういうふうにして甦るかって言ったら、結婚したり、子どもをなしたり、そういう様には復活しないんだよ。天にある御使いのように復活するんだよっていうふうに、答えるところがあるんです。マルコ伝はそう答えてます。で、たぶんそれは、非常に重要な問題なんです。重要な問題なんです。僕は、あなたの言われるところは、大変重要だと思ったから、これは日本の浄土教系の教義にとっても非常に重要なところなんです。つまり、天国っていうのはあるのかっていうことです。つまり、死んだあとで行くところが天国なのか。それとも天国っていうのは単に、比喩に過ぎないのか。比喩に過ぎないので、自分の心が浄化される、そういうところを通過して、そしてまた再び、この世界に、仏教用語で言えば、三毒五濁の世界ですよね。そういうところに、また帰ってくるっていうのは、そういう意味は、本当に一度死んじゃって、往生して、あるいは、死んじゃって神の国に行って、実際的に行って、天国っていうのはあって実在してて、信仰者の中では実在すると思ってて、そこへ行って、それから帰ってきて、仏教で言えば、慈悲を垂れるわけですけれども、その時に本当の慈悲を垂れるっていうことになるんでしょうけども。つまり、浄土教の思想で言えばそうなんですけど。聖書の思想で言えば、その時に再臨して、そして福音を述べる。人々に述べ伝えるし、また、人々を裁いたりするわけですよ。それは本当に言ってみれば、形而上学的にじゃなくて、本当に信仰している人は、本当に天国があると思って死んで、そして、本当にそこに行くと思って逝き、本当にそこに行くと思って、またそれで人間に帰って、こういう肉体を持った人間に帰ってくると、本当に思ってますかというふうに聞いたら、本当にそう思っているか。あるいは、そうじゃないと、そんなものはあるわけないでしょ。あるわけないから、要するにそれは、いわば人間の内面性の中で、いわばひとたび浄化された、信仰によって浄化された境地に至って、それから再び、悩みとか、苦しみとかそういう、諸々のそういう世界に入って行っていいと思い、それで入って行くんだって、そういうことを比喩的に、メタファーとして言っているのは、再臨の信仰なのかっていうことを言ったらば、そうしたらば、つまり、そうしたらトマス・アクィナスが出て、それでルターが出て、知らないですけど今だって、バルトが出てって、こういうふうになっちゃう、なっちゃうわけじゃないですか。つまり。極端に言えば、その人の数だけ神学ができちゃうわけじゃないですか。だから僕はどうっていうことは言いません。だけれども、マルコ伝の中では、そういうふうに言ってます。それは重要だと思います。それは重要なメタファーだと思います。つまり、人の子が甦る時もそうですけれど、人間が甦る時もそうで、そういうことです。つまり、もう一度みんな復活して、再生した。そしたらば、その時、誰の妻になったらいいんだ。7人とも妻になったんだから、誰の妻になったらいいんだっていうような言い方で言うのは、全然嘘なんだっていうことを言ってるんです。つまり、メタファーとして言えば、そういうふうに娶ったり、子をなしたりっていうような様には、甦るのではない。それは、天にある御使いのごとくに甦るのだよって言ってんですよ。そしたら、それは何と言っていることになると思われますか。つまり、そこの解釈は重要で、神学ができると思います。あなたの信仰ができると思います。僕はべつに信仰がないから、それはメタファーとして理解したら、本当の理解の仕方ですよっていうことを言いたいんです。言えば十分だと思います。つまり、どう言ったらいいんでしょう。それは、天国っていうのはいわば、心の比喩に過ぎないよっていう理解の仕方も違うんじゃないか。それから、天国っていうのは、死んだあとに実在しているので、信仰がまったくあれば、まったく完全だったらば、死んだあとで必ず天国へ行って、それで、それからまた、天国から帰ってきて、人間の中で様々な、教え述ぶ、それから様々なよきことをし、人々を導きっていうふうにするんですっていうふうに、信仰している人にはお気の毒だけれども、僕はそういう理解も間違いじゃないかというふうに思います。だから、それじゃあどういう理解の仕方。まさに、人間甦る時には、再び結婚するとか、子をなすとか、というような形では、甦るのではないのですよって言ってる。それで、天の御使いのごとく、あり様で甦るのですよっていうふうな言い方をしている。もう一回、最後のところで、甦った後でだれそれは、マリアですか、だれそれはどこか通っていたら、異形の形、異なった姿をしたイエスがこうガクンとあったとういうような言い方をしています。つまり、異なった姿ぐらいな言い方をしています。つまり、そういう言われ方。つまり、人の、結婚したり、子どもをなしたっていうようなそういうような意味で、甦るのではありませんよって言ってる。それを、そのとおり受け取ったらいいかどうか。少なくともそうだとか。つまり、それで十分だっていうふうに思います。それをどういうふうに解釈し、どういうふうに深めるか。それで、どういうふうに考えるかっていうことで、たとえばそれは、あなたの神学を作れば、よろしいんじゃないでしょうか。僕はそう思いますけれど。僕はそういうふうに理解してきました。
(司会)
他にございますか。
(質問者)
お話の中でひとつわからないことがあったんですけども、何を言うか思いわずらうなっていう例を使って、それは、自然状態で言われる言葉っていうのは必ず常に背かないものだって、そういうふうにおっしゃってましたけれども、普段みんなから言われることが、必ずその人に背かないものだったら、なんかちょっとびっくりするような感じなんですけれど。むしろ、自然状態で言われることは、すごいつまんないんじゃないかって感じで、そう思いましたものですから。ただ、わからないところっていうのは、そういうふうに言った時は、その人の中に背からないものっていうのがあるわけですね、つまり、背からないものがちゃんとある。そういうふうにちゃんとあるっていうことは、そういうふうに言葉が自分に背かないものだって言っちゃうっていうことは、自己自身としての自分っていうものがちゃんとあるっていうか、そう信じてるっていうことじゃあないんですか。自己自身としての自分を信じてない者っていうのは、そんなふうには言えないような気がするんですけれども。僕の話の捉え方がどっかおかしいのか、よくわからないですけれども。
(吉本さん)
それは、ちょっと違うんじゃないかと思います。もっと言葉っていうものを、もっと根源的に言葉っていうものを問題にしているんじゃないかっていうふうに思います。だから、われわれは現実に言う場合にしたら、だれそれに対してこういうことを言ったら、わるいなぁとか、こういうことは言うべきじゃないなぁとか、絶えずそんなことを言いながら、思いながら、言葉を発していますよね。だけれども、それは現実的にそうなんだけれども、それは人間にとって、あるいは、人間とその言葉にとっては、本当にいい状態かっていうと、そうじゃないと思います。そうでないのです。本当にいい言葉の状態っていうのは、何かって言ったらば、思いのまんまに言って、もちろん自分にとっても、他者にとっても、その言葉はなんでもないんだ。つまり、他者を損なうわけでもないし、自分を損なうわけでもないっていうようなことであったらば、それは非常に根源的に言葉にとってはいい状態なんだと思うんですけど、そうはいかないわけなんだ。しかし、そういくためには何が必要なんだ。それは、聖書は、それは信仰が必要なんだ。つまり、言葉って言うのは神から来るんだっていうことが必要なんだっていう考え方が必要なんだっていうふうなことを言ってるんだと思いますけれど。
だけれども、もうひとつは、無制約に言われる言葉っていうのが、無制約に言われる言葉も、つまり、現実的には自分に背くけれども、本質的には、根源的には、自分に背かないもんなんだよっていう考え方っていうのはあるってことだと思いますよ。何言っても、それは自分の根源には背くは、自分の現実には背くし、現実の自分と他者との関係を損なったり、傷つけたりはするけれど、しかし、根源的な自分っていうものには背かないんだよっていうところが、考え方っていうのはとれるだろうと思います。で、自分を信じられるか信じられないかっていう問題は、そういうふうにとれるんだけれども、現実的にはそれをとれないで、様々な制約の中で言葉を吐いてる自分っていうのが、そういうものがあるから、だから、自分を信じられないっていう問題が出てくるんじゃないんでしょうか。つまり、だけど根源的に問うならば、どんなことを言ったって、思う様に言ったって、自分に背くものじゃないんだよ。自分の範囲、領域っていうのはそういうものなんだ。自分っていうものの領域はそういうもんなんだっていう、そういうものは根源的には、そう考える考え方っていうのは成り立ちうるんじゃないかと僕は思いますね。そういう意味合いを言ってると僕には理解できますね。僕はそう思いますね。
(司会)
もう少し、あと5分間ございますので、ほかに質問がありましたら、学生の中から質問がありませんか。よろしいですか。そしたら、学生に限らず、一般の方でも、先生方の中からでも、質問があったらどうぞお願いします。
(質問者)
最後のところで、第4章、マルコ福音書の第4章が具体的に明らかになりましたけれど、先生のお話を正しく理解するために、どうしてもここをお聞きしてみたいなと。そのためにはまず、先生が虚喩という言葉を○○○(?)質問に過ぎないなって気もしますけれども、一応私なりの独断で、先ほど引用されました第4章の30節以降の波が鎮まれ黙せっていうような、あそこのところは虚喩というふうにお考えになってらっしゃるのかなぁという、そういう推理仮説を立てた上で質問を申し上げ、その答えの中で、虚喩を具体的に集めたいなと思います。
この第4章は、私は、メタファーとシミリーっていうのは何かと言いますが、最初の○○○(?)3つの言葉、ああいうふうにございますが、これを解き明かした同信の、解き明かしたところは、直喩に翻訳したんじゃないかと理解します。その場合に、この直喩の説明を見て、読んで、我々だって、少しも納得しない。つまり、宿営(直喩?)の中で、自分が何に該当するかっていうのは難しいと思うわけです。私なんかは、父の辺だなぁとか、あるいは、近場の人達の辺だなぁっていうふうな感じがするわけです。でもその他特定の者に引っ張られて○○○(?)、いわば必然性の感情みたいなものがあるにも関わらず、殺伐と守られてきて、救われるも救われないもつまってるんだと、そういう解説しかされてない。それについて、21節から25節までのところで、虚喩でこう言っているわけですね、ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。なんでも、隠されているもので、現れないものはない、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞くがよい。ここのところで私は、先ほどの先生のお話の中で、同志、同胞、同信者といえども信じかねない。自分といえども信じられない。あるいは、民衆といえども兄弟と信じられない。そのリアリティ、思想においてすごい○○○(?)、この場合、マルコはイエスを同じように描いている、書いていると言えるじゃないですか。やっぱり解釈するほかえないわけです。つまり、弟子たちを信じてない。自分の言ってることは聞いても聞こえない連中だっていうことを前提にして読みますと、この聞く耳のあるものは聞くがよいということは、イエスに対して弟子たちが信じてない。そういうふうに考えてきますと、そのあとに言っている2つのつまらん。
(司会)
すみませんけれど、なるだけ短くまとめてください。
(質問者)
この直喩っていうものがですね、どういうものとなるか。簡単に言いますと、聖書のたとえっていうのは、直喩が暗喩になっていて、そして、直喩プラス暗喩が全体として虚喩になってると思います。そういう観点が、構造的にあるのではないか。そういう点、つまり、この第4章のこの自然体の造語発生についての先生の考え方、どういうふうにお考えになられるか。
(吉本さん)
僕は感心して聞いてたんですけれど。今、僕が話をして、第4章のたとえって言うところが、僕以外にそういう読み方をした人はいないと僕は思っていたわけですから、僕の話を聞いて、あなたが今言われたようなことを考えられたとしたら、僕はそれは立派なものであって、それでよろしいんじゃないかっていうふうに思うんです(笑)。つまり、僕はそういうふうに言われても、感想はないなぁっていう。それだけお考えになったら立派なもんですよっていうふうな気がするんです。それで、僕、虚喩ってことをあれしなかったけどね。虚喩っていうのはそうじゃないんです。僕が言ってる虚喩っていうのは、まず、うまい例えが聖書の中にはないんですよ。あなたのおっしゃったところは、僕が言う虚喩じゃないんです。メタファーなんですよ。全部メタファーなんですよ。メタファーから直喩なんです、全部そうです。聖書の中にある比喩はみんなそうだと思います。僕が言う虚喩っていうのは、そうじゃないんですよ。例がうまく挙げられないんですけど。たとえば、さっき言った。思いつきでひょろっと言っちゃうと、ここに扇風機が回っているとするでしょ、ただ扇風機が回っていますっていうふうに、僕が言ったとする。そういうこと、それ以外に何もないんですよ。つまり、扇風機が回っていますっていうふうに言った場合に、ほんとはそれ以外何も言わないんだけども、それで何か言ってるっていうことなんです。それで、なんか言ってる。そんなことはありえないんですけど、ありえないんだけども。つまり、我々の今持ってる言語感覚では、そういうことはありえないんですよ。何の含みもなく、ここに扇風機が回っていますっていう、目の前に回っている扇風機を見て、扇風機が回っていますって言ったら、もうそれ以外に何にもないわけです。確かに回ってるから回ってるって言ってるわけです。ところが、しばしば、僕が言う虚喩なるものが発生した古代においては、古代においてはそういう言い方をして、あるいは、そういう言い方でしか、自分の思っていることを言えなかったっていう時代があったと思うわけです。理解するわけ。つまり、あることを言うためには、絶対に扇風機が回っていますとか、ここに机がありますとか、そういう言い方しかできないっていうことなんですよ。そういう言い方しかできないし、そういう言い方をすることで、本当は、俺はこういうふうに思ってるんだよっていうような、そういうことを本当は言うために、ほんとにそれしか言えない。そういう言い方しかできなかったそういう時代って言うのがあったと思います。そういうふうに考えているものが虚喩なんです。これは何の含みもない。一見するとこれは、あれとおんなじになっちゃうように思うでしょ。つまり、ストレートに、おまえは馬鹿だとか、扇風機が回ってるっていうのと虚喩と同じだっていうふうに思われるかもしれないけども。そうじゃなくて、それは現在の言語感覚で言うからおんなじに見えるんであって、ひとまわりして全部めぐって、歴史を全部めぐって、おんなじだって意味なんです。そういう言い方でしか言えなかった。そういう言い方で心を言う。そういう時が、古代のある時期にあったっていうふうに理解します。そういうことが虚喩なんで、おっしゃるような意味ではないわけなんです。あとのことで言えば、おっしゃってることは、僕はもう言うことないですよっていう、立派なものですよ。僕が今日言ったことっていうのは、誰にも言ってないはずだって思ってるわけです。ですから、思ってるんだけれど、案外、人は同じようなことを考えるからわからないですけどね、言ってないはずだよって思っているわけだけれども、そっからまたもう少し厳密に考えられたってことは、いいんじゃないですかね。そういう感想を持ちますけどね。
(司会)
まだまだお聞きしたいことがありますけれども、まだこの後、午後の2時間のシンポジウムがありますので、そちらにさらにつなげて、煮詰めていきたいと思います。これで、午前の部を終わらせます。先生、どうもありがとうございました。(会場拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま