あまりほめられてしまって、やりにくくて仕方がないという感じです。(笑)今日の主催者の日本文学研究会は戦後文学をずっとやってきたということですが、僕自身、戦後文学についてかれこれ十年以上触れたことがない感じがしています。いま僕が持っている観点、見方から見てみたらどういうことになるかをお話ししてみようと思います。
いままで僕が戦後文学について触れたものからどれだけ進んでいるのか、どれだけ退いているのかはよくわからないのですが、とにかく現在持っている自分の見方や持ちものというところから、「戦後文学の発生」としてありますが、発生ということについてお話ししてみたいと思います。
「発生」という言葉と「起源」という言葉は同じようなことを指す言葉としてありますが、起源という場合にはいわゆるルーツということです。戦後文学の根っこを探していったら何に突き当たるかと考えていく場合に、たぶん起源という言葉を使うのではないかと思います。発生という言葉は、ほんの少し違う気がします。ルーツということではなくて、発生という概念には二つくらいの局面があって、一つは何もないところからわいてきたと言いましょうか。つまり、ルーツがあって出てきたということは必ずしもよくわからないけれども、とにかくわくように新しい要素が出てきたような場合に、発生という概念が使えるのではないかと思います。
もう一つ、発生は非常に不安定な状態です。つまり、発生してそれがいつ消えてしまうかもわからない不安定な状態ですが、同時に何とでも結びつくことができる。どんなものとも結びつく活力というか活性力を持っている。しかし、それ自身はあまり安定していないから、何かと強力に結びついて持続するかもしれないけれども、結びつくものがなければそのまま消えてしまうかもしれない。そういう概念に対して、発生という言葉が使えるのではないかと思います。
ここで発生という言葉をその二つの側面から使ってみたいわけで、決してルーツということではない。ルーツに触れるということではなくて、発生、一種の不安定さと何かと結びつく発生を持っている状態の戦後文学の中に何があったのか。そして、発生が何かに結びついていまも持続している要素は何か。そのときにはあったけれども、もはやいまは跡形もなく消えてしまった要素はいったい何か、といったことを浮かび上がらせることができたらいいのではないかと思います。
たくさんの戦後文学の発生点については、昭和二十年、一九四五年を敗戦の年とすると、その年の八月以降から翌年にかけて作品が新しく生み出されつつありました。そのほんの数年の間の日本文学に出てきた作品を見てみると、敗戦を迎えて、戦争が終わって、さまざまな要素が同時に出てきたと思います。その要素を発生ということで取り上げることができるとすれば、大きく分けて二つあると思います。
二つのことをいくつかの作品で象徴させることができると思いますが、たとえば一つは何か。僕が頭の中で考えてきた作品で言えば、たとえば太宰治の『お伽草子』という作品は戦争が終わった年の十月ごろに出ています。『お伽草子』という作品と、その年かあるいは翌年かと思いますが、谷崎潤一郎の『細雪』という作品が出ています。もう一つ、同じようなところでまとめられる作品として、舟橋聖一の『悉皆屋康吉』という作品が出ています。『お伽草子』と谷崎の『細雪』は皆さんご承知だろうと思いますが、舟橋聖一の『悉皆屋康吉』という作品はたぶん舟橋聖一の最もすぐれた作品だと思いますが、あまりよく読まれていないのではないかと思います。この三つの作品を戦争が終わった数年間に置いてみると、ある一つの日本文学の流れ、しかもその戦後においての有り様が非常によく浮かび上がってくると思います。
太宰治の『お伽草子』はどういう作品か、皆さんご承知の方が多いと思います。これは昔ながらの日本のおとぎ話で、こぶとりじいさん、舌切雀、カチカチ山とかの『御伽草子』に独特な性格付与というか、近代的な性格を与えた作品だと思います。
たとえば『御伽草子』のこぶとりじいさんならこぶとりじいさんという作品を取ると、太宰治の自分なりの解釈、掘り下げ方によるとこぶとりじいさんはお酒飲みで、どちらかというと陽気ではしゃぐことが好きなおじいさんだった。お酒飲みで、太宰治の解釈だと酒飲みというのはたいてい家庭の中では孤独だ。このおじいさんも家庭の中では孤独だった、という設定の仕方をしています。
これに対しておばあさんは非常にまじめなおばあさんで、おじいさんが何か軽口でも言おうとするとすぐに冷たい顔をする。そういうおばあさんとして設定されています。息子は働きもので、まじめで、親孝行で、近所の人から阿波聖人と呼ばれていたきまじめな息子さんです。こぶとりじいさんはまじめな奥さんとまじめな息子さんに囲まれて、自分はややぐうたらな性格で家庭内では非常に孤独だったという設定の仕方をしています。そういう設定の仕方で、おじいさんの唯一の慰めは何かというと、自分のこぶを非常に大事にして撫でている。それが唯一の、おじいさんの孤独を癒す慰めであったという性格設定をしています。
「カチカチ山」では、カチカチ山の狸は下卑てだらしのない三十男みたいなもので、兎さんは十六歳くらいの残忍性を持った処女である。太宰治の解釈によれば、男というものは大なり小なりだれでもカチカチ山の狸みたいな要素を持っている。女の人はだれでも、カチカチ山の兎みたいな少し残忍なところを持っているのだというのが太宰治の解釈です。狸は兎にさんざんいじめられて、最後には泥船で沈められてしまう。狸はなぜ兎さんの意地悪に引っかかっていくかというと、兎さんに惚れていたからだ。太宰治の「カチカチ山」に対するオチは何かというと、ひと言で言えば「惚れたが悪いか」ということをこの作品は言いたいのだ、という理解の仕方をしています。
「舌切雀」の場合は、舌切雀のおじいさんは非常に病弱です。毎日、机のそばでうつらうつら寝ているおじいさんで、本を読んでいるかと思うと寝ている。体が弱いので、おばあさんから非常に虐待されている。ぐうたらなものでいつでもひっそりとして、部屋にこもって寝ているより仕方がない。そこへ雀さんがやってきた。
雀さんと仲良く話をするのがおじいさんの孤独な作業の一つで、それでおじいさんは何となく慰めを感じていた。おばあさんがあるときそれを見つけて、「あなたはだれかとばかにはしゃいでしゃべっていたじゃないか」と言う。「いや、そんなことはない。雀さんだ」というと、おばあさんが雀さんの舌を取ってしまう。
太宰治は、体が弱くていつでもひっそりとぐうたらしている人間も、一生に一度くらい非常に情熱を燃やすことがありうるという解釈をしています。仙台のほうだそうですが、「舌切雀」のおじいさんは、「お宿はどこだ」と竹やぶに入って行ったときの情熱が、おじいさんが積極的な情熱で自らほかのことは全部かまわないいで行動した唯一の行動だったのだという理解の仕方をしています。
おじいさんが訪ねて行って竹やぶの中で気を失っていると、いつのまにか雀たちのすみかにいた。舌を抜かれた雀さんのところに案内してくれる別の雀さんがいて、おじいさんが行くと舌を抜かれた雀さんは赤い顔をして寝ていた。はたの人はみんなやきもきするけれども、おじいさんは別段どうした、恋しかったと言うでなしに、ただ黙ってそばにいた。日暮れになって帰るとき、そのまま帰っていった。太宰治は、そういう設定の置き方をしています。
太宰治の『お伽草子』の設定の仕方の本来的な意味は、一口に言うと民話、あるいは民間の世界に新しい、近代的な真理と性格を導入した意味があると思います。民話の世界はいつまでも滅びない世界であって、村落共同体の中での人間の住み方、暮らし方の大昔からの変わらなさが民話の世界を支えています。
ここでは語り継がれることが物語の本質です。時代が変わって人は変わってしまいますが、くり返し、くり返し語り継がれて作品、物語としては死ぬことがない世界が民話の世界だとすると、太宰治がこの世界の中に近代というものの性格を投げ入れて見せたのが、言ってみれば『お伽草子』の世界の要約される本質だと考えます。
これに対して、谷崎潤一郎の『細雪』という作品もよく知られている作品だからご存じと思います。大阪の船場あたりの、かって金持ちだった商家に四人の娘さんがいて、その四人の娘さんの日常のたたずまいを非常にさりげなく描いています。
谷崎は『源氏物語』の現代語訳をした余韻が醒めやらぬところで、『源氏物語』の影響を本質的なところで非常に色濃く受けている作品だと言えます。『源氏物語』から影響を受けたことが『細雪』にどう現れているかというと、もちろん時代も場所も人物の設定も違いますが、物語の進行のテンポです。
一つは季節です。春、秋、夏、冬、季節の移り変わりと同じようなテンポで展開されていくやり方を、非常にうまく、よく取っています。このテンポの取り方は、基本的に言うと近代小説、現代小説のテンポの取り方、構成の仕方ではない。登場人物たちが夏に何を着て、秋になったら何に着替えよう、あるいは秋になったら紅葉を見にどこへ行こうという。登場人物たちの日常生活の振る舞い方自体が、もはや季節と不可分なかたちで展開されていきます。
そういう展開のされ方が、登場人物たちの心の明暗や浮き沈みと同じテンポでなされていきます。物語性としては非常にゆるやかで、ほとんど起伏がないように見えることと、季節の移り変わりが非常にゆるやかに起こり、作品、物語として同じテンポでなされていることは、かなり意識的に取られた方法だと言えます。このやり方は、谷崎が『源氏物語』を口語訳、現代語訳した過程で受けた強い影響が被さっていると理解することができます。
もう一つ言えることは、登場人物たちに性格劇、心理劇といったものはありません。つまり、登場人物たちが心の葛藤をすることがほとんどない。近代的な性格なら心の葛藤が物語の重要な要素になるに違いないというところでも、登場人物たちは近代的な意味での葛藤をほとんどしません。ほとんど家というもの、しきたりのままに流れていく。多少のそれに対する抵抗みたいなものはありますが、しきたりに対して忠実に従いながら流れて行きます。そういう意味で、登場人物たちは非常に調和的な性格を持っていると言えます。
たとえば、登場人物の二人目の姉が流産してしまうところがあります。流産したときに女主人公が感じる感じ方は、流産してしまって自分ががっかりした、流産させてしまって子どもに対してすまないという感じ方をするのではなく、子どもが生まれることを非常に待ち望んでいた亭主に対してすまないという感じ方をする。非常に古典的というか、調和的な性格の人物として描かれます。これは四人姉妹の全部に対して、ほとんどそういう性格が与えられています。
物語の起伏としては、一番上の結婚した娘の一家が東京に転勤してうちを構えなければならない。そうすると、長女夫婦が家を移した場合、まだ独身である末の二人の姉妹はそれに従って自分も移らなければいけないというしきたりが完全に守られています。そのしきたりの中で、心の起伏が起こってしまいます。
長女夫婦が転勤のために東京へ家を移してしまうため四人の姉妹はそれぞれの運命を変える、生活の仕方を変えて行ってしまうということしか物語としては展開されていません。それが非常になだらかなゆっくりしたテンポで、日本の古典物語的な展開のされ方をしていることがわかります。
『お伽草子』の世界と多少、場所は違いますが、このような物語の展開のされ方の背後にはどういうことがなければいけないか。つまり、太古からあまり代わり映えのしない村落というもののあり方が背後にないと、『細雪』のような作品は生まれてこないわけです。
平安末期から中世の物語が成立する基盤は、もちろん宮廷自体にあります。しかし、『源氏物語』に象徴される宮廷の物語が成立するためには、季節の移り変わりと生活の移り変わりが同じテンポだということを支えているものは何かというと、日本の村落、農村の共同体のあり方が太古からあまり代わり映えがしないし、そこでの感性も代わり映えしない。直接的ではないけれども、間接的にそういう感性が背後になければ、そういう物語の展開の仕方は成立しないと言えます。その意味では、『お伽草子』の世界と少しも違わない。つまり、それを成り立たせている基盤が違わないのだと言えると思います。
舟橋聖一の『悉皆屋康吉』という作品は、古くからの染物屋さんに丁稚奉公している康吉という丁稚が染め物の修業をしています。そのうちに主人の家が染物屋として没落していき、没落していく主人にあくまでも付き従って、そこで主人と娘さんの生活の世話を一切背負いながら、自分も悉皆屋として修業して一人前の悉皆屋さんになっていくという話です。
その話にも併せて言えることは、このような作品は日本の村落、農村の中の人々の生活のあり方は、たとえば大きな戦乱が頭の上を通り過ぎていっても、通り過ぎていく戦乱に直接動かされる要素は非常に少ない。昔ながらのしきたりと昔ながらの感じ方と昔ながらの助け合いの感じ、あるいは昔ながらのテンポで、どんな大戦争が頭上を通り過ぎていってもそれほどの影響を受けない。
昔ながらのテンポを持って働き、日常を暮らし、その暮らし自体は季節の移り変わりに非常に大きな依存度を持っている。つまり、季節の移り変わりと同じようなテンポで移り変わっていく。その生活を何千年来続けてきた日本の農村のもののあり方が、これらの作品を共通に支えています。
「日本にしかない」ということは本当はありません。東洋、アジア的社会はみんな大なり小なりそうです。つまり、大戦乱が起こっても、大きな政治権力の交替があっても、いつも頭の上のほうを通って行ってしまって村落、農村自体の生活の仕方はそんなに変わらない。そういう生活の仕方を基盤にして、こういう作品があると言えると思います。
太宰治の場合も、谷崎潤一郎の場合も、舟橋聖一の『悉皆屋康吉』の場合も、特に戦争末期の非常に戦争の激しい時期に大部分が書かれています。戦争が終わったとき、ぽっと、そういうかたちで投げ出されています。この作品は、一見すると戦争と何の関係もないように見えます。もっと言うと、一見すると農村のあり方や村落のあり方とは何の関係もないように見えます。しかし、本質的な意味では、関係がないということで非常に大きな関係と特徴を持っていると言えます。つまり、日本の村落のあり方の感じ方は、戦争が終わった、戦争が激しくなったということとかかわりなく続いて行く要素があります。そういう要素がまさにこういう作品の物語性の中に非常に多く込められているという意味では、戦後そのものの一つの象徴と言えると思います。
十何年か前、サルトルが日本に来たときに、サルトルと加藤周一がテレビで対談していました。そのときに加藤周一が「日本の文学作品の中でどの作品に感心したか」と言ったら、サルトルが「自分は谷崎の『細雪』に非常に感動した」と言っています。
「どうしてか。どこに感動したんだ」と加藤周一が聞くと、サルトルは「この作品は日本の家というものの中での人間の生活のあり方、言ってみれば日本人の生活のあり方が微妙に、非常によくわかる。見事に描き切っている作品だ」と答えています。それに対して加藤周一が「いや、そんなことはない。これは日本でも限られた特権的な、ブルジョワ的な階級の女性の割合に贅沢な暮らしを書いている作品だ。これは日本社会の生活のあり方をよく描いている作品とは言えない。むしろこれは非常に特殊な、非常にブルジョワ的な作品だ」と言っています。けれどもサルトルは、「そうは思わない」とそのとき答えています。
僕はまだ若いときでしたが、それを見ていて「加藤周一はだめな人だけれどもサルトルは優秀な人だ」と思いました。(笑)なぜかというと、加藤周一が言っているのは素材、ないしは主題がお金持ちの……
【テープ反転】
……主題ないしは素材としてそれを扱っていることで、作品自体が非常に保守的だという意味合いに受け取っています。
しかし、サルトルはそういうふうに受け取っているわけではない。サルトルは最も西洋的な西洋人ですから、『細雪』の中にある物語性とテンポがアジア的な社会における生活のあり方を非常によく象徴していると理解して言っているわけです。けれども加藤周一はそう理解しているとは思わないで、サルトルは日本のことをあまり知らない。加藤周一は「これが日本のすべて、あるいは日本社会の生活の典型だと思っているな」と思って、盛んにサルトルを啓蒙しようとそういうふうに言っています。
僕は聞いていてそうは思わなかった。サルトルは本質的に文学がわかっている人だなと理解しました。その理解の仕方は、物語性の一種のテンポというかテンポのあり方が、本質的な意味では日本の、あるいはアジアのと言ってもいいですが、時間、時代によって変わらない本質を持った農村の共同体を支えにして日本の社会が成り立ってきた。
社会の情報にさまざまな起伏があり、政治的な交替があり、あるいは戦争があっても、農村あるいは文学自体の生活のあり方はいっこうに変わらない。季節と一緒に移り、季節と一緒に着物なども替えて種をまき、刈り取るということをやっている。そのあり方は西洋社会の農村とはまるで違いますから、サルトルはこの特質を『細雪』の中から典型的につかんでいたと僕は思いました。この作品は一見、戦争と何の関係もないように見えて、戦後にふっと出てきた。これは戦争と関係ない作品だと思いたいわけですが、本当を言うと見かけ上、関係ないということを通じて非常に戦争と関係のある作品であり、戦争が果てた後の戦後のあり方と非常に大きな関係がある作品だと言えると思います。
たぶんこの種の言い方ができる作品は、たとえばいま言った太宰治の『お伽草子』、谷崎潤一郎の『細雪』、それから舟橋聖一はあとにも先にもこれだけすぐれた作品を書いていないと思いますが『悉皆屋康吉』という作品の三つで象徴できるのではないかと思われます。
この作品は、戦後文学の発生期に非常に大きな問題を与えている作品の傾向を象徴することができると思います。発生期にあった戦後文学の要素は、いまももちろん依然として連綿としてあるわけです。このあり方がいいのだろうか、悪いのだろうかという問題よりも、このあり方の根底、背後がどのように変わって現在に至っているのだろうか。同じ本質を持った物語が、現在、どのように変えさせているだろうか、どのような変貌をさせているだろうか。どのように戦後と変わりないか。あるいは日本の物語というものの本質はいっこうに代わり映えしていないと言うべきなのかという問題が、これらの作品が発生の時期に持っていた大きな問題だと考えることができます。
もう一つ、最もこれと対照的と思われる作品を取り上げれば、たぶん戦後文学の発生期の問題を言い尽くせるのではないかと思います。発生を非常に不安定な要素と考えて、不安定な要素でいつ消えてしまうかもわからない。ルーツがどこにあるかはわからないけれども、とにかく明らかに戦後になって初めて文学の姿の中にわいてきたもの、発生したものだ。不安定で消えてしまうかもしれないし、強力に何かと結びつくかもしれない生々しい作品を思い浮かべることができます。
思い浮かべられる作品の傾向を、いくつかの作品で象徴させてみましょう。たとえば一つは、埴谷雄高という人の『死霊』という作品に象徴させることができます。それから、たぶん戦争が終わった翌年に書かれた椎名麟三の『重き流れのなかに』という中編作品があります。この作品を持ってくると、発生期の非常に生々しい、消えてしまうかもしれないが、どこからかわからないけれども非常に新しい要素がわいてきた。わいてきて、何やら非常に大きな活性度を持っている作品として象徴させることができるのではないかと思われます。
この二つの作品で一様に言えることは、少なくともこれらの作品の作者は自分の死というものについて戦争のさなかに考え尽くしてしまったと言いましょうか。自分の死というものについては考え尽くしてしまって、考え尽くしてしまった死というものを取り込んだうえでというか、むしろそこから眺めるような目で現在、戦後の荒々しい混乱期を眺めている。そういうことができている作者たちだと言えると思います。これは作品の登場人物のあり方から、非常にかすかに感じ取れるということです。作品から感じ取れるそういうものは、たぶん作者が持っていたものの写しに違いないと信じられる気がします。
たとえば『死霊』という作品は、言ってみれば人間の意識、精神、心の重さを極限まで重たく持った登場人物たちが登場してきます。登場人物たちは意識、精神、心としては生き生きと生きているのですが、肉体がある、具体的なかたちのある、生活している人間としては何も描かれていないと言っていいくらい、まるでのっぺらぼうにしか描かれていません。しかし、精神、意識のあり方としては、極限まで突き詰められた意識を持っている。その典型を持っている登場人物たちが登場してきます。
この中には三人の主要登場人物がいますが、その一人は人間が考えることはいつでも限界を持っていて、いつでもわかりきっていることに耐えられないという精神を持った人物です。かつてだれも考えなかったこと、これからも決してだれも考えられないことだけが本当に存在するものなのだ。つまり、そういうものだけが考えるに値することなのだという観念に憑かれた人物です。
「お前は何を考えているのだ」と言われて、自分は実体ではなくて虚体ということを考えている。虚体とは何か、それは人間でなければ考えられないものだ。人間でなければ考えられないものは何か。それはかってだれも考えなかったこと、そしてこれからもだれにも考えられないことだろう。そういうことを考えることだけが本当に考えるということの意味で、それ以外のことは何の意味もない。もっと極端に言えば、それ以外に生きていることの意味はまったくないという観念に憑かれている人物です。
もう一人、その中で出てくる人物は、人間はあらゆることを行う。変えることもできるし、つくり出すこともできてきた。しかし、人間がどうしてもできなかったことがある。それは何かというと二つある。一つは、人間ももちろんそうだし、生物も動物も、全部を含めた宇宙というもの、人間をそこからつくってしまった宇宙というものの責任を追及したことはない。宇宙というものの責任だけはだれも追及したことがない。しかし、宇宙というものの責任が追及されない限りは、人間はとうていだめな存在だという観念に憑かれています。宇宙の責任を追及することと、人間は未来の、死滅したところから現在を眺める目を持っていなければだめだ。それを持っていない限り人間は救いようがない、という観念に憑かれているわけです。
その二つの観念に憑かれていて、その二つの観念以外のものは人間にはまったく不要だ。人間が生きている意味はそれを極めること、あるいはそれを考えること以外に何もないという観念に憑かれている人物です。
もう一人の人物は、とにかく現在はどういう時代かと言ったら戦争と革命の時代だ。戦争も革命もどちらもそうだけれども、かつて人間は羞恥心のあまり人間が人間を殺すことはだれもが許しがたいことと考えてきた。現代の世紀は戦争の名を借り、革命の名を借りて、人殺しをすることが平気になってきてしまっている。どんな思想も、みんなこれを容認するようになってしまっている。こういう時代になっていることを前提としない考え方は全部だめだ。自分は人殺しの時代、殺人の時代ということを福音として説いて歩く。革命のかたち、戦争のかたちになるけれども、そういうことを説いて歩くのだという人物が登場します。
これらの登場人物たちは青年から壮年にかけての登場人物ですが、いずれも極端化された考え方を背中に背負ったような登場人物です。この登場人物たちは肉体的、生活的なにおいを少しもさせないのですが、精神のにおい、精神と精神がぶつかるときの極端なぶつかり方のドラマだけがふんだんに展開されていく作品です。
この作品を見ると、言ってみればこの作品に描かれた人物たちが題名と同じように死霊、死んだ霊で、少しも生きていない、意識だけ、精神だけで生きているような存在です。それだけではなくて、これを描いている作者たちがある一つの極限の死の体験をし、それを自分の考えの中に組み込んでいる作者だということを非常にリアルに感じることができる作品だと思います。
椎名麟三の『重き流れのなかに』も、そんなに長編の作品ではありません。別段、それほどの構成の展開があるわけではないのですが、この作品の作者も死の観念を初めからどこかでつかまえてしまって、生のあり方をつかんでいるに違いないと信じざるをえないような作品だと言えます。
『重き流れのなかに』は、僕という人物があばら屋に間借りしていて、破けた障子の向かい側には家主の老人が中風で寝ています。その側には家主の息子が学生服を着たまま、着替えなど一度もしたことがないという感じで、いつでもふとんにくるまって寝ています。寝ている息子は、夜になると非常に大きな声でうなされたり、うめき声を発したりする。
そのうめき声がきわまっていき、障子の破れから見ていると、中風で病気で寝ている家主のおやじさんが起き上がってきて、よろよろしながら息子の側へ行って揺り起こし、目を覚まそうと平手打ちを食わせている。そういう光景が毎晩のように展開されます。隣の部屋の破れた障子から見ると、いつでもそれが見える。それだけのことです。
しかし、主人公は感じるわけです。おやじさんがよろよろと中風の体で起き上がって、うなされている息子を叩き起こして、ふとんをひっぺがして平手打ちを食わせている。その平手打ちはいかにも弱々しい。この弱々しい平手打ちを毎晩のように聞いていると、何かはわからないけれども、自分はどこかにある何かに対してものすごく怒りを感じてくると主人公は感じるわけです。
うなされている息子を叩き起こして平手打ちを食わせている音が弱々しいのは当然であって、平手打ちの音が全世界を震撼させるような音であってくれと主人公は思うわけです。しかし、弱々しい音を聞くと、自分はこういう生活のあり方やそういうところに何か怒りみたいなもの、何かを感じるというわけです。
近所の娘さんがお金を取ってなじみの男を自分が借りている部屋に連れてくるようになりますが、破れ穴から見ていると、娘さんはやってきた男がお酒を飲むとき、お酒の中に一滴ずつメチルアルコールを入れている。一滴ずつメチルアルコールを入れることで、娘さんが何をしたいのかはわからない。しかし、娘さんは、やってくる男に一滴ずつメチルアルコールを入れることで何かをしたいのだ。
何かをしたいということは、日常的なことではない何かとつながりがあるに違いない。それが何かはわからないけれども、行為の中に何か日常とは違うものがあるに違いない。この娘さんはやってくる男を自然のうちに衰弱させ、自然のうちに殺してしまいたいと思って一滴ずつメチルアルコールを入れているのだという理解の仕方をすると、この作品は一種の貧乏物語として、明治以降にある私小説の一つの変態と言いましょうか、私小説的になってしまいます。
しかし、椎名麟三の『重き流れのなかに』で、一滴のメチルアルコールを毎日やってくる男に入れている描写はするし、一滴ずつメチルアルコールを入れている娘さんの一つの行為は何かなのだと主人公は感じますが、娘さんは男を徐々に衰弱させて殺したいのだとは決して感じないのです。主人公がそれを感じない、そういう感受性を持っていないだけではなくて、その娘さんもたぶんそういう感受性、男を徐々にこうして殺してしまうのだと思っているわけではない。そういう感受性は持っていないけれども、男が飲む酒の中に一滴ずつ入れていると描かれています。
中風で寝ている大家のおじいさんもそうですが、作品の登場人物は明瞭な、日常的な目の前にある目的があってある行為がなされているという感受性を持たない人物として描かれています。非常に日常的な目の前の行為しか描いていませんが、描かれている行為の登場人物の感じ方も描き方も、「ある日常的な行為は、ある日常的な目の前の明瞭な目的があってそうしている」とは描いていません。何か知らないけれども非常に大きなもの、救済か絶望か廃墟か死かわからないけれども、何か非常に大きなものと行為がつながっているものだと作品が描かれています。
非常に日常的なありふれた私小説の場面といっこうに違わない場面が描かれているにもかかわらず、作品が読む人に感じさせるものは決して日常的な、私小説的な生活のあり方ではない。個々の生活のあり方、動き方が何か形而上的なというか、非常に大きな世界についての考え方とつながっていると読者に感じさせるように作品が描かれています。
この作品の描かれ方を見ると、必ずしも戦争と限定しなくてもいいですが、登場人物もそうですが作者たちが死という体験をくぐって、体験の中で死についての考え方を非常に純化していった。純化した人間の死、あるいは人間の終末というものを取り込んだうえで作品を書いているとどうしても感じざるをえないように描かれていると言えます。
この描かれ方は西欧文学にないわけではないですが、どう考えても日本の近代文学の中では戦後初めて発生した、文字どおりわいて出たものです。このルーツは何かと言っても、目に見えたルーツを見つけることはたぶんできないのではないかと思われます。それにもかかわらず、確かにこれはわいてきてしまった。発生してしまったものだと言えると思います。
発生した限りにおいてこれは非常に不安定なものであり、強力な衝撃力を持っていますが、これがどこまで続くか、どこまで持続できて日本の戦後文学作品の一種の伝統となりうるかどうかはまったくわからない。そういう不安定な性格も同時に持っていたと言えると思います。どう考えても、過去と切断されたところで戦後文学が固有に発生させた一つの作品の傾向と見るほかないのではないかと思われます。
これとまったく同じことになりますが、質としてもう一つのことを考えなくてはいけないと思います。それはどういう作品で象徴できるかというと、数少なく挙げてみます。一つは、梅崎春生という人の『桜島』という作品でそれを象徴させることができると思います。
もう一つ、それを象徴させるとすれば、大岡昇平の『俘虜記』という作品で象徴させることができます。この二つの作品は、戦争が終わった翌年か翌々年にかけて、数年の間に生み出されている作品です。二つとも、主題として取られているものは直に戦争そのものの体験だと言えます。
『桜島』という作品は、主人公が鹿児島県の桜島の通信部隊で戦争の終結を迎える作品です。主人公は下士官としてそこに勤務して、もはや前方には死しか残されていない。たぶんアメリカ軍が本土に上陸してくるとすれば前哨地域になってしまうから、真っ先に迎え撃って真っ先にやられて死んでしまうだろう。勤務でここに回ってきたということは、もはや前方には死しか残されていないのだというところで作品が始まります。
アメリカの艦隊がどこまでやってきているか、どこまで動いているかの通信を刻々と受け取り、中央からの指令を受け取ったりということを毎日しているから、アメリカ軍がどこまで来ているかは非常によくわかります。刻々その状態がわかりながら、主人公はたぶん作者の一種の影で、三十を過ぎた下士官です。上陸したら最後、死ぬから、いつ上陸してくるかだけが問題だ。それだけが言わば執行猶予の期間だというところで、主人公が生き死にについて追い詰められていくわけです。
たとえばいまさら死を回避しようとはちっとも自分は考えないけれども、よくよく三十何年の生涯を考えてみると自分はかって一度も幸福だという感じを持ったこともないし、一度も何かを成し終えた感じを持ったこともない。けれども、もはやここまで来たらあとは死しか待っていない。振り返るとそれがいかにも口惜しいと考えてみたり、もしこんなところに敵軍が上陸してきたとき自分はどのように振る舞うだろうかを考えたりします。
そのときの自分は勇敢に立ち向かうかもしれないし、恥も外聞も忘れて命乞いをするかもしれない。そうでなければ、黙ってされるがままになっているかもしれない。しかし、いずれにせよあと何カ月かで、そのとき自分がどう振る舞うかは決まってしまう。
どう振る舞うかを決めるものは何かと言えば、自分がいままでどう生きてきたかで決まっていくわけです。どう生きてきたかに対する審判が、必ず何カ月かあとにはやってくるのだという感じに襲われます。
どうしようもなく死を目前に生活しながら、極限まで追い詰められる。追い詰められた挙げ句の果てに、真っ先に通信でわかるわけですが、終戦の詔書が下り、そこから解放される。解放されるときに悲しいとかそんなことでも何でもなく、ただ涙だけが流れて仕方がない。それで、見張りから本部に帰って行くというところで終わります。
この作品は死というものが目前に追い詰められたときにどのような心の動かし方をするか、軍隊のほかの兵隊の動き方との対比のうえで非常に微細に描いています。この描き方は、文字通り戦争そのものの体験が作品の登場人物の中に投影しています。
大岡昇平の『俘虜記』の場合もまったく同じで、この場合は応召してフィリピンに輸送船で送られる、輸送船に乗るところから作品は始まります。輸送船に乗ったときにもはや引き返すあれがない。前方には死だけしかないということを納得するわけですが、納得するけれども実感としてなかなか納得できない。
しかし、それにもかかわらず、過去を振り返ることは許されていない。振り返っても致し方ない。主人公はフィリピンに上陸しますが、そこはすでにアメリカ軍に上陸されていて、すぐに敗残兵となって島の中を少人数で一緒に彷徨します。隠れて逃げ回ります。
逃げ回ってどうするのか。どこかで逃げおおせたら、海岸にたどり着いてその島から脱出しようと考えている。そんなことはもともと不可能だと思いますが、そういうつもりで山の中を敗残兵としてさまよいます。
さまよう間に何度もアメリカ軍の兵隊にぶつかりそうになり、そこで自殺しようとして持っている手榴弾を点火しますが不発になります。気持ちを取り直して、またさまよう。最後のところがたぶんクライマックスですが、突然目の前にアメリカの兵隊が現れます。
自分はアメリカ兵を撃とうと思って銃をかまえます。主人公はいったんかまえますが、自分がこのアメリカ兵を撃って殺したからといって自分の命が延びるわけでも何でもない。殺せば損をするのはアメリカ兵の一人の生涯だけで、自分のほうの生涯はもうだめだとわかりきっている。一人のほかの関係ないものを殺したから自分が助かるという可能性もまったくない。そういう人間を殺して血を流すのはやめようと思い直して、撃つのをやめてしまいます。
結局、自殺しそこなって捕らえられ捕虜になりますが、死の体験の中でアメリカ兵に遭遇して、アメリカ兵を殺すか、殺さないかについて、自分がそのときに考えた考え方を微細に追っています。
そこの問題と、死が九割九分まで確実と自分が思ったときに、初めてなぜか知らないけれども本格的な意味で可能な限り逃げよう、生きてみようという意欲、意思がわいてくる。そういう心の瞬間の過程が、非常に微細に描写されている作品です。
この作品は、いわば主題そのものが登場人物に託された戦後体験です。このような意味での精神、死の体験を、日本の近代文学はかって一度も持ったことがないとは言えます。もちろん日露戦争の中で、たとえば田山花袋の『一兵卒の銃殺』みたいな作品が描かれていますし、森鴎外の従軍日記みたいなものもあります。歌もありますし、いくらかの戦記みたいなものはもちろん存在します。
その場合、そういう体験をしている人たちはある意味で非常に特殊な人たちであり部分的な人たちですから、そこでの戦争の体験や死の体験が文学として結晶する場合、ある普遍的な死の体験や戦争の体験というものではない。あるところで戦争があった。その戦争の中で、たまたまそこに巻き込まれた人間あるいはそこに参加していた人間がどういう目に遭ったか、どういう感じ方をしたかという意味合いで戦争が描かれたことはあります。戦争の体験が文学作品として結晶したことはありますが、そうではなくてだれもが、どんな人でもその体験を体験し、どんな人でも死の体験を体験した。そういう普遍性を持ちながら、それが特定の作家の作品にまで結晶した。
結晶した戦争体験や死の体験は、決して特別なものではない。だれもがそれを記述したかどうかは別ですが、だれもが体験し、もしかしたらだれもが心の中では一つの物語として持っているけれども、口に出すことも表現することもしなかった。そういう意味では、だれでもそれを持った。だれもが持ったそういう体験を、ある特定の作家が作品に結晶した。そこに戦争の体験、死の体験の普遍性というものが初めて現れているという意味合いで、日本人のあり方、ヨーロッパ人のあり方という意味だけではなくて、人間というもののあり方としてその体験はどういうことを意味しているのか。あるいは、どういう問題をもたらしたのだろうかが作品として描かれたのは、たぶん戦後文学が初めてだと言えると思います。
初めての体験の中で発生したものがどのように持続されていくか、どのように途絶えてしまっていまは存在しないか。つまり、戦後何十年もたっていて、しかもその何十年はいわば戦争の影が一つもなかった。その何十年を経たのちに、それがどういうふうになくなってしまったか。あるいは、どういうふうに潜在的なかたちで存在しているのか。問われるべき新しい要素は、このときの戦争体験の作品化の中に典型的に現れていると言えると思います。
僕は危惧することがあります。たとえば僕などが戦後文学の発生を問題にした場合、それは学生さんにとってどういうことになるのか、若い人にとってどういうことを意味するのかをときどき考えることがあります。
類推の方法が一つあります。皆さんにとって僕が発生の時期の戦後文学についていろいろ考えたりしゃべったりすることは、僕にとって言えば明治初年の開化期の文学を論じるのと同じことではないのかという疑いに襲われることがあります。僕らにとっては割に生々しい体験を踏まえ、割と同時代と言える時代なので生々しい感じがしますが、皆さんにとってはたとえば僕が明治初年の文学を考える場合と同じことではないかと思われることがあります。僕が明治開化期の文学について論じる場合には、その向こうにはちょんまげを結って刀を持った人たちがそこらへんをうろうろしていたということになります。
皆さんに戦後文学の発生期を論じることは僕にとってはそういうことであって、その前の戦争について何か考えるのは、皆さんにとっては僕がちょんまげ時代を考えるのと同じくらい遠いことなのではないかという一種の疑いに襲われることがあります。たとえば僕らのおやじのおやじ、祖父にあたる人が「日露戦争のときはな」と体験を語るとばかにして、「また始まった」と子どものときよくそういうふうに感じました。そんなことになるのかもしれないという懐疑をいつも感じます。
そういう懐疑を覚えながらも、そのことを論じていく。おじいさんが日露戦争について言うように、文学者が髷の時代についてしゃべっているのと同じようなことを「何しゃべっているんだ」という、過ぎ去った歴史、文学史ということではなく考えたり取り上げたりすることはできるだろうかということが、僕が持っている課題だと思います。
僕ができることは非常に難しいと思いますが、僕が戦後文学の発生期について論じることが単に文学史上のある時代を論じているにすぎないならば、すぎないようにしか論じられないとしたら、僕が課題を果たしていないことになると思います。逆に言うと、課題は一種の二重性を持っています。歴史、文学史として作品の時代を一種、完結しなければいけませんが、もう一つは完結しながら、しかしそれを現在の問題のように感じさせる一つの見方がなければならないはずだと思います。それをつくりあげることが、僕などがいま持っている課題ではないかと自分で思います。
それならば、皆さんが持っている課題は何だろうか。文学史を文学の歴史的知識として獲得するという意味で戦後文学の発生期の文学作品を取り上げるなら、たぶんそれは取り上げ違い、一面的な取り上げ方です。そういう取り上げ方であると同時に、それはいまの問題とどういうつながりがあるのか。どこまでいまの問題なのかを取り上げられたら、皆さんは宿題を果たしたことになると思います。
僕が持っている宿題と皆さんが持っている宿題はたぶん対照的ですが、宿題は相互に持っています。どこかで宿題を解こうとするモチーフがあれば、そこで話し合い、コミュニケーションが成り立ちます。もしそれがなければ……
【テープ交換】
……何をしゃべっているんだという批判は免れません。皆さんは、新しいと思ったけれどもそんなことは大昔というか前にやったことだと言われることを免れないみたいなことがあると思います。この課題はいつでも宿題としてあるということで、たぶんコミュニケーションが成り立つのだろうと僕自身は考えます。
戦争を通過した戦後文学の発生期の作品を問題にするということで、いつでも思い浮かべることがあります。極限の体験は要約してしまえば、一種の生死の体験になります。生死の体験は、文学にとってどういう問題を意味するのかということが考えられます。
たとえばそういうことを一番考えやすいし、よく考えたものを言うと、リルケという詩人がいます。リルケの『マルテの手記』という作品を読むと、主人公のマルテという人物はドイツ人ですが、フランスのパリの町中で一人の文学、芸術好きの青年としていわば放浪生活を送っています。ある意味でリルケの自画像で、そういう青年が主人公です。主人公の手記というかたちで展開されていますが、その中で主人公のマルテはしきりに死ということを言います。
自分は大都会のパリにいて、そこではドイツ人である、リルケである、芸術家であるということにだれもかまってくれない。パリの町の真ん中に住んでいて、毎日さまよって暮らしている。何をしているかわからない暮らし方で暮らしている自分が考えることは何かというと、非個性的な、無名の、名分のない死というのでしょうか。あるいはもっと違う言い方をすると意味のない死、死ぬことに値しないような死を自分は持ちたくないと、マルテはその中で一生懸命に考えます。毎日のように、そういうことばかり考えます。
死というものがあるとすれば、向こうからやってくる死は偶然の死にすぎない。向こうから病気でやってこようが、交通事故でやってこようが、そのほかの理由でやってこようが、向こうからやってくる死は偶然にすぎない。偶然にやってきた死にすぎなくて、自分がつかみ取った死ではない。向こうから押し付けられたというか、偶然、覆いかぶされてしまった死であって、このような死はいわば名分のない死、意味のない、大義の立たない死であるとマルテはしきりに考えるわけです。
自分が考える死はそうではない。一つは、生の中に死というものがあらかじめフォーカスされている死が名分のある死だとマルテは考えます。それと同時に、たとえば芸術家の死は何かというと、決して死を賭して作品を書くとか、なりふりかまわず作品を書いて完成するということではまったくない。芸術にとっての死、あるいは芸術作品にとっての死、芸術家にとっての死は何かと言ったら、生の中に死がフォーカスされている。
そういう死というものをどこまでつかみ取れるか。そのつかみ取り方の過程が作品をつくっていく過程と同じであるとき、類似であるとき、あるいは同じことを意味しているときに、初めて芸術家は作品をつくった、つまり自分が作品をつくったと言うことができると考えるわけです。
つまり、あるとき偶然に精神状態がよくて、体の調子もよくて、机の前に座ったらたまたまいい考え方が浮かんできてできあがってしまった。それはいい作品だという意味合いのものは、ちっともいい作品ではない。芸術的な作品、本当の意味でのいい作品ではない、とマルテは考えます。
マルテが考えるいい作品、芸術の本質、本質的な芸術は何かと言えば、生の中に自分が取り込んだ、自分がつかみ取った死というものがちゃんと含まれている。それをつかみ取る体験と同じ体験が作品形成の体験の中で実現されるならば、実現できるならば、それが本当のすぐれた芸術作品なのだ。本当の意味で芸術を生んだということなのだ。『マルテの手記』の主人公はパリの大都会の真ん中で青年期の放浪生活を続けながら、そういうことを考えるわけです。
『マルテの手記』は死の問題、芸術作品の問題をめぐっての考察、感想が覆い尽くしていると言ってもいいくらいに、非常に如実に描かれています。これはリルケの一種の根本的な思想でもありますが、人間の生の体験は偶然ではなくて、死があらかじめ自分の中にちゃんと取り込まれてつかみ取られていなければならない。これはリルケの根本的な芸術思想だと言えると思いますが、この根本的な芸術思想に該当するもの、それに対応するものはいま申し上げた発生期の戦後文学のあり方のどこに当てはめられるかと考えてみると、一番最初に言った太宰治の『お伽草子』、谷崎潤一郎の『細雪』、舟橋聖一の『悉皆屋康吉』という作品の中に存在するものです。
これはいわば民話の世界ですが、リルケが「生の中に死が取り込まれていなければならない」という言い方で言っているものが、一番そこに含まれていると思います。どこが違うかというと、リルケは近代的な芸術家、詩人、別な言い方をするともはやだれも偉大な芸術作品など生み出すことができなくなってしまった。つまり、芸術、文学の一種の解体期を体験しています。
リルケは、芸術家は解体する作品しかつくれなくなってしまったことを十分に理解した詩人です。『お伽草子』や谷崎の『細雪』は近代芸術家としての自覚という意味合いではなく、一種の民話的世界を土台としてちゃんと取り込んでいるという意味合いで、無意識のうちにリルケが芸術の思想とした思想が含まれている作品と言えると思います。
そうではなくて、埴谷雄高、椎名麟三、あるいは少し質が違った意味で梅崎春生の『桜島』、大岡昇平の『俘虜記』などに象徴される作品が実現しているものはいったい何だろうか。たぶん死そのものの直接体験の世界と、死そのものについて考え尽くされた地点から作品が生み出されているという意味合いで、たぶんリルケの芸術思想と非常に似た位置に戦後文学の作家たちが一様に立たされたと言えると思います。
「立たされた」という言い方はおかしいですが、戦争は不可避的に向こうからやってきたわけです。向こうからやってきた戦争をくぐり、考え、戦争を通じて戦争の精神を体験し、死の体験を如実に体験することによってつかまされたというか、つかみ取らされたと言っていいものだと思います。日本の近代文学の作家たちは、ヨーロッパの近代、現代芸術家たちが心の底から体験したであろう、「解体する芸術はどこで生み出されなければならないか」という問題にそこで初めて当面させられたと言えます。
大岡さん、埴谷さんたちを訪れた問題は、いわば日本の近代文学がヨーロッパの近代以降の必然的な流れと初めて等質の問題に立たされたときに生み出された作品と言えると思います。
もう少し物語、文学というものの本質について申し上げます。
文学作品の本質は、本来的に言えば物語性になければなりません。物語性というものは、発生、起源から言うと、どうしても文学作品の本質になければならないはずのものです。つまり、そこから文学が始まるみたいなところがあります。
物語性というものはどういう構造を持っているかというと、日本の物語でもヨーロッパの物語でもまったく同じです。ヨーロッパで言えばギリシャ悲劇の時代から、日本人は平安朝以前の物語、奈良朝の物語の時代からまったく同じです。基本構造は同じで、その物語性の根底は登場人物たちが精神的にか実際的にか、ある彷徨を続け、ある大きな出来事にぶつかる。
その出来事にぶつかって、そこでさまざまな格闘をして、登場人物は死んでしまうか格闘をくぐり抜けて生き延びる、あるいは幸福になる、不幸になる。いわばある事柄に対して登場人物たちがぶつかるぶつかり方が、物語の根本、基本構造です。
この基本構造は、呼び方は違いますが、ヨーロッパの物語でも日本の物語でも同じです。ヨーロッパの民話の世界でも日本の民話の世界でもみんな同じで、その構造はある事件、事柄に対してぶつかるぶつかり方が物語性の根底にあるものです。もし物語の本質が文学であるとすれば、文学の根底にあるものはいつでも物語性であり、物語性の根本的な構造はいつでも同じ構造を持っています。
この構造はどう言えるかというと、極限化すると構造として死の体験と同じ構造を持っています。死の体験の基本的な構造のはっきりしたものは、日本で翻訳されたのは二、三年前ですが、アメリカの社会心理学者、精神分析学者でロスという人がいます。この精神分析、あるいは精神病理学者が書いた『死ぬ瞬間』という著書があります。これは、死の構造に事実性の次元で真っ正面からぶつかった初めての著書と僕自身は考えます。この著書は一見するとちゃちなところもありますが、そういうことにかかわらず、事実性として死の構造をはっきりさせたという意味で、たぶん非常に新しい、画期的な段階にあるものだと僕自身は考えています。
この著書の中で、死の基本構造をはっきりさせているところがあります。この著者たちのグループは、癌その他重症患者で死の宣告を受けている、死の宣告が必至である病人たちにインタビューをして聞き出しています。聞き出したことを全部整理したところで、基本構造をはっきりさせています。
基本構造は何か。一つは、まず死を宣告される。たとえば「癌です、必ず死にます」と宣告された場合に患者はどうするか、宣告された人間はどう考えるかというと、第一段階としては否認します。このパターンはどんな人でも変わらないことを見出しています。「そんなはずはない」と否認する。それはたぶん医者の誤診である、だれかの検査がたまたま自分のものと間違えられてきたに違いないと必ず否認する段階がまずやってくる。
否認の段階が過ぎて第二段階が来るとどうなるかというと、怒りの段階がある。怒りの段階は、一口に言うと、ほかの人は楽しそうにしているのに、どうして自分だけが死ななくてはいけないのか。非常に不都合ではないか。自分が死ぬくらいならあいつが死んでしまったほうがいいじゃないか、自分だけがこうなるのはどういうわけだ。言わば運命および周囲に対する怒りとして、必ず次に展開される。それが第二段階で必ずやってくる。
第三段階は一種の取引の段階で、取引の段階は何かというと、自分はこういうことをし遂げていない。たとえば、自分が死んでしまったら家族の経済状態が困ってしまう、まだ子どもが小さくてこうだ。もう少し自分を生かしてくれるならば、自分はどんなことでもする。こういう考え方が必ずやってくる。自分を何カ月でも生かしてくれるならば神様を信仰してもいい。あるいは、どんなことをしてもいい、どんなことでもする、言うことならどんなことでもする。言わば、一種の取引の精神状態になる段階がやってくる。
その段階も過ぎてしまうと、次には一種のメランコリーな抑うつ状態がやってくる。抑うつ状態がやってきたときに、抑うつをはたから解消することはできない。できることは言葉ではなくてせいぜいそばにいることだけで、もはやどんなことも聞かない抑うつ状態がやってくる。
最後に、受け入れという段階がやってくる。受け入れという段階においては、精神的にも体力的にももちろん消耗している。外界にあった関心はもはや自分自身の中に閉じこもってしまう段階で、はたから何を言っても無効であり、言うことはかえって煩わしいことだったり、かえってだめだったりとなる。死の体験の基本構造はたくさんの人にインタビューした事実の結果ですが、みんな一様にそういう基本的な構造を必ず持つと言っています。
しかし、もちろん人によって基本構造のいくつかが抜けてしまっている人もいます。一瞬に凝縮されて現れてくる人ももちろんいますが、基本的に必ず五つの段階を踏んで死の体験がやってくることを体系的に明らかにしています。こういうことは、ちょっとやり方をあれしてしまうととんでもないことになります。一種の精神の生体解剖に従事するのと同じことになってしまって、冒涜と言うことさえできるものです。われわれ日本人の感性はなかなかそこまでやりにくい、ということをやってしまっています。
その人たちがやってしまっていることに意味があるのは何かというと、インタビューの相手の人はもちろん初めは拒否します。しかし、それを最後までやった結果、そこまでやり切れば、尋ね切れば、死にゆく人から聞きただしうるところまでやってしまったときには、例外なくその人たちは感謝したといいます。そこまでこぎ着けていることは、いいところ、やってしまっているところだと思います。
もう一つは、事実のデータを用いて死の体験の基本構造を非常にはっきりさせたことだと思います。形而上学的な、哲学的な死の考察は、たいていのすぐれた哲学者、思想家は、一度はどこかでやっています。そういう意味合いで、死の哲学的考察から死をはっきりさせることはもちろんあります。日本にはあまりないですが、ヨーロッパの現代のすぐれた思想家はみんな一様に、そのことは必ずある時期にやっています。
それはないことはないのですが、いわば事実の次元で死の体験の構造をはっきりさせたことはたぶん初めてではないか。非常に大きな意味を持ったものだと僕は思います。そこではっきりさせた死の体験の基本構造は、実は物語の基本構造と一緒です。物語の基本構造と同じことです。つまり、物語の登場人物たちがぶつかる事件を死と置き換えればいいわけです。事件を極端化したものが死だと置き換えれば、事件にぶつかる主人公たちのさまざまなぶつかり方の段階は、いま言った段階とまったく同じことです。
つまり、小説、あるいは作品の物語の主人公たち、登場人物たちは必ずある事件にぶつかり、そこで死んでしまう人もいますし、それをくぐり抜けて幸福になる人もいます。それをくぐり抜けて、また次の事件にぶつかることももちろんあります。文学作品の物語性を基本的に支えている構造はその構造で、その構造を非常に極端化したものは死の構造と同じ構造になります。
そういうふうに考えていくと、文学作品の形成と死は偶然にやってくるものとしてではなくつかみ取るものとして、あるいはそれを超えていくという言い方はおかしいですが生の中に取り込んでしまうものとして、どのようにそれを踏まえるか。そういう基本構造と同じだと言うとあれですが、関係があることだと言えると思います。
このような考え方は、リルケはもちろんあからさまにそうですが、現代の文学者、芸術家たちの作品形成の衝動の根底を支えていると言えると思います。死の体験をどうするのか、死をどうやって生の中に取り込めるのか。あるいは、死をどうやって回避するかが作品形成、文学形成、芸術形成と根底的に関係があるかをなぜ問題にしなければならなくなっているかは、リルケの言い方をすれば、現代において「意味のある死がもはや失われている」ということだと思います。
意味のある死を、われわれは体験することができなくなっているのではないか。死の体験を意味づけるさまざまな立場、事件はありますが、立場や事件ではなく本質的な意味で死を意味づける死というものを、もはや現代の人間は体験できなくなってしまっている。死はありふれたものであり、蓋をすればそれで失われてしまうものとしか存在しなくなってしまっている。
たぶん古代社会でも原始社会でも、死は蓋をすれば塞がれてしまうものでした。しかし、その場合、古代あるいは古代以前の原始時代は、死んだ人は決して死なないのです。つまり、どこかにちゃんといる。次に生まれてくる村落共同体のメンバーの中に、その霊は必ず還ってくるとされています。だから、赤ん坊は名前まで死んだ人の名前をつけられる。
村落共同体の中で一人の老人が死ねば、死んだ人の魂、霊はどこか霊が集まるところにちゃんといる。だれか部落の赤ちゃんが生まれることによって、その人の霊はちゃんとその赤ちゃんの中に入り、また再生するという考え方になります。
ところが現在では、たぶんそうではありません。リルケの言う「意味のある死」はだれからも失われていますが、失われたら失われ放しというのが、現代における人間というと大げさかもしれませんが、私たちが当面している一つの状況です。失われたら失われ放しで、だれも補うものもいない。それが再生して生まれ変わってだれかに入るなどということは、三島さんは信じたでしょうが、だれも信じる人はいません。現代人は信じることができないし、死んでしまえばそれまでであって、ぱたっとそこで蓋をされる。蓋をされたらそれまで、という死しか体験できなくなっている。
同時に、逆に言えば、それはそういう生しか体験できなくなっていることを意味します。すぐれた現代の芸術家、文学者たちが一様に実感している問題がそういう問題であるために、たぶん死の問題、死の取り込み方の問題、どうやって体験するか、どうやって取り込むか。偶然的な死、ぱたっと蓋を閉められたらそれまでという死をいかにして少しでもそうではないものにするか。
私の死、個性ある死、私が生きていてこういうふうにして死ぬ、というものとしていかにして取り返すことができるかという課題が、非常に奥深いところでたぶん現代の芸術作品の形成とつながっています。死の考察が現代の芸術家、文学者たちにとって非常に本質的な課題として登場してしまった意味が、そこにあるのではないかと思います。
たぶん、そのことを最もリアルなかたちで、最も本質的なかたちで体験したのは戦後文学が初めてです。発生期の戦後文学は、初めて体験を作品化することに成功したと思います。作品化に成功したことと、それがどこまで現代の文学の中に持続しえているのかとは、自ずから別になります。たとえば谷崎の『細雪』、太宰治の『お伽草子』、舟橋聖一の『悉皆屋康吉』の世界は、現代におけるすぐれた長老の女流作家によってかなりの程度、実現され、持続されて持ち込まれていると思います。たとえば円地文子、芝木好子、大原富枝でもいいですが、そういう人たちによってかなりの程度ものにされて、いまも持続的に文学の課題として存在していると思います。かなり見事な作品形成がなされているように思います。
たとえば埴谷雄高、大岡昇平、梅崎春生、椎名麟三が戦後の発生期に実現してしまった作品は、ある程度の時期、戦後五年間なら五年間という間、強力な意味合いを帯びて実現が持続されていったいでしょう。しかし、たぶん五年から十年たったあたりで不安定さを突かれて、非常に大きな部分で消えてしまったのではないか。伝統となりにくいもので、消えてしまった部分があるのではないかと僕は思います。
消えてしまったのはいいことなのか、悪いことなのかということになります。それはいいことだという人と、そうじゃない、悪いことだという人が、戦後文学を批判する人と擁護する人に分かれてそれぞれあります。僕が重要だと思うことは、発生期の文学の本質的な問題は、五年なら五年後にそれ自体が非常に主要な部分で消滅してしまったと考える場合、それを消滅させたのはご当人たちだということは非常に重要だと思います。
つまり、ご当人たちの持続性の問題であって、持続性と発展性と展開性、「どこに展開したらこれが持続されるのか」という課題に対する確執の仕方のどこかに誤差があった。言わば自ら消滅させたという意味合いで消滅していったということが、一番大きな要素だと思います。はたの責任に帰するのは第二義的なことであって、第一義的なことは自分自らがそれを消滅させたかどうか。消滅のさせ方の中にどういう誤差が含まれていたかが、非常に重要なことです。第一番に重要であり、第一番に問題にしなければならないことだと思います。
その問題が解かれなければ、それから起こる批判、擁護はそれほど大きな意味は持ちえないのではないかと僕には思われます。つかのまのですが、そこで日本の戦後文学が初めて体験した文学、芸術の本質と生の本質を作品形成として、作品体験として、生の体験としてどういうふうに結びつけたらいいのか。あるいは、登場人物の体験としてそれはどういうふうに関係があるのか。もう一つ、物語性の構造として、それはどういうふうに本質的な関係があるのか。
そういう問題について本格的に、本当の意味で考察を続ける。まずご当人たちの考察があって、ご当人たちによって葬られるのではなく、ご当人たちにとって明晰にされるべき課題を持っていたのではないかと思います。それが明晰に持たれなかったことが、あとから来るものを困惑、混乱させている大きな要因となっていま現れているのではないかと僕には思われます。
そのことは、言わば順繰りの問題です。僕らがいまの課題として、先ほど言ったような宿題、過去そのものを問題にしていると同時にいまを問題にしているという二重性です。僕らの年代の中でその宿題が実現されないならば、僕ら自らが自分たちの現在の文学作品の課題を葬った。あとから来る人が擁護しようが否定しようが、それはどうしようもないことだと必ずなっていくと思います。
僕らが僕ら自身、自らの力でその宿題が解けるならば、今度は逆に言うと、皆さんが僕らをどういうふうに否定しようと否認しようと、僕らは滅びることはないと思います。否認されても否定されてもどうでもいいことで、そんなことでどうにかなることはありえないよ、となると思います。
その宿題、課題は見極めることが困難ですし、ましてや作品に実現することは大変困難なことだと思います。しかし、どうしても宿題、課題をやりおおせなければ、僕らもまた死ぬ。死ぬという意味合いは、向こうから来た偶然的死によって死んだり、あるいは偶然的に向こうからやってくる死の上に皆さんが石をぶつけてなおさら死んじゃった、皆さんが泥船に乗せてくれてなおさら死んじゃったということで死んでしまうわけです。それはいたしかたないことだと思います。
皆さんの宿題もあって、その宿題を実現できなければ現在の風俗と風俗の暴力性、暴力化と言いましょうか。現在、如実にある課題の中で思い知るより仕方がない。風俗というものは風俗自体の中にいる人間にとってはそれが現実の全部に見えますし、拒否する人間にとっては見るのも嫌だというものになってしまいます。
しかし、風俗というものが持っている意味はそうではない、そのどちらでもない。いま現在の全部でもないわけですし、拒否すれば風俗は避けて通れるというものでもない、大変重要な意味合いを持つものだと思います。現在の風俗性、あるいは風俗の現在性、風俗が暴力化していく現在性、その課題は、ただ風俗として受け入れているだけだったら皆さんも宿題を解けない。やがてあとから来る人たちに石をぶつけられてしまいますし、偶然的にやってくる死に葬られてしまうことになるのではないかと思います。
課題は、一様に僕ら自身に残っています。しかし、残っていることの発生という言葉を起源という言葉に言い直して言えば、ルーツはまさに今日お話しした戦後文学の発生期、敗戦のあとのほんの数年の間に実現されてしまった作品の中にある要素の問題が、たぶんいまも本当はまだ生々しい問題である。変わったかたちの生々しい問題をどう読み、解き明かすかが、僕らが現代、共通に持っている課題なのではないかと僕自身は考えます。
大変まとまりのない話ですが、一つの観点に絞り、短い時間の範囲で凝縮して作品のある典型を挙げたかたちです。戦後文学の非常に重要な問題がいまもあるかどうか。それはどういうふうにあったら一番いいのか、どういうふうに消えてしまったら一番いいのかという問題について、僕なりの考え方を申し述べてみました。これで終わります。(拍手)