1 〈像としての身体〉と〈肉体としての身体〉

 吉本です。みなさんが、これはなにも考えなくてもすぐにわかりますように、人間の身体っていうのは、どういうものなのかとか、どういうことなのかっていうことも、それから、障害っていうのはどういうことなのかっていうことも、じつは大変むずかしいことなわけです。
 むずかしいことなわけですから、今日の富士学園のことも、その一例でしょうけども、身体障害っていうことにまつわる、現在におけるあらゆる問題っていうものは、すべて大変むずかしい、つまり、最もむずかしい問題っていうものを孕んでいることになってしまいます。
 これの解決っていうのは、非常に一見すると簡単なようにみえますけど、それはたいへん、ほんとうはむずかしいんじゃないかって思います。この問題のなかには、人間、あるいは、もっと大げさにいいますと、人類っていうものが最後に解決しなくちゃならない、つまり、人類の解決すべき様々な問題のなかで、じつは小さいようで最後に解決しないとわからないっていうような問題が含まれているっていうことなんです。
 これが、身体とか、そういう問題にまつわる、あらゆる問題がすべてむずかしくなってしまう、つまり、大変むずかしい問題を孕んでいるっていうことの、いわば当然の根拠であるわけです。
 ぼくはここでなにがしゃべれるかっていいますと、むずかしいっていうことを、とにかく、しゃべれればいいかっていうふうに思います。あるいは、みなさんは身体とはなんだっていうことも、障害とはなんだっていうことも、非常に簡単に考えているかもしれないので、じつはそうじゃないと、非常にむずかしいことなんだっていうことを訴えることが、言うことができれば、ぼくが今日でてきた役目は終わりだっていうことになると思います。
 身体っていう場合に、たとえば、みなさんが自分の身体っていうふうに考えてごらんになれば、すぐにわかりますけど、自分の身体っていうふうに考えられた場合に、これはよく考えてみると、ふたつのことを考えていることがわかります。
 それはひとつは、明らかに、じぶんの身体っていう場合に、確かにここに手があり、足があり、そして、ここいら辺に胃がありとか、心臓があり、そして、心臓がドキドキしているとか、胃が少しムカついているとか、そういう意味あいで、まったく肉体っていうものを考えていることがひとつです。
 それから、もうひとつあります。もうひとつ、じぶんの身体っていった場合に、もうひとつ、身体の像、イメージを考えてみます。つまり、身体の像、イメージっていうものを同時に考えてみます。これは、専門的にいえば、身体図式って呼んでいます。つまり、身体図式っていうのを同時に考えていることがわかります。
 だから、自分は、じぶんでは美人だと思っていても、他人から見るとそうではないとか、じぶんでは美男子だと思っていても、他人からはそう見えないとか、逆にじぶんは醜男で、非常にモテないって思っていても、存外そうではないとかっていうような、いわば、そういう食い違いっていうのが生ずるわけです。つまり、こと自分の身体に関しても、そのような食い違いっていうのは、絶えず人間っていうのは、やっているってことがわかります。
 言い換えますと、じぶんの身体とは何か、あるいは、自分の身体っていった場合に、このとおりの肉体っていいたくなる肉体っていうのと同時に、人間は自分の肉体の像、イメージっていうのを同時に思い浮かべていることがわかります。つまり、この二重性っていうことにおいて、人間は身体っていうものを考えていることがわかります。
 ところで、大昔のことを考えてみれば、すぐにわかりますけど、問題なのは、じぶんの身体、つまり、肉体としての身体っていうものと、それから、じぶんが描く身体像っていうもの、イメージっていうもの、身体のイメージっていうものとが、必ずしも、人間において一致しないってこと、各時代において、自分自身に対してもそうですし、他人の身体に対しても、決して、その人が自分の身体を考えているのと、他の人がその人の身体を考えているのとは、イメージとしてみますと、ちっとも一致しないってことが、非常に大きな、つまり、あらゆる身体にまつわる問題の起源にあるわけです。つまり、いちばん最初にあるのはそういう問題なわけです。
 だから、たとえば、大昔の人は、みなさんも色んな本を、古代とか、原始時代とかっていうものについて記述された、あるいは、未開の社会における人々の生活みたいなものの記録とか、そういう著書とか、そういうのを見られて、よくおわかりのことと思いますけど、大昔の人は、たとえば、未開の段階、あるいは、原始の段階の人間っていうのは、じぶんは、例えば、ワニから生まれたとか、じぶんの祖先はサルだったとか、じぶんの祖先はヘビだったとかいうように、これをトーテムといいますけど、そのように考えていたくらいなわけです。
 ところが、もしみなさんがちょっと考えられた場合に考えるように、身体っていうものが、そんなに簡単なものであったならば、たとえば、じぶんの身体っていうものと、それから、ワニの姿っていうのはよく見ているわけです、誰でも。だから、ワニがワニのように見えるっていうことは、いま我々の見える眼と同じなわけですから、ワニはワニのように見えているわけです。それなのに、じぶんの身体というものが、そんなに簡単であるとしたらば、じぶんの祖先がワニだって思ったり、じぶんの祖先はヘビなんだと思ったり、じぶんの祖先は龍なんだと思ったりするわけはないわけです。
 つまり、これはどういうことを物語っているかといいますと、ふたつのことを物語っています。つまり、人間が人間であるっていう場合に、じぶんの身体、あるいは、人間の身体っていうのを考えるときに、いかに錯覚しているか、あるいは、いかにむずかしいか、いかに肉体としての身体っていうものと、それから、イメージとしての身体っていうものを、人間が持っているかってことの非常に大きな証拠になるわけです。
 ですから、もし、身体っていうものが簡単明瞭なものであったならば、じぶんの祖先が龍であるとか、じぶんの祖先がワニであるとかいうふうに言うはずがないのです。思うはずがないのです。しかし、みなさんが様々な記述を見れば書いてありますように、未開人っていうのは、トーテムとして、じぶんの親族・氏族っていうものを、祖先は龍であったとか、じぶんはそうじゃない、じぶんの祖先はワニであったとか、だから、じぶんの祖先はワニであったんだから、お前のところとは違うんだ、あるいは、お前のところとは結婚できないんだ、お前の氏族とおれのところは結婚できない、なぜなら、おれの祖先はワニであり、お前の祖先はヘビであるから、こういうふうなことっていうのは、いわば当然のように行われていたわけです。
 そのことは何を意味するかっていいますと、いま言いましたように、いかに人間っていうものが、人間の身体っていうものが、いかにむずかしいものかっていうことを、いわば指し示しているようなものだって思います。

2 宗教的・象徴的意味がつけられていた精神障害・身体障害

 それから、そのような未開、原始っていうような、そういう段階をとらないで、もうすこし古代っていうところをとってきても、そういうことがわかります。たとえば、日本の古代において、いちばん尊敬されていたのは、これは日本の古い古典、歴史の本を見れば、すぐにわかりますけど、いちばん尊敬されていたのは、いわば神がかりをする、つまり、一時的にキチガイになったり、ヒステリーになったりすることができる、そういう女性が最も尊敬されていたわけです。
 その尊敬されていた女性っていうのは、いわば、大は古代の国家のいちばん頂点におりまして、小は村々に潜んでいるおばさんが神がかりをしまして、その人の言うことに従って、政治が行われたり、それから、その人の言うことに従って、行事がおこなわれたり、その人の命令に従って戦争がおこなわれたり、あるいは、戦争を行う場合には、その人の神がかりの言葉を聞いて、その上で、よろしいって言うならば戦争すると、よろしいって言わないならば戦争しないっていうくらいに、たとえば、古代の日本の国家なら国家、あるいは、社会なら社会、それから、村落なら村落において、つまり、神がかりの女の人っていうものは尊敬されていたわけです。
 神がかりっていうのは何かっていいますと、一時的な精神障害なわけです。でも、一時的な精神障害ですけども、その精神障害者の言うことを、いわば天の声、つまり、神の声とか、天の声とかいう意味あいで、そのとおりに、それに従って政治が行われていたり、それから、それに従って戦争が行われたり、それに従って、様々な行事がおこなわれたりっていうようなことがあったわけです。
 そうしますと、もし、この精神障害っていうものが、社会から、それから、国家から、それからまた、村落から、非常に尊敬されているとします。そうすると、精神障害者っていうものは、尊敬されている場合には、精神障害者っていうものが長続きしないわけです。つまり、精神障害っていうのは長続きしないの、治ってしまうわけです。だから、一時的に精神障害になって、それで治ってしまうわけです。
 それはなぜそうかっていいますと、社会なり、国家なり、あるいは、村落の人たちが、精神障害者っていうものを尊敬し、そして、その人の言葉によって政治をおこなったり、それから行事をおこなったりするほど尊敬されていますと、その尊敬の視線があるかぎり、その人は永続的に精神異常とか、精神障害になることができないわけです。ですから、治ってしまうわけです。
 ところで、これは身体障害についても同じなわけです。たとえば、みなさんはもうダメでしょうけど、みなさんの親父さんとか、お袋さんの時代の人なら、わりあいによく知ってると思うんですけど、東京の町でもそうですし、もちろん、地方にいきました村ではそうですけど、そのなかで、例えば、手がひとつないんだっていうような、足がひとつないんだっていうような、そういう男の人とか、女の人がいて、そして、その人が、たとえば、身寄りも何もないといって、村や町の御堂かなにかに住んでいたとします。
 そうすると、村の人たち、あるいは、町の人たちが、なにくれとなく、その人のところに食料を持っていってやったり、それから、なにか仕事らしい仕事がありますと、できるような仕事がありますと、お前やらないかってやって手伝ってもらって、口銭をあげるとか、あるいは、食料をあげるとか、衣類をあげるとかっていうふうにして、いわば、そういう人達が村中とか、町中とか、あるいは、広くいえば国中ですけど、そういう人達から非常に尊重されていたっていうよりも、いわば、保護されていたっていうような、そういう時代が、たとえば、ぼくらの子どもの時代には東京でもありました。東京の下町でもありました。
 それは一種の町なら町、村なら村の名物でもあるわけです。名物でもあるっていうことは見せ物っていう意味あいじゃなくて、その人の名前をいえば、皆ああそうかっていうふうに、いわば微笑ましいエピソードが村中の各所に満ちているっていう具合に、いわば非常に、ごく自然にそういう人達が保護されていたってことが、保護されていたって大げさなほど言ったら、ちょっとまた違っちゃうんですけど、極めて自然に保護されていたっていうことがわかります。
 そういうところでは、いわば、身体の障害とか、精神の障害っていうことが、障害でないっていうことと同じであるとか、あるいは、そこに紛れて住んでいて、すこしも差支えないとか、誰も意識する者も、お互いに意識する者もいない、意識しないけど、ひとりでに大勢の人たちがそれを扶助しているっていうようなことが、ごく自然に実現されていたわけです。
 つまり、そのように、精神障害でも、身体障害でも、それ自体に宗教的な意味がついたり、あるいは、町なり、村落なり、村なり、あるいは、国家なりの共同のひとつの象徴っていいますか、これはどういう言い方をしてもいいです。つまり、名物っていう言い方をしてもいいです。そういうものであったときには、いわば身体障害っていうもの、あるいは、精神障害っていうものが、それ自体として、それほど問題にもならなかったし、あるいは、精神障害っていう方も、また、身体障害者っていう方も、いわば、じぶんのことをそれほど意識しないで、ごく一般的に紛れて住んでいたっていうことがあります。

3 六条の御息所の物怪が引き起こす障害

 このようなことっていうものは、なにかっていいますと、先ほどのことからいいますと、肉体としての身体っていうものと、それから、身体のイメージっていうもの、それがどれだけ食い違い、どこで食い違い、そして、どこでいわば分離し、どこでそれじゃあ、一致するかっていう問題が各時代によって少しずつ違ってきているっていうことを意味すると思います。
 これはまた、たとえば、もっと後になりまして、中世なら中世っていう時代をとってきてみますと、これはみなさんもご承知のような、平安京なら平安京の物語みたいなものをお読みになればすぐにわかります。
 たとえば、『源氏物語』なら『源氏物語』でもいいですけど、『源氏物語』の至る所にそんなことばかり書いてあるんですけど、たとえば、葵の上というのがいます。つまり、光源氏の第一夫人ですけど、葵夫人というのがいるわけですけど、その葵の上っていうのが妊娠して妊娠障害で体が衰弱しちゃうっていうようなところがあります。
 そうすると、そのとき、いわば祈祷師ですけど、祈祷師を呼んで祈祷をさせるわけです。なぜ祈祷させるかっていいますと、そのように妊娠なら妊娠をして、そして、ツワリとか、そういうことで苦しんで衰弱していっちゃうっていうことは、いわば日本のあれでは物怪っていいますけど、物怪が憑いているからだってことに、その時代の認識ではそういうふうになっているわけです。ですから、身体の障害、あるいは衰弱っていうことの、ひとつの原因として、物怪が憑いたんだっていうことが、一般的な常識であったわけです。
 そうしますと、この物怪っていうのは、どういう物怪かっていうことになるわけですけども。それは、その人に害をなす物怪だっていうふうに考えられます。ですから、たとえば、光源氏の第一夫人以外の様々な恋人とか、愛人とかいるわけですけど、そのなかのひとりが呪っているから、だから、こういうふうに衰弱するんだっていうふうに考えまして、祈祷師たちが夢中になって、そういう人の憑いている霊を追い払う祈祷をするわけです。
 それで、その中でも六条の御息所っていうのが、非常に強い嫉妬感を抱いていて、この人の憑き物だけは、物怪だけは、なかなか、祈祷師がいくら祈祷しても、なかなか出ていかない、追放されない、そこで、まずます葵夫人が衰弱していくっていうような、そういう描写があります。
 そしてまた、そういうことが評判になるわけです。それで、葵夫人が衰弱して、ああいうふうになっているのは、六条の御息所の霊が、物怪が憑いているからだってことが、いわば貴族社会なら社会で評判になるわけです。そして、その評判をご本人である六条の御息所が聞いて、そういうふうに言うところがありますけど、つまり、自分が常々、葵夫人に抱いている嫉妬感とか、そういうものがきわめて強いから、強くて物思いに沈んでしまうと、そうすると、じぶんの魂は離れて、思っている相手のところに憑いていっちゃうっていうから、やっぱり、じぶんはよくわからないけども、自分が度々、物思いに沈んだときに、魂が離れていって、それで、葵の上に憑いているに違いないっていうふうに、ご本人がそういうふうに思うところの描写があります。
 そうすると、このところでは、身体の障害とか、病気とかっていうものが、いわば霊、しかも他人の霊ですね、しかも、その人に対して悪心を抱いているとか、害心を抱いている、そういう人間の霊が憑いているが故に、これは病気になるんだっていうような、そういう観念が、一般的に、当時の文化的な社会の中で流布されていたってことがわかります。
 ついでに言いますと、当時、いちばんの病気っていうのは何かっていうと、胸の病気って、そういうふうに『枕草子』に書いてあります。胸の病気が1番、それで2番目が物怪だ、つまり、いま言いました、悪心を抱いている他人の霊が憑くっていうこと、2番目は物怪だ、3番目は足の怪だ、足の怪は脚気っていうことです。つまり、ビタミンBの不足っていうことでしょう。脚気だそうです。4番目には、なにやら知らないけど、食欲不振になって、それで衰弱していっちゃうんだっていうようなことが、たとえば、その当時の病気のいわば四大代表みたいなものだっていうことが、『枕草子』を見ると記載されています。
 ついでだから申しますと、そういう次第で、胸の病気をはじめとして、そういう病気が、つまり、あまりいい病気じゃないですけど、そういうことで、だいたい当時の平均の年齢は37,8歳だったっていうふうにいわれています。
 しかし、その37,8歳だったかどうかっていうことは別としまして、そこで問題なのは、いわば病気っていうものに対する観念、あるいは、身体の障害っていうものをどういうふうに考えるか、あるいは、身体っていうものをどういうふうに考えていたかっていうことの問題が非常に重要だっていうふうに思われます。
 そうすると、みなさんが非常に自明のように考えておられる身体とは何なんだ、あるいは、じぶんの身体とは何なんだってことは、たいへん自明でないってことがわかります。そうすると、だいたい、どういう考え方をしたら、身体とは何だっていう問題を捉まえるのにいいかっていうようなことになるわけです。
 これは、大きくいいますと、先ほど言いましたように、肉体としての身体っていうものと、それから、イメージですね、身体の像です、あるいは、これをそういう専門的な言葉でいえば、身体図式って言いますけれども、身体図式っていうものの二重性っていうことで、二重性っていうことで、人間は身体っていうものを考えているんだっていうこと、それはまず、非常に根本的に、そういう考え方を取ることが非常に重要だっていうふうに思います。

4 身体の問題のむずかしさ

 それから、もうひとつ、そこに考えやすい考え方をいれてみますと、それは、身体年表っていったらいいんでしょうか、身体年表っていうような考え方だと思うんです。この身体年表っていうことは、なにかっていいますと、これは社会でいえば歴史っていうものの概念とよく似ている概念だと思えばいいわけなんですけど、身体に対するイメージのつくり方っていうのは、いま例で申しましたように、各時代あるいは、その時代、時代で違うわけなんです。つまり、じぶんの身体っていうものを人間はどういうふうに掴んでいるかっていうつかまえ方っていうものは、その時代、時代で違ってくるわけです。異なるわけです。
 ところで、身体っていうものは、たとえば、原始時代の人間と、現代のわれわれ人間と、ほとんど違わないと思います。つまり、退化しているとか、盲腸まであるし、尻尾はもうすでになかったし、二本足で歩いていましたし、ほとんど、肉体としての身体っていうものは、内臓の端々に至るまで、たぶん、原始時代からいままでの間、人間はそんなに変わってないと思います。変わっているとしても、ほとんど取るに足らないくらい、つまり、無視していいくらいしか、変っていないと思います。
 しかし、それに反して、身体に対するイメージっていうものは、各時代でたいへん違ってきています。たいへん違ってきていることがわかります。このことが、たいへん大きな問題だっていうことがわかると思います。このことがもたらす社会的な意味合い、それから、人間の精神に及ぼす影響っていうものは、非常に大きいっていうことがわかります。
 ですから、いままで申しましたように、原始時代、未開時代の身体に対するイメージ、人間が抱いていた身体に対するイメージと、それから、古代の人間が抱いていた身体に対するイメージと、それから、中世の人間が抱いていた身体に対するイメージと、それから、現代の人間が、じぶんの身体に対して抱いているイメージとは、たいへん違うんだっていうことがわかります。
 たいへん違うんだっていうことは非常に重要なことだと思います。そのことを無視したら、障害っていう問題、身体の障害、あるいは、精神の障害っていう問題を、ほんとうの意味では解くことができないっていうふうに思います。
 つまり、ほんとうの意味で解くことができないっていう問題はどういうことかっていいますと、それをいわば、社会的欠陥、欠落っていうものと、あるいは、社会的障害っていうものと、すぐに短絡してしまうとか、身体の障害とは何かとか、精神の障害とは何なのか、手が一本ないということは、それはどういうことなのかっていうこと、そのこと自体を考えることをやめてしまうのです。やめて、すべてそれを有効性の問題、利益の問題、損害の問題に転化してしまうっていうことになってしまいます。
 この問題の解決は、究極的には人類が最後に残す問題です。ですから、そんなに解決されないに決まっているわけです。ですから、これは、社会的な障害の問題に結び付くのは当然であり、それが解決の道であることも当然だし、それから、身体に障害があれば、精神力で克服せよっていう人間と、それから、補償をたくさんとりつけて、これをなんとか福祉の問題に転化しようとする人間と、そういう解決の方法が一般的でありますけど、それはごく一般的でありますけど、それはちっとも最終的な解決の方法ではないのです。でも、それ以外には方法がないっていうのが、現在までにおける身体にまつわる問題の、非常にむずかしい混乱が現代までの段階なわけです。
 しかし、この問題はそんなに簡単なものではありませんから、究極的に解決されるためには、究極的に身体とは何かっていうことを、つまり、肉体とは何かっていう問題と、それから、〈身体のイメージ〉とは何かという問題が、究極的に、人間にとって解放されるのは、たぶん、様々な解放がされた一番最後まで残るだろうっていうふうに、ぼくはそう考えます。
 それほど、たいへん簡単なようでむずかしい問題だから、それは、どういうふうな解決の方法で、どういう闘い方をしても、ちっともスッキリしないじゃないかっていう、そのスッキリしないところは、本音のどこかここらへんに隠しておいて、スッキリするところだけ簡単に処理していこうじゃないかっていうふうになっていくのは、どうしてかっていいますと、その問題は、ほんとうは究極的に一番むずかしいんです。社会制度を改革するとか、政治制度を改革するっていうことは、それに比べれば、はるかにやさしいことだって、ぼくは考えます。
 だから、身体とは何か、身体の障害とは何かとか、身体の欠損とは何か、あるいは、精神の障害とは何か、精神異常とは何かとか、それはどうすればいいのか、どうすればいいのかっていう問題っていうのは、たぶん、もっとも最後まで人間の歴史が解決を残すだろうっていうふうに、ぼくはそういう問題だっていうふうに理解しております。
 だから、いかに肉体としての人間っていうのは、いまから何十万年後になっても、そんなにぼくは、どこが退化して、どこが進化するっていうふうに、そう簡単に変わるとは思えないんですけど、しかし、身体とは何か、〈身体のイメージ〉とは何かっていうものは、時代によって刻々変わっていくこと、つまり、この刻々変わっていく、時代によって変わっていく〈身体のイメージ〉っていうもの、それと裏腹ですけど、身体の欠損のイメージ、それからイメージというかぎり、それは、〈精神のイメージ〉なんですけど、あるいは、精神の欠損なんですけど、その問題っていうものは、各時代、時代よって様々に変わっていくっていうことが非常に重要だ、それが肉体について、その時代の人が考えている考え方と、必ずしも一致しないってこと、矛盾するっていうこと、そのことが、こういう問題に対する様々な問題を非常にむずかしくしている根本的な問題だっていうふうに思います。つまり、そのことを、ぼくはわかることが大切だって思います。そのことがわかることが一次的であれ、一時しのぎであれ、解放であるっていうふうに、ぼくは考えます。

5 〈身体の像〉と〈精神の像〉

 この問題に対して、ぼくは自分の仕事上の導きから、ある時、ある時代に、身体障害者っていうものの手記とか、それから、身体障害者の記録とか、それから、身体障害者の体験とか、そういうものを調べて読んだことがあります。これは甚だ客観的な、つまり、野次馬的関心で読んだんですけど、しかし、読んでみてわかることがあります。
 そうすると、わかることは何かっていいますと、さまざまな人がどういうふうにあれしているかというと、身体障害者、あるいは精神障害者、ご当人にとって、いちばん多く難問とされているもの、つまり、多く引っかかっている問題は、結婚っていうことと、就職っていうことなんです。それが自身にとって、いちばん引っかかっている問題だっていうことが、それらの記録を見ますと出てきます。
 それから、それに対する解決っていうのはどういうふうにつけていくかっていいますと、肉体的身体の障害に対しては、いわば義手とか、義足とかをつけ、それから、いわば、リハビリテーションの訓練をやって、できる限りそういう障害がない人間と同じ肉体的な機能を、できるだけそれに近づけようっていうようなやり方がひとつの解決の方向になっていることがわかります。
 それから、もうひとつの解決の方向があります。これは、解決の方向は、その人に宗教を要求することです。つまり、その身体障害者自体に宗教を要求していることです。宗教を要求していることっていうことは、その人に、様々な悩み、それから、さまざまな被害観、それから、さまざまな心の歪、ご本人が持っているそういうものを、宗教的な超越的なことを与えることに信仰することによって、そこから解放されよ、あるいは、解放せよっていうふうな方向が、ひとつの方向だっていうことが、解決の方向とされていることがわかります。
 それから、もうひとつ、それに伴いますけど、そういうエラい人がいます、つまり、手もない、足もないという人がいます。そういう人の手記を見ますと、そういう人が普通の人の何十倍も努力を重ねて、手も足も、両足も両手もないのに裁縫をやるとか、洋裁をやるとか、縫い物をやるとか、ミシンをかけることに関しては普通の人に劣らないとか、普通の人以上に、それをやることができるまでに自分を鍛え上げてしまったっていうような、そういう人の記録っていうものがあります。
 それから、じぶんは非常に宗教を信仰していくうちに、あらゆる恨みつらみっていうものの、じぶんに対する劣等感もぜんぶ克服して、それで、いわば悟りしました境地になりましたっていうような、そういう手記もあります。
 解決の方向がどこを志向されているかっていうことは、ぜんぶ自明のように決まっています。つまり、型で押したように決まっています。何にひっかかるかってことも型で押したように決まっています。ぼくは、その型で押したように決まっている、そのことについて、なにも触れることができません。つまり、なにも触れるだけの切実さを持つことができません。しかし、明日、ぼくはそういう破目に陥るかもしれない、そのことは、いつでもわからないことなんですけど、そういう切実さに触れることはできません。だから、それがいいのか悪いのか、間違いであるかどうかっていうことをいうことはできません。
 しかし、そういう解決法にまつわる一種の重苦しさとか、倫理主義とか、倫理性とか、息苦しさとかっていうものが、必ずあるのです。悟りしたっていう人のそれを読んでも、やっぱりあるんです、息苦しさっていうものがあるんです。この息苦しさっていうことは、一種のモラリズムがあり、それから、一種の宗教があるんです。これは、ぜんぶ息苦しいことと関連するんです。
 このことは、ぼくは何かだと思うの、何かだと思っているわけです、これはなんだっていうことを言うほど、ぼくは切実ではありません。ですから、言うことはできません。明日、ぼくが切実になったら、ぼくはそれを言うことができるかもしれません。しかし、言うことはできません。
 ですけれど、ぼくが今日言いましたように、人間の身体とは何かっていうことは、考えられているほど、やさしいことじゃないんだっていうこと、つまり、それを考えやすいように考えるには、どうしたら、どういうふうに考えていったらいいのかっていうこと、そのひとつとして、いわば身体図式っていうこと、それから、身体年表っていう言い方をしましたけど、身体についてのイメージっていうものは、その時代、時代によって変わってくるんだっていうこと、それから、その時代、時代によってそれぞれ発展するんだっていうこと、それぞれ、その時代、時代によって、その人の肉体っていうものに対する考え方っていうものと、食い違ったり、二重になったりするもんだっていうことがあるのです。
 つまり、こういう考え方をすることによって、ぼくは、たとえば、息苦しさっていう問題を、もう少し突き詰めていくことができるっていう、そういうきっかけになったら、ぼくはもうそれでいいっていうような感じがするんです。
 これがいわば身体っていうものと、それから、身体にまつわるイメージっていうものを人類が、あるいは人間が、どのように歴史的にとってき、そして、どのように現在とっているかっていうことの根本にある問題です。だから、大昔の人は、たとえば、じぶんの肉体が完全に、いまの人と同じである、少しも変わっていないのに、それを眼で見れば、すぐに見えるのに、また、いつでも見ているにもかかわらす、じぶんの祖先をワニだと思ったり、ヘビだと思ったり、龍だと思ったり、あるいは、もっとなんか虫だと思ったりすることができた理由は、その身体についてのイメージっていうものが、時代によって、たいへん違っていたからなんです。
 そのことは精神の障害っていうことと関わりがあります。精神の障害っていうのにも、時代、時代に(精神の図式)っていうものがあります。〈精神のイメージ〉っていうものがあります。つまり、漠然と、現在なら現在で、みなさんならみなさんで、人間の精神はこういうふうな〈精神のイメージ〉であるときに、その人間は、健全で健康で他人から好かれ、なんかっていうようなイメージが、みなさんの中に漠然とあるはずだと思います。
 つまり、漠然とその時代、時代において、人間は自分の〈精神のイメージ〉っていうものを持っているわけなんです。そのイメージは、理想的に持っているイメージっていうのは、各人によって、みなさんが一人一人違うでしょうけど、しかし、ある時代には必ず、ある共通の基盤を持った、精神についてのイメージを持っていることはわかります。
 そのイメージに照らして、たとえば、じぶんの精神はそのイメージに照らすと、少しここが歪んでいるとか、ここがひねくれているとか、そういうふうに自分は思っているわけです。あるいは、こういうふうに女の子に好かれないのは、おれはここのところが精神的にこうだからじゃないかなんて自分で思ったりするわけです。それは、そういうふうに思うときに人間は、必ず理想としている精神のイメージっていうものを思い浮かべているっていうことがわかります。あるいは、無意識のうちに、それを前提としていることがわかります。
 これは、各人各様といっていいくらい違うのですけど、しかし、その違うイメージのなかでも、それらを貫通して、共通のイメージっていうのが、その時代、時代にあるっていうことが、だいたいにおいてわかります。時代、時代のイメージの水準っていうものがあることがわかります。
 その水準は、いわば、歴史の各時代において、ぜんぶ違うわけですし、現在、みなさんに通用している〈精神のイメージ〉、つまり、これが健全であると思われている〈精神のイメージ〉っていうものと、それから、またこれから十年経った後に抱かれるイメージとは、それはまたすこし違っているというふうに、必ずなるだろうっていうふうに思われます。そのように、イメージの相違っていうものがあるわけです。

6 障害の根底にある〈了解〉と〈関係〉の仕方の他者との食い違い

 そうすると、もうすこし、これをいわば考えやすいきっかけとして、もうすこし、そこのところを突っ込んでお話してみますと、たとえば、身体とは何かとか、〈身体のイメージ〉とは何かというふうに、人間が(身体のイメージ)をつくる場合、じぶんの身体でも、他人の身体でもいいんですけど、身体についてのイメージをつくる場合に、その根本になっているのは、なにかっていいますと、それは2つあります。大きく分けてしまえば2つあります。
 ひとつは、自分が自分の身体をどういうふうに了解しているかっていうことなんです。あるいは、人間が他人の身体をどのように了解しているかっていうことなわけです。この了解の仕方っていうことが、ひとつあります。
 これは一般的にいいますと、ある物事を理解するっていうことと同じことなわけですけど、これは特にじぶんの身体っていう場合に、じぶんの身体を、あるいは他人の身体を、あるいは人間の身体を、じぶんはどのように理解しているか、その理解の仕方が、ほかの様々な事物に対する理解とただひとつ違うことは、理解している本人の身体を使って、本人がじぶんの身体を理解しているっていうことが、ほかのすべてのことと違うわけです。
 たとえば、身体とは何かとか、じぶんの身体とは何かという問いを発したときに、その問いを発している自分自体が、自分の身体と自分のいわば精神機能と、それを使って問いを発しているってことなんです。つまり、自分を使って、自分に対して問いを発しているっていうことが、すべての事物の理解の仕方と、身体についての理解の仕方が違うところなわけです。
 だから、それが自分の身体を、自分がどのように理解するかっていう理解の仕方っていうものが、人間のあらゆる理解の仕方の、いわば基準になっていることがわかります。つまり、これは個々のみなさんがそれを基準にしているっていうことじゃないんです。していようがいまいが、あるいは、無意識であろうが、そうでなかろうが、それが人間の理解っていうものの、あるいは、ある時代のある歴史的な時代における物事の理解の仕方っていうものの根本は、じぶんの身体を、じぶんがどのように理解するかっていうような、その問題のなかに、いわば基本的な基準があるっていうことがわかります。
 それから、もうひとつあります。これは、自分の身体と、自分がどのように関係をもつかっていうこと、あるいは、自分の身体を、自分がどのように関係づけるかっていうことなんです。つまり、自分の身体と自分がどのように折り合いをつけているか、どのように折り合いをつけているかっていう、折り合いのつけ方っていうものが、もうひとつ、根本的な問題です。
 これは、ひとりの人間が他の人間と折り合いをつける、関係する関係の仕方っていうもののなかに、たとえば、様々な障害があらわれたときに、お医者さんは、それは精神障害だって言いますし、あるいは、精神病だっていうふうに言います。しかし、それは自分と他者との関係の仕方のなかに障害があるわけです。
 その障害の根底に、根本になっているのは何かっていうと、じぶんの身体に対して、じぶんがどのように折り合いをつけているかっていうことが、いわばその問題の根本になっているわけです。
 だから、たとえば、自分がたいへん好男子であり、それから、自分がたいへん人に好かれている人間であるにもかかわらず、じぶんが他人から嫌われている、おれは醜男でしょうがないんだって思い悩んで、そして、それがあまりにも食い違っているとすれば、それはお医者さんに行かれれば、すぐにそれは病気にしてくれます。それは、あなたは神経症だ、つまり、〈関係妄想〉だ、(関係障害)だっていうふうに、病名をつけてくれます。
 しかし、それは根本的にみますと、自分の身体と自分がどのように折り合いをつけているか、あるいは、じぶんの身体を、じぶんがどのように理解しているか、あるいは、じぶんというものを、じぶんがどのように理解しているかっていうことに、根本的な問題があるっていうことがわかります。
 ですから、これは大なり小なり、現実に生きている人間っていうのは、大なり小なり、みんな、その折り合いがついていないのです。つまり、自分が考えている自分の身体、それから、自分が考えている自分の精神の図式っていうものと、実際的な、たとえば、他者から見たじぶんの身体っていうもの、あるいは、じぶんの精神図式っていうものとは食い違っているのです。
 これが、いわば現実に生きている人間の様々な悩みっていうものの根底にあるものは、そういう問題です。そして、誰でも、大なり小なり、じぶんの、じぶんの身体に対する感じ方と、それから、他人がじぶんの身体に対した感じ方とは、大なり小なり、誰でも食い違っています。食い違っていても、ある境界にとどまっているときには、いわば、これは正常だっていうふうに思われていたり、あるいは、これは、じぶんの精神の内部で処理しまして、外には、あまりボロを出さないで済んでいるわけです。
 それが、我々であり、ぼくであり、それから、みなさんでありっていうのは、みんなそうであるわけです。つまり、ボロを出さないでいるだけであって、ほんとうは、いわば、そういう食い違いっていうものに、絶えず思い悩んでいるっていうことがわかります。
 この問題は、そういうふうに、いわば他者との関係付け、他人との関係付け、それから、関係の仕方っていうもの、折り合いのつけ方っていうもの、それから、他人をどう了解するかっていうのは、了解の仕方っていうことの食い違いっていうもの、その問題っていうものが、いわば、根底的な身体の障害とか、精神の障害とかっていうものにある、根本的な問題だっていうことがわかります。

7 〈社会の障害〉とは何か-〈現実の社会〉と〈社会の像〉

 そうすると、この問題の中には、いわば身体の問題でありながら、今度は身体の問題でないところに領域を、つまり、範囲を必然的に広げてしまうという問題があります。なぜならば、それは自分自身に対する、あるいは、自分自身の身体に対する考え方の折り合いの仕方っていうものが、必然的に、他の人間に対する関係の仕方のいわば基準になりますから、他の人間との関係の仕方っていうものは、それ自体が社会っていうもの、社会っていうものを提起するわけです。社会っていうものを必然的に提起してしまいます。
 そうすると、やっぱり〈社会の障害〉という概念があります。概念がここに登場してくる理由があります。つまり、社会とは何かっていう問題と、それから、〈社会の障害〉とは何かっていう問題は必然的に提起してしまうわけです。
 ですから、そうすると、これを理解するためにも、やっぱり、いまとまったく同じように、いわば簡略化していいますと、社会とは何かとか、〈社会の障害〉とは何かってことを理解するのに、やっぱり、いちばんいい理解の仕方は、いわば眼に見える〈現実の社会〉っていうものと、それから、(社会のイメージ)っていうものと、その2つのことを基準にして考えることが、社会っていうものをつかむ場合と、〈社会の障害〉ってものをつかむ場合の根本になるっていうことがわかります。
 この場合の〈身体のイメージ〉に相当する〈社会のイメージ〉っていうのは何かっていいますと、それは政治の制度であり、さまざまな文化の制度であり、それから、さまざまな芸術とか、芸能とか、そういうもの、つまり、人間の精神が生みだした様々な問題がありますけど、これは、いわば社会っていうもののイメージだ、あるいは、社会の図式だっていうふうに、社会図式だって考えられるとよろしいと思います。
 つまり、社会っていうものを考える場合に2つあって、いわば、(現実の社会)っていうものと、それから〈現実の社会のイメージ〉っていうもの、あるいは、〈現実の社会の図式〉っていうもの、これを政治制度とか、政治機関とか、さまざまな法律制度とか、そういう呼び方をしていますけど、それは根本的にいえば、(社会のイメージ)っていうものだっていうふうに考えられたらよろしいと思います。
 この〈社会のイメージ〉っていうものと、社会自体との間の両方に欠陥があるとき、あるいは、障害があるとき、これが〈社会の障害〉なわけです。この障害っていうものは、やはり、ひとつの二重性としてみなければならないってことは、身体障害っていう場合と、まったく同じなわけです。
 だから、(社会の障害)っていう場合も、それは制度の、政治制度の障害っていう問題と、それから、いわば市民社会にある様々な成りゆきの障害っていうものと、欠陥っていうものと、その2つを二重に考えなければいけないって考えれば、考えやすいっていうことがわかります。
 その〈社会のイメージ〉、あるいは〈社会の制度〉っていうものは、やはり、歴史の各時代によって違ってきているわけです。その違いを障害ないし、または欠陥っていうふうにいう場合には、私たちは、必然的に、あるいは、当然のように、いわば理想の〈社会のイメージ〉とか、理想の〈社会図式のイメージ〉とか、(政治制度のイメージ)とかっていうものを、必ず無意識のうちに思い浮かべているわけです。その無意識の理想のイメージに従って、いわば、現在の〈社会の障害〉、〈社会の欠陥・障害〉、〈政治の欠陥〉、〈制度の欠陥〉っていうようなものを、いわば無意識のうちに提起しているわけです。
 そうすると、社会についてのイメージ、あるいは、理想のイメージっていうのは、もちろん、各人各様によって違います。つまり、みなさんの一人一人それは違います。しかし、一人一人違うにもかかわらず、その〈社会のイメージ〉の中には、ある共通の、現代にそれがあるという同じ共通の基盤というのも、それは考えることができます。あるいは、共通の水準っていうのは、考えることができるわけです。だから、このところに提起されていきます。
 そこで、問題はこうなります。つまり、問題は身体の障害とか、身体の欠損とか、身体図式の欠損とか、あるいは、精神の障害とかっていうものの意味あいが、社会の障害、あるいは、社会の欠陥、欠損というものと、いわば、結び付いて考えられていくっていう必然性っていうものを考えてみますと、いま言いましたように、障害っていう概念も、それから、図式っていう概念も、それから、社会っていう概念も、それから、身体っていう概念も、いずれもイメージと、つまり、観念の図式と、それから、いわば具体的な社会、あるいは政治的な肉体とか、そういうものとの二重性において考えられていて、いわば、その欠損、欠陥っていうものを考える場合に、必然的に理想のイメージっていうものを、各人各様にいわば思い浮かべていくからです。
 つまり、イメージとして、現代的に持っているってことが、そのような身体障害っていう問題が、たやすく容易に、いわば社会的な問題の領域にまたがっていくっていうような、必然的な根拠っていうものが、そこにあるっていうふうに、そういうところにあるっていうことがわかります。
 しかし、問題は、いま言いましたように、ぼくがここで切実にみなさんにいえることは、それ以外には言えないのですけど、言えることは、いわば、身体とは何かっていうことは、みなさんが考えているほど、あるいは、一般に考えられているほど、簡単ではないんだっていうこと、簡単ではないから、このことは、いわば考えるに値するんだっていうことだと思います。
 つまり、このことは、考えることによって、いわば、あるひとつの究極的な解決ではありませんけど、あるひとつの解決の糸口っていうものを捉まえることができるのではないかっていうことがあります。この問題がいわば、この問題自体として取り上げられることは、ぼくは非常に重要なことだって考えますし、また、これが、ぼくがこの問題について唯一言えるようなことなんじゃないかって思われます。

8 人間が最後に解決しなければならない問題の糸口

 それでは、どのように社会の欠陥、あるいは欠損、あるいは障害っていうこと、それから(社会のイメージ)、政治制度っていうものの欠陥、欠損っていうものと、それから、身体、あるいは身体の障害、身体図式の障害、あるいは、精神図式の障害っていうものと、それとの問題っていうものが、いわば、同一の地点にまたがってしまうっていう、現代の必然的なあり方っていうもの、その問題からどこに向かって、解決の道をつけていったらいいのかっていう問題は、大変むずかしい問題だというふうに考えます。たいへん困難な問題だと思います。
 いってみれば、ただひとつ、楽観的ではないのですけど、ただひとつ、楽観的材料みたいなものが考えられるとすれば、これは現在のところ、まだ、ほど遠いことでありますけど、精神の障害とか、身体の障害とか、あるいは、身体図式の障害とか、精神図式の障害とかっていうもの、それから、社会の障害とか、社会制度の障害とか、そういうものの、いわば価値観です。
 身体図式の障害、あるいは、精神図式の障害のように、時代によって違う価値観のつけ方ですけど、価値観のつけ方っていうものが、いわば、時代が下るにつれて、言ってみれば極度に崇高な、たとえば、精神障害が神様にいちばん近いんだと思われていた未開時代から、現在は、精神障害でも、精神障害でないのも、それは、べつに変わらないんだ、つまり、どこに境界を設けていいか、ほんとうはわからないんだ、つまり、これを生活の必要上でこの境界をつけたらおかしいんだっていう考え方が、徐々に出てきていますけど、そのように、いわば身体図式の障害とか、欠損とかっていうような問題を、神のように崇めた古代と、それから、これを極度に貶めてきた近代っていうものを考えてみますと、現在は、徐々にこれを崇めもしなければ、また貶めもしないっていうような、つまり、価値観の付与が、価値観を与えることが、極端でなくなりつつあるっていうこと、これはいわば解決についてのひとつの、ぼくは糸口を与えるだろうって思われます。
 つまり、古代においては、精神図式の障害っていうのは、先ほども申しましたように、非常に神に近いことと考えられました。つまり、神に近いことであるから、これに従って政治も行われるし、さまざまな行事もおこなわれる、それから、さまざまな行為を規定する、人間の行為を規定するのは、いわば、そういう精神障害の人たちの言うことだったっていうようなふうに、精神障害がたいへん神に近いものとして崇められました。
 それが近代資本主義社会に至って、精神障害っていうのは、いわば、一人前に働けないんだからっていうことで、いわば、人間以下のように貶められてきました、つまり、この古代の神のように崇められた時代から、あるいは、未開原始時代の神のように、精神障害、あるいは身体障害が崇められた時代から、これが、人間以下のように蔑まれた近代に至るまで、その目も眩むような価値観の変遷っていうものが、障害に対して与えられてきたわけですけど。
 いわば、これに対して、現代は徐々にではありますけど、身体障害というものは、そんなに神のようなものでもないかわりに、人間以下のものでもないんだっていうような、それは人間なんだっていう概念が、いわば、少しずつ、少しずつ、いわば既得権といいましょうか、既得権を獲得し、それで、少しずつ、そういう概念が闘いとられてきつつあるっていうこと、そのことがたぶん、大きな解決の、あるいは、ぼくの考えでは、唯一の解決の糸口なんじゃないかなって思われます。つまり、解決の基礎になる問題じゃないのかなっていうふうに考えます。
 この問題もきっと、様々な観点から様々な言いようがあると思いますけど、ぼくはそのように考える以外にないと思います。なぜならば、先ほど一等最初に申しましたとおり、身体の障害とは何かとか、身体とは何かっていうもの、これの欠損とは何かとか、精神の図式とは何か、これの欠損とは何なのかっていう問題は、たぶん、あらゆる改革とか、あらゆる革命とかっていうものの後に、なお解決せずに残される、いわば最後に人間が解決しなければならない問題のように、ぼくには思われるからです。
 つまり、その問題は、現在、同時にその問題が出されてきているものでありますから、この問題の解決っていうのは大変むずかしいと思いますけども、しかし、この問題を考えるのにどういう糸口をとればいいかっていうことについては、それはひとつの考え方がとれるだろうというふうに、ぼくは思います。
 この程度のことが、ぼくなんかが考えうる、語りうる、最も切実な、最も、ぼくの位置からごまかしのない切実なところでいいますと、これくらいのことしか言えないのです。このお話しましたことは、即効性はないでしょうけど、この問題は長い間にみなさんのどこかにひっかかっていて、それでお役に立てれば幸いだと思います。(会場拍手)


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