1 下町出身の文学者の二重性

 芥川龍之介、それから堀辰雄、立原道造っていうのは、いずれも東京の下町の出身の文学者、詩人であるわけです。
 東京下町の出身の文学者、詩人っていうのは、どういうことを意味するかっていいますと、これは、ぼくらはわりによく雰囲気を知っているんですけども、いずれも下町のごみごみした、つまり、隣の家が荒物屋だとおもえば、その隣の家は酒屋だった、その隣の家はただの仕舞屋だった、そういう家がたとえば、壁ひとつ距てて並んでいる、その前がすぐ道路あるいは路地である。それで、非常に人情もこまやかですし、それから両隣の家も、その家の構成から米櫃の中まで、わりによくわかっているような、そういう雰囲気を、少なくとも、これらの詩人、文学者たちが子どもの頃にはそういう雰囲気があったところです。
 そうしますと、どういうことになるかっていいますと、いずれも共通なんですけど、そうすると、文学的想像力っていうのは、どこに逃げ道を見つけるか、あるいは、どこに跳躍していく場所を見つけるかっていいますと、どこにもないってことになるんです。
 といいますのは、自分の家の家族構成から、それから、自分の、あるいは、性格から、それからまた、家族の暮らし向きから米櫃の中までっていうふうにわかっちゃっているところで、文学なんていうものはやりようがないわけです。つまり、少なくとも、素材っていうものを生活の次元にとっていく限り、文学っていうのは成り立ちようがないっていうことが、これらの詩人、文学者たちに共通のことなんです。
 文学っていうのはもちろん表現されたそのものが文学であって、それがどのような生活環境にあろうと、そういうこととは関わりないことは確かなので、また、文学の評価の中にそういうものが入ってくるっていうことは、ある意味では邪道であるってことは確かなことで、だから、これらの作家、詩人たちを論ずる場合、あるいは、問題にする人たちは、一様にこれらの詩人たちを、非常に美しく夢見がちな、あるいは、非常に想像力の世界に飛躍したそういう作家たちとして、きれいな作家たち、あるいは、非常に人工的に跳躍した世界を、文学の世界で実現した、そういう作家たちのように考えて、そういう論じ方をする人がほとんど、9割9分あるいは10割といっていいくらい皆そうなんです。
 しかし、これに対しては、この人達の想像力っていうのは、なぜそういう、つまり、ある意味で無国籍的であり、ある意味で生活の匂いが少しもしないっていうところに、どうしていってしまったかっていうことについては、やっぱり何か言わなくちゃいけないってことがあります。
 これらの人達はいずれも貧困な人達です。貧乏人です。芥川はそのなかでは、少しは多少ましで、ミドルクラスの下っていうような、親父さんたちはそういう出身ですし、堀辰雄は、親父さんは彫金師で職人です。立原道造っていうのは商家です、立川屋っていう商家の出身です。いずれも、東京でも貧弱な経済的な基盤しかない、そういうところの、つまり、ある意味で、ごみごみした路地裏の出身というふうに考えてよろしい、そういう作家たちです。
 だから、そういう作家たちが実現した世界っていうのは、みなさんのご承知のように、たいへん人工的であり、構成的であり、また、ある意味で、きれいに叙情的であるっていうような、そういう世界を実現しているわけです。
 そのことの意味っていうのは、つまり、文学を、作品を作品として論ずる立場からはどうってことはないわけですけど、つまり、問題にもならんわけですけど、しかし、これらの作家たちが一様に背負っている、そういう問題はやっぱり一言いわなくちゃいけないっていうふうに、ぼくには思われます。そういう観点から問題にした人は、いままでに皆無に近いわけで、ですから、殊更にそのことは言っておく必要があるように思います。
 そうしますと、文学の想像力っていうのは、これらの作家たちっていうのは一様に感じただろうことは、近所合壁、あるいは町ぐるみ、つまり、どこの家の何男坊はこういうやつでどこにいったとか、長女はこういうやつでどこそこに嫁にいったとか、そういうことがみんなわかっちゃってるみたいな、そういう雰囲気の世界で、小さい頃、過ごしたと思います。
 そうしますと、それは非常にある意味で、少年あるいは青年にとっても、たいへん慰めであるわけです。つまり、たとえば、一、二度、道で会っただけで、声かけて挨拶してくれるみたいな、そういう雰囲気がありますから、それはある意味で、少年や青年にとって慰安であるわけです、つまり、孤独を癒す慰安であるわけです。
 しかし、ある意味では非常に重苦しいことでもあるわけなんです。つまり、よく人情深くあり、よく知っているってことは、知られてしまっている、つまり、一から十まで知られてしまっているってことは、ある意味で、ある場合には、青年にとっては重苦しいことでもあるわけです。
 つまり、これらの詩人、文学者たちは一様に、青少年時代に親密な心情の世界みたいなものに慰安を感じただろうけど、一方では重苦しさも感じただろうっていうふうに考えることができます。その極端な二重性っていうものが、これらの詩人、作家たちの作品の世界を決定しただろうと思います。
 その場合に逃れていくところは、逃れていくっていっても、跳躍するっていっても同じですけど、どこにあるかっていいますと、それはやっぱり人工的な世界であり、そして、よく構成された世界であり、そして、ある意味で無国籍な世界です。つまり、どこにも現実的な基盤がない、想像あるいは空想の世界っていうものに、文学の想像力の活路っていうのを求める以外になかったっていうのが、これらの詩人たちに共通しているところだっていうふうに考えます。

2 〈弱さ〉を象徴する〈匂い〉への感性的資質

 共通しているところはいくつかまだあります。芥川は、たとえば、漱石の晩年の弟子筋にあたるわけです。お弟子さんにあたるわけで。それから、堀辰雄は、芥川の晩年の、やっぱりお弟子さん筋にあたるわけです。べつに師弟なんていう関係は文学にはありませんけど、しかし、いってみれば、お弟子さん筋にあたりますし、立原道造っていうのは、堀辰雄のやはりお弟子さん筋にあたるわけで、そういう意味合いでは、たとえば、漱石からずーっと辿っていくことができるつながりっていうのはあります。
 しかし、漱石の問題にした問題は、芥川になってきますと、すこし違ったふうに変わってきますけど、また、芥川の生涯の問題っていうものは、堀辰雄にいきますと、また少し逸れていきます。逸れていきますっていうのは、つまり、傍流になっていきます。それから、堀辰雄の抱え込んだ問題からみますと、立原道造はまた少しそれを傍流にしています。だから、ほとんど、日本の同時代の文学の流れからいきますと、どんどんと傍流のほうに逸れていったっていうふうに、文学の資質としては、そういうふうに考えられると思います。でも、つながりっていうのは、そういうかたちでもないことはありません。
 それで、もうひとつ、つながりっていうものを考えてみますと、あるいは、共通点っていうものを考えてみますと、それは、様々な括りあげ方っていうのはあるでしょうけど、ここで括りたいことは、弱さっていうことなわけです。
 弱さっていうことは、身体的な弱さっていうこともありましょうし、それから、精神的な弱さっていうこともあると思います。この弱さっていうことは、ふつうの意味の弱さっていうことと、多少ニュアンスが違って、弱さの逆に強さみたいなものを考えられる、しなやかさってものも考えられる、そういう弱さだと思います。そういう弱さの質といいますか、成り立ちっていうものを、もし極めていくことができるとすれば、それは、これらの人たちの文学、詩っていうものの特質っていうものを極めていくことにつながっていくだろうっていうふうに思われるのです。
 弱さっていうものをどこでつかまえるかっていうふうに考えていきまして、ひとつ、非常に重要なといいましょうか、眼に立つ共通点は、いわば弱さの美みたいなものの象徴として考えることができます。
 それは、みなさんが作品をよくお読みになれば、すぐにそれは気がつくほど、著しい特徴なんですけども、それは、ここであれしました〈匂い〉っていうことなんです。つまり、〈匂い〉に対して、非常に敏感である、過敏であるっていうことが、芥川の文学作品、それから、堀辰雄の文学作品、それから、立原道造の文学作品にたいへん共通した要素だっていうふうに考えます。
 これは、殊更そういうものをつかんでくるから、そう見えるというふうに、みなさんのほうでは思われるかもしれませんけど、ぼくの考えとやり方では、そうでないのであって、非常に本質的に〈匂い〉っていうことに執着しているってことはわかります。この〈匂い〉に執着するっていうことは、3人の文学作品に非常に共通なところだっていうふうに考えます。その共通なところの〈匂い〉に対する敏感さっていうのにもまた、それぞれの資質っていうものが考えられます。それで、それぞれは多少ずつ、その資質が違っているってことがわかります。
 そこで、このようなかたちで、ある文学作品を捉えるということは、ある意味では、非常に部分的にしか捉えられないということかもしれないのですし、また、ぼくなんかの考え方からすると、あまり、そういうことをしたことがないので、そういうやり方をしたことがないので、わりにはじめて、そういうことをやることになるわけなんです。
 つまり、ある文学作品を評価する場合に、文学作品の世界があり、そして、その文学作品を書いたところの、表現したところの作者があり、そして、作者の人間があり、作者の内部があり、そして、その作者の内面を形成した生活環境がありっていうふうに、文学作品と作者っていいますか、作者との関係を次第に微細にあらっていくと、つまり、解明していくということが、文学作品を評価する場合の、非常に本筋なわけです。ですから、そういう本筋のやり方っていうものをやるのが、たぶん、ふつうのやり方だっていうふうに考えます。
 ただ、もうひとつのやり方っていうのが考えられます。そのやり方は、そのようにして、文学作品を、ひとつの個性ある作家の表現したものだというふうに、“個性ある作家”っていうところに中心を集中していく、つまり、そこに集中していくっていう、そういう文学作品の評価の仕方に対して、文学作品は作品として投げ出された結果であり、そして、文学作品の中に、それを描いた作者を想定し、作者の中心に、問題の中心を投げ入れていくっていうような、そういう評価の仕方ではなくて、文学作品の中に、ある共通の特質っていうものを抜き出していく、その共通の特質は、それだけ抜き出していっても、べつに何事も意味しないけど、それらがある共通の、ひとつの系列っていうようなものに並べ入れることができるならば、そのことが、ある時代、世界の表現というようなものの象徴でありうるならば、そういうものを抜き出してきて、作者に還元していくのではなくて、ある系列に還元していくっていう、そういうことも文学作品にとっては、ひとつの評価の仕方であるっていうふうに考えます。
 そうすると、そういう見方からして、たとえば、3人の作家、詩人たちの、共通の、しかもそれは、かなり本質的な象徴性みたいなものをつかんでいきますと、いくつか考えられるのですけど、そのひとつの大きな要素っていうのは、この〈匂い〉っていうことに対する表現、それから、感応の仕方っていうものの中に、共通の要素っていうのが見つかると思います。たぶん、よくわかりませんけど、〈匂い〉に対して敏感であるとか、病的であるとかっていうことは、なにかを意味していると思います。なにかを意味しているっていう意味あいは、つまり、生理的になにかを意味していると思います。もっといいますと、生理的な弱さのなにかを意味しているというふうに考えることができます。
 それから、〈匂い〉という概念、あるいは、〈匂い〉ということ、それ自体には、それなりに歴史性っていいますか、時間性というものがあります。この時間性のなかで、この〈匂い〉っていう問題を考えていきますと、その〈匂い〉が意味するものは、ひとつの文化的なって言ったら少し大げさになりますけど、言葉の表現の歴史っていうものにおいて、ある時間的な系列を暗示する、あるいは、象徴するものだっていうふうに考えることができます。

3 芥川の〈匂い〉への執着-『或阿呆の一生』

 そのふたつの考え方から、この3人の作家たちの共通点を、たとえば、〈匂い〉っていうところで考えてみるとします。そうすると、芥川龍之介について考えてみますと、芥川龍之介の作品、とくに晩年、自殺寸前の晩年の作品っていうのを見てみますと、そこにやはり、著しい〈匂い〉に対する執着っていいますか、描写の執着っていうのが見られます。それは、現実に芥川龍之介自体が、たとえば一人称で登場するかたちでも、たいへん強い執着を示していることがわかります。
 それからもちろん、作品の描写のなかでも、本来ならば〈匂い〉として描かなくてもいい描写の仕方のなかに、それは〈匂い〉として描かれるというような意味あいでも著しい執着を示していることがわかります。
 もちろん、ひとつは芥川龍之介においても、〈匂い〉は我々がふつう〈匂い〉と考える〈匂い〉と同じような意味あいで、〈匂い〉というものがもちろん感じられ、また、そのような描写がなされています。
 それは当然なことなんですけど、たとえば、ここに貼っておきましたけど、例えば、『歯車』なかに、「僕は膠臭いココアを飲みながら」っていうような、そういう言い方があります。これは、ごくふつうの〈匂い〉に対する、ふつうの感受性であり、そして、ふつうの描写の仕方だっていうふうに考えます。これは、いわば誰にでもある、〈匂い〉とは〈匂い〉であるっていう、そういう臭覚である、あるいは、嗅覚であるっていうような、そういうこと以上の意味は何もないですけど、もちろん、芥川にはそういうものがあります。
 それから、芥川は、そこから病的ないし、たぶん、非常に特質的な〈匂い〉に対する感じ方、考え方っていうものをしていることがわかります。例えば、これは『或阿呆の一生』って、やはり、非常に最晩年に書かれた作品なんですけど、そのなかに、知り合いの医者に頼んで、精神病院を見学にいくっていうのはおかしいけど、視察にいくところが書かれてありますけど、そこのところの描写ですけど、「僕の母も十年前は少なくとも、(彼等っていうのは精神病院に入院している患者です。)彼等と変らなかった。少しも、-彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。」っていうような描写があるんです。
 これは、ここのところでは、すでにもう芥川龍之介の〈匂い〉っていうものに対する特異な考え方があります。たとえば、彼等っていうのは精神病院の患者ですけど、精神病院の患者たちに共通の臭気があるというふうには、少なくとも、ふつうの嗅覚、それから、ふつうの〈匂い〉に対する感受性からはちょっとありえないわけですけど、芥川はそれを、精神病院の患者の共通の〈匂い〉っていうものがあるかのような描写をしています。
 そして、その〈匂い〉っていうのが、自分の母親、発狂したっていうふうに芥川自身は考えているわけで、その母親にもあったっていうふうな結び付け方をしているわけです。
 そうすると、その〈匂い〉に対する考え方、感じ方っていうのは、すでに、普通の感じ方とは多少の違いがあります。つまり、どういうことかといいますと、こういうところで、精神病院の患者たちのあり様を描写するのに、もし〈匂い〉っていうものに対して異常な執着の仕方をしないならば、〈匂い〉でもってその描写をおしきるってことは、たぶん、ふつうならばしないはずなんです。ところが、芥川は患者たちに共通の〈匂い〉がある。それは、〈匂い〉ではないんですけど、それは〈匂い〉というふうに感じ、そして、その〈匂い〉が自分の母親と同じである、母親も同じであったっていうかたちで、いわば自分の出生の宿命みたいなものに結び付けるところへもっていっています。これは、芥川にとっては、かなり本質的な感受性のあり方であって、また〈匂い〉に対する異常な感じ方のひとつの例です。
 これは、まったくひとつの例にすぎないので、晩年の作品をご覧になればわかりますけど、ほとんど〈匂い〉からできているのではないかと思われるほど、よくご覧になればわかりますけど、〈匂い〉に執着していることがわかります。
 そして、その執着の仕方も芥川的といえば芥川的なんですけど、それは晩年、様々なかたちで、生理的なかたちでも、身体的なかたちでも、精神的なかたちでも、いわば追い詰められて、芥川自身の描写によれば、「刃こぼれをした剣に寄りかかりながら立っているようなものだ」、つまり、じぶんはベロナールかなんかを飲んでいるときだけは、頭がなんとなく普通のように働くけど、それが切れてしまうと、ぼんやりしていて、なにも感ずることも、考えることもできない、つまり、自分はもう刃こぼれがしちゃっている、もうどうしようもないんだっていうふうに書いていますけど、つまり、そこに近づくにつれて、いわば〈匂い〉に対する感じ方が、いってみれば芥川的になり、また、それは異常であるというふうに、だんだん追い込まれていくことがわかります。もともとそれは芥川にあった資質でありますけど、それが、いわば異常性っていうところに追い込まれていくことがわかります。いってるってことがわかります。

4 幻想と病的状態-『歯車』

 もっと、これは実際にはない〈匂い〉なんですけど、それを〈匂い〉として感ずるっていうような描写がやはり最晩年の作品の中にでてきます。これは、銀座通りを歩いて、友達と出会って、そして、友達とお茶を飲んで話をして、そして別れて通りへ出てきたときの描写なんですけど、そうすると、道を歩いていると、突然、〈匂い〉がしてくるわけです。その〈匂い〉はどこから連想されたかというと、それは、芥川はベートーベンの書簡集かなんかを思い浮かべていたと、そうすると、ベートーベンの書簡集のなかに、ベートーベンが痔に苦しんでいたことが書かれて、それで、自分自身も痔病でずいぶん苦しんでいるところに連想がいくわけです。
 そして、そこから自分が、痔が悪くなると座浴をする、座浴をするときに入れる薬のなかに硫黄の〈匂い〉がするというふうに、連想が運んでいくわけです。そして、そういう連想に、つまり、座浴をするっていうところまで、それで、ベートーベンも座浴をしたに違いないってことを空想しながらいくわけですけど、そのときに突然、なにもそういうものがないのに、硫黄の〈匂い〉がしてくるっていうような、そういう描写があります。
 それは、病理学的にいえば幻嗅っていうやつです。つまり、幻の〈匂い〉、幻覚の一種で、幻覚が〈匂い〉としてやってくる、ひとつのあり方がありますけど、幻嗅の一種であるわけです。つまり、通常のあるひとつの関係のなかに、関係をたどっていくうちに、それがある〈匂い〉として関係づけられてしまう、そういうひとつの幻覚の一種なんですけど、幻覚はふつうはいちばん多いのは、視覚と、それから聴覚がいちばん多いわけです。つまり、幻聴っていうものと幻視っていうのがいちばん多いわけですけど、それが芥川の場合には、幻嗅っていうかたちで多くでてきます。そのひとつの描写がこの『歯車』のなかにあるわけです。
 このときには、すでに芥川自体が、『歯車』という作品自体をお読みになればわかるように、これはどんな事柄がやってきても、ぜんぶ関連あるように結び付けられちゃうっていうような、すでに相当な病的な状態にある自分自身を描いているわけです。
 その病的な描写っていうものは、例えば、どういうふうにでてくるかっていいますと、ホテルに籠って作品を書こうとしていると、そうすると、なんか休んでいてベッドから降りようとすると、そうすると、スリッパが片っ方しかない、ここで脱いだのに片っ方しかないのは、おかしいじゃないかっていうふうに感じて、それで、電話でボーイを呼び出す、そうすると、ボーイがやってきて、スリッパがないんだって言うんです、そうすると、ボーイが部屋中を探し回ると、それがお風呂場かなにかにあるわけです。
 そうすると、どうしてお風呂場にスリッパの片方があるんだろうかっていうふうに芥川は考えて、そして、思い悩むわけです。おかしいというふうに思い悩むわけです。ボーイはただ、それじゃあ、お風呂場で片方、忘れたんでしょうって、ボーイはそう言うんですけど、芥川はおかしいというふうにそれを感ずるわけです。つまり、ここで脱いだはずなのに、片っぽだけお風呂場にあるはずがないというふうに、だから、それはおかしいというふうに芥川自身は考えるわけです。
 このことは何を意味するかって申しますと、べつにオカルト映画でもなんでもありませんから、芥川自身がお風呂場で片っぽスリッパを忘れてきたっていうことは、それは間違いのない事実なので、それ以外の理解の仕方はありえないのですけど、ただ、その間の自分の行動、あるいは行為に対して、芥川自身にとっては時間が途切れているわけです。ですから、自分は絶対にいったことがないと思っているわけです。お風呂場なんかにはいったことがないと思っているわけです。
 しかし、なぜそう思うかといえば、その間に時間体験が途切れてしまうからです。つまり、途切れてしまうからそこにいったことがないと思う、絶対にいかないと思っているわけです。ですから、スリッパがそこにあるはずがないと思っているわけです。だから、そこのところで、時間体験の途切れっていうものと、それから、その途切れを補うために、芥川自身が本来ならば関係づけられないことを関係づけようとしている、強い傾向のなかにあるっていうことがわかります。
 芥川自身の自殺に至る過程をよくみればわかるんですけど、いわば呼吸っていうのが、そういうかたちで切迫していくわけです。すべてそれは、時間体験の途切れっていうものを、途切れとして自分で自覚すること、理解することができないために、自分がやらなかったことがどんどん起こるわけです。そのことはどうしてたかってことが、自分で理解することができないわけです。そこのところで芥川自身は思い悩むわけです。

5 芥川の文学的本質と〈弱さ〉

 ところで、ふつうの病者っていうものと、芥川の場合とどこが違うかっていいますと、芥川は病者としてはそんなに重たい病人ではないわけです。重たい病人ではありませんし、重たい異常ではないのですけど、しかし、もうすでに病理的なところに自分自身が入り込んでいるんですけど、芥川自身はそれを謎としながらも、それに対して必死になって対応しよう、あるいは適応しようっていうふうにしているわけです。いってみれば、必死になって自分の病気と闘っている、その闘い方っていうのは、これは、ふつうはちょっと考えられないほど、見事な闘い方をしています。
 すでにふつうの人だったら完全に人格崩壊をきたしているわけで、完全に病人っていう範疇の中で、いわば安堵してしまうっていいましょうか、安心してしまうわけですけど、あるいは、安心させられてしまうわけで、つまり、生理のほうから安心させられてしまうわけですけど。芥川自身はそのことに対して絶対に安心できない、最後まで安心できないで非常によく闘っていることがわかります。
 そこが、『歯車』なんていうのはそうですけど、関係妄想の文学ですけど、関係妄想の文学の真っただ中に自分自身がいながら、病者の領域に自分を入れることを自分で拒否しているっていう、その闘い方っていうのが、まことに見事になされているわけです。
 しかし、そのなかで、これは致し方ないことなので、時間体験の途切れっていうのが、自分自身にあるのですけど、しかし、それを自分で時間体験の途切れだっていうふうに考えることができないわけです。そうすると、その途切れの間に起こる空白のところを、つまり、本来ならば結びつかない2つの行為を強引に結びつけて、時間体験が途切れたところの空白のところを、いわば補おうとしているわけです。そういうことがよくわかります。
 それは、『歯車』なんかに根本的にある問題なんですけど、そこのところで、嗅覚っていうこと、あるいは、臭覚っていうことが病的な幻嗅、幻覚っていうところまで入り込んでいることがわかります。
 このことは、いわば芥川龍之介の生涯の文学の帰結っていうものを象徴しているわけで、はじめ、芥川龍之介が〈匂い〉に執着しているってことは、たぶん、身体的な(弱さ)っていうもの、生まれ持った〈弱さ〉みたいなものと関係があったってことに、たぶん過ぎなかったかもしれないのですけど、それが、文学表現の過程が進むにつれて、やはりそれが、嗅覚の異常から幻嗅、幻覚のようなところまで追い込まれていく、その追い込まれ方のなかに、いわば芥川の文学的な生涯っていうものの移り行きってものが象徴されているっていうふうに考えることができます。
 たぶん、そういうことの根本には、芥川龍之介が人工的な構成の文学の世界から、自分の出生の基盤であった、いわば東京下町的な細やかな情緒っていうものと、それから、ごてごてした貧困な町筋なんですけど、そこのなかでの肌と肌とが温まり合ってしまうような、そういうようなところに対する、いわば、そこのところに帰りたいみたいなところがあるわけなんですけど、そこに帰るまでに行きつけない、途中で様々な問題を引きずって、それで異常なところに追い込まれていくっていうような、そういう生涯の道筋が象徴されているのかもしれないって思います。
 つまり、芥川龍之介が漱石の文学のもっている問題意識から一歩退いたっていいますか、わきへ逸れていった、その逸れ方の根本にあるのは、たぶん、〈弱さ〉ってことなんです。しかも、それは、はじめは生理的な弱さであったかもしれない〈弱さ〉ってことが、芥川を、漱石が捉えて離さなかった問題から逸らしていったっていうふうに思われます。そして、その過程で崩壊していくわけです。

6 肺結核と堀辰雄の文学的本質

 芥川の晩年の頃のお弟子さんである堀辰雄になっていきますと、さらに芥川の抱え込んできた問題を、またそれを逸らしていくわけです。なぜ逸らしたかっていう問題を考えますと、それはたぶん、堀辰雄がやはり病気だったからだって考えます。
 堀辰雄はすでに「燃ゆる頬」なんかで書いていますけど、つまり、自分自身が青年期に達したとき、すでに結核に侵されるわけです、結核になるわけです。肺結核は現在では、抗生物質が発見されて以降は大した病って考えられてこなくなったので、そこのところはちょっと問題なんですけど、しかし、その当時でいいますと、当時っていうことは戦争以前ですけど、第二次大戦以前ですけど、第二次大戦以前でいいますと、結核にかかったっていうことは、それは死病にかかったってことを意味したわけなんです。
 それに対する対応っていうのは、治療法っていうのはどういうふうにして可能かっていえば、それはじーっとしている以外にないっていう、じーっとしていて、そして、よい空気を吸い、ちゃんとした栄養を取りっていうようなこと以外に、どんな手立ても考えられなかった、つまり、いまでいいますと癌と同じで、まったくの死病っていうふうに考えられていたわけです。
 そういうなかで、堀辰雄は青年期に結核になったときに、すでに一種の諦めに達するわけで、その諦めは様々な意味があります。つまり、それは芥川のお弟子さんですから、芥川がなぜ自殺にまで追い込まれたかっていう問題の中に、いわば時代的な要素、時代が芥川をそういうところに追い込んだっていう要素があるわけなんですけど、その問題はいわば、堀辰雄の中からはぜんぶ取り払われてしまっているわけです。
 本来ならば、まったく芥川と同じように、下町の路地裏のごてごてしたところで、うまれ生い立った職人の息子さんですから、本来ならば、堀辰雄が抱えている問題っていうのは、いわば地獄から天井まで、様々な問題がぜんぶ抱え込まれてあって、それはまったく当然なことなんですけど、堀辰雄はいわば、青年期に達したときに、すでに病気になってしまった、しかも、その病気っていうのは、いわば死病と考えられている病気であったってこと自体がすでに、自分が青年期に抱え込んだ問題から自分を逸らしていくっていいますか、自分を切り捨てていく、切り捨てて諦めていくっていうところに、堀辰雄を追い込んだ最大の要因だったっていうふうに考えることができます。
 そこで堀辰雄は何に対して諦めたのかっていいますと、ひとつはいま言いましたように、時代の真っ正面の文学的課題および本来の自分の環境から、その他から覆いかぶさってくる様々な問題っていうものから、いわば自分の身を逸らしたってことがひとつ、それから、もうひとつは、やはり自分を、あらゆる世俗的なっていったらおかしいんですけど、ふつうの人ならば誰でも体験し、誰でもできる、たとえば、青年期ならば異性に対する関わりですけど、異性に対する関わりっていうことも諦めるわけです。つまり、いわゆる青春っていうことも諦めてしまうわけです。断言してしまう。
 それで、どういうふうに自分を、身を処していったかっていいますと、自分を、つまり、文学的創造力も含めて、まったく自分の生活っていうこと、あるいは、生活の基盤っていうところから、ぜんぶ根こそぎ取り払ってしまうってことを堀辰雄は意識的にやったわけです。それは、いわば信濃ですけど、長野県ですけど、つまり、長野県の山村に、自分をすぐに、身を置いてしまうわけです。そこへいってしまうわけです。そこでお粗末な生活を始めるわけです。
 堀辰雄のいった、いわゆる信濃追分とか、軽井沢とかってところは、みなさんはどう思っているか知らないし、いまはどうなっているか知りませんけど、堀辰雄が、少なくとも自分の、諦めた挙げ句に、居をそこに移そうって考えたときには、まったく何の取り柄もない山の中の寒村でして、どこにもいいところなんかないというところです。食い物はないし、お粗末だし、どこにも何にもいいところがないっていうところなわけなんです。そういうところに自分の身を移してしまうわけです。そこで一切断念した生活を送るわけです。
 それで、そのなかで創造力をあらゆる根のある生活の基盤から切り離したところで、自分の文学っていうものを形成するわけです。それが、いわば堀辰雄の心理主義的であり、同時に叙情的であり、同時にある意味で天上的であり、ある意味でそれは嘘でありっていうような、そういう作品の世界っていうのを堀辰雄は形成していったわけです。
 そこに込められている断念っていうようなもの、つまり、現実的な断念っていうようなものが、ちょうど、いわば逆さ向きになって、作品の世界のなかに表現されているっていうようなふうに考えられると、堀辰雄の文学っていうのが、ある程度つかめるんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
 つまり、堀辰雄の文学のなかには、作品のなかには、下町の子どもの、ガキどもの遊び方からしますと、ぼくらはよくそういうことを言ったわけですけど、女の子とばっかり遊んでいるやつがいると、「女と男とまめり」って言ってからかうわけです。そして、堀辰雄の文学のなかには、「女と男とまめり」っていうそういう要素があるわけなんです。たぶんそれが読者を、とくに女性の読者っていうのに訴える何かっていうのは、ぼくはそこにあるというふうに考えます。
 つまり、男の子は、下町のガキどもはみんな、あくどい遊びをしますから、あくどい悪戯をやって、一日中、学校から帰ると鞄をほったらかして、放り投げて、一日中、遊び回って、それで夕方にしか帰ってこないっていうような、そういうあれですから、そういう遊び方がごく普通でしたから、そのなかで、堀辰雄は自分でも書いていますけど、女の子とままごとをして遊ぶみたいなことが、とても好きなわけです。
 そういうことをやって、それでそれは、そのことから青春期における病弱による実生活の延長でのふつうの人のやるやり方を断念した、そのことがいわば逆さまの画像になって作品の中にあらわれているって考えますと、非常に考えやすいところがあります。だから、たぶんそういうところが堀辰雄の文学の本質だって考えられます。

7 記憶の過去性と〈匂い〉

 堀辰雄の文学の作品の中の描写っていうのも、異常にやっぱり〈匂い〉っていうものに執着していることがわかります。この〈匂い〉に執着することは何かであると思うんですけど、その何かであるということを解明することはなかなかむずかしいのです。とくに気管支系統が弱いことと関係あるんじゃないかと結果的に考えます。結果的に結核ですから、そういうことは関係あるんじゃないか、たとえば、みなさんのなかでも嗅覚が異常だっていう人は気をつけたほうがいいんじゃないでしょうか(会場笑)、たぶん、それくらいしか結び付け方ができないところがあるんです。
 でも、堀辰雄は異常に、たとえば、芥川と堀辰雄と立原道造というふうに並べますと、そのなかで最も、一般的に〈匂い〉ってこと自体に、描写として執着しているのは堀辰雄だっていうことがわかります。堀辰雄が最もよく執着していることがわかります。
 堀辰雄の執着の仕方のなかにも、独特の、やっぱり堀辰雄の文学の特質をそこからいわば占う窓口になりうるような意味の執着の仕方っていうのをしていると思います。それはちょっと例を挙げてみますと、「風立ちぬ」のなかに、たとえば、

 「まあ、冷たいこと」彼女は目をつぶりながら、頭をすこし動かした。髪の毛がかすかに匂った。

 っていうところがあります。これはたぶん、ごく普通の〈匂い〉の感じ方だと思います。もちろん、ふつうの〈匂い〉の感じ方をたくさんしているわけです。ただ、ほんとうに〈匂い〉っていうことによく執着して、本来ならば〈匂い〉以外のもので、他の文学者ならば、当然、描写するはずのところが、〈匂い〉で描写されているってことがあります。そのことは非常に特質だってことがいえると思います。
 それから、それがすこし変わってきますと、たとえば、「麦藁帽子」っていう作品のなかで、

 その香りは、私の鼻先きの髪の毛からというよりも、私の記憶の中から、うっすら浮かんでくるように見えた。それは匂いのしないお前の匂いだ。太陽のにおいだ。麦藁帽子のにおいだ。(途中音声切れ補足)

 描写からすぐに、表現からすぐにわかるように、芥川の場合のように、幻嗅、つまり、幻覚の〈匂い〉ではありません。
 ただ、本来ならば〈匂い〉として感ずべきものでないものが〈匂い〉として感じられていることと、堀辰雄の場合には過去だと思います。つまり、過去っていうこと、時間の過去性っていうことと、〈匂い〉っていうこととは、しばしば結び付けられていることがわかります。記憶あるいは追憶っていうものと〈匂い〉っていうものが結び付けられて、堀辰雄の中で、あることがわかります。つまり、ある〈匂い〉が感じられたときに、その〈匂い〉から連想されて、過去のある場面がしばしば甦ってくることが、堀辰雄の文学のなかでは、かなり特徴的だってことがいえると思います。
 それから、逆に、ある記憶があるとしますと、記憶の場面っていうものがありますと、当然その場面はいわば映像として、あるいは視覚的な場面として、記憶のなかで甦るはずなんですけど、堀辰雄の場合には、その記憶の場面っていうものが、しばしば〈匂い〉に対する記憶っていうものとして、現在にもってこられていることが、甦られていることが、非常に特徴をなしています。それが堀辰雄の場合の著しい特徴じゃないかっていうふうに思われます。
 この記憶っていうのは、記憶の過去性っていうことなんですけど、過去性っていうことの文学的意味、過去性の表現っていうもの、あるいは、記憶の表現っていうものの文学的意味っていうことは、たぶん、堀辰雄がいわば生活基盤っていうものを、いわば生活の匂いそのものから切り離したところで、作品を形成したっていうことと、たぶん、関わりがあるのではないかって思われます。それが、堀辰雄の場合の著しい特徴だと思います。
 そういう例がもうひとつ、「菜穂子」の中にも、もうひとつ例を挙げてみますと、

 そんな穏やかな日差しの中で、おようと初枝とがいかにも何気ない会話や動作をとりかわしているのを、明は傍で見たり聞いたりしているうちに、其処から突然O村の特有な匂いのようなものが漂って来るような気がした。彼はそれを貪るように嗅いだ。

 っていうふうにあります。そうすると、O村っていうのは、信州の追分なら信濃追分なら追分のことでしょうけど、ある追分出身の2人の女性の会話を聞いているうちに、追分村の匂いを感じたっていうふうに表現しています。
 そのことは、我々でもたぶん、やればやれないことはないと思います。そういう表現の仕方をしないことがないと思いますし、なんかそういう村の人の匂いがするなっていうようなことは、しばしば普通の人でも、我々でも表現していると思います。だから、そういう意味合いでは、べつに特質でもなんでもないといえば、特質でもなんでもないというふうにいえるかもしれません。
 ただ、いったん言葉の問題として見てみますと、ある村に、村の匂いがあるはずがないじゃないかっていうふうに考えていきますと、O村の匂いっていうことを、その村の出身の2人の女性の会話からO村の匂いっていうものを甦らせていく感受性のあり方っていうものは、やはり、堀辰雄にとって特有なものだっていうふうに考えることもできるかもしれません。
 ただ、それが進んでいきまして、次の描写で、「彼はそれを貪るように嗅いだ」っていう表現になりますと、これは明らかに、いわば〈匂い〉っていうことに対して、特有なこだわり方をしていなければ、こういう描写っていうのは成り立たないだろうってことがいえると思います。
 つまり、それを貪るように嗅いだってことは、すでにもうO村の匂いっていうもの自体を、いわば実際の臭気っていうもの、あるいは、香りっていうものと同じものとして理解していることがわかります。そうすると、この理解している描写だっていうことがわかります。

 このような描写は些細なようにみえますけど、そうじゃなくて、これはたぶん、堀辰雄でなくてはありえない感受性のあり方だっていうふうに理解することができると思います。

8 『万葉集』の〈匂い〉-色・視覚の表現

 堀辰雄の場合に、〈匂い〉ってことが、記憶とか過去性っていうような、つまり、時間と結び付けられるという特質が考えられるところにきたので、〈匂い〉っていう言葉の意味の歴史性みたいなものをちょっと申し上げてみますと、こちらにあれしてきましたけど、本来、日本の文学における〈匂い〉っていう言葉は何を意味したかと申しますと、万葉の時代には〈匂い〉というのは、色のことを意味したと思います。
 〈匂い〉という言葉で何を表現していたかといいますと、それは色のことを表現していたと思います。つまり、それは視覚のことです。つまり、視覚に映ることを〈匂い〉というふうに言っていたことがわかります。
 これは、万葉集のなかで、〈匂い〉を歌っている歌っていうのが、二十幾つぐらい見つかりますけど、そのほとんど全部が、〈匂い〉っていうことで色、つまり、視覚に関係のあることをいっているのであって、私たちがいまいっている〈匂い〉を表現しているのではないってことがわかります。つまり、万葉集の時代の人たちは、〈匂い〉っていう表現で、視覚的なことを、もっと狭くいえば、色のことを言っていたと考えられます。
 ここにいくつか例を挙げてきましたけれど、例えば

手に取れば 袖さへにほふ 女郎花
この白露に 散らまく惜しも

 っていうような、ここの場合の「にほふ」っていうことは、我々が現在考えている〈匂い〉と、それほど変わらないというふうに考えていい使い方だと思います。
 袖に女郎花の花の匂いが移っているっていう、そういうふうな意味あいになりますから、染みたっていう意味合いになりますから、我々が使っている匂いっていうような意味あいと、ほぼ同じように使っているというふうに考えてよろしいと思います。
 しかし、このような例は、『万葉集』のなかでは、少数例に属するわけです。多数の例はそうではありません。その次の例でいいますと、

思ふ子が 衣摺らむに にほひこそ
島の榛原 秋立たずとも

 っていう、この場合には「にほひこそ」は、「衣摺らむに」って前にあるように、これは草木染っていうのが、いまありますけど、ようするに、榛ノ木の葉っぱとか根っ子とかで、衣に摺り込む、非常に原始的な染色方法がありますけど、そういうことを言っているわけで、「思ふ子が 衣摺らむに にほひこそ」っていったら、その「にほひ」は明らかに染められた色のことを意味しています。
 「島」っていうのは土地の名前ですけど、「島の榛原 秋立たずとも」っていう、榛ノ木がいっぱい咲いている野原ってことなんでしょうけど、ここでいう「にほひこそ」っていうことは、もうほとんど歴然と色のことを、染み込んだ色のこと、あるいは、色のことを指していることがわかります。
 ほとんどの万葉における〈匂い〉っていう言葉の例は、ほとんどそういうもので、つまり、色ないしは視覚に関係あるっていうことがいえると思います。その次も同じ

山吹の にほへる妹が はねず色の
赤裳のすがた 夢に見えつつ

 っていう場合の「にほへる」も山吹の花の黄色い色を移したっていうような、そういう意味合いになると思います。ですから、ここでも、色ないし、色の染みたっていう意味合いにとれるところで、〈匂い〉っていう言葉が使われていることがわかります。
 そのあとの

もみじ葉の 散らふ山辺ゆ 榜ぐ船の
にほひに愛でて 出でて来にけり

 っていう歌でも、もみじの葉っぱの、「にほひに愛でて」っていうのは、色に愛でてってことに違いないことは非常に歴然としています。山辺にもみじが散っていて、その色がきれいなので、船を漕いで出てきたっていう意味合いになりますから、この場合でも、「にほひに愛でて」の「にほひ」は色の感じ方であることがわかります。
 このように考えて、よく例を見ていきますと、『万葉集』の二十何首くらい、〈匂い〉ないし〈香り〉ってことで歌われた歌が二十何首ありますけど、そのなかの大多数の〈匂い〉あるいは〈香り〉っていうことの使い方は、それは色のことだっていうことがわかります。我々のいう嗅覚っていうことに使っていないってことがわかります。
 それならば、それは『古今集』だったら、どういうふうになるだろうかっていうふうに考えますと、これはその次にありますけど、

梅の花 にほふ春べは 鞍部山
やみに越ゆれど しるくぞありける

 ってありますけど、この場合の「にほふ」は、たぶん、梅の花の匂いがする、香りがするというふうに考えてもそんなに違わないという、だから、現在、ぼくらが〈匂い〉という言葉でいっていることと、ほとんど同じことを指しているのかなっていうふうにいえるかと思います。しかし、そのあとの

春雨に にほへる色も あかなくに
香さへなつかし 山吹の花

 ってなりますと、この〈匂い〉は歴然と色のことをいっているから、色のことを指しているだろうと、色を感じているそのことを指しているだろうというふうに考えることができます。
 それから、そのあとに例を挙げときましたけど、つまり、『古今集』なら『古今集』で一括りにして考えますと、『古今集』の場合には、ほとんど『万葉集』で感じられた色の感じ方、あるいは、使われ方がほとんどそのまま、大部分がそのまま使われていることがわかります。

9 『新古今和歌集』における〈匂い〉の複雑さ

 それで、それ以外の微妙さっていうか、複雑さみたいなものがでてくるのは、それから数百年後にできたアンソロジーである『新古今集』になると、やや複雑なことになってきます。それを挙げてみますと、

おられけり 紅にほふ 梅のはな
けさ白妙に 雪はふれれど

 っていいますと、この「紅にほふ」は色のことを言っているだろうって理解することができます。ところで、このあとに

梅ちらす 風もこえてや 吹きつらむ
かほれる雪の 袖にみだるる

 それから

朝日影 にほへる山の さくらばな
つれなくきえぬ 雪かとぞみる

 そのふたつの歌で、「かほれる」あるいは「にほへる」というのは、これは視覚ですけれど、色としては、いわば無色だから、これはあるいは、光とか、影とか、そういうようなものとして感じられるものを〈匂い〉といっているように思われます。
 つまり、ここでは、〈匂い〉という概念が色を指していたとか、我々が考えている〈匂い〉を指していたところから、やや複雑な表現の仕方のなかで〈匂い〉という言葉が使われだしていることがわかると思います。
 それから、そのあとの

花の色に あまぎる霞 たちまよひ
空さへにほふ 山ざくらかな

 っていえば、「空さへにほふ」というのですから、空が匂っているってことを、いわば視覚的に考えてみますと、それはやっぱり、光あるいは影みたいなものの感じであって、これにはあまり色は付いていないんだろうなと思われる。そして、それは戸外の光だろうな、光のうつり映えっていうのを〈匂い〉という言葉で表現しているように思われます。
 そのあとの

八重にほふ 軒ばのさくら うつろひぬ
風よりさきに とふ人もがな

 という場合の「にほふ」も、ほぼ同じように、光の感じ、光のうつり映えの感じをいっているだろうなって思われます。
 それから

たがために あすはのこさむ 山桜
こぼれてにほへ けふのかたみに

 っていう場合の、これもほぼ、色と、それから光の感じ、無色の感じとの中間を指しているように思われます。
 それから

かくてこそ 見まくほしけれ 万代を
かけてにほへる 藤なみの花

 っていう場合には、この藤の花、色、香りっていうのは、それから、光みたいなものを指すと同時に、ややそれはメタフィジカルになっている、つまり、「万代をかけて」っていうように、(匂い)っていうことに、時間の永続性みたいなものをかけているような使い方、やや抽象的な使い方、あるいは、観念的な使い方をしていることがわかります。
 それから

かへりこむ むかしをいまと 思ひ寝の
夢の枕に にほふたち花

 っていいますと、この〈匂い〉っていうのは、もし夢の中での〈匂い〉っていうことで、夢っていうことがなければ、芥川の幻嗅、幻覚と同じで、幻覚と同じような〈匂い〉の使われ方が、ただ夢の中で匂ったっていうふうに、〈匂い〉という言葉を使っています。
 つまり、それはまったく架空の映像の中で、あるいは夢の中の映像の中で、夢から匂いが出てくるっていうふうになって、もし、夢からそれが出てくるのではなくて、実際に出てくるのならば、それは、芥川の晩年の〈硫黄の匂い〉というのと同じように、いわば〈匂い〉に病理的な意味あいがくっつけられることになると思いますけど、いわば、それと近接するような概念のなかで、〈匂い〉という言葉が使われていることがわかります。
 そうすると、こういうふうに辿っていきますと、〈匂い〉という言葉、あるいは、〈匂い〉という概念そのものが、時代によって変遷していくってことを捉まえることができるわけです。

10 立原道造と『新古今』的感性

 立原道造っていう詩人を考えますと、この詩人は様々な影響の受け方をしたわけで、たとえば、ヘルダーリンなんかの影響っていうのは非常に強いと思います。強いっていうのは、とくに立原道造の散文、あるいは、散文詩のなかで、ヘルダーリンの影響っていうのは非常に強いと思います。
 それと同じように、詩の中では、この『新古今集』っていうものの感覚的な感性的な影響っていうのは、とても強いと思います。立原道造は、『新古今集』の影響を詩の中でたくさん受けているという意味あいは、いくつかの問題として考えることができると思います。
 ひとつは時代と、それから、時代がそういう傾向を、たとえば、孕んでいたっていうことがあります。それから、立原道造もそのひとりでありますけど、詩のほうでいえば、「四季」とか、「日本浪曼派」とか、そういうところによった詩人たちっていうのは、古典っていうものに対して一様に、特有の傾倒の仕方を、傾き方をしたなってことがありまして、立原道造の周辺でもそういうことがあって、その周辺の影響といいますか、同時代的な影響のなかで、立原道造も『新古今集』なら『新古今集』に魅かれていったってことがあると思います。
 しかし、もうひとつ、そういう時代的な魅かれ方っていうものを別にして考えましても、立原道造の資質の中に、やはりそういう『新古今』的な感性っていうものがあったっていうふうに考えることができると思います。
 『新古今』的な感性っていうのは、いったい何だろうかって考えますと、それは、たとえば、一例でいう〈匂い〉の意味っていうことから考えますと、そこでいわば言葉の表現に極めて多様なニュアンスをつくり入れることができるようになったっていうことが、いわば詩の歴史のなかでいうことができると思います。つまり、そういう時代をひとつ考えることができると思います。
 それから、もうひとつ言えることは、新古今時代っていうものは、いわば、社会的にいいますと、武家階級っていうものが興隆してきて、まさに武家階級が政治的な権力をとるっていうような、そういう時代のいわば過渡的な時代にあたります。
 それと同時に、いわば、庶民というものも、主に小さな商取引とか、小商いってことですけど、そういうものを中心として、かなり賑やかさを極めてきたっていうような時代だっていうふうに考えることができると思います。
 そういう時代的な背景もありまして、ひとつの著しいことは、俗謡形式の詩っていうものが非常にたくさん、いわば庶民の中から湧き起こったり、歌われたりして、興ってきたってことなんです。それは、いまでいえば、新しい歌謡みたいなもので、そういうものが非常に大きな勢いと規模で興ってきたっていうようなことがあります。
 そのなかで、たとえば、『新古今集』みたいなものに集まってくる、あるいは、集められた、当時でいえば、専門の詩人なんですけど、つまり、プロの詩人なんですけど、専門の詩人たちは、一様に俗謡っていうものの感覚的な影響っていうものを一様に取り入れていく、あるいは、自然的に受けざるをえなくなっていく、そういうことがひとつあります。
 それからもうひとつ、それと一見すると裏腹なように感じられますけど、そういう俗謡の興隆っていいますか、盛んな勢いで大規模で興ってくることに、専門の詩人たちは、いわば圧されていくってこと、縮こまっていく、つまり、表現をどんどん狭く、それから、感覚的に追い詰めていく、そういうところで、かろうじて専門の詩っていうものを成り立たせていくってところに、専門の詩人たちが縮こまっていくっていうような傾向がやっぱりあったと思います。
 つまり、広い範囲での俗謡とか、歌謡とかいうものの大きな興隆っていうもの、それから、盛んな歌われ方っていうもの、それから、そういうものが宮廷の内部にまで入り込んでくるっていうような、そういうようなところで、それから大きな影響を受けざるをえなくて、大きな影響を受けているってことと、それから、一面では、それと自分自身を区別した専門詩人ですから、区別したいわけで、その区別したい区別っていうものが、いわば狭く鋭く、ある主題を追い詰めていくってところへ、詩の表現の仕方を追い詰めていったっていうことがあると思います。
 そのふたつの一見すると相矛盾することなんですけど、そういう矛盾っていうものが、『新古今集』の感覚、感性っていうものを背後から支えている問題のように思います。共通の感性のように思われます。
 そうすると、立原道造はたぶん、それは同時代的な問題ってことも含めまして、必然的に『新古今集』に、必然的にっていう意味は資質的にっていう意味合いと、それから、本来、立原道造が抱え込んでしかるべき問題っていうものも含めまして、『新古今集』に大きな影響を受けましたし、あるいは、別な意味でいいますと、立原道造が、いわば、やむをえず表現したところが結果的に『新古今集』の表現っていうものに非常によく似た感性にもっていかれたってことであるかもしれません。つまり、それは結果と原因と逆に考えても、いっこうに差支えないものが、たぶん時代の中にも、それから、立原道造の中にも、感性の中にもあったというふうに考えることができると思います。

11 死の〈匂い〉と資質

 立原道造っていう人は、どういう詩人なのかって考えた場合に、たぶん堀辰雄が、先ほど申しましたことでいえば、堀辰雄が青春期に、いわば自分の病気、それも死病ですけど、死病のために断念せざるをえなかった文学的課題、それから、いわば生活の断念っていうもの、そういうものの上に、たとえば、堀辰雄の文学作品っていうのが理解することができるわけですけど、たぶん、立原道造は、堀辰雄がやむをえず断念した断念自体というものも、やはり断念したように思います。あるいは、断念自体をも、いわば自分の文学的課題から除外したと思います。除外して出発したと思います。
 ですから、これはみなさんがお読みになってよくわかっていると思うですけど、あるいは、わかっていなくても、ひとりでにそういうことを感じておられるはずですけど、堀辰雄の文学っていうものは、いっけん叙情的であり、一見あまちゃんであり、いっけん脆弱でっていうふうに見えながら、じつはそうでない強靭なところがあります。
 たとえば、堀辰雄が若い断念に近いところで、青年期の断念した時期に近いところで書いた文章のなかで、こういうことを言っています。つまり、自分が人生の課題とか、社会の課題とか、つまり、そういうものに対して真っ正面から突進していって、そこで、それを拡張するっていうことを、自分はしたくないんだっていうふうに言っているわけです。
 なぜしたくないかっていうと、そういうふうにすると、自分の感受性も、それから、性格も歪んでしまうからだっていうような意味あいのことを言っています。
 そうすると、自分が考える人生とか、自分が考える人間の生涯とか、それから、人間の生き方っていうのからすると、それは一種の挿話から成り立っているんだ。挿話っていうのは、挿しはさむお話です。つまり、たくさんのエピソードから成り立っているのが人生だ、一見なにげなくぶつかってくるエピソードっていうものを、よくそれをまるごと掴み、そして、よく理解することができるっていうような、そういうことをできるかできないかってことが、生きるっていうことの意味にほんとうにつながっていくんだ、それで、エピソードを理解できないってことは、ダメなんじゃないかってことを、すでに青年の早い時期にそういうことを堀辰雄は言っています。
 だから、堀辰雄の文学の中には、そういう叙情性とか、一種の感性の消化っていいますか、そういうものだけでなくて、何かがあります。一種のてこでも動かないものもありますし、ちょっとこの人、馬鹿にできないよっていうものがあります。
 ところが、立原道造はたぶん、その課題、つまり、堀辰雄が断念した課題っていうもの自体をも断念したように思います。つまり、断念したところから出発したように思います。それはいわば、まったく感覚的にいいますと、それはどこにつながることもない、つまり、どこの地上につながることもないし、どこの生活につながることもない、そういうところで詩の世界っていうものをつくりあげていったってことができると思います。
 立原道造の文学っていうのは、それじゃあ、自分が進んで望んだように、あまく甘美な世界で、叙情な世界であるだろうかっていうふうに考えるわけですけど、ぼくは、それにもかかわらず、立原道造はそういうふうに片づけることができないものがあるというふうに考えます。
 それは、なにかっていうことをいいますと、それはどこにあるかっていいますと、立原道造の詩っていうのは、一見すると幼稚でさりげなく作られているように思われますけど、じつは非常に硬質な言葉を非常にみごとに選んで、慎重にレンガを積むように、慎重に感性の積み上げ、感覚の積み上げっていうものを、非常に慎重に几帳面にやって、非常に構成的にみれば硬い質のものだっていうことがいえると思います。
 それで、もうひとついえることは、やはり、すでに一等初めの詩集から、『萱草に寄す』っていうのが一等初めの詩集だと思うんですけど、その詩集からすでに、いってみると、死っていうもの、生と死の死、死っていうものの〈匂い〉っていうものがするっていうことなんです。
 つまり、死の〈匂い〉がするっていう、死に〈匂い〉があるかどうかわからないんですけど、そういう言い方をしますと、死の〈匂い〉っていうのがあって、死の〈匂い〉っていうものを、たとえば、どんな人間も回避することができないように、立原道造のいっけん甘美で弱々しい作品の中から匂ってくる死の〈匂い〉みたいなものです、それを無視することができないんだっていうふうに考えられます。
 その〈匂い〉っていうものが、立原道造の詩を、ちょっとなみの叙情的な作品、あるいは、それをいくら模倣しようとしても、なかなか可能でないっていうような理由にしているように思われます。だから、たいへん硬質な、よく選ばれた、しかも単に直感的に選んだんじゃなくて、かなり構成的に積み上げて、積み込んで選ばれた言葉からできているっていうふうに考えることができると思います。

12 生活的な感性から断ち切られた無限定な時間性

 それを〈匂い〉っていうことであれしますと、

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

 この場合の「花のいろがにほつてゐる」っていう使い方は、いずれも色を意味していることが分かると思います。だから、これはいわば〈匂い〉っていう言葉が意味する概念の非常に、日本語でいえば、元のところまで遡る、そういう感性で、〈匂い〉っていう言葉がひとりでに使われていることがわかります。
 これは、半分はたとえば、『古今集』の影響をそれとなく感覚的に受けたから、そういう言葉の使い方をしているってことがひとつあるでしょうけど、もうひとつはたぶん、立原道造の資質の中から、本質的に出てきた使い方だっていうふうに思います。つまり、これは、立原道造の資質のなかに、それは、こういう使い方をするものがあるんだっていうふうに考えたほうがいいのだと思います。
 それから、このあとには

誰からも見られてゐない確信と
やがて 悔いへの誘ひと-
その時 真昼が
匂ふやうであつた

 っていう表現があります。この「真昼が匂ふやうであつた」っていう表現自体は、すでに『新古今集』の中自体にもないものなんです。
 もし、そういう言い方をすることができるとすれば、それは、立原道造の発明した使い方だ、〈匂い〉っていう言葉の使い方だっていうことがわかります。つまり、「真昼が匂ふやうであつた」っていう感受性の仕方と、こういう言葉の使い方っていうことは、立原道造の発明にかかわる、つまり、独創にかかわるものだっていうふうに考えることができると思います。言い換えれば、そういう使い方で表現される、ある感性っていうものは、立原道造の詩を立原道造の詩にさせているものだって考えることができると思います。
 それは何なのでしょうか、たぶんそれは、時間っていう概念がひとつだと思います。つまり、時間っていう概念が立原道造のなかで、非常に重要な問題なんだっていうことがひとつあると思います。
 その時間っていう概念がどのように立原道造の中で重要になっているのかっていうと、それは、時間が一種の無限性というようなもの、あるいは、無限定といってもいいんですけど、無限定性あるいは無限性というようなものとして、時間が考えられていたっていうふうにいうことができるのではないかと思います。
 なぜそれでは、立原道造のなかで時間というものが無限定性、あるいは無限性っていうものとして感じられていたかといいますと、もしも詩の中に、あるいは、生涯の中に、詩の感性の想像力の中に、生活の匂い、あるいは、生きた生活の匂いとか、そういうものが、なんらかの意味で介入していくとすれば、生きた生活、あるいは、生きている人間、具体的な人間というのの時間性は、かならず生まれたときから死ぬまでのあるひとつの曲線がありまして、その曲線のなかで生き死にするわけで、限定された時間が必ずあり、時間が限定されるにつれて、いわば子どもの時は、4歳の時は4歳の感受性、4歳の生き方、15歳の時は15歳の生き方、30の時は30の生き方というように、そこに具体的な生き方の肉体といいましょうか、肉っていうものが時間の中にちゃんとくっついて、そして、ある時間、時間がひとつの曲線を描いて、生から死へっていうふうに流れていくっていうのが、たぶん、生身の人間の生活みたいなものは、詩の感性のなかに入っていく場合の時間の取り方だっていうふうに思います。
 そこで、たぶん立原道造の場合には、死が初めから匂っているように、初めから存在しているように、もう生が死の後に存在しているというようなかたちで、いわば生活的な問題から、感性から断ち切られたところで、立原道造の感覚っていうものが展開されているっていうこと、そのことがたぶん、立原道造の時間性っていうものを無限定にしている、あるいは、無限性にしている要素なんだと思います。そこが立原道造の詩人としての本質っていうことにつながっていく要素なんだっていうふうに考えることができると思います。
 それから、もうひとつあります。

気づかはしげな恥らひが
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた……

 っていうような、そういう表現があります。この表現も、決してひとつふたつじゃないことがわかります。この場合にはすでに「恥らひ」っていうことが「にほひ」ってことに関わりをつけられています。そうすると、「恥らひ」が「にほふ」っていうことは、もはや古典時代には存在しなかった使い方であり、もしかすると、それは立原道造に独特の、特有の使い方、あるいは、立原道造の発明にかかわる、独創にかかわる使い方のように思われます。
 つまり、そこでは、すでにメタフィジカルなものが、ようするに、「にほふ」という、たぶん、感覚的な要素っていうものと結び付けられるという、そういう「にほふ」という言葉の使い方がされているわけで、ここでは、すでにもう(匂い)自体が、自在に抽象性、あるいは、観念性っていうようなものと、自在に結びつけられるところに、立原道造の表現が入り込んでいってしまっているってことがいえると思います。
 このような使い方っていうのは、一見すると誰にでも真似できそうで、誰にでもできそうに思われますけど、それはやってごらんになればわかりますけど、なかなかできないことがわかります。それは、かなり立原道造にとっての本質的な使い方のものなんだっていうことがわかると思います。

13 原始的な知覚を高度な時間性の表現へ

 それから最後に

あたたかい香りがみちて 空から
花を播き散らす少女の天使の掌が
雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

 その「あたたかい香りがみちて」っていう場合の「あたたかい香り」っていうのは、たぶんこれは、非常に日常的にも使われる言葉でしょうが、立原道造が使っている場合には、〈匂い〉、〈香り〉というものに、ある触覚みたいなものをつけた、そういう感覚として使っていると思います。
 この人間の感覚のなかで、嗅覚と触覚っていうのは、いちばん原始的なわけですけど、そして、聴覚、視覚っていうのが、わりあいに高度な感覚というふうに考えることができると思います。
 いちおう考えることができるわけですけど、しかし、感覚性っていうこととしては、いわば共通に根があるわけで、感覚性としてはひとつなんですけど、それが聴覚、視覚とか、嗅覚とか、触覚とかいうことになるわけですけど、それはどこが違うのかといいますと、それは了解する場合の時間性っていうものが違うのです。時間性が違うってことなんです。
 たとえば、視覚とか、聴覚っていうのは、一種の、聴こえた途端に、あるいは、見た途端に、それを一種の時間性として理解することができるっていう、そういう感覚に、より多くできるっていう感覚に属します。だから、見ていて遠くのほうを見ているってことは、時間でいいますと、遠いところを見ているとか、考えていることと同じような感覚だってことが誰でもわかると思います。
 聴覚っていうのも同じで、音楽なんかを聴いていると、聴覚っていうのは振動なんですけど、それが一種の時間的な記憶とか、持続とか、そういうものと同じように感じられるってことは、しばしば体験されると思うんですけど、そのことは、聴覚と視覚っていうものは、理解を一種の時間性に変えるっていうことが大きい要素があるってことなんです。
 それから、嗅覚とか、触覚とかっていうのは、その要素が比較的少ないっていうような、それを時間性として感ずることはなかなかできないんだっていうようなことが、いわば、触覚とか、嗅覚とかの特徴なわけです。
 ところで、芥川龍之介、堀辰雄、それから立原道造の〈匂い〉っていうものに対する感じ方っていうものの共通点を探っていきますと、いわば、感覚性のなかで、知覚性のなかで最も原始的なものに属するものを、いわば、いってみれば、時間性に変えていくっていう、時間性と結び付けていく、あるいは、時間性に変えていくっていうような、つまり、最も高度な感覚に、感覚として感ずることに変えていくっていうような、そういう操作がなされているってことがわかります。
 そのことを、ぼくは、特質としてみて、いちばん確からしいことをいうとすれば、それは、3人の作家・詩人っていうのは共通に、じぶんの生理的な弱さ、それから身体的な脆弱さっていうものの問題、つまり、身体的な脆弱さっていうものが、人間の生涯を律していくだろう、変えていくだろうってこと、そういうことに対する感受性、つまり、それを一種の運命、あるいは、宿命のように感ずるとすれば、その宿命、生理的にもっている宿命みたいなもの、あるいは、生理的にもっている脆弱性みたいなもの、そういうものを文学の非常に高度な表現の問題に転化していくっていう、そういう課題だけは、あらゆる中間にある社会的な課題、政治的な課題、それから、現世的な課題、それから、制度の課題、あらゆるそういう課題を飛び越えて、いわば、いちばん生理的であり、かつ、いちばん原始的な、そういう感性のあり方っていうもの、それに対する宿命っていうものを非常に高度な時間性の表現として表現していくっていう、その課題だけは、三者とも手放さないで、生涯それを手放さないで表現することを、いわば無意識的に強いられたのではないかってことが共通にいえると思います。
 その問題が何を指すのかはわかりません。つまり、なにを指すのかはわかりませんってことは、これらの作家たちが、非常に特徴として読者に強いることは、その読者によって固有ですけど、固有な生涯のある時期に、かならず時間的に、これらの作品は、どんな人でもかならずと言っていいくらい共通に通過していくってことなんです。そして、時間的に通過されてしまうものかもしれないってことなんです。
 しかし、この通過されるという意味では、非常に普遍性をもっていて、たとえば、現在でも、これらの作家・詩人たちっていうのは、日本の文学を鑑賞する者、あるいは、文学にたずさわるものにとって、非常に大多数の人が、いわば、なんらかの意味で通過し、なんらかの意味で停滞し、なんらかの意味でここに留まりっていうことをしている作家としては最も大きい作家だ、そういう意味合いでいったら、最も大きく普遍性をもった作家だっていうふうに言うことができると思います。
 そして、その普遍性っていうのは、どこから来るのかっていうことに対して、今日、お話しましたことが、なんらかの意味で関わりがあるっていうふうに、ぼくは考えますけど、それが関わりがあるってことが暗示できたら、今日のお話はこれでよかったっていうふうに、ぼくは考えます。これで終わらせていただきます。(会場拍手)

14 司会(笠原芳光)

 〈匂い〉という、たいへん独自な方法で3人の文学者を思想的に解明していただいたことを感謝いたします。すこし質問のある方にお答えしたいと思うんです。その前に2,3、ご報告をさせていただきます。
 テープレコーダーでテープにお取りになった方があるようですが、ぜひ、個人的に聴いていただきますように、印刷物その他などには決してなさらないように、これは吉本さんからのご希望でもあります。なお、今日の講演は、国文社というところから出ております季刊の詩と評論の雑誌「磁場」というのがありますけど、その何号か先でしょうか、おそらく来年の春ぐらいの号に載る予定でございます。
 それから、去年の講演はそこに書いておりますように、私どもの大学の雑誌「木野評論」というのに載せましたので、後ろのほうでお渡ししておりますので、お買い求めいただければ幸いです。
 それから、これは、他所の大学からの依頼でありますけど、明日、花園大学において、吉本隆明氏と滝沢克己氏の講演があると、滝沢さんは「仏教における自力と他力」、吉本さんは「理念における信と不信」という、明日10月20日の午後5時、夕方の5時に行われるそうです。花園大学というのは、西大路通りを、もう少し西に行ったところの丸太町通りとクロスする辺りのようです。入場料500円だそうです。我々の大学は無料であります。
 ぜひ聞きたいというようなご質問はあるでしょうか、あるでしょうね、2,3、あとちょっと時間が必要ですので、ぜひよい質問をしていただきますように、簡潔にお願いいたします。

15 質疑応答1

(質問者)
 芥川と二世代ぐらい違うと思うんですけど、吉本隆明氏は、詩人として、あるいは、作家として、共通性・同意性も色々と、芥川や堀、立原とあるんじゃないか、あるいは、やっぱり別のものだろうなっていう、どういうふうにお考えであるか。

(吉本さん)
 いくつか言えると思うんですけど、ひとつは、ぼくは、この3人のように天才じゃないです。そのことは重要だと思います。この人達は天才っていう言い方で、どこからくるかっていうのは、たいへん問題なんでしょうけど、つまり、どうしても詩の技術がどうだとか、詩の資質がどうだとか、それから、抱え込んでいる課題がどうだとかいうことに関わりなく、どうしてもあるものがあるんです。そのことが違うと思います。それが第一に違うところだと思うんです。
 そのことは非常に重要なような気がするんです。だから、もちろん、現在もたくさん読まれることのなかには、無意識のうちに読者が、その天才性みたいなものを感じているところがあるんだろうと思うんですけど、それは非常に重要だっていうように思うんです。
 それから、もうひとつは、やはり同じような課題を抱えていると思うんです。それに対して、ぼくは、これらの人より、ぼくのほうが依然としてよく闘っていると思います。つまり、ぼくのほうがたくさんのことを抱え込んで、いまも闘っていると思います。
 それは、これらの人たちがどこで、どういうふうにダメになっちゃったのか、ダメになっちゃったっていうことは、決して、文学としてダメになっちゃったとかってことじゃないです。
 そうじゃなくて、この人達はどこで課題を逸らしたのかっていう、そういうことも含めまして、その問題は、時代の問題でもありますし、やっぱり資質の問題でもありますし、ある意味でいろんな言い方ができます。知識人と大衆の問題でもあるし、また、制度とか、思想とかって問題が、どうして落っこっちゃったのかとか、どうして、これらの人は落としちゃったんだとか、様々な言い方はできるでしょうけど、ぼくのほうは依然として未解決であるし、依然として、どこにもあれはないですけども、抜け道はないように思いますけど、依然として、まだよくやってるよなっていうふうに思います。思っています。そこが違うと思います。
 ただ、ぼくは、いってみますと、天才じゃないですから、そういう意味合いでは、まるで比較にはならんっていうふうに、ぼくは考えているんです。その2つのことが違うと思います。

16 質疑応答2

(質問者)
 くだらない質問なんですけど、気分っていうことについて伺いますけど、いまの〈匂い〉がいってみれば気分になると思うんですけど、気分性ってものをどのように考えておりますか。

(吉本さん)
 気分っていうのはこうなんです。なんでも知ってるようなことを言うのは悪いんですけど(笑)。気分っていうのは、ようするに、対象が自分自身でもいいし、それから、ほかの風景でもいいし、人でもいいんですけど、そういうものに対して感じたものは、知覚というよりも、そうじゃなくて、情緒的なものだと思います。情緒的に感じたものを、たぶん、時間的に保存しないことだと思うんです。つまり、感じたものをすぐにどっかに返している、絶えず返していることだと思います。つまり、それを感じたら、それを自分から絶えずどっかに放っているっていいますか、どっかに返していること、それが気分だと思います。
 それを自分のなかに繰り込んで、時間的に繰り込んで、時間的に溜めて理解してしまいますと、そのことは気分ということが、もっと具象的になって、機嫌とか、不機嫌だとか、気難しい男だとか、つまり、かなり性格として規定できるような、ある固定した形になってしまうと思います。
 だけど、気分という限りは、そうじゃなくて、対象がなんであれ、それが感じられたとき、心情的に感じられたときに、その理解をすぐに自分から放してしまうことだと思います。それが、たぶん、気分っていうことの本質的な問題のように、ぼくは思います。
 それを溜めてしまったら、それは気難しいやつだとか、不機嫌なやつだとか、あいつはいま機嫌がいいとか、もっとそれを時代的に言って、不機嫌の時代とか言う人もいますけど、いるくらいだから、そういうふうに固定した、あるいは、把握ができるところになっちゃうと思います。そういうことじゃないでしょうか。

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 それは、精神病理学者が、医学者が、プレコックスゲフュールって言ってるやつじゃない、それはやってる人がいるんじゃないでしょうか、いるし、作品評価の問題として、それをやるんならば、それはあなたがやられればいいんじゃないでしょうか、じゃないかなと思うの、つまり、そういうことはありますものね、なんか気分とか、その人の持っている雰囲気とか、そういうものでヒュッとわかっちゃうものとか、詩でもそうです、言葉の表現の意味のほかに滲み出てくるものっていうのはあるでしょう、いちおう僕らは、それは言葉の価値なんだって言ってしまうけど、価値っていうふうに言ってしまうと、身も蓋もないっていうようなことがあります。
 だから、それはそれ自体として、追及したり、展開したりする問題っていうのは、それは、あなた自身の問題に属するわけで、基本的にはこういうことじゃないかなってくらいのことは言えるけど、それ以上のことは、ぼくは言えない、わかりませんけど。

17 質疑応答3

(質問者)
 下町っていうことで、周りの人が全部、自分の家の中のことも知っていると、それが慰安でもあるし、重荷でもあるというふうに言われたんですけど、ぼくなんかも田舎の出身です、いわゆる村でも同じようなことがあると思うんです。村出身で文学者もたくさんいると思います。そういうのと下町出身ということを分けるとしたらどうなるのか。

(吉本さん)
 あれじゃないでしょうか、その場合、東京の下町っていうのは、ようするに、いまもそうなところも、そうじゃないところもありますけど、ようするに、隣は壁ひとつで隣っていう意味あいで、よくわかっちゃってる、つまり、江戸時代も長屋っていうのがあるでしょ、つまり、それの延長線に展開されているのが、下町ですから、だから、それは、自然に囲まれていて、家としては離れて点々とある、それだけれど、囲まれているところは、ひとつの閉鎖地域だから、村のことはわかっちゃうんだ、噂から噂ですぐにわかっちゃうとか、親戚づきあいっていうのと違います。違うと思います。
 地縁的な共同体の要素っていうのはないんです。そういう意味ではないんですけど、だけど、具体的な生活としては、いまの生活としては、隣のことをよく知っていて、こっちにお米がなければ、貸してくれませんかっていう感じで、それはできるっていう意味あいで違う、それから、だいたい自然がないんです。
 だから、閉鎖地域だから、そうなっているっていうよりも、同じ貧しいところだから、固まっちゃっているって意味あいのほうが強いんじゃないでしょうか。地縁が一緒に住ましてとか、血縁が似ているから一緒のところに住んでいるとか、村をつくっているとか、そういう意味あいはないです。
 つまり、土地っていうことに対して、そんなにないと思います。つながりはないと思います。ただ、ほんとうにそういうところの江戸時代からの延長で、そうなっていると思います。そういうところが違うんじゃないでしょうか。
 それから、もうひとつは、そういう下町に何代もいないとダメだけど、そういう意味じゃ、ぼくらもよくわからないところがあるけど、つまり、東京下町っていうのは、東京地方ですよね、つまり、何々地方というのと同じ、東京地方なんです。だから、そこで使われている言葉も、わりに東京方言なんです。東京方言っていうのはあるんです。堀辰雄とか、こういう人達の作品なんかにもあります。ぼくは見つけることができます。方言があります。つまり、これ、東京の方言だなっていうのがあります。東京地方なんです。
 東京地方のやつは、たとえば、京都地方の人はこういう人だ、こういう傾向があるんだっていうことと同じことでいえば、やっぱりあるとおもう、江戸時代からのあれであると思う、それで、ひとつは何かっていうと、ぼくはそういう言い方をするんだけど、おつりを寄こさないところかなという気がするんです。
 ぼくはそういうところは勺にさわるから、ぼくは母親が九州ですから、親父がそうですから、お腹の中にいるときに東京に来たんだから、一代あるかないかだから、畜生と思うところもあるので、おつりを寄こさないっていうのは、たとえば、こういうところが違うんです。こういうところの感受性が違うんです。
 たとえば、駄菓子屋さんにいきますと、なんか買うでしょ、50円でなんか買ったと、駄菓子をひとつ買った、それで、100円玉を払ったとするでしょ、そうすると、駄菓子屋さんが、お婆さんとかお爺さんが、つまり、明治初年から江戸時代頃からよく知っているんじゃないかっていう、その頃からなんじゃないかって思われる、そういうお婆さん、お爺さんだとするでしょ、50円買って、100円玉払うでしょ、それで、お爺さんやお婆さんだから、おつりはいらねえよなっていうふうに思うんです。90円のもので100円払ったと、お爺さんやお婆さんの駄菓子屋さんだから、いらねえよなっていうふうな感じで、そうすると、こちら方の感じ方では、10円おつりを出したら、いいよ、お爺さんっていうふうに言おうと思うわけです。
 ところが、その前におつりを出さないわけです。そうすると釈然としないわけです。取ろうと思ってないんだけど、むこうは全然よこさないんです。そうすると、ちょっと違うよっていう感じになります。ぼくらは、そういう食い違いを感じます。
 ぼくは一代の東京ですし、それは何代もそうだって人達の感受性とは、そういうところで食い違うような気がするの、だから、たとえば、それを江戸的、東京的感性からいうと、お前はくどいんだ、くどいっていうか、あくが強いんだとか、そういうことになるわけ、ところが、ぼくはそうじゃないと思うの、感受性のタイプが違うと思うの、こんなのやろうとおもってるわけです。お爺さんがヨチヨチしながらやっている駄菓子屋さんで、100円出して、90円買って、10円を取ろうとは思わんなっていうふうに、あげてもいいなと思っていることは同じなんですけど、だけど、それはいったんおつりをくれたら、おれはいらないって、いいよっていうふうに言おうと思っているんだけど、その前に出さねえわけです。そうすると、ちょっと釈然としないってなるでしょ、そういう食い違いを、ぼくは感じます。江戸っていうものには感じます。
 これは、近世の後期なると、江戸文化っていうことになるわけですけど、そのなかに、それをぼくは感じます。そういう一種の感性の違い、それは、東京地方なんだといえます。それは東京語っていうのは、ある意味で標準語になっていますけど、それは標準語っていうことに、あまり意味はないのです。つまり、たとえば、奈良朝時代の標準語っていうのは九州弁なんです。奈良朝時代以前です。
 どうしてかっていうと、その時代、時代に、文化とか、政治でもいいけど、そういうものの中心だと思われているところの言葉が、その時代の標準語になるわけなんです。つまり、言葉っていうのはそうなんです。今度は平安朝時代になってくると、京都弁みたいのが、近畿弁みたいのが、標準語になるんです。それから、明治以降になって、江戸弁みたいな、関東弁みたいのが、標準語になるんです。標準語になる間に、いろいろな洗礼や変化を受けますけど、つまり、方言っていう、言葉っていうものは、地域的な違いがあると同時に、それは、時間的な違いなんです。
 だから、古典語っていうのは、つまり、古い昔の言葉とだけ考えたら間違うので、それは方言なんです。その時代の文化的中心の方言なんです。それとおんなじように、東京方言というのはあります。それから、東京地方人っていうのもあります。
 そういうことじゃないんでしょうか、そこは違うんじゃないでしょうか、それぞれのあれを背負って、いろんなところからきて、文化にたずさわっている人と、そこと違うんじゃないでしょうか、おつりを寄こさないっていうことは、この3人に三者三様にあるということを、みなさんすぐに発見します。この人達はおつりを寄こさない人だなっていうところは、非常によく、おれはわかると信じます。あると思います。

18 質疑応答4

(質問者)
 〈匂い〉の部分が身体的な欠陥と言っておられましたけど、そのところでちょっと疑問が、部分的な発表をこれからされるのか、あるいは、あるけれど、先ほどの話では出なかったことがあるのか。

(吉本さん)
 だからその可能性、その資質っていいましょうか、または生理的な、身体的な宿命でもいいのですけど、そういうものの課題をたいへん高度な文学的な課題にもっていったという意味だったらば、それは非常に大きな達成だっていうふうにいえるんじゃないでしょうか。しかし、そんな問題に固執したって、文学が課題とする主要な課題はすっぽ抜けちゃってないじゃないですかっていう意味あいからいったら、そこはいわば回避されたといいましょうか、避けられたっていうふうな評価になっていっちゃうんじゃないでしょうか、つまり、それはそれぞれの評価のする人の仕方っていうことで、いくらでもニュアンスが変わってくるんじゃないのかなっていうふうに、ぼくは思うんですけど、ぼくは、ようするに、ただそのことを、そういう問題を投げ出せればいいっていう、そういう感じなんです。ただ、文章でやれば、もうすこしうまくやれるような気がするんですけど、うまくやれたかどうかは別なんですけど、ただ、投げ出せばいいんじゃないかっていうことなんですけど。

(質問者)
 芥川の死についてはどうお考えなのでしょうか。

(吉本さん)
 それ、ぼく書いたことはあるので(会場笑)、見てくださるといちばんありがたいのですけど。

19 質疑応答5

(質問者)
 漱石は生涯、課題を追及して、さっき芥川とか、堀とか、立原は逸れていったんだと、漱石との違いというのは。それからもうひとつ、高村光太郎との違いというのを。

(吉本さん)
 一言でいうと、漱石の文学的課題っていうのは、いろんな集約の仕方と、いろんな論じ方があるわけだけど、一言で最もうまく集約できる掴み方っていうのは三角関係なんです。漱石の文学の特徴っていうのは、三角関係の表現なんです。それが主要な課題です。
 その三角関係っていうのは、もちろん、現実の男女の三角関係っていう意味合いも、もちろんあります。つまり、それはいわば不可能な課題です。三角関係の不可能な課題に執着するっていう、そういう資質です。
 そのことは特徴なんですけど、しかし、そのことのなかには、文明的な意味、時代的な意味があるわけです。その場合に、漱石のなかでは、無意識のうちに、三角関係のひとりは、一角はかならず西欧文明なんです、西欧文明の象徴なんです。つまり、ヨーロッパ近代っていうものの象徴なんです。
 つまり、ヨーロッパ近代に対するアンビバレンツなっていいましょうか、二律背反的な格闘みたいなもの、つまり、内部的意識の自立性っていいますか、それへの格闘みたいなもの、それに引き戻そうとする日本的感性とか、日本的自然感性とか、そういうものとの葛藤ですね、そのことが同時に漱石の文学を三角関係に非常にこだわっていくわけです。執拗にこだわります。そこのこだわり方のなかには、そういう意味合いも同時に象徴されています。だから、ひとくちにつかむと、そこが主題なんです。
 で、芥川も、もちろん、弟子で、かなりな人ですから、同じように「開化の殺人」とか、「開化の良人」とか、そういう作品のなかで、そういういくつかの作品のなかで、やっぱり、三角関係に固執しています。そして、よく見抜いています。
 つまり、漱石の三角関係に固執した、「行人」でもそうですけど、「門」でもそうですけど、そういう三角関係に固執したことのなかに、文明の問題があるっていうことを、芥川はよく見抜いていて、それは、見抜いているけど、もっと小規模です。作品としても小規模だけど、それは、歴然と「開化の良人」とか、「開化の殺人」とか、つまり、開化、文明開化の開化ですね、そういう題名をつけて、まさにそういう問題として、三角関係の問題みたいなものを追及しています。
 それが、そのなかに象徴される近代的自我の独立性、それは西欧文化との、西欧近代との関連における、そういう確立性っていうのは、どこで可能か、あるいは、不可能かっていう課題は、たぶん、漱石にとって、一言でいえる重大な課題だったと思います。だから、そのことを、芥川はそれをやっています。小規模ですけど、逸らしながらでも、それをやっています。
 しかし、堀辰雄には、それはありません、ありませんけども、具体的な芥川のそういう問題に対することは、堀辰雄の小説の中によく描かれています。芥川がやった、現実にやった三角関係みたいなものを、傍から見ていた、後ろから見ていたところの描写っていうのは、たとえば、「菜穂子」とか、「楡の家」とか、そういう作品の中にでてくる森於菟彦とか、九鬼とかいう名前で出てくるのは芥川のことです。つまり、モデルとして考えられているのは、芥川のことです。それから、そこへ出てくる夫人がいて、菜穂子の母親ですけど、その母親っていうのは片山広子のことが象徴されています。それは後ろ姿からそのことをよく見ていると思います。
 そういう意味あいでは、堀辰雄の中に皆無とはいえないと思います。その課題は皆無とはいえないけど、すでにもう、文明史的な、文明的な意味、あるいは、思想的な意味あいっていうのは、そこでは全然すっぽ抜けていると、ぼくは思います。堀辰雄の感受性の問題、心理の問題としてあると思います。
 立原道造の場合には、それは完全にありません、その問題はありません、その問題はないと思います。だから、そういうふうになっているんじゃないでしょうか、高村光太郎は、ぼく、それも書いているから、そこでわりによくやっているような気がします。

20 司会(笠原芳光)

 たいへん時間がなくて申し訳ないですけど、なにとぞお許しください。毎年、来ていただいている学校ですので、来年もぜひおいでいただければとお願いをして、拍手をもって(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま