ぼくはドストエフスキーについては、そんなにいい読み手でなくて、その時々につまみ食いしてきたっていうのが正直なところで、こういうところでドストエフスキーをおしゃべりするのは意外な気がするんですけど、みなさんも同じように意外な気がするんじゃないかっていうふうに思います。ただ、すこし自分なりの読み方っていうのができるようになった部分がありまして、そういうところについてだけ、触れてみたいっていうふうに思います。
ドストエフスキーの作品に対面して、どういうところがいちばん誰でもそう感ずるだろうって思えるところは、どういうことかっていいますと、いったん引き込まれてしまうと、もはや、その文章の文体の記号の中に入り込んで、記号の中で、あるいは言葉の中で、寝て起きて生活してっていうようなぐらいに感じられるほど、そこの中に全部入り込まされてしまうっていう、そして、抜けて出てきたときには、ちょっと頭がガンガンするみたいな、そういう感じになる体験っていうのが、ドストエフスキーの作品の体験としては、誰でもあるいちばん普遍的な体験じゃないかっていうふうに思います。
なぜそういうことになるのかっていうことなんですけど、いちばん考えられることは、あるいは考えやすいことは、ドストエフスキーの作品の中の、つまり作品を流れている時間性っていいますか、日常生活の時間っていうのと、速さが非常に強固に、速さが非常に一致するっていうことが、非常に重要な要素なんじゃないかなって思います。
ですから、もし、このドストエフスキーの作品の速さの中に、じぶんの読む時間の速さが入り込んでいけない場合には、かなり作品が冗長に思えるところがあります。つまり、冗長に思えたまま、はじめのある部分からどうしても入り込むことができない。あるとことまでいけば、また入り込めるんだけど、少なくとも、なかなか入り込めない体験もまたあります。
その場合には、私たちが作品を読む体験の時間性っていうものが、ドストエフスキーの作品の中の時間性っていうものと合わないからだと思います。つまり、ただ合わないっていうだけじゃなくて、合わせるには、あまりに固有の、そして強固な時間性をもっているってことが、やはり乗りきれない場合に非常に冗長にみえる理由じゃないかっていうふうに思います。
このように言ったからといって、べつにドストエフスキーの作品は、日常生活のディティールっていうものを、日常生活そのままの、現実そのままの時間性で、そのままのウエイトで、そのままの選択でくりひろげているってことじゃなくて、そこのなかで強烈な選択性っていうものと、それから、作品の時間を持続させるための大変強固な工夫っていいますか、工夫っていうものがなされていて、その選択がじゅうぶん強烈ですから、これはまったく違う世界に入り込んだような体験をするわけですけど、しかし、そこで流れている時間っていうのは、たぶん、生活の時間性っていうもの、日常生活の時間性っていうものと非常によく似た時間性っていうものをちゃんと心得ていてっていいますか、ちゃんと具現していて、そのなかに入り込んでしまうと、もはや読者のほうは言葉の中で、つまり、作品の言葉の中で生活したり、言葉の中で動いたり、言葉の中で寝起きしたりっていうような、あたかもそういうような体験の中に入り込んでいくっていうことだろうと思います。たぶんこれが、どのような人がドストエフスキーの作品を読んだ場合でも、まず感ずるいちばん肝要なことじゃないかっていうふうに思います。
この体験っていうものは、どこからくるのだろうかっていうふうに考えてみます。さまざまな考えっていうのはありうるでしょうけど、ぼくの考えでは、これは一種の過剰なっていいましょうか、過激なっていいましょうか、「過剰な内面性」だっていうふうに思います。つまり、ドストエフスキーの作品がもっている「過剰な内面性」だっていうふうに思えるんです。
この「過剰な内面性」っていうものを分析してみたいわけなんですけど、「過剰な内面性」っていうものを、たとえば、具体的にどういうふうに考えたらよろしいかっていうふうに考えてみます。そうすると、『貧しき人々』なんていう作品があるでしょ、つまり、『貧しき人々』って作品は非常に構成としては単純であって、マカールという年老いたみすぼらしい小役人と、それを父親のように愛しているオールドミスの女の人との非常にうらぶれたっていいますか、ささやかなっていいますか、そういう愛の交流みたいなのを描いた作品なんですけど、そのなかでみすぼらしい小役人のマカールが役所の上司の書類のコピーをするんですけど、コピーを間違えて一行ぐらいとばしてしまって、それを上司の局長から怒られるようなところがあります。
その場合にどういうふうに描かれているかっていうと、マカールっていう小役人は絶えずいつでもおどおどして、絶えず自分の服装っていうものを気にかけ、絶えずどこかに目をそらしてしまうっていうような、そういう日常の生き方をしているわけですけど、局長から清書のコピーの一行すっ飛ばしてあるっていうのを指摘されて、呼び出されて指摘されて、ボタンかなにかがとれかかって、かしこまって話を聞いているおりに、ボタンがとれて転がっていっちゃう、慌てふためいてボタンをとるっていうような、そういう描写の箇所があります。
その描写の箇所のなかで、主人公っていうものが、およそ感じなくていいような感じ方を様々するわけです。つまり、こんな肝心なときに、ボタンがとれてしまって、そして、これはどのように惨めに傍から思われているだろうかっていうことを、非常に過剰に考えていくわけです。つまり、そこで、現在の描写でいけば、サッと一行二行で描写すれば済むところを、マカールの内面的な心の動きっていうものを過剰に描写して、惨めな心の動きを過剰に描写していくっていうような、そういう描写の仕方があります。
こういう描写のさせ方っていうのは、ドストエフスキーの作品の中にぜんぶ貫通しているわけですけど、たとえば『白夜』っていう非常に短い作品があるんですけど、『白夜』っていう作品の中で、やはり、主人公が町で会った見知らぬ女の人なんですけど、見知らぬ女の人が酔っ払いの紳士からからまれているのを助けるところがあるんですけど、そのときに、いきなり助けた女性にむかって、じぶんはいつでも侘しくて孤独で、いつでも女の人に声をかけたいっていうふうに、いつでも心がけているんだ。だけども、それをなかなか声をかけるっていうようなあれが出てこないんだっていうことを、未知の女性に対して縷々と述べるところがあります。じぶんのこういう思い詰めた気持ちっていうものを受け止めてくれる女性っていうのは、どこかにいないかいないかっていうふうに、じぶんはいつでも考えているんだっていうふうなことを未知の女性にむかって言うところがあります。
こういうところで、やはりドストエフスキーの「過剰な内面性」っていうものが、非常によく描写されるわけです。たぶん、これは現在の作品の手法からいえば、たった二言三言で片づければ済んでしまうような心の動きなんですけど、その心の動きっていうものが、まるで拡大鏡にかけてしまったていうふうに、かけたものがどこまでもそれを追っていくっていうふうな、そういうかたちで非常に多くフォローされていくわけです。
このフォローのされ方っていうものは、少なくとも、尋常の意味での内面の描写っていうものの影響を遥かに超えている、ひとつの過剰性っていうものがあります。この『貧しき人々』の場合には、「過剰な内面性」の描写っていうものが、過剰性っていいますか、過剰な心遣い、あるいは心の向け方っていうものが、どこにそれが向かっているのかっていうようなことを考えてみますと、たぶん、そこでは生活意識みたいなもののなかに、「過剰な内面性」っていうものがむかっていって、そして、生活意識のなかに溶けていってしまうわけです。つまり、惨めな生活者である小役人の心の内面の動きが、いわば、生活意識自体のなかに溶け込んでいってしまうっていうふうに、「内面の過剰性」の処理の仕方っていうのがなされていることがわかります。これは、ドストエフスキーの作品のどこにも見つかる、非常に大きな特徴だっていうふうに考えることができます。
この「過剰な内面性」っていうものの行方っていうものを、ドストエフスキーの作品から追及していって類型づけてみますと、ぼくなんかが最も関心をもつ「内面の過剰性」っていうものの行方っていうのがあります。
それは何かっていいますと、ひとつは内面の未成熟性っていいましょうか、未成年性っていいましょうか、あるいは幼児性といいましょうか、つまり、内面の幼児性っていうものをもった人物の内面の動きっていうものに、非常に大きな関心っていうものをドストエフスキーが注いでいるっていうことがよくわかります。
たとえばそれは、いちばん典型的にいえば、みなさんのよく読んでおられる『白痴』なら『白痴』っていう作品の主人公であるムイシュキンっていう公爵の心の動かし方、内面の動かし方っていうものが、非常に幼児性といいましょうか、未成熟性というものを本質的に提出しているわけです。
つまり、ムイシュキンっていう登場人物の主人公の内面の動きっていうものは、どこへ流れていくのかって考えていきますと、それは一種の幼児性、あるいは未成熟性っていうものに、どんどんどんどん流れていくわけです。だから、ムイシュキン公爵っていうものが、作品の中で主要な葛藤をする2人の女性がいるわけですけど、ムイシュキン公爵っていうのは、内面の幼児性っていうことのために一般的に男女のなかにある選択性っていいましょうか、選択性っていうものをもつことができないわけです。だから、一方でアグラーヤっていう女性に惹かれるかと思うと、一方で、まったくアグラーヤと対照的な女性に惹かれていく、その2人の間でどちらを選択していくかっていう選択性っていうものをもつことができないわけです。この選択性をもつことはできないっていうことが、つまり、ムイシュキン公爵の内面の動きっていうものが、『白痴』っていう作品を成り立たせている、非常に肝要な意図だっていうことがわかります。
つまり、ムイシュキン公爵の幼児性、内面性っていうものが一種のエロス的な対象っていうものに対して選択性をもちえない。だから、どちらも自分は愛しているんだっていうふうにいうことはできても、どちらも愛しているんだっていう言い方のなかで、男女の選択性っていうものは、必ず1対1にしぼられて傾いていくわけですけど、ムイシュキン公爵の描き方っていうものは、内面の幼児性っていうことのために、どちらかを愛の対象として選んでいくっていうことができないわけです。できないということのなかで、作品の物語と、作品の困難性っていうものが展開されていくことがわかります。だから、基本的にいいますと、ムイシュキン公爵の内面性をどのように描かれているかっていうことが、いわば作品を非常に支配している大きな鍵であるっていうことがわかります。
もうひとつ言えることは、たとえば、このムイシュキン公爵を描写するときに、いちばんよくそれがあらわれてくるわけですけど、ムイシュキン公爵の内面の動きっていうものが、ふつう一般に考えられる人間と人間との関係のなかに起こりうる、問題に起こりうる状態を、はるかに超えてしまうっていうことなんです。つまり、超えて流れてしまう。だから、そこでは少なくとも現実的に成り立つであろう人間と人間の関係というものが、そこでは成り立たない限度に至るまで、いわば内面性があふれ出してしまうっていうことが、作品を非常に複雑にしている要素だっていうことがいえると思います。
だから、たとえば、ムイシュキン公爵が『白痴』なら『白痴』という作品の一等最初に、スイスの療養先からペテルブルグに帰ってくるわけですけど、そこで、最初に出会った場所で早速そこで、いわば自分の内面の過剰な内面性の吐露を、他人に対して、初対面で会ったところで始めてしまうわけです。そうすると、内面の過剰性が巻き起こす過剰性のなかに、つまり、他者っていうものが巻き込まれていく、どんどんどんどん巻き込まれていく、その巻き込まれていく混乱の中で、いわば作品が成立していくっていうことがよくわかります。
つまり、このような過剰性っていうようなものは、どこで位置づけられるかっていいますと、一種の幼児性、つまり、他者を選択することができない幼児性っていうこと、また、現実っていうものを現実の距離で見ることができないための「過剰な内面性」、そういうようなものが、たとえば、『白痴』なら『白痴』っていう作品を成り立たせている、非常に大きな要素だっていうことがわかります。
このドストエフスキーが非常に執着をもっている幼児性とか、未成熟性っていうものは、あるいは、非常に健全な他者からうすのろだ、つまり、白痴だっていうふうに思われかねない、そういう人のよさと、純真さと、それから、しかし、過剰な内面性と、あるいは未成熟性と幼児性と、それがエロス的に女性を選択することができないっていうような、そういう性行をもった主人公っていうものに、ドストエフスキーは非常によく執着していて、ある意味で、これがドストエフスキーの内面の幼児性、あるいは、選択することができない内面性の反乱っていうもの、それに対して、過剰な傾向っていうものをドストエフスキーが示しているっていうことが、たぶん、ドストエフスキーのすべての作品を解く、非常に大きな鍵になるんじゃないかって思われるんです。
このことの意味は、たとえば、現在的な意味から、現在の言い方からしますと、この内面の幼児性っていうものは、たぶんこれは、一種の幼児体験のなかに根源があって、その幼児体験のなかでどこかで接触に失敗しているっていうような体験があって、その他者との接触に失敗している体験が、どこまでも内面を成熟させないっていうことの非常に大きな要素っていうことになります。
我々が、たとえば病者であるとか、異常者だと現代いわれている、あるいは、現代我々が、内面的にいって、あるいは精神的にいって、異常者であるとか、病者だっていうふうに言っている内面性の非常に大きな特徴のひとつは、それは幼児性だっていうふうにいうことができます。もっとふつうの言葉でいえば、人のよさっていいましょうか、善良さっていいましょうか、そういうものがたぶん、我々が精神の病者だっていうふうに現在考えている、あるいは類別している、そういう精神の内面性の中の非常に大きな部分を占めていることがわかります。あるいは、非常に根底的な部分を占めているっていうことがわかります。
つまり、我々が内面的な病気、あるいは内面的な異常というふうに考えているものの、非常に根底的なところにあるものは、一種の幼児性、あるいは善良さ、つまり、現実の関係に耐えられないっていうことは、現実の関係よりも過剰に溢れてしまうような、そういう精神の幼児性、あるいは善良さっていうものが、いわば病者というふうに指定される精神状態のいちばん根底にあるものだと思います。
もちろん、この病者っていうような精神のあらわれ方っていうものは、表面的には様々なあらわれ方をするわけですけども、根底にあるのは、たぶん、ドストエフスキーが、内面性の中で、いちばん作品の中で執着している幼児性、あるいは未成熟性、あるいは言語を超えた善良さ、あるいは、言語を超えて他者の中に流れていってしまう内面の過剰性、そういうようなものが、現在私たちが、現在の観点から病者だとか、異常だとかいうふうに言っている精神の内面的な構造のいちばん根底にある構造だっていうふうにいうことができます。
つまり、ドストエフスキーが作品の中で執着している内面性のなかの非常に主要な部分は、たぶん、そういう問題のところで、たぶん接触する要素があるんだって考えます。つまり、そこがたとえば、ドストエフスキーが、私たちにとっては、あるいは現代にとって、たぶん非常によくわかりやすいところ、それから、非常に理解しやすいところ、あるいは非常にそこに入りこみやすいことの、非常に大きな要因になっているんだっていうふうに、ぼくには思われます。
つまり、そこはドストエフスキーが作品によって体験してしまった一種の現在性であって、あるいは、現在性の根底にあるものであって、この現在性が非常にドストエフスキーの作品にある普遍性を与えている、根底的にある問題だっていうふうに言うことができると思います。
たとえば、いまのドストエフスキーの内面の現在性って申し上げた、その現在性っていうものにからめていいますと、ドストエフスキーがもうひとつ、非常に大きな関心をもっている内面性っていうのがあります。たとえば、それはいちばん典型的にいえば、『罪と罰』みたいな作品のなかに、いちばん典型的にあらわれているわけです。
『罪と罰』という作品は根本的にいいますと、主人公であるラスコーリニコフが、ようするに殺人をしてしまった。『罪と罰』という作品は、主人公が殺人をしてしまったっていうところから、はじめて作品が始まるんだっていうふうに言っていいくらいに、つまり、殺人をしてしまったものが、その殺人をしてしまったっていうことが、確かにわかられてしまうか、あるいは、他者に対してそれをぶちまけてしまうか、あるいは、それをぶちまけないで、どこまでも耐えきってしまうか、そういう殺人をし終わったのちに、し終わった殺人が、どのように他者に対して明らかになってしまうか、あるいは、他者に対して、どれだけそれを隠し通すことが、戦い通すことができるかっていうような、そういう過程の中に、『罪と罰』っていう作品の根底があるわけですけど。
つまり、この『罪と罰』という作品は、作品自体で一種の追跡性っていうこと、精神の追跡性を主題にしているっていうふうに言うことが、あるいは内面の追跡性、あるいは内面の非追跡性といってもいいわけですけど、つまり、追跡妄想性といってもいいわけですけど、主人公が追跡されていく心理っていうものを、どこまで耐えることができるか、あるいは、どこでそれを他者にぶちまけてしまうか、他者に告白してしまうか、あるいは、どこまでそれを耐えきってしまうか、あるいは、どこかでそれは他者にひとりでにわかってしまうのか、その過程を微細に追うっていうことが作品自体のテーマだっていうことができますが、つまり、これは作品自体が精神の追跡妄想性っていいますか、被害妄想性っていいましょうか、そういうものを主題にしていると言っていいくらいだと思います。
この精神の追跡性というものも、やはりドストエフスキーが生涯かけて固執したモチーフだということがわかります。この精神の追跡性というものは、たとえば、『罪と罰』という作品のなかでは、どういうふうに出てくるかといいますと、いちばん、非常によく知られている場面でいいますと、ラスコーリニコフは、予審判事と、殺人とか、罪というものは何かっていうようなことについて、問答するところがあります。そのなかで、ラスコーリニコフは殺人について、あるいは罪、あるいは法律について、ひとつの哲学を提出するところがあります。
その哲学はたとえば非常に単純なんですけど、人間というのは2つに類別することができる。その2つっていうのは何かっていったら、ひとつはふつうの人なんだ、常人なんだ、ごくふつうの人なんだ、もうひとつはふつうの人でない人なんだ。すべての人間は、その2つに類別することができる。この場合に、ふつうの人は、法律があれば法律に従い、支配する人なり、機構なりがあれば、それに素直に従って、あるいは、素直じゃなくてもそれに従って生きていく、それがふつうの人であると、もうひとつ、そうじゃない、ふつうの人っていう類別に入らない人間がいると、その入らない人間っていうのは何かっていうと、それを非常の人間だっていえば、その人間は、いわば、法律が定めた罪とか、それから、世間が定めた倫理とか、そういうようなものを無視してもいいんだと、そして、何か新しいことを提示することができる、指し示すことができる、あるいは指し示す、そういう人間がいると、これは、この人間にとっては、法律とか、善とか、あるいは倫理とか、あるいは罪とかいうものは、ぜんぶ無視されてもいいんだっていうような哲学を展開します。
この哲学の中で、たとえば、ラスコーリニコフは、じぶんが金貸しの老婆を斧で打ち殺してしまった。その打ち殺してしまったことは、まだ誰にもわかられていないわけですけど、わかられていない、その打ち殺してしまったっていう行為を、自分で自分を是認させる論理っていうものを、そこで言いたいわけです。けれども、ラスコーリニコフは、あからさまに、じぶんにとって、じぶんのことを言っているんだって、これを展開すれば、そうすると、じぶんが殺人をやったのはこれじゃないかっていうふうに疑われるっていうような危惧から、じぶんについて言っているんじゃないんだっていうふうに考えながら、そういう哲学を展開するっていうふうになります。
今度は、予審判事のほうは、なんとかして、それに対して、ラスコーリニコフは自己告白を、暗にそういう哲学を介して、哲学を述べる、説明することを介して、暗に、ご本人の自己告白しているんじゃないかっていう、そういうことを、いわばなんとかして引き出したいっていうような、そういう考え方をしながら、これに対して様々な問答をしかけるところがあります。そういう哲学の中で、じぶんの行為を、理念的に是認しようとする、合理化しようとする、そういうことをなんとかして告げたいわけですし、片方のほうでは、こういう告げられるという罪の哲学に対して、この哲学は、ご本人のことを言っているんだっていうことを、なんとかして言わせたいと考える。この内面と内面との葛藤みたいなものが、非常に白熱した問答に仕立てているわけです。
それが、『罪と罰』なら『罪と罰』という作品の山場になっているもののひとつなんですけど、その場合に、なぜ、予審判事と主人公との問答っていうものが、なぜ白熱してくるかっていいますと、それはドストエフスキーのなかで、ある疑問っていうものを抱いたとすると、疑問をある人間が内面的に抱いたとします。そうすると、その抱いた疑問に対して、その疑問の結果というものが事実としてあらわれる、そうすると、抱かれた疑問というものは、事実に照らして制度化される。
これが一般に、人間と人間の関係の中で、疑問を抱いて、抱かれた疑問の結果がどうなるかっていうことの、いわば因果関係なんですけど、つまり、ドストエフスキーが主人公と予審判事の白熱した問答のなかで、なにが白熱性を醸し出しているかっていうと、それはそうじゃなくて、あるひとりの人間が疑問を抱いたっていうことと、それから、疑問の結果、あからさまになった、明らかになったっていうことのなかに、因果関係がないっていうこと、因果関係がなくて、むしろ疑問の結果がそこにあるから、疑問は抱かれるんだっていうふうに、いわば、疑問を抱くことと疑問の結果とが、時間性として逆になっているっていうふうに考えられます。
つまり、この問答を白熱させている根本的にあるのは、いわば、そこである疑問を生じたっていうことと、あるいは抱いたっていうことと、それが内面的に抱かれたっていうことと、その疑問の結果が他者にわかるようにあらわれてみえたっていうこととの間に、時間的な因果関係があるわけですけど、その場合に、ドストエフスキーのなかで、そうじゃなくて、逆に、疑問の結果っていうものが存在するならば、疑問が抱かれるっていうような、逆に時間が逆行しているっていうふうに、ドストエフスキーの中で考えられている部分があります。このことが、この両者の問答っていうものを非常に白熱させている理由だっていうふうに考えられます。
ドストエフスキーはそこでひとつの内面の動きに対して、あるいは、内面の流れに対する時間性っていうものを逆行させて考えているっていうことが、非常にはっきりと問答を白熱化させている描写の理由だっていうふうに考えられます。
こういうことは、たくさん『罪と罰』のなかにでてきますけど、たとえば、もうひとつあげてみますと、ラスコーリニコフが、じぶんが殺人をしたということの重圧感というものに耐えられなくなって、誰かにこれを告白したくなる、告白せずにはおられなくなっていくっていうところがあります。
そして、売娼婦のソーニャのところにいって、それを告白する場面があります。その告白する場面のなかで、たとえば、実際のところがうまく言えればいいわけですけど、非常に見事なわけですけど、この場合に、ラスコーリニコフが告白したいっていうふうに考えながら、それを自分のことじゃなくて、ある男が老婆を殺した、この男は金貸しの因業な老婆を殺したって、ちっともこんなことは悪いことじゃないというふうに、その男は考えたと、むしろいいことをしたことだっていうふうに考えたと、こんなもの殺したってどうってことないんだ。これが罪に問われることもないし、罰を受けることもない。こんなことは、なんでもないことなんだっていうふうに、男は考えたんだっていうような言い方で、ソーニャに対して言いながら、しかし、そのなかで、なんとなくその男は自分なんだっていうことをソーニャに告白したいわけです。
しかし、自分なんだっていうことは、なかなか言えない。しかし、ある男がそういうふうに考えて老婆を殺したんだ。しかし、男はちっとも悪いことをしたと思わないし、ちっともこのことは悪くないんだと、この老婆は貧しい人を苦しめてばかりいた因業なババアだから、殺したってどうってことはないんだ。その男はそういうふうに考えた、その男の考え方は非常に正しいんだっていうようなことの説明をしながら、しかし、そういう説明のなかで、いわば殺したのは自分なんだよっていう、内面の重圧感っていうものをソーニャに対して告白したいわけなんです。
ソーニャはそれを聞きながら、だんだんその場面が白熱してくるわけですけど、それを聞きながら、ラスコーリニコフが、その男が、ある男がっていうふうに言っている「この男」っていうのは、もしかすると、眼の前にいるこの人じゃないかっていうふうに、ソーニャが思うところがあります。思ったそのときにラスコーリニコフのほうは、わかっただろっていうふうに言うところがあって、ソーニャが絶望にかられるところがあります。
そのときに、「わかったろ」っていうふうに、主人公がいう「わかったろ」ということと、それから、ソーニャがそれをわかった、この人だって思ったことは、その場面では同時にやってくるわけです。
ここでも、内面にある疑問が抱かれたっていうこと、あるいは、内面にある罪が抱かれたっていうことと、その罪の結果がそこにあからさまになったっていうことのなかには、時間としての同時性っていうものが、ここに提出されているっていうふうに考えることができます。
一般的に我々が正常な内面の動き、つまり、ごくふつうの正常な内面の動きだっていうふうに考えているのは、必ず内面に抱かれたある事柄っていうものは、内面に抱かれてしかるのちに、その結果があらわれるっていうふうに内面の動き方がする。それが正常な内面の動き方っていうふうにいうことができます。
しかし、ドストエフスキーがしばしば固執している内面の動き方はそうじゃなくて、内面の疑い、あるいは疑問っていうものの、結果のほうが先に存在する。だからして、内面の疑いがはじめて生まれる。こういうような心の動き方、あるいは、ソーニャの場面のように、内面の動き方をあれすると、すぐに結果があらわれた、他者にわかるあらわれた、内面の動きがわかるようにあらわれる。そこでは、内面の動きっていうものを、動きのあらわれと、それから、動き自体とが、動きの因果とは、同時にやってくる。そういう場面だっていうふうにいうことができますけど。ドストエフスキーがしばしば内面性っていうことで固執しているもののなかには、通常考えられている内面の動きに対して、その内面の動きの時間を逆行させた。それから、内面の動き方っていうものの時間を、つまり、因果性っていうものを同時に同調させたもの、つまり、そういう内面の動き方っていうものをドストエフスキーが作品の中で非常に固執し、そして、それは、しばしば提出しているっていうことがわかります。
つまり、ドストエフスキーの作品が私たちに対して、ひとつの感銘っていうものを与える、衝撃みたいなものを与えるとすれば、その要因のひとつは、いま言いましたように、人間の内面の流れ方というものに対して、非常に拡大した考え方、視点っていうものを作品自体によって提出していることだっていうふうにいうことができます。
この内面の時間性が、つまり、因果が逆になってしまう、懐疑あるいは疑問がそこに存在するかぎりに、疑問が起こるんだっていうような内面の動き方、あるいは、懐疑を生ずることと、懐疑の結果が他者に伝達されることとは、同時なんだと、同調されるんだと、そういう内面の動き方っていうものも人間の中にあるんだっていうような、そういうことに固執しているところが、いわば、ドストエフスキーの作品の非常に根底的な問題のひとつだっていうふうに考えることができます。
この根底的なドストエフスキーの内面の動き方っていうもの、動かし方っていうものは、現在の精神性の解釈の仕方、理解の仕方でいいますと、いわば、一種の追跡妄想性とか、被害妄想性とか、一般的にそういうようなものをひっくるめていう場合にはパラノイア性、つまり、精神のパラノイア性っていうことなんですけど、被害妄想性、あるいは、追跡妄想性っていうふうに考えられる精神の動き方のなかでなされることが、しばしば時間性っていうものの逆行っていうことが、あるいは、同時性っていうものがあらわれてくるのは、いまの精神現象、あるいは精神現象の理解の仕方では、これは、追跡妄想性、あるいは被害妄想性っていうふうに私たちが考えている、あるいは、読んでいるものの精神の動かし方っていうものは、いわば、内面の逆行性っていうもの、あるいは、内面の同時性っていうもの、時間の同時性っていうもの、これは、私たちがそういうふうに呼んでいるものに該当します。
ドストエフスキーは作品のなかで、これを決して異常性とか、病的な精神の動かし方、あるいは内面の動かし方として、描写しているわけではありません。しかし、ドストエフスキーの作品のなかに登場してくる主人公の心の動かし方のなかに、あるひとつの風変わりさ、あるいは異常さ、あるいは異常な深刻性とか、過剰性っていうものを読み手が感ずるとすれば、ドストエフスキーが、いま言いましたように、内面の動かし方の一般的なルールに反して、その時間性が逆行してしまうとか、時間性が同致してしまう、そういう内面の動かし方に対して、たいへん固執しているからだっていうことが言うことができると思います。この内面の動かし方の一種の追跡性とか、追跡妄想性とか、被害妄想性っていうようなものは、主人公の中にしばしば移植されていますけど、これは、主人公の中に移植されているだけではなく、つまり、ドストエフスキーの文体自体のなかに移植されています。また、主題自体のなかに、それがたいへんよく移植されていることがわかります。
この移植されている内面の逆行性、あるいは、因果の同時性っていうもの、これを、私たちはたぶん、ドストエフスキーの作品の中から感じとっているに違いないわけです。つまり、これを感じとっているときに、ドストエフスキーの作品の無類の白熱性といいましょうか、あるいは、そこにいったん、その世界に入り込んだら。いわば、精神を揺さぶられ、頭を揺さぶられ、出てきたときにはフラフラにさせられてしまうっていうような、訳がわからないけど、とにかくフラフラにさせられてしまうっていうような作品体験っていうものがしばしばあるわけです。
その作品体験を根本的に司っているのは、たぶん、ドストエフスキーがいわば人間の内面の動き方のなかで、因果関係の逆行性とか、同時性っていうものを、精神現象のなかで、これを内面現象のなかで、提出しえているからだっていうことができます。
それから、ドストエフスキーの作品を、いったん入り込むと緊密な持続性っていうものがあるわけですけど、精神の持続性っていうものに引き込まれていくわけですけど、その引き込まれていく理由もたぶんそうなのでは、私たちが引き込まれていく体験を、ドストエフスキーの作品のなかに読みながら、読んでいる自分っていうものを、読んで引き込まれて、そのなかに入り込んじゃって、そのなかで寝たり起きたり髪の毛を切ったりしている自分っていうものを読みながら内省することができるとすれば、その内省している心の状態のなかで、読み手自体の内面の動かし方もまた、時間性が逆行していたり、因果が反対になって感じられていたり、それから、因果が同時なって感じられていたりっていうことを、たぶん、私たちは作品を読みながら、そこで体験していくんだと思います。この体験をたとえば、ドストエフスキーの作品の一種の巨大さとか、一種の白熱性とか、また別の言葉でいえば、一種の深刻性なんですけど、深刻性っていうふうに私たちが感じているのは、たぶん、そういう体験を読みながら、かつ、そういう体験をしていることを指しているんだっていうふうに思います。
つまり、このような精神の内面の動き、精神の動かし方、人間の内面の動かし方に対する一種の拡大された観点っていうものが、ドストエフスキーの作品のなかで、ひとりでに具現されていくっていうことが、たぶん、ドストエフスキーの作品を偉大ならしめている要素だっていうふうに考えることができると思います。
しかし、これはぼくらのような初歩的なっていいますか、素人的な読み手がそれを読んでも、たぶん、そうであり、それから、専門家がドストエフスキーの作品を読まれる場合に体験するものも、たぶん同じ体験である。それから、みなさんのなかで、はじめてこれから、ドストエフスキーの作品を読まれるっていう人がおられると仮定するならば、それらのひとが、やっぱりドストエフスキーの作品のなかで体験するもの、それから、ドストエフスキーの作品を顕著ならしめているそういうものは、たぶんそういう体験にあるんだっていうふうに理解することができると思います。
この体験っていうものを、たとえば、現在、私たちを取り巻いている現代の文化とか、文学とか、芸術とかの環境っていうものは、あるいは社会の環境っていうものは、内面性っていうものをパーにしてしまう、解体させてしまう、つまり、内面性を保とうとしても、保つことができない、あるいは、保ちえたとしても持続することができないっていうような、そういう現代の文化、あるいは、文化現象のなかに引き込まれるわけで、これがみなさんのなかで、ぼくも多少そうなんですけど、いい読み手でないわけですけど、ドストエフスキーっていうものをはじめから敬遠しようじゃないかっていうふうに考えてしまう、その理由もたぶんそうなわけです。
ドストエフスキーの作品が具現している内面性っていうものは、非常に、いま申し上げましたように、病的、あるいは予感的、あるいは予兆的といいましょうか、そこまで、因果の時間性が逆転しているような、そういう内面性まで我々を突っ込んでしまう、そういう世界があるために、私たちが、ある意味で非常にドストエフスキーの作品を○○じゃないかっていうふうに考えてしまう、あるいは、あまり偉大な人は敬遠しようじゃないかっていうふうに考えてしまう根底にある問題も、やっぱりその問題じゃないかっていうふうに思われます。その問題がドストエフスキーの作品にとってαの問題であり、また、最終的な問題であるっていう問題が、たぶん、そこに帰着するんじゃないかっていうふうに考えられるわけです。
ところで、ぼくは自分なりの読み方ができるようになってきたっていうふうに、さきほど申し上げましたけれど、その申し上げたことはどういうことかっていいますと、いま申し上げましたような、ドストエフスキーの作品を、登場人物たちに意図して具現させている内面性っていうもの、あるいは内面の異常性とか、内面の病的な性格とか、そういうようなものは、またちょっと別なように理解することができるんじゃないかっていうことを感じるようになったわけです。
たとえば、『白痴』の主人公であるムイシュキン公爵っていうののもっている、何とも言えない女性に対する受動性、あるいは、女性をエロス的に選択することができないとか、こういう性格とか、また『虐げられた人びと』でいえば、アリョーシャならアリョーシャっていう主人公がやはり同じなんですけど、女性っていうものを、一種のエロス的幼児性っていうもののために女性をやっぱり選択することができないです。母親のようにしか、あるいは自分が幼児であるようにしか、女性に対してたいすることができないのです。だから、一度にふたりの女性っていうものを愛してしまっても、そこに矛盾を感ずることができないわけです。そして、矛盾を感ずることができないっていうことをもとに作品が展開されているわけです
このような、ドストエフスキーがしばしば顕著に描いている主人公の受動的な性格っていうのを別様な解釈に、それを精神の幼児性、あるいは内面の幼児性に対する、ドストエフスキーの一種の固執の仕方なんだっていうふうに考えないで、もっと別な理解の仕方っていうものができるんじゃないかっていうふうに考えます。
別の理解の仕方を仮にしてみるとしますと、ぼくの考えでは、ドストエフスキーの思想の枠組みの中に非常に著しいということができると思いますけど、ドストエフスキーの作品の思想性っていうものの根底にあるのは何かっていうことなんです。ドストエフスキーの作品の根底にあるのは、ドストエフスキーが、いかにして、ロシア的な古代っていうもの、あるいは、一般的に古典的な古代でいいのですけど、一般的にいう場合にはそれでいいわけですけど、ロシア的な古代っていうものに対して、いかにドストエフスキーがそれを生かしながら、つまり、その枠組みを生かしながら、その枠組みに自ら捕らわれながら、しかし、近代、あるいは現代的な登場人物たちの生き方、あるいは性格規定、あるいは性格条件っていうものを、いかにしようとしたかっていうようなことが、たぶん、ドストエフスキーの作品のなかの根底的な思想性なんじゃないかっていうふうに考えるわけです。
つまり、一般的に近代以降の小説の概念から、たとえば、ジイドならジイドがそうですけど、概念からドストエフスキーの作品を理解していきますと、極端にいいますと、ぼくが今日申し上げましたような、内面の動きの精密な、かつ、非常に現代性を含んだ描写っていうものが、ドストエフスキーの作品の命だっていう理解に大なり小なりなっていくわけです。
しかし、たぶん、ドストエフスキーがやりたかったことは、たぶんそうじゃないんじゃないかっていうふうに考えるようになりました。つまり、ドストエフスキーはロシア的な宗教性っていうふうに、ドストエフスキーは作品の中でしばしば主人公たちにしゃべらせていますけど、つまり、ロシア的な宗教性っていうふうにドストエフスキーが考えているもの、いわば、そのものに対して、どのように、作品の登場人物たちは、どのようにそれに対して格闘し、そして、それに服従し、そしてまた、それから抜け出ようともがくかっていうような、そこがたぶん、ドストエフスキーがいちばん固執した思想性なんじゃないかっていうふうに、ぼくは考えるようになりました。
つまり、ドストエフスキーが、古代性、あるいは古代ロシア性っていうような、アジア的なロシア性なんですけど、古代ロシア性がひとつの観念としてでてくるロシア正教的な、つまり、宗教性なんですけど、大地によく作品の主人公たちがあれするんですけど、大地に接吻したいみたいなことを言うでしょ。つまり、そういうふうに宗教感情としてあらわれてくるロシア的な古代性、あるいはアジア的な古代性っていうものに対してのドストエフスキーの主人公たちは、いかにして格闘するか、いかにして近代的、かつ、現代的に格闘し、なおかつ、それに捕らわれてしまって、そこに服従してしまうか、あるいは、なお、それからはみ出していこうとするかっていうような、そういう葛藤っていうものが、ドストエフスキーの作品を非常に思想的なテーマの根底にあるんじゃないかっていうふうに、ぼくはそういうふうに理解する、そういう理解ができるんじゃないかっていうふうに考えるようになりました。
そうしますと、たとえば、ムイシュキン公爵とか、『虐げられた人びと』のアリョーシャのような、つまり、非常に受動的な、あるいは白痴的な、あるいは未成熟な幼児性をもった主人公に対する、ドストエフスキーの過剰な親愛感っていうものがあるわけですけど、この過剰な親愛感っていうものは、どういう意味あいをもつかっていいますと、ドストエフスキーのなかにある古代思想的な枠組みのなかで、いわば、近代的な性格をもった登場人物たちが古代的な枠組みの中にひっぱられていってしまうときの一種の拡散性が、主人公たちの、ムイシュキン公爵ならムイシュキン公爵の幼児性っていうもの、あるいは受動性っていうものにあらわれてきているんじゃないかっていうふうに、そういう理解の仕方ができるというふうに考えるわけです。
これは、非常に近代的ないし現代的な解釈の、ムイシュキン公爵の性格分析、あるいは性格解釈っていうものに対してできるわけですけど、そうじゃなくて、これはムイシュキン公爵っていうものが、いわば古代的な思想形成の枠組みにひっぱられてしまうために、いわば、一種の性格破たんとしての幼児性っていうものを、どうしても持たざるをえなくなるっていうような、そういう必然性として、たとえば、ドストエフスキーが、ムイシュキン公爵とか、アリョーシャならアリョーシャっていうような、そういう受動的な、あるいは白痴的な、あるいはいわば幼児性をもった、あるいはもっといえば異常性をもった、あるいは病的な性格をもった主人公に対して、異常に固執していったっていうことも、そのことの問題じゃないかっていうふうに、そういう理解の仕方ができるように思われるわけです。
これはさきほど言いました、内面の追跡妄想性とか、被害妄想性とか、内面の動きの時間の因果性の逆行とか、同調性とか、そういうふうに申し上げました、その主人公たち、あるいは、作品に付与した一種の追跡妄想性なんですけど、そのドストエフスキーの追跡妄想性っていうものも、どういうところからくるかっていいますと、ロシアの社会、つまり、強固なミール共同体を地底に、つまり、地層においたロシアの社会なわけですけど、ロシアの古代アジア的な社会性格といいますか、そういう社会構造っていうものが、いわば、ロシア革命期のロシアのインテリゲンツィアたちが、さまざまな思想的な課題、理念的な課題に思い悩んだときに、その思い悩み方っていうものが、どのようにロシアの古代アジア的な、あるいは古代ロシア的な社会構造、あるいは、そこからくる感性、習慣、あるいは宗教感情っていうものから、いかにして、どのようにひっぱられていったかっていう、そのひっぱられていったあげく、いわば、やむをえざるひっぱられ方の、ひとつの型としてっていいますか、典型として、どうしても病的にならざるをえない、その病的性っていうことも、一種の被害妄想ないしは、追跡妄想っていうような内面の動かし方にならざるをえない必然性を時代がはらんでいる。
なぜ、こういう時代の必然性をはらむかっていいますと、それは強固なロシア社会のアジア的な性格、あるいは、ミール共同体の性格っていうようなもの、そのことのもたらす感性っていいますか、感覚っていうものは、盛んにロシアの近代インテリゲンツィアたちの内面性をひっぱっていくか、そのひっぱり方の一種の分裂性っていうものが、いわば分裂性の具現として、ドストエフスキーの主人公たちの一種の追跡妄想性っていうものを、あるいは、追跡妄想性へのドストエフスキーの固執の仕方、あるいは、そういうものに固執することによって、ドストエフスキーがいわば時代の必然をいかに強固に、あるいは、いかに深刻にえぐりとったかっていうような、そういう問題の根底にあるのは、それは必ずしも近代的な性格っていうことじゃなくて、ロシア的な性格、あるいは、ロシア・アジア的な性格っていうようなものが、いかにロシアの近代をひっぱったかっていう、そのひっぱり方のひとつのあらわれ方として、この一種の被害妄想性っていうものをもった主人公に対する作品の固執、あるいは、ドストエフスキーの、作者の固執っていうものが起こったんじゃないかっていうふうに理解することができるんじゃないかっていうふうに考えるようになりました。
この問題がぼくにとっては重要な課題のように思われるわけです。このことがロシアの古代社会性っていうもの、あるいは、古代アジア性っていうものが、どれだけ強固に現実的に、あるいは意識の中に、ロシアのインテリゲンティアの意識のなかに残っていったかっていう問題が、これはたぶん、現在もなおかつ問われる問題でありましょうし、また、現在問われるっていうのは、ロシアだけで問われるのではなく、少なくとも、マルクス主義っていうものを近代的な思想の頂点のひとつとして自由を受け入れたあらゆる世界の、つまり、現在の世界のすべての箇所において、それがやはり非常に大きな問題の根底に横たわっているんじゃないかっていうふうに、ぼくは理解することができると思います。
これは、日本の文学の好きな人っていうのは、ドストエフスキーの作品に近親感っていうものを感ずるわけですけど、なぜ感ずるかってことの根底のなかに、ぼくはそのことがあるような気がします。
西欧の近代小説でしたら、ドストエフスキーが主人公として造形したような、作品の造形をしたような、病的なお人好しの、過剰にお人好しにしてしまったり、際限なく他人の中に溶け込んでしまったり、あるいは、内面の過剰をぶちまけてしまったり、あるいは、お人好しの受動性のために、エロス的に他者を選ぶことができない。そういう性格っていうものを描いたり、あるいは、被害妄想、あるいは追跡妄想性にかられていく主人公をあくまでも追及していくっていうような、そういう作品っていうものは、少なくとも、ヨーロッパの現代っていうものは描こうにも描きようがないわけです。
なぜかっていいますと、社会の構成のなかに、そういう主人公を造形すべき必然性はそれほどにはないからだと思います。なぜかっていいますと、たとえば、そこには西欧の近代性、世界性っていうのはあっても、たとえば、ロシアがもち、そして、日本がまた、質が違いますけどもっているアジア的な古代性の遺構っていいましょうか、精神の遺跡っていいましょうか、そういうものに対する葛藤性っていうもののないところでは、たとえば、ドストエフスキーの作品の主人公のようなものは、造形しようにも造形しようがないということだと思います。
また、日本の文学の好きな人は、ドストエフスキーの作品にある親しみを感じた。これは、じぶんの内面のことが描写されているんじゃないかと思えるような親近感というものを感じることができるのは、もちろん作品が偉大であるからでもありますけど、しかし、もうひとつは、違うひとつの近親感っていうものがあるんだと思います。たぶんそれは、ドストエフスキーがいわば作品の思想的な枠組みとして、いつでももっていたロシアの古典古代性といいますか、アジア的古代性といいましょうか、このことの意味がやはり我々の与えるひとつの無形の共感っていうものだっていうふうに、ぼくには考えることができるんじゃないかっていう理解の仕方をするようになりました。
このことは非常に重要な問題のように思います。つまり、一般的にドストエフスキーの作品が主人公の口を借りて、反革命的であるとか、反動的なことをしばしば口にするとかっていうふうに、我々は現象的にドストエフスキーの作品を解釈してきた、理解してきた問題の根底にあるのは、反動的なことを主人公たちが言っているとか、作者が主人公たちの口を介して反動的なことを言わせている、だから、ドストエフスキーの思想は政治的に反動的なんだ、あるいは、保守的なんだっていう理解の仕方をするのではなくて、たぶん、ドストエフスキーの一見すると反動的というふうに考えられる作品の主人公たち言動、あるいは、作品のモチーフの根底っていうものは、たぶん、ドストエフスキーの思想を規制しているロシア的な古代性、あるいはロシア的な古代思想、それは一般的にはロシア正教的な宗教感情としてあらわれているわけですけど。そういうものが、たぶん、ロシアの古代思想性っていうもの、遺構っていうものが、ドストエフスキーを規制していて、それが現象的には反動的な言葉を吐かせる、あるいは、反革命的な言葉を主人公たちに吐かせるっていうような作品の体たらくになってでてくるんだって思います。
しかし、これはたぶん、皮相な解釈といいましょうか、表層の解釈であって、表層の理解の仕方であって、根底にある問題は、ロシアの社会にあった、つまり、ドストエフスキーの時代にあった。強固なロシアの古代共同体の意識的な枠組みっていうもの、このことをどう処理するんだっていう問題が、たぶん、ドストエフスキーの作品を、主人公あるいは主人公たちの口を借りた作者の言葉、つまり、一種のロシア的な土着主義っていいましょうか、土地主義っていいましょうか、そういうようなものとしてあらわれてきている問題の根底にある問題じゃないかっていうふうに思われます。
一般的に〈アジア的〉っていう概念は、ぼくは、マルクスのなかに進歩的な思想ないし革命的な思想のなかでは、マルクスのなかにわずかにあらわれて、そして、消えてしまったものがあります。
一般的に私たちが、みなさんでもそうですけど、みなさんが、作品ないしは作者のなかに、文学者のなかに、思想的な反動性っていうものを認めることがあるでしょう。つまり、作品の中の主人公がそれを述べていたり、あるいは、作品のモチーフとしてそれはもたれていたり、それから、作者がそれを述べていたりっていうようなことで、一般に反動性っていうもの、あるいは反近代性、あるいは反進歩性っていうものがあるでしょう。その反進歩性、反動性、あるいは保守性といいましょうか、そういうところで、保守性というもののなかに、もし仮に、みなさんがその中に真実の言葉があるじゃないかって、そのなかに含まれている反進歩的な原理の中に、言動の中に、あるいは、反動的な言動の中に、反動的な作品の中に、なおかつ、真実があるじゃないかっていうふうに、真実の部分もあるじゃないかっていうふうに、みなさんが感じられることは、しばしば文学作品のなかで体験するでしょう。または思想のなかでも体験するでしょう。そして、また逆に、進歩的だ、革命的だっていうふうに考えられる思想の中に、これはインチキじゃないかっていうふうに、しばしば皆さんが思われる部分を感ずることがあるでしょう。ぼくはその感ずることは非常に正しいんだって思います。
しかし、この場合に問題なのは、反動的、反進歩主義っていうふうに、我々が作品の中に、あるいは作者のなかに、あるいは思想のなかに感じる、そして、そこに真理があると感じられるその部分は、何を意味するかっていいますと、それは〈アジア的〉っていうことを意味しているんです。
〈アジア的〉っていうのは何かっていいますと、いっけん反動的だと思われるもののなかに、または、反進歩的と思われるもののなかに、あるいは停滞と思われるもののなかに真理があるっていうときに、その真理を指して〈アジア的〉っていうわけです。それが〈アジア的〉っていうことなんです。
だから、この構造は追及するに、マルクスだけがそれを追及しましたけど、この構造はもっと追及するに値するわけです。マルクスが〈アジア的〉っていう場合には、原始時代から古典古代時代に移る中間の時期をアジア的時代っていうふうにマルクスは言っています。この意味でいう〈アジア的〉っていう概念は、アジアだけにあるっていうのではなくて、人類の歴史がある段階で、原始時代から古典古代時代に移る中途のところで、人類がすべて普遍的に当面した、通過した、そういう時期を〈アジア的〉っていうわけです。
ヨーロッパでは、この〈アジア的〉っていう時代は、瞬く間に過ぎてしまいました。瞬く間に過ぎて、いわば古代的な社会、あるいは古典古代的な社会に移行してしまったわけです。ところが、地域的なアジアでは、この中間にあった(アジア的)な時代における様々な共同体の構造とか、感性とか、それから意識構造とか、そういうようなものが、数千年の間、つまり、残ってしまったわけです。停滞していったわけです。
この停滞の理由っていうものは、もちろん、さまざま挙げることができるわけですけど、この停滞性っていうものを指して、これを〈アジア的〉っていうわけです。ですから、この(アジア的)っていう概念は、決して地域的なものではありません。つまり、普遍的に人類が通過されたものです。
この構造は、マルクスがはじめて発見し、そして、はじめてそれを取り出したわけですけど、そこに停滞性と、迷妄性と、それから迷信性と、反動性と、同時にそこに偉大さっていうものを、はじめてマルクスが見出したものなのです。つまり、偉大さと、迷妄性と、反動性というのが同在している概念で、マルクスははじめて〈アジア的〉っていう概念を提出したわけです。
しかし、残念なことにマルクスはヨーロッパの人ですし、社会の変革っていうものは、主として非常に先進的なところの地域の問題を追及することによって出てくる問題が多いですから、マルクスがこれだけのことを出しただけで、それをやめてしまいます。だから、この問題のなかに、非常に大きな問題が含まれているっていうふうに思えるんです。追及するに値する問題のように、ぼく自身は考えています。
この問題は社会思想の問題ですけど、しかし、そうじゃなくて、作品の問題でいいますと、ドストエフスキーの作品なんかは典型的にそうなわけですけど、このなかにある、作品のなかにある、一種の反動性、やり切れなさっていうもの、あるいは、これが、いわば、いわゆる進歩的といわれている、あるいは文明的といわれている概念のなかから、なぜ無条件的に拒否されてきたか、あるいは、無条件的に否定されてきたかっていうことの根底にある問題の中で真理があるとすれば、でもこの作品を優れているっていうような、偉大であるっていうような、そういう真理があるとすれば、それはたぶん、ドストエフスキーがいわば作品の思想的な枠組みとして強固にもっていたロシアの古代性、あるいはロシア古代思想に対するひとつの執着、あるいは、それをどう享受するかってことに対するドストエフスキーの懐疑、疑問、それから悩みっていうものが、たぶん、ドストエフスキーの作品を非常に反動的にし、そして同時に、その反動性のなかに真理があるっていうふうに思わせている、その根底にあるのは、その問題じゃないかっていうふうに理解することができます。
このように理解していきますと、ドストエフスキーの作品っていうもののなかに、現代性、あるいは現在性、あるいは、もっといいますと、未来性っていうものを発見することができると同時に、それから、ドストエフスキーの作品に、これは古代思想の強固な枠組みに対して、近代的な、あるいは現代的な思想というものがふるまう場合に、どういう問題が起こり、それから、どういう問題に当面し、そして、どのようにそれを抜けていったらいいのかっていう問題に対するドストエフスキーなりのひとつの回答っていうものが、作品の中に含まれているからだ、あるいは、登場人物を介して、それが含まれているからだっていうふうに、ぼくには思われます。
これが、たとえば少し、おれは違う読み方をしてみたくなった、あるいは、みるようになったことの根底にある問題です。はじめに申し上げましたとおり、ぼくはドストエフスキーのいい読み手ではないですし、ましてや熱心な読み手ではないわけで、本来ならば、みなさんのところでお話するようなあれはないわけですけど。そこのところだけは、なんとなく、こういうせっかくの折ですから、言ってみたいと思いまして、最後にいくらか作品を離れてしまったかもしれないんですけど、申し上げてここで終わらせていただきます。
テキスト化協力:ぱんつさま