戦後詩の話に入ってゆくのに「言葉という思想」といった問題から入ってゆきたいと思います。「言葉という思想」というたいへん新しい考えかたなんです。
みなさんが詩という場合と私どもが詩という場合とでは多少くい違いがあると思います。みなさんの詩という概念をどこで考えたらいいかといいますと、歌謡曲やフォークソングの作詞というものが一番近いのじゃないかと思います。その作詞と、ここでいう戦後詩というものとがともにどういうところに今きているかと考えてみます。歌謡曲とフォークソングの二つのどちらが私どもの考えている詩に近いかといいますと、フォークソングの歌詞のほうが近いのです。それはたいてい弾き語り唱いということで、特定の専門の作詞家を除くと歌う人が自分で詞も作るということになっています。あるいは作る人が歌うことになっているといってもおなじです。つまりメロディといっしょになって存在しているのです。歌う人がつくる例が多いことからわかるように、それはいわば素人の詩であるわけです。それと専門の詩人の詩とどういうふうに違うか、あるいは同じなのかという問題をはっきりさせることができればよいのです。
フォークソングの詩は幼くて下手です。しかし、それだけでないところがあるとすれば、それは臆面nがないということです。開けっぴろげであり、とにかく言葉にあらわしてしまっているところがある。この臆面の無さは大衆歌曲の作詞の大きな特徴です。なぜかというと現代詩人といわれる人は一様に臆面の無さを失っているからです。それは照れくさいからでもあり、高度の感性ではないからでもあると思います。もっと重要なことは必然的にちぢこまっている。つまり現在、詩を書こうとするとどうしても必然的に萎縮せざるを得ないということがあります。そこには時代の大きな契機があると考えます。それに比べるとフォークソングの詩は幼くて単純ですが、おおっぴらで臆面の無さがある。それが言葉の解放感につながっているところがある。それが両面の大きな違いだと思います。
この違いとともに両方とも現代の詩だという同じ面がありますが、それをどこで問題にしたらよいかというと、一般に喩というものにおいて扱うとわかりがよいのです。喩というのはどういうものかといいますと、たとえば「あなたは色が白い」というところを「兎のように色が白い」という場合があります。その「兎のように」というのは喩の使い方です。これは直喩といわれています。それから「あなたは兎だ」という場合があります。これは「あなたは兎のように色が白い」とか、「あなたは全体的に兎のような印象をあたえる」ということとかを含めて、暗喩といわれます。この直喩とか暗喩がどうして詩の表現にでてくるかというと、もとを正すと大昔の人たちが詩を作るとか、歌うとかいう場合、「兎のようだ」という表現しかできなかったのです。現代の私たちは「兎のように色が白い」という時、「兎のように」という言葉が余計な言葉のような気がするのですが、ほんとうは反対で、大昔は詩のなかでは「兎のように」という言い方しかできなかったのです。自分の思っていることを直接言うことは昔の人にはできなかったのです。もっと以前は人間は「私は憂鬱だ」などと自分の心の状態を言うことができなかった。その場合、たとえば「花が紅い」とかいうことしかできなかった。詩の元を正すと「兎のようだ」というほうが自然な言い方なのです。現在、詩をつくる場合、具象的なイメージによって感情表現をせざるを得ないのですが、それはもともとそれ以外にできなかったことをあらわしています。大昔は自然にそうしたことを現在では意図的にしているのが詩だということです。ですから喩、すなわち、直喩と暗喩をとりだすことによって詩を占うことができるのです。
歌謡曲やフォークソングの作詞と現代詩を比較する場合、喩を取りだすことによって同列に並べることができます。戦後の詩が突っ込んでしまっている萎縮した迷路ともいうべきものは不定型、あるいは無定型な喩、つまり直喩でも暗喩でもない喩の使い方にあります。それは曲に乗せることもできなければ歌うこともできないものです。フォークソングのような大衆の詩と、現代詩人とか戦後詩人とかが作っている詩とを比較しうるのは直喩、暗喩というものと取り出すところまであって、無定型な喩というものは現代詩だけが踏み込んでいる世界だということになります。それは歌謡曲やフォークソングの作詞にはありませんし、多分、歌にならないだろうと思います。そこで直喩と暗喩の二つを比べるということは意味のあることに違いない。なぜなら同じところに落ち込んでいるという状態があるからです。
みなさんは詩人という作詞家といわれる人たちを思い浮かべるかもしれません。阿久悠とか小椋佳とか。私どもが詩人というのはそういう人たちではありません。しかし、どちらを思い浮かべても同じなんだよということです(笑)。両手で馬鹿にしあっているわけですけれど(笑)。作詞家からいうと現代詩人というのは「馬鹿だなあ。隅っこで萎縮した、わけのわからないことを書いて」と思っている。現代詩人のほうは作詞家に対して「幼稚な詩を書いて、あれなに」って、両方で馬鹿にしているのですが、両方でおそれを抱いているところもあるのではないですか(笑)。
修辞法からいうとこの両者を共通に問題にすることができると思います。うまく説明できればよいのですが、書かれた言葉でしか通じないことを喋る言葉でいいうるか。これは難しいことです。しかし、どうせ馬鹿にするなら共通に馬鹿にしたらよい、尊重するなら両方を尊重したらよい、そういう視点があると思います。作詞家のほうは「おれも堕落したなあ」と思いながら、「おれのほうが儲かるし、もてているんだぜ」(笑)と思っているでしょうし、詩人のほうは「くだらないものを書きやがって」と思いながら、「おれはちっとももてもしなければ、儲かりもしない」と内心で思っている(笑)。それよりも両方を見るという観点を考えたほうがよいと思う。そのためには、「言葉という思想」を入れなければうまくいかないのです。「言葉という思想」を入れなければうまくいかないのです。「言葉という思想」というのはたいへんなんですが、できるだけ実例に即してやってみます。
ここにあげるのは現在、もっとも優秀な詩人ともっとも優秀な作詞家の作品です。ですからここにあげられている喩はもっともレヴェルの高いものと考えてよろしいと思います。詩人の鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」からとってみると、「疲れた重たい瞼が/灰色の壁のように垂れてきて」。この「灰色の壁のように」というのは直喩です。ほんとうにいいたいのは「瞼が垂れてきた」ということです。しかし「灰色の壁のように」ということで、ある形をいいあらわしている。これはよい直喩です。それからフォークの作詞家のイルカの「片想いの少女へ」という歌にある「あの日のあなたの瞳に会って/海草の様にゆれたこころ」。この「海草の様に」というのが直喩です。これは動揺する心をあらわすのによい直喩です。もちろん詩全体をくらべたらくらべものにならないでしょう。しかし「海草の様に」というのは「灰色の壁のように」というのに劣らない直喩です。
「遠くを見ている人のような眼で/わたしは庭を見た」。これは田村隆一の「幻を見る人」です。これも戦後詩のすぐれた作品です。しかし、この直喩はそれほど上等なものではないし、田村隆一は直喩に思想をこめる詩人ではありません。それに対して岩谷時子の「君といつまでも」の「君の瞳は星とかがやき/恋するこの眼は炎と燃えている」、これは「星と」とか「炎と」とかいうのが直喩ですが、これはいい直喩ではない。なぜかというと瞳が星のようだという言い方は一種のパターンになっているからです。パターンになっているから人の心に食い込む力は強いけれど通俗的になってしまっています。大なり小なり大衆歌謡というのはパターン化された直喩が根幹になっています。このパターン化した、個性によらない力強さというものが歌謡をささえる強力な支えです。人々は馬鹿にしながら「星とかがやき」とつい口ずさんでしまう(笑)。こういうありふれた直喩を使えば人は馬鹿にしながら口ずさむということになるのです。
つぎは谷川雁の「破産の月に」です。「星座を一つ平らげたひきがえるのように/苦しみに澄んだ小旅行をうち明ける」。この「星座とひとつ平らげたひきがえるのように」というのが暗喩です。これはいい直喩です。無定型な喩に近づいた直喩です。ひきがえるが「星座をひとつ平らげた」という言い方で、あとでそれをうけている「苦しみ」を「澄んだ」という二つの感性を受けとることができる。これは「そんな風に受けとれない」といわれるかもしれませんが、それは多分、詩に慣れていないからです。詩のなかに入りこんでしまうと、まことにみごとな直喩だということがわかります。
フォークソングのほうで小椋佳の「シクラメンのかほり」の「疲れを知らない子供のように/時が二人を追い越していく」。これは布施明がうたっている歌です。時間がどんどんたっていくということを「疲れを知らない子供のように」という直喩であらわしている。これは言葉自体としてはいい直喩ですが、ここではすこしちぐはぐな感じがします。これを作った小椋佳はしばしばちぐはぐな直喩を使う人です。でも、ここにあげているのはみなすぐれた人ですよ。(笑)
直喩はこれくらいにします。詩と作詞の両方を比較した上で、なにがこれで言えているのかというと、両方ともたいして変わらないじゃないかということです(笑)。両方の最高の水準作を喩というところでとりあげてみるとフォークソングの作詞が当面している問題と現代詩が当面している問題とはさして変わらないんだということです。レヴェルも質もそれほど変わらないよということです。「シクラメンのかほり」全部と、たとえば「破産の月に」全部をくらべると問題にならない。「破産の月に」のほうがはるかにすぐれています。しかし作詞家が素人なりに直喩として使った言葉の使い方は修辞というものが当面している問題と示しています。これは現代詩人が当面している問題と少しも違っていないし、質も変わっていない。このことは重要なことなので、それは作詞のレヴェルが向上しているということではなく、言葉の問題、言葉の思想の問題ということだと思います。言葉の思想について無意識であろうと、素人であろうと玄人であろうと当面している問題というのがあるということを言いたいのです。
暗喩のほうに行ってみましょう。みなさんは暗喩というものは流行歌の作詞などにはないとお思いでしょうが、たくさんあるのです。まず現代詩のほうで田村隆一の「細い線」という詩ですが、「君の盲目のイメジには/この世は荒涼とした猟場であり/きみはひとつの心をたえず追いつめる/冬のハンターだ」。これはかなりいい暗喩です。ところでフォークの荒井由美の「あの日にかえりたい」にある暗喩で、「暮れかかる都会の空を/思い出はさすらってゆくの/光る風 草の波間を/かけぬけるわたしが見える」。このなかの「思い出はさすらってゆくの」というところ、思い出はさすらうことはないのですが、「さすらってゆく」は「思い出」の暗喩です。ここのところは上等の暗喩ではありません。しかし「光る風 草の波間」というのはかなりすぐれた暗喩だと思います。荒井由美という人は自分で作詞作曲して歌っているのですが、こういう暗喩はフォークの世界では自然に使われているのです。この人なんか、もう少し本格的に言葉の勉強をすると現代詩のほうに入れますよ。(笑)
「わたしのなめらかな皮膚の下には/はげしい感情の暴風雨があり 十月の/淋しい海岸に打ちあげられる/あたらしい屍体がある」。田村隆一の「十月の詩」ですが、これもいい暗喩です。「君の肩越しに見知らぬ土地が見える/君の肩越しにつぎはぎの街が見える」。小椋佳の「君の肩越しに」、これもいい暗喩ですが、こっちは自分では暗喩のつもりではなくて、誰か、女の子の肩越しに見知らぬ土地が見えるということをほんとに言っているつもりかも知れない。けれども、これが暗喩になっています。つまり、あるないかを言おうとしているようにできあがっています。しかし作った本人はそうじゃなくて、実際、肩越しに街が見えたといっているつもりかも知れませんけれど、読むほうには暗喩に思える。たとえば「つぎはぎの街」という言いかたはそれ自体が暗喩ですし、「君の肩越しにつぎはぎの街が見える」という言い方をしますと、これはひとつの立派な思想ですよ。だれか一人の人、自分が関心を注いでいる人の肩越しにつぎはぎの街が見えるといったら、二人の関係、および二人の思想、環境、境遇といったものを全部象徴するに足る非常にいい暗喩だと思います。それでも現代詩にくらべるとやはり問題にならない。そのことはよくよく考えてみなければならないことです。歌謡曲やフォークにはメロディの助けというものがあります。この多くの人と同じだというのは必ずしもいいという意味ではないんですよ。もっとよくならなければならないと思います。
田村隆一の「なめらかな皮膚の下には/はげしい感情の暴風雨があり」というのも、ほんとういえばあまり上等じゃないんです。通俗的なところがある。こういう人はやろうと思えばできるんだけれど、やらないのはなぜかというとちぢこまっているからです。ちぢこまった言葉の迷路のなかに自分自身が入っていっているからです。だから、たとえばフォークの歌詞をつくるなどということは通俗的だと思わざるをえないところに自分を追い込んでいるんです。それなら、この詩が高級かというと通俗的なんです(笑)。だから言ってみれば現代詩もフォークもどっちこっちじゃないですか(笑)。つまり共通の問題があるんですよ。現代詩といわれているものは通俗化していくといいますか、大衆化していくといってもいいんですが、現代詩が大衆化していく要素とフォークなどの歌詞が向上していく要素とはいま共通に扱いうるところがあると思います。そのことが重要なことです。
それは一つの時代、時代的な契機なんです。こういう時代はどういう時代かといいますと、つまり足が歩けないんです。暗喩でいいますと足は歩けないのに頭や感情はめちゃくちゃに歩きたいのです。めちゃくちゃなことをしてみたい。しかし現実は歩けないんですよ。そういう時代というのがとくにあるのです。転換期とかその前後とかいう時代には状況はしばしば同じようなパターンであるのです。大衆的な歌詞と現代詩といわれるものが
同じようなところに入りこもうとしていることのなかには、それぞれの問題とともに同時に時代の課題というものがあるんです。そこから時代というものを見なければならない。時代を見るためにはどうすればいいか。それは現実を見ればいいんです。それに対して感応すれば時代というもの、つまり現代を見ることができます。
もう一つ見る見方があります。それは言葉を見るんです。言葉というものを思想として見るということです。言葉自体が思想であるということです。その言葉によって時代を見ることができます。大衆的な歌詞と専門的な詩がおなじところに落ちこんでいるということは、それは暗喩でいえば足が動けないのに心は無限に動きたい。動かなければやりきれない。しかし動けない。そういう時代にしばしばこういう言葉の現象というのがおこるんです。つまり言葉に時代を見ることができる。言葉というのは思想なんで、そこから時代の問題を見られるといった時に、たとえばみなさんがまかり間違ってフォークの作詞家になったり、現代詩人になったりしたときに、つまらないコンプレックスを持たなくて済むんですよ。持たなくて済むためにはどうしても言葉から同時代というものを受けとらなければいけません。現実のさまざまな働きから時代を体験することができます。しかし、それと同じように言葉で時代をあらわすこともできるし、時代に参加することもできるんです。ここにあげた詩がかりにだめであっても、それはどうしようもないんだよという不可避性というものがあるのです。詩人というものではどうしようもないことがあるということを受けとれば、だめであってもしょうがないのですよ。現実の生々しい情況の問題なんです。
「杉や桧のうえに、わたしの心のラジウムが/すこしずつ死と沈黙の/つめたさを運んでゆく」。北村太郎の「庭」です。この人が技術的にはもっともすぐれた現代の詩人ですけれど、これはあまりいい暗喩ではない。「淋しささえもおきざりにして/愛がいつのまにか歩き始めました」。小椋佳の「シクラメンのかほり」ですが、これもいい暗喩ではないけれど、前のにくらべてそんなにけちをつけるものではありません。同じようなものです。いまいいました共通の問題をかかえているということです。
これから戦後詩の問題になっていくんですが、いま戦後詩が当面している問題はなにかといいますと、玄人としての詩人が迷路に入ってしまったところで表現している言葉の使いかたということがあります。これは曲に乗せることも歌うこともできない、黙って読んで、黙って感ずるほかに方法はないという無定型な喩という問題があります。それは直喩にも暗喩にも入らないのです。この無定型な喩というところで、言葉の上からいますと現代詩は大衆歌謡というものを振りきるわけです。歌うこと、メロディとつけること、あるいはいわゆる大衆的という意味あいをここのところで振り切ってしまうわけです。そこで言葉の冴えというものがあらわれてくるわけです。
無定型な喩を分類するのは無理なのですが、いくつかに分けてみると、一つは否定を含む喩ということです。たとえば清岡卓行の「愉快なシネカメラ」ですが、「彼は朝のレストランで自分の食事を忘れ/近くの席の ひとりで悲しんでいる女の/口のなかに入れられたビフテキを追跡する」。ここでなにが否定かというと、レストランに入るのは食事をするためなのですが、ここでは食事を忘れる、すなわち食事をしないためだという。なになにでないということを意識的に表現しているのです。意味としてはなにを言っているかわからないということになります。
どうしてないなにをしないということを表現するのが詩であるか、どうしてそのことが意味があるのかといいますと、一番わかりやすい考えかたはたとえば相手をいたわるときに「おまえはばかだなあ」ということがありましょう。「ばかだなあ」と言いながら、じつは相手をいたわっているわけです。また女性がほんとは好きなのに、「あんたなんかいやよ」ということがあります(笑)。「いやよ」といっているから言葉通り、「あいついやなんだ」と思う人はだれもいないということはすぐにわかるでしょう。そういうふうに否定をいいながらある真実に迫りたいわけです。その真実がなにかということが、この詩の思想であるわけです。なになにしないということを意識的に表現することが詩になるということは日常の体験にひきよせて言えば、しばしば否定をいうことによって肯定を言っているということが話し言葉にはあります。この詩はそういうことを書き言葉でやっているのだと考えればわかりやすいと思います。否定を意識的にいうことによって、ある何か本当のことをいいたい。その本当のことは言葉ではあらわされない。あるいは逆の形であらわされるかもしれないけれど、それが本当のことだということがわかります。
おなじ詩ですが、「彼は夜 友人のベットで眠ってから/寝言でストーリーをつくる」。これになると意識的に否定をつくっていることがもっとわかりやすいと思います。この詩ではなにを表現しようとしているかというと、ある男が自分のベットに入って、目をさましていてストーリーをつくっているという普通の語脈に対して、意識的にその反対を表現していることがよくわかります。それによって愉快性といいますか、無意識に滑稽みたいなものと皮肉みたいなものを表現しているわけですが、そういうことを非常に意識的にやっているわけです。
福間健二の「鬼になるまで」の「おれたちの風が他人の畑を裏がえす/因襲に錆びつく底なしの土地/ひびわれた霧/泥の中を麦が歩く」というものと同じで、麦畑のなかを泥んこになって人が歩くというイメージからつくられたのですが、つくられた言葉は泥のなかを麦が歩くということになっている。泥の中を麦が歩くということはありえないといってしまえば、詩の意味をまったく解していないことになります。「泥の中を麦が歩く」という否定的な言い方をしながら、何かに対してたとえば農村の現状に対して異議申立てをしているのだと思います。
これも同じことです。「なぜ飛びたたぬ水鳥/幻の羽音の反響をかすかに聞いて/剥製のままの姿勢で/まだ寒い眠りの土地に倒れこむ/おまえに別れを告げる」。北川透の「藁の男」です。言葉どおりにこの詩をたどっていけばなにをいっているのかわからない。なぜこの詩がいいのということになるかもしれません。しかし、そういうふうに読んではいけないので、言葉というものは表現したときに、そのなかに意味があらわされると同時に表現しないことのなかに意味があらわされるということがあります。言葉というものを文字とか発音とかに限定することなしに言葉というものは一種の思想だと考えた場合には、言葉はいうことによって意味を伝えるとともに、言わないことによっても意味を伝える。言葉がいわれたときには、同時にいわれない言葉がその背後にできあがってしまいます。いわれた言葉の空間といわれない言葉の空間の両方をいっしょに捉えなければ言葉の意味はわからないということになります。それが言葉という思想といわれるものの基本にある問題です。言葉が発言された時、あるいは書いた時、そこに発音されず、書かれなかった言葉が同時に空白として、あるいは暗黒としてできあがる。そのことを含めなければほんとうの言葉は理解できないという観点に立てば、「飛びたたぬ水鳥」とか「幻の羽音の反響」とか「剥製のままの姿勢で」とか、わけのわからない言葉のなかに農村の現状に対する異議申立てを受け取れないこともないのです。こういう表現はほんとうをいえば邪道なのかもしれないのですが、現代詩あるいは戦後詩というものの大きな部分はみんなこういうところに必然的にのめりこんでいかざるを得ない。そのことが時代であり状況であると思います。
天沢退二郎の「陽気なパトロール」のはじめのところなんですが、「ぼくたちは出発した旗を旗竿に巻き/煉瓦にキスを投げジュークボックスを堕胎させ/小学校に顔をそむけ蜜をたべ電車を轢き/かみそりで青空に殺され/少女たちのパンティの隙に殺されず/刑事を留置場にノン・ストップで叩きこみ/レールを曲げて拵えた店でジャズを聴き/床屋を密告してカミソリでコーヒーを沸かし」。もっと続きますが、これはいくら続けても切ってもおんなじです(笑)。好きなところで切ればいいわけです。そういう風に書かれているわけですから。なにを言っているのかわからないでしょうが、みなさんがかすかに異和感を感ずるとすれば、それは否定をいっているところがたくさんあるということです。異和感も一種の異議申立てなんで、それがどこになされるかという問題なのですが、とめどもなくどんどん畳みこんでいくということなんです。そのなかには偶然できた言葉もありますし、よく考えられた言葉も含まれています。そこに流れている意識の切断とつながりとから感じだれる異和感や異議申立てのようなものが、この詩人の表現したかったことということになります。
つぎは不可能な喩。これはありうべからざることとか、ありうべからざることがありうるとかいうように、自然に、あるいは意識的に異和感を催すように表現されているということです。清岡卓行の「子守唄のための太鼓」の「そして皮膚の裏側のような海面のうえに/かれはかれの死後に流れるだろう音楽をきく」。吉増剛造の「風船」の「宇宙のゴビ砂漠に/おれたちは群をなして/ポツン/と座っておびえている/おれたちは はらわたに手を入れて/盲腸を引きずり出し/ゆっくり噛みはじめる/啼めない/おれたちは何でもやる」。これはもっと続きます。
鈴木志郎康の「爪剥ぎの5月」、「爪を剥ぐのは気分がよい/それは新芽を出す気分/焼畳ごろり横寝で/お膳に万力を設置する/爪の一端をかたく止めて/天井から下った一本の綱を頼りに/くるりと、母親からもらった65キログラムの身体/を回転させれば/爪は見事に剥げてくれる/全く拭いても拭いても泉のように湧き出る/鮮血は邪魔なものだ/しかし/血は地下水よりも諦めやすく/じきに止って/私の指の先に/感じやすくて柔かい新生児が生れる/中指の次は/人差し指/ああ、早く十人の新生児を/指の先端に作ろう/何がなんでも/微風を鋭く痛みに変える/指先の新生児たち!万才!」。これはたぶん全部だと思います。現実的な体験として生爪をはがして、そこに血に噴き出て、ちょっと風が吹いても跳びあがるくらい痛いということだけだろうと思います。それだけの体験から言葉という思想でつくりあげた詩です。意識的に爪の片方を万力でとめておいて体をぐいと回転させたら、それがぺろりと剥がれてしまったという言葉でつくりかえた世界に現実の体験を直してしまうと、その痕から新しい子供が生まれたみたいだというところに想像力をもっていくわけです。
なにを一体、表現しているのかというとなにも表現していないわけです。ただ言葉というものを思想という風に考えますと言葉でももって現実の体験から、ある一つの世界をつくりあげてしまっているわけです。つくりあげられた世界のなかに詩人の精神があると考えるとはぐらかされてしまう。なにもないじゃないかということになります。言葉でつくってしまった世界でものを表現した時に、そこに同時に表現されてないところにこの詩人の精神はつぎつぎに映されていっているのだという風に理解すると、この詩のなかに詩人の内面はあることがわかります。表現のなかには詩人の内面はなく、言葉だけがあります。言葉のつくりかたのうまさ、目新しさだけがあると思われて、なんの意味もないということになりますけれど、こういう表現をつぎつぎにやっていく、その瞬間に表現されないところに自分は身を寄せられた世界に自分はいるという風に理解すると、この詩人の内面性がどこにあるかということが理解できます。
もう一つ分類に入っているのは、意識的に調和、あるいは不調をつくる喩です。これは現実にあるか、ないか。イメージとして成立するかどうかはどうでもよいのです。言葉としてそれが不調和というものを呼びおこすことができるかどうか。できればそれでいい。それが詩だということになります。これは吉岡実の「四人の僧侶」ですが、「四人の僧侶/井戸のまわりにかがむ/洗濯物は山羊の陰嚢/洗いきれぬ月経帯/三人がかりでしぼりだす/気球の大きさのシーツ/死んだ一人がかついで干しにゆく/雨のなかの塔の上に」。なにを感ずるかというと、精神の不調和か言葉の不調和か、ともかく不調和を感じさせればよいので、そこにこの詩人の内面性がこだわっているところがあります。言葉の不調和のなにかを感じることができれば、それが詩人の精神の所在だということができると思います。この人の詩はいつでもそうです。最近はきれいな世界に近づいてきて、年をとられたせいだと思うのですが、それでも不調和のなかに精神のこだわり、つまり思想がわかるというのが、この詩人の特徴です。
菅谷規矩雄の「卵胎生」、「尖った背びれがシイツを裂く/あなたの魚 風の深みを探している指/たなごころにひそむ雄に/卵をうみつけるタナゴたち/うつぶせになると腹の下で/熱くふくらむ砂粒わがものならぬ/わが卵たちがくいこんでいる」。なにをいっているのかというと性的な不調和です。それが感じられればそれでよいのです。これに似ているのに天沢退二郎の「桃ゆき峠」、「半身クビライを首にかけ/あと半身にまだらの帯ひき/女は壁つづきの空の向こう/手なが星どもの横をとぶ/わたしと女との間にはひとすじ/闇のための門が張られ/ときどき米汁と湯気を噴く/その年 中央線がよく燃えた」。「意識の流れ」風に不調和な言葉が出てくる。フロイト流にいえば自由連想的に性的なイメージが出てくるわけです。
無定型な喩の問題を三つに分けてみたのですが、しかし厳密には分けられない、一つのものではないかといってしまえば、そういうものだということもできるでしょう。喩とか言葉というものは思想だと考える観点からいいますと、これらの詩人たちは現代詩を代表する人たちですが、特別に個性の世界というものがあって、あるいは自分の一つのまとまった思想を詩に表現しているわけではないのです。個性もなければ思想もないということになります。現代における現実の一つのかけらだということになるでしょう。われわれはだれでも大なり小なり、個性もなくなり、内面の世界もなくなって現代の一つのかけらとして社会に存在させられていると感ずる要素が自分のなかにあるのです。その要素が自分のなかにあるのです。その要素を自分のものとして拡大して詩に取りだしていると考えれば、これらの詩人たちの思想というものはわかりやすいと思います。決して自分の個性や内面の世界を理解してくれとは少しも主張していないと思います。また自分のなかにひろがっている抒情の世界を理解してくれといっているのでもないと思います。自分が自分として存在しようとした時に、自分はかけらとしてしか存在できない。また自分は言葉の任意性にあらわされているように任意性としてしか行為というものを規定できない。ただある時にこう行動し、またあるこう行動するという、そのなかに脈絡があるかないか、自分でもわからない行動しかできないところにきている。これらの詩人たちの個性とはなんだと考えたとします。たとえば天沢退二郎と鈴木志郎康とはどこに個性の違いがあるんだということです。人格や内面を取りだしてお前とおれの違いはどこにあるんだといった場合、これらの詩人にその違いをいえるだけの個性があるわけではありません。人格があるわけでも思想があるわけでもありません。それならどうして天沢であり、鈴木であるのかというと言葉という思想といった観点を入れるほかはないのです。言葉というものは単なる言葉ではなくて思想なんだという観点を入れますと個性として、言葉の個性として分けることができます。そのことたとえばいま三つに分類した無定型な喩というものを一篇の詩にどれを多用し、どれを用いていないかというところから、これらの詩人たちの個性や思想を区別することができます。それ以外に方法はないのです。
ここに現実の一人の詩人がいて、内面的な世界をもっていて、それを詩にあらわしたいと思って詩を書いているというのではないのです。個性や思想を主張しているわけでもありません。そうなってくると言葉自体が思想だという観点を入れなければ理解することはできないわけです。言葉自体が思想だというところから、いま述べた三つの喩の方法をどういう風に詩のなかにまじえるかということのなかにはじめて詩人の個性というものがあらわれてくるのです。これら現代のすぐれた詩人たちが一様に突っ込んでいっているのはこういう世界でもあるわけです。これはメロディに乗せることもできないし、音声でいうこともできない世界で、黙読しながら意識の流れやその切断のしかたを追っていく以外にそれを理解する方法はないのです。現代の詩の状況は言葉の表現のしかたからいいますと、そのところに突っ込んでしまっているわけです。これを理解するすべがないといって済ますことはできないので、そのすべを考えるといま言いましたように言葉というものが思想なんだ、言葉は発音や記号ではなくて、それが思想だという全体的な見方をとっていく必要があります。このとりかたはたぶん現代詩の個々の詩人だけでなく、フォークソングの作詞者たちが落ちこんでいる問題を理解するためにも必要だと思われます。それをつかまえることで現代詩がフォークの作詞と共通に落ちこんでいるところから抜け出す道が開けていくんじゃないかと思います。
最後にフォークソングの優秀な作詞と昭和初期の詩と現代の若い詩人の詩とが、同じことを言いたい場合にどれだけ違うかということを示してみたいと思います。中原中也の「妹よ」です。「夜、うつくしい魂は涕いて/―かの女こそ正当なのに―/夜、うつくしい魂は涕いて/もう死んだっていいように……というのでした」。兄という立場から同じことをいっているフォークの喜多条忠の「妹」、「妹よ ふすま一枚へだてて 今/小さな寝息をたてている妹よ/おまえは夜が 夜が明けると/雪のような花嫁衣裳を着るのか/妹よ おまえは器量が悪いのだから/俺はずい分心配していたんだ」。おなじモチーフでおなじことをいいたいのですが、これだけ違うわけです。どちらがいいとはいえません。ただ中原としてはよい詩とはいえない作品で、喜多条のほうは象徴的にいっているが、喜多条のほうは具象的にいっているわけです。「妹よ おまえは器量が悪いのだから/俺はずい分心配していたんだ」。大衆歌曲のなかにこういう感情や表現が出てくるのはたいへんいいことです。大衆歌曲に出てくる女は目鼻ぱっちり(笑)、色白の美人で、めそめそ泣いたり、きまっている(笑)。そういう世界をとにかく破っているわけです。具体的ではあるが、そんなに俗っぽい感情ではありません。モチーフは普遍性があって、中原がおなじことをうたっているように兄弟や親子ならだれにでもある感情です。
それからまた坂に関しておなじような詩があります。坂の途中で生き方の分岐点みたいなものを感ずるというものです。平出隆の「吹上坂」、「吹上坂を下ってゆく/半生の眺めも名を変えて/饐えた靴はらに打ち寄せている/耳をみたして靡き去る錆びた風のたてがみ/峠はひとつ/坂の名はふたつ/眼下の窪地はくらい 一条/けれどもどんな胸突八丁へ/呼ばれているか/わからないこの夢うつつの一体は」。峠のところでしゃがみこんで、なにか自分に憂鬱なことがあって、これから生きていく岐路みたいなものを感じて、このモチーフをうたっています。おなじようなものにフォークのさだまさしの「無縁坂」があります。「母がまだ若い頃 僕の手をひいて/この坂を登るたびにいつもため息をついた/ため息つけばそれで済む うしろだけは/見ちゃだめだと笑ってた/白い手はとてもやわらかだった」。これも母親といっしょに坂の上で人生の岐路に立ったときのことをうたっているわけです。「吹上坂」が想像の世界で、「無縁坂」が現実の世界ですね。表現のしかたを問題にしなくてもモチーフの取り出し方というところで、「吹上坂」のほうが厖大にひろがる世界を証言していると思います。「無縁坂」は言葉どおりのものです。しかし、このモチーフは低級なものではありません。また中原中也と平出隆では戦前と戦後の違いというものもわかると思います。
戦後詩とか現代詩とかいうものを言葉の面からお喋りしてきたわけですが、その場合、言葉の面から喋る必然性がどこにあるかというと、言葉というものは思想だ、思想的全体だという観点を導入しなければ理解できないというところに現代詩の現在というものが突っ込んでしまっていることがわかります。もう一つそういうことに効用があるとすれば、言葉という面からあつかうことで現在のところ、現代詩と分離されてしか存在していない大衆歌曲の世界と現代詩の世界、それは一方を知っている人は一方を知らないし、また作詞者同士もたがいに馬鹿にしあっている世界ですが、それを共通に統一的につかみうると思います。つまり言葉というものは思想だという風に見ることによって、それが時代的に負っている世界や課題が同時に見えてくるという効用があります。
話を難しくしようとは思わなかったのですが、どうしても「言葉という思想」といった観点を入れてみたかったということと、そのことからどのように具体的な効用が出てくるかということを言ってみたかったわけです。これで終わります。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉フォークソングの歌詞と戦後詩を比較されていかれたわけですけど、80年代以降の人たちに対して、吉本さんが戦後詩人としてあげられたんですけど、平出さん…(音声聞き取れず)
(吉本さん)
言葉の決まりというのがあるでしょ、つまり、文法的な決まりみたいなものがあるでしょ。その決まりに対して、いつでも表現が異議を申し立てている。つまり、否定的に過小評価するという意味は少しも含んでいないから、そういう意味じゃないんです。
それから、平出隆とか荒川洋治とかを天沢退二郎とか菅谷さんとか、そういう人たちと違うとか、違わないとかいう次元で論じてもつまらないんじゃないですか。そんなことはどうでもいいことじゃないでしょうか。
つまり、問題なのは、言葉というのは思想なんだ、言葉が思想をあらわすというんじゃなくて、言葉ということが思想なんだということで括るということが重要なので、そのなかで荒川洋治と平出隆とがどう違うのかとか、鈴木博康と天沢退二郎とどう違うかなんていうのは、だいたいつまらないことじゃないでしょうか。問題にしてもつまらないし、ましてどっちのほうがいいとか、好きだとか言っても、それもつまらないような気がするんです。ぼくはそういうふうなのはつまらないな。あの連中だって、自分を大詩人と思われたら、恥ずかしいわけです。
そういう時に、大詩人とか、個性的な詩人なんて言われたくなくて詩を書いているわけだから、そんなこと区別してもしようがないんじゃないですか、つまり、そういうふうに評価されたくないということ、そういう評価を拒否することが、詩人として、たとえば、天沢君なら天沢君の存在理由なんでしょうし、また、存在モチーフなんでしょうし、それは若い人たちだってさして変わりないんじゃないかなって思うんです。だから、ぼくはそんなにあれはないんじゃないかな、区別したり、どっちがいいかと言ったってしょうがないんじゃないですかねって気がするんですけど。
(質問者)
時代からの重圧みたいなものが変わってきているんじゃないかと。(音声聞き取れず)
(吉本さん)
わかるような気もしているけど。ぼくは今日話したことは、全然違うことを話したつもりなんだけど、そうじゃないのかなという気もするんですけど。ぼくだって、便利だからそういうことをやったりしましたし、やらないこともないのですけど。つまり、これは60年代の作家だった詩人だとか、戦後すぐの敗戦の廃墟の中から出てきた詩人なんだというような意味あいで、いま、たとえば、村上龍とか、三田なにがしとか、そういう人たちが出てきて、だいぶ違うんだというような、そういう意味の文学史的、あるいは、文学時間的な括り方というのは、整理してしまえば、それまでということじゃないかなと思うのです。
つまり、そんなに面白いことじゃなくて、それはそうじゃなくて、ぼくが今日だしたかった観点は、同じ言葉という思想の視点を入れていった場合、それらはみんな歴史的に、戦後すぐはこうだったと、これはいまの若い人たち、「僕って何」って調子の人たちなんだということを言いたいのではなくて、言葉という思想の観点を導入すると、それらがみんなシートのところで、同じ列で、全体をこういうふうに眺めることができるという、そういう見方というのでしょうか、それをしてみたかったということなんです。
だから、あんまり面白くないんじゃないですかというのは、だから、そういうふうに荒地の詩人たちの戦後すぐの時代と、また60年代の時代と、70年代の時代と、それからいまの時代と、また違うという意味あいの違いというものを言っても、あまり面白くないんじゃないかなというのが僕の観点なんです。見方ですけど。
言葉という思想というものを入れて見ていくと、それがまるごとつかめるという、時代の時間の順序でじゃなくて、言葉という思想の上にまるごとつかめるという、そういう掴み方というのが、どういう光というものを入れられるか、あるいは、入れられないかということが、重要なんだというふうに思うんです。
だからあなたのおっしゃることというのは、やってしまえばつまらないんじゃないでしょうか。つまり、やってしまえばそれまでということで、つまらないんじゃないでしょうか。だから、あまり意味はないんじゃないですか。
(質問者)
音声聞き取れず
(吉本さん)
進んで行って聞くということはないです。でもテレビでも聞きますけど。感覚世界にあれする人が増えてきたということをどうしろというわけ、それがいいことか悪いことか、聞きたいことは。
(質問者)
時代に対する体系的な、吉本さんのなにか伺いたい。体系的な時代の考察というのはどういうふうに。
(吉本さん)
自分でやっちゃえばいいんじゃないですか。
(質問者)
音声聞き取れず
(吉本さん)
そういうことだったらまだやめないです。こういう事件に対して、こういう意見を持つとか、それはやりますけど、ただ、あなたのおっしゃるような、体系的にといいますか、原理的に、現代の時代的な問題に取り組んでいないじゃないかということでしょ。それは自分でやっちゃってください。それは力があればやれるのでしょうけど。それはわからないのです。どういうことになるかわからないから、それはあまり人をあてにしないほうがいいんじゃないかなぁ。
(質問者)
音声聞き取れず
(吉本さん)
言葉という思想という感じ方を入れていくというのは、そういう詩が当面していって突っ込んでしまっている道、方向の中に象徴されているのは、誰でもがそういう部分を持っているということだと思うのです。つまり、体系的なあれなんて持てないんだという部分、あるいは、そういう危惧、疑いとか、不安とかを、誰でもがどこかに持っている。そこのところを拡大しているということだと思うんです、その詩人たちは。
それはたぶん誰でもが持っているんじゃないかと思うんです。全部それを持っている人もいるでしょうし、全部そうなっているから、そういう詩を書くんだという人もいるでしょうけども。どんな人でもどこかにそういう不安とか、危惧とか、疑いとかというのは持っているんじゃないでしょうか。
それを拡大して表現できているから、現在も意味があるし、また同時に、それがどうしても断片的になってしまうし、破片になってしまうし、初めも終わりもないものになってしまうし、いつでも、否定否定の流れでもっていかなくちゃならなくなっちゃうような、そういうところにいかざるを得なくなっちゃっているんじゃないでしょうか。
それは拡大しているからであって、それは誰でもが持っている現代的な要素じゃないでしょうか。それはたぶん、体系的に把握しても、なおかつそこに残る不安とか、危惧というものは、誰でもあるんじゃないでしょうか。だから、本質的に掴めないんだという問題と、それから、能力があってつかめないんだという問題と、それから、誰でもがどこかにはもっている、掴めないという疑いとか、不安とかいうのは持っているんだという意味あいと、その3つが含まれるんじゃないでしょうか。
(質問者)
今日話された詩の問題とはまた別のことなんですが、『試行』なんか読ませてもらうと、僕なんかもひとつの雑誌を編集しているわけですけど、そういうひとつの編集作業といった形の現在的な状況というのを少し語ってもらえたら。ぼくらが普遍的にやっている部分というのは、やはり、どんどんどんどん表現行為というのがなされなくなってきたというか、そういう表現というのが出てこなくなったという感じがあるわけです。そのへんを少し聞きたい。
(吉本さん)
そこはちょっとわからないですけど。そういう意味の徴候というのは、ぼくには感じられないです。表現的な意欲だけじゃなくて、意志もないし、また、無意識のあれもないというふうな徴候というのは、ぼくには感じられないのですけど。
原則は簡単なことで、いちばんきついのは経済的なことです。経済的には破滅的です。そういう自主的に営まれる雑誌というのの継続というのは、ほとんど、殲滅的な打撃です。主として、郵送料の硬化性ということなんですけど。それで、そうなっているという、ほんとうは、それは非常にきついことです。
だから、持続はほとんど不可能に近いというほどきつい。ぼくらが、かろうじて成り立たせて、いつダメになるかわかりませんけど、成り立たせているのは、原則は非常に簡単なことです。広告しない、宣伝しない、それから、その人にとっての最も重要な原稿しかそこでは書かないということ。それから、直接、予約読者を主体とする、店頭売るのは自由である、不定点の読者は自由である。それだけです。それでしかしきついから、いつダメになるかわからないです。
それから、予約金というのは先まで食っているわけです。ですから、ここでやめたらネズミ講と同じで赤字が残るわけです。やめなきゃ、いまのところ存続しています。やめなきゃ、帳簿面黒字になっているけど、やめた途端に赤字になります。つまり、予約購読者に金を返さなければいけません、やめた場合。そうすると、潜在的な赤字ですけど、表面上は黒字で成り立っている。原則は簡単なことを頑強に守ろうということだけです。
つまり、取り上げられたら恥であるという感じで、宣伝・広告を絶対にしない。その代わり、直接読者に依存する以外にないですから、それはしばしば密教的というふうに言われますけど、密教的・党派的と言われますけど、全然そんなのは嘘です。最も党派性がないです。いろんな人が書いているから密教性は最もないです。ただ、重層性はあるんです。現在の言葉の世界に対して、ある違う層のところで存続しようとしているということは、それはちっとも密教性ではない。うんと公開的です。ただ、公開性の意味というのは違うわけです。
テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター15~19)